一
襖 を開けて、旅館の女中が、
「旦那 、」
と上調子 の尻上 りに云 って、坐 りもやらず莞爾 と笑いかける。
「用かい。」
とこの八畳 で応じたのは三十ばかりの品のいい男で、紺 の勝った糸織 の大名縞 の袷 に、浴衣 を襲 ねたは、今しがた湯から上ったので、それなりではちと薄 ら寒し、着換 えるも面倒 なりで、乱箱 に畳 んであった着物を無造作に引摺出 して、上着だけ引剥 いで着込 んだ証拠 に、襦袢 も羽織も床 の間 を辷 って、坐蒲団 の傍 まで散々 のしだらなさ。帯もぐるぐる巻き、胡坐 で火鉢 に頬杖 して、当日の東雲御覧 という、ちょっと変った題の、土地の新聞を読んでいた。
その二の面の二段目から三段へかけて出ている、清川謙造氏 講演、とあるのがこの人物である。
たとい地方でも何でも、新聞は早朝に出る。その東雲御覧を、今やこれ午後二時。さるにても朝寝 のほど、昨日 のその講演会の帰途 のほども量 られる。
「お客様でございますよう。」
と女中は思入 たっぷりの取次を、ちっとも先方気が着かずで、つい通りの返事をされたもどかしさに、声で威 して甲走 る。
吃驚 して、ひょいと顔を上げると、横合から硝子窓 へ照々 と当る日が、片頬 へかっと射したので、ぱちぱちと瞬 いた。
「そんなに吃驚なさいませんでもようございます。」
となおさら可笑 がる。
謙造は一向真面目 で、
「何という人だ。名札はあるかい。」
「いいえ、名札なんか用 りません。誰 も知らないもののない方でございます。ほほほ、」
「そりゃ知らないもののない人かも知れんがね、よそから来た私にゃ、名を聞かなくっちゃ分らんじゃないか、どなただよ。」
と眉 を顰 める。
「そんな顔をなすったってようございます。ちっとも恐 くはありませんわ。今にすぐにニヤニヤとお笑いなさろうと思って。昨夜 あんなに晩 うくお帰りなさいました癖 に、」
「いや、」
と謙造は片頬 を撫 でて、
「まあ、いいから。誰だというに、取次がお前、そんなに待たしておいちゃ失礼だろう。」
ちと躾 めるように言うと、一層頬辺 の色を濃 くして、ますます気勢込 んで、
「何、あなた、ちっと待たして置きます方がかえっていいんでございますよ。昼間ッからあなた、何ですわ。」
と厭 な目つきでまたニヤリで、
「ほんとは夜来る方がいいんだのに。フン、フン、フン、」
突然 川柳 で折紙 つきの、(あり)という鼻をひこつかせて、
「旦那、まあ、あら、まあ、あら良 い香 い、何て香水 を召 したんでございます。フン、」
といい方が仰山 なのに、こっちもつい釣込 まれて、
「どこにも香水なんぞありはしないよ。」
「じゃ、あの床の間の花かしら、」
と一際 首を突込 みながら、
「花といえば、あなたおあい遊ばすのでございましょうね、お通し申しましてもいいんですね。」
「串戯 じゃない。何という人だというに、」
「あれ、名なんぞどうでもよろしいじゃありませんか。お逢 いなされば分るんですもの。」
「どんな人だよ、じれったい。」
「先方 もじれったがっておりましょうよ。」
「婦人 か。」
と唐突 に尋 ねた。
「ほら、ほら、」
と袂 をその、ほらほらと煽 ってかかって、
「ご存じの癖に、」
「どんな婦人だ。」
と尋ねた時、謙造の顔がさっと暗くなった。新聞を窓 へ翳 したのである。
「お気の毒様。」
二
「何だ、もう帰ったのか。」
「ええ、」
「だってお気の毒様だと云 うじゃないか。」
「ほんとに性急 でいらっしゃるよ。誰も帰ったとも何とも申上げはしませんのに。いいえ、そうじゃないんですよ。お気の毒様だと申しましたのは、あなたはきっと美しい※ [#「姉」の正字、「女+□のつくり」、286-4]さんだと思っておいでなさいましょう。でしょう、でしょう。
ところが、どうして、跛 で、めっかちで、出尻 で、おまけに、」
といいかけて、またフンと嗅 いで、
「ほんとにどうしたら、こんな良 い匂 が、」
とひょいと横を向いて顔を廊下 へ出したと思うと、ぎょッとしたように戸口を開いて、斜 ッかけに、
「あら、まあ!」
「お伺 い下すって?」
と内端 ながら判然 とした清 い声が、壁 に附 いて廊下で聞える。
女中はぼッとした顔色 で、
「まあ!」
「お帳場にお待ち申しておりましたんですけれども、おかみさんが二階へ行っていいから、とそうおっしゃって下さいましたもんですから……」
と優容 な物腰 。大概 、莟 から咲 きかかったまで、花の香 を伝えたから、跛も、めっかちも聞いたであろうに、仂 なく笑いもせなんだ、つつましやかな人柄 である。
「お目にかかられますでしょうか。」
「ご勝手になさいまし。」
くるりと入口へ仕切られた背中になると、襖の桟 が外 れたように、その縦縞 が消えるが疾 いか、廊下を、ばた、ばた、ばた、どたんなり。
「お入ンなさい、」
「は、」
と幽 かに聞いて、火鉢に手をかけ、入口をぐっと仰 いで、優 い顔で、
「ご遠慮 なく……私は清川謙造です。」
と念のために一ツ名乗る。
「ご免 下さいまし、」
はらりと沈 んだ衣 の音で、早 入口へちゃんと両手を。肩がしなやかに袂の尖 、揺 れつつ畳 に敷いたのは、藤 の房 の丈長 く末濃 に靡 いた装 である。
文金 の高髷 ふっくりした前髪 で、白茶地 に秋の野を織出した繻珍 の丸帯、薄手にしめた帯腰柔 に、膝 を入口に支 いて会釈 した。背負上 げの緋縮緬 こそ脇 あけを漏 る雪の膚 に稲妻 のごとく閃 いたれ、愛嬌 の露 もしっとりと、ものあわれに俯向 いたその姿、片手に文箱 を捧 げぬばかり、天晴 、風采 、池田の宿 より朝顔 が参って候 。
謙造は、一目見て、紛 うべくもあらず、それと知った。
この芸妓 は、昨夜 の宴会 の余興 にとて、催 しのあった熊野 の踊 に、朝顔に扮 した美人である。
女主人公 の熊野を勤 めた婦人は、このお腰元に較 べていたく品形 が劣 っていたので、なぜあの瓢箪 のようなのがシテをする。根占 の花に蹴落 されて色の無さよ、と怪 んで聞くと、芸も容色 も立優 った朝顔だけれど、――名はお君という――その妓 は熊野を踊 ると、後できっと煩 らうとの事。仔細 を聞くと、させる境遇 であるために、親の死目に合わなかったからであろう、と云った。
不幸で沈んだと名乗る淵 はないけれども、孝心なと聞けば懐 しい流れの花の、旅の衣 の俤 に立ったのが、しがらみかかる部屋の入口。
謙造はいそいそと、
「どうして。さあ、こちらへ。」
と行儀 わるく、火鉢を斜 めに押出 しながら、
「ずっとお入んなさい、構やしません。」
「はい。」
「まあ、どうしてね、お前さん、驚 いた。」と思わず云って、心着くと、お君はげっそりとまた姿が痩 せて、極 りの悪そうに小さくなって、
