第一
愉快 いな、愉快 いな、お天気 が悪くつて外 へ出 て遊 べなくつても可 や、笠 を着 て蓑 を着 て、雨 の降 るなかをびしよ/″\濡 れながら、橋 の上 を渡 つて行 くのは猪 だ。
菅笠 を目深 に冠 つて※ [#「さんずい+散」、39-4]に濡 れまいと思 つて向風 に俯向 いてるから顔 も見 えない、着 て居 る蓑 の裾 が引摺 つて長 いから脚 も見 えないで歩行 いて行 く、背 の高 さは五尺 ばかりあらうかな、猪子 して は大 なものよ、大方 猪 ン中 の王様 が彼様 三角形 の冠 を被 て、市 へ出 て来 て、而 して、私 の母様 の橋 の上 を通 るのであらう。
トかう思 つて見 て居 ると愉快 い、愉快 い、愉快 い。
寒 い日 の朝 、雨 の降 つてる時 、私 の小 さな時分 、何 日でしたつけ、窓 から顔 を出 して見 て居 ました。
「母様 、愉快 いものが歩行 いて行 くよ。」
爾時 母様 は私 の手袋 を拵 えて居 て下 すつて、
「さうかい、何 が通 りました。」
「あのウ猪 。」
「さう。」といつて笑 つて居 らしやる。
「ありや猪 だねえ、猪 の王様 だねえ。
母様 。だつて、大 いんだもの、そして三角形 の冠 を被 て居 ました。さうだけれども、王様 だけれども、雨 が降 るからねえ、びしよぬれになつて、可哀想 だつたよ。」
母様 は顔 をあげて、此方 をお向 きで、
「吹込 みますから、お前 も此方 へおいで、そんなにして居 ると衣服 が濡 れますよ。」
「戸 を閉 めやう、母様 、ね、こゝん処 の。」
「いゝえ、さうしてあけて置 かないと、お客様 が通 つても橋銭 を置 いて行 つてくれません。づるい[#「づるい」はママ]からね、引籠 つて誰 も見 て居 ないと、そゝくさ通抜 けてしまひますもの。」
私 は其時分 は何 にも知 らないで居 たけれども、母様 と二人 ぐらしは、この橋銭 で立 つて行 つたので、一人前 幾于宛 取 つて渡 しました。
橋 のあつたのは、市 を少 し離 れた処 で、堤防 に松 の木 が並 むで植 はつて居 て、橋 の袂 に榎 の樹 が一本 、時雨榎 とかいふのであつた。
此 榎 の下 に箱 のやうな、小 さな、番小屋 を建 てゝ、其処 に母様 と二人 で住 んで居 たので、橋 は粗造 な、宛然 、間 に合 はせといつたやうな拵 え方 、杭 の上 へ板 を渡 して竹 を欄干 にしたばかりのもので、それでも五人 や十人ぐらゐ一時 に渡 つたからツて、少 し揺 れはしやうけれど、折 れて落 つるやうな憂慮 はないのであつた。
ちやうど市 の場末 に住 むでる日傭取 、土方 、人足 、それから、三味線 を弾 いたり、太鼓 を鳴 らして飴 を売 つたりする者 、越後獅子 やら、猿廻 やら、附木 を売 る者 だの、唄 を謡 ふものだの、元結 よりだの、早附木 の箱 を内職 にするものなんぞが、目貫 の市 へ出 て行 く往帰 りには、是非 母様 の橋 を通 らなければならないので、百人と二百人づゝ朝晩 賑 な[#「賑 な」はママ]人通 りがある。
それからまた向 ふから渡 つて来 てこの橋 を越 して場末 の穢 い町 を通 り過 ぎると、野原 へ出 る。そこン処 は梅林 で上 の山 が桜 の名所 で、其 下 に桃谷 といふのがあつて、谷間 の小流 には、菖浦 、燕子花 が一杯 咲 く。頬白 、山雀 、雲雀 などが、ばら/\になつて唄 つて居 るから、綺麗 な着物 を着 た問屋 の女 だの、金満家 の隠居 だの、瓢 を腰 へ提 げたり、花 の枝 をかついだりして千鳥足 で通 るのがある、それは春 のことで。夏 になると納涼 だといつて人 が出 る、秋 は茸狩 に出懸 けて来 る、遊山 をするのが、皆 内 の橋 を通 らねばならない。
この間 も誰 かと二三人 づれで、学校 のお師匠 さんが、内 の前 を通 つて、私 の顔 を見 たから、丁寧 にお辞義 [#「義」に「ママ」の注記]をすると、おや、といつたきりで、橋銭 を置 かないで行 つてしまつた。
「ねえ、母様 、先生 もづるい[#「づるい」はママ]人 なんかねえ。」
と窓 から顔 を引込 ませた。
第二
「お心易立 なんでしやう、でもづるい[#「づるい」はママ]んだよ。余程 さういはうかと思 つたけれど、先生 だといふから、また、そんなことで悪 く取 つて、お前 が憎 まれでもしちやなるまいと思 つて黙 つて居 ました。」
といひ/\母様 は縫 つて居 らつしやる。
お膝 の前 に落 ちて居 た、一 ツの方 の手袋 の格恰 が出来 たのを、私 は手 に取 つて、掌 にあてゝ見 たり、甲 の上 へ乗 ツけて見 たり、
「母様 、先生 はね、それでなくつても僕 のことを可愛 がつちやあ下 さらないの。」
と訴 へるやうにいひました。
かういつた時 に、学校 で何 だか知 らないけれど、私 がものをいつても、快 く返事 をおしでなかつたり、拗 ねたやうな、けんどんなやうな、おもしろくない言 をおかけであるのを、いつでも情 いと思 ひ/\して居 たのを考 へ出 して、少 し欝 いで来 て俯向 いた。
「何故 さ。」
何 、さういふ様子 の見 えるのは、つひ四五日前 からで、其前 には些少 もこんなことはありはしなかつた。帰 つて母様 にさういつて、何故 だか聞 いて見 やうと思 つたんだ。
けれど、番小屋 へ入 ると直 飛出 して遊 んであるいて、帰 ると、御飯 を食 べて、そしちやあ横 になつて、母様 の気高 い美 しい、頼母 しい、温当 な、そして少 し痩 せておいでの、髪 を束 ねてしつとりして居 らつしやる顔 を見 て、何 か談話 をしい/\、ぱつちりと眼 をあいてるつもりなのが、いつか其 まんまで寝 てしまつて、眼 がさめると、また直 支度 を済 まして、学校 へ行 くんだもの。そんなこといつてる隙 がなかつたのが、雨 で閉籠 つて淋 しいので思 ひ出 した序 だから聞 いたので、
「何故 だつて、何 なの、此間 ねえ、先生 が修身 のお談話 をしてね、人 は何 だから、世 の中 に一番 えらいものだつて、さういつたの。母様 違 つてるわねえ。」
「むゝ。」
「ねツ違 つてるワ、母様 。」
と揉 くちやにしたので、吃驚 して、ぴつたり手 をついて畳 の上 で、手袋 をのした。横 に皺 が寄 つたから、引張 つて、
「だから僕 、さういつたんだ、いゝえ、あの、先生 、さうではないの。人 も、猫 も、犬 も、それから熊 も皆 おんなじ動物 だつて。」
「何 とおつしやつたね。」
「馬鹿 なことをおつしやいつて。」
「さうでしやう。それから、」
