世おのずから数 というもの有りや。有りといえば有るが如 く、無しと為 せば無きにも似たり。洪水 天に滔 るも、禹 の功これを治め、大旱 地を焦 せども、湯 の徳これを済 えば、数有るが如くにして、而 も数無きが如し。秦 の始皇帝、天下を一にして尊号 を称す。威□ まことに当る可 からず。然 れども水神ありて華陰 の夜に現われ、璧 を使者に托して、今年祖龍 死せんと曰 えば、果 して始皇やがて沙丘 に崩ぜり。唐 の玄宗 、開元は三十年の太平を享 け、天宝 は十四年の華奢 をほしいまゝにせり。然れども開元の盛時に当りて、一行阿闍梨 、陛下万里に行幸して、聖祚 疆 無 からんと奏したりしかば、心得がたきことを白 すよとおぼされしが、安禄山 の乱起りて、天宝十五年蜀 に入りたもうに及び、万里橋 にさしかゝりて瞿然 として悟り玉 えりとなり。此等 を思えば、数無きに似たれども、而も数有るに似たり。定命録 、続定命録 、前定録 、感定録 等、小説野乗 の記するところを見れば、吉凶禍福は、皆定数ありて飲啄笑哭 も、悉 く天意に因 るかと疑わる。されど紛々たる雑書、何ぞ信ずるに足らん。仮令 数ありとするも、測り難きは数なり。測り難きの数を畏 れて、巫覡卜相 の徒の前に首 を俯 せんよりは、知る可きの道に従いて、古聖前賢の教 の下 に心を安くせんには如 かじ。かつや人の常情、敗れたる者は天の命 を称して歎 じ、成れる者は己の力を説きて誇る。二者共に陋 とすべし。事敗れて之 を吾 が徳の足らざるに帰し、功成って之を数の定まる有るに委 ねなば、其 人 偽らずして真 、其器 小ならずして偉なりというべし。先哲曰 く、知る者は言わず、言う者は知らずと。数を言う者は数を知らずして、数を言わざる者或 は能 く数を知らん。
古 より今に至るまで、成敗 の跡、禍福の運、人をして思 を潜 めしめ歎 を発せしむるに足 るもの固 より多し。されども人の奇を好むや、猶 以 て足れりとせず。是 に於 て才子は才を馳 せ、妄人 は妄 を恣 にして、空中に楼閣を築き、夢裏 に悲喜を画 き、意設筆綴 して、烏有 の談を為 る。或は微 しく本 づくところあり、或は全く拠 るところ無し。小説といい、稗史 といい、戯曲といい、寓言 というもの即 ち是 なり。作者の心おもえらく、奇を極め妙を極むと。豈 図 らんや造物の脚色は、綺語 の奇より奇にして、狂言の妙より妙に、才子の才も敵する能 わざるの巧緻 あり、妄人の妄も及ぶ可からざるの警抜あらんとは。吾が言をば信ぜざる者は、試 に看 よ建文 永楽 の事を。
我が古 小説家の雄 を曲亭主人馬琴 と為 す。馬琴の作るところ、長篇四五種、八犬伝 の雄大、弓張月 の壮快、皆江湖 の嘖々 として称するところなるが、八犬伝弓張月に比して優 るあるも劣らざるものを侠客伝 と為 す。憾 むらくは其の叙するところ、蓋 し未 だ十の三四を卒 るに及ばずして、筆硯 空しく曲亭の浄几 に遺 りて、主人既に逝 きて白玉楼 の史 となり、鹿鳴草舎 の翁 これを続 げるも、亦 功を遂げずして死せるを以 て、世其 の結構の偉 、輪奐 の美を観 るに至らずして已 みたり。然 れども其の意を立て材を排する所以 を考うるに、楠氏 の孤女 を仮 りて、南朝の為 に気を吐かんとする、おのずから是 れ一大文章たらずんば已 まざるものあるをば推知するに足るあり。惜 い哉 其の成らざるや。
侠客伝は女仙外史 より換骨脱胎 し来 る。其の一部は好逑伝 に藉 るありと雖 も、全体の女仙外史を化 し来 れるは掩 う可 からず。此 の姑摩媛 は即 ち是 れ彼 の月君 なり。月君が建文帝 の為に兵を挙ぐるの事は、姑摩媛が南朝の為に力を致さんとするの藍本 たらずんばあらず。此 は是 れ馬琴が腔子裏 の事なりと雖 も、仮 に馬琴をして在らしむるも、吾 が言を聴かば、含笑 して点頭 せん。
女仙外史一百回は、清 の逸田叟 、呂熊 、字 は文兆 の著 すところ、康熙 四十年に意を起して、四十三年秋に至りて業を卒 る。其 の書の体 たるや、水滸伝 平妖伝 等に同じと雖 も、立言 の旨 は、綱常 を扶植 し、忠烈を顕揚するに在りというを以 て、南安 の郡守陳香泉 の序、江西 の廉使 劉在園 の評、江西の学使楊念亭 の論、広州 の太守葉南田 の跋 を得て世に行わる。幻詭猥雑 の談に、干戈 弓馬の事を挿 み、慷慨 節義の譚 に、神仙縹緲 の趣 を交 ゆ。西遊記 に似て、而 も其の誇誕 は少しく遜 り、水滸伝に近くして、而も其 の豪快は及ばず、三国志の如 くして、而も其の殺伐はやゝ少 し。たゞ其の三者の佳致 を併有して、一編の奇話を構成するところは、女仙外史の西遊水滸三国諸書に勝 る所以 にして、其の大体の風度 は平妖伝に似たりというべし。憾 むらくは、通篇 儒生 の口吻 多くして、説話は硬固勃率 、談笑に流暢尖新 のところ少 きのみ。
女仙外史の名は其の実 を語る。主人公月君 、これを輔 くるの鮑師 、曼尼 、公孫大娘 、聶隠娘 等皆女仙なり。鮑聶 等の女仙は、もと古伝雑説より取り来 って彩色となすに過ぎず、而 して月君は即 ち山東蒲台 の妖婦 唐賽児 なり。賽児の乱をなせるは明 の永楽 十八年二月にして、燕 王の簒奪 、建文 の遜位 と相関するあるにあらず、建文猶 死せずと雖 、簒奪の事成って既に十八春秋を経 たり。賽児何ぞ実に建文の為 に兵を挙げんや。たゞ一婦人の身を以て兵を起し城を屠 り、安遠侯 柳升 をして征戦に労し、都指揮 衛青 をして撃攘 に力 めしめ、都指揮劉忠 をして戦歿 せしめ、山東の地をして一時騒擾 せしむるに至りたるもの、真に是 れ稗史 の好題目たり。之 に加うるに賽児が洞見 預察の明 を有し、幻怪詭秘 の術を能 くし、天書宝剣を得て、恵民 布教の事を為 せるも、亦 真に是れ稗史の絶好資料たらずんばあらず。賽児の実蹟 既に是 の如 し。此 を仮 り来 りて以 て建文の位を遜 れるに涙を堕 し、燕棣 の国を奪えるに歯を切 り、慷慨 悲憤して以て回天の業を為 さんとするの女英雄 となす。女仙外史の人の愛読耽翫 を惹 く所以 のもの、決して尠少 にあらずして、而して又実に一篇 の淋漓 たる筆墨 、巍峨 たる結構を得る所以のもの、決して偶然にあらざるを見る。
賽児 は蒲台府 の民 林三 の妻、少 きより仏を好み経を誦 せるのみ、別に異ありしにあらず。林三死して之 を郊外に葬 る。賽児墓に祭りて、回 るさの路 、一山の麓 を経たりしに、たま/\豪雨の後にして土崩れ石露 われたり。これを視 るに石匣 なりければ、就 いて窺 いて遂 に異書と宝剣とを得たり。賽児これより妖術に通じ、紙を剪 って人馬となし、剣 を揮 って咒祝 を為 し、髪を削って尼となり、教 を里閭 に布 く。祷 には効あり、言 には験 ありければ、民翕然 として之に従いけるに、賽児また饑者 には食 を与え、凍者には衣を給し、賑済 すること多かりしより、終 に追随する者数万に及び、尊 びて仏母と称し、其 勢 甚 だ洪大 となれり。官之 を悪 みて賽児を捕えんとするに及び、賽児を奉ずる者董彦杲 、劉俊 、賓鴻 等、敢然として起 って戦い、益都 、安州 、□州 、即墨 、寿光 等、山東諸州鼎沸 し、官と賊と交々 勝敗あり。官兵漸 く多く、賊勢日に蹙 まるに至って賽児を捕え得、将 に刑に処せんとす。賽児怡然 として懼 れず。衣を剥 いで之を縛 し、刀 を挙げて之を□ るに、刀刃 入る能 わざりければ、已 むを得ずして復 獄に下し、械枷 を体 に被 らせ、鉄鈕 もて足を繋 ぎ置きけるに、俄 にして皆おのずから解脱 し、竟 に遯 れ去って終るところを知らず。三司郡県将校 等 、皆寇 を失うを以て誅 せられぬ。賽児は如何 しけん其後踪跡 杳 として知るべからず。永楽帝怒って、およそ北京 山東 の尼姑 は尽 く逮捕して京に上せ、厳重に勘問 し、終 に天下の尼姑という尼姑を逮 うるに至りしが、得る能 わずして止 み、遂に後の史家をして、妖耶 人耶 、吾 之 を知らず、と云 わしむるに至れり。
世の伝うるところの賽児の事既に甚 だ奇、修飾を仮 らずして、一部稗史 たり。女仙外史の作者の藉 りて以 て筆墨を鼓 するも亦 宜 なり。然 れども賽児の徒、初 より大志ありしにはあらず、官吏の苛虐 するところとなって而 して後爆裂迸発 して□ を揚げしのみ。其の永楽帝の賽児を索 むる甚だ急なりしに考うれば、賽児の徒窘窮 して戈 を執 って立つに及び、或 は建文を称して永楽に抗するありしも亦知るべからず。永楽の時、史に曲筆多し、今いずくにか其 実 を知るを得ん。永楽簒奪 して功を成す、而 も聡明 剛毅 、政 を為 す甚だ精、補佐 また賢良多し。こゝを以て賽児の徒忽 にして跡を潜むと雖 も、若 し秦末 漢季 の如 きの世に出 でしめば、陳渉 張角 、終 に天下を動かすの事を為 すに至りたるやも知る可 からず。嗚呼 賽児も亦奇女子 なるかな。而して此 奇女子を藉 りて建文に与 し永楽と争わしむ。女仙外史の奇、其 の奇を求めずして而しておのずから然 るあらんのみ。然りと雖も予 猶 謂 えらく、逸田叟 の脚色は仮 にして後纔 に奇なり、造物爺々 の施為 は真にして且 更に奇なり。
明 の建文 皇帝は実に太祖 高 皇帝に継 いで位に即 きたまえり。時に洪武 三十一年閏 五月なり。すなわち詔 して明年を建文元年としたまいぬ。御代 しろしめすことは正 しく五歳にわたりたもう。然 るに廟諡 を得たもうこと無く、正徳 、万暦 、崇禎 の間、事しば/\議せられて、而 も遂 に行われず、明 亡び、清 起りて、乾隆 元年に至って、はじめて恭憫恵 皇帝という諡 を得たまえり。其 国の徳衰え沢 竭 きて、内憂外患こも/″\逼 り、滅亡に垂 とする世には、崩じて諡 られざる帝 のおわす例 もあれど、明の祚 は其 の後猶 二百五十年も続きて、此 時太祖の盛徳偉業、炎々 の威を揚げ、赫々 の光を放ちて、天下万民を悦服せしめしばかりの後 なれば、かゝる不祥の事は起るべくもあらぬ時代なり。さるを其 [#ルビの「そ」は底本では「その」]の是 の如 くなるに至りし所以 は、天意か人為かはいざ知らず、一波 動いて万波動き、不可思議の事の重畳 連続して、其の狂濤 は四年の間の天地を震撼 し、其の余瀾 は万里の外の邦国に漸浸 するに及べるありしが為 ならずばあらず。
建文皇帝諱 は允□ 、太祖高皇帝の嫡孫なり。御父 懿文 太子、太祖に紹 ぎたもうべかりしが、不幸にして世を早うしたまいぬ。太祖時に御齢 六十五にわたらせ給 いければ、流石 に淮西 の一布衣 より起 って、腰間 の剣 、馬上の鞭 、四百余州を十五年に斬 り靡 けて、遂に帝業を成せる大豪傑も、薄暮に燭 を失って荒野の旅に疲れたる心地やしけん、堪えかねて泣き萎 れたもう。翰林学士 の劉三吾 、御歎 はさることながら、既に皇孫のましませば何事か候うべき、儲君 と仰せ出されんには、四海心を繋 け奉らんに、然 のみは御過憂あるべからず、と白 したりければ、実 にもと点頭 かせられて、其 歳 の九月、立てゝ皇太孫と定められたるが、即 ち後に建文の帝 と申す。谷氏 の史に、建文帝、生れて十年にして懿文 卒 すとあるは、蓋 し脱字 にして、父君に別れ、儲位 に立ちたまえる時は、正 しく十六歳におわしける。資性穎慧 温和、孝心深くましまして、父君の病みたまえる間、三歳に亘 りて昼夜膝下 を離れたまわず、薨 れさせたもうに及びては、思慕の情、悲哀の涙、絶ゆる間もなくて、身も細々と瘠 せ細りたまいぬ。太祖これを見たまいて、爾 まことに純孝なり、たゞ子を亡 いて孫を頼む老いたる我をも念 わぬことあらじ、と宣 いて、過哀に身を毀 らぬよう愛撫 せられたりという。其の性質の美、推して知るべし。
はじめ太祖、太子に命じたまいて、章奏 を決せしめられけるに、太子仁慈厚くおわしければ、刑獄に於 て宥 め軽めらるゝこと多かりき。太子亡 せたまいければ、太孫をして事に当らしめたまいけるが、太孫もまた寛厚の性、おのずから徳を植えたもうこと多く、又太祖に請いて、遍 く礼経 を考え、歴代の刑法を参酌 し、刑律は教 を弼 くる所以 なれば、凡 そ五倫 と相 渉 る者は、宜 しく皆法を屈して以 て情 を伸ぶべしとの意により、太祖の准許 を得て、律の重きもの七十三条を改定しければ、天下大 に喜びて徳を頌 せざる無し。太祖の言 に、吾 は乱世を治めたれば、刑重からざるを得ざりき、汝 は平世を治むるなれば、刑おのずから当 に軽 うすべし、とありしも当時の事なり。明の律は太祖の武昌 を平らげたる呉 の元年に、李善長 等 の考え設けたるを初 とし、洪武六年より七年に亙 りて劉惟謙 等 の議定するに及びて、所謂 大明律 成り、同じ九年胡惟庸 等 命を受けて釐正 するところあり、又同じ十六年、二十二年の編撰 を経て、終 に洪武の末に至り、更定大明律 三十巻大成し、天下に頒 ち示されたるなり。呉の元年より茲 に至るまで、日を積むこと久しく、慮を致すこと精 しくして、一代の法始めて定まり、朱氏 の世を終るまで、獄を決し刑を擬するの準拠となりしかば、後人をして唐に視 ぶれば簡覈 、而 して寛厚は宗 に如 かざるも、其の惻隠 の意に至っては、各条に散見せりと評せしめ、余威は遠く我邦 に及び、徳川期の識者をして此 を研究せしめ、明治初期の新律綱領をして此 に採るところあらしむるに至れり。太祖の英明にして意を民人に致せしことの深遠なるは言うまでも無し、太子の仁、太孫の慈、亦 人君の度ありて、明律因 りて以 て成るというべし。既にして太祖崩じて太孫の位に即 きたもうや、刑官に諭 したまわく、大明律は皇祖の親しく定めさせたまえるところにして、朕 に命じて細閲せしめたまえり。前代に較 ぶるに往々重きを加う。蓋 し乱国を刑するの典にして、百世通行の道にあらざる也。朕が前 に改定せるところは、皇祖已 に命じて施行せしめたまえり。然 れども罪の矜疑 すべき者は、尚 此 に止 まらず。それ律は大法を設け、礼は人情に順 う。民を斉 うるに刑を以てするは礼を以てするに若 かず。それ天下有司に諭し、務めて礼教を崇 び、疑獄を赦 し、朕が万方 と与 にするを嘉 ぶの意に称 わしめよと。嗚呼 、既に父に孝にして、又民に慈なり。帝の性の善良なる、誰 がこれを然らずとせんや。
是 の如きの人にして、帝 となりて位を保つを得ず、天に帰して諡 を得 る能 わず、廟 無く陵無く、西山 の一抔土 、封 せず樹 せずして終るに至る。嗚呼 又奇なるかな。しかも其の因縁 の糾纏錯雑 して、果報の惨苦悲酸なる、而して其の影響の、或 は刻毒 なる、或は杳渺 たる、奇も亦 太甚 しというべし。
建文帝の国を遜 らざるを得ざるに至れる最初の因は、太祖の諸子を封ずること過当にして、地を与うること広く、権を附すること多きに基づく。太祖の天下を定むるや、前代の宋 元 傾覆の所以 を考えて、宗室の孤立は、無力不競の弊源たるを思い、諸子を衆 く四方に封じて、兵馬の権を有せしめ、以 て帝室に藩屏 たらしめ、京師 を拱衛 せしめんと欲せり。是 れ亦 故無きにあらず。兵馬の権、他人の手に落ち、金穀の利、一家の有たらずして、将帥 外に傲 り、奸邪 間 に私すれば、一朝事有るに際しては、都城守る能 わず、宗廟 祀 られざるに至るべし。若 し夫 れ衆 く諸侯を建て、分ちて子弟を王とすれば、皇族天下に満ちて栄え、人臣勢 を得るの隙 無し。こゝに於 て、第二子※ [#「木+爽」、UCS-6A09、252-3]を秦 王に封 じ、藩に西安 に就 かしめ、第三子棡 を晋 王に封じ、太原府 に居 らしめ、第四子棣 を封じて燕 王となし、北平府 即 ち今の北京 に居らしめ、第五子※ [#「木+肅」、UCS-6A5A、252-5]を封じて周 王となし、開封府 に居らしめ、第六子□ を楚 王とし、武昌 に居らしめ、第七子榑 を斉 王とし、青州府 に居らしめ、第八子梓 を封じて潭 王とし、長沙 に居 き、第九子※ [#「木+巳」、252-7]を趙 王とせしが、此 は三歳にして殤 し、藩に就くに及ばず、第十子檀 を生れて二月にして魯 王とし、十六歳にして藩に□州府 に就かしめ、第十一子椿 を封じて蜀 王とし、成都 に居 き、第十二子柏 を湘 王とし、荊州府 に居き、第十三子桂 を代 王とし、大同府 に居き、第十四子※ [#「木+英」、UCS-6967、252-11]を粛 王とし、藩に甘州府 に就かしめ、第十五子植 を封じて遼 王とし、広寧府 に居き、第十六子※ [#「木+「旃」の「丹」に代えて「冉」、252-12]を慶 王として寧夏 に居き、第十七子権 を寧 王に封じ、大寧 に居らしめ、第十八子□ を封じて岷 王となし、第十九子※ [#「木+惠」、UCS-6A5E、253-2]を封じて谷 王となす、谷王というは其 の居 るところ宣府 の上谷 の地たるを以てなり、第二十子松 を封じて韓 王となし、開源 に居らしむ。第二十一子模 を瀋 王とし、第二十二子楹 を安 王とし、第二十三子※ [#「木+經のつくり」、UCS-6871、253-4]を唐 王とし、第二十四子棟 を郢 王とし、第二十五子※ [#「木+(ヨ/粉/廾)」、253-5]を伊 王としたり。藩 王以下は、永楽 に及んで藩に就きたるなれば、姑 らく措 きて論ぜざるも、太祖の諸子を封 じて王となせるも亦 多しというべく、而 して枝柯 甚 だ盛んにして本幹 却 って弱きの勢 を致せるに近しというべし。明の制、親王は金冊金宝 を授けられ、歳禄 は万石 、府には官属を置き、護衛の甲士 、少 き者は三千人、多き者は一万九千人に至り、冕服 車旗 邸第 は、天子に下 ること一等、公侯大臣も伏して而して拝謁す。皇族を尊くし臣下を抑うるも、亦 至れりというべし。且つ元 の裔 の猶 存して、時に塞下 に出没するを以て、辺に接せる諸王をして、国中 に専制し、三護衛の重兵 を擁するを得せしめ、将を遣 りて諸路の兵を徴 すにも、必ず親王に関白して乃 ち発することゝせり。諸王をして権を得せしむるも、亦 大なりというべし。太祖の意に謂 えらく、是 の如 くなれば、本支 相 幇 けて、朱氏 永く昌 え、威権下 に移る無く、傾覆の患 も生ずるに地無からんと。太祖の深智 達識 は、まことに能 く前代の覆轍 に鑑 みて、後世に長計を貽 さんとせり。されども人智は限 有り、天意は測り難し、豈 図 らんや、太祖が熟慮遠謀して施為 せるところの者は、即 ち是れ孝陵 の土未 だ乾かずして、北平 の塵 既に起り、矢石 京城 に雨注 して、皇帝遐陬 に雲遊するの因とならんとは。
太祖が諸子を封ずることの過ぎたるは、夙 に之 を論じて、然 る可 からずとなせる者あり。洪武九年といえば建文帝未だ生れざるほどの時なりき。其 歳 閏 九月、たま/\天文 の変ありて、詔 を下し直言 を求められにければ、山西 の葉居升 というもの、上書して第一には分封の太 だ侈 れること、第二には刑を用いる太 だ繁 きこと、第三には治 を求むる太 だ速やかなることの三条を言えり。其の分封太侈 を論ずるに曰 く、都城百雉 を過ぐるは国の害なりとは、伝 の文にも見えたるを、国家今や秦 晋 燕 斉 梁 楚 呉 □ の諸国、各其 地 を尽して之 を封じたまい、諸王の都城宮室の制、広狭大小、天子の都に亜 ぎ、之に賜 うに甲兵衛士の盛 なるを以てしたまえり。臣ひそかに恐る、数世 の後は尾大 掉 わず、然 して後に之が地を削りて之が権を奪わば、則 ち其の怨 を起すこと、漢の七国、晋の諸王の如くならん。然らざれば則 ち険 を恃 みて衡 を争い、然らざれば則ち衆を擁して入朝し、甚 しければ則ち間 に縁 りて而して起 たんに、之を防ぐも及ぶ無からん。孝景 皇帝は漢の高帝の孫也、七国の王は皆景帝の同宗 父兄弟 子孫 なり。然るに当時一たび其地を削れば則ち兵を構えて西に向えり。晋の諸王は、皆武帝の親子孫 なり。然るに世を易 うるの後は迭 に兵を擁して、以て皇帝を危 くせり。昔は賈誼 漢の文帝に勧めて、禍を未萌 に防ぐの道を白 せり。願わくば今先 ず諸王の都邑 の制を節し、其の衛兵を減じ、其の彊里 を限りたまえと。居升 の言はおのずから理あり、しかも太祖は太祖の慮あり。其の説くところ、正 に太祖の思えるところに反すれば、太祖甚だ喜びずして、居升を獄中 に終るに至らしめ給いぬ。居升の上書の後二十余年、太祖崩じて建文帝立ちたもうに及び、居升の言、不幸にして験 ありて、漢の七国の喩 、眼 のあたりの事となれるぞ是非無き。
七国の事、七国の事、嗚呼 是れ何ぞ明室 と因縁の深きや。葉居升 の上書の出 ずるに先だつこと九年、洪武元年十一月の事なりき、太祖宮中に大本堂 というを建てたまい、古今 の図書を充 て、儒臣をして太子および諸王に教授せしめらる。起居注 の魏観 字 は※山 [#「木+巳」、256-9]というもの、太子に侍して書を説きけるが、一日太祖太子に問いて、近ごろ儒臣経史の何事を講ぜるかとありけるに、太子、昨日は漢書 の七図漢に叛 ける事を講じ聞 せたりと答え白 す。それより談は其事の上にわたりて、太祖、その曲直は孰 に在りやと問う。太子、曲は七国に在りと承りぬと対 う。時に太祖肯 ぜずして、否 、其 は講官の偏説なり。景帝 太子たりし時、博局 を投じて呉王 の世子 を殺したることあり、帝となるに及びて、晁錯 の説を聴きて、諸侯の封 を削りたり、七国の変は実に此 に由る。諸子の為 に此 事を講ぜんには、藩王たるものは、上は天子を尊み、下は百姓 を撫 し、国家の藩輔 となりて、天下の公法を撓 す無かれと言うべきなり、此 の如くなれば則ち太子たるものは、九族を敦睦 し、親しきを親しむの恩を隆 んにすることを知り、諸子たるものは、王室を夾翼 し、君臣の義を尽すことを知らん、と評論したりとなり。此 の太祖の言は、正 に是れ太祖が胸中の秘を発せるにて、夙 くより此 意ありたればこそ、其 より二年ほどにして、洪武三年に、※ [#「木+爽」、UCS-6A09、257-9]、棡 、棣 、※ [#「木+肅」、UCS-6A5A、257-9]、□ 、榑 、梓 、檀 、※ [#「木+巳」、257-10]の九子を封じて、秦 晋 燕 周 等に王とし、其 甚 しきは、生れて甫 めて二歳、或 は生れて僅 に二ヶ月のものをすら藩王とし、次 いで洪武十一年、同二十四年の二回に、幼弱の諸子をも封じたるなれ、而 して又夙 くより此意ありたればこそ、葉居升 が上言に深怒して、これを獄死せしむるまでには至りたるなれ。しかも太祖が懿文 太子に、七国反漢の事を喩 したりし時は、建文帝未だ生れず。明の国号はじめて立ちしのみ。然るに何ぞ図らん此の俊徳成功の太祖が熟慮遠謀して、斯 ばかり思いしことの、其 身 死すると共に直 に禍端乱階 となりて、懿文 の子の允□ 、七国反漢の古 を今にして窘 まんとは。不世出の英雄朱元璋 も、命 といい数 というものゝ前には、たゞ是 一片の落葉秋風に舞うが如きのみ。
