沪江

日本历史人物:幕末风云儿 坂本龙马

forevereva译 2012-10-16 06:15

薩長同盟

仇敵同士の薩長両藩をどう和解させるか。長州藩は間近に迫った長州征伐を前に最新鋭の武器を欲していた。しかし幕府は『長州藩への武器売却まかりならぬ』と禁制を出しており、武器購入は不可能。文字通り藩存亡の危機に瀕していた。そこで龍馬は親交のあった西郷に働きかけ、長州藩が武器を購入する際に薩摩藩の名義を貸す代わりに、飢饉で苦しむ薩摩に長州が米を送るという密約を提案した。

萨长同盟

怎样让水火不容的萨长两藩和解呢?长州征伐(幕府第二次征长战役)正在逼近,长州急需最新的尖端武器。然而,幕府却下了禁令,“禁止贩卖武器给长州藩”,要购买武器已不现实了。如文所述,长州面临整个藩是存是亡的危机。于是龙马鼓动交往甚密的西乡,提议了一项密约,允许长州在萨摩的名义下购买武器,相对的是,长州需为萨摩输送米谷。

作戦は大成功。新式の武器を大量に手に入れた長州藩は、薩摩藩が幕命に反してまで名義を貸してくれたことで、わだかまりが消えていく。

这个策略获得成功。长州入手大量新式武器,萨摩违抗幕府命令、借出自己名义的举动,也消解了长州对萨摩的芥蒂。

龍馬が仲介となって両者は急接近し、悲願だった薩長の軍事同盟締結が現実味を帯びてきた。1866年、正月明けの京都で薩摩西郷隆盛と長州桂小五郎のトップ会談が始まる。しかし!同盟へ向けた話し合いが10日目に入っても、互いに「我が藩と同盟を結んでくれ」と切り出せないでいた。先に言った方が“お願いする”立場になるからだ。

在龙马斡旋下双方迅速接近,期盼已久的萨长军事同盟总算有了实现的可能。1866年正月刚过,萨摩的西乡隆盛和长州的桂小五郎在京都开始了高层会谈。但是,经过了整整10天也没有谈到同盟,双方都不愿先提出“结盟”的要求。这是由于先提出的一方会处于“恳求”的被动立场。

萨长同盟(蜡像)

長州への帰り支度を始める桂小五郎に龍馬が詰め寄ると「もし長州から和解を申し入れれば、幕府との戦争を控え危機にある長州が、薩摩に情けを求めることになる。たとえ和解が成立せず長州が焦土となろうとも、面目を落とすことは出来ない」との返事。彼は激怒した。「長州の体面云々、一応うけたまわろう。しかし元来、薩長の和解はこの日本国を救わんがためなれば、一藩の私情は忍ばざるべからず!」。この談判に桂は心を動かされる。一方、西郷もまた龍馬から無情を痛論され、桂の心情を察して自分から同盟を申し込むことを約束する。1866年1月21日、ここに日本の歴史を変える薩長同盟が締結された!

桂小五郎打点起行李,准备回程,面对龙马的追问,他答道:“长州正面临与幕府一战的危机,要是由长州来要求和解的话,便等于在央求萨摩的同情了。纵然和解达不成,长州成为一片焦土,也不能失掉大体。”龙马听闻此言大怒,“还谈什么长州的体面,当要之急是两家联手,如果萨长言和能拯救日本,就不得不抛掉藩的脸面。”一席话打动了桂。另一方面,西乡也受到了龙马的迎头抨击,体察到了桂的想法,遂立下约定由自己提出结盟。1866年1月21日,就在这里,改变日本历史的萨长同盟缔结了。

桂小五郎(木户孝允)

寺田屋事件

同盟成立の3日後、深夜3時。京都伏見の寺田屋で龍馬が長州藩士の三吉慎蔵と同盟締結の祝杯を酌み交わしていると、寺田屋の女中で龍馬に惚れていた“楢崎お龍”が、外の異変を2人に知らせた。奉行所の役人が踏み込んできたのだ。部屋に突入してきた役人と対峙した龍馬はピストルで相手の出鼻くじく。彼は右手に深手の刀傷を負いながらも何とか薩摩屋敷に脱出したが、2名の捕り方を射殺したことで奉行所の恨みを買ってしまう。

寺田屋事件

同盟缔结后的第三天的深夜3点,龙马正在京都伏见的寺田屋和长州藩士三吉慎藏对饮庆祝同盟结成,就在这时,寺田屋的女侍、迷恋龙马的“楢崎龙”告知了2人屋外的异常情况。奉行所的捕快闯进来了。与冲入房间的捕快对峙的龙马使用手枪击退了对手。尽管他右手负了重伤,但总算是逃到了萨摩藩邸里,而因为射杀了2名捕快,龙马也招致了奉行所的仇恨。

この事件後、龍馬とお龍は正式に結婚。傷の治療には鹿児島·霧島の温泉が良いという西郷の勧めもあって、薩摩藩の汽船で日本初と言われる「新婚旅行」を敢行、高千穂の峰を登ったり温泉に入ったりと行楽を楽しんだ。翌1867年6月、京に向かう船中。龍馬はあくまでも武力で倒幕しようとする薩長に対し、“今は日本人同士が戦っている場合ではない”と、幕府から朝廷へ平和的に政権を移譲させる大政奉還など八ヵ条の構想「船中八策」を考えた。土佐藩はこれをもとに幕府へ建白し、10月14日、将軍慶喜はついに大政奉還を受け入れた。