「それから、□だつて、犬 や猫 が、口 を利 きますか、ものをいひますか□ツて、さういふの。いひます。雀 だつてチツチツチツチツて、母様 と父様 と、児 と朋達 と皆 で、お談話 をしてるじやあありませんか。僕 眠 い時 、うつとりしてる時 なんぞは、耳 ン処 に来 て、チツチツチて 、何 かいつて聞 かせますのツてさういふとね、□詰 らない、そりや囀 るんです。ものをいふのぢやあなくツて、囀 るの、だから何 をいふんだか分 りますまい□ツて聞 いたよ。僕 ね、あのウだつてもね、先生 、人だつて、大勢 で、皆 が体操場 で、てんでに何 かいつてるのを遠 くン処 で聞 いて居 ると、何 をいつてるのか些少 も分 らないで、ざあ/\ツて流 れてる川 の音 とおんなしで僕 分 りませんもの。それから僕 の内 の橋 の下 を、あのウ舟 漕 いで行 くのが何 だか唄 つて行 くけれど、何 をいふんだかやつぱり鳥 が声 を大 きくして長 く引 ぱつて鳴 いてるのと違 ひませんもの。ずツと川下 の方 でほう/\ツて呼 んでるのは、あれは、あの、人 なんか、犬 なんか、分 りませんもの。雀 だつて、四十雀 だつて、軒 だの、榎 だのに留 まつてないで、僕 と一所 に坐 つて話 したら皆 分 るんだけれど、離 れてるから聞 こえませんの。だつてソツとそばへ行 つて、僕 、お談話 しやうと思 ふと、皆 立 つていつてしまひますもの、でも、いまに大人 になると、遠 くで居 ても分 りますツて、小 さい耳 だから、沢山 いろんな声 が入 らないのだつて、母様 が僕 、あかさんであつた時分 からいひました。犬 も猫 も人間 もおんなじだつて。ねえ、母様 、だねえ母様 、いまに皆 分 るんだね。」
第三
母様 は莞爾 なすつて、
「あゝ、それで何 かい、先生 が腹 をお立 ちのかい。」
そればかりではなかつた。私 が児心 にも、アレ先生 が嫌 な顔 をしたなト斯 う思 つて取 つたのは、まだモ少 し種々 なことをいひあつてからそれから後 の事 で。
はじめは先生 も笑 ひながら、ま、あなたが左様 思 つて居 るのなら、しばらくさうして置 きましやう。けれども人間 には智恵 といふものがあつて、これには他 の鳥 だの、獣 だのといふ動物 が企 て及 ばない、といふことを、私 が川岸 に住 まつて居 るからつて、例 をあげておさとしであつた。
釣 をする、網 を打 つ、鳥 をさす、皆 人 の智恵 で、何 にも知 らない、分 らないから、つられて、刺 されて、たべられてしまふのだトかういふことだった。
そんなことは私 聞 かないで知 つて居 る、朝晩 見 て居 るもの。
橋 を挟 んで、川 を溯 つたり、流 れたりして、流網 をかけて魚 を取 るのが、川 ン中 に手拱 かいて、ぶる/\ふるへて突立 つてるうちは顔 のある人間 だけれど、そらといつて水 に潜 ると、逆 になつて、水潜 をしい/\五分間 ばかりも泳 いで居 る、足 ばかりが見 える。其 足 の恰好 の悪 さといつたらない。うつくしい、金魚 の泳 いでる尾鰭 の姿 や、ぴら/\と水銀色 を輝 かして刎 ねてあがる鮎 なんぞの立派 さには全然 くらべものになるのぢやあない。さうしてあんな、水浸 になつて、大川 の中 から足 を出 してる、そんな人間 がありますものか。で、人間 だと思 ふとをかしいけれど、川 ン中 から足 が生 へたのだと、さう思 つて見 て居 るとおもしろくツて、ちつとも嫌 なことはないので、つまらない観世物 を見 に行 くより、ずつとましなのだつて、母様 がさうお謂 ひだから私 はさう思 つて居 ますもの。
それから、釣 をしてますのは、ね、先生 、とまた其時 先生 にさういひました。
あれは人間 ぢやあない、簟 なんで、御覧 なさい。片手 懐 つて、ぬうと立 つて、笠 を冠 つてる姿 といふものは、堤坊 [#「堤坊」はママ]の上 に一本占治茸 が生 へたのに違 ひません。
夕方 になつて、ひよろ長 い影 がさして、薄暗 い鼠色 の立姿 にでもなると、ます/\占治茸 で、づゝと遠 い/\処 まで一 ならびに、十人も三十人も、小 さいのだの、大 きいのだの、短 いのだの、長 いのだの、一番 橋手前 のを頭 にして、さかり時 は毎日 五六十本 も出来 るので、また彼処此処 に五六人づゝも一団 になつてるのは、千本 しめぢツて、くさ/\に生 へて居 る、それは小 さいのだ。木 だの、草 だのだと、風 が吹 くと動 くんだけれど、茸 だから、あの、茸 だからゆつさりとしもしませぬ。これが智恵 があつて釣 をする人間 で、些少 も動 かない。其間 に魚 は皆 で優 々と泳 いでてあるいて居 ますわ。
また智恵 があるつて口 を利 かれないから鳥 とくらべツこすりや、五分 五分のがある、それは鳥 さしで。
過日 見 たことがありました。
他所 のおぢさんの鳥 さしが来 て、私 ン処 の橋 の詰 で、榎 の下 で立留 まつて、六本めの枝 のさきに可愛 い頬白 が居 たのを、棹 でもつてねらつたから、あら/\ツてさういつたら、叱 ツ、黙 つて、黙 つてツて恐 い顔 をして私 を睨 めたから、あとじさりをして、そツと見 て居 ると、呼吸 もしないで、じつとして、石 のやうに黙 つてしまつて、かう据身 になつて、中空 を貫 くやうに、じりツと棹 をのばして、覗 つてるのに、頬白 は何 にも知 らないで、チ、チ、チツチツてツて、おもしろさうに、何 かいつてしやべつて居 ました。
其 をとう/\突 いてさして取 ると、棹 のさきで、くる/\と舞 つて、まだ烈 しく声 を出 して啼 いてるのに、智恵 のあるおぢさんの鳥 さしは、黙 つて、鰌掴 にして、腰 の袋 ン中 へ捻 り込 むで、それでもまだ黙 つて、ものもいはないので、のつそりいつちまつたことがあつたんで。
第四
頬白 は智恵 のある鳥 さしにとられたけれど、囀 つてましたもの。ものをいつて居 ましたもの。おぢさんは黙 りで、傍 に見 て居 た私 までものをいふことが出来 なかつたんだもの、何 もくらべこして、どつちがえらいとも分 りはしないつて。
何 でもそんなことをいつたんで、ほんとう に私 さう思 つて居 ましたから。
でも其 を先生 が怒 つたんではなかつたらしい。
で、まだ/\いろんなことをいつて、人間 が、鳥 や獣 よりえらいものだとさういつておさとしであつたけれど、海 ン中 だの、山奥 だの、私 の知 らない、分 らない処 のことばかり譬 に引 いていふんだから、口答 は出来 なかつたけれど、ちつともなるほどと思 はれるやうなことはなかつた。