「済みませんこと。」
「いやいや、驚いたって、何に、その驚いたんじゃない。はははは、吃驚 したんじゃないよ。まあ、よく来たねえ。」
三
「その事で。ああ、なるほど言いましたよ。」
と火鉢の縁 に軽く肱 を凭 たせて、謙造は微笑 みながら、
「本来なら、こりゃお前さんがたが、客へお世辞 に云う事だったね。誰かに肖 ていらっしゃるなぞと思わせぶりを……ちと反対 だったね。言いました。ああ、肖ている、肖ているッて。
そうです、確 にそう云った事を覚えているよ。」
お君は敷 けと云って差出された座蒲団 より膝薄 う、その傍 へ片手をついたなりでいたのである。が、薄化粧 に、口紅 濃 く、目のぱっちりした顔を上げて、
「よその方が、誰かに肖ているとお尋ねなさいましたから、あなたがどうお返事を遊ばすかと存じまして、私は極 が悪うございましたけれども、そっと気をつけましたんですが、こういう処で話をする事ではない。まあまあ、とおっしゃって、それ切りになりましたのでございます。」
謙造は親しげに打頷 き、
「そうそうそう云いました。それが耳に入って気になったかね、そうかい。」
「いいえ、」とまた俯向いて、清らかな手巾 を、袂の中で引靡 けて、
「気にいたしますの、なんのって、そういうわけではございません。あの……伺 いました上で、それにつきまして少々お尋 ねしたいと存じまして。」と俯目 になった、睫毛 が濃い。
「聞きましょうとも。その肖たという事の次第 を話すがね、まあ、もっとお寄んなさい。大分 眩 しそうだ。どうも、まともに日が射すからね。さあ、遠慮をしないで、お敷きなさい。こうして尋ねて来なすった時はお客様じゃないか。威張 って、威張って。」
「いいえ、どういたしまして、それでは……」
しかし眩 ゆかったろう、下掻 を引いて座 をずらした、壁 の中央 に柱が許 、肩に浴 びた日を避 けて、朝顔はらりと咲きかわりぬ。
「実はもうちっと間 があると、お前さんが望みとあれば、今夜にもまた昨夜 の家へ出向いて行って、陽気に一つ話をするんだがね、もう東京へ発程 んだからそうしてはいられない。」
「はい、あの、私もそれを承りましたので、お帰りになりません前 と存じまして、お宿へ、飛 だお邪魔 をいたしましてございますの。」
「宿へお出 は構わんが、こんな処で話してはちと真面目になるから、事が面倒になりはしないかと思うんだが。
そうかと云って昨夜 のような、杯盤狼藉 という場所も困るんだよ。
実は墓参詣 の事だから、」
と云いかけて、だんだん火鉢を手許 へ引いたのに心着いて、一膝下って向うへ圧 して、
「お前さん、煙草 は?」
黙 って莞爾 する。
「喫 むだろう。」
「生意気 でございますわ。」
「遠慮なしにお喫 り、お喫り。上げようか、巻いたんでよけりゃ。」
「いいえ、持っておりますよ。」
と帯の処へ手を当てる。
「そこでと、湯も沸 いてるから、茶を飲みたければ飲むと……羊羹 がある。一本五銭ぐらいなんだが、よければお撮 みと……今に何ぞご馳走 しようが、まあ、お尋 の件を済ましてからの事にしよう、それがいい。」
独 りで云って、独りで極 めて、
「さて、その事だが、」
「はあ、」
とまた片手をついた。胸へ気が籠 ったか、乳のあたりがふっくりとなる。
「余り気を入れると他愛 がないよ。ちっとこう更 っては取留めのない事なんだから。いいかい、」
ともの優しく念を入れて、
「私は小児 の時だったから、唾 をつけて、こう引返すと、台なしに汚 すと云って厭 がったっけ。死んだ阿母 が大事にしていた、絵も、歌の文字も、対 の歌留多 が別にあってね、極彩色 の口絵の八九枚入った、綺麗 な本の小倉百人一首 というのが一冊あった。
その中のね、女用文章の処を開けると……」と畳の上で、謙造は何にもないのを折返した。
四
「トそこに高髷に結った、瓜核顔 で品のいい、何とも云えないほど口許 の優 い、目の清 い、眉の美しい、十八九の振袖 が、裾 を曳 いて、嫋娜 と中腰に立って、左の手を膝の処へ置いて、右の手で、筆を持った小児 の手を持添えて、その小児 の顔を、上から俯目 に覗込 むようにして、莞爾 していると、小児 は行儀よく机 に向って、草紙に手習のところなんだがね。
今でも、その絵が目に着いている。衣服 の縞柄 も真 にしなやかに、よくその膚合 に叶 ったという工合で。小児 の背中に、その膝についた手の仕切がなかったら、膚へさぞ移香 もするだろうと思うように、ふっくりとなだらかに褄 を捌 いて、こう引廻 した裾が、小児 を庇 ったように、しんせつに情 が籠 っていたんだよ。
大袈裟 に聞えようけれども。
私は、その絵が大好きで、開けちゃ、見い見いしたもんだから、百人一首を持出して、さっと開 ると、またいつでもそこが出る。
この※ [#「姉」の正字、「女+□のつくり」、295-4]さんは誰だい?と聞くと阿母 が、それはお向うの※ [#「姉」の正字、「女+□のつくり」、295-4]さんだよ、と言い言いしたんだ。
そのお向うの※ [#「姉」の正字、「女+□のつくり」、295-6]さんというのに、……お前さんが肖 ているんだがね――まあ、お聞きよ。」
「はあ、」
と□ った目がうつくしく、その俤 が映りそう。
「お向うというのは、前に土蔵 が二戸前 。格子戸 に並 んでいた大家 でね。私の家なんぞとは、すっかり暮向きが違 う上に、金貸だそうだったよ。何となく近所との隔 てがあったし、余り人づきあいをしないといった風で。出入も余計なし、なおさら奥行が深くって、裏はどこの国まで続いているんだか、小児心 には知れないほどだったから、ついぞ遊びに行った事もなければ、時々、門口じゃ、その※ [#「姉」の正字、「女+□のつくり」、295-14]さんというのの母親に口を利かれる事があっても、こっちは含羞 で遁 げ出したように覚えている。
だから、そのお嬢 さんなんざ、年紀 も違うし、一所に遊んだ事はもちろんなし、また内気な人だったとみえて、余り戸外 へなんか出た事のない人でね、堅 く言えば深閨 に何とかだ。秘蔵娘 さね。
そこで、軽々しく顔が見られないだけに、二度なり、三度なり見た事のあるのが、余計に心に残っているんで。その女用文章の中の挿画 が真物 だか、真物が絵なんだか分らないくらいだった。
しかしどっちにしろ、顔容 は判然 今も覚えている。一日 、その母親の手から、娘 が、お前さんに、と云って、縮緬 の寄切 で拵 えた、迷子札 につける腰巾着 を一個 くれたんです。そのとき格子戸の傍 の、出窓の簾 の中に、ほの白いものが見えたよ。紅 の色も。
蝙蝠 を引払 いていた棹 を抛 り出して、内 へ飛込んだ、その嬉 しさッたらなかった。夜も抱いて寝て、あけるとその百人一首の絵の机の上へのっけたり、立っている娘の胸の処へ置いたり、胸へのせると裾までかくれたよ。
