沪江

日本鬼怪故事恐怖在哪里——怪谈的历史变迁

米亚 译 2021-09-29 06:15

怪談研究家として知られる著者·吉田悠軌が、現代怪談の変遷について振り返る。リアリティをいかに捉えるか、「心霊」という概念とは何か……。

日本著名的怪谈研究者,作家吉田悠轨为我们讲述了日本现代怪谈的历史变迁。它究竟是怎样扎根于现实的呢?“灵异”究竟又是什么呢?

そもそも怪談とは?

怪谈究竟是什么?

怪談とは「本当にあった不思議な話」である。また、それでしかない。

怪谈就是“让人不可思议的真实故事”,或者说,它只能是这种故事。

これは現代怪談に限らず、人類誕生時から続く怪談史の不変の真理だ。

这不仅限于现代怪谈,而是自人类诞生起就存在的怪谈的不变真理。

「これって今、俺が考えた作り話なんだけどさ。友人のA君が、この前、変な体験をしたと思ってよ......」などと怪談を語りはじめるバカはいない。「本当にあった」としなければ成立すらしないのが怪談であり、極論すれば、たとえ100%の創作でも、語り手は「実話」形式をとらざるをえない。受け手側も、どれだけ疑いを挟むかはともかく、一応「実話」形式のもとに享受する。

“这是我最近想出来的一个故事。我的朋友A之前曾经有过一次不可思议的经历......”——恐怕没有人会蠢到这么讲怪谈。怪谈只有在“真实发生”的前提下才能成立,举个极端的例子,哪怕这个故事是百分百虚构出来的,讲故事的人也要用“真事”的形式说出来才可以。这样,对听的人来说,就算再怎么怀疑故事的真实性 ,姑且也会当成“真事”来听。

「不思議な現象を体験した人がいるらしい。その現象が自然科学的に実証・再現可能かは不明だし、そんな詮索は無意味だ。なぜなら『ありえない不思議があった』という矛盾こそが面白いのだから。ともかく体験自体は『本当にあった』のだから、その話を聞き、怖がろうではないか」

“真的有人体验过奇怪的事情。这些事情无法用自然科学的手段验证,也不确定能否再现,而探索这件事情的真相本身也毫无意义。原因就在于,这种‘令人难以置信又不可思议’的矛盾感才是它的有趣之处。总而言之,这件事情本身是‘真实发生的’,那我们不妨听一听,怕一怕吧。”

これが現代の怪談好きのスタンスだ。もっとも、当の怪談がどうしても「創作」にしか思えないものだとしたら、どんな怪談好きでも「これは非・怪談だろう」と投げ捨ててしまう。

这就是现代怪谈爱好者们的态度,如果某个怪谈怎么听都像是“虚构”的,想必爱好者们就会称“这是假怪谈吧”并嗤之以鼻。

「創作でも怖ければいいじゃないか」と思うだろうか?それは違う。

大家是不是觉得“就算是虚构的,够吓人不就行了吗”?其实并不是的。

「ありえない不思議があった」からこそ怖いのだ。なのに、それが誰かの脳内で想像された「創作」であれば、別にどんな不思議現象だって「ありうる」ではないか。それでは怪談の恐怖の本質からズレてしまう。

正因为‘令人难以置信又不可思议’才恐怖。然而,如果这个故事本身就是人脑子里想象出来的“虚构”内容,那无论多不可思议的事情都是“可能发生的”。这就有违怪谈的恐怖本质。

「創作怪談」というものは絶対にありえない。「創作」を前提とした恐怖系作品は、ホラー小説、ホラー映画などのジャンルに分類される。

“虚构怪谈”是绝对不存在的。如果是以“虚构”为前提的恐怖作品,应该分类到恐怖小说、恐怖电影等类别当中。

冒頭の定義を言い直せば、怪談とは「本当にあった/と我々が思える/不思議な話」でなければならない。

如果对本文开头的怪谈定义进行修正的话,它就应该是“我们认为是真实存在的,不可思议的故事”。

変わる部分、変わらぬ部分

变与不变的部分

怪談には、時代によって変わる部分と変わらない部分がある。その「物語構造」は、数百年前の昔話と驚くほど似通っている。「表現方法」は文章、または肉声による語りのどちらか、と非常に原始的だ。特に同じ空間で対面しての語りが重視される点は、太古の時代からほとんど変わっていないとすら言える。