七国の事、七国の事、嗚呼何ぞ明室と因縁の深きや。洪武二十五年九月、懿文太子の後を承 けて其 御子 允□皇太孫の位に即 かせたもう。継紹 の運まさに是 の如くなるべきが上に、下 は四海の心を繋 くるところなり。上 は一人 の命 を宣したもうところなり、天下皆喜びて、皇室万福と慶賀したり。太孫既に立ちて皇太孫となり、明らかに皇儲 となりたまえる上は、齢 猶 弱くとも、やがて天下の君たるべく、諸王或 は功あり或は徳ありと雖 も、遠からず俯首 して命 を奉ずべきなれば、理に於 ては当 に之 を敬すべきなり。されども諸王は積年の威を挟 み、大封の勢 に藉 り、且 は叔父 の尊きを以 て、不遜 の事の多かりければ、皇太孫は如何 ばかり心苦しく厭 わしく思いしみたりけむ。一日 東角門 に坐して、侍読 の太常卿 黄子澄 というものに、諸王驕慢 の状を告げ、諸 叔父 各大封重兵 を擁し、叔父の尊きを負 みて傲然 として予に臨む、行末 の事も如何 あるべきや、これに処し、これを制するの道を問わんと曰 いたもう。子澄名は□ 、分宜 の人、洪武十八年の試に第一を以て及第したりしより累進してこゝに至れるにて、経史に通暁せるはこれ有りと雖 も、世故 に練達することは未 だ足らず、侍読の身として日夕奉侍すれば、一意たゞ太孫に忠ならんと欲して、かゝる例は其 昔にも見えたり、但し諸王の兵多しとは申せ、もと護衛の兵にして纔 に身ずから守るに足るのみなり、何程の事かあらん、漢の七国を削るや、七国叛 きたれども、間も無く平定したり、六師一たび臨まば、誰 か能 く之を支えん、もとより大小の勢、順逆の理、おのずから然るもの有るなり、御心 安く思召 せ、と七国の古 を引きて対 うれば、太孫は子澄が答を、げに道理 なりと信じたまいぬ。太孫猶 齢 若く、子澄未だ世に老いず、片時 の談、七国の論、何ぞ図 らん他日山崩れ海湧 くの大事を生ぜんとは。
太祖の病は洪武三十一年五月に起りて、同 閏 五月西宮 に崩ず。其 遺詔こそは感ずべく考うべきこと多けれ。山戦野戦又は水戦、幾度 と無く畏 るべき危険の境を冒して、無産無官又無家 、何等 の恃 むべきをも有 たぬ孤独の身を振い、終 に天下を一統し、四海に君臨し、心を尽して世を治め、慮 [#ルビの「おも」は底本では「おもい」]い竭 して民を済 い、而 して礼を尚 び学を重んじ、百忙 の中 、手に書を輟 めず、孔子の教 を篤信し、子 は誠に万世の師なりと称して、衷心より之を尊び仰ぎ、施政の大綱、必ず此 に依拠し、又蚤歳 にして仏理に通じ、内典を知るも、梁 の武帝の如く淫溺 せず、又老子 を愛し、恬静 を喜び、自 から道徳経註 二巻を撰 し、解縉 をして、上疏 の中に、学の純ならざるを譏 らしむるに至りたるも、漢の武帝の如く神仙を好尚 せず、嘗 て宗濂 に謂 って、人君能 く心を清くし欲を寡 くし、民をして田里に安んじ、衣食に足り、熈々□々 として自 ら知らざらしめば、是れ即ち神仙なりと曰 い、詩文を善 くして、文集五十巻、詩集五巻を著 せるも、□同 と文章を論じては、文はたゞ誠意溢出 するを尚 ぶと為し、又洪武六年九月には、詔 して公文に対偶文辞 を用いるを禁じ、無益の彫刻藻絵 を事とするを遏 めたるが如き、まことに通ずること博 くして拘 えらるゝこと少 く、文武を兼 ねて有し、智有を併 せて備え、体験心証皆富みて深き一大偉人たる此の明の太祖、開天行道肇紀立極大聖至神仁文義武俊徳成功高 皇帝の諡号 に負 かざる朱元璋 、字 は国瑞 の世 を辞 して、其 身は地に入り、其神 は空 に帰せんとするに臨みて、言うところ如何 。一鳥の微 なるだに、死せんとするや其声人を動かすと云わずや。太祖の遺詔感ず可 く考う可 きもの無からんや。遺詔に曰く、朕 皇天の命を受けて、大任に世に膺 ること、三十有一年なり、憂危心に積み、日に勤めて怠らず、専ら民に益あらんことを志しき。奈何 せん寒微 より起りて、古人の博智無く、善を好 し悪を悪 むこと及ばざること多し。今年七十有一、筋力衰微し、朝夕危懼 す、慮 るに終らざることを恐るのみ。今万物自然の理を得 、其 れ奚 んぞ哀念かこれ有らん。皇太孫允□ 、仁明孝友にして、天下心を帰す、宜 しく大位に登るべし。中外文武臣僚、心を同じゅうして輔祐 し、以 て吾 が民を福 せよ。葬祭の儀は、一に漢の文帝の如くにして異 にする勿 れ。天下に布告して、朕が意を知らしめよ。孝陵の山川 は、其の故 に因りて改むる勿 れ、天下の臣民は、哭臨 する三日にして、皆服を釈 き、嫁娶 を妨ぐるなかれ。諸王は国中に臨 きて、京師に至る母 れ。諸 の令の中 に在らざる者は、此令を推して事に従えと。
嗚呼 、何ぞ其言の人を感ぜしむること多きや。大任に膺 ること、三十一年、憂危心に積み、日に勤めて怠らず、専ら民に益あらんことを志しき、と云えるは、真に是 れ帝王の言にして、堂々正大の気象、靄々仁恕 の情景、百歳の下 、人をして欽仰 せしむるに足るものあり。奈何 せん寒微より起りて、智浅く徳寡 し、といえるは、謙遜 の態度を取り、反求 の工夫に切に、諱 まず飾らざる、誠に美とすべし。今年七十有一、死旦夕 に在り、といえるは、英雄も亦 大限 の漸 く逼 るを如何 ともする無き者。而して、今万物自然の理を得、其れ奚 にぞ哀念かこれ有らん、と云 える、流石 に孔孟仏老 の教 に於 て得るところあるの言なり。酒後に英雄多く、死前に豪傑少 きは、世間の常態なるが、太祖は是れ真 豪傑、生きて長春不老の癡想 を懐 かず、死して万物自然の数理に安んぜんとす。従容 として逼 らず、晏如 として□ れず、偉なる哉 、偉なる哉。皇太孫允□ 、宜しく大位に登るべし、と云えるは、一言 や鉄の鋳られたるが如 し。衆論の糸の紛 るゝを防ぐ。これより前 、太孫の儲位 に即 くや、太祖太孫を愛せざるにあらずと雖 も、太孫の人となり仁孝聡頴 にして、学を好み書を読むことはこれ有り、然も勇壮果決の意気は甚 だ欠く。此 を以て太祖の詩を賦せしむるごとに、其 詩婉美柔弱 、豪壮瑰偉 の処 無く、太祖多く喜ばず。一日太孫をして詞句 の属対 をなさしめしに、大 に旨 に称 わず、復 び以て燕王 棣 に命ぜられけるに、燕王の語は乃 ち佳なりけり。燕王は太祖の第四子、容貌 偉 にして髭髯 美 わしく、智勇あり、大略あり、誠を推して人に任じ、太祖[#「太祖」は底本では「大祖」]に肖 たること多かりしかば、太祖も此 を悦 び、人も或 は意 を寄するものありたり。此 に於 て太祖密 に儲位 を易 えんとするに意 有りしが、劉三吾 之 を阻 みたり。三吾は名は如孫 、元 の遺臣なりしが、博学にして、文を善 くしたりければ、洪武十八年召されて出 でゝ仕えぬ。時に年七十三。当時汪叡 、朱善 と与 に、世 称して三老 と為 す。人となり慷慨 にして城府を設けず、自ら号して坦坦翁 といえるにも、其の風格は推知すべし。坦坦翁、生平 実に坦坦、文章学術を以て太祖に仕え、礼儀の制、選挙の法を定むるの議に与 りて定むる所多く、帝の洪範 の注成るや、命を承 けて序を為 り、勅修 の書、省躬録 、書伝会要 、礼制集要 等の編撰 総裁となり、居然 たる一宿儒を以て、朝野の重んずるところたり。而して大節 に臨むに至りては、屹 として奪う可 からず。懿文 太子の薨 ずるや、身を挺 んでゝ、皇孫は世嫡 なり、大統を承 けたまわんこと、礼也 、と云いて、内外の疑懼 を定め、太孫を立てゝ儲君 となせし者は、実に此の劉三吾たりしなり。三吾太祖の意を知るや、何ぞ言 無からん、乃 ち曰 く、若 し燕王を立て給 わば秦王 晋王 を何の地に置き給わんと。秦王※ [#「木+爽」、UCS-6A09、265-7]、晋王棡 は、皆燕王の兄たり。孫 を廃して子 を立つるだに、定まりたるを覆 すなり、まして兄を越して弟を君とするは序を乱るなり、世 豈 事無くして已 まんや、との意は言外に明らかなりければ、太祖も英明絶倫の主なり、言下に非を悟りて、其 事止 みけるなり。是 の如き事もありしなれば、太祖みずから崩後の動揺を防ぎ、暗中の飛躍を遏 めて、特 に厳しく皇太孫允□宜 しく大位に登るべしとは詔を遺 されたるなるべし。太祖の治 を思うの慮 も遠く、皇孫を愛するの情も篤 しという可し。葬祭の儀は、漢の文帝の如 くせよ、と云える、天下の臣民は哭臨 三日にして服を釈 き、嫁娶 を妨ぐる勿 れ、と云える、何ぞ倹素 にして仁恕 なる。文帝の如くせよとは、金玉 を用いる勿れとなり。孝陵の山川は其の故 に因れとは、土木を起す勿れとなり。嫁娶を妨ぐる勿れとは、民をして福 あらしめんとなり。諸王は国中に臨 きて、京に至るを得る無かれ、と云えるは、蓋 し其 意 諸王其の封を去りて京に至らば、前代の遺□ 、辺土の黠豪 等、或 は虚に乗じて事を挙ぐるあらば、星火も延焼して、燎原 の勢を成すに至らんことを虞 るるに似たり。此 も亦 愛民憂世の念、おのずから此 に至るというべし。太祖の遺詔、嗚呼 、何ぞ人を感ぜしむるの多きや。
然 りと雖 も、太祖の遺詔、考う可 きも亦 多し。皇太孫允□ 、天下心を帰す、宜 しく大位に登るべし、と云 えるは、何ぞや。既に立って皇太孫となる。遺詔無しと雖も、当 に大位に登るべきのみ。特に大位に登るべしというは、朝野の間、或 は皇太孫の大位に登らざらんことを欲する者あり、太孫の年少 く勇 乏しき、自ら謙譲して諸王の中 の材雄に略大なる者に位を遜 らんことを欲する者ありしが如 きをも猜 せしむ。仁明孝友、天下心を帰す、と云えるは、何ぞや。明 の世を治むる、纔 に三十一年、元 の裔 猶 未 だ滅びず、中国に在るもの無しと雖 も、漠北 に、塞西 に、辺南 に、元の同種の広大の地域を有して□踞 するもの存し、太祖崩じて後二十余年にして猶大に興和 に寇 するあり。国外の情 是 の如し。而 して域内の事、また英主の世を御せんことを幸 とせずんばあらず。仁明孝友は固 より尚 ぶべしと雖も、時勢の要するところ、実は雄材大略なり。仁明孝友、天下心を帰するというと雖も、或 は恐る、天下を十にして其の心を帰する者七八に過ぎざらんことを。中外文武臣僚、心を同じゅうして輔祐 し、以 て吾 が民を福 せよ、といえるは、文武臣僚の中、心を同じゅうせざる者あるを懼 るゝに似たり。太祖の心、それ安んぜざる有る耶 、非 耶 。諸王は国中に臨 きて京 に至るを得る無かれ、と云えるは、何ぞや。諸王の其 封国 を空 しゅうして奸※ [#「敖/馬」、UCS-9A41、268-4]の乗ずるところとならんことを虞 るというも、諸王の臣、豈 一時を托 するに足る者無からんや。子の父の葬 に趨 るは、おのずから是 れ情なり、是れ理なり、礼にあらず道にあらずと為 さんや。諸王をして葬に会せざらしむる詔 は、果して是れ太祖の言に出 づるか。太祖にして此 詔を遺 すとせば、太祖ひそかに其 の斥 けて聴かざりし葉居升 の言の、諸王衆を擁して入朝し、甚 しければ則 ち間 に縁 りて起 たんに、之 を防ぐも及ぶ無き也 、と云えるを思えるにあらざる無きを得んや。嗚呼 子にして父の葬に会するを得ず、父の意 なりと謂 うと雖も、子よりして論ずれば、父の子を待つも亦 疎 にして薄きの憾 無くんばあらざらんとす。詔或は時勢に中 らん、而 も実に人情に遠いかな。凡 そ施為 命令謀図言義を論ぜず、其の人情に遠きこと甚 しきものは、意は善なるも、理は正しきも、計 は中 るも、見 は徹するも、必らず弊に坐 し凶を招くものなり。太祖の詔、可なることは則 ち可なり、人情には遠し、これより先に洪武十五年高 皇后の崩ずるや、奏 王晋 王燕 王等皆国に在り、然 れども諸王喪 に奔 りて京 に至り、礼を卒 えて還れり。太祖の崩ぜると、其后 の崩ぜると、天下の情勢に関すること異なりと雖も、母の喪には奔りて従うを得て、父の葬には入りて会するを得ざらしむ。此 も亦人を強いて人情に遠きを為 さしむるものなり。太祖の詔、まことに人情に遠し。豈 弊を生じ凶を致す無からんや。果して事端 は先 ずこゝに発したり。崩を聞いて諸王は京に入らんとし、燕王は将 に淮安 に至らんとせるに当りて、斉泰 は帝に言 し、人をして□ を賚 らして国に還 らしめぬ。燕王を首 として諸王は皆悦 ばず。これ尚書 斉泰 の疎間 するなりと謂 いぬ。建文帝は位に即 きて劈頭 第一に諸王をして悦ばざらしめぬ。諸王は帝の叔父 なり、尊族なり、封土 を有し、兵馬民財を有せる也。諸王にして悦ばざるときは、宗家の枝柯 、皇室の藩屏 たるも何かあらん。嗚呼 、これ罪斉泰にあるか、建文帝にあるか、抑 又遺詔にあるか、諸王にあるか、之 を知らざる也。又飜 って思うに、太祖の遺詔に、果して諸王の入臨を止 むるの語ありしや否や。或 は疑う、太祖の人情に通じ、世故 に熟せる、まさに是 の如きの詔を遺 さゞるべし。若 し太祖に果して登遐 の日に際して諸王の葬に会するを欲せざらば、平生無事従容の日、又は諸王の京を退きて封に就 くの時に於 て、親しく諸王に意を諭すべきなり。然らば諸王も亦 発駕奔喪 の際に於て、半途にして擁遏 せらるゝの不快事に会う無く、各□ 其 封に於て哭臨 して、他を責むるが如きこと無かるべきのみ。太祖の智にして事此 に出 でず、詔を遺して諸王の情を屈するは解す可 からず。人の情屈すれば則 ち悦ばず、悦ばざれば則ち怨 を懐 き他を責むるに至る。怨を懐き他を責むるに至れば、事無きを欲するも得べからず。太祖の人情に通ぜる何ぞ之 を知るの明 無からん。故に曰 く、太祖の遺詔に、諸王の入臨を止 むる者は、太祖の為すところにあらず、疑うらくは斉泰黄子澄 の輩の仮託するところならんと。斉泰の輩、もとより諸王の帝に利あらざらんことを恐る、詔を矯 むるの事も、世其例に乏しからず、是 の如きの事、未だ必ずしも無きを保 せず。然れども是 れ推測の言のみ。真 耶 、偽 耶 、太祖の失か、失にあらざるか、斉泰の為 か、為にあらざる耶 、将又 斉泰、遺詔に托して諸王の入京会葬を遏 めざる能 わざるの勢の存せしか、非耶 。建文永楽の間 、史に曲筆多し、今新 に史徴を得るあるにあらざれば、疑 を存せんのみ、確 に知る能 わざる也。
太祖の崩ぜるは閏 五月なり、諸王の入京 を遏 められて悦 ばずして帰れるの後、六月に至って戸部侍郎 卓敬 というもの、密疏 を上 る。卓敬字 は惟恭 、書を読んで十行倶 に下ると云 われし頴悟聡敏 の士、天文地理より律暦兵刑に至るまで究 めざること無く、後に成祖 をして、国家士 を養うこと三十年、唯 一卓敬を得たりと歎 ぜしめしほどの英才なり。□直慷慨 にして、避くるところ無し。嘗 て制度未 だ備わらずして諸王の服乗 も太子に擬せるを見、太祖に直言して、嫡庶 相 乱 り、尊卑序無くんば、何を以 て天下に令せんや、と説き、太祖をして、爾 の言 是 なり、と曰 わしめたり。其 の人となり知る可 きなり。敬の密疏は、宗藩 を裁抑 して、禍根を除かんとなり。されども、帝は敬の疏を受けたまいしのみにて、報じたまわず、事竟 に寝 みぬ。敬の言、蓋 し故無くして発せず、必らず窃 に聞くところありしなり。二十余年前の葉居升 が言は、是 に於 て其 中 れるを示さんとし、七国の難は今将 に発せんとす。燕 王、周 王、斉 王、湘 王、代 王、岷 王等、秘信相通じ、密使互 に動き、穏やかならぬ流言ありて、朝 に聞えたり。諸王と帝との間、帝は其 の未 だ位に即 かざりしより諸王を忌憚 し、諸王は其の未だ位に即かざるに当って儲君 を侮り、叔父 の尊を挟 んで不遜 の事多かりしなり。入京会葬を止 むるの事、遺詔に出 づと云うと雖 も、諸王、責 を讒臣 に托 して、而 して其の奸悪 を除 かんと云い、香 を孝陵 に進めて、而して吾が誠実を致さんと云うに至っては、蓋 し辞柄 無きにあらず。諸王は合同の勢あり、帝は孤立の状あり。嗚呼 、諸王も疑い、帝も疑う、相疑うや何ぞ□離 せざらん。帝も戒め、諸王も戒む、相戒むるや何ぞ疎隔 せざらん。疎隔し、□離す、而して帝の為 に密 に図るものあり、諸王の為に私 に謀るものあり、況 んや藩王を以 て天子たらんとするものあり、王を以て皇となさんとするものあるに於 てをや。事遂 に決裂せずんば止 まざるものある也。
帝の為 に密 に図る者をば誰 となす。曰 く、黄子澄 となし、斉泰 となす。子澄は既に記しぬ。斉泰は□水 の人、洪武十七年より漸 く世に出 づ。建文帝位 に即きたもうに及び、子澄と与 に帝の信頼するところとなりて、国政に参す。諸王の入京会葬を遏 めたる時の如き、諸王は皆謂 えらく、泰皇考 の詔を矯 めて骨肉を間 つと。泰の諸王の憎むところとなれる、知るべし。
諸王の為に私 に謀る者を誰となす。曰く、諸王の雄 を燕王となす。燕王の傅 に、僧道衍 あり。道衍は僧たりと雖 [#ルビの「いえど」は底本では「いえども」]も、灰心滅智 の羅漢 にあらずして、却 って是 れ好謀善算の人なり。洪武二十八年、初めて諸王の封国に就 く時、道衍躬 ずから薦 めて燕王の傅 とならんとし、謂 って曰く、大王 臣をして侍するを得せしめたまわば、一白帽 を奉りて大王がために戴 かしめんと。王上 に白 を冠すれば、其 文 は皇なり、儲位 明らかに定まりて、太祖未だ崩ぜざるの時だに、是 の如 きの怪僧ありて、燕王が為に白帽を奉らんとし、而 して燕王是 の如きの怪僧を延 いて帷※ [#「巾+莫」、UCS-5E59、274-11]の中に居 く。燕王の心胸もとより清からず、道衍の瓜甲 も毒ありというべし。道衍燕邸 に至るに及んで袁□ を王に薦む。袁□は字 は廷玉 、□ の人にして、此 亦 一種の異人なり。嘗 て海外に遊んで、人を相 するの術を別古崖 というものに受く。仰いで皎日 を視 て、目尽 く眩 して後、赤豆 黒豆 を暗室中に布 いて之を弁 じ、又五色の縷 を窓外に懸け、月に映じて其 色を別って訛 つこと無く、然 して後に人を相す。其法は夜中を以て両炬 を燃 し、人の形状気色 を視 て、参するに生年月日 を以てするに、百に一謬 無く、元末より既に名を天下に馳 せたり。其の道衍 と識 るに及びたるは、道衍が嵩山寺 に在りし時にあり。袁□ 道衍が相をつく/″\と観 て、是 れ何ぞ異僧なるや、目は三角あり、形は病虎 の如し。性必 らず殺を嗜 まん。劉秉忠 の流 なりと。劉秉忠は学 内外を兼ね、識 三才を綜 ぶ、釈氏 より起 って元主を助け、九州を混一 し、四海を併合す。元の天下を得る、もとより其の兵力に頼 ると雖も、成功の速疾なるもの、劉の揮※ [#「てへん+霍」、UCS-6509、275-10]の宜 しきを得るに因 るもの亦 鮮 からず。秉忠は実に奇偉卓犖 の僧なり。道衍秉忠の流なりとなさる、まさに是れ癢処 に爬着 するもの。是れより二人、友とし善 し。道衍の□ を燕王に薦むるに当りてや、燕王先 ず使者をして□ と与 に酒肆 に飲ましめ、王みずから衛士の儀表堂々たるもの九人に雑 わり、おのれ亦 衛士の服を服し、弓矢 を執 りて肆中 に飲む。□一見して即 ち趨 って燕王の前に拝して曰 く、殿下何ぞ身を軽んじて此 に至りたまえると。燕王等笑って曰く、吾輩 皆護衛の士なりと。□頭 を掉 って是 とせず。こゝに於て王起 って入り、□を宮中に延 きて詳 に相 せしむ。□諦視 すること良 久しゅうして曰 く、殿下は龍行虎歩 したまい、日角 天を挿 む、まことに異日太平の天子にておわします。御年 四十にして、御鬚 臍 を過 ぎさせたもうに及ばせたまわば、大宝位 に登らせたまわんこと疑 あるべからず、と白 す。又燕府 の将校官属を相せしめたもうに、□一々指点して曰く、某 は公 たるべし、某は侯 たるべし、某は将軍たるべし、某は貴官たるべしと。燕王語 の洩 れんことを慮 り、陽 に斥 けて通州 に至らしめ、舟路 密 に召して邸 に入る。道衍は北平 の慶寿寺 に在り、□は燕府 に在り、燕王と三人、時々人を屏 けて語る。知らず其の語るところのもの何ぞや。□は柳荘居士 と号す。時に年蓋 し七十に近し。抑 亦 何の欲するところあって燕王に勧めて反せしめしや。其子忠徹 の伝うるところの柳荘相法、今に至って猶 存し、風鑑 の津梁 たり。□と永楽帝と答問するところの永楽百問の中 、帝鬚 の事を記す。相法三巻、信ぜざるものは、目して陋書 となすと雖も、尽 く斥 く可 からざるものあるに似たり。忠徹も家学を伝えて、当時に信ぜらる。其の著 わすところ、今古識鑑 八巻ありて、明志 採録す。予 未だ寓目 せずと雖も、蓋 し藻鑑 の道を説く也。□と忠徹と、偕 に明史方伎伝 に見ゆ。□の燕王に見 ゆるや、鬚 長じて臍 を過 ぎなば宝位に登らんという。燕王笑って曰く、吾 が年将 に四旬ならんとす、鬚豈 能 く復 長ぜんやと。道衍こゝに於て金忠 というものを薦 む。金忠も亦□ の人なり、少 くして書を読み易 に通ず。卒伍 に編せらるゝに及び、卜 を北平 に売る。卜多く奇中して、市人伝えて以て神 となす。燕王忠をして卜せしむ。忠卜して卦 を得て、貴きこと言う可からずという。燕王の意漸 くにして固 し。忠後 に仕えて兵部尚書 を以て太子 監国 に補せらるゝに至る。明史巻百五十に伝あり。蓋し亦一異人なり。
帝の側 には黄子澄 斉泰 あり、諸藩を削奪 するの意、いかでこれ無くして已 まん。燕王 の傍 には僧道衍 袁□ あり、秘謀を□醸 するの事、いかでこれ無くして已まん。二者の間、既に是 の如 し、風声鶴唳 、人相 驚かんと欲し、剣光火影 、世漸 く将 に乱れんとす。諸王不穏の流言、朝 に聞ゆること頻 なれば、一日帝は子澄を召したまいて、先生、疇昔 の東角門 の言を憶 えたもうや、と仰 す。子澄直ちに対 えて、敢 て忘れもうさずと白 す。東角門の言は、即 ち子澄七国 の故事を論ぜるの語なり。子澄退いて斉泰 と議す。泰曰 く、燕 は重兵 を握り、且 素 より大志あり、当 に先 ず之 を削るべしと。子澄が曰く、然 らず、燕は予 め備うること久しければ、卒 に図り難し。宜 しく先ず周 を取り、燕の手足 を剪 り、而 して後燕図るべしと。乃 ち曹国公 李景隆 に命じ、兵を調して猝 に河南に至り、周王※ [#「木+肅」、UCS-6A5A、279-3]及び其 の世子 妃嬪 を執 え、爵を削りて庶人 となし、之 を雲南 に遷 しぬ。※ [#「木+肅」、UCS-6A5A、279-3]は燕王の同母弟なるを以 て、帝もかねて之を疑い憚 り、※[#「木+肅」、UCS-6A5A、279-3]も亦 異謀あり、※[#「木+肅」、UCS-6A5A、279-4]の長史 王翰 というもの、数々諫 めたれど納 れず、※[#「木+肅」、UCS-6A5A、279-5]の次子 汝南 王有※[#「火+動」、279-5]の変を告ぐるに及び、此 事 あり。実に洪武三十一年八月にして、太祖崩じて後、幾干月 を距 らざる也。冬十一月、代王 桂 暴虐 民を苦 むるを以て、蜀 に入りて蜀王と共に居らしむ。
諸藩漸 く削奪せられんとするの明らかなるや、十二月に至りて、前軍 都督府断事 高巍 書を上 りて政を論ず。巍は遼州 の人、気節を尚 び、文章を能 くす、材器偉ならずと雖 も、性質実に惟 美 、母の蕭氏 に事 えて孝を以て称せられ、洪武十七年旌表 せらる。其 の立言正平 なるを以て太祖の嘉納するところとなりし又 是 一個の好人物なり。時に事に当る者、子澄、泰の輩より以下、皆諸王を削るを議す。独り巍 と御史 韓郁 とは説を異にす。巍の言に曰 く、我が高皇帝、三代の公 に法 り、□秦 の陋 を洗い、諸王を分封 して、四裔 に藩屏 たらしめたまえり。然 れども之 を古制に比すれば封境過大にして、諸王又率 ね驕逸 不法なり。削らざれば則 ち朝廷の紀綱立たず。之を削れば親 を親 むの恩を傷 る。賈誼 曰く、天下の治安を欲 するは、衆 く諸侯を建てゝ其 力を少 くするに若 くは無しと。臣愚 謂 えらく、今宜 しく其 意 を師とすべし、晁錯 が削奪の策を施す勿 れ、主父偃 が推恩の令 に効 うべし。西北諸王の子弟は、東南に分封し、東南諸王の子弟は、西北に分封し、其地を小にし、其城を大にし、以て其力を分たば、藩王の権 は、削らずして弱からん。臣又願わくは陛下益々 親親 の礼を隆 んにし、歳時 伏臘 、使問 絶えず、賢者は詔を下して褒賞 し、不法者は初犯は之を宥 し、再犯は之を赦 し、三犯 改めざれば、則ち太廟 に告げて、地を削り、之を廃処せんに、豈 服順せざる者あらんやと。帝之 を然 なりとは聞召 したりけれど、勢 既に定まりて、削奪の議を取る者のみ充満 ちたりければ、高巍 の説も用いられて已 みぬ。
