一
「おじさん――その提灯 ……」
「ああ、提灯……」
唯今 、午後二時半ごろ。
「私が持ちましょう、磴 に打撞 りますわ。」
一肩上に立った、その肩も裳 も、嫋 な三十ばかりの女房が、白い手を差向けた。
お米といって、これはそのおじさん、辻町糸七――の従姉 で、一昨年 世を去ったお京の娘で、土地に老鋪 の塗師屋 なにがしの妻女である。
撫 でつけの水々しく利いた、おとなしい、静 な円髷 で、頸脚 がすっきりしている。雪国の冬だけれども、天気は好 し、小春日和だから、コオトも着ないで、着衣 のお召 で包むも惜しい、色の清く白いのが、片手に、お京――その母の墓へ手向ける、小菊の黄菊と白菊と、あれは侘 しくて、こちこちと寂しいが、土地がら、今時はお定 りの俗に称 うる坊さん花、薊 の軟 いような樺紫 の小鶏頭 を、一束にして添えたのと、ちょっと色紙の二本たばねの線香、一銭蝋燭 を添えて持った、片手を伸べて、「その提灯を」といったのである。
山門を仰いで見る、処々、壊 え崩れて、草も尾花もむら生えの高い磴を登りかかった、お米の実家の檀那寺 ――仙晶寺というのである。が、燈籠寺 といった方がこの大城下によく通る。
去 ぬる……いやいや、いつの年も、盂蘭盆 に墓地へ燈籠を供えて、心ばかり小さな燈 を灯 すのは、このあたりすべてかわりなく、親類一門、それぞれ知己 の新仏へ志のやりとりをするから、十三日、迎火を焚 く夜 からは、寺々の卵塔は申すまでもない、野に山に、標石 、奥津城 のある処、昔を今に思い出したような無縁墓、古塚までも、かすかなしめっぽい苔 の花が、ちらちらと切燈籠 に咲いて、地 の下の、仄白 い寂しい亡霊 の道が、草がくれ木 の葉がくれに、暗夜 には著 く、月には幽 けく、冥々 として顕 われる。中でも裏山の峰に近い、この寺の墓場の丘の頂に、一樹、榎 の大木が聳 えて、その梢 に掛ける高燈籠が、市街の広場、辻、小路。池、沼のほとり、大川縁 。一里西に遠い荒海の上からも、望めば、仰げば、佇 めば、みな空に、面影に立って見えるので、名に呼んで知られている。
この燈籠寺に対して、辻町糸七の外套 の袖から半間 な面 を出した昼間の提灯は、松風に颯 と誘われて、いま二葉三葉散りかかる、折からの緋葉 も灯 れず、ぽかぽかと暖い磴の小草 の日だまりに、あだ白けて、のびれば欠伸 、縮むと、嚔 をしそうで可笑 しい。
辻町は、欠伸と嚔を綯 えたような掛声で、
「ああ、提灯。いや、どっこい。」
と一段踏む。
「いや、どっこい。」
お米が莞爾 、
「ほほほ、そんな掛声が出るようでは、おじさん。」
「何、くたびれやしない。くたびれたといったって、こんな、提灯の一つぐらい。……もっとも持重りがしたり、邪魔になるようなら、ちょっと、ここいらの薄 の穂へ引掛 けて置いても差支えはないんだがね。」
「それはね、誰も居ない、人通りの少い処だし、お寺ですもの。そこに置いといたって、人がどうもしはしませんけれど。……持ちましょうというのに持たさないで、おじさん、自分の手で…」
「自分の手で。」
「あんな、知らない顔をして、自分の手からお手向けなさりたいのでしょう。ここへ置いて行っては、お志が通らないではありませんか、悪いわ。」
「お叱言 で恐入るがね、自分から手向けるって、一体誰だい。」
「それは誰方 だか、ほほほ。」
また莞爾 。
「せいせい、そんな息をして……ここがいい、ちょっとお休みなさいよ、さあ。」
ちょうど段々中継 の一土間、向桟敷 と云った処、さかりに緋葉した樹の根に寄った方で、うつむき態 に片袖をさしむけたのは、縋 れ、手を取ろう身構えで、腰を靡娜 に振向いた。踏掛けて塗下駄に、模様の雪輪が冷くかかって、淡紅 の長襦袢 がはらりとこぼれる。
媚 しさ、というといえども、お米はおじさんの介添のみ、心にも留めなそうだが、人妻なれば憚 られる。そこで、件 の昼提灯を持直すと、柄の方を向うへ出した。黒塗の柄を引取ったお米の手は、なお白くて優しい。
憚られもしようもの。磴たるや、山賊の構えた巌 の砦 の火見 の階子 と云ってもいい、縦横町条 の家 ごとの屋根、辻の柳、遠近 の森に隠顕しても、十町三方、城下を往来の人々が目を欹 れば皆見える、見たその容子 は、中空の手摺 にかけた色小袖に外套の熊蝉が留ったにそのままだろう。
蝉はひとりでジジと笑って、緋葉 の影へ飜然 と飛移った。
いや、飜然となんぞ、そんな器用に行 くものか。
「ありがとう……提灯の柄のお力添に、片手を縋って、一方に洋杖 だ。こいつがまた素人が拾った櫂 のようで、うまく調子が取れないで、だらしなく袖へ掻込 んだ処は情 ない、まるで両杖 の形だな。」
「いやですよ。」
「意気地はない、が、止むを得ない。お言葉に従って一休みして行こうか。ちょうどお誂 え、苔滑 ……というと冷いが、日当りで暖い所がある。さてと、ご苦労を掛けた提灯を、これへ置くか。樹下石上というと豪勢だが、こうした処は、地蔵盆に筵 を敷いて鉦 をカンカンと敲 く、はっち坊主そのままだね。」
「そんなに、せっかちに腰を掛けてさ、泥がつきますよ。」
「構わない。破 れ麻だよ。たかが墨染にて候だよ。」
「墨染でも、喜撰でも、所作舞台ではありません、よごれますわ。」
「どうも、これは。きれいなその手巾 で。」
「散っているもみじの方が、きれいです、払っては澄まないような、こんな手巾。」
「何色というんだい。お志で、石へ月影まで映 して来た。ああ、いい景色だ。いつもここは、といううちにも、今日はまた格別です。あいかわらず、海も見える、城も見える。」
といった。
就中 、公孫樹 は黄なり、紅樹、青林、見渡す森は、みな錦葉 を含み、散残った柳の緑を、うすく紗 に綾取 った中に、層々たる城の天守が、遠山の雪の巓 を抽 いて聳 える。そこから斜 に濃い藍 の一線を曳 いて、青い空と一刷 に同じ色を連ねたのは、いう迄もなく田野と市街と城下を巻いた海である。荒海ながら、日和の穏かさに、渚 の浪は白菊の花を敷流す……この友禅をうちかけて、雪国の町は薄霧を透 して青白い。その袖と思う一端に、周囲三里ときく湖は、昼の月の、半円なるかと視 められる。
「お米坊。」
おじさんは、目を移して、
「景色もいいが、容子 がいいな。――提灯屋の親仁 が見惚 れたのを知ってるかい。
(その提灯を一つ、いくらです。)といったら、
(どうぞ早や、お持ちなされまして……お代はおついでの時、)……はどうだい。そのかわり、遠国他郷のおじさんに、売りものを新聞づつみ、紙づつみにしようともしないんだぜ。豈 それ見惚れたりと言わざるを得んやだ、親仁。」
「おっしゃい。」
と銚子 のかわりをたしなめるような口振で、
「旅の人だか何だか、草鞋 も穿 かないで、今時そんな、見たばかりで分りますか。それだし、この土地では、まだ半季勘定がございます。……でなくってもさ、当寺 へお参りをする時、ゆきかえり通るんですもの。あの提灯屋さん、母に手を曳 かれた時分から馴染 です。……いやね、そんな空 お世辞をいって、沢山。……おじさんお参りをするのに極 りが悪いもんだから、おだてごかしに、はぐらかして。」
「待った、待った。――お京さん――お米坊、お前さんのお母 さんの名だ。」
「はじめまして伺います、ほほほ。」
「ご挨拶、恐入った。が、何々院――信女でなく、ごめんを被ろう。その、お母さんの墓へお参りをするのに、何だって、私がきまりが悪いんだろう。第一そのために来たんじゃないか。」
「……それはご遠慮は申しませんの。母の許 へお参りをして下さいますのは分っていますけれどもね、そのさきに――誰かさん――」
「誰かさん、誰かさん……分らない。米ちゃん、一体その誰かさんは?」
「母が、いつもそういっていましたわ。おじさんは、(極りわるがり屋)という(長い屋)さんだから。」
「どうせ、長屋住居 だよ。」
「ごめんなさい、そんなんじゃありません。だからっても、何も私に――それとも、思い出さない、忘れたのなら、それはひどいわ、あんまりだわ。誰かさんに、悪いわ、済まないわ、薄情よ。」
「しばらく、しばらく、まあ、待っておくれ。これは思いも寄らない。唐突の儀を承る。弱ったな、何だろう、といっちゃなお悪いかな、誰だろう。」
「ほんとに忘れたんですか。それで可 いんですか。嘘でしょう。それだとあんまりじゃありませんか。いっそちゃんと言いますよ、私から。――そういっても釣出しにかかって私の方が極りが悪いかも知れませんけれども。……おじさん、おじさんが、むかし心中をしようとした、婦人 のかた。」
「…………」
藪 から棒をくらって膨らんだ外套の、黒い胸を、辻町は手で圧 える真似して、目を□ ると、
「もう堪忍してあげましょう。あんまり知らないふりをなさるからちょっと驚 かしてあげたんだけれど、それでも、もうお分りになったでしょう。――いつかの、その時、花の盛 の真夜中に。――あの、お城の門のまわり、暗い堀の上を行ったり、来たり……」
お米の指が、行ったり来たり、ちらちらと細く動くと、その動くのが、魔法を使ったように、向う遥 かな城の森の下くぐりに、小さな男が、とぼんと出て、羽織も着ない、しょぼけた形を顕 わすとともに、手を拱 き、首 を垂れて、とぼとぼと歩行 くのが朧 に見える。それ、糧に飢えて死のうとした。それがその夜の辻町である。