惜 い事をした。その巾着は、私が東京へ行っていた時分に、故郷 の家が近火 に焼けた時、その百人一首も一所に焼けたよ。」
「まあ……」
とはかなそうに、お君の顔色が寂 しかった。
「迷子札は、金 だから残ったがね、その火事で、向うの家 も焼けたんだ。今度通ってみたが、町はもう昔の俤もない。煉瓦造 りなんぞ建って開けたようだけれど、大きな樹がなくなって、山がすぐ露出 しに見えるから、かえって田舎 になった気がする、富士の裾野 に煙突 があるように。
向うの家も、どこへ行きなすったかね、」
と調子が沈んで、少し、しめやかになって、
「もちろんその娘さんは、私がまだ十 ウにならない内に亡 くなったんだ。――
産後だと言います……」
「お産をなすって?」
と俯目でいた目を□ いたが、それがどうやらうるんでいたので。
謙造はじっと見て、傾 きながら、
「一人娘 で養子をしたんだね、いや、その時は賑 かだッけ。」
と陽気な声。
五
「土蔵がずッしりとあるだけに、いつも火の気のないような、しんとした、大きな音じゃ釜 も洗わないといった家が、夜になると、何となく灯 がさして、三味線 太鼓 の音がする。時々どっと山颪 に誘われて、物凄 いような多人数 の笑声 がするね。
何ッて、母親 の懐 で寝ながら聞くと、これは笑っているばかり。父親 が店から声をかけて、魔物が騒ぐんだ、恐 いぞ、と云うから、乳へ顔を押着 けて息を殺して寝たっけが。
三晩 ばかり続いたよ。田地田畠 持込 で養子が来たんです。
その養子というのは、日にやけた色の赤黒い、巌乗 づくりの小造 な男だっけ。何だか目の光る、ちときょときょとする、性急 な人さ。
性急 なことをよく覚えている訳は、桃 を上げるから一所においで。※ [#「姉」の正字、「女+□のつくり」、299-2]さんが、そう云った、坊 を連れて行けというからと、私を誘ってくれたんだ。
例の巾着をつけて、いそいそ手を曳 かれて連れられたんだが、髪を綺麗 に分けて、帽子 を冠 らないで、確かその頃流行 ったらしい。手甲 見たような、腕へだけ嵌 まる毛糸で編んだ、萌黄 の手袋を嵌めて、赤い襯衣 を着て、例の目を光らしていたのさ。私はその娘さんが、あとから来るのだろう、来るのだろうと、見返り見返りしながら手を曳かれて行ったが、なかなか路 は遠かった。
途中で負 ってくれたりなんぞして、何でも町尽 へ出て、寂 い処を通って、しばらくすると、大きな榎 の下に、清水 が湧 いていて、そこで冷い水を飲んだ気がする。清水には柵 が結 ってあってね、昼間だったから、点 けちゃなかったが、床几 の上に、何とか書いた行燈 の出ていたのを覚えている。
そこでひとしきり、人通りがあって、もうちと行くと、またひっそりして、やがて大きな桑畠 へ入って、あの熟 した桑の実を取って食べながら通ると、ニ三人葉を摘 んでいた、田舎 の婦人があって、養子を見ると、慌 てて襷 をはずして、お辞儀 をしたがね、そこが養子の実家だった。
地続きの桃畠 へ入ると、さあ、たくさん取れ、今じゃ、※ [#「姉」の正字、「女+□のつくり」、300-2]さんのものになったんだから、いつでも来るがいい。まだ、瓜 もある、西瓜 も出来る、と嬉しがらせて、どうだ。坊は家の児 にならんか、※ [#「姉」の正字、「女+□のつくり」、300-4]さんがいい児にするぜ。
厭 か、爺婆 が居 るから。……そうだろう。あんな奴は、今におれがたたき殺してやろう、と恐ろしく意気込んで、飛上って、高い枝 の桃の実を引 もぎって一個 くれたんだ。
帰途 は、その清水の処あたりで、もう日が暮 れた。婆 がやかましいから急ごう、と云うと、髪をばらりと振 って、私の手をむずと取って駆出 したんだが、引立 てた腕 が□ げるように痛む、足も宙 で息が詰 った。養子は、と見ると、目が血走っていようじゃないか。
泣出したもんだから、横抱 にして飛んで帰ったがね。私は何だか顔はあかし、天狗 にさらわれて行ったような気がした。袂に入れた桃の実は途中で振落 して一つもない。
そりゃいいが、半年経 たない内にその男は離縁 になった。
だんだん気が荒 くなって、※ [#「姉」の正字、「女+□のつくり」、301-1]さんのたぶさを掴 んで打った、とかで、田地 は取上げ、という評判 でね、風の便りに聞くと、その養子は気が違ってしまったそうだよ。
その後 、晩方 の事だった。私はまた例の百人一首を持出して、おなじ処を開けて腹這 いで見ていた。その絵を見る時は、きっと、この※ [#「姉」の正字、「女+□のつくり」、301-5]さんは誰? と云って聞くのがお極 りのようだったがね。また尋 ねようと思って、阿母 は、と見ると、秋の暮方 の事だっけ。ずっと病気で寝ていたのが、ちと心持がよかったか、床 を出て、二階の臂 かけ窓 に袖 をかけて、じっと戸外 を見てうっとり見惚 れたような様子だから、遠慮 をして、黙って見ていると、どうしたか、ぐッと肩を落して、はらはらと涙 を落した。
どうしたの? と飛ついて、鬢 の毛のほつれた処へ、私の頬 がくっついた時、と見ると向うの軒下 に、薄く青い袖をかさねて、しょんぼりと立って、暗くなった山の方を見ていたのがその人で、」
と謙造は面 を背 けて、硝子窓 。そのおなじ山が透 かして見える。日は傾 いたのである。
六
「その時は、艶々 した丸髷 に、浅葱絞 りの手柄 をかけていなすった。ト私が覗 いた時、くるりと向うむきになって、格子戸へ顔をつけて、両袖でその白い顔を包んで、消えそうな後姿で、ふるえながら泣 きなすったっけ。
桑の実の小母 さん許 へ、※ [#「姉」の正字、「女+□のつくり」、302-8]さんを連れて行ってお上げ、坊 やは知ってるね、と云って、阿母 は横抱に、しっかり私を胸へ抱いて、
こんな、お腹をして、可哀相 に……と云うと、熱い珠 が、はらはらと私の頸 へ落ちた。」
と見ると手巾 の尖 を引啣 えて、お君 の肩はぶるぶると動いた。白歯 の色も涙の露 、音するばかり戦 いて。
言 を折られて、謙造は溜息 した。
「あなた、もし、」
と涙声で、つと、腰 を浮 かして寄って、火鉢にかけた指の尖が、真白に震 えながら、
「その百人一首も焼けてなくなったんでございますか。私 、私 は、お墓もどこだか存じません。」
と引出して目に当てた襦袢 の袖の燃ゆる色も、紅 寒き血に見える。
謙造は太息 ついて、
「ああ、そうですか、じゃあ里に遣 られなすったお娘 なんですね。音信不通 という風説だったが、そうですか。――いや、」
と言 を改めて、
「二十年前の事が、今目の前に見えるようだ。お察し申します。