だつて、私 母様 のおつしやること、虚言 だと思 ひませんもの。私 の母様 がうそをいつて聞 かせますものか。
先生 は同 一組 の小児達 を三十人も四十人も一人 で可愛 がらうとするんだし、母様 は私 一人可愛 いんだから、何 うして、先生 のいふことは私 を欺 すんでも、母様 がいつてお聞 かせのは、決 して違 つたことではない、トさう思 つてるのに、先生 のは、まるで母様 のと違 つたこといふんだから心服 はされないぢやありませんか。
私 が頷 かないので、先生 がまた、それでは、皆 あなたの思 つている通 りにして置 きましやう。けれども木 だの、草 だのよりも、人間 が立優 つた、立派 なものであるといふことは、いかな、あなたにでも分 りましやう、先 づそれを基礎 にして、お談話 をしやうからつて、聞 きました。
分 らない。私 さうは思 はなかつた。
「あのウ母様 、だつて、先生 、先生 より花 の方 [#「ほう」はママ]がうつくしうございますツてさう謂 つたの。僕 、ほんとう[#「とう」はママ]にさう思 つたの、お庭 にね、ちやうど菊 の花 が咲 いてるのが見 えたから。」
先生 は束髪 に結 つた、色 の黒 い、なりの低 い頑丈 な、でく/\肥 つた婦人 の方 で、私 がさういふと顔 を赤 うした。それから急 にツヽケンドンなものいひおしだから、大方 其 が腹 をお立 ちの源因 であらうと思 ふ。
「母様 、それで怒 つたの、さうなの。」
母様 は合点々々 をなすつて、
「おゝ、そんなことを坊 や、お前 いひましたか。そりや御道理 だ。」
といつて笑顔 をなすつたが、これは私 の悪戯 をして、母様 のおつしやること肯 かない時 、ちつとも叱 らないで、恐 い顔 しないで、莞爾 笑 つてお見 せの、其 とかはらなかつた。
さうだ。先生 の怒 つたのはそれに違 ひない。
「だつて、虚言 をいつちやあなりませんつて、さういつでも先生 はいふ癖 になあ、ほんとう に僕 、花 の方 がきれいだと思 ふもの。ね、母様 、あのお邸 の坊 ちん の青 だの、紫 だの交 つた、着物 より、花 の方 がうつくしいつて、さういふのね。だもの、先生 なんざ。」
「あれ、だつてもね、そんなこと人 の前 でいふのではありません。お前 と、母様 のほかには、こんないゝこと知 つてるものはないのだから、分 らない人 にそんなこといふと、怒 られますよ。唯 、ねえ、さう思 つて、居 れば、可 のだから、いつてはなりませんよ。可 かい。そして先生 が腹 を立 つてお憎 みだつて、さういふけれど、何 そんなことがありますものか。其 は皆 お前 がさう思 ふからで、あの、雀 だつて餌 を与 つて、拾 つてるのを見 て、嬉 しさうだと思 へば嬉 しさうだし、頬白 がおぢさんにさゝれた時 悲 しい声 だと思 つて見 れば、ひい/\いつて鳴 いたやうに聞 こえたぢやないか。
それでも先生 が恐 い顔 をしておいでなら、そんなものは見 て居 ないで、今 お前 がいつた、其 うつくしい菊 の花 を見 て居 たら可 でしやう。ね、そして何 かい、学校 のお庭 に咲 いてるのかい。」
「あゝ沢山 。」
「ぢやあ其 菊 を見 やうと思 つて学校 へおいで。花 にはね、ものをいはないから耳 に聞 こえないでも、其 かはり眼 にはうつくしいよ。」
モひとつ不平 なのはお天気 の悪 いことで、戸外 にはなか/\雨 がやみさうにもない。
第五
また顔 を出 して窓 から川 を見 た。さつきは雨脚 が繁 くつて、宛然 、薄墨 で刷 いたやう、堤防 だの、石垣 だの、蛇籠 だの、中洲 に草 の生 へた処 だのが、点々 、彼方此方 に黒 ずんで居 て、それで湿 つぽくツて、暗 かつたから見 えなかつたが、少 し晴 れて来 たからものゝ濡 れたのが皆 見 える。
遠 くの方 に堤防 の下 の石垣 の中 ほどに、置物 のやうになつて、畏 つて、猿 が居 る。
この猿 は、誰 が持主 といふのでもない、細引 の麻繩 で棒杭 に結 えつけてあるので、あの、占治茸 が、腰弁当 の握飯 を半分 与 つたり、坊 ちやんだの、乳母 だのが袂 の菓子 を分 けて与 つたり、赤 い着物 を着 て居 る、みいちやんの紅雀 だの、青 い羽織 を着 て居 る吉公 の目白 だの、それからお邸 のかなりやの姫様 なんぞが、皆 で、からかいに行 つては、花 を持 たせる、手拭 を被 せる、水鉄砲 を浴 びせるといふ、好 きな玩弄物 にして、其代 何 でもたべるものを分 けてやるので、誰 といつて、きまつて、世話 をする、飼主 はないのだけれど、猿 の餓 ゑることはありはしなかつた。
時々 悪戯 をして、其 紅雀 の天窓 の毛 を□ つたり、かなりやを引掻 いたりすることがあるので、あの猿松 が居 ては、うつかり可愛 らしい小鳥 を手放 にして戸外 へ出 しては置 けない、誰 か見張 つてでも居 ないと、危険 だからつて、ちよい/\繩 を解 いて放 して遣 つたことが幾度 もあつた。
放 すが疾 いか、猿 は方々 を駆 ずり廻 つて勝手放題 な道楽 をする、夜中 に月 が明 い時 寺 の門 を叩 いたこともあつたさうだし、人 の庖厨 へ忍 び込 んで、鍋 の大 いのと飯櫃 を大屋根 へ持 つてあがつて、手掴 で食 べたこともあつたさうだし、ひら/\と青 いなかから紅 い切 のこぼれて居 る、うつくしい鳥 の袂 を引張 つて、遙 かに見 える山 を指 して気絶 さしたこともあつたさうなり、私 の覚 えてからも一度 誰 かが、繩 を切 つてやつたことがあつた。其時 はこの時雨榎 の枝 の両股 になつてる処 に、仰向 に寝転 んで居 て、烏 の脛 を捕 へた、それから畚 に入 れてある、あのしめぢ蕈 が釣 つた、沙魚 をぶちまけて、散々 悪巫山戯 をした揚句 が、橋 の詰 の浮世床 のおぢさんに掴 まつて、顔 の毛 を真四角 に鋏 まれた、それで堪忍 をして追放 したんださうなのに、夜 が明 けて見 ると、また平時 の処 に棒杭 にちやんと結 へてあツた。蛇籠 [#「ぢや」はママ]の上 の、石垣 の中 ほどで、上 の堤防 には柳 の切株 がある処 。
またはじまつた、此通 りに猿 をつかまへて此処 へ縛 つとくのは誰 だらう/\ツて、一 しきり騒 いだのを私 は知 つて居 る。
で、此 猿 には出処 がある。
其 は母様 が御存 じで、私 にお話 しなすツた。
八九年前 のこと、私 がまだ母様 のお腹 ん中 に小 さくなつて居 た時分 なんで、正月、春のはじめのことであつた。