同時に、もう一つ。寂しい、美しい女が、花の雲から下りたように、すっと翳 って、おなじ堀を垂々 下 りに、町へ続く長い坂を、胸を柔 に袖を合せ、肩を細 りと裙 を浮かせて、宙に漾 うばかり。さし俯向 いた頸 のほんのり白い後姿で、捌 く褄 も揺 ぐと見えない、もの静かな品の好 さで、夜はただ黒し、花明り、土の筏 に流るるように、満開の桜の咲蔽 うその長坂を下りる姿が目に映った。
――指を包め、袖を引け、お米坊。頸の白さ、肩のしなやかさ、余りその姿に似てならない。――
今、目 のあたり、坂を行 く女 は、あれは、二十 ばかりにして、その夜、(烏をいう)千羽ヶ淵 で自殺してしまったのである。身を投げたのは潔い。
卑怯 な、未練な、おなじ処をとぼついた男の影は、のめのめと活きて、ここに仙晶寺の磴 の中途に、腰を掛けているのであった。
二
「ああ、まるで魔法にかかったようだ。」
頬にあてて打傾いた掌 を、辻町は冷く感じた。時に短く吸込んだ煙草 の火が、チリリと耳を掠 めて、爪先 の小石へ落ちた。
「またまったく夢がさめたようだ。――その時、夜あけ頃まで、堀の上をうろついて、いつ家 へ帰ったか、草へもぐったのか、蒲団 を引被 ったのか分らない。打 ち□ めされたようになって寝た耳へ、
――兄さん……兄さん――
と、聞こえたのは、……お京さん。」
「返事をしましょうか。」
「願おうかね。」
「はい、おほほ。」
「申すまでもない、威勢のいい若い声だ。そうだろう、お互に二十 の歳です。――死んだ人は、たしか一つ上だったように後で聞いて覚えている。前の晩は、雨気 を含んで、花あかりも朦朧 と、霞に綿を敷いたようだった。格子戸外 のその元気のいい声に、むっくり起きると、おっと来たりで、目は窪 んでいる……額 をさきへ、門口 へ突出すと、顔色の青さを□ られそうな、からりとした春爛 な朝景色さ。お京さんは、結いたての銀杏返 で、半襟の浅黄の冴えも、黒繻子 の帯の艶 も、霞を払ってきっぱりと立っていて、(兄さん身投げですよ、お城の堀で。)(嘘だよ、ここに活きてるよ。)と、うっかり私が言ったんだから、お察しものです。すぐ背後 の土間じゃ七十を越した祖母 さんが、お櫃 の底の、こそげ粒で、茶粥 とは行きません、みぞれ雑炊を煮てござる。前々年、家 が焼けて、次の年、父親がなくなって、まるで、掘立小屋だろう。住むにも、食うにも――昨夜 は城のここかしこで、早い蛙がもう鳴いた、歌を唄ってる虫けらが、およそ羨 しい、と云った場合。……祖母さんは耳が遠いから可 かったものの、(活きてるよ。)は何事です。(何を寝惚 けているんです。しっかりするんです。)その頃の様子を察しているから、お京さん――ままならない思遣りのじれったさの疳癪筋 で、ご存じの通り、一 うちの眉を顰 めながら、(……町内ですよ、ここの。いま私、前を通って来たんだけれど、角の箔屋 。――うちの人じゃあない、世話になって、はんけちの工場 へ勤めている娘さんですとさ。ちゃんと目をあいて……あれ、あんなに人が立っている。)うららかな朝だけれど、路が一条 、胡粉 で泥塗 たように、ずっと白く、寂然 として、家 ならび、三町ばかり、手前どもとおなじ側 です、けれども、何だか遠く離れた海際まで、突抜けになったようで、そこに立っている人だかりが――身を投げたのは淵 だというのに――打って来る波を避けるように、むらむらと動いて、地 がそこばかり、ぐっしょり汐 に濡れているように見えた。
花はちらちらと目の前へ散って来る。
私の小屋と真向 の……金持は焼けないね……しもた屋の後妻 で、町中の意地悪が――今時はもう影もないが、――それその時飛んで来た、燕の羽の形に後 を刎 ねた、橋髷 とかいうのを小さくのっけたのが、門 の敷石に出て来て立って、おなじように箔屋の前を熟 とすかして視 ていた。その継娘 は、優しい、うつくしい、上品な人だったが、二十 にもならない先に、雪の消えるように白梅と一所に水で散った。いじめ殺したんだ、あの継母がと、町内で沙汰 をした。その色の浅黒い後妻 の眉と鼻が、箔屋を見込んだ横顔で、お米さんの前髪にくッつき合った、と私の目に見えた時さ。(いとしや。)とその後妻が、(のう、ご親類の、ご新姐 さん。)――悉 しくはなくても、向う前だから、様子は知ってる、行来 、出入りに、顔見知りだから、声を掛けて、(いつ見ても、好容色 なや、ははは。)と空 笑いをやったとお思い、(非業の死とはいうけれど、根は身の行いでござりますのう。)とじろりと二人を見ると、お京さん、御母堂だよ、いいかい。怪我にも真似なんかなさんなよ。即時、好容色 な頤 を打 つけるようにしゃくって、(はい、さようでござります、のう。)と云うが疾 いか、背中の子。」
辻町は、時に、まつげの深いお米と顔を見合せた。
「その日は、当寺 へお参りに来がけだったのでね、……お京さん、磴 が高いから半纏 おんぶでなしに、浅黄鹿の子の紐でおぶっていた。背中へ、べっかっこで、(ばあ。)というと、カタカタと薄歯の音を立てて家 ン中へ入ったろう。私が後妻 に赤くなった。
負 っていたのが、何を隠そう、ここに好容色で立っている、さて、久しぶりでお目にかかります。お前さんだ、お米坊――二歳 、いや、三つだったか。かぞえ年。」
「かぞえ年……」
「ああ、そうか。」
「おじさんの家の焼けた年、お産間近に、お母 さんが、あの、火事場へ飛出したもんですから、そのせいですって……私には痣 が。」
睫毛 がふるえる。辻町は、ハッとしたように、ふと肩をすくめた。
「あら、うっかり、おじさんだと思って、つい。……真紅 でしたわ、おとなになって今じゃ薄 りとただ青いだけですの。」
おじさんは目を俯 せながら、わざと見まもったようにこういった。
「見えやしない、なにもないじゃないか、どこなのだね。」
「知らない。」
「まあさ。」
「乳の少し傍 のところ。」
「きれいだな、眉毛を一つ剃 った痕 か、雪間の若菜……とでも言っていないと――父がなくなって帰ったけれど、私が一度無理に東京へ出ていた留守です。私の家 のために、お京さんに火事場を踏ませて申訳がないよ。――ところで、その嬰児 が、今お見受け申すお姿となったから、もうかれこれ三十年。……だもの、記憶 も何も朧々 とした中に、その悲しいうつくしい人の姿に薄明りがさして見える。遠くなったり、近くなったり、途中で消えたり、目先へ出たり――こっちも、とぼとぼと死場所を探していたんだから、どうも人目が邪魔になる。さきでも目障りになったろう。やがて夜中の三時過ぎ、天守下の坂は長いからね、坂の途中で見失ったが、見失った時の後姿を一番はっきりと覚えている。だから、その人が淵で死んだとすると、一旦 町へ下りて、もう一度、坂を引返 した事になるんだね。
ただし、そういった処で、あくる朝、町内の箔屋へ引取った身投げの娘が、果して昨夜 私が見た人と同じだかどうだか、実の処は分りません……それは今でも分りはしない。堀端では、前後一度だって、横顔の鼻筋だって、見えないばかりか、解りもしない。が、朝、お京さんに聞いたばかりで、すぐ、ああ、それだと思ったのも、おなじ死ぬ気の、気で感じたのであろうと思う……
と、お京さんが、むこうの後妻 の目をそらして、格子を入った。おぶさったお前さんが、それ、今のべっかっこで、妙な顔……」
「ええ、ほほほ。」
とお米は軽く咲容 して、片袖を胸へあてる。
「お京さん、いきなり内の祖母 さんの背中を一つトンと敲 いたと思うと、鉄鍋 の蓋 を取って覗 いたっけ、勢 のよくない湯気が上る。」
お米は軽く鬢 を撫 でた。
「ちょろちょろと燃えてる、竈 の薪木 、その火だがね、何だか身を投げた女 をあぶって暖めているような気がして、消えぎえにそこへ、袖褄 を縺 れて倒れた、ぐっしょり濡れた髪と、真白な顔が見えて、まるでそれがね、向う門 に立っている後妻 に、はかない恋をせかれて、五年前に、おなじ淵に身を投げた、優しい姉さんのようにも思われた。余程どうかしていたんだね。
半壊れの車井戸が、すぐ傍 で、底の方に、ばたん、と寂しい雫 の音。
ざらざらと水が響くと、
戸外 を喚 いて人が駆けた。
この騒ぎは――さあ、それから多日 、四方、隣国、八方へ、大波を打ったろうが、
女 の事については、当分、口へ出してうわささえしなければ、また私にも、話さえさせなかったよ。
夥間 だったのに、なまじ死にはぐれると、今さら気味が悪くなって、町をうろつくにも、山の手の辻へ廻って、箔屋の前は通らなかった。……
この土地の新聞一種 、買っては読めない境遇だったし、新聞社の掲示板の前へ立つにも、土地は狭い、人目に立つ、死出三途 ともいう処を、一所に□□ った身体 だけに、自分から気が怯 けて、避 けるように、避けるように、世間のうわさに遠ざかったから、花の散ったのは、雨か、嵐か、人に礫 を打たれたか、邪慳 に枝を折られたか。今もって、取留めた、悉 しい事は知らないんだが、それも、もう三十年。
……お米さん、私は、おなじその年の八月――ここいらはまだ、月おくれだね、盂蘭盆が過ぎてから、いつも大好きな赤蜻蛉の飛ぶ時分、道があいて、東京へ立てたんだが。――
――ああ、そうか。」