建文元年二月、諸王に詔 りして、文武の吏士 を節制し、官制を更定 するを得ざらしむ。此 も諸藩を抑うるの一なりけり。夏四月西平侯 沐晟 、岷王 梗 の不法の事を奏す。よって其の護衛を削り、其の指揮宗麟 を誅 し、王を廃して庶人となす。又湘王 柏 偽 りて鈔 を造り、及び擅 に人を殺すを以て、勅 を降 して之を責め、兵を遣 って執 えしむ。湘王もと膂力 ありて気を負う。曰く、吾 聞く、前代の大臣の吏に下さるゝや、多く自ら引決すと。身は高皇帝の子にして、南面して王となる、豈 能 く僕隷 の手に辱 しめられて生活を求めんやと。遂 に宮 を闔 じて自ら焚死 す。斉王 榑 もまた人の告ぐるところとなり、廃せられて庶人となり、代王桂 もまた終 に廃せられて庶人となり、大同 に幽せらる。
燕王は初 より朝野の注目せるところとなり、且 は威望材力も群を抜けるなり、又其 の終 に天子たるべきを期するものも有るなり、又私 に異人術士を養い、勇士勁卒 をも蓄 え居 れるなり、人も疑い、己 も危ぶみ、朝廷と燕と竟 に両立する能 わざらんとするの勢あり。されば三十一年の秋、周王※ [#「木+肅」、UCS-6A5A、282-3]の執 えらるゝを見て、燕王は遂に壮士 を簡 みて護衛となし、極めて警戒を厳にしたり。されども斉泰黄子澄に在りては、もとより燕王を容 す能わず。たま/\北辺に寇警 ありしを機とし、防辺を名となし、燕藩の護衛の兵を調して塞 を出 でしめ、其の羽翼 を去りて、其の咽喉 を扼 せんとし、乃 ち工部侍郎 張□ をもて北平左布政使 となし、謝貴 を以 て都指揮使 となし、燕王の動静を察せしめ、巍国公 徐輝祖 、曹国公 李景隆 をして、謀 を協 せて燕を図 らしむ。
建文元年正月、燕王長史 葛誠 をして入って事を奏せしむ。誠 、帝の為 に具 に燕邸 の実を告ぐ。こゝに於 て誠を遣 りて燕に還 らしめ、内応を為 さしむ。燕王覚 って之に備うるあり。二月に至り、燕王入覲 す。皇道 を行きて入り、陛に登りて拝せざる等、不敬の事ありしかば、監察御史 曾鳳韶 これを劾 せしが、帝曰く、至親 問う勿 れと。戸部侍郎 卓敬 、先に書を上 って藩を抑え禍 を防がんことを言う。復 密奏して曰く、燕王は智慮人に過ぐ、而して其の拠る所の北平 は、形勝の地にして、士馬 精強に、金 元 の由って興るところなり、今宜 しく封 を南昌 に徒 したもうべし。然 らば則 ち万一の変あるも控制 し易 しと、帝敬 に対 えたまわく、燕王は骨肉至親なり、何ぞ此 に及ぶことあらんやと。敬曰く、隋 文揚広 は父子にあらずやと。敬の言実に然り。揚広は子を以てだに父を弑 す。燕王の傲慢 なる、何をか為 さゞらん。敬の言、敦厚 を欠き、帝の意、醇正 に近しと雖 も、世相の険悪にして、人情の陰毒なる、悲 む可 きかな、敬の言却 って実に切なり。然れども帝黙然たること良 久しくして曰く、卿 休せよと。三月に至って燕王国に還 る。都御史 暴昭 、燕邸 の事を密偵して奏するあり。北平の按察使 僉事 の湯宗 、按察使 陳瑛 が燕の金 を受けて燕の為に謀ることを劾 するあり。よって瑛 を逮捕し、都督宗忠 をして兵三万を率 い、及び燕王府の護衛の精鋭を忠の麾下 に隷 し、開平 に屯 して、名を辺に備うるに藉 り、都督の耿※ [#「王+獻」、UCS-74DB、284-4]に命じて兵を山海関 に練り、徐凱 をして兵を臨清 に練り、密 に張□ 謝貴 に勅して、厳に北平 の動揺を監視しせしむ。燕王此の勢を視 、国に帰れるより疾 に托 して出でず、之 を久しゅうして遂に疾 篤 しと称し、以て一時の視聴を避 けんとせり。されども水あるところ湿気無き能 わず、火あるところは燥気 無き能わず、六月に至りて燕山の護衛百戸倪諒 というもの変を上 り、燕の官校于 諒周鐸 等 の陰事を告げゝれば、二人は逮 えられて京 に至り、罪明らかにして誅 せられぬ。こゝに於て事 燕王に及ばざる能わず、詔 ありて燕王を責む。燕王弁疏 する能わざるところありけん、佯 りて狂となり、号呼疾走して、市中の民家に酒食 を奪い、乱語妄言、人を驚かして省みず、或 は土壌に臥 して、時を経 れど覚めず、全く常を失えるものゝ如 し。張□ 謝貴 の二人、入りて疾 を問うに、時まさに盛夏に属するに、王は爐 を囲み、身を顫 わせて、寒きこと甚 しと曰 い、宮中をさえ杖 つきて行く。されば燕王まことに狂したりと謂 う者もあり、朝廷も稍 これを信ぜんとするに至りけるが、葛誠 ひそかに□と貴とに告げて、燕王の狂は、一時の急を緩 くして、後日の計 に便にせんまでの詐 に過ぎず、本 より恙無 きのみ、と知らせたり。たま/\燕王の護衛百戸の□庸 というもの、闕 に詣 り事を奏したりけるを、斉泰請 いて執 えて鞠問 しけるに、王が将 に兵を挙げんとするの状をば逐一に白 したり。
待設 けたる斉泰は、たゞちに符を発し使 を遣わし、往 いて燕府の官属を逮捕せしめ、密 に謝貴 張□ をして、燕府に在りて内応を約せる長史 葛誠 、指揮 盧振 と気脈を通ぜしめ、北平都指揮 張信 というものゝ、燕王の信任するところとなるを利し、密勅を下して、急に燕王を執 えしむ。信 は命を受けて憂懼 為 すところを知らず、情誼 を思えば燕王に負 くに忍びず、勅命を重んずれば私恩を論ずる能 わず、進退両難にして、行止 ともに艱 く、左思右慮 、心終 に決する能わねば、苦悶 の色は面にもあらわれたり。信が母疑いて、何事のあればにや、汝 の深憂太息することよ、と詰 り問う。信是非に及ばず、事の始末を告ぐれば、母大 に驚いて曰く、不可なり、汝が父の興 、毎 に言えり王気 燕に在りと、それ王者は死せず、燕王は汝の能 く擒 にするところにあらざるなり、燕王に負 いて家を滅することなかれと。信愈々 惑 いて決せざりしに、勅使信を促すこと急なりければ、信遂 に怒って曰く、何ぞ太甚 しきやと。乃 ち意を決して燕邸に造 る。造ること三たびすれども、燕王疑いて而して辞し、入ることを得ず。信婦人の車に乗じ、径 ちに門に至りて見 ゆることを求め、ようやく召入 れらる。されども燕王猶 疾 を装いて言 わず。信曰く、殿下爾 したもう無かれ、まことに事あらば当 に臣に告げたもうべし、殿下もし情 を以て臣に語りたまわずば、上命あり、当 に執 われに就きたもうべし、如 し意あらば臣に諱 みたもう勿 れと。燕王信の誠 あるを見、席を下りて信を拝して曰く、我が一家を生かすものは子 なりと。信つぶさに朝廷の燕を図るの状を告ぐ。形勢は急転直下せり。事態は既に決裂せり。燕王は道衍 を召して、将 に大事を挙 げんとす。
天耶 、時 耶、燕王の胸中颶母 まさに動いて、黒雲 飛ばんと欲し、張玉 、朱能 等 の猛将梟雄 、眼底紫電閃 いて、雷火発せんとす。燕府 を挙 って殺気陰森 たるに際し、天も亦 応ぜるか、時抑 至れるか、□風 暴雨卒然として大 に起りぬ。蓬々 として始まり、号々として怒り、奔騰狂転せる風は、沛然 として至り、澎然 として瀉 ぎ、猛打乱撃するの雨と伴 なって、乾坤 を震撼 し、樹石 を動盪 しぬ。燕王の宮殿堅牢 ならざるにあらざるも、風雨の力大にして、高閣の簷瓦 吹かれて空 に飄 り、□然 として地に堕 ちて粉砕したり。大事を挙げんとするに臨みて、これ何の兆 ぞ。さすがの燕王も心に之を悪 みて色懌 ばず、風声雨声、竹折るゝ声、樹 裂くる声、物凄 じき天地を睥睨 して、惨として隻語無く、王の左右もまた粛 として言 わず。時に道衍 少しも驚かず、あな喜ばしの祥兆 や、と白 す。本 より此 の異僧道衍は、死生禍福の岐 に惑うが如き未達 の者にはあらず、膽 に毛も生 いたるべき不敵の逸物 なれば、さきに燕王を勧めて事を起さしめんとしける時、燕王、彼は天子なり、民心の彼に向うを奈何 、とありけるに、昂然 として答えて、臣は天道を知る、何ぞ民心を論ぜん、と云いけるほどの豪傑なり。されども風雨簷瓦 を堕 す。時に取っての祥 とも覚えられぬを、あな喜ばしの祥兆といえるは、余りに強言 に聞えければ、燕王も堪 えかねて、和尚 何というぞや、いずくにか祥兆たるを得る、と口を突いてそゞろぎ罵 る。道衍騒がず、殿下聞 しめさずや、飛龍天に在れば、従うに風雨を以 てすと申す、瓦 墜 ちて砕けぬ、これ黄屋 に易 るべきのみ、と泰然として対 えければ、王も頓 に眉 を開いて悦 び、衆将も皆どよめき立って勇みぬ。彼 邦 の制、天子の屋 は、葺 くに黄瓦 を以てす、旧瓦は用無し、まさに黄なるに易 るべし、といえる道衍が一語は、時に取っての活人剣、燕王宮中の士気をして、勃然 凛然 、糾々然 、直 にまさに天下を呑 まんとするの勢 をなさしめぬ。
燕王は護衛指揮張玉朱能等をして壮士八百人をして入って衛 らしめぬ。矢石 未 だ交 るに至らざるも、刀鎗 既に互 に鳴る。都指揮使謝貴 は七衛 の兵、并 びに屯田 の軍士を率いて王城を囲み、木柵 を以て端礼門 等の路 を断ちぬ。朝廷よりは燕王の爵を削るの詔 、及び王府の官属を逮 うべきの詔至りぬ。秋七月布政使 張□ 、謝貴 と与 に士卒を督して皆 甲せしめ、燕府を囲んで、朝命により逮捕せらるべき王府の官属を交付せんことを求む。一言 の支吾 あらんには、巌石 鶏卵 を圧するの勢を以て臨まんとするの状を為 し、□貴 の軍の殺気の迸 るところ、箭 をば放って府内に達するものすら有りたり。燕王謀って曰く、吾が兵は甚だ寡 く、彼の軍は甚だ多し、奈何 せんと。朱能進んで曰く、先 ず張□謝貴を除かば、余 は能 く為す無き也と。王曰く、よし、□貴 を擒 にせんと。壬申 の日、王、疾 癒 えぬと称し、東殿 に出で、官僚の賀を受け、人をして□と貴とを召さしむ。二人応ぜず。復 内官を遣 して、逮 わるべき者を交付するを装う。二人乃 ち至る。衛士甚だ衆 かりしも、門者呵 して之 を止 め、□と貴とのみを入る。□と貴との入るや、燕王は杖 を曳 いて坐 し、宴を賜い酒を行 り宝盤に瓜 を盛って出 す。王曰く、たま/\新瓜 を進むる者あり、卿 等 と之を嘗 みんと。自ら一瓜 を手にしけるが、忽 にして色を作 して詈 って曰く、今世間の小民だに、兄弟宗族 、尚 相 互 に恤 ぶ、身は天子の親属たり、而 も旦夕 に其命 を安んずること無し、県官の我を待つこと此 の如し、天下何事か為す可 からざらんや、と奮然として瓜を地に擲 てば、護衛の軍士皆激怒して、前 んで□と貴とを擒 え、かねて朝廷に内通せる葛誠 盧振 等 を殿下に取って押 えたり。王こゝに於 て杖を投じて起 って曰く、我何ぞ病まん、奸臣 に迫らるゝ耳 、とて遂に□貴等を斬 る。□貴等の将士、二人が時を移して還 らざるを見、始 は疑い、後 は覚 りて、各 散じ去る。王城を囲める者も、首脳已 に無くなりて、手足 力無く、其兵おのずから潰 えたり。張□ が部下北平都指揮 の彭二 、憤慨已 む能 わず、馬を躍らして大 に市中に呼 わって曰く、燕王反せり、我に従って朝廷の為に力を尽すものは賞あらんと。兵千余人を得て端礼門 に殺到す。燕王の勇卒□来興 、丁勝 の二人、彭二を殺しければ、其兵も亦 散じぬ。此 勢 に乗ぜよやと、張玉、朱能等、いずれも塞北 に転戦して元兵 と相 馳駆 し、千軍万馬の間に老い来 れる者なれば、兵を率いて夜に乗じて突いて出で、黎明 に至るまでに九つの門の其八を奪い、たゞ一つ下らざりし西直門 をも、好言を以て守者を散ぜしめぬ。北平既に全く燕王の手に落ちしかば、都指揮使の余□ は、走って居庸関 を守り、馬宣 は東して薊州 に走り、宋忠 は開平 より兵三万を率いて居庸関に至りしが、敢 て進まずして、退いて懐来 を保ちたり。
煙は旺 んにして火は遂に熾 えたり、剣 は抜かれて血は既に流されたり。燕王は堂々として旗を進め馬を出しぬ。天子の正朔 を奉ぜず、敢 て建文の年号を去って、洪武三十二年と称し、道衍 を帷幄 の謀師とし、金忠 を紀善 として機密に参ぜしめ、張玉、朱能、丘福 を都指揮僉事 とし、張□部下にして内通せる李友直 を布政司 参議 と為 し、乃 ち令を下して諭して曰く、予は太祖高皇帝の子なり、今奸臣 の為に謀害せらる。祖訓に云 わく、朝 に正臣無く、内に奸逆 あれば、必ず兵を挙げて誅討 し、以 て君側の悪を清めよと。こゝに爾 将士を率いて之を誅せんとす。罪人既に得ば、周公の成王 を輔 くるに法 とらん。爾 等 それ予が心を体せよと。一面には是 の如くに将士に宣言し、又一面には書を帝に上 りて曰く、皇考太祖高皇帝、百戦して天下を定め、帝業を成し、之を万世に伝えんとして、諸子を封建したまい、宗社を鞏固 にして、盤石の計を為 したまえり。然 るに奸臣 斉泰 黄子澄 、禍心を包蔵し、※ [#「木+肅」、UCS-6A5A、292-11]、榑 、栢 、桂 、□ の五弟、数年ならずして、並びに削奪 せられぬ、栢 や尤 憫 むべし、闔室 みずから焚 く、聖仁上 に在り、胡 ぞ寧 ぞ此 に忍ばん。蓋 陛下の心に非ず、実に奸臣の為 す所ならん。心尚 未 だ足らずとし、又以て臣に加う。臣藩 を燕に守ること二十余年、寅 み畏 れて小心にし、法を奉じ分 に循 う。誠に君臣の大分 、骨肉の至親なるを以て、恒 に思いて慎 を加う。而 るに奸臣跋扈 し、禍を無辜 に加え、臣が事を奏するの人を執 えて、※楚 [#「※[#「竹かんむり/垂」、UCS-7BA0、293-5][#「竹かんむり/垂」、UCS-7BA0、293-5]楚」は底本では「※[#「竹かんむり/「垂」の「ノ」の下に「一」を加える」、293-5]楚」]。刺※ [#「執/糸」、UCS-7E36、293-5]し、備 さに苦毒を極め、迫りて臣不軌 を謀ると言わしめ、遂に宋忠、謝貴、張□等を北平城の内外に分ち、甲馬は街衢 に馳突 し、鉦鼓 は遠邇 に喧鞠 し、臣が府を囲み守る。已 にして護衛の人、貴□ を執 え、始めて奸臣欺詐 の謀を知りぬ。窃 に念 うに臣の孝康 皇帝に於 けるは、同父母兄弟なり、今陛下に事 うるは天に事うるが如きなり。譬 えば大樹を伐 るに、先ず附枝 を剪 るが如し、親藩既に滅びなば、朝廷孤立し、奸臣志を得んには、社稷 危 からん。臣伏 して祖訓を覩 るに云 えることあり、朝 に正臣無く、内に奸悪あらば、則 ち親王兵を訓して命を待ち、天子密 かに諸王に詔 し、鎮兵を統領して之を討平せしむと。臣謹んで俯伏 して命を俟 つ、と言辞を飾り、情理を綺 えてぞ奏しける。道衍少 きより学を好み詩を工 にし、高啓 と友とし善 く、宋濂 にも推奨 され、逃虚子集 十巻を世に留めしほどの文才あるものなれば、道衍や筆を執りけん、或 は又金忠の輩や詞 を綴 りけん、いずれにせよ、柔を外にして剛を懐 き、己 を護 りて人を責むる、いと力ある文字なり。卒然として此 書 のみを読めば、王に理ありて帝に理なく、帝に情 無くして王に情あるが如く、祖霊も民意も、帝を去り王に就く可 きを覚ゆ。されども擅 に謝張を殺し、妄 に年号を去る、何ぞ法を奉ずると云わんや。後苑 に軍器を作り、密室に機謀を錬る、これ分 に循 うにあらず。君側の奸を掃 わんとすと云うと雖 も、詔無くして兵を起し、威を恣 にして地を掠 む。其 辞 は則 ち可なるも、其実は則ち非なり。飜って思うに斉泰黄子澄の輩の、必ず諸王を削奪せんとするも、亦 理に於て欠け、情に於て薄し。夫 れ諸王を重封せるは、太祖の意に出づ。諸王未だ必ずしも反せざるに、先ず諸王を削奪せんとするの意を懐 いて諸王に臨むは、上 は太祖の意を壊 り、下 は宗室の親 を破るなり。三年父の志を改めざるは、孝というべし。太祖崩じて、抔土 未だ乾 かず、直 に其意を破り、諸王を削奪せんとするは、是 れ理に於 て欠け情に於て薄きものにあらずして何ぞや。斉黄の輩の為さんとするところ是 の如くなれば、燕王等手を袖にし息を屏 くるも亦 削奪罪責を免 かれざらんとす。太祖の血を承 けて、英雄傑特の気象あるもの、いずくんぞ俛首 して寃 に服するに忍びんや。瓜 を投じて怒罵 するの語、其中に機関ありと雖 も、又尽 く偽詐 のみならず、本 より真情の人に逼 るに足るものあるなり。畢竟 両者各 理あり、各非理 ありて、争鬩 則 ち起り、各情 なく、各真情ありて、戦闘則ち生ぜるもの、今に於て誰 か能 く其の是非を判せんや。高巍 の説は、敦厚 悦 ぶ可 しと雖も、時既に晩 く、卓敬 の言は、明徹用いるに足ると雖も、勢回 し難く、朝旨の酷責すると、燕師 の暴起すると、実に互 に已 む能 わざるものありしなり。是れ所謂 数 なるものか、非 耶 。
燕王 の兵を起したる建文元年七月より、恵帝 の国を遜 りたる建文四年六月までは、烽烟 剣光 の史 にして、今一々之 を記するに懶 し。其 詳 を知らんとするものは、明史 及び明朝紀事本末 等 に就きて考うべし。今たゞ其概略 と燕王恵帝の性格風□ を知る可 きものとを記せん。燕王もと智勇天縦 、且 夙 に征戦に習う。洪武 二十三年、太祖 の命を奉じ、諸王と共に元族 を漠北 に征す。秦王 晋王 は怯 にして敢 て進まず、王将軍傅友徳 等を率いて北出し、□都山 に至り、其将乃児不花 を擒 にして還 る。太祖大 [#「大 」は底本では「大 い」]に喜び、此 より後屡 諸将を帥 いて出征せしむるに、毎次功ありて、威名大 に振 う。王既に兵を知り戦 に慣 る。加うるに道衍 ありて、機密に参し、張玉 、朱能 、丘福 ありて爪牙 と為 る。丘福は謀画 の才張玉に及ばずと雖 も、樸直 猛勇、深く敵陣に入りて敢戦死闘し、戦 終って功を献ずるや必ず人に後 る。古 の大樹 将軍の風あり。燕王をして、丘将軍の功は我之 を知る、と歎美 せしむるに至る。故に王の功臣を賞するに及びて、福其 首 たり、淇国公 に封 ぜらる。其 他 将士の鷙悍※雄 [#「敖/馬」、UCS-9A41、297-4]の者も、亦 甚 だ少 からず。燕王の大事を挙ぐるも、蓋 し胸算 あるなり。燕王の張□ 謝貴 を斬 って反を敢 てするや、郭資 を留 めて北平 を守らしめ、直 に師を出 して通州 を取り、先 ず薊州 を定めずんば、後顧の患 あらんと云 える張玉の言を用い、玉をして之を略せしめ、次 で夜襲して遵化 を降 す。此 皆開平 の東北の地なり。時に余□ 居庸関 を守る。王曰く、居庸は険隘 にして、北平の咽喉 也、敵此 に拠 るは、是 れ我が背 を拊 つなり、急に取らざる可からずと。乃 ち徐安 、鐘祥 等 をして□ を撃 って、懐来 に走らしむ。宗忠 懐来 に在 り 兵三万と号す。諸将之を撃つを難 んず。王曰く、彼衆 く、我寡 し、然 れども彼新 に集まる、其心未 だ一ならず、之を撃たば必 らず破れんと。精兵八千を率い、甲 を捲 き道を倍して進み、遂 に戦って克 ち、忠と□とを獲 て之を斬る。こゝに於 て諸州燕に降 る者多く、永平 、欒州 また燕に帰す。大寧 の都指揮 卜万 、松亭関 を出 で、沙河 に駐 まり、遵化を攻めんとす。兵十万と号し、勢 やゝ振う。燕王反間 を放ち、万の部将陳亨 、劉貞 をして万を縛し獄に下さしむ。
帝黄子澄の言を用い、長興侯 耿炳文 を大将軍とし、李堅 、寧忠 を副 えて北伐せしめ、又安陸侯 呉傑 、江陰侯 呉高 、都督 都指揮 盛庸 、潘忠 、楊松 、顧成 、徐凱 、李文 、陳暉 、平安 等 に命じ、諸道並び進みて、直 に北平を擣 かしむ。時に帝諸将士を誡 めたまわく、昔 蕭繹 、兵を挙げて京 に入らんとす、而 も其 下 に令して曰く、一門の内 自ら兵威を極むるは、不祥の極なりと。今爾 将士、燕王と対塁するも、務めて此 意 を体して、朕 をして叔父 を殺すの名あらしむるなかれと。(蕭繹 は梁 の孝元 皇帝なり。今梁書 を按 ずるに、此事を載せず。蓋 し元帝兵を挙げて賊を誅 し京 に入らんことを図る。時に河東 王誉 、帝に従わず、却 って帝の子方 等 を殺す。帝鮑泉 を遣 りて之を討たしめ、又王 僧弁 をして代って将たらしむ。帝は高祖武帝 の第七子にして、誉 は武帝の長子にして文選 の撰者 たる昭明太子 統 の第二子なり。一門の語、誉を征するの時に当りて発するか。)建文帝の仁柔 の性、宋襄 に近きものありというべし。それ燕王は叔父たりと雖 も、既に爵を削られて庶人たり、庶人にして兇器 を弄 し王師に抗す、其罪本 より誅戮 に当る。然 るに是 の如 きの令を出征の将士に下す。これ適 以 て軍旅の鋭 を殺 ぎ、貔貅 の胆 を小にするに過ぎざるのみ、智 なりという可 からず。燕王と戦うに及びて、官軍時に或 は勝つあるも、此 令あるを以 て、飛箭 長槍 、燕王を殪 すに至らず。然りと雖も、小人の過 や刻薄 、長者の過 や寛厚 、帝の過を観 て帝の人となりを知るべし。
八月耿炳文 等 兵三十万を率いて真定 に至り、徐凱 は兵十万を率いて河間 に駐 まる。炳文は老将にして、太祖創業の功臣なり。かつて張士誠 に当りて、長興 を守ること十年、大小数十戦、戦って勝たざる無く、終 に士誠をして志を逞 しくする能 わざらしめしを以て、太祖の功臣を榜列 するや、炳文を以て大将軍徐達 に付 して一等となす。後又、北は塞 を出でゝ元の遺族を破り、南は雲南 を征して蛮を平らげ、或 は陝西 に、或は蜀 に、旗幟 の向う所、毎 に功を成す。特 に洪武 の末に至っては、元勲宿将多く凋落 せるを以て、炳文は朝廷の重んずるところたり。今大兵を率いて北伐す、時に年六十五。樹 老いて材愈 堅く、将老いて軍益々 固し。然れども不幸にして先鋒 楊松、燕王の為 に不意を襲われて雄県 に死し、潘忠 到 り援 わんとして月漾橋 の伏兵に執 えられ、部将張保 敵に降りて其の利用するところとなり、遂に□沱河 の北岸に於 て、燕王及び張玉、朱能、譚淵 、馬雲 等 の為に大 に敗れて、李堅 、※忠 [#「宀/必/冉」、UCS-5BD7、300-11]、顧成 、劉燧 を失うに至れり。ただ炳文の陣に熟せる、大敗して而 も潰 えず、真定城 に入りて門を闔 じて堅く守る。燕兵勝 に乗じて城を囲む三日、下す能 わず。燕王も炳文が老将にして破り易 からざるを知り、囲 を解いて還 る。
炳文の一敗は猶 復すべし、帝炳文の敗を聞いて怒りて用いず、黄子澄 の言によりて、李景隆 を大将軍とし、斧鉞 を賜 わって炳文に代らしめたもうに至って、大事ほとんど去りぬ。景隆は□袴 の子弟、趙括 の流 なればなり。趙括を挙げて廉頗 に代う。建文帝の位を保つ能わざる、兵戦上には実に此 に本づく。炳文の子□ [#「□」は底本では「※[#「王+「虞」の「呉」に代えて「僚のつくり-小」、301-7]」]は、帝の父懿文 太子の長女江都公主 を妻とす、□ [#「□」は底本では「※[#「王+「虞」の「呉」に代えて「僚のつくり-小」、301-7]」]父の復 用いられざるを憤ること甚 しかりしという。又□[#「□」は底本では「※[#「王+「虞」の「呉」に代えて「僚のつくり-小」、301-8]」]の弟※ [#「王+獻」、UCS-74DB、301-7]、遼東 の鎮守 呉高 、都指揮使 楊文 と与 に兵を率いて永平 を囲み、東より北平を動かさんとしたりという。二子の護国の意の誠なるも知るべし。それ勝敗は兵家の常なり。蘇東坡 が所謂 善 く奕 する者も日に勝って日に敗 るゝものなり。然るに一敗の故を以て、老将を退け、驕児 を挙ぐ。燕王手を拍 って笑って、李九江 は膏梁 の豎子 のみ、未だ嘗 て兵に習い陣を見ず、輙 ち予 うるに五十万の衆を以てす、是 自ら之 を坑 にする也 、と云えるもの、酷語といえども当らずんばあらず。炳文を召して回 らしめたる、まことに歎 ずべし。