私も、その頃阿母 に別れました。今じゃ父親 も居 らんのですが、しかしまあ、墓所 を知っているだけでも、あなたより増 かも知れん。
そうですか。」
また歎息して、
「お墓所もご存じない。」
「はい、何にも知りません。あなたは、よく私の両親の事をご存じでいらっしゃいます、せめて、その、その百人一首でも見とうござんすのにね。……」
と言 も乱れて、
「墓 の所をご存じではござんすまいか。」
「……困ったねえ。門徒宗 でおあんなすったっけが、トばかりじゃ……」
と云い淀 むと、堪 りかねたか、蒲団 の上へ、はっと突俯 して泣くのであった。
謙造は目を瞑 って腕組したが、おお、と小さく膝 を叩 いて、
「余りの事のお気の毒さ。肝心 の事を忘れました。あなた、あなた、」
と二声 に、引起された涙の顔。
「こっちへ来てご覧なさい。」
謙造は座を譲って、
「こっちへ来て、ここへ、」
と指さされた窓の許 へ、お君は、夢中 のように、つかつか出て、硝子窓の敷居 に縋 る。
謙造はひしと背後 に附添 い、
「松葉越 に見えましょう。あの山は、それ茸狩 だ、彼岸 だ、二十六夜待 だ、月見だ、と云って土地の人が遊山 に行く。あなたも朝夕見ていましょう。あすこにね、私の親たちの墓があるんだが、その居 まわりの回向堂 に、あなたの阿母 さんの記念 がある。」
「ええ。」
「確 にあります、一昨日 も私が行って見て来たんだ。そこへこれからお伴 をしよう、連れて行って上げましょう、すぐに、」
と云って勇 んだ声で、
「お身体 の都合 は、」
その花やかな、寂 しい姿をふと見つけた。
「しかし、それはどうとも都合 が出来よう。」
「まあ、ほんとうでございますか。」
といそいそ裳 を靡 かしながら、なおその窓を見入ったまま、敷居の手を離さなかったが、謙造が、脱 ぎ棄 てた衣服 にハヤ手をかけた時であった。
「あれえ」と云うと畳にばったり、膝を乱して真蒼 になった。
窓を切った松の樹の横枝へ、お君の顔と正面に、山を背負 って、むずと掴 まった、大きな鳥の翼 があった。狸 のごとき眼 の光、灰色の胸毛の逆立 ったのさえ数えられる。
「梟 だ。」
とからからと笑って、帯をぐるぐると巻きながら、
「山へ行くのに、そんなものに驚いちゃいかんよ。そう極 ったら、急がないとまた客が来る。あなた支度 をして。山の下まで車だ。」と口でも云えば、手も叩く、謙造の忙 がしさ。その足許 にも鳥が立とう。
七
「さっきの、さっきの、」
と微笑 みながら、謙造は四辺 を□ し、
「さっきのが……声だよ。お前さん、そう恐 がっちゃいかん。一生懸命 のところじゃないか。」
「あの、梟が鳴くんですかねえ。私はまた何でしょうと吃驚 しましたわ。」
と、寄添 いながら、お君も莞爾 。
二人は麓 から坂を一ツ、曲ってもう一ツ、それからここの天神の宮を、梢 に仰 ぐ、石段を三段、次第に上って来て、これから隧道 のように薄暗い、山の狭間 の森の中なる、額堂 を抜けて、見晴しへ出て、もう一坂越して、草原を通ると頂上の広場になる。かしこの回向堂を志して、ここまで来ると、あんなに日当りで、車は母衣 さえおろすほどだったのが、梅雨期 のならい、石段の下の、太鼓橋 が掛 った、乾 いた池の、葉ばかりの菖蒲 がざっと鳴ると、上の森へ、雲がかかったと見るや、こらえずさっと降出したのに、ざっと一濡 れ。石段を駆 けて上 って、境内 にちらほらとある、青梅 の中を、裳 はらはらでお君が潜 って。
さてこの額堂へ入って、一息ついたのである。
「暮れるには間 があるだろうが、暗くなったもんだから、ここを一番と威 すんだ。悪い梟さ。この森にゃ昔からたくさん居る。良 い月夜なんぞに来ると、身体 が蒼 い後光がさすように薄ぼんやりした態 で、樹の間にむらむら居る。
それをまた、腕白 の強がりが、よく賭博 なんぞして、わざとここまで来たもんだからね。梟は仔細 ないが、弱るのはこの額堂にゃ、古 から評判の、鬼 、」
「ええ、」
とまた擦寄 った。謙造は昔懐 しさと、お伽話 でもする気とで、うっかり言ったが、なるほどこれは、と心着いて、急いで言い続けて、
「鬼の額だよ、額が上 っているんだよ。」
「どこにでございます。」
と何 にか押向 けられたように顔を向ける。
「何、何でもない、ただ絵なんだけれど、小児 の時は恐かったよ、見ない方がよかろう。はははは、そうか、見ないとなお恐 しい、気が済まない、とあとへ残るか、それその額さ。」
と指 したのは、蜘蛛 の囲 の間にかかって、一面漆 を塗ったように古い額の、胡粉 が白くくっきりと残った、目隈 の蒼ずんだ中に、一双虎 のごとき眼 の光、凸 に爛々 たる、一体の般若 、被 の外へ躍出 でて、虚空 へさっと撞木 を楫 、渦 いた風に乗って、緋 の袴 の狂 いが火焔 のように飜 ったのを、よくも見ないで、
「ああ。」と云うと、ひしと謙造の胸につけた、遠慮 の眉は間 をおいたが、前髪は衣紋 について、襟 の雪がほんのり薫 ると、袖に縋った手にばかり、言い知らず力が籠 った。
謙造は、その時はまださまでにも思わずに、
「母様 の記念 を見に行くんじゃないか、そんなに弱くっては仕方がない。」
と半ば励 ます気で云った。
「いいえ、母様 が活 きていて下されば、なおこんな時は甘 えますわ。」
と取縋 っているだけに、思い切って、おさないものいい。
何となく身に染みて、
「私が居 るから恐くはないよ。」
「ですから、こうやって、こうやって居れば恐くはないのでございます。」
思わず背 に手をかけながら、謙造は仰いで額を見た。
雨の滴々 しとしとと屋根を打って、森の暗さが廂 を通し、翠 が黒く染込 む絵の、鬼女 が投げたる被 を背 にかけ、わずかに烏帽子 の頭 を払 って、太刀 に手をかけ、腹巻したる体 を斜 めに、ハタと睨 んだ勇士の面 。
と顔を合わせて、フトその腕 を解いた時。
小松に触 る雨の音、ざらざらと騒がしく、番傘 を低く翳 し、高下駄 に、濡地 をしゃきしゃきと蹈 んで、からずね二本、痩せたのを裾端折 で、大股 に歩行 いて来て額堂へ、頂 の方の入口から、のさりと入ったものがある。
八
「やあ、これからまたお出 かい。」
と腹の底から出るような、奥底のない声をかけて、番傘を横に開いて、出した顔は見知越 。一昨日 もちょっと顔を合わせた、峰 の回向堂の堂守で、耳には数珠 をかけていた。仁右衛門 といって、いつもおんなじ年の爺 である。
その回向堂は、また庚申堂 とも呼ぶが、別に庚申を祭ったのではない。さんぬる天保 庚申年に、山を開いて、共同墓地にした時に、居まわりに寺がないから、この御堂 を建立 して、家々の位牌 を預ける事にした、そこで回向堂とも称 うるので、この堂守ばかり、別に住職 の居室 もなければ、山法師 も宿らぬのである。
