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日本历史人物:苏我入鹿

forevereva译 2014-08-27 20:14

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「大化改新」の主役が中大兄皇子、そしてこれを補佐した中臣鎌足だとすれば、その敵役は蘇我氏、それも宗本家の蘇我蝦夷・入鹿の父子ということになる。また、それがここに取り上げた蘇我入鹿だ。

如果说“大化改新”的主角是中大兄皇子,以及辅佐他的中臣镰足的话,那么唱对手戏便是苏我氏,也就是本家的苏我蝦夷、苏我入鹿父子。这里要说的就是苏我入鹿其人。

蘇我入鹿は、祖父・蘇我馬子が築いた繁栄をベースに君臨。蘇我氏は大臣(おおおみ)として大和朝廷の実権を馬子、父・蝦夷に次いで三代にわたって掌握した。642年(皇極元年)、父に代わって国政を掌握した入鹿は翌年、父から独断で大臣を譲られ名実ともに大和朝廷の最高実力者となった。

苏我入鹿在祖父苏我马子构筑的繁荣下掌握权势。苏我氏作为“大臣”掌握大和朝廷的实权,历经马子、父亲蝦夷,到了入鹿是第三代。642年,入鹿代替父亲施行国政,次年,父亲又擅自将“大臣”的称号授予他。这样,苏我入鹿成为名符其实的大和朝廷最高权力者。

しかし、専横を極めた蘇我氏は善玉の手で征伐されないと物語が成り立たない。入鹿は、彼が皇位に就けようと画策した古人大兄皇子の異母弟で、古人大兄皇子の皇位継承のライバルだった中大兄皇子(後の天智天皇)、中臣鎌足らのいわゆる「乙巳の変」のクーデターによって飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)の大極殿で、皇極天皇に無罪を訴えるも、その御前であえなく止めを刺され、暗殺された。後日、父蝦夷も自決し、ここに馬子の時代から天皇家をも凌ぐ絶大な権力を持ち、栄華を誇った蘇我宗本家は滅んだ。

不过,权势熏天的苏我氏若是没有被正派人士讨伐的话,故事也就不能成立了。入鹿策划让古人大兄皇子继承皇位。而古人大兄的异母弟、皇位竞争对手的中大兄皇子(后来的天智天皇)与中臣镰足则发动了政变“乙巳之变”。于是入鹿在飞鸟板盖宫的大极殿上遭到暗杀,尽管他向在场的皇极天皇申诉自己无罪,却仍然悲惨地被施以致命一击。几天后,父亲苏我蝦夷也自己结束了生命。至此,从苏我马子的时代开始掌握凌驾于天皇之上的巨大权力,一时权势倾天的苏我氏本家灭亡了。

こうした部分だけみると、この入鹿という人物、権勢を背景にわがまま放題に振る舞う野心家で、“悪”の権化の印象を受けるが、果たしてそうなのか?入鹿は青少年期、南淵請安(みなみぶちのしょうあん)の学堂で学ぶ秀才だったと伝えられている。南淵請安は608年、遣隋使として派遣された小野妹子に従い、僧旻ら8名の留学生・留学僧の一人として留学。以来32年間、隋の滅亡から唐の建国の過程を見聞して640年、高向玄理らとともに帰国した。

仅仅看上面的部分,自然会觉得苏我入鹿其人不过是一个仗着权势为所欲为的野心家、恶人的化身。然而果真是如此吗?相传,入鹿在青少年时期曾就学于南渊请安学堂的秀才。南渊请安是留隋的僧人,608年遣隋使小野妹子赴隋时,有僧旻等8名留学生、留学僧随行,南渊请安就是其中一人。此后32年期间,南渊请安经历了从隋朝灭亡到唐朝建立的过程,于640年和高向玄理等人一同回国。

また、この南淵請安の学堂には若き日の中臣連鎌子(後の鎌足)も出入りしていたというから皮肉だ。また、それだけに鎌足も入鹿の学識レベルを熟知。入鹿が権勢をバックにした、単なる野心家ではないとみて、綿密に打倒計画を練っていたのではないか。

而讽刺的是,年轻时的中臣镰足也出入于南渊请安的学堂。或许正因为这样,镰足也熟知入鹿具有学识。因此并不把他视作靠着权势的单纯野心家,为了打倒他指定了绵密的计划。

「乙巳の変」決行に際して中大兄皇子、鎌足らは、日頃から注意深く慎重な入鹿の性格を知悉していたことから、わざと俳優(わざひと)を配して入鹿の帯びた剣を解かせた。中大兄皇子らは入鹿が入場すると諸門を固め、自らは長槍を持って宮殿の脇に身を隠した。鎌足は海犬養連勝麻呂(あまのいぬかいのむらじかつまろ)に命じて、佐伯連子麻呂(さえきのむらじこまろ)と葛城稚犬養連網田(かずらきのわかいぬかいのむらじあみた)に剣を渡し、素早く入鹿に斬りかかるよう伝えた。

在发动“乙巳之变“时,中大兄皇子、中臣镰足等人都甚至入鹿平日小心谨慎的性格,因而专门安排巧匠解开了入鹿的佩剑。中大兄皇子等人还在入鹿入殿后关闭了各处大门,自己手持长枪隐藏在宫殿一侧。镰足命令海犬养连胜麻吕,将剑交给佐伯连子麻吕与葛城稚犬养连纲田,要他们迅速斩杀入鹿。

子麻呂らはいざとなると怖じ気づき、なかなか斬りかかろうとしなかった。上表文を読み進める蘇我倉山田石川麻呂は、なかなか刺客が登場しないのに、たじろいで大汗を流した。異変に気付いた入鹿が石川麻呂に問いかけるやいなや、中大兄皇子らが躍り出て遂に入鹿に斬り付けた。皇極天皇は惨劇を目の当たりにして、中大兄皇子に説明を求めた。そこで、中大兄皇子は、皇位を簒奪しようとする入鹿の悪行を余すところなく糾弾した。この「乙巳の変」を機に、わが国では史上初めて譲位が断行され、皇極天皇から同天皇の弟、軽皇子へバトンタッチされ、孝徳天皇が誕生した。

不料子麻吕等人到了关键时候感到恐惧,迟迟不能下手。苏我仓山田石川麻吕正捧读上表文,见刺客迟迟不出现,为此惊恐不安以至大汗淋漓。苏我入鹿察觉了异常,就在他质问石川麻吕时,中大兄皇子等人冲了出来,将其砍下。皇极天皇目睹了眼前的惨剧,要求中大兄皇子作出解释。于是中大兄皇子大声谴责入鹿企图篡夺皇位等种种恶行。以“乙巳之变“为契机,日本首次实现了皇位的让与,皇极天皇将皇位让与弟弟轻皇子,也就是孝德天皇。

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