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告诉你一个真实的芥川龙之介

小遥整理 2013-07-13 19:14

創作生涯の始まり
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创作生涯的开始

芥川龍之介は大正時代の代表的な短編作家として知られている。夏目漱石と並ぶ近代日本文学の双璧であり、未だに読者の心をつかんで離さない天才作家である。

芥川龙之介(1892-1927)是大正时代短篇作家的代表人物,与夏目漱石并称为近代日本文学双璧,被誉为天才作家,至今仍然对众多读者有极大的吸引力。

芥川龍之介はの年、辰の月、辰の日、辰の時に生まれたので、辰之介、つまり龍之介と命名されたそうだ。本姓は新原だった。生後七ヶ月で母親が突然心の病に侵された。そのため、龍之介は母の実兄の芥川家の養子となった。

芥川龙之介于在辰年辰月辰日辰时出生,故名辰之介,即龙之介。本姓新原。7个月大的时候母亲突患精神病,因此龙之介被过继给母亲兄长芥川家做养子。

教育熱心の叔母の影響で龍之介は小さい頃から書物と親しむことができた。子供の時の愛読書は「西遊記」が第一である。それから「水滸伝」も愛読書の一つである。一時は「水滸伝」の中の一百八人の豪傑の名前を悉く諳記したことがある。本への執着はやがて創作活動の情熱へと昇華していきます。

姨妈对教育有很大热情,受她的影响,龙之介从小就热爱读书。童年时代最喜欢读《西游记》《水浒传》也是他喜欢的书之一,有一段时间甚至能完整背出一百零八好汉的名字。他对于书本的执着最终化为了创作的激情。

高等小学校と中学時代の龍之介は仲間たちと回覧雑誌を作ることに熱中した。ある回覧雑誌には夏目漱石の「吾輩は猫である」をもじった作、「我輩も犬である」を寄せている

就读高等小学和中学时期,龙之介和朋友们热衷于创办传阅杂志,在其中一本杂志上,芥川发表了《我是狗》,这是一部模仿夏目漱石《我是猫》的戏谑之作。

大正二年、龍之介は東京帝国大学英文科入学。大学に入った龍之介は本格的な創作活動を始めた。大正四年、23歳の時、龍之介は柳川龍之介という名で《羅生門》を発表した。 ところが、この作品はには大した反響がなかった。しかし、後の「鼻」は師匠の夏目漱石に絶賛され、 龍之介の出世作となった。

大正二年(1913年),龙之介进入东京帝国大学英文系,此后,他正式开始了文学创作。大正四年,23岁之时,龙之介以柳川龙之介的笔名发表了《罗生门》。但是这部作品却没有引起很大反响。之后的《鼻子》却受到老师夏目漱石的盛赞,成为龙之介的成名作。

恋に落ちた龍之介
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龙之介的恋爱

22歳の時、龍之介は上総一ノ宮で一夏を過ごした。吉田弥生という女性に恋をした龍之介はここで恋文を書いた。しかし、この恋は養家の猛反対に遭い、止むを得ず結婚を断念した。翌年心の痛みを癒すべく、龍之介は旅を出たりした。

22岁那年,龙之介在千叶县的一之宫町度过了一个夏天。那时,他正和一名叫吉田弥生的女性谈恋爱,在此地给对方写过情书。但是这场恋爱却遭到养父母的反对,最终他不得不放弃了结婚的念头。第二年,为了平复情伤,龙之介出外旅行。

面白いことに、龍之介は24歳の時にも同じここ一宮で恋文を綴った。この女性こそのちの妻となる塚本文。恋文はとても暖かくて、文に対する深い愛情が読み取られる。恋文はこう書かれてあった。
「僕のやってゐる商売は 
今の日本で、一番金にならない商売です。
その上、僕自身もに金はありません。
ですから、生活の程度から云へば何時までたってても知れたものです。
それから、僕はからだもあたまもあまり上等に出来上がってゐません。
(あたまの方はそれでもまだ少しは自信があります。)
うちには、父、母、叔母としよりが三人ゐます。それでよければ来て下さい。
繰返して書きますが、理由は一つしかありません。
僕は文ちゃんが好きです。それでよければ来て下さい。」