随着时代的变迁,怪谈故事有发生变化的部分,也有延续至今的内容。其“故事构造”和数百年前“过去的故事”惊人的相似。而“表述方式”也多是文章或真人讲述,无论哪种方式都非常的原始。尤其是其重视大家在一起面对面讲述这一点,自太古时期传承至今几乎没有变化。

では、変わる部分とはなにか。テクノロジーの発展により生活スタイルが変化すると、怪談はかなり素早くそれに対応する。明治期、カメラが普及すれば「撮影により魂を吸われる」との噂が、汽車が走るようになれば「狸が汽車に化けた」との奇譚がすぐに囁かれた。近年でも、ネットワーク技術の進化で新サービスが登場するたび、それにまつわる怪談が生まれる。「LINEで死んだはずの人のアカウントから既読がついた」などという話は有名だ。

那究竟哪些内容变了呢?随着科技的发展,人们的生活方式发生了变化,怪谈也早早就适应了现代生活。明治时期,相机刚刚普及时产生了“拍照会被吸走灵魂”的说法,有了火车后,立刻就有了“狸猫变火车”的故事。近年来,每当互联网技术发展产生新的网络服务,就会有相应的怪谈产生。其中“已经去世的人已读了我的LINE留言”就十分出名。

ただ先述通り、「物語構造」はそう変わらない。「乗客がいつのまにか消えていた」怪談は、駕籠→人力車→タクシーと表面上は変化しつつも、構造的には似た話が変奏されているだけ。スマホ機能や各アプリなど最新ガジェットが普及すれば、それにまつわる怪談も出るが、内容に革命的変化が起こるわけではない。

不过,正如前文所说,“故事构造”大体是没有变化的,比如“乘客不知不觉中都消失了”的怪谈,就从轿子发展到人力车,再演变到了出租车上,从结构上来讲,就是对相似的故事进行了简单的“改编”。每当手机和各APP有新功能普及,就会有相应的怪谈产生,但内容上并没有什么实质性的变化。

15年前、私は「Skype通話でやりとりしていた相手の部屋の映像に、いるはずのない謎の男が映っており、先方の女性の肩に頭を乗せていた」との体験談を採取した。しかし現在、似た体験がZoomで起きたという怪談も聞く。反対に時代を遡れば、ビデオ、写真、鏡を使っての、しかし構造は同じ怪談が幾つもあるだろう。

15年前,笔者就听过“在和别人用Skype视频聊天时,对方房间里出现了一个从未见过的神秘男人,还把头靠在那边女孩子的肩上”的体验谈,如今,也在Zoom中听到了类似的体验怪谈。再往前追溯,也曾有过以视频、照片、镜子为载体的怪谈,而内容构造几乎相同。

現代怪談は、技術発展や社会変化によって刻々の変遷を生じる。しかし注目すべきは、ガジェットなど道具立ての変遷ではない。真に重要なのは、我々が怪談に抱く「リアリティ」がどう変化していったか、なのだ。なにしろ怪談とは「本当にあった/と我々が思える/不思議な話」なのだから。我々が不思議な現象を本当にあったと感じるリアリティの位相は、それぞれの社会状況で異なっている。それを確認することが、すなわち「現代怪談の変遷」の説明に繋がるだろう。

随着科技的发展和社会的变化,现代怪谈也在时时发生变化。而值得注意的并不是其中的新功能等载体的变迁,重要的是我们对怪谈“真实性”的看法的变化。因为怪谈是“我们认为真实存在的,不可思议的故事”。而我们对这种“不可思议又真实存在的”的真实感的看法是根据社会的变化而变化的,理解这一点,与解释“现代怪谈的变迁”息息相关。