辻町は、息を入れると、石に腰をずらして、ハタと軽く膝をたたいた。
三
その時、外套 の袖にコトンと動いた、石の上の提灯 の面 は、またおかしい。いや、おかしくない、大空の雲を淡く透 して蒼白 い。
「……さて、これだが、手向けるとか、供えるとか、お米坊のいう――誰かさんは――」
「ええ、そうなの。」
と、小菊と坊さん花をちょっと囲って、お米は静 に頷 いた。
「その嬰児 が、串戯 にも、心中の仕損いなどという。――いずれ、あの、いけずな御母堂から、いつかその前後の事を聞かされて、それで知っているんだね。
不思議な、怪しい、縁だなあ。――花あかりに、消えて行った可哀相な人の墓はいかにも、この燈籠寺にあるんだよ。
若気のいたり。……」
辻町は、額をおさえて、提灯に俯向 いて、
「何と思ったか、東京へ――出発間際、人目を忍んで……というと悪く色気があります。何、こそこそと、鼠あるきに、行燈形 の小 な切籠燈 の、就中 、安価なのを一枚 細腕で引いて、梯子段 の片暗がりを忍ぶように、この磴 を隅の方から上 って来た。胸も、息も、どきどきしながら。
ゆかただか、羅 だか、女郎花 、桔梗 、萩、それとも薄 か、淡彩色 の燈籠より、美しく寂しかろう、白露に雫 をしそうな、その女 の姿に供える気です。
中段さ、ちょうど今居る。
しかるに、どうだい。お米坊は洒落 にも私を、薄情だというけれど、人間の薄情より三十年の月日は情がない。この提灯でいうのじゃないが、燈台下暗しで、とぼんとして気がつかなかった。申訳より、面目 がないくらいだ。
――すまして饒舌 って可 いか知らん、その時は、このもみじが、青葉で真黒 だった下へ来て、上へ墓地を見ると、向うの峯をぼッと、霧にして、木曾のははき木だね、ここじゃ、見えない。が、有名な高燈籠が榎 の梢 に灯 れている……葉と葉をくぐって、燈 の影が露を誘って、ちらちらと樹を伝うのが、長くかかって、幻の藤の総を、すっと靡 かしたように仰がれる。絵の模様は見えないが、まるで、その高燈籠の宙の袖を、その人の姿のように思って、うっかりとして立った。
真下 りに、藍 がかった浴衣に、昼夜帯の婦人が、
撲 わされたから、おじさんの小僧、目をまるくして胆 を潰 した。そうだろう、当の御親類の墓地へ、といっては、ついぞ、つけとどけ、盆のお義理なんぞに出向いた事のない奴 が、」
辻町は提灯を押えながら、
「酒買い狸が途惑 をしたように、燈籠をぶら下げて立っているんだ。
いう事が捷早 いよ、お京さん、そう、のっけにやられたんじゃ、事実、親類へ供えに来たものにした処で、そうとはいえない。
辷 る処へ、石ころ道が切立 てで危いから、そんなにとぼついているんじゃ怪我をする。お寺へ預けて、昼間あらためて、お参りを、そうなさい、という。こっちはだね。日中 のこのこ出られますか。何、志はそれで済むからこの石の上へ置いたなり帰ろうと、降参に及ぶとね、犬猫が踏んでも、きれいなお精霊 が身震いをするだろう。――とにかく、お寺まで、と云って、お京さん、今度は片褄 をきりりと端折 った。
こっちもその要心から、わざと夜になって出掛けたのに、今頃まで、何をしていたろう。(遊んでいた。世の中の煩 ささがなくて寺は涼しい。裏縁に引いた山清水に……西瓜 は驕 りだ、和尚さん、小僧には内証 らしく冷して置いた、紫陽花 の影の映る、青い心太 をつるつる突出して、芥子 を利かして、冷い涙を流しながら、見た処三百ばかりの墓燈籠と、草葉の影に九十九ばかり、お精霊の幻を見て涼んでいた、その中に初路さんの姿も。)と、お京さん、好 なお転婆をいって、山門を入った勢 だからね。……その勢だから……向った本堂の横式台、あの高い処に、晩出 の参詣 を待って、お納所 が、盆礼、お返しのしるしと、紅白の麻糸を三宝に積んで、小机を控えた前へ。どうです、私が引込 むもんだから、お京さん、引取った切籠燈 をツイと出すと、
遁出 したよ。あとをカタカタと追って返して、
大袈裟 だがね、遠くの暗い海の上で、稲妻がしていたよ。その夜、途中からえらい降りで。」……
懐 うごとく、しばらく息を沈めたが、やがて、ちょっと語調をかえて云った。
「お米坊、そんな、こんな、お母さんに聞いていたのかね。」
「ええ、お嫁に行ってから、あと……」
「そうだろうな、あの気象でも、極 りどころは整然 としている。嫁入前の若い娘に、余り聞かせる事じゃないから。
――さて、問題の提灯だ。成程、その人に、切籠燈 のかわりに供えると、思ったのはもっともだ。が、そんな、実は、しおらしいとか、心入れ、とかいう奇特なんじゃなかったよ。懺悔 をするがね、実は我ながら、とぼけていて、ひとりでおかしいくらいなんだよ。月夜に提灯が贅沢 なら、真昼間 ぶらで提げたのは、何だろう、余程 半間さ。
というのがね、先刻 お前さんは、連 にはぐれた観光団が、鼻の下を伸ばして、うっかり見物している間抜けに附合う気で、黙ってついていてくれたけれど、来がけに坂下の小路中 で、あの提灯屋の前へ、私がぼんやり突立 ったろう。
場所も方角も、まるで違うけれども、むかし小学校の時分、学校近所の……あすこは大川近 の窪地 だが、寺があって、その門前に、店の暗い提灯屋があった。髯 のある親仁 が、紺の筒袖を、斑々 の胡粉 だらけ。腰衣のような幅広の前掛 したのが、泥絵具だらけ、青や、紅 や、そのまま転がったら、楽書 の獅子 になりそうで、牡丹 をこってりと刷毛 で彩 る。緋 も桃色に颯 と流して、ぼかす手際が鮮彩 です。それから鯉の滝登り。八橋一面の杜若 は、風呂屋へ進上の祝だろう。そんな比羅絵 を、のしかかって描いているのが、嬉しくて、面白くって、絵具を解き溜 めた大摺鉢 へ、鞠子 の宿 じゃないけれど、薯蕷汁 となって溶込むように……学校の帰途 にはその軒下へ、いつまでも立って見ていた事を思出した。時雨も霙 も知っている。夏は学校が休 です。桜の春、また雪の時なんぞは、その緋牡丹の燃えた事、冴えた事、葉にも苔 にも、パッパッと惜気 なく金銀の箔 を使うのが、御殿の廊下へ日の射 したように輝いた。そうした時は、家 へ帰る途中の、大川の橋に、綺麗な牡丹が咲いたっけ。
先刻 のあの提灯屋は、絵比羅も何にも描いてはいない。番傘の白いのを日向 へ並べていたんだが、つい、その昔を思出して、あんまり店を覗 いたので、ただじゃ出て来にくくなったもんだから、観光団お買上げさ。
傘 でもよかったよ。パッと拡げて、菊を持ったお米さんに、背後 から差掛けて登れば可 かった。」
「どうぞ。……女万歳の広告に。」
「仰せのとおり。――いや、串戯 はよして。いまの並べた傘の小間隙間 へ、柳を透いて日のさすのが、銀の色紙 を拡げたような処へ、お前さんのその花についていたろう、蝶が二つ、あの店へ翔込 んで、傘の上へ舞ったのが、雪の牡丹へ、ちらちらと箔 が散浮く……
そのままに見えたと思った時も――箔――すぐこの寺に墓のある――同町内に、ぐっしょりと濡れた姿を儚 く引取った――箔屋――にも気がつかなかった。薄情とは言われまいが、世帯の苦労に、朝夕は、細く刻んでも、日は遠い。年月が余り隔 ると、目前 の菊日和も、遠い花の霞になって、夢の朧 が消えて行 く。
が、あらためて、澄まない気がする。御母堂の奥津城を展じたあとで。……ずっと離れているといいんだがな。近いと、どうも、この年でも極 りが悪い。きっと冷かすぜ、石塔の下から、クックッ、カラカラとまず笑う。」
「こわい、おじさん。お母 さんだがいいけれど。……私がついていますから、冷かしはしませんから、よく、お拝みなさいましよね。
――(糸塚)さん。」
「糸塚……初路さんか。糸塚は姓なのかね。」
「いいえ、あら、そう……おじさんは、ご存じないわね。
――糸塚さん、糸巻塚ともいうんですって。
この谷を一つ隔てた、向うの山の中途に、鬼子母神 様のお寺がありましょう。」
「ああ、柘榴寺 ――真成寺 。」
「ちょっとごめんなさい。私も端の方へ、少し休んで。……いいえ、構うもんですか。落葉といっても錦 のようで、勿体ないほどですわ。あの柘榴の花の散った中へ、鬼子母神様の雲だといって、草履を脱いで坐ったのも、つい近頃のようですもの。お母さんにつれられて。白い雲、青い雲、紫の雲は何様でしょう。鬼子母神様は紅 い雲のように思われますね。」
墓所は直 近いのに、面影を遥 かに偲 んで、母親を想うか、お米は恍惚 して云った。
――聞くとともに、辻町は、その壮年を三四年、相州逗子 に過ごした時、新婚の渠 の妻女の、病厄のためにまさに絶えなんとした生命を、医療もそれよ。まさしく観世音の大慈の利験 に生きたことを忘れない。南海霊山の岩殿寺 、奥の御堂 の裏山に、一処 咲満ちて、春たけなわな白光 に、奇 しき薫 の漲 った紫の菫 の中に、白い山兎の飛ぶのを視 つつ、病中の人を念じたのを、この時まざまざと、目前の雲に視て、輝く霊巌 の台に対し、さしうつむくまで、心衷 に、恭礼黙拝したのである。――
お米の横顔さえ、□ たけて、
「柘榴寺、ね、おじさん、あすこの寺内に、初代元祖、友禅の墓がありましょう。一頃は訪 う人どころか、苔 の下に土も枯れ、水も涸 いていたんですが、近年 他国の人たちが方々から尋ねて来て、世評が高いもんですから、記念碑が新しく建ちましてね、名所のようになりました。それでね、ここのお寺でも、新規に、初路さんの、やっぱり記念碑を建てる事になったんです。」