景隆小字 は九江 、勲業あるにあらずして、大将軍となれる者は何ぞや。黄子澄、斉泰の薦 むるに因 るも、又別に所以 有るなり。景隆は李文忠 の子にして、文忠は太祖の姉の子にして且つ太祖の子となりしものなり。之に加うるに文忠は器量沈厚、学を好み経 を治め、其 の家居するや恂々 として儒者の如く、而 も甲を□ き馬に騎 り槊 を横たえて陣に臨むや、□□ 風発、大敵に遇 いて益 壮 に、年十九より軍に従いて数々 偉功を立て、創業の元勲として太祖の愛重 [#「愛重」は底本では「受重」]するところとなれるのみならず、西安 に水道を設けては人を利し、応天 に田租を減じては民を恵 み、誅戮 を少 くすることを勧め、宦官 を盛 [#ルビの「さか」は底本では「さかん」]んにすることを諫 め、洪武十五年、太祖日本懐良王 の書に激して之を討たんとせるを止 め、(懐良王、明史 に良懐に作るは蓋 し誤 也。懐良王は、後醍醐 帝の皇子、延元 三年、征西大将軍に任じ、筑紫 を鎮撫 す。菊池武光 等 之 に従い、興国 より正平 に及び、勢威大 に張る。明の太祖の辺海毎 に和寇 に擾 さるゝを怒りて洪武十四年、日本を征せんとするを以 て威嚇 するや、王答うるに書を以てす。其 略に曰く、乾坤 は浩蕩 たり、一主の独権にあらず、宇宙は寛洪 なり、諸邦を作 して以て分守す。蓋 し天下は天下の天下にして、一人の天下にあらざる也 。吾 聞く、天朝戦 を興 すの策ありと、小邦亦 敵を禦 ぐの図 あり。豈 肯 て途 に跪 いて之を奉ぜんや。之に順 うも未 だ其生 を必せず、之に逆 うも未だ其死を必せず、相 逢 う賀蘭山前 、聊 以 て博戯 せん、吾何をか懼 れんやと。太祖書を得て慍 ること甚だしく、真 に兵を加えんとするの意を起したるなり。洪武十四年は我が南朝弘和 元年に当る。時に王既に今川了俊 の為に圧迫せられて衰勢に陥り、征西将軍の職を後村上帝 [#「後村上帝」は底本では「御村上帝」]の皇子良成 王に譲り、筑後 矢部 に閑居し、読経礼仏を事として、兵政の務 をば執りたまわず、年代齟齬 [#「齟齬」は底本では「齬齟」]するに似たり。然れども王と明 との交渉は夙 に正平の末より起りしことなれば、王の裁断を以て答書ありしならん。此 事 我が国に史料全く欠け、大日本史 も亦載せずと雖も、彼の史にして彼の威を損ずるの事を記す、決して無根の浮譚 にあらず。)一個 優秀の風格、多く得 可 からざるの人なり。洪武十七年、疾 を得て死するや、太祖親しく文を為 りて祭 を致し、岐陽王 に追封し、武靖 と諡 し、太廟 に配享 したり。景隆は是 の如き人の長子にして、其父の蓋世 の武勲と、帝室の親眷 との関係よりして、斉黄の薦むるところ、建文の任ずるところとなりて、五十万の大軍を統 ぶるには至りしなり。景隆は長身にして眉目疎秀 、雍容都雅 、顧盻偉然 、卒爾 に之を望めば大人物の如くなりしかば、屡 出 でゝ軍を湖広 陝西 河南 に練り、左軍都督府事 となりたるほかには、為 すところも無く、其 功としては周王 を執 えしのみに過ぎざれど、帝をはじめ大臣等これを大器としたりならん、然れども虎皮 にして羊質 、所謂 治世の好将軍にして、戦場の真豪傑にあらず、血を※ [#「足へん+諜のつくり」、UCS-8E40、305-1]み剣を揮 いて進み、創 を裹 み歯を切 って闘 うが如き経験は、未 だ曾 て積まざりしなれば、燕王の笑って評せしもの、実に其 真を得たりしなり。
李景隆は大兵を率いて燕王を伐 たんと北上す。帝は猶 北方憂うるに足らずとして意 を文治に専らにし、儒臣方孝孺 等 と周官の法度 を討論して日を送る、此 間 に於て監察御史 韓郁 (韓郁或 は康郁 に作る)というもの時事を憂いて疏 を上 りぬ。其の意、黄子澄斉泰を非として、残酷の豎儒 となし、諸王は太祖の遺体なり、孝康 の手足 なりとなし、之 を待つことの厚からずして、周王湘 王代 王斉 王をして不幸ならしめたるは、朝廷の為 に計る者の過 にして、是れ則ち朝廷激して之を変ぜしめたるなりと為 し、諺 に曰 く、親者 之を割 けども断たず、疎者 之を続 げども堅 からずと、是 殊 に理有る也となし、燕の兵を挙ぐるに及びて、財を糜 し兵を損して而して功無きものは国に謀臣無きに近しとなし、願わくは斉王を釈 し、湘王を封 じ、周王を京師 に還 し、諸王世子 をして書を持し燕に勧め、干戈 を罷 め、親戚 を敦 うしたまえ、然らずんば臣愚 おもえらく十年を待たずして必ず噬臍 の悔 あらん、というに在 り。其の論、彝倫 を敦 くし、動乱を鎮 めんというは可なり、斉泰黄子澄を非とするも可なり、たゞ時既 に去り、勢 既に成るの後に於て、此 言あるも、嗚呼 亦晩 かりしなり。帝遂 に用いたまわず。
景隆の炳文 に代るや、燕王其の五十万の兵を恐れずして、其の五敗兆 を具せるを指摘し、我之 を擒 にせんのみ、と云い、諸将の言を用いずして、北平 を世子 に守らしめ、東に出でゝ、遼東 の江陰侯 呉高 を永平より逐 い、転じて大寧 に至りて之を抜き、寧 王を擁して関 に入る。景隆は燕王の大寧を攻めたるを聞き、師を帥 いて北進し、遂に北平を囲みたり。北平の李譲 、梁明 等 、世子 を奉じて防守甚だ力 むと雖 も、景隆が軍衆 くして、将も亦 雄傑なきにあらず、都督 瞿能 の如き、張掖門 に殺入して大 に威勇を奮い、城殆 ど破る。而 も景隆の器 の小なる、能の功を成すを喜ばず、大軍の至るを俟 ちて倶 に進めと令し、機に乗じて突至せず。是 に於て守る者便 を得、連夜水を汲 みて城壁に灌 げば、天寒くして忽 ち氷結し、明日に至れば復 登ることを得ざるが如きことありき。燕王は予 め景隆を吾が堅城の下に致して之を殱 さんことを期せしに、景隆既に□ に入り来 りぬ、何ぞ箭 を放たざらんや。大寧より還 りて会州 に至り、五軍を立てゝ、張玉を中軍に、朱能を左軍に、李彬 を右軍 に、徐忠 を前軍に、降将房寛 を後軍に将たらしめ、漸 く南下して京軍 と相対したり。十一月、京軍の先鋒 陳暉 、河を渡りて東す。燕王兵を率いて至り、河水の渡り難きを見て黙祷 して曰く、天若 し予を助けんには、河水氷結せよと。夜に至って氷果 して合す。燕の師勇躍して進み、暉 の軍を敗る。景隆の兵動く。燕王左右軍を放って夾撃 し、遂に連 りに其七営を破って景隆の営に逼 る。張玉等 も陣を列 ねて進むや、城中も亦 兵を出して、内外交 攻む。景隆支うる能 わずして遁 れ、諸軍も亦粮 を棄 てゝ奔 る。燕の諸将是 に於て頓首 して王の神算及ぶ可 からずと賀す。王曰 く、偶中 のみ、諸君の言えるところは皆万全の策なりしなりと。前には断じて後には謙 す。燕王が英雄の心を攬 るも巧 なりというべし。
景隆が大軍功無くして、退いて徳州 に屯す。黄子澄其 敗 を奏せざるを以 て、十二月に至って却 って景隆に太子 太師 を加う。燕王は南軍をして苦寒に際して奔命に疲れしめんが為に、師を出して広昌 を攻めて之を降す。
前に疏 を上 りて、諸藩を削るを諫 めたる高巍 は、言用いられず、事遂 に発して天下動乱に至りたるを慨 き、書を上 りて、臣願わくは燕に使 して言うところあらんと請い、許されて燕に至り、書を燕王に上 りたり。其 略に曰く、太祖 [#「太祖」は底本では「大祖」]升遐 したまいて意 わざりき大王と朝廷と隙 あらんとは。臣おもえらく干戈 を動かすは和解に若 かずと。願わくは死を度外に置きて、親しく大王に見 えん。昔周公流言を聞きては、即 ち位を避けて東に居 たまいき。若 し大王能 く首計 の者を斬 りたまい、護衛の兵を解き、子孫を質 にし、骨肉猜忌 の疑 を釈 き、残賊離間の口を塞 ぎたまわば、周公と隆 んなることを比すべきにあらずや。然 るを慮 こゝに及ばせたまわで、甲兵を興し彊宇 を襲いたもう。されば事に任ずる者、口に藉 くことを得て、殿下文臣を誅 することを仮りて実は漢の呉 王の七国に倡 えて晁錯 を誅せんとしゝに効 わんと欲したもうと申す。今大王北平に拠 りて数群を取りたもうと雖 も、数月 以来にして、尚 □爾 たる一隅の地を出 づる能わず、較 ぶるに天下を以てすれば、十五にして未だ其 一 をも有したまわず。大王の将士も、亦疲れずといわんや。それ大王の統 べたもう将士も、大約三十万には過ぎざらん。大王と天子と、義は則 ち君臣たり、親 は則ち骨肉たるも、尚 離れ間 たりたもう、三十万の異姓の士、など必ずしも終身困迫して殿下の為に死し申すべきや。巍 が念 こゝに至るごとに大王の為に流涕 せずんばあらざる也。願わくは大王臣が言 を信じ、上表 謝罪し、甲を按 き兵を休めたまわば、朝廷も必ず寛宥 あり、天人共に悦 びて、太祖在天の霊も亦 安んじたまわん。□ 迷 を執りて回 らず、小勝を恃 み、大義を忘れ、寡を以て衆に抗し、為 す可からざるの悖事 を僥倖 するを敢 てしたまわば、臣大王の為に言 すべきところを知らざる也 。況 んや、大喪の期未だ終らざるに、無辜 の民驚きを受く。仁を求め国を護 るの義と、逕庭 あるも亦 甚 し。大王に朝廷を粛清するの誠意おわすとも、天下に嫡統を簒奪 するの批議無きにあらじ。もし幸 にして大王敗れたまわずして功成りたまわば、後世の公論、大王を如何 の人と謂 い申すべきや。巍は白髪の書生、蜉蝣 の微命 、もとより死を畏 れず。洪武十七年、太祖高皇帝の御恩 を蒙 りて、臣が孝行を旌 したもうを辱 くす。巍既 に孝子たる、当 に忠臣たるべし。孝に死し忠に死するは巍の至願也。巍幸にして天下の為に死し、太祖在天の霊に見 ゆるを得ば、巍も亦以て愧 無かるべし。巍至誠至心、直語して諱 まず、尊厳を冒涜 す、死を賜うも悔 無し、願わくは大王今に於て再思したまえ。と憚 るところ無く白 しける。されど燕王答えたまわねば、数次 書を上 りけるが、皆効 無かりけり。
巍の書、人情の純、道理の正しきところより言を立つ。知らず燕王の此 に対して如何 の感を為せるを。たゞ燕王既に兵を起し戦 を開く、巍の言 善 しと雖も、大河既に決す、一葦 の支え難きが如し。しかも巍の誠を尽し志を致す、其意と其言 と、忠孝敦厚 の人たるに負 かず。数百歳の後、猶 読む者をして愴然 として感ずるあらしむ。魏と韓郁 とは、建文の時に於て、人情の純、道理の正 に拠りて、言 を為せる者也。
年は新 になりて建文二年となりぬ。燕 は洪武 三十三年と称す。燕王は正月の酷寒に乗じて、蔚州 を下し、大同 を攻む。景隆 師を出して之 を救わんとすれば、燕王は速く居庸関 より入りて北平 に還 り、景隆の軍、寒苦に悩み、奔命に疲れて、戦わずして自ら敗る。二月、韃靼 の兵来 りて燕を助く。蓋 し春暖に至れば景隆の来り戦わんことを慮 りて、燕王の請えるなり。春闌 にして、南軍勢 を生じぬ。四月朔 、景隆兵を徳州 に会す、郭英 、呉傑 は真定 に進みぬ。帝は巍国公 徐輝祖 をして、京軍 三万を帥 いて疾馳 して軍に会せしむ。景隆、郭英、呉傑等 、軍六十万を合 し、百万と号して白溝河 に次 す。南軍の将平安 驍勇 にして、嘗 て燕王に従いて塞北 に戦い、王の兵を用いるの虚実を識 る。先鋒 となりて燕に当り、矛 を揮 いて前 む。瞿能 父子も亦 踴躍して戦う。二将の向 う所、燕兵披靡 す。夜、燕王、張玉 を中軍に、朱能 を左軍に、陳亨 を右 軍に、丘福 を騎兵に将とし、馬歩 十余万、黎明 に畢 く河を渡る。南軍の瞿能父子、平安等、房寛 の陣を擣 いて之を破る。張玉等之 を見て懼色 あり。王曰く、勝負 は常事のみ、日中を過ぎずして必ず諸君の為 に敵を破らんと。既 ち精鋭数千を麾 いて敵の左翼に突入す。王の子高煦 、張玉等の軍を率いて斉 しく進む。両軍相争い、一進一退す、喊声 天に震い 飛矢 雨の如し。王の馬、三たび創 を被 り、三たび之を易 う。王善 く射る。射るところの箭 、三箙 皆尽く。乃 ち剣を提 げて、衆に先だちて敵に入り、左右奮撃す。剣鋒 折れ欠けて、撃 つに堪 えざるに至る。瞿能 と相 遇 う。幾 んど能の為に及ばる。王急に走りて□ に登り、佯 って鞭 を麾 いで、後継者を招くが如くして纔 に免 れ、而して復 衆を率いて馳 せて入る。平安善 く鎗刀 を用い、向う所敵無し。燕将陳亨 、安の為に斬られ、徐忠亦創 を被 る。高煦 急を見、精騎数千を帥 い、前 んで王と合 せんとす。瞿能 また猛襲し、大呼して曰く、燕を滅せんと。たま/\旋風突発して、南軍の大将の大旗を折る。南軍の将卒相 視 て驚き動く。王これに乗じ、勁騎 を以て繞 って其 後 に出で、突入馳撃 し、高煦の騎兵と合し、瞿能父子を乱軍の裏 に殺す。平安は朱能と戦って亦敗る。南将兪通淵 、勝聚 等 皆死す。燕兵勢に乗じて営に逼 り火を縦 つ。急風火を扇 る。是 に於 て南軍大 に潰 え、郭英 等 は西に奔 り、景隆は南に奔る。器械輜重 、皆燕の獲 るところとなり、南兵の横尸 百余里に及ぶ。所在の南師、聞く者皆解体す。此 戦 、軍を全くして退く者、徐輝祖 あるのみ。瞿能、平安等、驍将 無きにあらずと雖 も、景隆凡器にして将材にあらず。燕王父子、天縦 の豪雄に加うるに、張玉、朱能、丘福等の勇烈を以 てす。北軍の克 ち、南軍の潰 ゆる、まことに所以 ある也。
山東参政 鉄鉉 は儒生より身を起し、嘗 て疑獄を断じて太祖の知を受け、鼎石 という字 を賜わりたる者なり。北征の師の出 づるや、餉 を督して景隆の軍に赴かんとしけるに、景隆の師潰 えて、諸州の城堡 皆風 を望みて燕に下るに会い、臨邑 に次 りたるに、参軍高巍 の南帰するに遇 いたり。偕 に是 れ文臣なりと雖 も、今武事の日に当り、目前に官軍の大 に敗れて、賊威の熾 んに張るを見る、感憤何ぞ極まらん。巍は燕王に書を上 りしも効 無かりしを歎 ずれば、鉉は忠臣の節に死する少 きを憤る。慨世の哭 、憂国の涙、二人相 持 して、□然 として泣きしが、乃 ち酒を酌 みて同 に盟 い、死を以て自ら誓い、済南 に趨 りてこれを守りぬ。景隆は奔 りて済南に依 りぬ。燕王は勝 に乗じて諸将を進ましめぬ。燕兵の済南に至るに及びて、景隆尚 十余万の兵を有せしが、一戦に復 敗られて、単騎走り去りぬ。燕師の勢愈 旺 んにして城を屠 らんとす。鉄鉉、左都督 盛庸 、右都督 陳暉 等 と力を尽して捍 ぎ、志を堅うして守り、日を経 れど屈せず。事聞えて、鉉を山東布政司使 と為 し、盛庸を大将軍と為 し、陳暉を副将軍に陞 す。景隆は召還 されしが、黄子澄 、練子寧 は之を誅 せずんば何を以 て宗社 に謝し将士を励まさんと云 いしも、帝卒 に問いたまわず。燕王は済南を囲むこと三月に至り、遂 に下 すこと能 わず。乃 ち城外の諸渓 の水を堰 きて灌 ぎ、一城の士 を魚とせんとす。城中是 に於て大 に安んぜず。鉉曰く、懼 るゝ勿 れ、吾 に計ありと。千人を遣 りて詐 りて降 らしめ、燕王を迎えて城に入らしめ、予 て壮士を城上に伏せて、王の入るを侯 いて大鉄板を墜 して之 を撃ち、又別に伏 を設けて橋を断たしめんとす。燕王計 に陥り、馬に乗じ蓋 を張り、橋を渡り城に入る。大鉄板驟 に下る。たゞ少しく早きに失して、王の馬首を傷つく。王驚きて馬を易 えて馳 せて出 づ。橋を断たんとす。橋甚 だ堅 し。未 だ断つに及ばずして、王竟 に逸し去る。燕王幾 んど死して幸 に逃る。天助あるものゝ如し。王大 に怒り、巨※ [#「石+駁」、UCS-791F、316-5]を以て城を撃たしむ 城壁破れんとす。鉉愈 屈せず、太祖高皇帝の神牌 を書して城上に懸けしむ。燕王敢 て撃たしむる能 わず。鉉又数々 不意に出でゝ壮士をして燕兵を脅 かさしむ。燕王憤 ること甚 しけれども、計の出づるところ無し。道衍 書を馳 せて曰く、師老いたり、請う暫 らく北平に還 りて後挙を図りたまえと。王囲 を撤して還る。鉉と盛庸等 と勢に乗じて之を追い、遂に徳州を回復し、官軍大 に振う。鉉是 に於て擢 でられて兵部尚書 となり、盛庸は歴城侯 となりたり。
盛庸は初め耿炳文 に従い、次 で李景隆 に従いしが、洪武中より武官たりしを以て、兵馬の事に習う。済南の防禦 、徳州の回復に、其の材を認められて、平燕 将軍となり、陳暉 、平安 、馬溥 、徐真 等の上に立ち、呉傑 、徐凱 等と与 に燕を伐 つの任に当りぬ。庸乃 ち呉傑、平安をして西の方定州 を守らしめ、徐凱をして東の方滄州 に屯 せしめ、自ら徳州に駐 まり、猗角 の勢を為 して漸 く燕を蹙 めんとす。燕王、徳州の城の、修築已 に完 く、防備も亦厳にして破り難く、滄州の城の潰 え※ [#「土へん+己」、UCS-572E、317-6]るゝ[#「※ [#「土へん+己」、UCS-572E、317-6]るゝ」は底本では「※ [#「土へん+已」、317-6]るゝ」]こと久しくして破り易 きを思い、之 を下して庸の勢を殺 がんと欲す。乃 ち陽 に遼東 を征するを令して、徐凱をして備えざらしめ、天津 より直沽 に至り、俄 に河 に沿いて南下するを令す。軍士猶 知らず、其 の東を征せんとして而して南するを疑う。王厳命して疾行すること三百里、途 に偵騎 に遇 えば、尽 く之 を殺し、一昼夜にして暁 に比 びて滄州に至る。凱の燕師の到 れるを覚 りし時には、北卒四面より急攻す。滄州の衆皆驚きて防ぐ能 わず。張玉の肉薄して登るに及び、城遂 に抜かれ、凱と程暹 、兪□ 、趙滸 等皆獲 らる。これ実に此 年 十月なり。
十二月、燕王河に循 いて南す。盛庸兵を出して後を襲いしが及ばざりき。王遂に臨清 に至り、館陶 に屯 し、次 で大名府 を掠 め、転じて□上 に至り、済寧 を掠 めぬ。盛庸と鉄鉉とは兵を率いて其 後 を躡 み、東昌 に営したり。此 時 北軍却 って南に在 り南軍却って北に在り。北軍南軍相戦わざるを得ざるの勢 成りて東昌の激戦は遂に開かれぬ。初 は官軍の先鋒 孫霖 、燕将 朱栄 、劉江 の為 に敗れて走りしが、両軍持重 して、主力動かざること十日を越ゆ。燕師いよ/\東昌に至るに及んで、盛庸、鉄鉉牛 を宰して将士を犒 い、義を唱 え衆を励まし、東昌の府城を背にして陣し、密 に火器毒弩 を列 ねて、粛 として敵を待ったり。燕兵もと勇にして毎戦毎勝す。庸の軍を見るや鼓譟 して薄 る。火器電 の如 くに発し、毒弩雨の如く注げば、虎狼鴟梟 、皆傷ついて倒る。又平安 の兵の至るに会う。庸是 に於て兵を麾 いて大 に戦う。燕王精騎を率いて左翼を衝 く。左翼動かずして入る能わず。転じて中堅を衝 く。庸陣を開いて王の入るに縦 せ、急に閉じて厚く之を囲む。燕王衝撃甚 だ力 むれども出 づることを得ず、殆 んど其の獲 るところとならんとす。朱能 、周長 等、王の急を見、韃靼 騎兵を縦 って庸の軍の東北角を撃つ。庸之 を禦 がしめ、囲 やゝ緩 む。能 衝いて入って死戦して王を翼 けて出づ。張玉 も亦 王を救わんとし、王の已 に出でたるを知らず、庸の陣に突入し、縦横奮撃し、遂に悪闘して死す。官軍勝 に乗じ、残獲万余人、燕軍大 に敗れて奔 る。庸兵を縦 って之を追い、殺傷甚だ多し。此 役 や、燕王数々 危 し、諸将帝の詔 を奉ずるを以て、刃 を加えず。燕王も亦之 を知る。王騎射尤 も精 し、追う者王を斬 るを敢 てせずして、王の射て殺すところとなる多し。適々 高煦 、華衆 等を率いて至り、追兵を撃退して去る。
燕王張玉の死を聞きて痛哭 し、諸将と語るごとに、東昌 の事に及べば、曰く、張玉を失うより、吾 今に至って寝食安からずと。涕 下りて已 まず。諸将も皆泣く。後 功臣を賞するに及びて、張玉を第一とし、河間 王を追封 す。
初め燕王 の師の出 づるや、道衍 曰 く、師は行 いて必ず克 たん、たゞ両日を費 すのみと。東昌 より還 るに及びて、王多く精鋭を失い、張玉 を亡 うを以 て、意稍 休まんことを欲す。道衍曰く、両日は昌也 、東昌の事了 る、此 より全勝ならんのみと。益々 士を募り勢 を鼓 す。建文三年二月、燕王自ら文を撰 し、流涕 して陣亡の将士張玉等を祭り、服するところの袍 を脱して之 を焚 き、以て亡者 に衣 するの意をあらわし、曰く、其 れ一糸 と雖 もや、以て余が心を識 れと。将士の父兄子弟之 を見て、皆感泣して、王の為 に死せんと欲す。
燕王遂 に復 師を帥 いて出 づ。諸将士を諭 して曰く、戦 の道、死を懼 るゝ者は必ず死し、生 を捐 つる者は必ず生く、爾 等 努力せよと。三月、盛庸 と來河 に遇 う。燕将譚淵 、董中峰 等 、南将荘得 と戦って死し、南軍亦 荘得 、楚知 、張皀旗 等を失う。日暮れ、各 兵を斂 めて営に入る。燕王十余騎を以て庸の営に逼 って野宿 す。天明 く、四面皆敵なり。王従容 として去る。庸の諸将相 顧 みて愕 き□ るも、天子の詔、朕をして叔父 を殺すの名を負わしむる勿 れの語あるを以て、矢を発 つを敢 てせず。此 日 復 戦う。辰 より未 に至って、両軍互 に勝ち互に負く。忽 にして東北風大 に起り、砂礫 面 を撃つ。南軍は風に逆 い、北軍は風に乗ず。燕軍吶喊 鉦鼓 の声地を振 い、庸の軍当る能 わずして大 に敗れ走る。燕王戦罷 んで営に還 るに、塵土 満面、諸将も識 る能わず、語声を聞いて王なるを覚 りしという。王の黄埃 天に漲 るの中に在 って馳駆奔突 して叱□ 号令せしの状、察す可 きなり。
呉傑 、平安 は、盛庸 の軍を援 けんとして、真定 より兵を率いて出 でしが、及ばざること八十里にして庸の敗れしことを聞きて還りぬ。燕王、真定の攻め難きを以て、燕軍は回出して糧 を取り、営中備 無しと言わしめ、傑等を誘 う。傑等之を信じて、遂に□沱河 に出づ。王河 を渡り流 に沿いて行くこと二十里、傑の軍と藁城 に遇う。実に閏 三月己亥 なり。翌日大 に戦う。燕将薛禄 [#「薛禄」は底本では「薜禄」]、奮闘甚 だ力 む。王驍騎 を率いて、傑の軍に突入し、大呼猛撃す。南軍箭 を飛ばす雨の如 く、王の建つるところの旗、集矢 蝟毛 の如く、燕軍多く傷つく。而 も王猶 屈せず、衝撃愈 急なり。会 また暴□ 起り、樹 を抜 き屋 を飜 す。燕軍之に乗じ、傑等大 に潰 ゆ。燕兵追いて真定城下に至り、驍将 □□ 、陳□ 等を擒 にし、斬首 六万余級、尽 く軍資器械を得たり。王其 の旗を北平 に送り、世子 に諭 して曰く、善 く之 を蔵し、後世をして忘る勿 らしめよと。旗世子の許 に至る。時に降将 顧成 、坐 に在 りて之を見る。成は操舟 を業とする者より出づ。魁岸 勇偉、膂力 絶倫、満身の花文 、人を驚かして自ら異にす。太祖に従って、出入離れず。嘗 て太祖に随 って出でし時、巨舟 沙 に膠 して動かず。成即 便舟を負いて行きしことあり。鎮江 の戦 に、執 えられて縛 せらるゝや、勇躍して縛を断ち、刀 を持てる者を殺して脱帰し、直 に衆を導いて城を陥 しゝことあり。勇力察す可 し。後 戦功を以 って累進して将となり、蜀 を征し、雲南 を征し、諸蛮 を平らげ、雄名世に布 く。建文元年耿炳文 に従いて燕と戦う。炳文敗れて、成執 えらる。燕王自ら其 縛を解いて曰く、皇考の霊、汝 を以 て我に授くるなりと。因 って兵を挙ぐるの故を語る。成感激して心を帰 し、遂 に世子を輔 けて北平を守る。然 れども多く謀画 を致すのみにして、終 に兵に将として戦うを肯 んぜす、兵器を賜 うも亦 受けず。蓋 し中年以後、書を読んで得るあるに因 る。又一種の人なり。後 、太子高熾 の羣小 の為 に苦 めらるるや、告げて曰く、殿下は但 当 に誠を竭 して孝敬 に、孳々 として民を恤 みたもうべきのみ、万事は天に在り、小人は意を措 くに足らずと。識見亦高しというべし。成は是 の如き人なり。旗を見るや、愴然 として之を壮 とし、涙下りて曰く、臣少 きより軍に従いて今老いたり、戦陣を歴 たること多きも、未 だ嘗 て此 の如きを見ざるなりと。水滸伝 中の人の如き成をして此 言を為 さしむ、燕王も亦悪戦したりというべし。而して燕王の豪傑の心を攬 る所以 のもの、実に王の此 の勇往邁進 、艱危 を冒して肯 て避けざるの雄風 にあらずんばあらざる也。
