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死亡美学:日本武士“切腹”详解

轩舍 译 2016-05-13 06:30

●切腹とは?

●什么是切腹?

“切腹とは武士にのみ許された自害の手段である。”

“面目を失った場合は腹を切る事によってそれを回復する。”

“また、不祥事が起きた場合にはその責任をとるため武士は腹を切った。”

“切腹というと残酷なように思えてしまいますが、実は名誉な死なんです。”

“切腹是只允许武士采取的自杀手段。”

“颜面尽失时,依靠切腹来挽回形象。”

“另外,发生丑闻时,为了承担责任,武士会切腹。”

“切腹虽然被认为是残酷的,但实质上是为名誉而死。”

●切腹が行われるのはどの様なケースが多かったのか

切腹多在什么样的情况下实行

“自発的なものの代表例としては、殉死や合戦に負けて死に華を咲かせる場合などがある。”

“殉死或者因战败而以死明志是自发性切腹的主要原因。”

——城を枕に討ち死にというケースは多かった:

——与城池共存亡的情况很多:

落城前に女子供は出来るだけ逃がし、殉死を願う者たちと最後の杯を交わし、死に花を咲かせるケースは戦国時代に多かった。

城池沦陷前,女人孩子会尽可能地出逃,与志愿殉死的人交最后一杯酒,以死明志的例子在战国时代有很多。

“戦乱の時代、切腹は戦場に咲く華であった。負けを悟った際、自ら腹を掻き捌いて、大見得を切りながら死ぬのは勇猛な武士の最期として誠にふさわしかった。”

“在战乱的时代,切腹是战场上盛开的花朵。自觉战败时,剖开自己的腹部,死在战场上是最为符合勇猛武士的归宿。”

——北条仲時ら集団自決:

——北条仲时等人的集体自杀:

鎌倉幕府崩壊の端緒となった六波羅探題北条仲時以下432人が自刃した古戦場の蓮華寺

江戸時代以降の形式化した切腹とは異なるが、自決の美学は鎌倉時代にもあった。

六波罗探题北条仲时为首的432人在古战场莲花寺自刎,这件事是镰仓幕府土崩瓦解的发端。

与江户时代以后形式化的切腹不同,自杀的美学在镰仓时代依然存在。

“切腹することによって、家臣の助命を図ったり、自分が責めを一身に受け、主家や自家の家名を守ることが目的の場合もある。”

“通过切腹,谋求别人宽恕自己的家臣,自己一人扛起罪责,以此守护主家、自家的名声。也存在以此作为目的的情况。”

——刑罰としての切腹

——作为刑法的切腹

“武士には特別に【切腹】という「処刑方法」が用いられていました。建前上、武士は「自分に関わる犯罪を自分で解決する権利」が与えられていたのです。”

“切腹は武士が自らの死を持って責任を取るための作法ですから
武士でない者には責任が取れるはずもありません”

“武士以外の者が腹を切って死んだ場合は割腹自殺ですね”

“针对武士有切腹这种特别的处刑方法。原则上,武士被赋予自己解决自己有关的犯罪的权利。”

“因为切腹是武士用自己的死亡来承担责任的礼法,不是武士的人无法承担此责任”

“不是武士的人如果切开腹部而死,就只是剖腹自杀”

●そもそもなぜ腹を切るのか?

●究竟为何切腹?

——腹は魂が宿る場所と考えられていた:

——腹部被认为是灵魂寄居的地方:

自ら腹を切り裂いて見せる事で、その魂の正邪を相手に判断させるという意味合いがあった。

切开自己的腹部,展示给对方看,包含着让对方判断自己灵魂是正是邪的含义

“「腹」には心があると考えられました。
「切腹」は、「死ぬ」ためではなく「心を見せて、二心がないことを証明する」ものだったのです。”

“腹を自分で裂き、肝をとりだして相手に見せたとか‥‥おそろしい話です。
それがいつか「名誉ある自死」のように変化し、武士のみにゆるされる死に方となります。”

“腹部被认为是有灵魂的。切腹并非为了死亡,而是为了昭示自己的内心,证明自己别无二心。

“切开自己的腹部,掏出五脏六腑给对方看......实在是令人毛骨悚然。切腹不知何时变成了为名誉而自杀,变成了只有武士才被允许采用的死亡方式。”

声明:本双语文章的中文翻译系沪江日语原创内容,转载请注明出处。中文翻译仅代表译者个人观点,仅供参考。如有不妥之处,欢迎指正。

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●切腹の作法とは

切腹的礼法

“伊勢貞丈の「凶礼式」、山岡敏明の「切腹考」、工藤行広の「自刃録」、「切腹口決」、星野葛山らの「武学拾粋」など、いわゆるハウツー本が江戸中期には盛んに刊行された。
切腹の作法を知っていることが、武士の教養として求められたのである。”

“天保十一年に上州沼田藩士・工藤行広が表した『自刃禄』の頃になると、かなり具体的な内容になっている。
『切腹の作法は、其座に直り候と、検視へ黙礼し、右より肌を脱、左へと脱終り、左手にて刀を取、右手に持替、左手にて三度腹を押撫、臍の上一寸計を上通りに、左へ突立、右へ引廻す也。或は臍の下通りが宜しと云う。深さ三分か五分に過ぐからず、夫より深きは、廻り難きものなりと云』”