「ははあ、和尚さん、娑婆気 だな、人寄せに、黒枠で……と身を投げた人だから、薄彩色 水絵具の立看板。」
「黙って。……いいえ、お上人よりか、檀家の有志、県の観光会の表向きの仕事なんです。お寺は地所を貸すんです。」
「葬った土とは別なんだね。」
「ええ、それで、糸塚、糸巻塚、どっちにしようかっていってるところ。」
「どっちにしろ、友禅の(染)に対する(糸)なんだろう。」
「そんな、ただ思いつき、趣向ですか、そんなんじゃありません。あの方、はんけちの工場へ通って、縫取をしていらしってさ、それが原因 で、あんな事になったんですもの。糸も紅糸 からですわ。」
「糸も紅糸……はんけちの工場へ通って、縫取をして、それが原因 ?……」
「まあ、何にも、ご存じない。」
「怪我にも心中だなどという、そういっちゃ、しかし済まないけれども、何にも知らない。おなじ写真を並んで取っても、大勢の中だと、いつとなく、生別れ、死別れ、年が経 つと、それっきりになる事もあるからね。」
辻町は向直っていったのである。
「蟹は甲らに似せて穴を掘る……も可訝 いかな。おなじ穴の狸……飛んでもない。一升入の瓢 は一升だけ、何しろ、当推量も左前だ。誰もお極 りの貧のくるしみからだと思っていたよ。」
また、事実そうであった。
「まあ、そうですか、いうのもお可哀相。あの方、それは、おくらしに賃仕事をなすったでしょう。けれど、もと、千五百石のお邸 の女□ さん。」
「おお、ざっとお姫様だ。ああ、惜しい事をした。あの晩一緒に死んでおけば、今頃はうまれかわって、小いろの一つも持った果報な男になったろう。……糸も、紅糸は聞いても床しい。」
「それどころじゃありません。その糸から起った事です。千五百石の女□ですが、初路さん、お妾腹 だったんですって。それでも一粒種、いい月日の下 に、生れなすったんですけれど、廃藩以来、ほどなく、お邸は退転、御両親も皆あの世。お部屋方の遠縁へ引取られなさいましたのが、いま、お話のありました箔屋なのです。時節がら、箔屋さんも暮しが安易 でないために、工場 通いをなさいました。お邸育ちのお慰みから、縮緬 細工もお上手だし、お針は利きます。すぐ第一等の女工さんでごく上等のものばかり、はんけちと云って、薄色もありましょうが、おもに白絹へ、蝶花を綺麗に刺繍 をするんですが、いい品は、国産の誉れの一つで、内地より、外国へ高級品で出たんですって。」
「なるほど。」
四
蜻蛉 が草の葉に、かやつり草に宿かりて……その唄を、工場で唱いましたってさ。唄が初路さんを殺したんです。
細い、かやつり草を、青く縁へとって、その片端、はんけちの雪のような地 へ赤蜻蛉を二つ。」
お米の二つ折る指がしなって、内端 に襟をおさえたのである。
「一ツずつ、蜻蛉が別ならよかったんでしょうし、外の人の考案 で、あの方、ただ刺繍だけなら、何でもなかったと言うんです。どの道、うつくしいのと、仕事の上手なのに、嫉 み猜 みから起った事です。何につけ、かにつけ、ゆがみ曲りに難癖をつけないではおきません。処を図案まで、あの方がなさいました。何から思いつきなすったんだか。――その赤蜻蛉の刺繍が、大層な評判だし、分けて輸出さきの西洋の気受けが、それは、凄 い勢 で、どしどし註文が来ました処から、外国まで、恥を曝 すんだって、羽をみんな、手足にして、紅いのを縮緬のように唄い囃 して、身肌を見せたと、騒ぐんでしょう。」
(巻初に記して一粲 に供した俗謡には、二三行、
口誦 を憚 ったからである。)
「いやですわね、おじさん、蝶々や、蜻蛉は、あれは衣服 を着ているでしょうか。
皆 でわあわあ、さも初路さんが、そんな姿絵を、紅い毛、碧 い目にまで、露呈 に見せて、お宝を儲けたように、唱い立てられて見た日には、内気な、優しい、上品な、着ものの上から触られても、毒蛇の牙形 が膚 に沁 みる……雪に咲いた、白玉椿のお人柄、耳たぶの赤くなる、もうそれが、砕けるのです、散るのです。
遺書 にも、あったそうです。――ああ、恥かしいと思ったばかりに――」
「察しられる。思いやられる。お前さんも聞いていようか。むかし、正しい武家の女性 たちは、拷問 の笞 、火水の責にも、断じて口を開かない時、ただ、衣 を褫 う、肌着を剥 ぐ、裸体にするというとともに、直ちに罪に落ちたというんだ。――そこへ掛けると……」
辻町は、かくも心弱い人のために、西班牙 セビイラの煙草工場のお転婆を羨 んだ。
同時に、お米の母を思った。お京がもしその場に処したら、対手 の工女の顔に象棋盤 の目を切るかわりに、酢ながら心太 を打 ちまけたろう。
「そこへ掛けると平民の子はね。」
辻町は、うっかりいった。
「だって、平民だって、人の前で。」
「いいえ。」
「ええ、どうせ私は平民の子ですから。」
辻町は、その乳のわきの、青い若菜を、ふと思って、覚えず肩を縮めたのである。
「あやまった。いや、しかし、千五百石の女□、昔ものがたり以上に、あわれにはかない。そうして清らかだ。」
「中将姫のようでしたって、白羽二重の上へ辷 ると、あの方、白い指が消えました。露が光るように、針の尖 を伝って、薄い胸から紅い糸が揺れて染まって、また縢 って、銀の糸がきらきらと、何枚か、幾つの蜻蛉が、すいすいと浮いて写る。――(私が傍 に見ていました)って、鼻ひしゃげのその頃の工女が、茄子 の古漬のような口を開けて、老 い年で話すんです。その女だって、その臭い口で声を張って唱ったんだと思うと、聞いていて、口惜 しい、睨 んでやりたいようですわ。――でも自害をなさいました、後一年ばかり、一時 はこの土地で湯屋でも道端でも唄って、お気の弱いのをたっとむまでも、初路さんの刺繍を恥かしい事にいいましたとさ。
――あれあれ見たか、あれ見たか――、銀の羽がそのまま手足で、二つ蜻蛉が何とかですもの。」
「一体また二つの蜻蛉がなぜ変だろう。見聞 が狭い、知らないんだよ。土地の人は――そういう私だって、近頃まで、つい気がつかずに居たんだがね。
手紙のついでで知っておいでだろうが、私の住んでいる処と、京橋の築地までは、そうだね、ここから、ずっと見て、向うの海まではあるだろう。今度、当地 へ来がけに、歯が疼 んで、馴染 の歯科医 へ行ったとお思い。その築地は、というと、用たしで、歯科医は大廻りに赤坂なんだよ。途中、四谷新宿へ突抜けの麹町 の大通りから三宅坂 、日比谷、……銀座へ出る……歌舞伎座の前を真直 に、目的 の明石町 までと饒舌 ってもいい加減の間、町充満 、屋根一面、上下 、左右、縦も横も、微紅 い光る雨に、花吹雪を浮かせたように、羽が透き、身が染って、数限りもない赤蜻蛉の、大流れを漲 らして飛ぶのが、行違ったり、卍 に舞乱れたりするんじゃあない、上へ斜 、下へ斜、右へ斜、左へ斜といった形で、おなじ方向を真北へさして、見当は浅草、千住 、それから先はどこまでだか、ほとんど想像にも及びません。――明石町は昼の不知火 、隅田川の水の影が映ったよ。
で、急いで明石町から引返 して、赤坂の方へ向うと、また、おなじように飛んでいる。群れて行 く。歯科医 で、椅子に掛けた。窓の外を、この時は、幾分か、その数はまばらに見えたが、それでも、千や二千じゃない、二階の窓をすれすれの処に向う家の廂 見当、ちょうど電信、電話線の高さを飛ぶ。それより、高くもない。ずっと低くもない。どれも、おなじくらいな空を通るんだがね、計り知られないその大群は、層を厚く、密度を濃 かにしたのじゃなくって、薄く透通る。その一つ一つの薄い羽のようにさ。
何の事はない、見た処、東京の低い空を、淡紅 一面の紗 を張って、銀の霞に包んだようだ。聳立 った、洋館、高い林、森なぞは、さながら、夕日の紅 を巻いた白浪の上の巌 の島と云った態 だ。
つい口へ出た。(蜻蛉が大層飛んでいますね。)歯医師 が(はあ、早朝からですよ。)と云ったがね。その時は四時過ぎです。
帰途 に、赤坂見附で、同じことを、運転手に云うと、(今は少くなりました。こんなもんじゃありません。今朝六時頃、この見附を、客人で通りました時は、上下、左右すれ違うとサワサワと音がします。青空、青山、正面の雪の富士山の雲の下まで裾野を蔽 うといいます紫雲英 のように、いっぱいです。赤蜻蛉に乗せられて、車が浮いて困ってしまいました。こんな経験ははじめてです。)と更 めて吃驚 したように言うんだね。私も、その日ほど夥 しいのは始めてだったけれど、赤蜻蛉の群の一日都会に漲 るのは、秋、おなじ頃、ほとんど毎年と云ってもいい。子供のうちから大好きなんだけれど、これに気のついたのは、――うっかりじゃないか――この八九年以来なんだが、月はかわりません。きっと十月、中の十日から二十日 の間、三年つづいて十七日というのを、手帳につけて覚えています。季節、天気というものは、そんなに模様の変らないものと見えて、いつの年も秋の長雨、しけつづき、また大あらしのあった翌朝 、からりと、嘘のように青空になると、待ってたように、しずめたり浮いたり、風に、すらすらすらすらと、薄い紅 い霧をほぐして通る。
――この辺は、どうだろう。」
「え。」
話にききとれていたせいではあるまい、お米の顔は緋葉 の蔭にほんのりしていた。