今 は唯 広 い世 の中 に母様 と、やがて、私 のものといつたら、此 番小屋 と仮橋 の他 にはないが、其 時分 は此 橋 ほどのものは、邸 の庭 の中 の一 ツの眺望 に過 ぎないのであつたさうで、今 市 の人 が春 、夏 、秋 、冬 、遊山 に来 る、桜山 も、桃谷 も、あの梅林 も、菖蒲 の池 も皆 父様 ので、頬白 だの、目白 だの、山雀 だのが、この窓 から堤防 の岸 や、柳 の下 や、蛇籠 の上 に居 るのが見 える、其 身体 の色 ばかりが其 である、小鳥 ではない、ほんとう の可愛 らしい、うつくしいのがちやうどこんな工合 に朱塗 の欄干 のついた二階 の窓 から見 えたさうで。今日 はまだおいひでないが、かういふ雨 の降 つて淋 しい時 なぞは、其時分 のことをいつでもいつてお聞 かせだ。
第六
今 ではそんな楽 しい、うつくしい、花園 がないかはり、前 に橋銭 を受取 る笊 の置 いてある、この小 さな窓 から風 がはりな猪 だの、奇躰 な簟 だの、不思議 な猿 だの、まだ其他 に人 の顔 をした鳥 だの、獣 だのが、いくらでも見 えるから、ちつとは思出 になるトいつちやあ、アノ笑顔 をおしなので、私 もさう思 つて見 る故 か、人 があるいて行 く時 、片足 をあげた処 は一本脚 の鳥 のやうでおもしろい、人 の笑 ふのを見 ると獣 が大 きな赤 い口 をあけたよと思 つておもしろい、みいちやんがものをいふと、おや小鳥 が囀 るかトさう思 つてをかしいのだ。で、何 でもおもしろくツてをかしくツて吹出 さずには居 られない。
だけれど今 しがたも母様 がおいひの通 り、こんないゝことを知 つてるのは、母様 と私 ばかりで何 うして、みいちやんだの、吉公 だの、それから学校 の女 の先生 なんぞに教 へたつて分 るものか。
人 に踏 まれたり、蹴 られたり、後足 で砂 をかけられたり、苛 められて責 まれて、熱湯 を飲 ませられて、砂 を浴 せられて、鞭 うたれて、朝 から晩 まで泣通 しで、咽喉 がかれて、血 を吐 いて、消 えてしまいさうになつてる処 を、人 に高見 で見物 されて、おもしろがられて、笑 はれて、慰 にされて、嬉 しがられて、眼 が血走 つて、髪 が動 いて、唇 が破 れた処 で、口惜 しい、口惜 しい、口惜 しい、口惜 しい、畜生 め、獣 め、ト始終 さう思 つて、五年 も八年 も経 たなければ、真個 に分 ることではない、覚 えられることではないんださうで、お亡 んなすつた、父様 トこの母様 とが聞 いても身震 がするやうな、そう いふ酷 いめに、苦 しい、痛 い、苦 しい、辛 い、惨刻 なめに逢 つて、さうしてやう/\お分 りになつたのを、すつかり私 に教 へて下 すつたので。私 はたゞ母 ちやん/\てツて母様 の肩 をつかまいたり、膝 にのつかつたり、針箱 の引出 を交 ぜかへしたり、物 さしをまはして見 たり、縫裁 の衣服 を天窓 から被 つて見 たり、叱 られて逃 げ出 したりして居 て、それでちやんと教 へて頂 いて、其 をば覚 えて分 つてから、何 でも鳥 だの、獣 だの、草 だの、木 だの、虫 だの、簟 だのに人 が見 えるのだからこんなおもしろい、結構 なことはない。しかし私 にかういふいゝことを教 へて下 すつた母様 は、とさう思 ふ時 は鬱 ぎました。これはちつともおもしろくなくつて悲 しかつた、勿体 ないとさう思 つた。
だつて母様 がおろそかに聞 いてはなりません。私 がそれほどの思 をしてやう/\お前 に教 へらるゝやうになつたんだから、うかつに聞 いて居 ては罰 があたります。人間 も鳥獣 も草木 も、混虫類 も皆 形 こそ変 つて居 てもおんなじほどのものだといふことを。
トかうおつしやるんだから。私 はいつも手 をついて聞 きました。
で、はじめの内 は何 うしても人 が鳥 や、獣 とは思 はれないで、優 しくされれば嬉 しかつた、叱 られると恐 かつた、泣 いてると可哀想 だつた、そしていろんなことを思 つた。其 たびにさういつて母様 にきいて見 るト何 、皆 鳥 が囀 つてるんだの、犬 が吠 えるんだの、あの、猿 が歯 を剥 くんだの、木 が身 ぶるいをするんだのとちつとも違 つたことはないツて、さうおつしやるけれど、矢張 さうばかりは思 はれないで、いぢめられて泣 いたり、撫 でられて嬉 しかつたりしい/\したのを、其都度 母様 に教 へられて、今 じやあモウ何 とも思 つて居 ない。
そしてまだ如彼 濡 れては寒 いだらう、冷 たいだらうと、さきのやうに雨 に濡 れてびしよ/\行 くのを見 ると気 の毒 だつたり、釣 をして居 る人 がおもしろさうだとさう思 つたりなんぞしたのが、此節 じやもう唯 変 な簟 だ、妙 な猪 の王様 だと、をかしいばかりである、おもしろいばかりである、つまらないばかりである、見 ツともないばかりである、馬鹿 々々しいばかりである、それからみいちやんのやうなのは可愛 らしいのである、吉公 のやうなのはうつくしいのである、けれどもそれは紅雀 がうつくしいのと、目白 が可愛 らしいのと些少 も違 ひはせぬので、うつくしい、可愛 らしい。うつくしい、可愛 らしい。
第七
また憎 らしいのがある。腹立 たしいのも他 にあるけれども其 も一場合 に猿 が憎 らしかつたり、鳥 が腹立 たしかつたりするのとかはりは無 いので、煎 ずれば皆 をかしいばかり、矢張 噴飯材料 なんで、別 に取留 めたことがありはしなかつた。
で、つまり情 を動 かされて、悲 む、愁 うる、楽 む、喜 ぶなどいふことは、時 に因 り場合 に於 ての母様 ばかりなので。余所 のものは何 うであらうと些少 も心 には懸 けないやうに日 ましにさうなつて来 た。しかしかういふ心 になるまでには、私 を教 へるために毎日 、毎晩 、見 る者 、聞 くものについて、母様 がどんなに苦労 をなすつて、丁寧 に親切 に飽 かないで、熱心 に、懇 に噛 むで含 めるやうになすつたかも知 れはしない。だもの、何 うして学校 の先生 をはじめ、余所 のものが少 々位 のことで、分 るものか、誰 だつて分 りやしません。
処 が、母様 と私 とのほか知 らないことをモ一人 他 に知 つてるものがあるさうで、始終 母様 がいつてお聞 かせの、其 は彼処 に置物 のやうに畏 つて居 る、あの猿 ―あの猿 の旧 の飼主 であつた―老父 さんの猿廻 だといひます。
さつき私 がいつた、猿 に出処 があるといふのはこのことで。
まだ私 が母様 のお腹 に居 た時分 だツて、さういひましたつけ。