四月、燕兵大名 に次 す。王、斉泰 と黄子澄 との斥 けらるゝを聞き、書を上 りて、呉傑 、盛庸 、平安 の衆を召還せられんことを乞 い、然 らずんば兵を釈 く能 わざるを言う。帝大理少卿 薛□ [#「薛□」は底本では「薜□」]を遣 りて、燕王及び諸将士の罪を赦 して、本国に帰らしむることを詔 し、燕軍を散ぜしめて、而して大軍を以 て其 後 に躡 かしめんとす。□ 到りて却 って燕王の機略威武の服するところとなり、帰って燕王の語直 にして意誠 なるを奏し、皇上権奸 を誅 し、天下の兵を散じたまわば、臣単騎 闕下 に至らんと、云える燕王の語を奏す。帝方孝孺 に語りたまわく、誠に□の言の如くならば、斉黄 我を誤るなりと。孝孺悪 みて曰く、□の言、燕の為 に游説 するなりと。五月、呉傑、平安、兵を発して北平の糧道を断つ。燕王、指揮 武勝 を遣 りて、朝廷兵を罷 むるを許したまいて、而して糧を絶ち北を攻めしめたもうは、前詔 と背馳 すと奏す。帝書を得て兵を罷 むるの意あり。方孝孺に語りたまわく、燕王は孝康 皇帝同産 の弟なり、朕 の叔父 なり、吾 他日宗廟 神霊に見 えざらんやと。孝孺曰く、兵一たび散すれば、急に聚 む可からず。彼長駆して闕 を犯さば、何を以て之 を禦 がん、陛下惑いたもうなかれと。勝 を錦衣獄 に下す。燕王聞 て大 に怒る。孝孺の言、真 に然 り、而して建文帝の情 、亦敦 しというべし。畢竟 南北相戦う、調停の事、復 為 す能わざるの勢 に在 り、今に於 て兵戈 の惨 を除かんとするも、五色 の石、聖手にあらざるよりは、之を錬 ること難きなり。
此 月 燕王指揮 李遠 をして軽騎六千を率いて徐沛 に詣 り、南軍の資糧を焚 かしむ。李遠、丘福 、薛禄 [#「薛禄」は底本では「薜緑」]と策応して、能 く功を収 め、糧船数万艘 、糧数百万を焚 く。軍資器械、倶 に□燼 となり、河水尽 く熱きに至る。京師これを聞きて大に震駭 す。
七月、平安 兵を率いて真定より北平に到り、平村 に営す。平村は城を距 る五十里のみ。燕王の世子 、危 きを告ぐ。王劉江 を召して策を問う。江乃 ち兵を率いて□沱 を渡り、旗幟 を張り、火炬 を挙げ、大 に軍容を壮 にして安と戦う。安の軍敗れ、安還 って真定に走る。
方孝孺の門人林嘉猷 、計 をもって燕王父子をして相 疑わしめんとす。計 行われずして已 む。
盛庸等、大同 の守将房昭 に檄 し、兵を引いて紫荊関 に入り、保定 の諸県を略し、兵を易州 の西水寨 に駐 め、険 に拠 りて持久の計を為 し、北平を窺 わしめんとす。燕王これを聞きて、保定失われんには北平危 しとて、遂 に令を下して師を班 す。八月より九月に至り、燕兵西水寨を攻め、十月真定の援兵を破り、併 せて寨を破る。房昭走りて免 る。
十一月、□馬都尉 梅殷 をして淮安 を鎮守 せしむ。殷は太祖の女 の寧国 公主 に尚 す。太祖の崩ぜんとするや、其の側 に侍して顧命を受けたる者は、実に帝と殷となり。太祖顧みて殷に語りたまわく、汝 老成忠信、幼主を託すべしと。誓書および遺詔を出して授けたまい、敢 て天に違 う者あらば、朕が為 に之 を伐 て、と言い訖 りて崩 れたまえるなり。燕の勢 漸 く大なるに及びて、諸将観望するもの多し。乃 ち淮南 の民を募り、軍士を合 して四十万と号し、殷に命じて之を統 べて、淮上 に駐 まり、燕師を扼 せしむ。燕王これを聞き、殷に書を遣 り、香 を金陵 に進むるを以て辞と為 す。殷答えて曰く、進香は皇考 禁あり、遵 う者は孝たり、遵 わざる者は不孝たり、とて使者の耳鼻 を割 き、峻厳 の語をもて斥 く。燕王怒ること甚 し。
燕王兵を起してより既に三年、戦 勝つと雖 も、得るところは永平 ・大寧 ・保定 にして、南軍出没して已 まず、得るもまた棄 つるに至ること多く、死傷少 からず。燕王こゝに於 て、太息 して曰く、頻年 兵を用い、何の時か已 む可 けん、まさに江に臨みて一決し、復 返顧せざらんと。時に京師 の内臣等、帝の厳 なるを怨 みて、燕王を戴 くに意ある者あり。燕に告ぐるに金陵の空虚を以てし、間 に乗じて疾進すべしと勧む。燕王遂に意を決して十二月に至りて北平を出づ。
四年正月、燕の先鋒 李遠、徳州 の裨将 葛進 を□沱河 に破り、朱能 もまた平安の将賈栄 等 を衡水 に破りて之 を擒 にす。燕王乃ち館陶 より渡りて、東阿 を攻め、□上 を攻め、沛県 を攻めて之を略し、遂に徐州 に進み、城兵を威 して敢 て出でざらしめて南行し、三月宿州 に至り、平安が馬歩兵 四万を率いて追躡 せるを□河 に破り、平安の麾下 の番将火耳灰 を得たり。此 戦 や火耳灰 □ を執 って燕王に逼 る、相 距 るたゞ十歩ばかり、童信 射って、其 馬に中 つ。馬倒れて王免 れ、火耳灰 獲 らる。王即便 火耳灰 を釈 し、当夜に入って宿衛 せしむ。諸将これを危 みて言 えども、王聴 かず。次 いで蕭県 を略し、淮河 の守兵を破る。四月平安小河 に営し、燕兵河北 に拠 る。総兵 何福 奮撃して、燕将陳文 を斬 り、平安勇戦して燕将王真 を囲む。真 身に十余創 を被 り、自ら馬上に刎 ぬ。安 いよいよ逼 りて、燕王に北坂 に遇 う。安の槊 ほとんど王に及ぶ。燕の番騎指揮 王騏 、馬を躍らせて突入し、王わずかに脱するを得たり。燕将張武 悪戦して敵を却 くと雖 も、燕軍遂に克 たず。是 に於て南軍は橋南 に駐 まり、北軍は橋北に駐まり、相 持 するもの数日、南軍糧 尽きて、蕪 を採って食う。燕王曰く、南軍飢 えたり、更に一二日にして糧 やゝ集まらば破り易からずと。乃 ち兵千余を留 めて橋を守らしめ、潜 に軍を移し、夜半に兵を渡らしめて繞 って敵の後 に出づ。時に徐輝祖 の軍至る。甲戌 大 に斉眉山 に戦う。午 より酉 に至りて、勝負 相 当 り、燕の驍将 李斌 死す。燕復 遂に克 つ能 わず。南軍再捷 して振 い、燕は陳文 、王真 、韓貴 、李斌等を失い、諸将皆懼 る。燕王に説いて曰く、軍深く入りたり、暑雨連綿として、淮土 湿蒸に、疾疫 漸 く冒さんとす。小河の東は、平野にして牛羊多く、二麦 まさに熟せんとす。河を渡り地を択 み、士馬を休息せしめ、隙 を観 て動くべきなりと。燕王曰く、兵の事は進 ありて退 無し。勝形成りて而して復 北に渡らば、将士解体せざらんや、公等の見る所は、拘攣 するのみと。乃 ち令を下して曰く、北せんとする者は左せよ、北せざらんとする者は右せよと。諸将多く左に趨 る。王大 に怒って曰く、公等みずから之を為 せと。此 時 や燕の軍の勢 、実に岌々乎 として将 に崩れんとするの危 に居 れり。孤軍長駆して深く敵地に入り、腹背左右、皆我が友たらざる也、北平は遼遠 にして、而 も本拠の四囲亦 皆敵たる也。燕の軍戦って克 てば則 ち可、克たずんば自ら支うる無き也。而 して当面の敵たる何福 は兵多くして力戦し、徐輝祖 は堅実にして隙 無く、平安 は驍勇 にして奇を出 す。我軍 は再戦して再挫 し、猛将多く亡びて、衆心疑懼 す。戦わんと欲すれば力足らず、帰らんとすれば前功尽 く廃 りて、不振の形勢新 に見 われんとす。将卒を強いて戦わしめんとすれば人心の乖離 、不測の変を生ずる無きを保 せず。諸将争って左するを見て王の怒るも亦 宜 なりというべし。然 れども此 時 の勢 、ただ退かざるあるのみ、燕王の衆意を容 れずして、敢然として奮戦せんと欲するもの、機を看 る明確、事を断ずる勇決、実に是 れ豪傑の気象、鉄石の心膓 を見 わせるものならずして何ぞや。時に坐 に朱能 あり、能は張玉 と共に初 より王の左右の手たり。諸将の中 に於て年最も少 しと雖 も、善戦有功、もとより人の敬服するところとなれるもの、身の長 八尺、年三十五、雄毅開豁 、孝友敦厚 の人たり。慨然として席を立ち、剣を按 じて右に趨 きて曰く、諸君乞 うらくは勉 めよ、昔漢高 は十たび戦って九たび敗れぬれど終 に天下を有したり、今事を挙げてより連 に勝 を得たるに、小挫 して輙 ち帰らば、更 に能 く北面して人に事 えんや。諸君雄豪誠実、豈 退心あるべけんや、と云いければ、諸将相 見 て敢 て言 うものあらず、全軍の心機 一転して、生死共に王に従わんとぞ決しける。朱能後 に龍州 に死して、東平王 に追封 せらるゝに至りしもの、豈 偶然ならんや。
燕軍の勢 非にして、王の甲 を解かざるもの数日なりと雖 も、将士の心は一にして兵気は善変せるに反し、南軍は再捷 すと雖も、兵気は悪変せり。天意とや云わん、時運とや云わん。燕軍の再敗せること京師に聞えければ、廷臣の中 に、燕今は且 に北に還 るべし、京師空虚なり、良将無かるべからず、と曰う者ありて、朝議徐輝祖 を召還 したもう。輝祖 已 むを得ずして京 に帰りければ、何福 の軍の勢 殺 げて、単糸 の□ 少 く、孤掌 の鳴り難き状を現わしぬ。加うるに南軍は北軍の騎兵の馳突 に備うる為に塹濠 を掘り、塁壁を作りて営と為 すを常としければ、軍兵休息の暇 少 く、往々虚 しく人力を耗 すの憾 ありて、士卒困罷 退屈の情あり。燕王の軍は塹塁 を為 らず、たゞ隊伍 を分布し、陣を列して門と為 す。故に将士は営に至れば、即 ち休息するを得、暇 あれば王射猟 して地勢を周覧し、禽 を得 れば将士に頒 ち、塁を抜くごとに悉 く獲 るところの財物を賚 う。南軍と北軍と、軍情おのずから異なること是 の如し。一は人役 に就 くを苦 み、一は人用 を為 すを楽 む。彼此 の差、勝敗に影響せずんばあらず。
かくて対塁 日を累 ぬる中 、南軍に糧餉 大 に至るの報あり。燕王悦 んで曰 く、敵必ず兵を分ちて之を護 らん、其の兵分れて勢弱きに乗じなば、如何 で能 く支えんや、と朱栄 、劉江 等 を遣 りて、軽騎を率いて、餉道 を截 らしめ、又游騎 をして樵採 を妨げ擾 さしむ。何福 乃 ち営を霊壁 に移す。南軍の糧五方、平安 馬歩 六万を帥 いて之を護 り、糧を負うものをして中 に居 らしむ。燕王壮士万人を分ちて敵の援兵を遮 らしめ、子高煦 をして兵を林間に伏せ、敵戦いて疲れなば出 でゝ撃つべしと命じ、躬 ずから師を率いて逆 え戦い、騎兵を両翼と為 す。平安軍を引いて突至し、燕兵千余を殺しゝも、王歩軍 を麾 いて縦撃 し、其 陣を横貫し、断って二となしゝかば、南軍遂 に乱れたり。何福等此 を見て安と合撃し、燕兵数千を殺して之 を却 けしが、高煦は南軍の罷 れたるを見、林間より突出し、新鋭の勢をもて打撃を加え、王は兵を還 して掩 い撃ちたり。是 に於 て南軍大 に敗れ、殺傷万余人、馬三千余匹を喪 い、糧餉 尽 く燕の師に獲 らる。福等は余衆を率いて営に入り、塁門を塞 ぎて堅守しけるが、福此 夜 令を下して、明旦 砲声三たびするを聞かば、囲 を突いて出で、糧に淮河 に就くべし、と示したり。然 るに此 も亦 天か命 か、其 翌日燕軍霊壁 の営を攻むるに当って、燕兵偶然三たび砲を放ったり。南軍誤って此 を我 砲となし、争って急に門に趨 きしが、元より我が号砲ならざれば、門は塞 がりたり。前者は出づることを得ず、後者は急に出でんとす。営中紛擾 し、人馬滾転 す。燕兵急に之を撃って、遂に営を破り、衝撃と包囲と共に敏捷 を極む。南軍こゝに至って大敗収む可 からず。宗垣 、陳性善 、彭与明 は死し、何福は遁 れ走り、陳暉 、平安 、馬溥 、徐真 、孫晟 、王貴 等、皆執 えらる。平安の俘 となるや、燕の軍中歓呼して地を動かす。曰く、吾等 此 より安きを獲 んと。争って安 を殺さんことを請う。安が数々 燕兵を破り、驍将 を斬 る数人なりしを以 てなり。燕王其の材勇を惜みて許さず。安に問いて曰く、□河 の戦 、公の馬躓 かずんば、何以 に我を遇せしぞと。安の曰く、殿下を刺すこと、朽 を拉 ぐが如くならんのみと。王太息して曰く、高皇帝、好 く壮士を養いたまえりと。勇卒を選みて、安を北平に送り、世子をして善 く之を視 せしむ。安後 永楽七年に至りて自殺す。安等を喪 いてより、南軍大 に衰う。黄子澄 、霊壁 の敗を聞き、胸を撫 して大慟 して曰く、大事去る、吾輩 万死、国を誤るの罪を贖 うに足らずと。
五月、燕兵泗州 に至る。守将周景初 降 る。燕の師進んで淮 に至る。盛庸 防ぐ能 わず、戦艦皆燕の獲 るところとなり、□□ 陥 れらる。燕王諸将の策を排して、直 に揚州 に趨 く。揚州の守将王礼 と弟宗 と、監察御史 王彬 を縛して門を開いて降 る。高郵 、通泰 、儀真 の諸城、亦 皆降り、北軍の艦船江上に往来し、旗鼓 天を蔽 うに至る。朝廷大臣、自ら全うするの計を為 して、復 立って争わんとする者無し。方孝孺 、地を割 きて燕に与え、敵の師を緩 うして、東南の募兵の至るを俟 たんとす。乃 ち慶城 郡主 を遣 りて和を議せしむ。郡主は燕王の従姉 なり。燕王聴 かずして曰く、皇考の分ちたまえる吾 地 も且 保つ能 わざらんとせり、何ぞ更に地を割 くを望まん、たゞ奸臣 を得るの後、孝陵 に謁 せんと。六月、燕師浦子口 に至る。盛庸等之を破る。帝都督 僉事 陳□ を遣りて舟師 を率いて庸を援 けしむるに、□却 って燕に降 り、舟を具 えて迎う。燕王乃ち江神 を祭り、師を誓わしめて江を渡る。舳艫 相 銜 みて、金鼓 大 に震 う。盛庸等海舟 に兵を列せるも、皆大 に驚き愕 く。燕王諸将を麾 き、鼓譟 して先登 す。庸の師潰 え、海舟皆其の得るところとなる。鎮江 の守将童俊 、為 す能わざるを覚りて燕に降る。帝、江上の海舟も敵の用を為 し、鎮江等諸城皆降るを聞きて、憂鬱 して計 を方孝孺に問う。孝孺民を駆 りて城に入れ、諸王をして門を守らしむ。李景隆 等 燕王に見 えて割地の事を説くも、王応ぜず。勢 いよ/\逼 る。群臣或 は帝に勧むるに淅 に幸 するを以てするあり、或 は湖湘 に幸するに若 かずとするあり。方孝孺堅く京 を守りて勤王 の師の来 り援 くるを待ち、事若 し急ならば、車駕 蜀 に幸 して、後挙を為さんことを請う。時に斉泰 は広徳 に奔 り、黄子澄は蘇州 に奔り、徴兵を促 す。蓋 し二人皆実務の才にあらず、兵を得る無し。子澄は海に航して兵を外洋に徴 さんとして果 さず。燕将劉保 、華聚 等 、終 に朝陽門 に至り、備 無きを覘 いて還りて報ず。燕王大 に喜び、兵を整えて進む。金川門 に至る。谷王 ※ [#「木+惠」、UCS-6A5E、337-8]と李景隆 と、金川門を守る。燕兵至るに及んで、遂 に門を開いて降る。魏国公 徐輝祖 屈せず、師を率いて迎え戦う。克 つ能 わず。朝廷文武皆倶 に降って燕王を迎う。
史を按 じて兵馬の事を記す、筆墨も亦 倦 みたり。燕王 事を挙げてより四年、遂 に其 志を得たり。天意か、人望か、数 か、勢 か、将又 理の応 に然 るべきものあるか。鄒公 瑾 等 十八人、殿前に於 て李景隆 を殴 って幾 ど死せしむるに至りしも、亦 益無きのみ。帝、金川門 の守 を失いしを知りて、天を仰いで長吁 し、東西に走り迷 いて、自殺せんとしたもう。明史 、恭閔恵 皇帝紀に記す、宮中火起り、帝終る所を知らずと。皇后馬氏 は火に赴いて死したもう。丙寅 、諸王及び文武の臣、燕王に位に即 かんことを請う。燕王辞すること再三、諸王羣臣 、頓首 して固く請う。王遂 に奉天殿 に詣 りて、皇帝の位に即く。
是 より先建文 中、道士ありて、途 に歌って曰 く、
燕 を逐 ふ莫 れ、
燕を逐ふ莫れ。
燕を逐へば、日に高く飛び、
高く飛びで、帝畿 に上 らん。
是 に至りて人其 言の応を知りぬ。燕王今は帝 たり、宮人内侍 を詰 りて、建文帝の所在を問いたもうに、皆馬 皇后の死したまえるところを指して応 う。乃 ち屍 を□燼中 より出して、之 を哭 し、翰林侍読 王景 を召して、葬礼まさに如何 すべき、と問いたもう。景対 えて曰く、天子の礼を以てしたもうべしと。之に従う。
建文帝の皇考 興宗孝康 皇帝の廟号 を去り、旧 の諡 に仍 りて、懿文 皇太子と号し、建文帝の弟呉王 允※ [#「火+通」、UCS-71A5、339-9]を降 して広沢王 とし、衛王 允※ [#「火+堅」、UCS-719E、339-9]を懐恩王 となし、除王 允□ を敷恵王 となし、尋 で復 庶人 と為 ししが、諸王後 皆其 死 を得ず。建文帝の少子 は中都 広安宮 に幽せられしが、後 終るところを知らず。
魏国公 徐輝祖 、獄に下さるれども屈せず、諸武臣皆帰附すれども、輝祖始終 帝を戴 くの意無し。帝大 に怒れども、元勲国舅 たるを以て誅 する能 わず、爵を削って之を私第 に幽するのみ。輝祖は開国の大功臣たる中山王 徐達 の子にして、雄毅 誠実、父達 の風骨あり。斉眉山 の戦 、大 に燕兵を破り、前後数戦、毎 に良将の名を辱 めず。其 姉は即 ち燕王の妃 にして、其弟増寿 は京師 に在りて常に燕の為 に国情を輸 せるも、輝祖独り毅然 として正しきに拠 る。端厳の性格、敬虔 の行為、良将とのみ云 わんや、有道の君子というべきなり。
兵部尚書 鉄鉉 、執 えられて京 に至る。廷中に背立して、帝に対 わず、正言して屈せず、遂に寸磔 せらる。死に至りて猶 罵 るを以 て、大□ に油熬 せらるゝに至る。参軍断事 高巍 、かつて曰く、忠に死し孝に死するは、臣の願 なりと。京城 破れて、駅舎に縊死 す。礼部尚書 陳廸 、刑部 尚書暴昭 、礼部侍郎 黄観 、蘇州 知府 姚善 、翰林 修譚 、王叔英 、翰林 王艮 、淅江 按察使 王良 、兵部郎中 譚冀 、御史 曾鳳韶 、谷府長史 劉□ 、其他数十百人、或 は屈せずして殺され、或は自死 して義を全くす。斉泰 、黄子澄 、皆執 えられ、屈せずして死す。右副都御史 練子寧 、縛 されて闕 に至る。語不遜 なり。帝大 に怒って、命じて其 舌を断 らしめ、曰く、吾 周公 の成王 を輔 くるに傚 わんと欲するのみと。子寧 手をもて舌血 を探り、地上に、成王 安在 の四字を大書 す。帝益 怒りて之を磔殺 し、宗族 棄市 せらるゝ者、一百五十一人なり。左僉都御史 景清 、詭 りて帰附し、恒 に利剣を衣中に伏せて、帝に報いんとす。八月望日、清緋衣 して入る。是 より先に霊台 奏す、文曲星 帝座を犯す急にして色赤しと。是 に於 て清の独り緋を衣 るを見て之を疑う。朝 畢 る。清 奮躍して駕 を犯さんとす。帝左右に命じて之を収めしむ。剣を得たり。清 志の遂 ぐべからざるを知り、植立 して大に罵 る。衆其 歯を抉 す。且 抉せられて且 罵り、血を含んで直 に御袍 に□ く。乃 ち命じて其 皮を剥 ぎ、長安門 に繋 ぎ、骨肉を砕磔 す。清帝の夢に入って剣を執って追いて御座を繞 る。帝覚 めて、清の族を赤 し郷 を籍 す。村里も墟 となるに至る。
戸部侍郎 卓敬 執 えらる。帝曰く、爾 前日諸王を裁抑 す、今復 我に臣たらざらんかと。敬曰く、先帝若 し敬が言に依 りたまわば、殿下豈 此 に至るを得たまわんやと。帝怒りて之を殺さんと欲す。而 も其 才を憐 みて獄に繋 ぎ、諷 するに管仲 ・魏徴 の事を以 てす。帝の意 、敬を用いんとする也 。敬たゞ涕泣 して可 かず。帝猶 殺すに忍びず。道衍 白 す、虎 を養うは患 を遺 すのみと。帝の意遂 に決す。敬刑せらるゝに臨みて、従容 として嘆じて曰く、変宗親 に起り、略経画 無し、敬死して余罪ありと。神色自若 たり。死して経宿 して、面 猶 生けるが如 し。三族を誅 し、其 家を没するに、家たゞ図書数巻のみ。卓敬と道衍と、故 より隙 ありしと雖 も、帝をして方孝孺 を殺さゞらしめんとしたりし道衍にして、帝をして敬を殺さしめんとす。敬の実用の才ありて浮文 の人にあらざるを看 るべし。建文の初 に当りて、燕を憂うるの諸臣、各 意見を立て奏疏 を上 る。中に就 て敬の言最も実に切なり。敬の言にして用いらるれば、燕王蓋 し志を得ざるのみ。万暦 に至りて、御史 屠叔方 奏して敬の墓を表し祠 を立つ。敬の著すところ、卓氏 遺書五十巻、予未 だ目を寓 せずと雖 も、管仲 魏徴 の事を以て諷 せられしの人、其の書必ず観 る可 きあらん。
卓敬 を容 るゝ能 わざりしも、方孝孺 を殺す勿 れと云 いし道衍 は如何 の人ぞや。眇 たる一山僧の身を以 て、燕王 を勧めて簒奪 を敢 てせしめ、定策決機 、皆みずから当り、臣 天命を知る、何 ぞ民意を問わん、というの豪懐 を以 て、天下を鼓動し簸盪 し、億兆を鳥飛 し獣奔 せしめて憚 らず、功成って少師 と呼ばれて名いわれざるに及んで、而 も蓄髪を命ぜらるれども肯 んぜず、邸第 を賜い、宮人 を賜われども、辞して皆受けず、冠帯して朝 すれども、退けば即 ち緇衣 、香烟茶味 、淡然として生を終り、栄国公 を贈 られ、葬 を賜わり、天子をして親 ずから神道碑 を製するに至らしむ。又一箇 の異人 というべし。魔王の如 く、道人 の如く、策士の如く、詩客 の如く、実に袁□ [#「袁□」は底本では「袁洪」]の所謂 異僧なり。其 の詠ずるところの雑詩の一に曰 く、
苦節は貞 くす可 からずの一句、易 の爻辞 の節の上六 に、苦節、貞 くすれば凶なり、とあるに本 づくと雖 も、口気おのずから是 道衍の一家言なり。況 んや易の貞凶 の貞は、貞固 の貞にあらずして、貞※ [#「毎+卜」、345-6]の貞とするの説無きにあらざるをや。伯夷量何ぞ隘 きというに至っては、古賢の言に拠 ると雖も、聖 の清 なる者に対して、忌憚 無きも亦 甚 しというべし。其 の擬古 の詩の一に曰く、
良辰 遇 ひ難きを念 ひて、
筵 を開き 綺戸 に当る。
会す 我が 同門の友、
言笑 一に何ぞ※ [#「月+無」、UCS-81B4、346-2]ある。
素絃 清 商 を発 し、
余響 樽爼 を繞 る。
緩舞 呉姫 出 で、
軽謳 越女 来 る。
但 欲 ふ 客 の※酔 [#「てへん+弃」、346-7]せんことを、
□籌 何 ぞ肯 て数へむ。
流年※ [#「犬/(犬+犬)」、UCS-730B、346-9]馳 を嘆く、
力有るも誰 か得て阻 めむ。
人生須 らく歓楽すべし、
長 に辛苦せしむる勿 れ。