「また、東京へ行きますから、もう一度と思って来ました。」
と早、離れてはいたが、謙造は傍 なる、手向 にあらぬ花の姿に、心置かるる風情 で云った。
「よく、参らっしゃる、ちとまた休んでござれ。」
「ちょっと休まして頂くかも知れません。爺 さんは、」
「私 かい。講中にちっと折込 みがあって、これから通夜 じゃ、南無妙 、」
と口をむぐむぐさしたが、
「はははは、私 ぐらいの年の婆 さまじゃ、お目出たい事いの。位牌になって嫁入 りにござらっしゃる、南無妙。戸は閉めてきたがの、開けさっしゃりませ、掛金 も何にもない、南無妙、」
と二人を見て、
「ははあ、傘 なしじゃの、いや生憎 の雨、これを進ぜましょ。持ってござらっしゃい。」
とばッさり窄 める。
「何、構やしないよ。」
「うんにゃよ、お前さまは構わっしゃらいでも、はははは、それ、そちらの※ [#「姉」の正字、「女+□のつくり」、312-5]さんが濡れるわ、さあさあ、ささっしゃい。」
「済みませんねえ、」
と顔を赤らめながら、
「でも、お爺さん、あなたお濡れなさいましょう。」
「私は濡れても天日 で干すわさ。いや、またまこと困れば、天神様の神官殿別懇 じゃ、宿坊 で借りて行く……南無妙、」
と押 つけるように出してくれる。
捧 げるように両手で取って、
「大助 りです、ここに雨やみをしているもいいが、この人が、」
と見返って、莞爾 して、
「どうも、嬰児 のように恐がって、取って食われそうに騒ぐんで、」
と今の姿を見られたろう、と極 の悪さにいいわけする。
お君は俯向 いて、紫 の半襟 の、縫 の梅 を指でちょいと。
仁右衛門 、はッはと笑い、
「おお、名物の梟かい。」
「いいえ、それよりか、そのもみじ狩 の額の鬼が、」
「ふむ、」
と振仰いで、
「これかい、南無妙。これは似たような絵じゃが、余吾将軍維茂 ではない。見さっしゃい。烏帽子素袍大紋 じゃ。手には小手 、脚 にはすねあてをしているわ……大森彦七 じゃ。南無妙、」
と豊かに目を瞑 って、鼻の下を長くしたが、
「山頬 の細道を、直様 に通るに、年の程十七八計 なる女房 の、赤き袴に、柳裏 の五衣 着て、鬢 深 く鍛 ぎたるが、南無妙。
山の端 の月に映 じて、ただ独り彳 みたり。……これからよ、南無妙。
女ちと打笑うて、嬉 しや候。さらば御桟敷 へ参り候 わんと云いて、跡 に付きてぞ歩みける。羅綺 にだも不勝姿 、誠 に物痛 しく、まだ一足も土をば不蹈人 よと覚えて、南無妙。
彦七不怺 、余 に露 も深く候えば、あれまで負進 せ候わんとて、前に跪 きたれば、女房すこしも不辞 、便 のう、いかにかと云いながら、やがて後 にぞ靠 りける、南無妙。
白玉か何ぞと問いし古 えも、かくやと思知 れつつ、嵐 のつてに散花 の、袖に懸 るよりも軽やかに、梅花 の匂 なつかしく、蹈足 もたどたどしく、心も空に浮 れつつ、半町 ばかり歩みけるが、南無妙。
月すこし暗かりける処にて、南無妙、さしも厳 しかりけるこの女房、南無妙。」
といいいい額堂を出ると、雨に濡らすまいと思ったか、数珠を取って。頂いて懐 へ入れたが、身体 は平気で、石段、てく、てく。
九
ニ ノ眼 ハ朱 ヲ解 テ。鏡ノ面 ニ洒 ゲルガゴトク。上下 歯クイ違 テ。口脇 耳ノ根マデ広ク割 ケ。眉 ハ漆 ニテ百入塗 タルゴトクニシテ。額ヲ隠シ。振分髪 ノ中ヨリ。五寸計 ナル犢 ノ角。鱗 ヲカズイテ生出 でた、長 八尺 の鬼が出ようかと、汗 を流して聞いている内、月チト暗カリケル処ニテ、仁右衛門が出て行った。まず、よし。お君は怯 えずに済んだが、ひとえに梟の声に耳を澄まして、あわれに物寂 い顔である。
「さ、出かけよう。」
と謙造はもうここから傘 ばッさり。
「はい、あなた飛んだご迷惑 でございます。」
「私はちっとも迷惑な事はないが、あなた、それじゃいかん。路 はまだそんなでもないから、跣足 には及 ぶまいが、裾をぐいとお上 げ、構わず、」
「それでも、」
「うむ、構うもんか、いまの石段なんぞ、ちらちら引絡 まって歩行悪 そうだった。
極 の悪いことも何にもない。誰も見やしないから、これから先は、人ッ子一人居やしない、よ、そうおし、」
「でも、余 り、」
片褄 取って、その紅 のはしのこぼれたのに、猶予 って恥 しそう。
「だらしがないから、よ。」
と叱 るように云って、
「母様 に逢いに行くんだ。一体、私の背 に負 んぶをして、目を塞 いで飛ぶところだ。構うもんか。さ、手を曳 こう、辷 るぞ。」
と言った。暮れかかった山の色は、その滑 かな土に、お君の白脛 とかつ、緋 の裳 を映した。二人は額堂を出たのである。
「ご覧、目の下に遠く樹立 が見える、あの中の瓦屋根 が、私の居る旅籠 だよ。」
崕 のふちで危 っかしそうに伸上 って、
「まあ、直 そこでございますね。」
「一飛 びだから、梟が迎いに来たんだろう。」
「あれ。」
「おっと……番毎怯 えるな、しっかりと掴 ったり……」
「あなた、邪慳 にお引張 りなさいますな。綺麗 な草を、もうちっとで蹈 もうといたしました。可愛 らしい菖蒲 ですこと。」
「紫羅傘 だよ、この山にはたくさん咲 く[#「咲 く」は底本では「吹 く」]。それ、一面に。」
星の数ほど、はらはらと咲き乱れたが、森が暗く山が薄鼠 になって濡れたから、しきりなく梟の声につけても、その紫の俤 が、燐火 のようで凄 かった。
辿 る姿は、松にかくれ、草にあらわれ、坂に沈 み、峰に浮んで、その峰つづきを畝々 と、漆のようなのと、真蒼 なると、赭 のごときと、中にも雪を頂いた、雲いろいろの遠山 に添うて、ここに射返 されたようなお君 の色。やがて傘 一つ、山の端 に大 な蕈 のようになった時、二人はその、さす方の、庚申堂 へ着いたのである。
と不思議な事には、堂の正面へ向った時、仁右衛門は掛金はないが開けて入るように、と心着けたのに、雨戸は両方へ開いていた。お君は後 に、御母様 がそうしておいたのだ、と言ったが、知らず堂守の思違 いであったろう。
框 がすぐに縁 で、取附 きがその位牌堂。これには天井 から大きな白の戸帳 が垂 れている。その色だけ仄 に明くって、板敷 は暗かった。
左に六畳 ばかりの休息所がある。向うが破襖 で、その中が、何畳か、仁右衛門堂守の居 る処。勝手口は裏にあって、台所もついて、井戸 もある。
が謙造の用は、ちっともそこいらにはなかったので。
前へ入って、その休息所の真暗な中を、板戸漏 る明 を見当に、がたびしと立働いて、町に向いた方の雨戸をあけた。
横手にも窓があって、そこをあけると今の、その雪をいただいた山が氷 を削 ったような裾を、紅、緑、紫の山でつつまれた根まで見える、見晴の絶景ながら、窓の下がすぐ、ばらばらと墓であるから、また怯 えようと、それは閉めたままでおいたのである。
