沪江

日语中“落”花不同的表现方式

tkmomo212/牙牙译 2015-03-29 00:45

花の終わりを表現する日本語はたくさんある。例えば:桜——舞う・散る;梅——こぼれる;朝顔——しぼむ;——こぼれる;椿——落ちる;菊——舞う;牡丹——崩れるなど。日本文化にそれらの表現を見てみましょう。

对于落花,日语中根据不同的花会选用不同的搭配。比如:樱花是和“舞う・散る”搭配、梅花是“こぼれる”、牵牛花是“しぼむ”、胡枝子是“こぼれる”、山茶花是“落ちる”、菊花则是“舞う”、牡丹是“崩れる”等等。下面让我们一起看看日本文化中具体是怎么体现这些不同搭配的吧!

☆梅|梅花

梅の散るさまを「散りしおれる」と表現しているのを見つけました。梅の異名「好文木」の説明の中で、「中国、晋の武帝が学問に励んでいるときは梅の花が開き、学問を怠るときは散りしおれていたといわれる故事による」とありました。

对于梅花凋落的描述,有“散りしおれる”(零落,凋落)一词。梅又名“好文木”。说到这个名称的来源,据传晋武帝司马炎院中有梅,独爱好文之士,每当武帝好学务文之时,也是梅花盛开之时,反之则都不开花。因而,梅花就有了“好文木”之雅号。

沈丁花|瑞香

沈丁花の散るさまは庭石に 花こぼしをり 沈丁花」と、富安風生の俳句の中に見つけることができました。「こぼす」「こぼれる」という表現は確かに実感できますね。

富安风生的俳句中有对瑞香花凋谢的相关描述「庭石に 花こぼしをり 沈丁花」(编者试译:看点景石上 花枝凋零散落 是瑞香独泣)。“こぼす”“こぼれる”(凋零、凋落)这样的描述确实能引起读者共鸣,彷佛那凋零之景就在眼前。

雪柳|珍珠绣线菊

雪柳は散る姿にこそ、人は心を惹かれるのでしょう。江戸時代の俳諧に下記のやうなものがあります。「ちればこそ 小米の花も おもしろき」。小米花は雪柳の異名です。
また、山口誓子の俳句には「雪やなぎ 苑をしろくし ひと死せり」 。「苑をしろくする」という表現で、雪柳が散る様子を表しているのですね。
また、次のような句もあります。「雪柳 ふぶくごとくに 今や咳く」石田波郷の俳句です。確かに、雪柳が風に吹かれて散る様子は「ふぶく」がぴったりです。

想必人们都会被珍珠绣线菊的凋落之景所吸引吧!江户时代的俳谐中就有一些对此描述的例子。「ちればこそ 小米の花も おもしろき」(编者试译:正值凋零时 才见珍珠绣线菊 未曾见之趣)其中,俳句中小米花是珍珠绣线菊的别称。
山口誓子的俳句中也有「雪やなぎ 苑をしろくし ひと死せり」(编者试译:珍珠绣线菊 凋落染白一园地 如人去魂在),其中用“苑をしろくする”这样的描述来表现珍珠绣线菊的凋落之景。
还有石田波乡的俳句「雪柳 ふぶくごとくに 今や咳く」(编者试译:风吹绣线菊 正如落雪般飘零 恰要惹人咳)。确实风吹落珍珠绣线菊之景恰如风吹落雪般飘逸。

☆すもも|

すももの花のちる様子は古く万葉集の中にあります。「わが園の 李花(すもものはな)か 庭にちる はだれのいまだ のこりたるかも」大伴家持の歌です。「散る」と表現されていますが、実は「はだれ」という表現が素晴らしい。「はだれ」とは、雪がはらはらと降るさまを表現する言葉なのです。すももの散るさまをはらはらと降る雪にたとえているのですね。
万葉集にはほかにも「はだれ」を用いた歌があります。沫雪(あわゆき)か はだれに降ると 見るまでに 流らへ散るは 何の花そも」。ここでは何の花かわかりませんが、「流れ散る」という表現がされています。

对于李树的花凋落的描述,在远古的万叶集中就有记录。大伴持家的和歌「わが園の 李花(すもものはな)か 庭にちる はだれのいまだ のこりたるかも」(编者试译:我家庭园中 李树之花正凋落 恰如斑斑雪落下 其花应尚未落尽)。大伴持家虽然是用“散る”(落、谢)这个词语来修饰李树之花的凋落之景,但实际传神的是后面的“はだれ”(斑雪)一词。“はだれ”(斑雪)是来描述雪纷纷飘落,这里是把李树之花的凋落比作雪花的飘落,其景之美可见一斑。
万叶集中还有其他用到“はだれ”一词的和歌。比如:「沫雪(あわゆき)か はだれに降ると 見るまでに 流らへ散るは 何の花そも」(编者试译:如斑斑微雪落下 只见花流落眼前 未知其名)这里虽然不知道是什么种类的花,但是我们可以看到它用到了“流れ散る”(流落)一词来修饰,大家可以猜想一下。