擬古の詩、もとより直 に抒情 の作とす可 からずと雖 も、此 是 れ緇 を披 て香を焚 く仏門の人の吟ならんや。其 の北固山 を経て賦 せる懐古の詩というもの、今存するの詩集に見えずと雖も、僧宗□ 一読して、此 豈 釈子 の語ならんや、と曰 いしという。北固山は宋 の韓世忠 兵を伏せて、大 に金 の兀朮 を破るの処 たり。其詩また想 う可き也 。劉文 貞公 の墓を詠ずるの詩は、直 に自己の胸臆 を□ ぶ。文貞は即 ち秉忠 にして、袁□ [#「袁□」は底本では「袁洪」]の評せしが如く、道衍の燕 に於 けるは、秉忠の元 に於けるが如く、其の初 の僧たる、其の世に立って功を成せる、皆相 肖 たり。蓋 し道衍の秉忠に於けるは、岳飛 が関張 と比 しからんとし、諸葛亮 が管楽に擬したるが如く、思慕して而 して倣模 せるところありしなるべし。詩に曰く、
良驥 色 羣 に同じく、
至人迹 俗に混ず。
知己 苟 も遇 はざれば、
終世怨 み※ [#「讀+言」、UCS-8B9F、348-2]まず。
偉なる哉 蔵春公 や、
箪瓢 巌谷 に楽 む。
一朝 風雲 会す。
君臣 おのづから心腹 なり。
大業計 已 に成りて、
勲名簡牘 に照る。
身退 いて 即 ち長往し、
川流れて 去つて復 ること無し。
住城 百年の後 、
鬱々 たり 盧溝 の北。
松 楸 烟靄 青く、
翁仲 □蕪 緑なり。
強梁 も 敢 て犯さず、
何人 か 敢て樵 牧 せん。
王侯の 墓累々 たるも、
廃 すること 草宿 をも待たず。
惟 公 民望 に在 り、
天地と傾覆 を同じうす。
斯 人 作 す可 からず、
再拝して還 一哭 す。
蔵春は秉忠 の号なり。盧溝は燕の城南に在り。此 詩 劉文貞に傾倒すること甚 だ明らかに、其の高風大業を挙げ、而 して再拝一哭 すというに至る。性情行径 相 近 し、俳徊 感慨、まことに止 む能 わざるものありしならん。又別に、春日 劉太保 の墓に謁するの七律 あり。まことに思慕の切なるを証すというべし。東游 せんとして郷中 諸友 に別るゝの長詩に、
の句あり。身を竦 てゝの句、颯爽 悦 ぶ可 し。其 末 に、
江天 正に秋清く、
山水亦 容 を改む。
沙鳥 は 烟 の際 に白く、
嶼葉 は 霜の前に紅 なり。
といえる如 き、常套 の語なれども、また愛す可 し。古徳と同じゅうせんと欲するは、是 れ仮 にして、淮楚 浙東 に往来せるも、修行の為 なりしや游覧 の為なりしや知る可からず。然 れども詩情も亦 饒 き人たりしは疑う可からず。詩に於 ては陶淵明 を推 し、笠沢 の舟中 に陶詩 を読むの作あり、中 に淵明を学べる者を評して、
応物 は趣 頗 合 し、
子瞻 は 才 当るに足る。
と韋 、蘇 の二士を挙げ、其 他 の模倣者 を、
里婦 西 が顰 に効 ふ、
咲 ふ可し 醜 愈 張る。
と冷笑し、又公暇 に王維 、孟浩然 、韋応物 、柳子厚 の詩を読みて、四子 を賛する詩を為 せる如き、其の好む所の主とするところありて泛濫 ならざるを示せり。当時の詩人に於ては、高啓 を重んじ、交情また親しきものありしは、奉レ答二高季迪一 、寄二高編脩一 、賀二高啓生一レ子 、訪二高啓鍾山寓舎一辱二詩見一レ貽 、雪夜読二高啓詩一 等の詩に徴して知るべく、此 老の詩眼暗からざるを見る。逃虚集 十巻、続集一巻、詩精妙というにあらずと雖 も、時に逸気あり。今其集に就 て交友を考うるに、袁□ [#「袁□」は底本では「韋□」]と張天師 とは、最も親熟 するところなるが如く、贈遺 の什 甚 だ少 からず。□ と道衍とは本 より互 に知己たり。道衍又嘗 て道士席応真 を師として陰陽術数 の学を受く。因 って道家の旨 を知り、仙趣の微に通ず。詩集巻七 に、挽二席道士一 とあるもの、疑うらくは応真、若 [#ルビの「も」は底本では「もし」]しくは応真の族を悼 めるならん。張天師は道家の棟梁 たり、道衍の張を重んぜるも怪 むに足る無きなり。故友に於ては最も王達善 を親 む。故に其の寄二王助教達善一 の長詩の前半、自己の感慨行蔵 を叙 して忌 まず、道衍自伝として看 る可し。詩に曰く、
乾坤 果して何物ぞ、
開闔 古 より有り。
世を挙 って 孰 か客 に非 ざらん、
離会豈 偶 なりと云 はんや。
嗟 予 蓬蒿 の人、
鄙猥 林籔 に匿 る。
自 から慚 づ 駑蹇 の姿、
寧 ぞ学ばん 牛馬の走るを。
呉山 窈 くして而 して深し、
性を養ひて 老朽を甘んず。
且 木石と共に居 りて、
氷檗 と 志 堅く守りぬ。
人は云ふ鳳 枳 に栖 むと、
豈 同じからんや 魚の※ [#「网/卯」、354-11]に在 るに。
藜□ 我 腸 を充 し、
衣 蔽 れて 両肘 露 はる。
□龍 高位に在り、
誰 か来 りて 可否を問はん。
盤旋 す 草※ [#「くさかんむり/奔」、UCS-83BE、356-4]の間 に、
樵牧 日に相 叩 く。
嘯詠 寒山 に擬し、
惟 道を以て自負す。
忍びざりき 強ひて塗抹 して、
乞 媚 びて 里婦 に効 ふに。
山霊蔵 るゝことを容 さず、
辟歴 岡阜 を破りぬ。
門を出 でゝ 天日を睹 る、
行也 焉 にぞ 肯 て苟 もせん。
一挙して 即ち北に上 れば、
親藩 待つこと惟 久しかりき。
天地忽 ち 大変して、
神龍氷湫 より起る。
万方 共に忻 び躍 りて、
率土 元后 を戴 く。
吾 を召して 南京 に来らしめ、
爵賞加恩 厚し。
常時天眷 を荷 ふ、
愛に因 って 醜 を知らず。(下略)
嘯詠寒山 に擬すの句は、此 老 の行為に照 せば、矯飾 の言に近きを覚ゆれども、若 夫 れ知己に遇 わずんば、強項 の人、或 は呉山 に老朽を甘 んじて、一生世外 の衲子 たりしも、また知るべからず、未 だ遽 に虚高 の辞を為 すものと断ず可 からず。たゞ道衍の性の豪雄なる、嘯詠吟哦 、或 は獅子 の繍毬 を弄 して日を消するが如 くに、其 身を終ることは之 有るべし、寒山子 の如くに、蕭散閑曠 、塵表 に逍遙 して、其身を遺 るゝを得 可きや否 や、疑う可き也。□龍 高位に在りは建文帝をいう。山霊蔵するを容 さず以下数句、燕王 に召出 されしをいう。神龍氷湫より起るの句は、燕王崛起 の事をいう。道 い得て佳 なり。愛に因って醜を知らずの句は、知己の恩に感じて吾身 を世に徇 うるを言えるもの、亦 善 く標置 すというべし。
道衍 の一生を考うるに、其 の燕 を幇 けて簒 を成さしめし所以 のもの、栄名厚利の為 にあらざるが如 し。而 も名利 の為にせずんば、何を苦 んでか、紅血を民人に流さしめて、白帽を藩王に戴 かしめしぞ。道衍と建文帝 と、深仇 宿怨 あるにあらず、道衍と、燕王と大恩至交あるにもあらず。実に解す可 からざるある也 。道衍己 の偉功によって以 て仏道の為にすと云 わんか、仏道明朝 の為に圧逼 せらるゝありしに非 る也。燕王覬覦 の情 無き能 わざりしと雖 も、道衍の扇 を鼓 して火を煽 るにあらざれば、燕王未 だ必ずしも毒烟 猛[□ を揚げざるなり。道衍抑 又何の求むるあって、燕王をして決然として立たしめしや。王の事を挙ぐるの時、道衍の年や既に六十四五、呂尚 、范増 、皆老いて而 して後立つと雖 も、円頂黒衣の人を以て、諸行無常の教 を奉じ、而して落日暮雲の時に際し、逆天非理の兵を起さしむ。嗚呼 又解すべからずというべし。若 し強 いて道衍の為に解さば、惟 是 れ道衍が天に禀 くるの気と、自ら負 むの材と、※々 [#「くさかんむり/奔」、UCS-83BE、363-12]、蕩々 、糾々 、昂々 として、屈す可 からず、撓 む可からず、消 す可からず、抑 う可からざる者、燕王に遇 うに当って、□然 として破裂し、爆然として迸発 せるものというべき耶 、非 耶 。予其 の逃虚子集 を読むに、道衍が英雄豪傑の蹟 に感慨するもの多くして、仏灯 梵鐘 の間に幽潜するの情の少 きを思わずんばあらざるなり。
道衍の人となりの古怪なる、実に一沙門 を以て目す可からずと雖も、而 も文を好み道の為にするの情も、亦 偽 なりとなす可からず。此 故 に太祖 [#「太祖」は底本では「大祖」]実録 を重修 するや、衍 実に其 監修を為 し、又支那 ありてより以来の大編纂 たる永楽大典 の成れるも、衍実に解縉 等 と与 に之 を為 せるにて、是 れ皆文を好むの余 に出で、道余録 を著し、浄土簡要録 を著し、諸上善人詠 を著せるは、是れ皆道の為にせるに出 づ。史に記す。道衍晩 に道余録を著し、頗 る先儒を毀 る、識者これを鄙 しむ。其 の故郷の長州 に至るや、同産の姉を候 す、姉納 れず。其 友王賓 を訪 う、賓も亦 見 えず、但 遙 に語って曰く、和尚 誤れり、和尚誤れりと。復 往 いて姉を見る、姉これを詈 る。道衍惘然 たりと。道衍の姉、儒を奉じ仏 を斥 くるか、何ぞ婦女の見識に似ざるや。王賓は史に伝 無しと雖も、おもうに道衍が詩を寄せしところの王達善 ならんか。声を揚げて遙語 す、鄙 しむも亦甚 し。今道余録を読むに、姉と友との道衍を薄んじて之 を悪 むも、亦 過ぎたりというべし。道余録自序に曰く、余曩 に僧たりし時、元季 の兵乱に値 う。年三十に近くして、愚庵 の及 和尚に径山 に従って禅学を習う。暇 あれば内外の典籍を披閲 して以 て才識に資す。因って河南 の二程先生 の遺書と新安 の晦庵朱先生 の語録を観 る。(中略)三先生既に斯文 の宗主 、後学の師範たり、仏老 を※斥 [#「てへん+(嚢-口二つ)」、361-8]すというと雖も、必ず当 に理に拠 って至公無私なるべし、即 ち人心服せん。三先生多く仏書を探 らざるに因って仏 の底蘊 を知らず。一に私意を以て邪※ [#「言+皮」、UCS-8A56、361-10]の辞 を出して、枉抑 太 だ過ぎたり、世の人も心亦 多く平らかならず、況 んや其 学を宗 する者をやと。(下略)道余録は乃 ち程氏 遺書 の中の仏道を論ずるもの二十八条、朱子語録の中の同二十一条を目 して、極めて謬誕 なりと為 し、条を逐 い理に拠って一々剖柝 せるものなり。藁 成って巾笥 に蔵すること年ありて後、永楽十年十一月、自序を附して公刊す。今これを読むに、大抵 禅子の常談にして、別に他の奇無し。蓋 し明道 、伊川 、晦庵 の仏 を排する、皆雄論博議あるにあらず、卒然の言、偶発の語多し、而して広く仏典を読まざるも、亦其の免れざるところなり。故に仏を奉ずる者の、三先生に応酬するが如 き、本 是 弁じ易 きの事たり。膽 を張り目を怒らし、手を戟 にし気を壮 にするを要せず。道衍の峻機 険鋒 を以て、徐 に幾百年前の故紙 に対す、縦説横説、甚 だ是 れ容易なり。是れ其の観 る可き無き所以 なり。而して道衍の筆舌の鋭利なる、明道 の言を罵 って、豈 道学の君子の為 ならんやと云 い、明道の執見 僻説 、委巷 の曲士の若 し、誠に咲 う可き也、と云い、明道何ぞ乃 ち自ら苦 むこと此 の如くなるや、と云い、伊川 の言 を評しては、此 は是れ伊川 みずから此 説を造って禅学者を誣 う、伊川が良心いずくにか在 る、と云い、管 を以て天を窺 うが如しとは夫子 みずから道 うなりと云い、程夫子 崛強 自任 す、聖人の道を伝うる者、是 の如くなる可からざる也、と云い、晦庵 の言を難 しては、朱子の□語 、と云い、惟 私意を逞 しくして以て仏を詆 る、と云い、朱子も亦 怪なり、と云い、晦庵此 の如くに心を用いば、市井 の間の小人の争いて販売する者の所為 と何を以てか異ならんや、と云い、先賢大儒、世の尊信崇敬するところの者を、愚弄 嘲笑 すること太 だ過ぎ、其の口気甚だ憎む可し。是れ蓋 し其 姉の納 れず、其 友の見ざるに至れる所以 ならずんばあらず。道衍の言を考うるに、大□ 禅宗 に依り、楞伽 、楞厳 、円覚 、法華 、華厳 等の経に拠って、程朱 の排仏の説の非理無実なるを論ずるに過ぎず。然 れども程朱の学、一世の士君子の奉ずるところたるの日に於 て、抗争反撃の弁を逞 しくす。書の公 にさるゝの時、道衍既に七十八歳、道の為にすと曰 うと雖も、亦争 を好むというべし。此 も亦道衍が※々蕩々 [#「くさかんむり/奔」、UCS-83BE、363-12]の気の、已 む能わずして然るもの耶 、非 耶 。
道衍は是 の如きの人なり、而して猶 卓侍郎 を容 るゝ能わず、之 を赦 さんとするの帝をして之を殺さしむるに至る。素 より相 善 からざるの私 ありしに因 るとは云え、又実に卓の才の大にして器 の偉なるを忌 みたるにあらずんばあらず。道衍の忌むところとなる、卓惟恭 もまた雄傑の士というべし。
道衍の卓敬に対する、衍の詩句を仮 りて之を評すれば、道衍量 何ぞ隘 きやと云う可きなり。然 るに道衍の方正学 に対するは則 ち大 に異なり。方正学の燕王に於 けるは、実に相 容 れざるものあり。燕王の師を興すや、君側の小人を掃 わんとするを名として、其の目 して以て事を構え親 を破り、天下を誤るとなせる者は、斉黄練方 の四人なりき。斉は斉泰 なり、黄は黄子澄 なり、練は練子寧 なり、而 して方は即ち方正学 なり。燕王にして功の成るや、もとより此 四人を得て甘心 せんとす。道衍は王の心腹 なり、初 よりこれを知らざるにあらず。然 るに燕王の北平 を発するに当り、道衍これを郊 に送り、跪 いて密 に啓 して曰 く、臣願わくは託する所有らんと。王何ぞと問う。衍曰く、南に方孝孺 あり、学行 あるを以 て聞 ゆ、王の旗城下に進むの日、彼必ず降 らざらんも、幸 に之を殺したもう勿 れ、之を殺したまわば則 ち天下の読書の種子 絶えんと。燕王これを首肯 す。道衍の卓敬に於 ける、私情の憎嫉 ありて、方孝孺に於ける、私情の愛好あるか、何ぞ其の二者に対するの厚薄あるや。孝孺は宗濂 の門下の巨珠にして、道衍と宋濂とは蓋 し文字の交あり。道衍の少 きや、学を好み詩を工 にして、濂の推奨するところとなる。道衍豈 孝孺が濂の愛重 するところの弟子 たるを以て深く知るところありて庇護 するか、或 は又孝孺の文章学術、一世の仰慕 するところたるを以て、之 を殺すは燕王の盛徳を傷 り、天下の批議を惹 く所以 なるを慮 りて憚 るか、将 又真に天下読書の種子の絶えんことを懼 るゝか、抑 亦孝孺の厳□ の操履 、燕王の剛邁 の気象、二者相 遇 わば、氷塊の鉄塊と相 撃 ち、鷲王 と龍王 との相 闘 うが如き凄惨狠毒 の光景を生ぜんことを想察して預 め之を防遏 せんとせるか、今皆確知する能 わざるなり。
方孝孺は如何 なる人ぞや。孝孺字 は希直 、一字は希古 、寧海 の人。父克勤 は済寧 の知府 たり。治を為すに徳を本 とし、心を苦 めて民の為 にす。田野 を闢 き、学校を興し、勤倹身を持し、敦厚 人を待つ。かつて盛夏に当って済寧の守将、民を督して城を築かしむ。克勤曰く、民今耕耘 暇 あらず、何ぞ又畚□ に堪えんと。中書省 に請いて役 を罷 むるを得たり。是より先 き久しく旱 せしが、役の罷むに及んで甘雨 大 に至りしかば、済寧の民歌って曰く。
孰 か我が役を罷 めしぞ、
使君 の 力なり。
孰 か我が黍 を活 かしめしぞ、
使君の 雨なり。
使君よ 去りたまふ勿 れ、
我が民の 父なり 母なり。
克勤の民意を得 る是 の如くなりしかば、事を視 ること三年にして、戸口増倍し、一郡饒足 し、男女怡々 として生を楽 みしという。克勤愚菴 と号す。宋濂 に故 愚庵先生方公墓銘文 あり。滔々 数千言 、備 に其の人となりを尽す。中 に記す、晩年益 畏慎 を加え、昼の為 す所の事、夜は則 ち天に白 すと。愚庵はたゞに循吏 たるのみならざるなり。濂又曰く、古 に謂 わゆる体道 成徳 の人、先生誠に庶幾焉 と。蓋 し濂が諛墓 の辞にあらず。孝孺は此の愚庵先生第二子として生れたり。天賦 も厚く、庭訓 も厳なりしならん。幼にして精敏、双眸 烱々 として、日に書を読むこと寸に盈 ち、文を為 すに雄邁醇深 なりしかば、郷人呼んで小韓子 となせりという。其の聰慧 なりしこと知る可し。時に宋濂一代の大儒として太祖の優待を受け、文章徳業、天下の仰望するところとなり、四方の学者、悉 く称して太史公 となして、姓氏を以てせず。濂字 は、景濂 、其 先 金華 の潜渓 の人なるを以て潜渓 と号 す。太祖濂 を廷 に誉 めて曰く、宋景濂朕 に事 うること十九年、未 だ嘗 て一言 の偽 あらず、一人 の短 を誚 らず、始終二 無し、たゞに君子のみならず、抑 賢と謂 う可しと。太祖の濂を視 ること是 の如し。濂の人品想 う可き也 。孝孺洪武 の九年を以て、濂に見 えて弟子 となる。濂時に年六十八、孝孺を得て大 に之を喜ぶ。潜渓が方生の天台に還 るを送るの詩の序に記して曰く、晩に天台の方生希直 を得たり、其の人となりや凝重 にして物に遷 らず、穎鋭 にして以て諸 を理に燭 す、間 発 [#「間 発 」は底本では「発 間 」]して文を為 す、水の湧 いて山の出 づるが如し、喧啾 たる百鳥の中 、此の孤鳳皇 を見る、いかんぞ喜びざらんと。凝重 穎鋭 の二句、老先生眼裏 の好学生を写し出 し来 って神 有り。此の孤鳳皇 を見るというに至っては、推重 も亦 至れり。詩十四章、其二に曰く、
念 ふ 子 が 初めて来りし時、
才思繭糸 の若 し。
之を抽 いて 已 に緒 を見る、
染めて就 せ 五色 の衣 。
其九に曰く、
須 らく知るべし 九仭 の山も、
功或 は 一簣 に少 くるを。
学は 貴ぶ 日に随 つて新 なるを、
慎んで 中道に廃する勿 れ。
其十に曰く、
羣経 明訓 耿 たり、
白日 青天に麗 る。
苟 も徒 に 文辞に溺 れなば、
蛍※ [#「火+爵」、UCS-721D、370-6] 妍 を争はんと欲するなり。
其十一に曰く、
姫 も 孔 も 亦何人 ぞや、
顔面了 に異 ならじ。
肯 て 盆□ の中 に墮 せんや、
当 に 瑚□ の器 となるべし。
其終章に曰く、
其 才を称 し、其学を勧め、其 の流れて文辞の人とならんことを戒め、其の奮 って聖賢の域に至らんことを求め、他日復 再び大道を論ぜんことを欲す。潜渓 が孝孺に対する、称許 も甚だ至り、親切も深く徹するを見るに足るものあり。嗚呼 、老先生、孰 か好学生を愛せざらん、好学生、孰 か老先生を慕わざらん。孝孺は其翌年丁巳 、経 を執って浦陽 に潜渓に就 きぬ。従学四年、業大 に進んで、潜渓門下の知名の英俊、皆其の下 に出で、先輩胡翰 も蘇伯衡 も亦 自 ら如 かずと謂 うに至れり。洪武十三年の秋、孝孺が帰省するに及び、潜渓が之 を送る五十四韻 の長詩あり。其 引 の中 に記して曰く、細 らかに其の進修の功を占 うに、日々に異 なるありて、月々に同じからず、僅 に四春秋を越ゆるのみにして而して英発光著 や斯 の如し、後 四春秋ならしめば、則 ち其の至るところ又如何 なるを知らず、近代を以て之を言えば、欧陽少卿 、蘇長公 の輩 は、姑 らく置きて論ぜず、自余の諸子、之と文芸の場 に角逐 せば、孰 か後となり孰 か先となるを知らざる也。今此 説を為 す、人必ず予の過情を疑わんも、後二十余年にして当 に其の知言にして、生 に許す者の過 に非 ざるを信ずべき也。然 りと雖 も予の生に許すところの者、寧 ぞ独り文のみならんやと。又曰く、予深く其の去るを惜 み、為 に是 詩を賦 す、既に其の素有の善を揚げ、復 勗 むるに遠大の業を以てすと。潜渓の孝孺を愛重し奨励すること、至れり尽せりというべし。其詩や辞 を行 る自在 にして、意を立つる荘重、孝孺に期するに大成を以てし、必ず経世済民の真儒とならんことを欲す。章末に句有り、曰く、
生 は乃 ち 周 の容刀 。
生は乃ち魯 の□□ 。
道真 なれば 器 乃ち貴し、
爰 ぞ須 ゐん 空言を用ゐるを。
孳々 として 務めて践形 し、
負 く勿 れ 七尺の身に。
敬義以 て衣 と為 し、
忠信 以て冠 と為し、
慈仁 以て佩 と為し、
廉知 以て※ [#「般/革」、UCS-97B6、374-5]と為し、
特 り立つて 千古を睨 まば、
万象昭 らかにして昏 き無からむ。
此 意 竟 に誰 か知らん、
爾 が為 に 言 諄諄 たり。
徒 に 強 聒 ふと謂 ふ勿 れ、
一一宜 しく紳 に書 すべし。
孝孺後 に至りて此詩を録して人に視 すの時、書して曰く、前輩 後学 を勉 めしむ、惓惓 の意 、特 り文辞のみに在 らず、望むらくは相 与 に之を勉めんと。臨海 の林佑 、葉見泰 等 、潜渓の詩に跋 して、又各 宋太史 の期望に酬 いんことを孝孺に求む。孝孺は果して潜渓に負 かざりき。
孝孺 の集 は、其 人 天子の悪 むところ、一世の諱 むところとなりしを以 て、当時絶滅に帰し、歿後 六十年にして臨海 の趙洪 が梓 に附せしより、復 漸 く世に伝わるを得たり。今遜志斎集 を執って之 を読むに、蜀王 が所謂 正学先生 の精神面目奕々 として儼存 するを覚ゆ。其 の幼儀 雑箴 二十首を読めば、坐 、立 、行 、寝 より、言 、動 、飲 、食 等に至る、皆道に違 わざらんことを欲して、而して実践躬行底 より徳を成さんとするの意、看取すべし。其 雑銘を読めば、冠 、帯 、衣 、□ より、※ [#「竹かんむり/垂」、UCS-7BA0、376-1][#「※[#「竹かんむり/垂」、UCS-7BA0、376-1]」は底本では「※[#「竹かんむり/垂の一画目の下に横画一つ足した形」、376-1]」]、鞍 、轡 、車 等に至る、各物一々に湯 の日新 の銘に則 りて、語を下し文を為 す、反省修養の意、看取すべし。雑誡 三十八章、学箴 九首、家人箴 十五首、宗儀 九首等を読めば、希直 の学を為 すや空言を排し、実践を尊み、体験心証して、而して聖賢の域に躋 らんとするを看取すべし。明史に称す、孝孺は文芸を末視 し、恒 に王道を明らかにし太平を致すを以て己 が任と為すと。(是 鄭暁 の方先生伝 に本 づく)真 に然 り、孝孺の志すところの遠大にして、願うところの真摯 なる、人をして感奮せしむるものあり。雑誡の第四章に曰く、学術の微 なるは、四蠹 之 を害すればなり。姦言 を文 り、近事 を□ り、時勢を窺伺 し、便 に趨 り隙 に投じ、冨貴 を以て、志と為 す。此 を利禄 の蠹 と謂 う。耳剽 し口衒 し、色 を詭 り辞 を淫 にし、聖賢に非 ずして、而 も自立し、果敢 大言して、以て人に高ぶり、而して理の是非を顧みず、是 を名を務むるの蠹 という。鉤□ して説を成し、上古に合 するを務め、先儒を毀□ し、以謂 らく我に及ぶ莫 き也 と、更に異議を為して、以て学者を惑わす。是を訓詁 の蠹 という。道徳の旨を知らず、雕飾 綴緝 して、以て新奇となし、歯を鉗 し舌を刺 して、以て簡古と為し、世に於 て加益するところ無し。是を文辞 の蠹 という。四者交々 作 りて、聖人の学亡 ぶ。必ずや諸 を身に本 づけ、諸を政教に見 わし、以て物 を成す可き者は、其 れ惟 聖人の学乎 、聖道を去って而 して循 わず、而して惟 蠹 にこれ帰す。甚しい哉 惑えるや、と。孝孺の此 言 に照 せば、鄭暁 の伝うるところ、実に虚 しからざる也。四箴 の序の中 の語に曰く、天に合 して人に合せず、道に同じゅうして時に同じゅうせずと。孝孺の此言に照せば、既に其の卓然として自立し、信ずるところあり安んずるところあり、潜渓先生 が謂 える所の、特 り立って千古を睨 み、万象昭 して昏 き無しの境 に入れるを看 るべし。又其 の克畏 の箴 を読めば、あゝ皇 いなる上帝、衷 を人に降 す、といえるより、其の方 に昏 きに当ってや、恬 として宜 しく然 るべしと謂 うも、中夜 静かに思えば夫 れ豈 吾が天ならんや、廼 ち奮って而して悲 み、丞 やかに前轍 を改む、と云い、一念の微なるも、鬼神降監す、安しとする所に安んずる勿 れ、嗜 む所を嗜む勿れ、といい、表裏交々 修めて、本末一致せんといえる如き、恰 も神を奉ぜるの者の如き思想感情の漲流 せるを見る。父克勤 の、昼の為せるところ、夜は則 ち天に白 したるに合せ考うれば、孝孺が善良の父、方正の師、孔孟 の正大純粋の教 の徳光 恵風 に浸涵 して、真に心胸 の深処よりして道を体し徳を成すの人たらんことを願えるの人たるを看 るべき也。