「……もう晩 いんでしょう、今日は一つも見えませんわ。前の月の命日に参詣 をしました時、山門を出て……あら、このいい日和にむら雨かと思いました。赤蜻蛉の羽がまるで銀の雨の降るように見えたんです。」
「一ツずつかね。」
「ひとツずつ?」
「ニツずつではなかったかい。」
「さあ、それはどうですか、ちょっと私気がつきません。」
「気がつくまい、そうだろう。それを言いたかったんだ、いまの蜻蛉の群の話は。それがね、残らず、二つだよ、比翼なんだよ。その刺繍 の姿と、おなじに、これを見て土地の人は、初路さんを殺したように、どんな唄を唱うだろう。
みだらだの、風儀を乱すの、恥を曝 すのといって、どうする気だろう。浪で洗えますか、火で焼けますか、地震だって壊せやしない。天を蔽 い地に漲 る、といった処で、颶風 があれば消えるだろう。儚 いものではあるけれども――ああ、その儚さを一人で身に受けたのは初路さんだね。」
「ええ、ですから、ですから、おじさん、そのお慰めかたがた……今では時世がかわりました。供養のために、初路さんの手技 を称 め賛 えようと、それで、「糸塚」という記念の碑を。」
「…………」
「もう、出来かかっているんです。図取は新聞にも出ていました。台石の上へ、見事な白い石で大きな糸枠を据えるんです。刻んだ糸を巻いて、丹 で染めるんだっていうんですわ。」
「そこで、「友禅の碑」と、対 するのか。しかし、いや、とにかく、悪い事ではない。場所は、位置は。」
「さあ、行って見ましょう。半分うえ出来ているようです。門を入って、直きの場所です。」
辻町は、あの、盂蘭盆の切籠燈 に対する、寺の会釈を伝えて、お京が渠 に戯れた紅糸 を思って、ものに手繰られるように、提灯とともにふらりと立った。
五
「おばけの……蜻蛉?……おじさん。」
「何、そんなものの居よう筈 はない。」
とさも落着いたらしく、声を沈めた。その癖、たった今、思わず、「あ!」といったのは誰だろう。
いま辻町は、蒼然 として苔蒸 した一基の石碑を片手で抱いて――いや、抱くなどというのは憚 かろう――霜より冷くっても、千五百石の女□ の、石の躯 ともいうべきものに手を添えているのである。ただし、その上に、沈んだ藤色のお米の羽織が袖をすんなりと墓のなりにかかった、が、織だか、地紋だか、影絵のように細い柳の葉に、菊らしいのを薄色に染出したのが、白い山土に敷乱れた、枯草の中に咲残った、一叢 の嫁菜の花と、入交 ぜに、空を蔽うた雑樹を洩 れる日光に、幻の影を籠 めた、墓はさながら、梢 を落ちた、うらがなしい綺麗な錦紗 の燈籠の、うつむき伏した風情がある。
ここは、切立 というほどではないが、巌組 みの径 が嶮 しく、砕いた薬研 の底を上 る、涸 れた滝の痕 に似て、草土手の小高い処で、□々 と墓が並び、傾き、また倒れたのがある。
上り切った卵塔の一劃、高い処に、裏山の峯を抽 いて繁ったのが、例の高燈籠の大榎で、巌を縫って蟠 った根に寄って、先祖代々とともに、お米のお母 さんが、ぱっと目を開きそうに眠っている。そこも蔭で、薄暗い。
それ、持参の昼提灯、土の下からさぞ、半間だと罵倒 しようが、白く据 って、ぼっと包んだ線香の煙が靡 いて、裸蝋燭 の灯が、静寂な風に、ちらちらする。
榎を潜 った彼方 の崖は、すぐに、大傾斜の窪地になって、山の裙 まで、寺の裏庭を取りまわして一谷 一面の卵塔である。
初路の墓は、お京のと相向って、やや斜下、左の草土手の処にあった。
見たまえ――お米が外套 を折畳みにして袖に取って、背後 に立添った、前踞 みに、辻町は手をその石碑にかけた羽織の、裏の媚 かしい中へ、さし入れた。手首に冴えて淡藍 が映える。片手には、頑丈な、錆 の出た、木鋏 を構えている。
この大剪刀 が、もし空の樹の枝へでも引掛 っていたのだと、うっかり手にはしなかったろう。盂蘭盆の夜が更けて、燈籠が消えた時のように、羽織で包んだ初路の墓は、あわれにうつくしく、且つあたりを籠めて、陰々として、鬼気が籠 るのであったから。
鋏は落ちていた。これは、寺男の爺やまじりに、三人の日傭取 が、ものに驚き、泡を食って、遁出 すのに、投出したものであった。
その次第はこうである。
はじめ二人は、磴 から、山門を入ると、広い山内、鐘楼なし。松を控えた墓地の入口の、鎖 さない木戸に近く、八分出来という石の塚を視 た。台石に特に意匠はない、つい通りの巌組一丈余りの上に、誂 えの枠を置いた。が、あの、くるくると糸を廻す棒は見えぬ。くり抜いた跡はあるから、これには何か考案があるらしい。お米もそれはまだ知らなかった。枠の四つの柄 は、その半面に対しても幸 に鼎 に似ない。鼎に似ると、烹 るも烙 くも、いずれ繊楚 い人のために見る目も忍びないであろう処を、あたかも好 、玉を捧ぐる白珊瑚 の滑 かなる枝に見えた。
「かえりに、ゆっくり拝見しよう。」
その母親の展墓である。自分からは急がすのをためらった案内者が、
「道が悪いんですから、気をつけてね。」
わあ、わっ、わっ、わっ、おう、ふうと、鼻呼吸 を吹いた面 を並べ、手を挙げ、胸を敲 き、拳 を振りなど、なだれを打ち、足ただらを踏んで、一時 に四人、摺違 いに木戸口へ、茶色になって湧 いて出た。
その声も跫音 も、響くと、もろともに、落ちかかったばかりである。
不意に打 つかりそうなのを、軽く身を抜いて路を避けた、お米の顔に、鼻をまともに突向けた、先頭 第一番の爺 が、面 も、脛 も、一縮みの皺 の中から、ニンガリと変に笑ったと思うと、
「出ただええ、幽霊だあ。」
幽霊。
「おッさん、蛇、蝮 ?」
お米は――幽霊と聞いたのに――ちょっと眉を顰 めて、蛇、蝮を憂慮 った。
「そんげえなもんじゃねえだア。」
いかにも、そんげえなものには怯 えまい、面魂、印半纏 も交って、布子のどんつく、半股引 、空脛 が入乱れ、屈竟 な日傭取が、早く、糸塚の前を摺抜けて、松の下に、ごしゃごしゃとかたまった中から、寺爺やの白い眉の、びくびくと動くが見えて、
「蜻蛉だあ。」
「幽霊蜻蛉ですだアい。」
と、冬の麦稈帽 を被 った、若いのが声を掛けた。
「蜻蛉なら、幽霊だって。」
お米は、莞爾 して坂上りに、衣紋 のやや乱れた、浅黄を雪に透く胸を、身繕いもせず、そのまま、見返りもしないで木戸を入った。
巌 は鋭い。踏上る径 は嶮 しい。が、お米の双の爪さきは、白い蝶々に、おじさんを載せて、高く導く。
「何だい、今のは、あれは。」
「久助って、寺爺やです。卵塔場で働いていて、休みのお茶のついでに、私をからかったんでしょう。子供だと思っている。おじさんがいらっしゃるのに、見さかいがない。馬鹿だよ。」
「若いお前さんと、一緒にからかわれたのは嬉しいがね、威 かすにしても、寺で幽霊をいう奴があるものか。それも蜻蛉の幽霊。」
「蛇や、蝮でさえなければ、蜥蜴 が化けたって、そんなに可恐 いもんですか。」
「居るかい。」
「時々。」
「居るだろうな。」
「でも、この時節。」
「よし、私だって驚かない。しかし、何だろう、ああ、そうか。おはぐろとんぼ、黒とんぼ。また、何とかいったっけ。漆のような真黒 な羽のひらひらする、繊 く青い、たしか河原蜻蛉とも云ったと思うが、あの事じゃないかね。」
「黒いのは精霊蜻蛉ともいいますわ。幽霊だなんのって、あの爺 い。」
その時であった。
「ああ。」
と、お米が声を立てると、
「酷 いこと、墓を。」
といった。声とともに、着た羽織をすっと脱いだ、が、紐をどう解いたか、袖をどう、手の菊へ通したか、それは知らない。花野を颯 と靡 かした、一筋の風が藤色に通るように、早く、その墓を包んだ。
向う傾けに草へ倒して、ぐるぐる巻というよりは、がんじ搦 みに、ひしと荒縄の汚いのを、無残にも。
「初路さんを、――初路さんを。」
これが女□の碑だったのである。
「茣蓙 にも、蓆 にも包まないで、まるで裸にして。」
と気色 ばみつつ、且つ恥じたように耳朶 を紅くした。
いうまじき事かも知れぬが、辻町の目にも咄嵯 に印したのは同じである。台石から取って覆 えした、持扱いの荒くれた爪摺 れであろう、青々と苔の蒸したのが、ところどころ□ られて、日の隈 幽 に、石肌の浮いた影を膨らませ、影をまた凹ませて、残酷に搦 めた、さながら白身の窶 れた女を、反接緊縛 したに異ならぬ。
推察に難 くない。いずれかの都合で、新しい糸塚のために、ここの位置を動かして持運ぼうとしたらしい。
が、心ない仕業をどうする。――お米の羽織に、そうして、墓の姿を隠して好 かった。花やかともいえよう、ものに激した挙動 の、このしっとりした女房の人柄に似ない捷 い仕種 の思掛けなさを、辻町は怪しまず、さもありそうな事と思ったのは、お京の娘だからであった。こんな場に出逢っては、きっとおなじはからいをするに疑いない。そのかわり、娘と違い、落着いたもので、澄まして羽織を脱ぎ、背負揚 を棄て、悠然と帯を巌 に解いて、あらわな長襦袢 ばかりになって、小袖ぐるみ墓に着せたに違いない。
何、夏なら、炎天なら何とする?……と。そういう皮肉な読者 には弱る、が、言わねば卑怯 らしい、裸体 になります、しからずんば、辻町が裸体にされよう。
――その墓へはまず詣でた――
引返 して来たのであった。