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近代科学との出会い

与近代科学的交锋

「怪談には二通りあると思う。話す人自身がこれは真個の話だと思って話すのと、始めからこれは嘘と知りつつ話すのと此の二通りある。前者は罪が浅いが、後者は嘘と知りつつ真個らしく話すのだから罪が深い。のみならず嘘を作った怪談は聞いても面白くない」

“怪谈大多有两种。一种是讲述人个人认为这是真事,另一种是一开始就知道是虚构的故事。前者罪行尚浅,后者明知是假的还要当做真事讲,难以原谅,而且假怪谈听起来也不会有趣”。

柳田國男は「怪談の研究」(1910年)冒頭にて、創作怪談を切って捨てている。もちろん幽霊が出るなどの不思議現象を信じているからではない。「本当にあった」とされる怪談を、作為を付け足さず生のまま提出した方がよい、という主張だ。

柳田国男(日本民俗学创立者)在《怪谈的研究》(1910年)开头就将虚构怪谈择了出去。当然,这并不意味着他相信幽灵等灵异现象,而是他主张讲述“真实”的怪谈不能添加人为的虚构内容。

これは一見、現代的なスタンスに見える。ただ、ここでの柳田は現代の怪談好きのように「その方がリアルな手触りで面白い」といった理由で支持しているのではない。生の怪談は、その内容が「事実」でなくとも、裏に隠された「事実」があるはず、と考えていたからだ。

这乍一看十分符合当代怪谈爱好者的态度。但是,柳田反对虚构怪谈的理由与现代爱好者“真实才有趣”的看法并不相同,而是他认为,真正的怪谈,哪怕它的内容不是“真实的”,但背后一定蕴含着“真实性”。

3ヵ月後に『遠野物語』発表を控えていた柳田は「天狗にさらわれた」「神隠しにあった」などの怪談を、実在する「山人」との接触譚を言い換えたものと捉えていた。「日本に住んではいるが、日本人と全く人種が異なり、山に生まれて山に死す我々と異った人間が、山奥に住んでいるのではないか」と。

在三个月后发表的《远野物语》中,柳田将“被天狗带走”“经历神隐”等怪谈换成了遇到“山人”的故事。并称“大山深处或许住着这么一群人,他们虽住在日本,但和日本人不是一个人种。他们生在山里,死在山里,和我们完全不同”。

周知の通り、これは誤った裏読みで、柳田は後に「山人」のテーマを撤回することになる。だが肝心なのは仮説の当たり外れではなく、怪談に対してのリアリティの捉え方だ。

众所周知,这种解读是错误的。之后柳田也撤回了“山人”这一主题。但这之中最重要的不是他偏离了故事假说,而是他对待怪谈真实性的态度。

科学的に実証できずとも、個人の不思議体験は存在するだろう。重要なのは、それを分析し、隠された「事実」を発見、抽出すること。だから創作ではない生の怪談が必要だ。なぜその話が語られたかの科学的説明を探るために......という立場。

想必人都有过这种科学无法验证又不可思议的体验。这时重要的就是对其进行分析,发现隐藏在背后的“事实”并将其精炼出来,所以我们需要的是真实的怪谈而非虚构的,因为我们的目的是寻求这个故事的科学证明。

同年はまた、英米で興った「心霊主義」「心霊研究」が、遅れて日本に流入してきた時期でもある。この後、アカデミズムでは心霊研究が淘汰されるものの、心霊主義は文学方面や新興宗教へと継承され、大衆文化にまで届いていく。