☆花蘇芳(はなずおう)|紫荆

花蘇芳に関しては面白い表現を見つけました。「風の日や 煤ふりおとす 花蘇芳」滝井孝作という人の俳句です。花の散る様子を「煤ふりおとす」と表現したのですね。実にユニークな表現だと思います。

紫荆花有个比较有趣的表现方式,是滝井孝作的俳句「風の日や 煤ふりおとす 花蘇芳」(编者试译:起风之日啊 如被掸去的煤尘 是紫荆凋落)。他用“煤ふりおとす”来表现紫荆花落的样子,真可谓匠心独运啊!

☆ゆすらうめ|毛樱桃

ゆすらうめを題材にした句には万両に ゆすらの花の 白き散る」正岡子規の句ですが、「白く散る」という表現をしています。

正冈子规有俳句是以毛樱桃为题材的「万両に ゆすらの花の 白き散る」(编者试译:朱砂根之花 与毛樱桃花一齐 落下一片白)。其中用到了“白く散る”一词。

☆枳殻(からたち)|枸杞

「こぼれる」の表現をまた、見つけました。枳殻の花です。「家鴨等に 枳殻の花の こぼれけり」江戸時代末期の俳諧なのですが、「こぼれる」と表現していますね。

用来描述枸杞之花凋落的表现,有“こぼれる”(谢、凋)。江户末期的俳谐中有这样的表现:「家鴨等に 枳殻の花の こぼれけり」(编者试译:家鸭齐聚来 看闻枸杞子之花 已飘零一地),里面就是用的“こぼれる”来修饰。

山吹|棣棠花

山吹もまた古くから歌に詠まれてきた花です。「ほろほろと 山吹ちるか 滝の音」松尾芭蕉の句です。「ほろほろと散る」と表現しています。表現としては目新しいものはないのですが、正岡子規もまた次のように詠んでいます。「山吹や 小鮒入れたる 桶に散る」
もう一つ、時代は前後しますが、面白い表現を見つけました。「山吹や 井手を流るる 鉋屑」 与謝蕪村の句です。山吹の散るさまをかんなくずにたとえているのです。ああ、これもユニークな表現ですね。

棣棠花是古来就一直被和歌总传颂的花之一。其中松尾芭蕉的俳句:「ほろほろと 山吹ちるか 滝の音」(激湍漉漉,可是棣棠落花簌簌)。“ほろほろと散る”来表现棣棠花落之景,表现上没有让人耳目一新的地方,但是却不乏贴切。接着来看看正冈子规的:「山吹や 小鮒入れたる 桶に散る」(编者试译:棣棠花落 同小鲤鱼一起 落在桶中( ̄_ ̄|||) 真心不会了……)
接着差不多同时代的另外一位大师——与谢芜村有一句颇为有趣: 「山吹や 井手を流るる 鉋屑」(编者试译:棣棠花飘零 落入水上渠道中 似刨屑飞溅)这里是把棣棠花落比作刨屑飞散,也着实让人眼前一亮啊!

☆椿|山茶花

椿はやはり「おちる」なのでしょうね。「赤い椿 白い椿と 落ちにけり」河東碧梧桐の超有名な句ですね。しかしながら、「散る」という表現がまったくないかというとそういうこともなく、次の例があります。「ちり椿 あまりもろさに 続て見る」芭蕉の門人、志太野坡の句です。散る椿を「ちり椿」と表したのですね。この表現も素敵です。

用来描述山茶花凋落的一般还是用“おちる”(凋落、凋零)。河东碧梧桐的名句 「赤い椿 白い椿と 落ちにけり」(红茶花 白茶花 地上落花。)。但也不能说绝对不能用“散る”(落、谢)。比如说芭蕉的徒弟志太野坡的一句:「ちり椿 あまりもろさに 続て見る」(编者试译:落山茶花 太过娇艳 不忍移目 (┳_┳)... 再次无力),用“散る”来修饰山茶花,将山茶比作“ちり椿”(落山茶花),这样的表达也是很美的。

声明:本双语文章的中文翻译系沪江日语原创内容,转载请注明出处。中文翻译仅代表译者个人观点,仅供参考。如有不妥之处,欢迎指正。

相关热点: 日语动词 日语专业
展开剩余