辻町の何よりも早くここでしよう心は、立処 に縄を切って棄てる事であった。瞬時といえども、人目に曝 すに忍びない。行 るとなれば手伝おう、お米の手を借りて解きほどきなどするのにも、二人の目さえ当てかねる。
さしあたり、ことわりもしないで、他の労業を無にするという遠慮だが、その申訳と、渠等 を納得させる手段は、酒と餅で、そんなに煩わしい事はない。手で招いても渋面の皺 は伸びよう。また厨裡 で心太 を突くような跳梁権 を獲得していた、檀越 夫人の嫡女 がここに居るのである。
栗柿を剥 く、庖丁、小刀、そんなものを借りるのに手間ひまはかからない。
大剪刀 が、あたかも蝙蝠 の骨のように飛んでいた。
取って構えて、ちと勝手は悪い。が、縄目は見る目に忍びないから、衣 を掛けたこのまま、留南奇 を燻 く、絵で見た伏籠 を念じながら、もろ手を、ずかと袖裏へ。驚破 、ほんのりと、暖い。芬 と薫った、石の肌の軟 かさ。
思わず、
「あ。」
と声を立てたのであった。
「――おばけの蜻蛉、おじさん。」
「――何そんなものの居よう筈はない。」
胸傍 の小さな痣 、この青い蘚 、そのお米の乳のあたりへ鋏 が響きそうだったからである。辻町は一礼し、墓に向って、屹 といった。
「お嬢さん、私の仕業が悪かったら、手を、怪我をおさせなさい。」
鋏は爽 な音を立てた、ちちろも声せず、松風を切ったのである。
「やあ、塗師屋 様、――ご新姐 。」
木戸から、寺男の皺面 が、墓地下で口をあけて、もう喚 き、冷めし草履の馴 れたもので、これは磽□ たる径 は踏まない。草土手を踏んで横ざまに、傍 へ来た。
続いて日傭取 が、おなじく木戸口へ、肩を組合って低く出た。
「ごめんなせえましよ、お客様。……ご機嫌よくこうやってござらっしゃる処を見ると、間違 えごともなかったの、何も、別条はなかっただね。」
「ところが、おっさん、少々別条があるんですよ。きみたちの仕事を、ちょっと無駄にしたぜ。一杯買おう、これです、ぶつぶつに縄を切払 った。」
「はい、これは、はあ、いい事をさっせえて下さりました。」
「何だか、あべこべのような挨拶だな。」
「いんね、全くいい事をなさせえました。」
「いい事をなさいましたじゃないわ、おいたわしいじゃないの、女□さんがさ。」
「ご新姐、それがね、いや、この、からげ縄、畜生。」
そこで、踞 んで、毛虫を踏潰 したような爪さきへ近く、切れて落ちた、むすびめの節立った荒縄を手繰棄てに背後 へ刎出 しながら、きょろきょろと樹の空を見廻した。
妙なもので、下木戸の日傭取たちも、申合せたように、揃って、踞 んで、空を見る目が、皆動く。
「いい塩梅 に、幽霊蜻蛉、消えただかな。」
「一体何だね、それは。」
「もの、それがでござりますよ、お客様、この、はい、石塔を動かすにつきましてだ。」
「いずれ、あの糸塚とかいうのについての事だろうが、何かね、掘返してお骨でも。」
「いや、それはなりましねえ。記念碑発起押っぽだての、帽子、靴、洋服、袴 、髯 の生えた、ご連中さ、そのつもりであったれど、寺の和尚様、承知さっしゃりましねえだ。ものこれ、三十年経 ったとこそいえ、若い女□ が埋 ってるだ。それに、久しい無縁墓だで、ことわりいう檀家もなしの、立合ってくれる人の見分もないで、と一論判 あった上で、土には触らねえ事になったでがす。」
「そうあるべき処だよ。」
「ところで、はい、あのさ、石彫 の大 え糸枠の上へ、がっしりと、立派なお堂を据えて戸をあけたてしますだね、その中へこの……」
お米は着流しのお太鼓で、まことに優に立っている。
「おお、成仏をさっしゃるずら、しおらしい、嫁菜の花のお羽織きて、霧は紫の雲のようだ、しなしなとしてや。」
と、苔 の生えたような手で撫 でた。
「ああ、擽 ったい。」
「何でがすい。」
と、何も知らず、久助は墓の羽織を、もう一撫で。
「この石塔を斎 き込むもくろみだ。その堂がもう出来て、切組みも済ましたで、持込んで寸法をきっちり合わす段が、はい、ここはこの通り足場が悪いと、山門内 まで運ぶについて、今日さ、この運び手間だよ。肩がわりの念入りで、丸太棒 で担 ぎ出しますに。――丸太棒めら、丸太棒を押立 てて、ごろうじませい、あすこにとぐろを巻いていますだ。あのさきへ矢羽根をつけると、掘立普請の斎 が出るだね。へい、墓場の入口だ、地獄の門番……はて、飛んでもねえ、肉親のご新姐ござらっしゃる。」
と、泥でまぶしそうに、口の端 を拳 でおさえて、
「――そのさ、担ぎ出しますに、石の直肌 に縄を掛けるで、藁 なり蓆 なりの、花ものの草木を雪囲いにしますだね、あの骨法でなくば悪かんべいと、お客様の前 だけんど、わし一応はいうたれども、丸太棒めら。あに、はい、墓さ苞入 に及ぶもんか、手間障 だ。また誰も見ていねえで、構いごとねえだ、と吐 いての。
和尚様は今日は留守なり、お納所 、小僧も、総斎 に出さしった。まず大事ねえでの。はい、ぐるぐるまきのがんじがらみ、や、このしょで、転がし出した。それさ、その形 でがすよ。わしさ屈腰 で、膝はだかって、面 を突出す。奴等 三方からかぶさりかかって、棒を突挿そうとしたと思わっせえまし。何と、この鼻の先、奴等の目の前へ、縄目へ浮いて、羽さ弾 いて、赤蜻蛉が二つ出た。
たった今や、それまでというものは、四人八ツの、団栗目 に、糠虫 一疋入らなんだに、かけた縄さ下から潜 って石から湧 いて出たはどうしたもんだね。やあやあ、しっしっ、吹くやら、払いますやら、静 として赤蜻蛉が動かねえとなると、はい、時代違いで、何の気もねえ若い徒 も、さてこの働きに掛 ってみれば、記念碑糸塚の因縁さ、よく聞いて知ってるもんだで。
ほれ、のろのろとこっちさ寄って来るだ。あの、さきへ立って、丸太棒をついた、その手拭 をだらりと首へかけた、逞 い男でがす。奴が、女□の幽霊でねえか。出たッと、また髯 どのが叫ぶと、蜻蛉がひらりと動くと、かっと二つ、灸 のような炎が立つ。冷い火を汗に浴びると、うら山おろしの風さ真黒 に、どっと来た、煙の中を、目が眩 んで遁 げたでござえますでの。………
それでがすもの、ご新姐、お客様。」
「それじゃ、私たち差出た事は、叱言 なしに済むんだね。」
「ほってもねえ、いい人扶 けして下せえましたよ。時に、はい、和尚様帰って、逢わっせえても、万々沙汰なしに頼みますだ。」
そこへ、丸太棒が、のっそり来た。
「おじい、もういいか、大丈夫かよ。」
「うむ、見せえ、大智識さ五十年の香染 の袈裟 より利益があっての、その、嫁菜の縮緬 の裡 で、幽霊はもう消滅だ。」
「幽霊も大袈裟だがよ、悪く、蜻蛉に祟 られると、瘧 を病むというから可恐 えです。縄をかけたら、また祟って出やしねえかな。」
と不精髯の布子が、ぶつぶついった。
「そういう口で、何で包むもの持って来ねえ。糸塚さ、女□様、素 で括 ったお祟りだ、これ、敷松葉の数寄屋 の庭の牡丹に雪囲いをすると思えさ。」
「よし、おれが行く。」
と、冬の麦稈帽 が出ようとする。
「ああ、ちょっと。」
袖を開いて、お米が留めて、
「そのまま、その上からお結 えなさいな。」
不精髯が――どこか昔の提灯屋に似ていたが、
「このままでかね、勿体 至極もねえ。」
「かまいませんわ。」
「構わねえたって、これ、縛るとなると。」
「うつくしいお方が、見てる前で、むざとなあ。」
麦藁 と、不精髯が目を見合って、半ば呟 くがごとくにいう。
「いいんですよ、構いませんから。」
この時、丸太棒が鉄のように見えた。ぶるぶると腕に力の漲 った逞 しいのが、
「よし、石も婉軟 だろう。きれいなご新姐を抱くと思え。」
というままに、頸 の手拭が真額 でピンと反 ると、棒をハタと投げ、ずかと諸手を墓にかけた。袖の撓 うを胸へ取った、前抱きにぬっと立ち、腰を張って土手を下りた。この方が掛 り勝手がいいらしい。巌路 へ踏みはだかるように足を拡げ、タタと総身に動揺 を加 れて、大きな蟹が竜宮の女房を胸に抱いて逆落しの滝に乗るように、ずずずずずと下りて行 く。
「えらいぞ、権太、怪我をするな。」
と、髯が小走りに、土手の方から後へ下りる。
「俺だって、出来ねえ事はなかったい、遠慮をした、えい、誰に。」
と、お米を見返って、ニヤリとして、麦藁が後に続いた。
「頓生菩提 。……小川へ流すか、燃しますべい。」
そういって久助が、掻き集めた縄の屑 を、一束ねに握って腰を擡 げた時は、三人はもう木戸を出て見えなかったのである。
「久……爺や、爺やさん、羽織はね。式台へほうり込んで置いて可 いんですよ。」
この羽織が、黒塗の華頭窓に掛 っていて、その窓際の机に向って、お米は細 りと坐っていた。冬の日は釣瓶 おとしというより、梢 の熟柿 を礫 に打って、もう暮れて、客殿の広い畳が皆暗い。
こんなにも、清らかなものかと思う、お米の頸 を差覗 くようにしながら、盆に渋茶は出したが、火を置かぬ火鉢越しにかの机の上の提灯を視 た。
(――この、提灯が出ないと、ご迷惑でも話が済まない――)
信仰に頒布する、当山、本尊のお札を捧げた三宝を傍 に、硯箱 を控えて、硯の朱の方に筆を染めつつ、お米は提灯に瞳を凝らして、眉を描くように染めている。