孝孺既に文芸を末視 し、孔孟の学を為 し、伊周 の事に任ぜんとす。然 れども其 の文章亦 おのずから佳、前人評して曰く、醇□博朗 [#「醇□博朗」は底本では「醇※[#「厂+龍」、348-9]博朗」]、沛乎 として余 有り、勃乎 として禦 ぐ莫 しと。又曰く、醇深雄邁 と。其の一大文豪たる、世もとより定評あり、動かす可からざるなり。詩は蓋 し其の心を用いるところにあらずと雖も、亦おのずから観 る可し。其の王仲縉感懐 の韻 に次 する詩の末に句あり、曰く
道衍 は豪傑なり、孝孺は君子なり。逃虚子 は歌って曰く、苦節貞 くすべからずと。遜志斎 は歌って曰く、苦節未だ非とす可からずと。逃虚子は吟じて曰く、伯夷量 何ぞ隘 きと。遜志斎は吟じて曰く、聖にして有り西山の饑 と。孝孺又其の※陽 [#ルビの「えいよう」は底本では「けいよう」][#「さんずい+「勞」の「力」に代えて「糸」」、UCS-7020、380-4]を過 ぎるの詩の中の句に吟じて曰く、之に因 って首陽 を念 う、西顧 すれば清風 生ずと。又乙丑中秋後 二日兄 に寄する詩の句に曰く、苦節伯夷 を慕うと。人異なれば情異なり、情異なれば詩異なり。道衍は僧にして、□籌 又何ぞ数えんといいて、快楽主義者の如く、希直 は俗にして、飲 の箴 に、酒の患 たる、謹者 をして荒 み、荘者をして狂し、貴者をして賤 しく、存者 をして亡 ばしむ、といい、酒巵 の銘には、親 を洽 くし衆を和するも、恒 に斯 に於 てし、禍 を造り敗 をおこすも、恒 に斯 に於てす、其悪 に懲り、以て善に趨 り、其儀を慎 むを尚 ぶ、といえり。逃虚子は仏 を奉じて、而 も順世 外道 の如く、遜志斎は儒を尊んで、而 も浄行者 の如し。嗚呼 、何ぞ其の奇なるや。然 も遜志斎も飲を解せざるにあらず。其の上巳 南楼 に登るの詩に曰く、
昔時 喜んで酒を飲み、
白 を挙げて 深きを辞せざりき。
茲 に中歳 に及んでよりこのかた、
已 に復 人の斟 むを畏 る。
後生 ゆるがせにする所多きも、
豈 識 らんや 老 の会臨 するを。
志士は 景光を惜 む、
麓 に登れば 已 に岑 を知る。
毎 に聞く 前世 の事、
頗 る見る 古人の心。
逝 く者 まことに息 まず、
将来誰 か今に嗣 がむ。
百年当 に成る有るべし、
泯滅 寧 ぞ欽 むに足らんや。
毎 に憐 む 伯牙 の陋 にして、
鍾 死して 其 琴 を破れるを。
自 ら得 るあらば 苟 に伝ふるに堪へむ、
何ぞ必ずしも知音 を求めんや。
俯 しては観 る 水中の※ [#「※[#「條」の「木」に代えて「魚」、UCS-9BC8、382-9][#「條」の「木」に代えて「魚」、UCS-9BC8、382-9]」は底本では「□」]、
仰いでは覩 る 雲際 の禽 。
真楽 吾 隠さず、
欣然 として 煩襟 を豁 うす。
前半は巵酒 歓楽、学業の荒廃を致さんことを嘆じ、後半は一転して、真楽の自得にありて外 に待つ無きをいう。伯牙を陋 として破琴を憐 み、荘子 を引きて不隠 を挙ぐ。それ外より入る者は、中 に主 たる無し、門より入る者は家珍 にあらず。白 を挙げて楽 となす、何ぞ是 れ至楽ならん。
遜志斎の詩を逃虚子の詩に比するに、風格おのずから異にして、精神夐 に殊 なり。意気の俊邁 なるに至っては、互 に相 遜 らずと雖 も、正学先生 の詩は竟 に是れ正学先生の詩にして、其の帰趣 を考うるに、毎 に正々堂々の大道に合せんことを欲し、絶えて欹側 詭※ [#「言+皮」、UCS-8A56、383-8]の言を為 さず、放逸 曠達 の態 無し。勉学の詩二十四章の如きは、蓋 し壮時の作と雖も、其の本色 なり。談詩 五首の一に曰く、
世 を挙 って 皆宗 とす 李杜 の詩を。
知らず 李杜の 更に誰 を宗とせるを。
能 く 風雅 無窮の意を探 らば、
始めて是れ乾坤 絶妙の詞 ならん。
第二に曰く、
謙 にして以て みづから牧 し、
卑 うして以て みづから持 す。
雍容 儒雅 、
鸞鳳 の 儀あり。
とあり。又其の賜詩 三首の一に
の句あり。王の優遇知る可くして、孝孺の恩に答うるに道を以てせるも、亦 知るべし。王孝孺の読書の廬 に題して正学 という。孝孺はみずから遜志斎 という。人の正学先生というものは、実に蜀 王の賜題に因 るなり。
太祖崩じ、皇太孫立つに至って、廷臣交々 孝孺を薦 む。乃 ち召されて翰林 に入る。徳望素 より隆 んにして、一時の倚重 するところとなり、政治より学問に及ぶまで、帝の咨詢 を承 くること殆 ど間 無く、翌二年文学博士となる。燕王兵を挙ぐるに及び、日に召されて謀議に参し、詔檄 皆孝孺の手に出 づ。三年より四年に至り、孝孺甚 だ煎心 焦慮 すと雖も、身武臣にあらず、皇師数々 屈して、燕兵遂 に城下に到 る。金川門 守 を失いて、帝みずから大内 を焚 きたもうに当り、孝孺伍雲 等 の為 に執 えられて獄に下さる。
燕王志を得て、今既に帝たり。素 より孝孺の才を知り、又道衍 の言を聴 く。乃 ち孝孺を赦 して之 を用いんと欲し、待つに不死を以てす。孝孺屈せず。よって之を獄に繋 ぎ、孝孺の弟子 廖□ 廖銘 をして、利害を以て説かしむ。二人は徳慶侯 廖権 の子なり。孝孺怒って曰く、汝 等 予に従って幾年の書を読み、還 って義の何たるを知らざるやと。二人説く能 わずして已 む。帝猶 孝孺を用いんと欲し、一日に諭 を下すこと再三に及ぶ。然 も終 に従わず。帝即位の詔 を草せんと欲す、衆臣皆孝孺を挙ぐ。乃 ち召して獄より出 でしむ。孝孺喪服 して入り、慟哭 して悲 み、声殿陛 に徹す。帝みずから榻 を降 りて労 らいて曰く、先生労苦する勿 れ。我周公 の成王 を輔 けしに法 らんと欲するのみと。孝孺曰く、成王いずくにか在 ると。帝曰く、渠 みずから焚死 すと。孝孺曰く、成王即 存せずんば、何ぞ成王の子を立てたまわざるやと。帝曰く、国は長君 に頼 る。孝孺曰く、何ぞ成王の弟を立てたまわざるや。帝曰く、これ朕 が家事なり、先生はなはだ労苦する勿 れと。左右をして筆札 を授けしめて、おもむろに詔 して曰く、天下に詔する、先生にあらずんば不可なりと。孝孺大 に数字を批して、筆を地に擲 って、又大哭 し、且 罵 り且哭 して曰く、死せんには即 ち死せんのみ、詔 は断じて草す可からずと。帝勃然 として声を大にして曰く、汝いずくんぞ能 く遽 に死するを得んや、たとえ死するとも、独り九族を顧みざるやと。孝孺いよ/\奮って曰く、すなわち十族なるも我を奈何 にせんやと、声甚 だ□ し。帝もと雄傑剛猛なり、是 に於て大 に怒 って、刀を以て孝孺の口を抉 らしめて、復 之を獄に錮 す。
孝孺の宋潜渓 に知らるゝや、蓋 し其 の釈統 三篇 と後正統論 とを以 てす。四篇の文、雄大にして荘厳、其 大旨、義理の正に拠 って、情勢の帰 を斥 け、王道を尚 び、覇略を卑み、天下を全有して、海内 に号令する者と雖 も、其 道に於 てせざる者は、目 して、正統の君主とすべからずとするに在 り。秦 や隋 や王※ [#「くさかんむり/奔」、UCS-83BE、390-3]や、晋宋 ・斉梁 や、則天 や符堅 や、此 皆これをして天下を有せしむる数百年に踰 ゆと雖 も、正統とす可 からずと為 す。孝孺の言に曰く、君たるに貴ぶ所の者は、豈 其の天下を有するを謂 わんやと。又曰く、天下を有して而 も正統に比す可からざる者三、簒臣 也 、賊后 也、夷狄 也と。孝孺篇後 に書して曰く、予が此 文を為 りてより、未 だ嘗 て出して以て人に示さず。人の此 言を聞く者、咸 予を□笑 して以て狂と為 し、或 は陰 に之 を詆詬 す。其の然 りと謂 う者は、独り予が師太史公 と、金華 の胡公翰 とのみと、夫 れ正統変統の論、もとより史の為 にして発すと雖も、君たるに貴ぶ所の者は豈 其の天下を有するを謂わんやと為 す。是 の如きの論を為せるの後二十余年にして、一朝簒奪 の君に面し、其の天下に誥 ぐるの詔 を草せんことを逼 らる。嗚呼 、運命遭逢 も亦 奇なりというべし。孝孺又嘗 て筆の銘を為 る。曰く、
妄 に動けば 悔 あり、
道は悖 る可からず。
汝 才ありと謂 ふ勿 れ、
後に 万世あり。
又嘗 て紙の銘を為る。曰く、
之 を以 て言を立つ、其の道を載 せんを欲す。
之を以て事を記す、其の民を利せんを欲す。
之を以て教 を施す、其の義ならんを欲す。
之を以て法を制す、其の仁ならんを欲す。
此 等 の文、蓋 し少時の為 る所なり。嗚呼、運命遭逢 、又何ぞ奇なるや。二十余年の後にして、筆紙前に在り。これに臨みて詔を草すれば、富貴 我を遅 つこと久し、これに臨みて命 を拒まば、刀鋸 我に加わらんこと疾 し。嗚呼、正学先生 、こゝに於 て、成王 いずくに在 りやと論じ、こゝに於て筆を地に擲 って哭 す。父に負 かず、師に負 かず、天に合 して人に合 せず、道に同じゅうして時に同じゅうせず、凛々烈々 として、屈せず撓 まず、苦節伯夷 を慕わんとす。壮なる哉 。
帝、孝孺の一族を収め、一人を収むる毎 に輙 ち孝孺に示す。孝孺顧みず、乃 ち之を殺す。孝孺の妻鄭氏 と諸子 とは、皆先 ず経死 す。二女逮 えられて淮 を過ぐる時、相 与 に橋より投じて死す。季弟 孝友 また逮 えられて将 に戮 せられんとす。孝孺之を目して涙 下りければ、流石 は正学の弟なりけり、
阿兄 何ぞ必ずしも 涙潜々 たらむ、
義を取り 仁を成す此 間 に在り。
華表 柱頭 千歳 の後 、
旅魂 旧に依 りて 家山 に到らん。
と吟じて戮 せられぬ。母族林彦清 等 、妻族鄭原吉 等 九族既に戮せられて、門生等まで、方氏 の族として罪なわれ、坐死 する者およそ八百七十三人、遠謫 配流 さるゝもの数う可からず。孝孺は終 に聚宝門外 に磔殺 せられぬ。孝孺慨然 、絶命の詞 を為 りて戮に就 く。時に年四十六、詞に曰く、
天降二乱離一兮孰知二其由一 。
奸臣得レ計兮謀レ国用レ猶 。
忠臣発レ憤兮血涙交流 。
以レ此殉レ君兮抑又何求 。
嗚呼哀哉兮庶不二我尤一 。
廖□ 廖銘 は孝孺の遺骸 を拾いて聚宝門外 の山上に葬りしが、二人も亦 収められて戮せられ、同じ門人林嘉猷 は、かつて燕王父子の間に反間の計 を為 したるもの、此 亦戮せられぬ。
方氏一族是 の如くにして殆 ど絶えしが、孝孺の幼子徳宗 、時に甫 めて九歳、寧海県 の典史 魏公沢 の護匿 するところとなりて死せざるを得、後 孝孺の門人兪公允 の養うところとなり、遂 に兪氏 を冒 して、子孫繁衍 し、万暦 三十七年には二百余丁 となりしこと、松江府 の儒学の申文 に見え、復姓を許されて、方氏また栄ゆるに至れり。廖氏[#「廖氏」は底本では「□氏」]二子及び門人王※ [#「禾+余」、UCS-7A0C、395-2]等 拾骸 の功また空 しからず、万暦に至って墓碑祠堂 成り、祭田 及び嘯風亭 等備わり、松江 に求忠書院 成るに及べり。世に在る正学先生の如くにして、豈 後無く祠無くして泯然 として滅せんや。
節 に死し族を夷 せらるゝの事、もと悲壮なり。是 を以て後の正学先生の墓を過 ぎる者、愴然 として感じ、□然 として泣かざる能 わず。乃 ち祭弔 慷慨 の詩、累篇 積章 して甚だ多きを致す。衛承芳 が古風一首、中 に句あり、曰く、
と。劉秉忠 を慕うの人道衍 は其の功を成して秉忠の如くなるを得 、伯夷 を慕うの人方希直 は其の節を成して伯夷に比せらるゝに至る。王思任 二律の一に句あり、曰く、
と、李維□ 五律六首の中 に句あり、曰く、
又句あり、曰く、
燕王 今は燕王にあらず、儼 として九五 の位 に在り、明年を以 て改めて永楽 元年と為 さんとす。而 して建文皇帝は如何 。燕王の言に曰く、予 始め難に遘 う、已 むを得ずして兵を以て禍 を救い、誓って奸悪 を除き、宗社を安んじ、周公 の勲を庶幾 せんとす。意 わざりき少主予が心を亮 とせず、みずから天に絶てりと。建文皇帝果して崩ぜりや否や。明史 には記す、帝終る所を知らずと。又記す、或 は云 う帝地道 より出 で亡 ぐと。又記す、□黔 巴蜀 の間 、相 伝 う帝の僧たる時の往来の跡ありと。これ言 を二三にするものなり。帝果して火に赴 いて死せるか、抑 又髪 を薙 いで逃れたるか。明史巻一百四十三、牛景先 の伝の後に、忠賢奇秘録 および致身録 等の事を記して、録は蓋 し晩出附会、信ずるに足らず、の語を以て結び、暗に建文帝出亡 、諸臣庇護 の事を否定するの口気あり。然 れども巻三百四、鄭和伝 には、成祖 、恵帝 の海外に亡 げたるを疑い、之 を蹤跡 せんと欲し、且つ兵を異域に輝かし、中国の富強を示さんことを欲すと記 せり。鄭和の始めて西洋に航せしは、燕王志を得てよりの第四年、即 ち永楽三年なり。永楽三年にして猶 疑うあるは何ぞや。又給事中 胡※ [#「さんずい+「勞」の「力」に代えて「火」」、UCS-6FD9、398-8]と内侍 朱祥 とが、永楽中に荒徼 を遍歴して数年に及びしは、巻二百九十九に見ゆ。仙人 張三□ を索 めんとすというを其 名 とすと雖 も、山谷 に仙を索 めしむるが如き、永楽帝の聰明 勇決にして豈 真に其 事 あらんや。得んと欲するところの者の、真仙にあらずして、別に存するあること、知る可 き也。蓋 し此 時に当って、元の余□ 猶 所在に存し、漠北 は論無く、西陲南裔 、亦 尽 くは明 の化 に順 わず、野火 焼けども尽きず、春風吹いて亦生ぜんとするの勢 あり。且つや天 一豪傑を鉄門関辺の碣石 に生じて、カザン(Kazan)弑 されて後の大帝国を治めしむ。これを帖木児 (Timur)と為す。西人 の所謂 タメルラン也。帖木児 サマルカンドに拠 り、四方を攻略して威を振 う甚だ大 に、明 に対しては貢 を納 ると雖も、太祖の末年に使 したる傅安 を留 めて帰らしめず、之 を要して領内諸国を歴遊すること数万里ならしめ、既に印度 を掠 めて、デリヒを取り、波斯 を襲い、土耳古 を征し、心ひそかに支那 を窺 い、四百余州を席巻して、大元 の遺業を復せんとするあり。永楽帝の燕王たるや、塞北 に出征して、よく胡情 を知る。部下の諸将もまた夷事 に通ずる者多し。王の南 する、幕中 に番騎 を蔵す。凡 そ此 等 の事に徴して、永楽帝の塞外 の状勢を暁 れるを知るべし。若 し建文帝にして走って域外に出 で、崛強 にして自大なる者に依 るあらば、外敵は中国を覦 うの便 を得て、義兵は邦内 に起る可 く、重耳 一たび逃れて却 って勢を得るが如きの事あらんとす。是 れ永楽帝の懼 れ憂 うるところたらずんばあらず。鄭和 の艦 を泛 めて遠航し、胡※ [#「さんずい+「勞」の「力」に代えて「火」」、UCS-6FD9、401-2]の仙 を索 めて遍歴せる、密旨を啣 むところあるが如し。而 して又鄭は実に威を海外に示さんとし、胡 は実に異を幽境に詢 えるや論無し。善 く射る者は雁影 を重ならしめて而して射、善 く謀 る者は機会を復ならしめて而して謀る。一箭 二雁 を獲 ずと雖 も、一雁を失わず、一計双功を収めずと雖も、一功を得る有り。永楽帝の智 、豈 敢 て建文を索 むるを名として使 を発するを為 さんや。況 んや又鄭和は宦官 にして、胡※ [#「さんずい+「勞」の「力」に代えて「火」」、UCS-6FD9、400-8]と偕 にせるの朱祥 も内侍 たるをや。秘意察す可きあるなり。
鄭和 は王景弘 等 と共に出 て使 しぬ。和の出 づるや、帝、袁柳荘 の子の袁忠徹 をして相 せしむ、忠徹曰 く可なりと。和の率いる所の将卒二万七千八百余人、舶 長さ四十四丈、広さ十八丈の者、六十二、蘇州 劉家河 より海 に泛 びて福建 に至り、福建五虎門 より帆を揚げて海に入る。閲 三年にして、五年九月還 る。建文帝の事、得る有る無し。而 れども諸番国 の使者和 に随 って朝見し、各々 其 方物 を貢 す。和 又三仏斉国 の酋長 を俘 として献ず。帝大 に悦 ぶ。是 より建文の事に関せず、専 ら国威を揚げしめんとして、再三和 を出 す。和の使 を奉ずる、前後七回、其 の間、或 は錫蘭山 (Ceylon)の王阿烈苦奈児 と戦って之を擒 にして献じ、或 は蘇門答剌 (Sumotala)の前の前の偽王 の子蘇幹剌 と戦って、其 妻子を併 せて俘 として献じ、大 に南西諸国に明 の威を揚げ、遠く勿魯漠斯 (Holumusze ペルシヤ)麻林 (Mualin? アフリカ?)祖法児 (Dsuhffar アラビヤ)天方 (“Beitullah”House of God の訳、メッカ、アラビヤ)等に至れり。明史 外国伝 西南方のやゝ詳 なるは、鄭和に随行したる鞏珍 の著わせる西洋番国志 を採りたるに本 づく歟 という。
胡※ [#「さんずい+「勞」の「力」に代えて「火」」、UCS-6FD9、402-1]等 もまた得る無くして已 みぬ。然 も張三□ を索 めしこと、天下の知る所たり。乃 ち三□の居 りし所の武当 大和山 に観 を営み、夫 を役 する三十万、貲 を費 す百万、工部侍郎 郭※ [#「王+追」、402-3]、隆平侯 張信 等 、事に当りしという。三□嘗 て武当の諸 巌壑 に游 び、此 山 異日必ず大 に興 らんといいしもの、実となってこゝに現じたる也。
建文帝 は如何 にせしぞや。伝えて曰 く、金川門 の守 を失うや、帝自殺せんとす。翰林院編修 程済 白 す、出亡 したまわんには如 かじと。少監 王鉞 跪 いて進みて白 す。昔高帝 升遐 したもう時、遺篋 あり、大難に臨まば発 くべしと宣 いぬ。謹んで奉先殿 の左に収め奉れりと。羣臣 口々に、疾 く出 すべしという。宦者 忽 にして一の紅 なる篋 を舁 き来 りぬ。視 れば四囲は固 むるに鉄を以てし、二鎖 も亦 鉄を灌 ぎありて開くべくも無し。帝これを見て大 に慟 きたまい、今はとて火を大内 に放たせたもう。皇后は火に赴きて死したまいぬ。此 時 程済は辛くも篋 を砕き得て、篋中 の物を取出 す。出 でたる物は抑 何ぞ。釈門 の人ならで誰 かは要すべき、大内などには有るべくも無き度牒 というもの三張 ありたり。度牒は人の家を出 て僧となるとき官の可 して認むる牒にて、これ無ければ僧も暗き身たるなり。三張の度牒、一には応文 の名の録 され、一には応能 の名あり、一には応賢 の名あり。袈裟 、僧帽、鞋 、剃刀 、一々倶 に備わりて、銀十錠 添わり居 ぬ。篋 の内に朱書あり、之 を読むに、応文は鬼門 より出 で、余 は水関 御溝 よりして行き、薄暮にして神楽観 の西房 に会せよ、とあり。衆臣驚き戦 きて面々相 看 るばかり、しばらくは言 う者も無し。やゝありて天子、数なり、と仰 [#ルビの「おお」は底本では「おおせ」]せあり。帝の諱 は允□ 、応文 の法号、おのずから相応ずるが如し。且つ明 の基 を開きし太祖高皇帝はもと僧にましましき。後にこそ天下の主となり玉 いたれ、元 の順宗 の至正 四年年 十七におわしける時は、疫病大 に行われて、御父 御母兄上幼き弟皆亡 せたまえるに、家貧にして棺槨 の供 だに為 したもう能 わず、藁葬 という悲しくも悲しき事を取行 わせ玉わんとて、仲 の兄と二人してみずから遺骸 を舁 きて山麓 に至りたまえるに、□ 絶えて又如何 ともする能 わず、仲の兄馳 還 って□を取りしという談だに遺 りぬ。其の仲の兄も亦 亡せたれば、孤身依 るところなく、遂 に皇覚寺 に入りて僧と為 り、食 を得んが為 に合□ に至り、光 固 汝 頴 の諸州に托鉢 修行し、三歳の間は草鞋 竹笠 、憂 き雲水の身を過したまえりという。帝は太祖の皇孫と生れさせたまいて、金殿玉楼に人となりたまいたれども、如是因 、如是縁 、今また袈裟 念珠 の人たらんとす。不思議というも余 りあり。程済即 ち御意に従いて祝髪 しまいらす。万乗の君主金冠を墜 し、剃刀 の冷光翠髪 を薙 ぐ。悲痛何ぞ能 く堪 えんや。呉王 の教授揚応能 は、臣が名度牒 に応ず、願わくは祝髪して随 いまつらんと白 す。監察御史 葉希賢 、臣が名は賢 、応賢 たるべきこと疑 無しと白 す。各 髪を剃 り衣 を易 えて牒 を披 く。殿 に在りしもの凡 そ五六十人、痛哭 して地に倒れ、倶 に矢 って随 いまつらんともうす。帝、人多ければ得失を生ずる無きを得ず、とて麾 いて去らしめたもう。御史 曾鳳韶 、願わくは死を以て陛下に報いまつらん、と云いて退きつ、後 果して燕王の召 に応 ぜずして自殺しぬ。諸臣大 に慟 きて漸 くに去り、帝は鬼門に至らせたもう。従う者実に九人なり。至れば一舟 の岸に在 るあり。誰 ぞと見るに神楽観 の道士王昇 にして、帝を見て叩頭 して万歳を称 え、嗚呼 、来 らせたまえるよ、臣昨夜の夢に高 皇帝の命を蒙 りて、此 にまいり居 たり、と申す。乃 ち舟に乗じて太平門 に至りたもう。昇 導きまいらせて観 に至れば、恰 も已 に薄暮なりけり。陸路よりして楊応能 、葉希賢 等 十三人同じく至る。合 二十二人、兵部侍郎 廖平 、刑部侍郎 金焦 、編修 趙天泰 、検討 程亨 、按察使 王良 、参政 蔡運 、刑部郎中 梁田玉 、中書舎人 梁良玉 、梁中節 、宋和 、郭節 、刑部司務 馮※ [#「さんずい+寉」、405-12]、鎮撫 牛景先 、王資 、劉仲 、翰林侍詔 鄭洽 、欽天監正 王之臣 、太監 周恕 、徐王府賓輔 史彬 と、楊応能 、葉希賢 、程済 となり。帝、今後はたゞ師弟を以 て称し、必ずしも主臣の礼に拘 らざるべしと宣 う。諸臣泣いて諾す。廖平こゝに於 て人々に謂 って曰く、諸人の随 わんことを願うは、固 よりなり、但し随行の者の多きは功無くして害あり、家室の累 無くして、膂力 の捍 ぎ衛 るに足る者、多きも五人に過ぎざるを可とせん、余 は倶 に遙 に応援を為 さば、可ならんと。帝も、然 るべしと為したもう。応能、応賢の二人は比丘 と称し、程済は道人 と称して、常に左右に侍し、馮※ [#「さんずい+寉」、406-8][#「馮※[#「さんずい+寉」、406-8]」は底本では「憑※[#「さんずい+寉」、406-8]」]は馬二子 と称し、郭節 は雪菴 と称し、宋和 は雲門僧 と称し、趙天泰 は衣葛翁 と称し、王之臣 は補鍋 を以 て生計を為さんとして老補鍋 と称し、牛景先 は東湖樵夫 と称し、各々 姓を埋 め名を変じて陰陽 に扈従 せんとす。帝は□南 に往 きて西平侯 に依 らんとしたもう。史彬 これを危ぶみて止 め、臣 等 の中の、家いさゝか足りて、旦夕 に備う可 き者の許 に錫 を留 めたまい、緩急移動したまわば不可無かるべしと白 す。帝もこれを理ありとしたまいて、廖平、王良、鄭洽 、郭節、王資、史彬 、梁良玉の七家を、かわる/″\主とせんことに定まりぬ。翌日舟を得て帝を史彬の家に奉ぜんとす。同乗するもの八人、程、葉 、楊、牛、馮 、宋、史なり。余 は皆涙を揮 って別れまいらす。帝は道を□陽 に取りて、呉江 の黄渓 の史彬の家に至りたもうに、月の終 を以て諸臣また漸 く相 聚 まりて伺候 す。帝命じて各々帰省せしめたもう。燕王位 に即 きて、諸官員の職を抛 って遯去 りし者の官籍を削る。呉江 の邑丞 鞏徳 、蘇州府 の命を以て史彬が家に至り、官を奪い、且 曰く、聞く君が家建文 皇帝をかしずくと。彬 驚いて曰く、全く其 事 無しと。次の日、帝、楊、葉、程の三人と共に、呉江を出 で、舟に上 りて京口 に至り、六合 を過ぎ、陸路襄陽 に至り、廖平が家に至りたもうに、其 後 を訊 う者ありければ、遂 に意を決して雲南 に入りたもう。
