沪江

日本茶文化小史

forevereva译 2014-11-03 00:45

お茶の伝来、日本での始まり

遣唐使が往来していた奈良・平安時代に、最澄(さいちょう)、空海(くうかい)、永忠(えいちゅう)などの留学僧が、唐よりお茶の種子を持ち帰ったのが、わが国のお茶の始まりとされています。平安初期(815年)の『日本後記』には、「嵯峨天皇に大僧都(だいそうず)永忠が近江の梵釈寺において茶を煎じて奉った」と記述されています。これが、わが国における日本茶の喫茶に関する最初の記述といわれています。このころのお茶は非常に貴重で、僧侶や貴族階級などの限られた人々だけが口にすることができました。

茶叶的传入与日本饮茶的开端

日本饮茶的开端可以追溯到奈良、平安时代,当时遣唐使往来频繁,最澄、永忠等留学僧从唐朝带回了茶种。据平安初期(815年)的《日本后记》记载,“大僧都永忠在近江梵释寺为嵯峨天皇斟上了煎茶”。这就是日本有关日本茶饮用的最早记载。当时,茶叶十分贵重,只有僧侣、贵族阶级等少部分人才能品尝。

鎌倉初期(1191年)に栄西(えいさい)禅師が宋から帰国する際、日本にお茶を持ち帰りました。栄西は、お茶の効用からお茶の製法などについて著した『喫茶養生記(きっさようじょうき)』(1214年)を書き上げました。これは、わが国最初の本格的なお茶関連の書といわれています。栄西は、深酒の癖のある将軍源実朝に本書を献上したと『吾妻鏡(あずまかがみ)』に記してあります。

镰仓初期(1191年),游学宋朝的荣西禅师归国之际携带了一些茶种回到了日本。荣西著有《吃茶养生记》(1214年),书中对饮茶的功效到茶叶制法都作了介绍,是日本第一本真正与茶有关的专著。《吾妻镜》中记载,将军源实朝嗜酒如命,荣西就向他献上了《吃茶养生记》一书。

《吃茶养生记》

お茶の栽培

もともと日本の山間部の奥地に自生していた「山茶(さんちゃ)」を飲んでいたという説もあるようですが、お茶の栽培は栄西が、中国より持ち帰った種子を佐賀県脊振山(せぶりさん)に植えたのが始まりだといわれています。 その後、京都の明恵上人(みょうえしょうにん)が栄西より種子を譲り受け、京都栂尾(とがのお)に蒔き、宇治茶の基礎をつくるとともに、全国に広めていきました。当時のお茶は、蒸した茶葉を揉まずに乾燥させたもの(碾茶=てんちゃ)で、社交の道具として武士階級にも普及しました。

茶叶的栽培

说到茶叶的栽培,有人认为日本人过去一直饮用自然生长于日本山谷深处的“山茶”,不过一般看法还是认为,茶叶栽培发端于荣西在佐贺县脊振山种植从中国带回的茶种。后来,京都的明惠上人从荣西那里得到了茶种,在京都栂尾开始栽培,由此形成了宇治茶的基础,逐渐盛行全国。当时的茶属于一种“碾茶”,即将茶叶揉捻后焙干制成。此后茶成为社交的手段,在武士阶级中普及开来。

南北朝時代の『異制庭訓往来(いせいていきんおうらい)』(虎関師錬=こかんしれん 著)には、当時の名茶産地が記されています。京都各地および大和、伊賀、伊勢、駿河、武蔵では、寺院、寺領の茶園を中心に茶栽培が行われるようになりました。さらに、お茶栽培の北限といわれる茨城の奥久慈のお茶も14世紀に始まったといわれています。

南北朝时代的《异制庭训往来》中记载了当时的著名茶叶产地,茶叶栽培主要在京都各地及大和、伊贺、伊势、骏河、武藏等地区,以寺院、寺领为中心进行。而被称为茶叶栽培之北界的茨城奥久慈茶也始于14世纪。

茶道の完成

栄西の『喫茶養生記』は、わが国の喫茶文化普及に多大な影響を及ぼしました。 鎌倉時代の末期には南宋の「闘茶」が武士階級に浸透、茶寄合いなどが盛んになり、茶歌舞伎などの抹茶法(茶の湯)が急速に広まりました。 そして、15世紀後半から16世紀後半には、村田珠光(むらたしゅこう)、武野紹鴎(たけのじょうおう)、千利休らによって新しいお茶の礼式がつくられ「侘茶(わびちゃ)」として大成、武士階級に流行し、現在の「茶道」として完成されていきます。