「――きっと思いついた、初路さんの糸塚に手向けて帰ろう。赤蜻蛉――尾を銜 えたのを是非頼む。塗師屋さんの内儀でも、女学校の出じゃないか。絵というと面倒だから図画で行くのさ。紅 を引いて、二つならべれば、羽子の羽でもいい。胡蘿蔔 を繊に松葉をさしても、形は似ます。指で挟んだ唐辛子でも構わない。――」
と、たそがれの立籠めて一際漆のような板敷を、お米の白い足袋の伝う時、唆 かして口説いた。北辰妙見菩薩 を拝んで、客殿へ退 く間 であったが。
水をたっぷりと注 して、ちょっと口で吸って、莟 の唇をぽッつり黒く、八枚の羽を薄墨で、しかし丹念にあしらった。瀬戸の水入が渋のついた鯉だったのは、誂 えたようである。
「出来た、見事々々。お米坊、机にそうやった処は、赤絵の紫式部だね。」
「知らない、おっかさんにいいつけて叱らせてあげるから。」
「失礼。」
と、茶碗が、また、赤絵だったので、思わず失言を詫 びつつ、準藤原女史に介添してお掛け申す……羽織を取入れたが、窓あかりに、
「これは、大分うらに青苔がついた。悪いなあ。たたんで持つか。」
と、持ったのに、それにお米が手を添えて、
「着ますわ。」
「きられるかい、墓のを、そのまま。」
「おかわいそうな方のですもの、これ、荵摺 ですよ。」
その優しさに、思わず胸がときめいて。
「肩をこっちへ。」
「まあ、おじさん。」
「おっかさんの名代だ、娘に着せるのに仔細 ない。」
「はい、……どうぞ。」
くるりと向きかわると、思いがけず、辻町の胸にヒヤリと髪をつけたのである。
「私、こいしい、おっかさん。」
前刻 から――辻町は、演芸、映画、そんなものの楽屋に縁がある――ほんの少々だけれども、これは筋にして稼げると、潜 に悪心の萌 したのが、この時、色も、慾 も何にもない、しみじみと、いとしくて涙ぐんだ。
「へい。お待遠でござりました。」
片手に蝋燭 を、ちらちら、片手に少しばかり火を入れた十能を持って、婆さんが庫裏 から出た。
「糸塚さんへ置いて行きます、あとで気をつけて下さいましよ、烏が火を銜 えるといいますから。」
お米も、式台へもうかかった。
「へい、もう、刻限で、危気 はござりましねえ、嘴太烏 も、嘴細烏 も、千羽ヶ淵の森へ行 んで寝ました。」
大城下は、目の下に、町の燈 は、柳にともれ、川に流るる。磴 を下へ、谷の暗いように下りた。場末の五燈 はまだ来ない。
あきない帰りの豆府屋が、ぶつかるように、ハタと留った時、
「あれ、蜻蛉が。」
お米が膝をついて、手を合せた。
あの墓石を寄せかけた、塚の糸枠の柄にかけて下山した、提灯が、山門へ出て、すこしずつ高くなり、裏山の風一通り、赤蜻蛉が静 と動いて、女の影が……二人見えた。
あれあれ見たか、
あれ見たか。
二つ蜻蛉 が草の葉に、
かやつり草に宿をかり、
人目しのぶと思えども、
羽はうすものかくされぬ、
すきや明石 に緋 ぢりめん、
肌のしろさも浅ましや、
白い絹地の赤蜻蛉。
雪にもみじとあざむけど、
世間稲妻、目が光る。
あれあれ見たか、
あれ見たか。
あれ見たか。
二つ
かやつり草に宿をかり、
人目しのぶと思えども、
羽はうすものかくされぬ、
すきや
肌のしろさも浅ましや、
白い絹地の赤蜻蛉。
雪にもみじとあざむけど、
世間稲妻、目が光る。
あれあれ見たか、
あれ見たか。
「おじさん――その
「ああ、提灯……」
「私が持ちましょう、
一肩上に立った、その肩も
お米といって、これはそのおじさん、辻町糸七――の
山門を仰いで見る、処々、
この燈籠寺に対して、辻町糸七の
辻町は、欠伸と嚔を
「ああ、提灯。いや、どっこい。」
と一段踏む。
「いや、どっこい。」
お米が
「ほほほ、そんな掛声が出るようでは、おじさん。」
「何、くたびれやしない。くたびれたといったって、こんな、提灯の一つぐらい。……もっとも持重りがしたり、邪魔になるようなら、ちょっと、ここいらの
「それはね、誰も居ない、人通りの少い処だし、お寺ですもの。そこに置いといたって、人がどうもしはしませんけれど。……持ちましょうというのに持たさないで、おじさん、自分の手で…」
「自分の手で。」
「あんな、知らない顔をして、自分の手からお手向けなさりたいのでしょう。ここへ置いて行っては、お志が通らないではありませんか、悪いわ。」
「お
「それは
また
「せいせい、そんな息をして……ここがいい、ちょっとお休みなさいよ、さあ。」
ちょうど段々
憚られもしようもの。磴たるや、山賊の構えた
蝉はひとりでジジと笑って、
いや、飜然となんぞ、そんな器用に
「ありがとう……提灯の柄のお力添に、片手を縋って、一方に
「いやですよ。」
「意気地はない、が、止むを得ない。お言葉に従って一休みして行こうか。ちょうどお
「そんなに、せっかちに腰を掛けてさ、泥がつきますよ。」
「構わない。
「墨染でも、喜撰でも、所作舞台ではありません、よごれますわ。」
「どうも、これは。きれいなその
「散っているもみじの方が、きれいです、払っては澄まないような、こんな手巾。」
「何色というんだい。お志で、石へ月影まで
といった。
「お米坊。」
おじさんは、目を移して、
「景色もいいが、
(その提灯を一つ、いくらです。)といったら、
(どうぞ早や、お持ちなされまして……お代はおついでの時、)……はどうだい。そのかわり、遠国他郷のおじさんに、売りものを新聞づつみ、紙づつみにしようともしないんだぜ。
「おっしゃい。」
と
「旅の人だか何だか、
「待った、待った。――お京さん――お米坊、お前さんのお
「はじめまして伺います、ほほほ。」
「ご挨拶、恐入った。が、何々院――信女でなく、ごめんを被ろう。その、お母さんの墓へお参りをするのに、何だって、私がきまりが悪いんだろう。第一そのために来たんじゃないか。」
「……それはご遠慮は申しませんの。母の
「誰かさん、誰かさん……分らない。米ちゃん、一体その誰かさんは?」
「母が、いつもそういっていましたわ。おじさんは、(極りわるがり屋)という(長い屋)さんだから。」
「どうせ、長屋
「ごめんなさい、そんなんじゃありません。だからっても、何も私に――それとも、思い出さない、忘れたのなら、それはひどいわ、あんまりだわ。誰かさんに、悪いわ、済まないわ、薄情よ。」
「しばらく、しばらく、まあ、待っておくれ。これは思いも寄らない。唐突の儀を承る。弱ったな、何だろう、といっちゃなお悪いかな、誰だろう。」
「ほんとに忘れたんですか。それで
「…………」
「もう堪忍してあげましょう。あんまり知らないふりをなさるからちょっと
お米の指が、行ったり来たり、ちらちらと細く動くと、その動くのが、魔法を使ったように、向う
同時に、もう一つ。寂しい、美しい女が、花の雲から下りたように、すっと
――指を包め、袖を引け、お米坊。頸の白さ、肩のしなやかさ、余りその姿に似てならない。――
今、
二
「ああ、まるで魔法にかかったようだ。」
頬にあてて打傾いた
「またまったく夢がさめたようだ。――その時、夜あけ頃まで、堀の上をうろついて、いつ
――兄さん……兄さん――
と、聞こえたのは、……お京さん。」
「返事をしましょうか。」
「願おうかね。」
「はい、おほほ。」
「申すまでもない、威勢のいい若い声だ。そうだろう、お互に
花はちらちらと目の前へ散って来る。
私の小屋と
辻町は、時に、まつげの深いお米と顔を見合せた。
「その日は、
「かぞえ年……」
「ああ、そうか。」
「おじさんの家の焼けた年、お産間近に、お
「あら、うっかり、おじさんだと思って、つい。……
おじさんは目を
「見えやしない、なにもないじゃないか、どこなのだね。」
「知らない。」
「まあさ。」
「乳の少し
「きれいだな、眉毛を一つ
ただし、そういった処で、あくる朝、町内の箔屋へ引取った身投げの娘が、果して
と、お京さんが、むこうの
「ええ、ほほほ。」
とお米は軽く
「お京さん、いきなり内の
お米は軽く
「ちょろちょろと燃えてる、
半壊れの車井戸が、すぐ
ざらざらと水が響くと、
――身投げだ――
――別嬪 だ――
――身投げだ――
と――
――身投げだ――
この騒ぎは――さあ、それから
――三年の間、かたい慎み――
だッてね、お京さんが、その――おなじ桜に風だもの、兄さんを誘いに来ると悪いから――
その晩、おなじ千羽ヶ淵へ、ずぶずぶのこの土地の新聞
……お米さん、私は、おなじその年の八月――ここいらはまだ、月おくれだね、盂蘭盆が過ぎてから、いつも大好きな赤蜻蛉の飛ぶ時分、道があいて、東京へ立てたんだが。――
――ああ、そうか。」
辻町は、息を入れると、石に腰をずらして、ハタと軽く膝をたたいた。
三
その時、
「……さて、これだが、手向けるとか、供えるとか、お米坊のいう――誰かさんは――」
「ええ、そうなの。」
と、小菊と坊さん花をちょっと囲って、お米は
「その
不思議な、怪しい、縁だなあ。――花あかりに、消えて行った可哀相な人の墓はいかにも、この燈籠寺にあるんだよ。
若気のいたり。……」
辻町は、額をおさえて、提灯に
「何と思ったか、東京へ――出発間際、人目を忍んで……というと悪く色気があります。何、こそこそと、鼠あるきに、
ゆかただか、
中段さ、ちょうど今居る。
しかるに、どうだい。お米坊は
――すまして
――ああ、呆れた――
目の前に、白いものと思ったっけ、山門を――身投げに逢いに来ましたね――
言う事も言う事さ、誰だと思います。御母堂さ。それなら、言いそうな事だろう。いきなり、がんと辻町は提灯を押えながら、