永楽 元年、帝雲南 の永嘉寺 に留 まりたもう。二年、雲南を出 で、重慶 より襄陽 に抵 り、また東して、史彬 の家に至りたもう。留まりたもうこと三日、杭州 、天台 、雁蕩 の遊 をなして、又雲南に帰りたもう。
三年、重慶の大竹善慶里 に至りたもう。此 年 若 くは前年の事なるべし、帝金陵 の諸臣惨死 の事を聞きたまい、□然 として泣きて曰く、我罪を神明に獲 たり、諸人皆我が為 にする也 と。
建文帝 は今は僧応文 たり。心の中 はいざ知らず、袈裟 に枯木 の身を包みて、山水に白雲の跡を逐 い、或 は草庵 、或は茅店 に、閑坐 し漫遊したまえるが、燕王 今は皇帝なり、万乗の尊に居 りて、一身の安き無し。永楽元年には、韃靼 の兵、遼東 を犯し、永平 に寇 し、二年には韃靼 と瓦剌 (Oirats, 西部蒙古)との相 和せる為に、辺患無しと雖 も、三年には韃靼の塞下 を伺うあり。特 に此 年 はタメルラン大兵を起して、道を別失八里 (Bisbalik)に取り、甘粛 よりして乱入せんとするの事あり。甘粛は京 を距 る遠しと雖 も、タメルランの勇威猛勢は、太祖の時よりして知るところたり、永楽帝の憂慮察す可 し。此 事 明史 には其の外国伝に、朝廷、帖木児 の道を別失八里 に仮りて兵を率いて東するを聞き、甘粛 総兵官 宋晟 に勅して□備 せしむ、とあるに過ぎず。然 れども塞外 の事には意を用いること密にして、永楽八年以後、数々 漠北 を親征せしほどの帝の、帖木児 東せんとするを聞きては、奚 んぞ能 く晏然 たらん。太祖の洪武 二十八年、傅安 等 を帖木児 の許 に使 せしめて、安 等 猶 未 だ還 らず、忽 にして此 報を得、疑虞 する無きを得んや。帖木児 、父は答剌豈 (Taragai)、元 の至元二年を以 て生る。生れて跛 なりしかば、悪 む者チムールレンク(Timurlenk)と呼ぶ。レンクは跛 の義の波斯 語なり。タメルランの称これによって起る。人となり雄毅 、兵を用い政 を為 すを善 くす。太祖 の明 の基 を開くに前後して大 に勢 を得、洪武五年より後、征戦三十余年、威名亜非利加 、欧羅巴 に及ぶ。帖木児 は回教を奉ず。明の初 回教の徒の甘粛に居る者を放つ。回徒多く帖木児 の領土に帰 す。帖木児 の甘粛より入らんとせるも、故ある也。永楽元年(1403)より永楽三年に至るまで帖木児 の許 に在 りしクラウイヨ(Clavijo, Castilian Ambassador)記 す、タメルラン、支那 帝使を西班牙 帝使の下 に座せしめ、吾 児 たり友たる西帝 の使を、賊たり無頼の徒たる支那帝の使 の下に坐 せしむる勿 れと云 いしと。又同時タメルラン軍営に事 えしバワリヤ人シルトベルゲル(T. Schiltberger)記す、支那帝使進貢 を求む、タメルラン怒って曰く、吾 復 進貢せざらん、貢を求めば帝みずから来 れと。乃 ち使 を発して兵を徴し、百八十万を得、将 に発せんとしたりと。西暦千三百九十八年は、タメルラン西部波斯 を征したりしが、其 冬 明の太祖及び埃及 王の死を知りたりと也 。帖木児 が意を四方に用いたる知る可し。然 らば則 ち燕王の兵を起ししより終 に位 に即 くに至るの事、タメルラン之 を知る久し。建文二年(1400)よりタメルランはオットマン帝国を攻めしが、外に在 る五年にして、永楽二年(1404)サマルカンドに還 りぬ。カスチリヤの使 と、支那の使とを引見したるは、即 ち此 歳 にして、其 の翌年直 に馬首を東にし、争乱の余 の支那に乱入せんとしたる也。永楽帝の此 報を得るや、宋晟 に勅 して□備 せしむるのみならず、備えたるあること知りぬ可 し。宋晟は好将軍なり、平羌将軍 西寧侯 たり。かつて御史 ありて晟 の自ら専 にすることを劾 しけるに、帝聴 かずして曰く、人に任ずる専 ならざれば功を成す能 わず、況 んや大将は一辺を統制す、いずくんぞ能 く文法に拘 らんと。又嘗 て曰く、西北の辺務は、一に以 て卿 に委 ぬと。其の材武称許せらるゝ是 の如し。タメルランの来 らんとするや、帝また別に虞 るゝところあり。蓋 し燕の兵を挙ぐるに当って、史之 を明記せずと雖 も、韃靼 の兵を借りて以 て功を成せること、蔚州 を囲めるの時に徴して知る可し。建文未 だ死せず、従臣の中 、道衍 金忠 の輩の如き策士あって、西北の胡兵 を借るあらば、天下の事知る可からざるなり。鄭和 胡「さんずい+「勞」の「力」に代えて「火」」、UCS-6FD9、411-12]《こえい》の出 づるある、徒爾 ならんや。建文の草庵 の夢、永楽の金殿 の夢、其のいずれか安くして、いずれか安からざりしや、試 に之を問わんと欲する也。幸 にしてタメルランは、千四百〇五年即 永楽三年二月の十七日、病んでオトラル(Otoral)に死し、二雄相 下らずして龍闘虎争 するの惨禍 を禹域 の民に被 らしむること無くして已 みぬ。
四年応文 は西平侯 の家に至り、止 まること旬日、五月庵 を白龍山 に結びぬ。五年冬、建文帝、難に死せる諸人を祭り、みずから文を為 りて之 を哭 したもう。朝廷帝 を索 むること密 なれば、帝深く潜 みて出 でず。此 歳 傅安 朝 に帰る。安の胡地 を歴游 する数万里、域外に留 まる殆 ど二十年、著す所西遊勝覧詩 あり、後の好事 の者の喜び読むところとなる。タメルランの後 の哈里 (Hali)雄志 無し、使 を安 に伴わしめ方物 を貢 す。六年、白龍庵災 あり、程済 [#ルビの「ていせい」は底本では「ていさい」]募 り葺 く。七年、建文帝、善慶里 に至り、襄陽 に至り、□ に還 る。朝廷密 に帝を雲南 貴州 の間に索 む。
八年春三月、工部尚書 厳震 安南 に使 するの途 にして、忽 ち建文帝に雲南に遇 う。旧臣猶 錦衣 にして、旧帝既 に布衲 なり。震 たゞ恐懼 して落涙止 まらざるあるのみ。帝、我を奈何 せんとするぞや、と問いたもう。震対 えて、君は御心 のまゝにおわせ、臣はみずから処する有らんと申 す。人生の悲しきに堪えずや有りけん、其 夜 駅亭にみずから縊 れて死しぬ。夏、帝白龍庵に病みたもう。史彬 、程亨 、郭節 たま/\至る。三人留まる久しくして、帝これを遣 りたまい、今後再び来 る勿 れ、我安居 す、心づかいすなと仰 す。帝白龍庵を舎 てたもう。此 歳 永楽帝は去年丘福 を漠北 に失えるを以て北京 を発して胡地 に入り、本雅失里 (Benyashili)阿魯台 (Altai)等 と戦いて勝ち、擒狐山 、清流泉 の二処に銘を勒 して還りたもう。
九年春、白龍庵有司 の毀 つところとなる。夏建文帝浪穹 鶴慶山 に至り、大喜庵 を建つ。十年楊応能 卒し、葉希賢 次 いで卒す。帝因 って一弟子 を納 れて応慧 と名づけたもう。十一年甸 に至りて還り、十二年易数を学びたもう。此 歳 永楽帝また塞外 に出 で、瓦剌 を征したもう。皇太孫九龍口 に於 て危難に臨む。十三年建文帝衡山 に遊ばせたもう。十四年、帝程済 に命じて従亡伝 を録せしめ、みずから叙 を為 らる。十五年史彬 白龍庵に至る、庵 を見ず、驚訝 して帝を索 め、終 に大喜庵 に遇 い奉る。十一月帝衡山 に至りたもう、避くるある也。十六年、黔 に至りたもう。十七年始めて仏書を観 たもう。十八年蛾眉 に登り、十九年粤 に入り、海南諸勝に遊び、十一月還りたもう。此 歳 阿魯台 反す。二十年永楽帝、阿魯台 を親征す。二十一年建文帝章台山 に登り、漢陽 に遊び、大別山 に留 まりたもう。
二十二年春、建文帝東行したまい、冬十月史彬 と旅店に相 遇 う。此 歳 阿魯台 大同 [#ルビの「だいどう」は底本では「たいどう」]に寇 す。去年阿魯台 を親征し、阿魯台 遁 れて戦わず、師空 しく還る。今又塞 を犯す。永楽帝また親征す。敵に遇 わずして、軍食 足らざるに至る。帰路楡木川 に次 し、急に病みて崩ず。蓋 し疑う可 きある也 。永楽帝既に崩じ、建文帝猶 在 り、帝と史彬 と客舎 相 遇 い、老実貞良の忠臣の口より、簒国奪位 の叔父 の死を聞く。世事 測る可からずと雖 も、薙髪 して宮 を脱し、堕涙 して舟に上るの時、いずくんぞ茅店 の茶後に深仇 の冥土 に入るを談ずるの今日あるを思わんや。あゝ亦 奇なりというべし。知らず応文禅師 の如何 の感を為 せるを。即 ち彬 とゝもに江南に下り、彬の家に至り、やがて天台山 に登りたもう。
仁宗 の洪□ 元年正月、建文帝観音大士 を潮音洞 に拝し、五月山に還りたもう。此 歳 仁宗また崩じて、帝を索 むること、漸 くに忘れらる。宣宗 の宣徳 元年秋八月、従亡 諸臣を菴前 に祭りたもう。此 歳 漢王 高煦 反す。高煦は永楽帝の子にして、仁宗の同母弟、宣徳帝 の叔父 なり。燕王の兵を挙ぐるや、高煦父に従 って力戦す。材武みずから負 み、騎射を善 くし、酷 だ燕王に肖 たり。永楽帝の儲 を立つるに当って、丘福 、王寧 等 の武臣意 を高煦に属するものあり。高煦亦 窃 に戦功を恃 みて期するところあり。然 れども永楽帝長子 を立てゝ、高煦を漢王とす。高煦怏々 たり。仁宗立って其 歳 崩じ、仁宗の子大位に即 くに及びて、遂 に反す。高煦の宣徳帝 に於 けるは、猶 燕王の建文帝に於けるが如きなり。其 父反して而 して帝たり、高煦父の為 せるところを学んで、陰謀至らざる無し。然 れども事発するに至って、帝親征して之を降 す。高煦乃 ち廃せられて庶人 となる。後鎖※ [#「執/糸」、UCS-7E36、416-8]されて逍遙城 に内 れらるゝや、一日 帝の之を熟視するにあう。高煦急に立って帝の不意に出 で、一足 を伸 して帝を勾 し地に□ せしむ。帝大 に怒って力士に命じ、大銅缸 を以 て之を覆 わしむ。高煦多力 なりければ、缸 の重き三百斤 なりしも、項 に缸 を負いて起 つ。帝炭を缸上に積むこと山の如くならしめて之を燃 す。高煦生きながらに焦熱地獄に堕 し、高煦の諸子皆死を賜う。燕王範を垂れて反を敢 てし、身幸 にして志を得たりと雖も、終 に域外の楡木川 に死し、愛子高煦は焦熱地獄に堕 つ。如是果 、如是報 、悲 む可 く悼 む可く、驚く可く嘆ずべし。
二年冬、建文帝永慶寺 に宿 して詩を題して曰く、
杖錫 来 り遊びて 歳月深し、
山雲 水月 閑吟に傍 ふ。
塵心 消尽 して 些子 も無し、
受けず 人間の物色の侵すを。
これより帝優游自適 、居然として一頭陀 なり。九年史彬 死し、程済 猶 従う。帝詩を善 くしたもう。嘗 て賦 したまえる詩の一に曰く、
牢落 西南 四十秋、
蕭々 たる白髪 已 に頭 に盈 つ。
乾坤 恨 あり 家いづくにか在 る。
江漢情 無し 水おのづから流る。
長楽宮中 雲気散じ、
朝元 閣上 雨声収まる。
新蒲 細柳 年々緑に、
野老 声を呑 んで 哭 して未 だ休 まず。
又嘗 て貴州 金竺 長官司羅永菴 の壁 に題したまえる七律二章の如き、皆誦 す可し。其二に曰く、
楞厳 を閲 し罷 んで 磬 も敲 くに懶 し。
笑って看 る 黄屋 団瓢 を寄す。
南来瘴嶺 千層□ に、
北望 天門 万里遙 なり。
款段 久しく 忘る 飛鳳 の輦 、
袈裟 新 に換 る □龍 の袍 。
百官此 日 知る何 れの処 ぞ、
唯 有り 羣烏 の 早晩に朝する。
建文帝是 の如くにして山青く雲白き処 に無事の余生を送り、僊人 隠士 の踪跡 沓渺 として知る可からざるが如くに身を終る可く見えしが、天意不測にして、魚は深淵 に潜 めども案に上るの日あり、禽 は高空に翔 くれども天に宿 するに由 無し。忽然 として復 宮 に入るに及びたもう。其 事 まことに意表に出 づ。帝の同寓 するところの僧、帝の詩を見て、遂 に建文帝なることを猜知 し、其 詩を窃 み、思恩 の知州 岑瑛 のところに至り、吾 は建文皇帝なりという。意 蓋 し今の朝廷また建文を窘 めずして厚く之 を奉ず可きをおもえるなり。瑛 はこれを聞きて大 に驚き、尽 く同寓 の僧を得て之を京師 に送り、飛章 して以聞 す。帝及び程済 も京 に至るの数 に在り。御史 僧を糾 すに及びて、僧曰く、年九十余、今たゞ祖父の陵 の旁 に葬られんことを思うのみと。御史、建文帝は洪武 十年に生れたまいて、正統 五年を距 る六十四歳なるを以て、何ぞ九十歳なるを得んとて之を疑い、ようやく詰問して遂に其 偽 なるを断ず。僧実 は鈞州 白沙里 の人、楊応祥 というものなり。よって奏して僧を死に処し、従者十二人を配流して辺を戍 らしめんとす。帝其 中 に在 り。是 に於 て已 むを得ずして其 実を告げたもう。御史また今更に大 に驚きて、此 事を密奏す。正統帝 の御父 宣宗 皇帝は漢王高煦 の反に会いたまいて、幸 に之を降したまいたれども、叔父 の為 に兵を動 すに至りたるの境遇は、まことに建文帝に異なること無し。其 の宣宗 に紹 ぎたまいたる天子の、建文帝に対して如何 の感をや為 したまえる。御史の密奏を聞召 して、即 ち宦官 の建文帝に親しく事 えたる者を召して実否を探らしめたもう。呉亮 というものあり、建文帝に事 えたり。乃 ち亮をして応文の果して帝なるや否 やを探らしめたもう。亮の応文 を見るや、応文たゞちに、汝 は呉亮にあらずや、と云いたもう。亮猶 然 らざるを申せば、帝旧 き事を語りたまいて、爾 亮に非 ずというや、と仰 す。亮胸塞 がりて答うる能 わず、哭 して地に伏す。建文帝の左の御趾 には黒子 ありたまいしことを思ひ出 でゝ、亮近づきて、御趾 を摩 し視 るに、正 しく其のしるし御座 したりければ、懐旧の涙遏 めあえず、復 仰ぎ視 ること能 わず、退いて其 由 を申し、さて後自経して死にけり。こゝに事実明らかになりしかば、建文帝を迎えて西内 に入れたてまつる。程済 この事を聞きて、今日 臣が事終りぬとて、雲南に帰りて庵 を焚 き、同志の徒を散じぬ。帝は宮中に在り、老仏 を以て呼ばれたまい、寿 をもて終りたまいぬという。
女仙外史 に、忠臣等名山幽谷に帝を索 むるを記 する、有るが如 く無きが如く、実の如く虚の如く、縹渺有趣 の文を為 す。永楽亭 楡木川 の崩 を記する、鬼母 の一剣を受くとなし、又野史 を引いて、永楽帝楡木川 に至る、野獣の突至するに遇 い、之 を搏 す、攫 されてたゞ半躯 を剰 すのみ、□ して而 して匠を殺す、其 迹 を泯滅 する所以 なりと。野獣か、鬼母か、吾 之 を知らず。西人 或 は帝胡人 の殺すところとなると為す。然 らば則 ち帝丘福 を尤 めて、而して福と其 死を同じゅうする也。帝勇武を負い、毎戦危 きを冒 す、楡木川 の崩、蓋 し明史 諱 みて書せざるある也。
数 か、数か。紅篋 の度牒 、袈裟 、剃刀 、噫 又何ぞ奇なるや。道士の霊夢、御溝 の片舟 、噫 又何ぞ奇なるや。吾 嘗 て明史 を読みて、其 奇に驚き、建文帝と共に所謂 数 なりの語を発せんと欲す。後 又道衍 の伝を読む。中 に記して曰く、道衍永楽 十六年死す。死に臨みて、帝言わんと欲するところを問う。衍曰く、僧 溥洽 というもの繋 がるゝこと久し。願わくは之を赦 したまえと。溥洽 は建文帝の主録僧 なり。初め帝の南京 に入るや、建文帝僧となりて遁 れ去り、溥洽状 を知ると言うものあり、或 は溥洽の所に匿 すと云 うあり。帝乃 ち他事を以て溥洽を禁 めて、而 して給事中 胡※ [#「さんずい+「勞」の「力」に代えて「火」」、UCS-6FD9、423-8]等 に命じて□ く建文帝を物色せしむ。之 を久しくして得ず。溥洽坐 して繋 がるゝこと十余年、是 に至りて帝道衍の言を以 て命じて之を出 さしむ。衍頓首 して謝し、尋 で卒すと。篋中 の朱書、道士の霊夢、王鉞 の言、呉亮 の死と、道衍の請 と、溥洽の黙 と、嗚呼 、数たると数たらざると、道衍蓋 し知ることあらん。而 して楡木川 の客死 、高煦 の焦死 、数たると数たらざるとは、道衍袁□ の輩 の固 より知らざるところにして、たゞ天之 を知ることあらん。
我が
侠客伝は
女仙外史一百回は、
女仙外史の名は其の
世の伝うるところの賽児の事既に
建文皇帝
はじめ太祖、太子に命じたまいて、
建文帝の国を
太祖が諸子を封ずることの過ぎたるは、
七国の事、七国の事、
七国の事、七国の事、嗚呼何ぞ明室と因縁の深きや。洪武二十五年九月、懿文太子の後を
太祖の病は洪武三十一年五月に起りて、
太祖の崩ぜるは
帝の
諸王の為に
帝の
諸藩
建文元年二月、諸王に
燕王は
建文元年正月、燕王
天
燕王は護衛指揮張玉朱能等をして壮士八百人をして入って
煙は
帝黄子澄の言を用い、
八月
炳文の一敗は
景隆
李景隆は大兵を率いて燕王を
景隆の
景隆が大軍功無くして、退いて
前に
巍の書、人情の純、道理の正しきところより言を立つ。知らず燕王の
年は
盛庸は初め
十二月、燕王河に
燕王張玉の死を聞きて
初め
燕王
四月、燕兵
七月、
方孝孺の門人
盛庸等、
十一月、
燕王兵を起してより既に三年、
四年正月、燕の
燕軍の
かくて
五月、燕兵
史を
燕を逐ふ莫れ。
燕を逐へば、日に高く飛び、
高く飛びで、
建文帝の
志士は 苦節を守る、
達人は玄言 に滞 らんや。
苦節は貞 くす可 からず、
玄言豈 其 れ然 らんや。
出 ると処 ると 固 より定 有り、
語るも黙するも 縁無きにあらず。
伯夷 量 何 ぞ隘 き、
宣尼 智 何ぞ円 なる。
所以 に 古 の君子、
命 に安んずるを 乃 ち賢と為 す。
達人は
苦節は
玄言
語るも黙するも 縁無きにあらず。
苦節は
会す 我が 同門の友、
言笑 一に何ぞ
流年
力有るも
人生
擬古の詩、もとより
至人
終世
偉なる
一朝 風雲 会す。
君臣 おのづから
大業
勲名
身
川流れて 去つて
王侯の 墓
天地と
再拝して
蔵春は
我生 れて 四方 の志あり、
楽 まず 郷井 の中 を。
茫乎 たる 宇宙の内、
飄転 して 秋蓬 の如し。
孰 か云ふ 挾 む所無しと、
耿々 たるもの 吾 胸に存す。
魚 の□ に止 まるを為 すに忍びんや、
禽 の籠 に囚 はるゝを作 すを肯 ぜんや。
三たび登ると 九たび到 ると、
古徳 と与 に同じうせんと欲す。
去年は淮楚 に客 たりき、
今は往 かんとす 浙水 の東。
身を竦 てゝ 雲衢 に入る、
一錫 游龍 の如し。
笠 は衝 く 霏々 の霧、
衣 は払ふ □々 の風。
三たび登ると 九たび
去年は
今は
身を
の句あり。身を
山水
といえる
と
と冷笑し、又
世を
離会
性を養ひて 老朽を甘んず。
人は云ふ
忍びざりき 強ひて
山霊
門を
一挙して 即ち北に
親藩 待つこと
天地
神龍
万方 共に
爵賞加恩 厚し。
常時
愛に
道衍の人となりの古怪なる、実に一
道衍は
道衍の卓敬に対する、衍の詩句を
方孝孺は
使君の 雨なり。
使君よ 去りたまふ
我が民の 父なり 母なり。
克勤の民意を
才思
之を
染めて
其九に曰く、
功
学は 貴ぶ 日に
慎んで 中道に廃する
其十に曰く、
白日 青天に
其十一に曰く、
顔面
其終章に曰く、
明年 二三月、
羅山 花 正 に開かん。
高きに登りて 日に盻望 し、
子 が能 く 重ねて来 るを遅 たむ。
高きに登りて 日に
生は乃ち
道
敬義
忠信 以て
慈仁 以て
万象
一一
孝孺
孝孺既に文芸を
壮士 千載 の心、
豈 憂へんや 食 と衣 とを。
由来海 に浮 ばんの志、
是 れ 軒冕 の姿にあらず。
人生 道を聞くを尚 ぶ、
富貴復 奚 為 るものぞ。
賢にして有り陋巷 の楽 、
聖にして有り西山 の饑 。
頤 を朶 る 失ふところ多し、
苦節未 だ非とす可からず。
由来
人生 道を聞くを
富貴
賢にして有り
聖にして有り
苦節
志士は 景光を
将来
百年
何ぞ必ずしも
仰いでは
前半は
遜志斎の詩を逃虚子の詩に比するに、風格おのずから異にして、精神
知らず 李杜の 更に
始めて是れ
第二に曰く、
道徳を 発揮して 乃 ち文を成す、
枝葉 何ぞ曾 て 本根 [#「本根」は底本では「木根」]を離れん。
末俗 工を競ふ 繁縟 の体 、
千秋の精意誰 と与 に論ぜん。
是 れ正学先生の詩に於 けるの見 なり。華 を斥 け実 を尚 び、雅を愛し淫 を悪 む。尋常一様詩詞 の人の、綺麗 自ら喜び、藻絵 自ら衒 い、而 して其の本旨正道を逸し邪路に趨 るを忘るゝが如きは、希直 の断じて取らざるところなり。希直の父愚庵 、師潜渓 の見も、亦 大略是 の如しと雖 も、希直の性の方正端厳を好むや、おのずから是の如くならざるを得ざるものあり、希直決して自ら欺かざる也。
孝孺 の父は洪武 九年を以て歿 し、師は同十三年を以て歿す。洪武十五年呉□ の薦 を以て太祖に見 ゆ。太祖其 の挙止端整なるを喜びて、皇孫に謂 って曰く、此 荘士、当 に其 才を老いしめて以て汝 を輔 けしめんと。閲 十年にして又薦 められて至る。太祖曰く、今孝孺を用いるの時に非 ずと。太祖が孝孺を器重 して、而 も挙用せざりしは何ぞ。後人こゝに於 て慮 を致すもの多し。然 れども此 は強いて解す可 からず。太祖が孝孺を愛重せしは、前後召見の間 に於 て、たま/\仇家 の為 に累 せられて孝孺の闕下 に械送 せられし時、太祖其 名 を記し居たまいて特 に釈 されしことあるに徴しても明らかなり。孝孺の学徳漸 く高くして、太祖の第十一子蜀王 椿 、孝孺を聘 して世子の傅 となし、尊ぶに殊礼 を以 てす。王の孝孺に賜 うの書に、余一日見ざれば三秋の如き有りの語あり。又王が孝孺を送るの詩に、士を閲 す孔 だ多し、我は希直を敬すの句あり。又其一章に
枝葉 何ぞ
千秋の精意
とあり。又其の
文章 金石を奏し、
衿佩 儀刑 を覩 る。
応 に世々 三輔 に遊ぶべし、
焉 んぞ能 く 一経 に困 せん。
の句あり。王の優遇知る可くして、孝孺の恩に答うるに道を以てせるも、
太祖崩じ、皇太孫立つに至って、廷臣
燕王志を得て、今既に帝たり。
孝孺の
道は
後に 万世あり。
又
之を以て事を記す、其の民を利せんを欲す。
之を以て
之を以て法を制す、其の仁ならんを欲す。
帝、孝孺の一族を収め、一人を収むる
義を取り 仁を成す
と吟じて
方氏一族
古来 馬を叩 く者、
采薇 逸民を称す。
明 の徳 □ ぞ周 に遜 らん。
乃 ち其の仁を成す無からんや。
と。
十族 魂 の 暗き月に依 る有り、
九原 愧 の 青灯に付する無し。
と、
国破れて 心 仍 在 り、
身危 ふして 舌 尚 存す。
身
又句あり、曰く、
気は壮 なり 河山 の色、
神 は留 まる 宇宙の身 。
三年、重慶の
四年
八年春三月、
九年春、白龍庵
二十二年春、建文帝東行したまい、冬十月
二年冬、建文帝
山雲 水月 閑吟に
受けず 人間の物色の侵すを。
これより帝
江漢
長楽
又
笑って
南来
北望 天門 万里
百官
建文帝
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