在这个事件后,龙马和阿龙正式结婚了。为了疗伤,加上西乡大力推荐鹿儿岛雾岛的温泉,龙马乘坐萨摩蒸汽船进行了日本的首次“新婚旅行”,上登高千穗峰,下泡温泉,旅途其乐无穷。次年1867年6月,在前往京都的船上,龙马对坚持以武力倒幕的萨长劝解说,“如今不是日本人窝里斗的时候”,为此他构想出八条构想,即“船中八策”,其中包括由幕府向朝廷和平移交政权的“大政奉还”。土佐藩以此为基础向幕府提交了建议书,10月14日,将军庆喜最终接受了大政奉还。

龍馬、京都近江屋に死す

その1ヵ月後、運命の11月15日。寺田屋事件の後、京や大阪に人相書が出回っていた龍馬は、京都河原町醤油商·近江屋の裏庭の土蔵に密室を造り、そこを隠れ家にしていた。裏手の称名寺(しょうみょうじ)への脱出ルートも作って万全を期していたが、この日の龍馬は風邪気味で、土蔵の中は寒さがこたえるからと、夕方から来訪していた同志·中岡慎太郎と母屋の二階で火鉢にあたっていた。そこに2人の仲間が加わり談笑するうちに、龍馬が「栄養たっぷりの軍鶏(しゃも)鍋でも食おう」と言い出し、20時半ごろ一人(菊屋峰吉)に鶏を買いにやらせた。もう一人も所用で帰り、この時点で母屋にいたのは龍馬、中岡、龍馬の護衛役で力士の藤吉の3人。その直後、十津川郷士と名乗る7人の男が訪問し、龍馬の部屋に案内する藤吉を背後から斬りつけた。

龙马、殒命近江屋

就在那之后一个月,命中注定的11月15日到了。寺田屋事件后,通缉布告在京阪地区四处张贴,于是龙马在京都河原町酱油商近江屋的后院仓库里造了个密室,以作个人藏身用。为保万无一失,他甚至布置好了通到背后称名寺的逃跑线路,然而就在15日这天,龙马受了寒,在仓库里呆得发冷,便邀上来访的好友中冈慎太郎,一同在母屋的二楼围炉而坐。在那儿又有两名同伴加入,谈笑间,龙马提议:“不如尝尝营养十足的军鸡锅吧”,晚上8点左右,其中一人(菊屋峰吉)前去买鸡。之后又有一人有事离开,此时仍坐在母屋里的,只剩龙马、中冈以及龙马的护卫相扑手藤吉三人了。不久,7名自称是十津川乡士的男子来访,藤吉带他们进屋时被人从背后砍倒。

一起遇害的中冈慎太郎

龍馬は藤吉が倒れる音を聞いて部屋の外でふざけていると思い「ほたえな!(騒ぐな!)」と声をかける。そこへ2人の刺客が飛び込み、龍馬の額をいきなり真横に斬った(この時の血が掛軸に残っている)。続いてもう1人が中岡に「こなくそ!」と斬りかかる。不意を突かれた龍馬はピストルを取り出す間がなく、とっさに床ノ間の愛刀『吉行』に手を伸ばす。そこを右肩から背中にかけて二の太刀が襲い、続く三太刀目はかろうじて刀の鞘で受け止めたものの、そのまま力押しで前頭部を再度斬られた。中岡も全身を10箇所以上斬られる。奥にいた刺客が「もうよい」と告げ賊は去った。血溜まりの中で龍馬は「残念、残念」と呟き、刃に映った自分の傷を見て「俺は脳をやられたからもう駄目だ」と言い絶命。この日は奇しくも龍馬の32回目の誕生日(旧暦)だった。

龙马听见藤吉倒地的声音满以为他在屋外喧闹,便大声说了句“别闹了!(ほたえな 土佐方言)”说时迟那时快,2名刺客飞奔而入,冷不防地往龙马的前额劈去(那时的血还残留在挂轴上)。接下有1人大骂一声“妈的”,一刀砍倒了中冈。龙马措手不及,来不及取出手枪,仓皇间伸手去拿放在地板上的爱刀“吉行”,自右肩到脊背又遭到第二刀的袭击,他艰难地以刀鞘挡住紧随的第三刀,可力量被弹回,前额再次被砍伤。中冈全身上下共被斩伤了10处以上。只听见站在最里的1人说道:“差不多了”,一群刺客才作罢离开。血肉模糊的龙马喃喃念着“可惜、可惜”,望了眼映在刀刃上的自己的伤口说:“脑被斩伤,没活路了”,便一命呜呼了。不可思议的是,这一天正是龙马的32岁生日(旧历)。

重傷の中岡は暗殺時の状況を土佐藩士に伝えた後、翌々日に「今後は岩倉具視卿に王政復古の実行を頼れ」と言い残し息絶える。龍馬の葬儀は死の3日後に近江屋で執り行われ、亡骸は中岡や藤吉らと共にに埋葬された。この非業の死の翌月、王政復古の大号令が発され新生日本が誕生した。

重伤的中冈在向土佐藩士描述了暗杀时的情况后于次日离世,留下遗言“今后就拜托岩仓具视卿实行王政复古了”。龙马的葬礼于死后3日在近江屋举行,遗体和中冈、藤吉合葬。就在这场意外死亡的次月,王政复古号令发布,新日本诞生了。

战国年表:以下克上的时代—幕府落日

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