初卯 の日 、母様 が腰元 を二人連 れて、市 の卯辰 の方 の天神様 へお参 ンなすつて、晩方 帰 つて居 らつしやつた、ちやうど川向 ふの、いま猿 の居 る処 で、堤坊 [#「堤坊」はママ]の上 のあの柳 の切株 に腰 をかけて猿 のひかへ綱 を握 つたなり、俯向 いて、小 さくなつて、肩 で呼吸 をして居 たのが其 猿廻 のぢいさんであつた。
大方 今 の紅雀 の其 姉 さんだの、頬白 の其 兄 さんだのであつたらうと思 はれる、男 だの、女 だの七八人寄 つて、たかつて、猿 にからかつて、きやあ/\いはせて、わあ/\笑 つて、手 を拍 つて、喝采 して、おもしろがつて、をかしがつて、散々 慰 むで、そら菓子 をやるワ、蜜柑 を投 げろ、餅 をたべさすワツて、皆 でどつさり猿 に御馳走 をして、暗 くなるとどや/\いつちまつたんだ。で、ぢいさんをいたはつてやつたものは、唯 の一人 もなかつたといひます。
あはれだとお思 ひなすつて、母様 がお銭 を恵 むで、肩掛 を着 せておやんなすつたら、ぢいさん涙 を落 して拝 むで喜 こびましたつて、さうして、
□あゝ、奥様 、私 は獣 になりたうございます。あいら、皆 畜生 で、この猿 めが夥間 でござりましやう。それで、手前達 の同類 にものをくはせながら、人間一疋 の私 には目 を懸 けぬのでござります□トさういつてあたりを睨 むだ、恐 らくこのぢいさんなら分 るであらう、いや、分 るまでもない、人 が獣 であることをいはないでも知 つて居 やうとさういつて母様 がお聞 かせなすつた、
うまいこと知 てるな、ぢいさん。ぢいさんと母様 と私 と三人 だ。其時 ぢいさんが其 まんまで控綱 を其処 ン処 の棒杭 に縛 りツ放 しにして猿 をうつちやつて行 かうとしたので、供 の女中 が口 を出 して、何 うするつもりだつて聞 いた。母様 もまた傍 からまあ捨児 にしては可哀想 でないかツて、お聞 きなすつたら、ぢいさんにや/\と笑 つたさうで、
□はい、いえ、大丈夫 でござります。人間 をかうやつといたら、餓 ゑも凍 ゑもしやうけれど、獣 でござりますから今 に長 い目 で御覧 じまし、此奴 はもう決 してひもじい目 に逢 ふことはござりませぬから□
トさういつてかさね/″\恩 を謝 して分 れて何処 へか行 つちまひましたツて。
果 して猿 は餓 ゑないで居 る。もう今 では余程 の年紀 であらう。すりや、猿 のぢいさんだ。道理 で、功 を経 た、ものゝ分 つたやうな、そして生 まじめで、けろりとした、妙 な顔 をして居 るんだ。見 える/\、雨 の中 にちよこなんと坐 つて居 るのが手 に取 るやうに窓 から見 えるワ。
第八
朝晩 見馴 れて珍 らしくもない猿 だけれど、いまこんなこと考 え 出 していろんなこと思 つて見 ると、また殊 にものなつかしい、あのおかしな顔 早 くいつて見たいなと、さう思 つて、窓 に手 をついてのびあがつて、づゝと肩 まで出 すと※ [#「さんずい+散」、53-4]がかゝつて、眼 のふちがひやりとして、冷 たい風 が頬 を撫 でた。
爾時 仮橋 ががた/\いつて、川面 の小糠雨 を掬 ふやうに吹 き乱 すと、流 が黒 くなつて颯 と出 た。トいつしよに向岸 から橋 を渡 つて来 る、洋服 を着 た男 がある。
橋板 がまた、がツたりがツたりいつて、次第 に近 づいて来 る、鼠色 の洋服 で、釦 をはづして、胸 を開 けて、けば/\しう襟飾 を出 した、でつぷり紳士 で、胸 が小 さくツて、下腹 の方 が図 ぬけにはずんでふくれた、脚 の短 い、靴 の大 きな、帽子 の高 い、顔 の長 い、鼻 の赤 い、其 は寒 いからだ。そして大跨 に、其 逞 い靴 を片足 づゝ、やりちがへにあげちやあ歩行 いて来 る、靴 の裏 の赤 いのがぽつかり、ぽつかりと一 ツづゝ此方 から見 えるけれど、自分 じやあ、其 爪 さきも分 りはしまい。何 でもあんなに腹 のふくれた人 は臍 から下 、膝 から上 は見 たことがないのだとさういひます。あら! あら! 短服 に靴 を穿 いたものが転 がつて来 るぜと、思 つて、じつと見 て居 ると、橋 のまんなかあたりへ来 て鼻眼鏡 をはづした、※ [#「さんずい+散」、53-15]がかゝつて曇 つたと見 える。
で、衣兜 から半拭 を出 して、拭 きにかゝつたが、蝙蝠傘 を片手 に持 つて居 たから手 を空 けやうとして咽喉 と肩 のあひだへ柄 を挟 んで、うつむいて、珠 を拭 ひかけた。
これは今 までに幾度 も私 見 たことのある人 で、何 でも小児 の時 は物見高 いから、そら、婆 さんが転 んだ、花 が咲 いた、といつて五六人人 だかりのすることが眼 の及 ぶ処 にあれば、必 ず立 つて見 るが何処 に因 らずで場所 は限 らない、すべて五十人以上 の人 が集会 したなかには必 ずこの紳士 の立交 つて居 ないといふことはなかつた。
見 る時 にいつも傍 の人 を誰 か知 らつかまへて、尻上 りの、すました調子 で、何 かものをいつて居 なかつたことは殆 んど無 い、それに人 から聞 いて居 たことは曾 てないので、いつでも自分 で聞 かせて居 る、が、聞 くものがなければ独 で、むゝ、ふむ、といつたやうな、承知 したやうなことを独言 のやうでなく、聞 かせるやうにいつてる人 で、母様 も御存 じで、彼 は博士 ぶりといふのであるとおつしやつた。
けれども鰤 ではたしかにない、あの腹 のふくれた様子 といつたら、宛然 、鮟鱇 に肖 て居 るので、私 は蔭 じやあ鮟鱇博士 とさういひますワ。此間 も学校 へ参観 に来 たことがある。其時 も今 被 つて居 る、高 い帽子 を持 つて居 たが、何 だつてまたあんな度 はづれの帽子 を着 たがるんだらう。
だつて、眼鏡 を拭 かうとして、蝙蝠傘 を頤 で押 へて、うつむいたと思 ふと、ほら/\、帽子 が傾 いて、重量 で沈 み出 して、見 てるうちにすつぼり、赤 い鼻 の上 へ被 さるんだもの。眼鏡 をはづした上 で帽子 がかぶさつて、眼 が見 えなくなつたんだから驚 いた、顔中 帽子 、唯 口 ばかりが、其 口 を赤 くあけて、あはてゝ、顔 をふりあげて、帽子 を揺 りあげやうとしたから蝙蝠傘 がばツたり落 ちた。落 こちると勢 よく三 ツばかりくる/\とまつた間 に、鮟鱇博士 は五 ツばかりおまはりをして、手 をのばすと、ひよいと横 なぐれに風 を受 けて、斜 めに飛 んで、遙 か川下 の方 へ憎 らしく落着 いた風 でゆつたりしてふわりと落 ちるト忽 ち矢 の如 くに流 れ出 した。