有趣的是,24岁的时候,还是在一之宫,龙之介又给另一位女性写了情书,她就是后来的妻子,塚本文。这封情书写得温情脉脉,从中可窥见他对妻子的深情。
“我从事的职业,在当今日本最不赚钱。
而且,我本人也没什么财产。
未来生活水平改善的希望也不大。
天生身体和头脑也算不上出色(在头脑方面还有少许自信)。
家里有父亲,母亲和姨妈三位老人,要是不介意的就请嫁过来吧。
反反复复写了这么多,理由只有一个。
那就是我喜欢文。要是这样就可以的话就请嫁过来吧。”

健康が衰えきた時期
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健康衰退期

大正十年、龍之介は「大阪毎日新聞」海外視察団の一員として北京、上海、杭州、漢口など中国各地を旅して回って、「上海遊記」などの紀行文を書いた。北京を訪れたおりには胡適に会っている。崑曲や戯曲の改良について英語で滔々と見解を述べ、胡適を感服させた。

大正十年(1921年),龙之介作为《大阪每日新闻》海外视察团的一员去中国各地考察,写了《上海游记》等很多游记。在访问北京时,曾与胡适会面。他用流畅的英文讲述对昆曲和改良戏曲的见解,让胡适深感佩服。

四ヶ月にわたる龍之介の中国旅行は、毎日見学や歓迎会に追われるという多忙な日々が続いた。その無理がたたってか、帰国後、龍之介は神経衰弱になった。健康が次第に悪化して、執筆意欲も衰えた。それでも、彼は病軀に鞭打って執筆を続けていた。大正十一年に「藪の中」、「神様の微笑」などの有力作を次々と発表し、 大正十二年に「侏儒の言葉」というアフォリズムの連載を始めた。

在龙之介四个月的中国之行中,每天都忙于参观学习和欢迎会。或许是太过劳累的恶果,回国后龙之介患上神经衰弱。身体状况也一日不如一日,逐渐丧失了创作的热情。即便如此,他也强撑病体坚持写作。大正十一年(1922年),龙之介连续发表了《竹林中》、《神的微笑》等力作。大正十二年,开始了格言集《侏儒的话》的连载。

よく知られている話だが、当時電車で相乗りしていた他人の子供に、お化け と怖がられたという。その余りに繊細な神経を持った龍之介は、骨に皮がついているように非常に痩せていたという。彼は自分の持病に関して、小説『歯車』と いう作品を書き上げている。「視界の中に、突然半透明な歯車状の物体が視野の下から現れる。やがて、歯車が視界をふさぐのである。その直後、強烈な頭痛が 襲うのだ」という。龍之介の時代には、その病気は原因不明の奇病といわれていたが、最近ではストレスが原因でなる病気だといわれている。

据说,有一日他乘坐巴士出行,乘客中有一个小孩以为他是妖怪,感到很害怕。那个时候,神经极其脆弱的龙之介已是皮包骨头了。在小说《齿轮》中,他曾这样描述过自己的病情:“忽然从我视线的下端现出一个半透明的齿轮,不久,它充斥了整个视线。之后,我感到头部一阵剧痛。”在龙之介所处的时代,这是原因不明的怪病,但是最近人们普遍认为这是由于压力过大导致的疾病。

自殺に関して
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关于自杀

昭和二年七月二十四日、龍之介は「将来に対するぼんやりとした不安」という言葉を残して服毒自殺を遂げる。享年35歳だった。夜半から降り始めた雨の音を聞 きながら、龍之介はジャールの致死量を仰いで死の旅へと立った。枕元には大正五年四月刊行の「新旧約聖書」が開いたままになっていたという。