十
その間に、お君は縁側に腰をかけて、裾を捻 るようにして懐 がみで足を拭 って、下駄 を、謙造のも一所に拭 いて、それから穿直 して、外へ出て、広々とした山の上の、小さな手水鉢 で手を洗って、これは手巾 で拭 って、裾をおろして、一つ揺直 して、下褄 を掻込 んで、本堂へ立向って、ト頭 を下げたところ。
「こちらへお入り、」
と、謙造が休息所で声をかける。
お君がそっと歩行 いて行くと、六畳の真中に腕組 をして坐 っていたが、
「まあお坐んなさい。」
と傍 へ坐らせて、お君が、ちゃんと膝をついた拍子 に、何と思ったか、ずいと立ってそこらを見廻したが、横手 のその窓に並 んだ二段に釣 った棚 があって、火鉢 燭台 の類、新しい卒堵婆 が二本ばかり。下へ突込んで、鼠の噛 った穴から、白い切 のはみ出した、中には白骨でもありそうな、薄気味の悪い古葛籠 が一折。その中の棚に斜 っかけに乗せてあった経机 ではない小机の、脚を抉 って満月を透 したはいいが、雲のかかったように虫蝕 のあとのある、塗 ったか、古びか、真黒な、引出しのないのに目を着けると……
「有った、有った。」
と嬉しそうにつと寄って、両手でがさがさと引き出して、立直って持って出て、縁側を背後 に、端然 と坐った、お君のふっくりした衣紋 つきの帯の処へ、中腰になって舁据 えて置直すと、正面を避 けて、お君と互違 いに肩を並べたように、どっかと坐って、
「これだ。これがなかろうもんなら、わざわざ足弱を、暮方 にはなるし、雨は降るし、こんな山の中へ連れて来て、申訳のない次第だ。
薄暗くってさっきからちょっと見つからないもんだから、これも見た目の幻 だったのか、と大抵 気を揉 んだ事じゃない。
お君さん、」
と云って、無言ながら、懐 しげなその美い、そして恍惚 となっている顔を見て、
「その机だ。お君さん、あなたの母様 の記念 というのは、……
こういうわけだ。また恐 がっちゃいけないよ。母様 の事なんだから。
いいかい。
一昨日 ね。私の両親 の墓は、ついこの右の方の丘 の松蔭 にあるんだが、そこへ参詣 をして、墳墓 の土に、薫 の良 い、菫 の花が咲いていたから、東京へ持って帰ろうと思って、三本 ばかり摘 んで、こぼれ松葉と一所に紙入の中へ入れて。それから、父親 の居 る時分、連立って阿母 の墓参 をすると、いつでも帰りがけには、この仁右衛門の堂へ寄って、世間話、お祖師様 の一代記、時によると、軍談講釈、太平記を拾いよみに諳記 でやるくらい話がおもしろい爺様 だから、日が暮れるまで坐り込んで、提灯 を借りて帰ることなんぞあった馴染 だから、ここへ寄った。
いいお天気で、からりと日が照っていたから、この間中 の湿気払 いだと見えて、本堂も廊下 も明っ放し……で誰 も居ない。
座敷 のここにこの机が出ていた。
机の向うに薄くこう婦人 が一人、」
お君はさっと蒼くなる。
「一生懸命にお聞きよ。それが、あなたの母様 だったんだから。
高髷 を俯向 けにして、雪のような頸脚 が見えた。手をこうやって、何か書ものをしていたろう。紙はあったが、筆は持っていたか、そこまでは気がつかないが、現に、そこに、あなたとちょうど向い合せの処、」
正面の襖 は暗くなった、破れた引手 に、襖紙の裂 けたのが、ばさりと動いた。お君は堅 くなって真直に、そなたを見向いて、瞬 もせぬのである。
「しっかりして、お聞き、恐くはないから、私が居るから、」と謙造は、自分もちょいと本堂の今は煙 のように見える、白き戸帳 を見かえりながら、
「私がそれを見て、ああ、肖 たようなとぞっとした時、そっと顔を上げて、莞爾 したのが、お向うのその※ [#「姉」の正字、「女+□のつくり」、322-6]さんだ、百人一首の挿画 にそッくり。
はッと気がつくと、もう影も姿もなかった。
私は、思わず飛込んで、その襖を開けたよ。
がらん堂にして仁右衛門も居らず。懐しい人だけれども、そこに、と思うと、私もちと居なすった幻のあとへは、第一なまぐさを食う身体 だし、もったいなくッて憚 ったから、今、お君さん、お前が坐っているそこへ坐ってね、机に凭 れて、」
と云う時、お君はその机にひたと顔をつけて、うつぶしになった。あらぬ俤 とどめずや、机の上は煤 だらけである。
「で、何となく、あの二階と軒 とで、泣きなすった、その時の姿が、今さしむかいに見えるようで、私は自分の母親の事と一所に、しばらく人知れず泣いて、ようよう外へ出て、日を見て目を拭 いた次第だった。翌晩 、朝顔を踊った、お前さんを見たんだよ。目前 を去らない娘 さんにそっくりじゃないか。そんな話だから、酒の席では言わなかったが、私はね、さっきお前さんがお出 での時、女中が取次いで、女の方だと云った、それにさえ、ぞっとしたくらい、まざまざとここで見たんだよ。
しかしその机は、昔からここにある見覚えのある、庚申堂はじまりからの附道具 で、何もあなたの母様 の使っておいでなすったのを、堂へ納めたというんじゃない。
それがまたどうして、ここで幻を見たろうと思うと……こうなんだ。
私の母親の亡くなったのは、あなたの母親 より、二年ばかり前だったろう。
新盆 に、切籠 を提 げて、父親 と連立って墓参 に来たが、その白張 の切籠は、ここへ来て、仁右衛門爺様 に、アノ威張 った髯題目 、それから、志す仏の戒名 、進上 から、供養の主 、先祖代々の精霊 と、一個一個 に書いて貰 うのが例でね。
内 ばかりじゃない、今でも盆にはそうだろうが、よその爺様 婆様 、切籠持参は皆そうするんだっけ。
その年はついにない、どうしたのか急病で、仁右衛門が呻 いていました。
さあ、切籠が迷った、白張でうろうろする。
ト同じ燈籠 を手に提 げて、とき色の長襦袢 の透いて見える、羅 の涼 しい形 で、母娘連 、あなたの祖母 と二人連で、ここへ来なすったのが、※ [#「姉」の正字、「女+□のつくり」、324-7]さんだ。
やあ、占 めた、と云うと、父親 が遠慮なしに、お絹 さん――あなた、母様 の名は知っているかい。」
突俯 したまま、すねたように頭 を振った。
「お願 だ、お願だ。精霊大まごつきのところ、お馴染の私 が媽々 の門札 を願います、と燈籠を振廻 わしたもんです。
母様 は、町内評判の手かきだったからね、それに大勢居る処だし、祖母 さんがまた、ちっと見せたい気もあったかして、書いてお上げなさいよ、と云ってくれたもんだから、扇 を畳 んで、お坐んなすったのが――その机です。
これは、祖父 の何々院 、これは婆さまの何々信女 、そこで、これへ、媽々 の戒名を、と父親 が燈籠を出した時。