博士 は片手 で眼鏡 を持 つて、片手 を帽子 にかけたまゝ烈 しく、急 に、殆 んど数 へる遑 がないほど靴 のうらで虚空 を踏 むだ、橋 ががた/\と動 いて鳴 つた。
「母様 、母様 、母様 」
と私 は足 ぶみをした。
「あい。」としづかに、おいひなすつたのが背後 に聞 こえる。
窓 から見 たまゝ振向 きもしないで、急込 んで、
「あら/\流 れるよ。」
「鳥 かい、獣 かい。」と極 めて平気 でいらつしやる。
「蝙蝠 なの、傘 なの、あら、もう見 えなくなつたい、ほら、ね、流 れツちまひました。」
「蝙蝠 ですと。」
「あゝ、落 ツことしたの、可哀想 に。」
と思 はず嘆息 をして呟 いた。
母様 は笑 を含 むだお声 でもつて、
「廉 や、それはね、雨 が晴 れるしらせなんだよ。」
此時 猿 が動 いた。
第九
一廻 くるりと環 にまはつて前足 をついて、棒杭 の上 へ乗 つて、お天気 を見 るのであらう、仰向 いて空 を見 た。晴 れるといまに行 くよ。
母様 は嘘 をおつしやらない。
博士 は頻 に指 しをして居 たが、口 [#「くち」は底本では「くゐ」]が利 けないらしかつた、で、一散 に駆 けて、来 て黙 つて小屋 の前 を通 らうとする。
「おぢさん/\。」
と厳 しく呼 んでやつた。追懸 けて、
「橋銭 を置 いて去 らつしやい、おぢさん。」
とさういつた。
「何 だ!」
一通 の声 ではない、さつきから口 が利 けないで、あのふくれた腹 に一杯 固 くなるほど詰 め込 み/\して置 いた声 を、紙鉄砲 ぶつやうにはぢきだしたものらしい。
で、赤 い鼻 をうつむけて、額越 に睨 みつけた。
「何 か」と今度 は応揚 [#「応揚」はママ]である。
私 は返事 をしませんかつた。それは驚 いたわけではない、恐 かつたわけではない。鮟鱇 にしては少 し顔 がそぐはないから何 にしやう、何 に肖 て居 るだらう、この赤 い鼻 の高 いのに、さきの方 が少 し垂 れさがつて、上唇 におつかぶさつてる工合 といつたらない、魚 より獣 より寧 ろ鳥 の嘴 によく肖 て居 る、雀 か、山雀 か、さうでもない。それでもないト考 えて七面鳥 に思 ひあたつた時 、なまぬるい音調 で、
「馬鹿 め。」
といひすてにして沈 んで来 る帽子 をゆりあげて行 かうとする。
「あなた。」とおつかさんが屹 とした声 でおつしやつて、お膝 の上 の糸屑 を細 い、白 い、指 のさきで二 ツ三 ツはじき落 して、すつと出 て窓 の処 へお立 ちなすつた。
「渡 をお置 きなさらんではいけません。」
「え、え、え。」
といつたがぢれつたさうに、
「僕 は何 じやが、うゝ知 らんのか。」
「誰 です、あなたは。」と冷 で。私 こんなのをきくとすつきりする、眼 のさきに見 える気 にくわ ないものに、水 をぶつかけて、天窓 から洗 つておやんなさるので、いつでもかうだ、極 めていゝ。
鮟鱇 は腹 をぶく/\さして、肩 をゆすつたが、衣兜 から名刺 を出 して、笊 のなかへまつすぐに恭 しく置 いて、
「かういふものじや、これじや、僕 じや。」
といつて肩書 の処 を指 した、恐 ろしくみぢかい指 で、黄金 の指輪 の太 いのをはめて居 る。
手 にも取 らないで、口 のなかに低声 におよみなすつたのが、市内衛生会委員 、教育談話会幹事 、生命保険会社々員 、一六会々長 、美術奨励会理事 、大日本赤十字社社員 、天野喜太郎 。
「この方 ですか。」
「うゝ。」といつた時 ふつくりした鼻 のさきがふら/\して、手 で、胸 にかけた赤十字 の徽章 をはぢいたあとで、
「分 つたかね。」
こんどはやさしい声 でさういつたまゝまた行 きさうにする。
「いけません。お払 でなきやアあとへお帰 ンなさい。」とおつしやつた。先生 妙 な顔 をしてぼんやり立 つてたが少 しむきになつて、
「えゝ、こ、細 いのがないんじやから。」
「おつりを差上 げましやう。」
おつかさんは帯 のあひだへ手 をお入 れ遊 ばした。
第十
母様 はうそをおつしやらない、博士 が橋銭 をおいてにげて行 くと、しばらくして雨 が晴 れた。橋 も蛇籠 も皆 雨 にぬれて、黒 くなつて、あかるい日中 へ出 た。榎 の枝 からは時 々はら/\と雫 が落 ちる、中流 へ太陽 がさして、みつめて居 るとまばゆいばかり。
「母様 遊 びに行 かうや。」
此時 鋏 をお取 んなすつて、
「あゝ。」
「ねイ、出 かけたつて可 の、晴 れたんだもの。」
「可 けれど、廉 や、お前 またあんまりお猿 にからかつてはなりませんよ。さう、可塩梅 にうつくしい羽 の生 へた姉 さんが何時 でもいるんぢやあありません。また落 つこちやうもんなら。」
ちよいと見向 いて、清 い眼 で御覧 なすつて莞爾 してお俯向 きで、せつせと縫 つて居 らつしやる。
さう、さう! さうであつた。ほら、あの、いま頬 つぺたを掻 いてむく/\濡 れた毛 からいきりをたてゝ日向 ぼつこをして居 る、憎 らしいツたらない。
いまじやあもう半年 も経 つたらう、暑 さの取着 の晩方頃 で、いつものやうに遊 びに行 つて、人 が天窓 を撫 でゝやつたものを、業畜 、悪巫山戯 をして、キツ/\と歯 を剥 いて、引掻 きさうな権幕 をするから、吃驚 して飛退 かうとすると、前足 でつかまへた、放 さないから力 を入 れて引張 り合 つた奮 みであつた。左 の袂 がびり/\と裂 てちぎれて取 たはづみをくつて、踏占 めた足 がちやうど雨上 りだつたから、堪 りはしない、石 の上 を辷 つて、ずる/\と川 へ落 ちた。わつといつた顔 へ一波 かぶつて、呼吸 をひいて仰向 けに沈 むだから、面 くらつて立 たうとするとまた倒 れて眼 がくらむで、アツとまたいきをひいて、苦 しいので手 をもがいて身躰 を動 かすと唯 どぶん/\と沈 むで行 く、情 ないと思 つたら、内 に母様 の坐 つて居 らつしやる姿 が見 えたので、また勢 ついたけれど、やつぱりどぶむ/\と沈 むから、何 うするのかなと落着 いて考 へたやうに思 ふ。それから何 のことだらうと考 え たやうにも思 はれる、今 に眼 が覚 めるのであらうと思 つたやうでもある、何 だか茫乎 したが俄 に水 ン中 だと思 つて叫 ばうとすると水 をのんだ。もう駄目 だ。
もういかんとあきらめるトタンに胸 が痛 かつた、それから悠々 と水 を吸 つた、するとうつとりして何 だか分 らなくなつたと思 ふと溌 と糸 のやうな真赤 な光線 がさして、一巾 あかるくなつたなかにこの身躰 が包 まれたので、ほつといきをつくと、山 の端 が遠 く見 えて私 のからだは地 を放 れて其頂 より上 の処 に冷 いものに抱 へられて居 たやうで、大 きなうつくしい眼 が、濡髪 をかぶつて私 の頬 ん処 へくつゝいたから、唯 縋 り着 いてじつと眼 を眠 つた[「眠つた」に「ママ」の注記]覚 がある。夢 ではない。