昭和二年(1927年),龙之介留下“对将来唯隐隐觉得不安”这样一段遗言后服毒自杀。享年35岁。那天夜里下起了雨,听着淅沥的雨声,龙之介服下了致死量的安眠药,踏上了死亡之旅。死前枕边还放着大正五年四月发行的《圣经》。

死を前にした凄絶な心象風景は哀切な私小説「点鬼簿」、遺稿の「歯車」、「ある阿呆の一生」などに明らかである。

哀伤的私小说《点鬼簿》,以及死前尚未出版的《齿轮》和《河童》等作品描绘了他死前惨烈的内心世界。

龍之介の命日は小説『河童』から取った河童忌と称されており、熱心なファンが命日になると慈眼寺へ墓参りに訪れている。

龙之介的忌日被称为“河童祭”,命名源于他的作品《河童》。每年到了这一天,他的粉丝们都会自发到他下葬的慈眼寺扫墓。

作品の変遷と特徴
作品的变迁和特征

龍之介の作品は、初期と晩年でかなり違うと言われる。
初期
説話文学を典拠とした「羅生門」「鼻」「芋粥」など歴史物、加えて「奉教人の死」などキリシタン物が有名である。
中期
芸術至上主義的な面が全面に出た「地獄変」などを書いた。
後期
自殺を考えていたのか、自分のこれまでの人生を見直したり、生死に関する作品が多く見られる。初期より晩年の方を高く評価する見解も示されている。晩年の代表作「河童」は、河童の世界を描くことで人間社会を痛烈に批判しており、当時の人々に問題を提起した。

人们普遍认为,龙之介初期和晚年的作品大为不同。
初期
取材于民间传说的《罗生门》、《鼻子》和《薯粥》等历史小说,以及《信徒之死》等描述天主教传教活动的小说十分有名。
中期
写作了《地狱变》等集中体现艺术至上主义的作品。
后期
或许由于自杀的倾向,这段时间有很多作品对自己的人生进行了反思,对生死进行了思考。也有观点认为他晚年的作品比初期作品更好。晚年的代表作《河童》中,通过对河童世界的描写强烈批判了人类社会,引起了当时人们的关注。

作品抜粋
作品摘录

龍之介は警句や戯言など短い断片的な文句に深い真理を含ませて、人間の利己主義を批判したりしている。見てみましょう。

龙之介所写的警句和戏言富含深刻的真理,批判了人类的利己心。让我们一起来欣赏一下吧。

人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのはばかばかしい。重大に扱わなければ危険である。「侏儒の言葉」より

人生好像一盒火柴,严禁使用是愚蠢的,乱用是危险的。——《侏儒的话》

正義は武器に似たものである。武器は金を出しさへすれば、敵にも味方にも買われるであらう。正義も理窟をつけさへすれば、敵にも味方にも買われるものである。 ―― 芥川龍之介 「侏儒の言葉」より

正义和武器相似,正义是只要出钱,敌人也好,我方也好,都可以买到。对正义,只要是能讲出道理来,敌人也好,我方也好,也都可以买到。——《侏儒的话》

人間の心には互いに矛盾した二つの感情がある。もちろん誰も他人の不幸に同情しないものはない。ところが、おの人がその不幸をどうにかして切り抜けることが できると、今度はこっちで何と無く物足りないような心持ちがする。少し誇張していえば、もう一度その人を同じ不幸におとしいれてみたいような気にさえなる。「鼻」より

人类的心里有着互相矛盾的两样的感情。他人的不幸,自然是没有不表同情的。但一到那人设些什么法子脱了这不幸,于是这边便不知怎的觉得不满足起来。夸大一点说,便可以说是其甚者且有愿意再看见那人陷在同样的不幸中的意思。——《鼻子》(鲁迅译)

自然を愛するのは、自然が我々を憎んだり、嫉妬しないためでもないことはない。「河童」より

我们之所以爱大自然,说不定是因为大自然既不憎恨,也不嫉妒我们。——《河童》

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