(母様 のは、)と傍 に畏 った私を見て、
(謙ちゃんが書くんですよ、)
とそう云っておくんなすってね、その机の前へ坐らせて、」
と云う時、謙造は声が曇った。
「すらりと立って、背後 から私の手を柔 かく筆を持添えて……
おっかさん、と仮名 で書かして下さる時、この襟 へ、」
と、しっかりと腕を組んで、
「はらはらと涙 を落しておくんなすった。
父親 は墨 をすりながら、伸上 って、とその仮名を読んで……
おっかさん、」
いいかけて謙造は、ハッと位牌堂の方を振向いてぞっとした。自分の胸か、君子の声か、幽 に、おっかさんと響いた。
ヒイと、堪 えかねてか、泣く声して、薄暗がりを一つあおって、白い手が膝の上へばたりと来た。
突俯 したお君が、胸の苦しさに悶 えたのである。
その手を取って、
「それだもの、忘 、忘 れるもんか。その時の、幻が、ここに残って、私の目に見えたんだ。
ね、だからそれが記念 なんだ。お君さん、母様 の顔が見えたでしょう、見えたでしょう。一心におなんなさい、私がきっと請合 う、きっと見える。可哀相 に、名、名も知らんのか。」
と云って、ぶるぶると震 える手を、しっかと取った。が、冷いので、あなやと驚 き、膝を突 かけ、背 を抱 くと、答えがないので、慌 てて、引起して、横抱きに膝へ抱 いた。
慌 しい声に力を籠 めつつ、
「しっかりおし、しっかりおし、」
と涙ながら、そのまま、じっと抱 しめて、
「母様 の顔は、※ [#「姉」の正字、「女+□のつくり」、326-15]さんの姿は、私の、謙造の胸にある!」
とじっと見詰 めると、恍惚 した雪のようなお君の顔の、美しく優しい眉 のあたりを、ちらちらと蝶 のように、紫の影が行交 うと思うと、菫 の薫 がはっとして、やがて縋 った手に力が入った。
お君の寂しく莞爾 した時、寂寞 とした位牌堂の中で、カタリと音。
目を上げて見ると、見渡す限り、山はその戸帳 のような色になった。が、やや艶 やかに見えたのは雨が晴れた薄月の影である。
遠くで梟が啼 いた。
謙造は、その声に、額堂の絵を思出した、けれども、自分で頭 をふって、斉 しく莞爾 した。
その時何となく机の向が、かわった。
襖がすらりとあいたようだから、振返えると、あらず、仁右衛門の居室 は閉 ったままで、ただほのかに見える散 れ松葉のその模様が、懐 しい百人一首の表紙に見えた。
「
と
「用かい。」
とこの八
その二の面の二段目から三段へかけて出ている、
たとい地方でも何でも、新聞は早朝に出る。その東雲御覧を、今やこれ午後二時。さるにても
「お客様でございますよう。」
と女中は
「そんなに吃驚なさいませんでもようございます。」
となおさら
謙造は一向
「何という人だ。名札はあるかい。」
「いいえ、名札なんか
「そりゃ知らないもののない人かも知れんがね、よそから来た私にゃ、名を聞かなくっちゃ分らんじゃないか、どなただよ。」
と
「そんな顔をなすったってようございます。ちっとも
「いや、」
と謙造は
「まあ、いいから。誰だというに、取次がお前、そんなに待たしておいちゃ失礼だろう。」
ちと
「何、あなた、ちっと待たして置きます方がかえっていいんでございますよ。昼間ッからあなた、何ですわ。」
と
「ほんとは夜来る方がいいんだのに。フン、フン、フン、」
「旦那、まあ、あら、まあ、あら
といい方が
「どこにも香水なんぞありはしないよ。」
「じゃ、あの床の間の花かしら、」
と
「花といえば、あなたおあい遊ばすのでございましょうね、お通し申しましてもいいんですね。」
「
「あれ、名なんぞどうでもよろしいじゃありませんか。お
「どんな人だよ、じれったい。」
「
「
と
「ほら、ほら、」
と
「ご存じの癖に、」
「どんな婦人だ。」
と尋ねた時、謙造の顔がさっと暗くなった。新聞を
「お気の毒様。」
二
「何だ、もう帰ったのか。」
「ええ、」
「だってお気の毒様だと
「ほんとに
ところが、どうして、
といいかけて、またフンと
「ほんとにどうしたら、こんな
とひょいと横を向いて顔を
「あら、まあ!」
「お
と
女中はぼッとした
「まあ!」
「お帳場にお待ち申しておりましたんですけれども、おかみさんが二階へ行っていいから、とそうおっしゃって下さいましたもんですから……」
と
「お目にかかられますでしょうか。」
「ご勝手になさいまし。」
くるりと入口へ仕切られた背中になると、襖の
「お入ンなさい、」
「は、」
と
「ご
と念のために一ツ名乗る。
「ご
はらりと
謙造は、一目見て、
この
不幸で沈んだと名乗る
謙造はいそいそと、
「どうして。さあ、こちらへ。」
と
「ずっとお入んなさい、構やしません。」
「はい。」
「まあ、どうしてね、お前さん、
「済みませんこと。」
「いやいや、驚いたって、何に、その驚いたんじゃない。はははは、
三
「その事で。ああ、なるほど言いましたよ。」
と火鉢の
「本来なら、こりゃお前さんがたが、客へお
そうです、
お君は
「よその方が、誰かに肖ているとお尋ねなさいましたから、あなたがどうお返事を遊ばすかと存じまして、私は
謙造は親しげに
「そうそうそう云いました。それが耳に入って気になったかね、そうかい。」
「いいえ、」とまた俯向いて、清らかな
「気にいたしますの、なんのって、そういうわけではございません。あの……
「聞きましょうとも。その肖たという事の
「いいえ、どういたしまして、それでは……」
しかし
「実はもうちっと
「はい、あの、私もそれを承りましたので、お帰りになりません
「宿へお
そうかと云って
実は
と云いかけて、だんだん火鉢を
「お前さん、
「
「
「遠慮なしにお
「いいえ、持っておりますよ。」
と帯の処へ手を当てる。
「そこでと、湯も
「さて、その事だが、」
「はあ、」
とまた片手をついた。胸へ気が
「余り気を入れると
ともの優しく念を入れて、
「私は
その中のね、女用文章の処を開けると……」と畳の上で、謙造は何にもないのを折返した。
四
「トそこに高髷に結った、
今でも、その絵が目に着いている。
私は、その絵が大好きで、開けちゃ、見い見いしたもんだから、百人一首を持出して、さっと
この
そのお向うの
「はあ、」
と
「お向うというのは、前に
だから、そのお
そこで、軽々しく顔が見られないだけに、二度なり、三度なり見た事のあるのが、余計に心に残っているんで。その女用文章の中の
しかしどっちにしろ、
「まあ……」
とはかなそうに、お君の顔色が
「迷子札は、
向うの家も、どこへ行きなすったかね、」
と調子が沈んで、少し、しめやかになって、
「もちろんその娘さんは、私がまだ
産後だと言います……」
「お産をなすって?」
と俯目でいた目を
謙造はじっと見て、
「
と陽気な声。
五