此外,英美早些时候兴起的“唯灵论”“灵异研究”也开始在这段时间传入日本。之后,它虽然被学院派摈弃,但却在文学方面和新兴宗教中得以继承,渗透到大众文化当中。

「心霊」という概念

“灵异”的概念

1970年代の日本ではオカルトブームが勃興する。怪談界隈も例に漏れず、つのだじろうの漫画『うしろの百太郎』や、中岡俊哉らの紹介による「心霊写真」が大人気を博す。

二十世纪七十年代,日本掀起了超自然现象热潮。怪谈也不例外,つのだじろう创作的漫画《背后的百太郎》、中冈俊哉等人介绍的“灵异照片”收获了众多关注。

ただ注意すべきは、これらコンテンツの根幹に「今、不思議とされる現象はただの迷信ではない。いずれ科学的に証明できる」との考えがある点だ。スプーン曲げなどの超能力の科学的検証、ネッシーなど未確認生物の探索と同じ立場であるし、そこが人気を博した理由でもあるだろう。「コックリさんをして、おかしな精神状態になった」体験談があれば、「低級霊を呼び寄せ、とり憑かれたからだ。仕組みは未解明だが、いずれ物理現象として証明されるだろう」と「専門家によって解説」される。一見、科学を否定しているようで、実はひたすら自然科学的な手つきにて「本当にあった」かを判断する。

但值得注意的是,内容的重点是他们认为“现在发生的很多灵异现象不是简单的迷信,迟早会有科学证明这一点”。他们将弯折勺子这种超能力的科学验证和尼斯湖怪兽等未知生物的探索放在同一立场上,这才是“灵异”博得人气的理由。例如“引狐仙后精神状态变得奇怪了起来”的体验,就会“有专家解说”是因为“召唤低级灵仙后被附身了。虽然不知道是怎么做到的,但迟早能证明是某种物理现象”。这种做法乍一看否定了科学,但其实是假借自然科学之口认为这些现象是“真实存在的”。

こうしたリアリティの捉え方は「心霊」なる用語に如実に表れている。心霊写真、心霊ビデオ、心霊スポット......「心霊」の語は必ず、物理的に見てとれるものに冠される。元は「精神の働き」(やや宗教色を含む)ほどの意味だった「心霊」だが、明治末頃から英米の心霊主義の影響を受けて変化。見えないはずの不思議が、見えて顕現する状況を表す「科学用語」として扱われていく。

这种对真实性的看法如实表述了“灵异”的概念。“灵异照片”“灵异视频”“灵异场所”......凡是与“灵异”有关,必定是物理意义上可以看得到摸得着的东西。这个原本有着“精神动向”(多少含有一些宗教色彩)含义的“灵魂”一词,自明治末期日本受到英美唯灵论的影响之后就发生了改变。原本看不见的怪异现象,被大家当成了一个表述显现在眼前的现象的“科学用语”。

特に頻出したキーワードは、やはり「心霊写真」だ。霊体や千里眼やエクトプラズムを写した「写真」こそ、死後も魂が存続する(=魂が観測可能な物質である)科学的物証と考えられたからだ。こうした心霊主義は後に、日本心霊科学協会や生長の家などに受け継がれつつ、70年代にポップ・カルチャー化した。

尤其多见的一个词就是“灵异照片”。一张拍摄到灵体、千里眼或灵气的“照片”成为了证实死后存在灵魂(即灵魂是可以观测到的物质)的科学物证。如此,唯灵论之后被日本灵异科学协会(研究唯灵论思想哲学和灵异超自然现象的灵异研究团体)和生长之家(新宗教)继承下来,在70年代成为日本的流行文化。

不思議を肯定する側とはいえ、心霊主義もまた現代怪談の立場とは異なる。今の日本で「スピリチュアル」と称される現代霊性文化とこそ親和性が高いだろう。現代怪談はむしろ、心霊主義の疑似科学的立場と決別することで自立したのだ。時期としては平成初期のことで、これは同時に「都市伝説」と怪談が決別するタイミングでもあった。

虽然唯灵论肯定了那些不可思议的现象,但它和现代怪谈的立场并不相同。如今,现代灵性文化在日本的亲和性更高,它被称作“圣歌”。而现代怪谈则因与唯灵论疑似科学的立场相悖而自立门户。当时时值平成初期,也是“都市传说”与怪谈分割的时期。

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