“伊势贞丈的《凶礼式》、山冈敏明的《切腹考》、工藤行广的《自刃目録》与《切腹口诀》、星野葛山等人的《武学拾粋》等作为切腹的入门书在江户中期大肆出版发行。了解切腹的礼法被当成武士的素养,因此这些书为人所需。”

“天保十一年,上州沼田藩士・工藤行广将《自刃禄 》公之于世的时候,切腹礼法成为了相当具体的内容。
‘切腹的礼法如下:就坐后,向检视官默默行礼,从右到左脱去衣服,露出上半身。左手取刀,换右手持刀。左手抚按三次腹部,从下到上,刺到肚脐上方的一寸处,向左边刺划,再拉向右边。或者向肚脐之下方刺也可以。深度不可超过三五分,否则很难往回拉。’ ”

——切腹する者の体を水で洗い清める

——用水清洗切腹者的身体

——髪を通常よりも高く結い、逆に曲げる

——发髻比平常绑得更高,反向挽起

——白衣の装束を斬る

——穿白衣切腹

“通常、切腹の座には白木綿五幅とあわせ風呂敷を敷いた。身分の高い切腹人の場合は、畳三畳のうえに、一畳の布団を敷くことになっていた。赤毛氈を敷くのは、畳に血が通らないための工夫であって、美的な効果を狙ったものではない。”

“通常,在切腹人的位子上,与尺寸五幅的白棉布相匹配,铺开包袱布。如果切腹人的地位高,则在三个榻榻米的基础上,再铺上一个榻榻米大小的褥子。铺红色毛毡是为了血不透过榻榻米,并不是为了美观效果。”

——脇差の刃を切腹人に向け、白木の台の上に置く

——短刀的刀刃面向切腹人,放在白木的台子上

——切腹人、介錯人、検死役で盃をかわす

——切腹人、介错人、验尸负责人交杯

——腹を真一文字、または十文字に切り裂く:

——在腹部笔直的,或者十字形切开:

戦国の世では腸を引きずり出して敵将に投げつけた者もいたという

战国时期有将肠子拽出,扔向敌方将领的切腹人。

——前のめりに倒れ込むのは恥とされる:

——向前倒伏被认为是羞耻的:

あらかじめ両袖を膝の下に敷きこんでから腹を斬る

预先把两支袖子铺压在膝盖下面,然后再切腹

●責任重大な介錯人の役目

责任重大的介错人担当的任务

——介錯人とは:

——介错人指:

切腹人が苦しまぬよう、首を切り落とす役目。切腹人の一族や友人が務めるケースが多かった。

为了不让切腹人过于痛苦,负责切下切腹人的头。担当此任的多为切腹人的族人或朋友。

“当然の事ながら、介錯人には首と同を一太刀で斬り落とせる技量が要求された。”

“介错人被要求具有一刀斩落头颅的技术。”

“基本的には介錯が前提です。それどころか腹を実際には切らず当てただけのところで介錯する事のほうが多かったくらいです。”

“基本上,介错是前提。甚至有很多时候切腹人不实际切腹,切腹成了介错人的事。”

“やはり介錯人が下手糞だと何度も斬り損ねたりしてたみたいですよ。
これは切腹する人に余計な苦しみを与える為介錯人にとって非常に不名誉な事で、その為こういった斬り損ねが無いように腕の立つ人間が介錯人に選ばれていた様です。”

“有的介错人技术拙劣,好几次都没能成功斩断。给切腹人带去多余的痛苦对于介错人来说是非常不光彩的事情,因此要选择能够顺利斩断的,技术卓越的人担当介错人。”

“介錯なしの、いわゆる一人腹でも死ぬことはできますが、楽には死ねませんので、まさに地獄絵だったみたいです…”

虽然没有介错人的所谓一人腹最终也能死去,但死的并不轻松,简直像地狱图一样......。”

●切腹という風習はいつごろまで続いたのか?

●切腹的风俗一直持续到何时?

“幕末維新の時にはたくさんありました。藩命で大量処分というのもありました。”

“江戸時代より後の時代でも切腹はありました。
ただし、明治頃は割腹(かっぷく)という名でした。”

“幕末维新的时候有很多人切腹。也存在因藩主下达的命令大量处分的情况。”

“江户时代以后的时代也有切腹的现象。只是明治时期改名叫割腹。”

——明治天皇を慕って妻と共に割腹した乃木希典

——乃木希典为追随明治天皇,与妻子双双割腹

——三島由紀夫:

——三岛由纪夫:

“最後に腹を切ったのは三島由紀夫です”

“昭和45年(1970)作家の三島由紀夫が自衛隊市ヶ谷駐屯地に乱入して割腹自殺しました。
彼は自分では「サムライ」と思っていた節がある。”

“最后一个切腹的是三岛由纪夫。”

“昭和45年(1970),作家三岛由纪夫闯入自卫队市之谷驻地,割腹自杀。他拥有视自己为武士的情节。”

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