「土蔵がずッしりとあるだけに、いつも火の気のないような、しんとした、大きな音じゃ
何ッて、
その養子というのは、日にやけた色の赤黒い、
例の巾着をつけて、いそいそ手を
途中で
そこでひとしきり、人通りがあって、もうちと行くと、またひっそりして、やがて大きな
地続きの
泣出したもんだから、
そりゃいいが、半年
だんだん気が
その
どうしたの? と飛ついて、
と謙造は
六
「その時は、
桑の実の
こんな、お腹をして、
と見ると
「あなた、もし、」
と涙声で、つと、
「その百人一首も焼けてなくなったんでございますか。
と引出して目に当てた
謙造は
「ああ、そうですか、じゃあ里に
と
「二十年前の事が、今目の前に見えるようだ。お察し申します。
私も、その頃
そうですか。」
また歎息して、
「お墓所もご存じない。」
「はい、何にも知りません。あなたは、よく私の両親の事をご存じでいらっしゃいます、せめて、その、その百人一首でも見とうござんすのにね。……」
と
「
「……困ったねえ。
と云い
謙造は目を
「余りの事のお気の毒さ。
と
「こっちへ来てご覧なさい。」
謙造は座を譲って、
「こっちへ来て、ここへ、」
と指さされた窓の
謙造はひしと
「
「ええ。」
「
と云って
「お
その花やかな、
「しかし、それはどうとも
「まあ、ほんとうでございますか。」
といそいそ
「あれえ」と云うと畳にばったり、膝を乱して
窓を切った松の樹の横枝へ、お君の顔と正面に、山を
「
とからからと笑って、帯をぐるぐると巻きながら、
「山へ行くのに、そんなものに驚いちゃいかんよ。そう
七
「さっきの、さっきの、」
と
「さっきのが……声だよ。お前さん、そう
「あの、梟が鳴くんですかねえ。私はまた何でしょうと
と、
二人は
さてこの額堂へ入って、一息ついたのである。
「暮れるには
それをまた、
「ええ、」
とまた
「鬼の額だよ、額が
「どこにでございます。」
と
「何、何でもない、ただ絵なんだけれど、
と
「ああ。」と云うと、ひしと謙造の胸につけた、
謙造は、その時はまださまでにも思わずに、
「
と半ば
「いいえ、
と
何となく身に染みて、
「私が
「ですから、こうやって、こうやって居れば恐くはないのでございます。」
思わず
雨の
と顔を合わせて、フトその
小松に
八
「やあ、これからまたお
と腹の底から出るような、奥底のない声をかけて、番傘を横に開いて、出した顔は
その回向堂は、また
「また、東京へ行きますから、もう一度と思って来ました。」
と早、離れてはいたが、謙造は
「よく、参らっしゃる、ちとまた休んでござれ。」
「ちょっと休まして頂くかも知れません。
「
と口をむぐむぐさしたが、
「はははは、
と二人を見て、
「ははあ、
とばッさり
「何、構やしないよ。」
「うんにゃよ、お前さまは構わっしゃらいでも、はははは、それ、そちらの
「済みませんねえ、」
と顔を赤らめながら、
「でも、お爺さん、あなたお濡れなさいましょう。」
「私は濡れても
と
「
と見返って、
「どうも、
と今の姿を見られたろう、と
お君は
「おお、名物の梟かい。」
「いいえ、それよりか、そのもみじ
「ふむ、」
と振仰いで、
「これかい、南無妙。これは似たような絵じゃが、
と豊かに目を
「
山の
女ちと打笑うて、
彦七
白玉か何ぞと問いし
月すこし暗かりける処にて、南無妙、さしも
といいいい額堂を出ると、雨に濡らすまいと思ったか、数珠を取って。頂いて
九
「さ、出かけよう。」
と謙造はもうここから
「はい、あなた飛んだご
「私はちっとも迷惑な事はないが、あなた、それじゃいかん。
「それでも、」
「うむ、構うもんか、いまの石段なんぞ、ちらちら
「でも、
「だらしがないから、よ。」
と
「
と言った。暮れかかった山の色は、その
「ご覧、目の下に遠く
「まあ、
「
「あれ。」
「おっと……
「あなた、
「
星の数ほど、はらはらと咲き乱れたが、森が暗く山が
と不思議な事には、堂の正面へ向った時、仁右衛門は掛金はないが開けて入るように、と心着けたのに、雨戸は両方へ開いていた。お君は
左に六
が謙造の用は、ちっともそこいらにはなかったので。
前へ入って、その休息所の真暗な中を、板戸
横手にも窓があって、そこをあけると今の、その雪をいただいた山が
十
その間に、お君は縁側に腰をかけて、裾を
「こちらへお入り、」
と、謙造が休息所で声をかける。
お君がそっと
「まあお坐んなさい。」
と
「有った、有った。」
と嬉しそうにつと寄って、両手でがさがさと引き出して、立直って持って出て、縁側を
「これだ。これがなかろうもんなら、わざわざ足弱を、
薄暗くってさっきからちょっと見つからないもんだから、これも見た目の
お君さん、」
と云って、無言ながら、
「その机だ。お君さん、あなたの
こういうわけだ。また
いいかい。
いいお天気で、からりと日が照っていたから、この
机の向うに薄くこう
お君はさっと蒼くなる。
「一生懸命にお聞きよ。それが、あなたの
正面の
「しっかりして、お聞き、恐くはないから、私が居るから、」と謙造は、自分もちょいと本堂の今は
「私がそれを見て、ああ、
はッと気がつくと、もう影も姿もなかった。
私は、思わず飛込んで、その襖を開けたよ。
がらん堂にして仁右衛門も居らず。懐しい人だけれども、そこに、と思うと、私もちと居なすった幻のあとへは、第一なまぐさを食う
と云う時、お君はその机にひたと顔をつけて、うつぶしになった。あらぬ
「で、何となく、あの二階と
しかしその机は、昔からここにある見覚えのある、庚申堂はじまりからの
それがまたどうして、ここで幻を見たろうと思うと……こうなんだ。
私の母親の亡くなったのは、あなたの
その年はついにない、どうしたのか急病で、仁右衛門が
さあ、切籠が迷った、白張でうろうろする。
ト同じ
やあ、
「お
これは、
(
(謙ちゃんが書くんですよ、)
とそう云っておくんなすってね、その机の前へ坐らせて、」
と云う時、謙造は声が曇った。
「すらりと立って、
おっかさん、と
と、しっかりと腕を組んで、
「はらはらと
おっかさん、」
いいかけて謙造は、ハッと位牌堂の方を振向いてぞっとした。自分の胸か、君子の声か、
ヒイと、
その手を取って、
「それだもの、
ね、だからそれが
と云って、ぶるぶると
「しっかりおし、しっかりおし、」
と涙ながら、そのまま、じっと
「
とじっと
お君の寂しく
目を上げて見ると、見渡す限り、山はその
遠くで梟が
謙造は、その声に、額堂の絵を思出した、けれども、自分で
その時何となく机の向が、かわった。
襖がすらりとあいたようだから、振返えると、あらず、仁右衛門の
(明治四十年一月)
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