やつぱり片袖 なかつたもの、そして川 へ落 こちて溺 れさうだつたのを救 はれたんだつて、母様 のお膝 に抱 かれて居 て、其晩 聞 いたんだもの。だから夢 ではない。
一躰 助 けて呉 れたのは誰 ですッて、母様 に問 ふた。私 がものを聞 いて、返事 に躊躇 をなすつたのは此時 ばかりで、また、それは猪 だとか、狼 だとか、狐 だとか、頬白 だとか、山雀 だとか、鮟鱇 だとか鯖 だとか、蛆 だとか、毛虫 だとか、草 だとか、竹 だとか、松茸 だとか、しめぢだとかおいひでなかつたのも此時 ばかりで、そして顔 の色 をおかへなすつたのも此時 ばかりで、それに小 さな声 でおつしやつたのも此時 ばかりだ。
そして母様 はかうおいひであつた。
(廉 や、それはね、大 きな五色 の翼 があつて天上 に遊 んで居 るうつくしい姉 さんだよ)
第十一
(鳥 なの、母様 )とさういつて其時 私 が聴 いた。
此 にも母様 は少 し口籠 つておいでゝあつたが、
(鳥 ぢやないよ、翼 の生 へた美 しい姉 さんだよ)
何 うしても分 らんかつた。うるさくいつたらしまひにやお前 には分 らない、とさうおいひであつた、また推返 して聴 いたら、やつぱり、
(翼 の生 へたうつくしい姉 さんだつてば)
それで仕方 がないからきくのはよして、見 やうと思 つた、其 うつくしい翼 のはへたもの見 たくなつて、何処 に居 ます/\ツて、せつツ いても知 らないと、さういつてばかりおいでゝあつたが、毎日 /\あまりしつこかつたもんだから、とう/\余儀 なさゝうなお顔色 で、
(鳥屋 の前 にでもいつて見 て来 るが可 )
そんならわけはない。
小屋 を出 て二町 ばかり行 くと直 坂 があつて、坂 の下口 に一軒 鳥屋 があるので、樹蔭 も何 にもない、お天気 のいゝ時 あかるい/\小 さな店 で、町家 の軒 ならびにあつた。鸚鵡 なんざ、くるツとした露 のたりさうな、小 [#「ちい」はママ]さな眼 で、あれで瞳 が動 きますね。毎日 々々行 つちやあ立 つて居 たので、しまひにやあ見知顔 で私 の顔 を見 て頷 くやうでしたつけ、でもそれぢやあない。
駒 はね、丈 の高 い、籠 ん中 を下 から上 へ飛 んで、すがつて、ひよいと逆 に腹 を見 せて熟柿 の落 こちるやうにぽたりとおりて餌 をつゝいて、私 をばかまひつけない、ちつとも気 に懸 けてくれやうとはしないで あつた、それでもない。皆 違 つとる。翼 の生 へたうつくしい姉 さんは居 ないのッて、一所 に立 つた人 をつかまへちやあ、聞 いたけれど、笑 ふものやら、嘲 けるものやら、聞 かないふりをするものやら、つまらないとけなすものやら、馬鹿 だといふものやら、番小屋 の媽々 に似 て此奴 も何 うかして居 らあ、といふものやら、皆 獣 だ。
(翼 の生 へたうつくしい姉 さんは居 ないの)ツて聞 いた時 、莞爾 笑 つて両方 から左右 の手 でおうやうに私 の天窓 を撫 でゝ行 つた、それは一様 に緋羅紗 のづぼんを穿 いた二人 の騎兵 で――聞 いた時 ――莞爾 笑 つて、両方 から左右 の手 で、おうやうに私 の天窓 をなでゝ、そして手 を引 あつて黙 つて坂 をのぼつて行 つた、長靴 の音 がぼつくりして、銀 の剣 の長 いのがまつすぐに二 ツならんで輝 いて見 えた。そればかりで、あとは皆 馬鹿 にした。
五日 ばかり学校 から帰 つちやあ其足 で鳥屋 の店 へ行 つてじつと立 つて奥 の方 の暗 い棚 ん中 で、コト/\と音 をさして居 る其 鳥 まで見覚 えたけれど、翼 の生 へた姉 さんは居 ないのでぼんやりして、ぼツとして、ほんとうに少 し馬鹿 になつたやうな気 がしい/\、日 が暮 れると帰 り帰 りした。で、とても鳥屋 には居 ないものとあきらめたが、何 うしても見 たくツてならないので、また母様 にねだつて聞 いた。何処 に居 るの、翼 の生 へたうつくしい人 は何処 に居 るのツて。何 とおいひでも肯分 けないものだから母様 が、
(それでは林 へでも、裏 の田畝 へでも行 つて見 ておいで。何故 ツて天上 に遊 んで居 るんだから籠 の中 に居 ないのかも知 れないよ)
それから私 、あの、梅林 のある処 に参 りました。
あの桜山 と、桃谷 と、菖蒲 の池 とある処 で。
しかし其 は唯 青葉 ばかりで菖蒲 の短 いのがむらがつてゝ、水 の色 の黒 い時分 、此処 へも二日 、三日 続 けて行 きましたつけ、小鳥 は見 つからなかつた。烏 が沢山 居 た。あれが、かあ/\鳴 いて一 しきりして静 まると其姿 の見 えなくなるのは、大方 其翼 で、日 の光 をかくしてしまふのでしやう、大 きな翼 だ、まことに大 い翼 だ、けれどもそれではない。
第十二
日 が暮 れかゝると彼方 に一 ならび、此方 に一 ならび縦横 になつて、梅 の樹 が飛 々に暗 くなる。枝 々のなかの水田 の水 がどむよりして淀 むで居 るのに際立 つて真白 に見 えるのは鷺 だつた、二羽 一処 にト三羽 一処 にト居 てそして一羽 が六尺 ばかり空 へ斜 に足 から糸 のやうに水 を引 いて立 つてあがつたが音 がなかつた、それでもない。
蛙 が一斉 に鳴 きはじめる。森 が暗 くなつて、山 が見 えなくなつた。
宵月 の頃 だつたのに曇 てたので、星 も見 えないで、陰々 として一面 にものゝ色 が灰 のやうにうるんであつた、蛙 がしきりになく。
仰 いで高 い処 に朱 の欄干 のついた窓 があつて、そこが母様 のうちだつたと聞 く、仰 いで高 い処 に朱 の欄干 のついた窓 があつてそこから顔 を出 す、其顔 が自分 の顔 であつたんだらうにトさう思 ひながら破 れた垣 の穴 ん処 に腰 をかけてぼんやりして居 た。
いつでもあの翼 の生 へたうつくしい人 をたづねあぐむ、其 昼 のうち精神 の疲労 ないうちは可 んだけれど、度 が過 ぎて、そんなに晩 くなると、いつもかう滅入 つてしまつて、何 だか、人 に離 れたやうな世間 に遠 ざかつたやうな気 がするので、心細 くもあり、裏悲 しくもあり、覚束 ないやうでもあり、恐 ろしいやうでもある、嫌 な心持 だ、嫌 な心持 だ。
早 く帰 らうとしたけれど気 が重 くなつて其癖 神経 は鋭 くなつて、それで居 てひとりでにあくびが出 た。あれ!