茶道的形成

荣西的《吃茶养生记》对在日本普及饮茶文化起到了极大的作用。镰仓时代末期,南宋的“斗茶”雅兴在武士阶级中间流行,“茶寄合”等游戏大受欢迎,茶歌舞伎等抹茶法也迅速扩展开来。到了15世纪后半期至16世纪后半期,村田珠光、武野绍鸥、千利休等茶人发展出的新茶道礼仪——“闲寂茶”成熟起来,在武士阶级中流行,最终形成了现代所说的“茶道”。

 

お茶の製法と流通の改革

各地にさまざまなお茶の製法がありましたが、蒸製のてん茶をつくっていた京都では、宇治田原郷の永谷宗円(ながたにそうえん)が1738年に宇治の煎茶の優品をつくり、伸煎茶の祖といわれています。また、山本嘉兵衛が1835年に玉露の製法を発明し、「宇治製法」の優れた技術が日本各地に広まりました。 

茶叶的制法与流通改革

茶叶的制法各地都有不同,在诞生了蒸制“碾茶”的京都,宇治田原乡的永谷宗园于1738年制成上品的宇治煎茶,因而被誉为伸煎茶之祖。1835年,山本嘉兵卫发明了玉露的制法,“宇治制法”这种优越的技术由此扩展到日本各地。

近世になると流通機構がより発達し、茶町と呼ばれる流通の拠点で、茶株仲間(江戸の消費地問屋)や、茶仲間(地方都市の産地問屋、荷主)と呼ばれる人々が許可制でお茶の取引を行うようになりました。

到了近世,流通组织日益发达,在茶叶流通处“茶町”,茶叶交易在许可制下,通过茶株仲间(江户消费地的批发商)、茶仲间(地方产地的批发商、货主)等组织进行。

茶仲间

お茶の輸出

ランダの東インド会社が、1610年に長崎の平戸からヨーロッパへ向けて日本茶を輸出したのが、わが国で最初のお茶の輸出です。 江戸幕府は、1858年にアメリカと日米修好通商条約を結び、次いでオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約を結びました。1859年に長崎・横浜・函館の開港を機に生糸と並ぶ重要な輸出品として、お茶181トンが輸出されました。また同年には、長崎の大浦慶(おおうらけい)という女性の貿易商によって6トンがイギリスに輸出されています。
 

茶叶的出口

日本最初的茶叶出口始于1610年,荷兰东印度公司从长崎平户向欧洲进口日本茶。江户幕府在1858年与美国签订了《日美友好通商条约》后,接着又与荷俄英法也签订了相同的条约。1859年,以长崎、横滨、函馆三口岸开放为契机,日本把茶叶作为与生丝并列的重要出口品,对外出口了181吨。同年,一位名叫大浦庆的长崎女商人又向英国出口了6吨茶叶。

1868年の明治維新後も、お茶の輸出量は政府の援助によりアメリカを中心に増加し、それに伴い、人気のあった「宇治製法」を活かした、蒸し茶製法が全国に広まっていきました。

1868年的明治维新后,茶叶的出口量在政府的推动下进一步增长,主要出口地为美国,伴随这股趋势,大受欢迎的“宇治制法”改进后形成的蒸茶制法也在全国扩展开来了。

近代のお茶産業の成立

江戸末期までは、お茶は山間部などで生産されていましたが、明治初期の士族授産事業などを契機に、牧之原台地などの平坦な土地に集団茶園が形成されるようになります。しかし、茶園開拓をした士族たちは次第に離散していき、代わりに農民が茶園を継承し始めます。これは、お茶の輸出価格の下落や、茶園造成に莫大な費用がかかったことが原因だったようです。 

近代茶产业的形成

江户末期以前,茶叶都是在山岳地区栽培生产的,直到明治初期,由于士族授产事业的推动,集体茶园在牧之原台地等平坦地区出现。但这些开办茶园的士族们后来逐渐转业,农民取而代之继承了茶园。原因可能是茶叶出口价格下跌、以及茶园修建开销的庞大。

集団茶園の形成は、単に茶園の形成だけにとどまらず、流通の発展、茶商、仲買人、茶問屋などの育成、各種機械の発明など、茶を中心とした関連産業の成立に影響を与えました。高林謙三による茶葉揉葉機の発明をはじめ、機械化が急速に進んでいくのもこの時期であり、省力化とともに品質の安定化に寄与しました。

集体茶园的形成不仅只是停留在茶园的形成上,其对流通的发展、以及茶商、中介商、茶问屋等的形成、各种机械的发明、以及以茶为中心的相关产业的成立都产生了一定影响。这个时期,随着高林谦三的茶叶揉叶机等发明的出现,机械化生产快速发展,既减少人力也确保了品质的安全。

さらに近年では、センサーとコンピューター制御により、未熟錬者でもお茶がつくれる時代になってきています。現在では、手揉みは文化保存・観光用が主となっています。

近年来,由于传感器与电脑程序的控制,非熟练工也能完成制茶作业。目前,手工揉茶主要是作为文化遗产及观光项目流传。

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