赤 い口 をあいたんだなと、自分 でさうおもつて、吃驚 した。
ぼんやりした梅 の枝 が手 をのばして立 つてるやうだ。あたりを□ すと真 くらで、遠 くの方 で、ほう、ほうツて、呼 ぶのは何 だらう。冴 えた通 る声 で野末 を押 ひろげるやうに、啼 く、トントントントンと谺 にあたるやうな響 きが遠 くから来 るやうに聞 こえる鳥 の声 は、梟 であつた。
一 ツでない。
二 ツも三 ツも。私 に何 を談 すのだらう、私 に何 を談 すのだらう、鳥 がものをいふと慄然 として身 の毛 が慄立 つた。
ほんと うに其晩 ほど恐 かつたことはない。
蛙 の声 がます/\高 くなる、これはまた仰山 な、何百 、何 うして幾千 と居 て鳴 いてるので、幾千 の蛙 が一 ツ一 ツ眼 があつて、口 があつて、足 があつて、身躰 があつて、水 ン中 に居 て、そして声 を出 すのだ。一 ツ一 ツトわなゝいた。寒 くなつた。風 が少 し出 て樹 がゆつさり動 いた。
蛙 の声 がます/\高 くなる、居 ても立 つても居 られなくツて、そつと動 き出 した、身躰 が何 うにかなつてるやうで、すつと立 ち切 れないで蹲 つた、裾 が足 にくるまつて、帯 が少 し弛 むで、胸 があいて、うつむいたまゝ天窓 がすはつた。ものがぼんやり見 える。
見 えるのは眼 だトまたふるえ た。
ふるえ ながら、そつと、大事 に、内証 で、手首 をすくめて、自分 の身躰 を見 やうと思 つて、左右 へ袖 をひらいた時 もう思 はずキヤツと叫 んだ。だつて私 が鳥 のやうに見 えたんですもの。何 んなに恐 かつたらう。
此時 背後 から母様 がしつかり抱 いて下 さらなかつたら、私 何 うしたんだか知 れません。其 はおそくなつたから見 に来 て下 すつたんで泣 くことさへ出来 なかつたのが、
「母様 !」といつて離 れまいと思 つて、しつかり、しつかり、しつかり襟 ん処 へかぢりついて仰向 いてお顔 を見 た時 、フツト気 が着 いた。
何 うもさうらしい、翼 の生 へたうつくしい人 は何 うも母様 であるらしい。もう鳥屋 には、行 くまい、わけてもこの恐 い処 へと、其後 ふつゝり。
しかし何 うしても何 う見 ても母様 にうつくしい五色 の翼 が生 へちやあ居 ないから、またさうではなく、他 にそんな人 が居 るのかも知 れない、何 うしても判然 しないで疑 はれる。
雨 も晴 れたり、ちやうど石原 も辷 るだらう。母様 はあゝおつしやるけれど、故 とあの猿 にぶつかつて、また川 へ落 ちて見 やうか不知 。さうすりやまた引上 げて下 さるだらう。見 たいな! 翼 の生 へたうつくしい姉 さん。だけれども、まあ、可 、母様 が居 らつしやるから、母様 が居 らつしやつたから。(完)
トかう
「
「さうかい、
「あのウ
「さう。」といつて
「ありや
「
「
「いゝえ、さうしてあけて
ちやうど
それからまた
この
「ねえ、
と
第二
「お
といひ/\
お
「
と
かういつた
「
けれど、
「
「むゝ。」
「ねツ
と
「だから
「
「
「さうでしやう。それから、」
「それから、□だつて、
第三
「あゝ、それで
そればかりではなかつた。
はじめは
そんなことは
それから、
あれは
また
第四
でも
で、まだ/\いろんなことをいつて、
だつて、
「あのウ
「
「おゝ、そんなことを
といつて
さうだ。
「だつて、
「あれ、だつてもね、そんなこと
それでも
「あゝ
「ぢやあ
モひとつ
第五
また
この
またはじまつた、
で、
八九年
第六
だけれど
だつて
トかうおつしやるんだから。
で、はじめの
そしてまだ
第七
また
で、つまり
さつき
まだ
あはれだとお
□あゝ、
うまいこと
□はい、いえ、
トさういつてかさね/″\
第八
で、
これは
けれども
だつて、
「
と
「あい。」としづかに、おいひなすつたのが
「あら/\
「
「
「
「あゝ、
と
「
第九
「おぢさん/\。」
と
「
とさういつた。
「
で、
「
「
といひすてにして
「あなた。」とおつかさんが
「
「え、え、え。」
といつたがぢれつたさうに、
「
「
「かういふものじや、これじや、
といつて
「この
「うゝ。」といつた
「
こんどはやさしい
「いけません。お
「えゝ、こ、
「おつりを
おつかさんは
第十
「
「あゝ。」
「ねイ、
「
ちよいと
さう、さう! さうであつた。ほら、あの、いま
いまじやあもう
もういかんとあきらめるトタンに
やつぱり
そして
(
第十一
(
(
(
それで
(
そんならわけはない。
(
(それでは
それから
あの
しかし
第十二
いつでもあの
ぼんやりした
ほん
ふる
「
しかし
(「新著月刊」第一号 明治30年4月)
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