「酒買い狸が
いう事が
――初路さんのお墓は――
いかにも、若い、優しい、が、何だか、弱々とした、身を投げた女の名だけは、いつか聞いていた。――お墓の場所は知っていますか――
知るもんですか。お京さんが、崖で夜露にこっちもその要心から、わざと夜になって出掛けたのに、今頃まで、何をしていたろう。(遊んでいた。世の中の
――この春、身を投げた、お嬢さんに。……心中を仕損った、この人の、こころざし――
私は門まで――それ、紅い糸を持って来た。縁結びに――白いのが好 かったかしら、……あいては幻……
と頬をかすられて、私はこの中段まで転げ落ちた。ちと……………………
……………………
辻町は夕立を……………………
「お米坊、そんな、こんな、お母さんに聞いていたのかね。」
「ええ、お嫁に行ってから、あと……」
「そうだろうな、あの気象でも、
――さて、問題の提灯だ。成程、その人に、
というのがね、
場所も方角も、まるで違うけれども、むかし小学校の時分、学校近所の……あすこは大川
――ご紋は――
――牡丹――
何、描かせては手間がとれる……第一実用むきの気といっては、いささかもなかったからね。これは、――牡丹――
「どうぞ。……女万歳の広告に。」
「仰せのとおり。――いや、
そのままに見えたと思った時も――箔――すぐこの寺に墓のある――同町内に、ぐっしょりと濡れた姿を
が、あらためて、澄まない気がする。御母堂の奥津城を展じたあとで。……ずっと離れているといいんだがな。近いと、どうも、この年でも
「こわい、おじさん。お
――(糸塚)さん。」
「糸塚……初路さんか。糸塚は姓なのかね。」
「いいえ、あら、そう……おじさんは、ご存じないわね。
――糸塚さん、糸巻塚ともいうんですって。
この谷を一つ隔てた、向うの山の中途に、
「ああ、
「ちょっとごめんなさい。私も端の方へ、少し休んで。……いいえ、構うもんですか。落葉といっても
墓所は
――聞くとともに、辻町は、その壮年を三四年、相州
お米の横顔さえ、
「柘榴寺、ね、おじさん、あすこの寺内に、初代元祖、友禅の墓がありましょう。一頃は
「ははあ、和尚さん、
「黙って。……いいえ、お上人よりか、檀家の有志、県の観光会の表向きの仕事なんです。お寺は地所を貸すんです。」
「葬った土とは別なんだね。」
「ええ、それで、糸塚、糸巻塚、どっちにしようかっていってるところ。」
「どっちにしろ、友禅の(染)に対する(糸)なんだろう。」
「そんな、ただ思いつき、趣向ですか、そんなんじゃありません。あの方、はんけちの工場へ通って、縫取をしていらしってさ、それが
「糸も紅糸……はんけちの工場へ通って、縫取をして、それが
「まあ、何にも、ご存じない。」
「怪我にも心中だなどという、そういっちゃ、しかし済まないけれども、何にも知らない。おなじ写真を並んで取っても、大勢の中だと、いつとなく、生別れ、死別れ、年が
辻町は向直っていったのである。
「蟹は甲らに似せて穴を掘る……も
また、事実そうであった。
「まあ、そうですか、いうのもお可哀相。あの方、それは、おくらしに賃仕事をなすったでしょう。けれど、もと、千五百石のお
「おお、ざっとお姫様だ。ああ、惜しい事をした。あの晩一緒に死んでおけば、今頃はうまれかわって、小いろの一つも持った果報な男になったろう。……糸も、紅糸は聞いても床しい。」
「それどころじゃありません。その糸から起った事です。千五百石の女□ですが、初路さん、お
「なるほど。」
四
あれあれ見たか
あれ見たか
…………………
「あれあれ見たか、あれ見たか、二つあれ見たか
…………………
細い、かやつり草を、青く縁へとって、その片端、はんけちの雪のような
お米の二つ折る指がしなって、
「一ツずつ、蜻蛉が別ならよかったんでしょうし、外の人の
(巻初に記して
…………………
…………………
脱落があるらしい、お米が…………………
「いやですわね、おじさん、蝶々や、蜻蛉は、あれは
――人目しのぶと思えども
羽はうすもの隠されぬ――
それも一つならまだしもだけれど、一つの尾に一つが続いて、すっと、あの、羽を八つ、静かに銀糸で縫ったんです、寝ていやしません、飛んでいるんですわね。ええ、それをですわ、羽はうすもの隠されぬ――
――世間、いなずま目が光る――
――恥を知らぬか、恥じないか――と「察しられる。思いやられる。お前さんも聞いていようか。むかし、正しい武家の
辻町は、かくも心弱い人のために、
同時に、お米の母を思った。お京がもしその場に処したら、
「そこへ掛けると平民の子はね。」
辻町は、うっかりいった。
「だって、平民だって、人の前で。」
「いいえ。」
「ええ、どうせ私は平民の子ですから。」
辻町は、その乳のわきの、青い若菜を、ふと思って、覚えず肩を縮めたのである。
「あやまった。いや、しかし、千五百石の女□、昔ものがたり以上に、あわれにはかない。そうして清らかだ。」
「中将姫のようでしたって、白羽二重の上へ
――あれあれ見たか、あれ見たか――、銀の羽がそのまま手足で、二つ蜻蛉が何とかですもの。」
「一体また二つの蜻蛉がなぜ変だろう。
手紙のついでで知っておいでだろうが、私の住んでいる処と、京橋の築地までは、そうだね、ここから、ずっと見て、向うの海まではあるだろう。今度、
で、急いで明石町から
何の事はない、見た処、東京の低い空を、
つい口へ出た。(蜻蛉が大層飛んでいますね。)
――この辺は、どうだろう。」
「え。」
話にききとれていたせいではあるまい、お米の顔は
「……もう
「一ツずつかね。」
「ひとツずつ?」
「ニツずつではなかったかい。」
「さあ、それはどうですか、ちょっと私気がつきません。」
「気がつくまい、そうだろう。それを言いたかったんだ、いまの蜻蛉の群の話は。それがね、残らず、二つだよ、比翼なんだよ。その
みだらだの、風儀を乱すの、恥を
「ええ、ですから、ですから、おじさん、そのお慰めかたがた……今では時世がかわりました。供養のために、初路さんの
「…………」
「もう、出来かかっているんです。図取は新聞にも出ていました。台石の上へ、見事な白い石で大きな糸枠を据えるんです。刻んだ糸を巻いて、
「そこで、「友禅の碑」と、
「さあ、行って見ましょう。半分うえ出来ているようです。門を入って、直きの場所です。」
辻町は、あの、盂蘭盆の
五
「おばけの……蜻蛉?……おじさん。」
「何、そんなものの居よう
とさも落着いたらしく、声を沈めた。その癖、たった今、思わず、「あ!」といったのは誰だろう。
いま辻町は、
ここは、
上り切った卵塔の一劃、高い処に、裏山の峯を
それ、持参の昼提灯、土の下からさぞ、半間だと
榎を
初路の墓は、お京のと相向って、やや斜下、左の草土手の処にあった。
見たまえ――お米が
この
鋏は落ちていた。これは、寺男の爺やまじりに、三人の
その次第はこうである。
はじめ二人は、
「かえりに、ゆっくり拝見しよう。」
その母親の展墓である。自分からは急がすのをためらった案内者が、
「道が悪いんですから、気をつけてね。」
わあ、わっ、わっ、わっ、おう、ふうと、鼻
その声も
不意に
「出ただええ、幽霊だあ。」
幽霊。
「おッさん、蛇、
お米は――幽霊と聞いたのに――ちょっと眉を
「そんげえなもんじゃねえだア。」
いかにも、そんげえなものには
「蜻蛉だあ。」
「幽霊蜻蛉ですだアい。」
と、冬の
「蜻蛉なら、幽霊だって。」
お米は、
「何だい、今のは、あれは。」
「久助って、寺爺やです。卵塔場で働いていて、休みのお茶のついでに、私をからかったんでしょう。子供だと思っている。おじさんがいらっしゃるのに、見さかいがない。馬鹿だよ。」
「若いお前さんと、一緒にからかわれたのは嬉しいがね、
「蛇や、蝮でさえなければ、
「居るかい。」
「時々。」
「居るだろうな。」
「でも、この時節。」
「よし、私だって驚かない。しかし、何だろう、ああ、そうか。おはぐろとんぼ、黒とんぼ。また、何とかいったっけ。漆のような
「黒いのは精霊蜻蛉ともいいますわ。幽霊だなんのって、あの
その時であった。
「ああ。」
と、お米が声を立てると、
「
といった。声とともに、着た羽織をすっと脱いだ、が、紐をどう解いたか、袖をどう、手の菊へ通したか、それは知らない。花野を
向う傾けに草へ倒して、ぐるぐる巻というよりは、がんじ
「初路さんを、――初路さんを。」
これが女□の碑だったのである。
「
と
いうまじき事かも知れぬが、辻町の目にも
推察に
が、心ない仕業をどうする。――お米の羽織に、そうして、墓の姿を隠して
何、夏なら、炎天なら何とする?……と。そういう皮肉な
――その墓へはまず詣でた――
辻町の何よりも早くここでしよう心は、
さしあたり、ことわりもしないで、他の労業を無にするという遠慮だが、その申訳と、
栗柿を
取って構えて、ちと勝手は悪い。が、縄目は見る目に忍びないから、
思わず、
「あ。」
と声を立てたのであった。
「――おばけの蜻蛉、おじさん。」
「――何そんなものの居よう筈はない。」
「お嬢さん、私の仕業が悪かったら、手を、怪我をおさせなさい。」
鋏は
「やあ、
木戸から、寺男の
続いて
「ごめんなせえましよ、お客様。……ご機嫌よくこうやってござらっしゃる処を見ると、
「ところが、おっさん、少々別条があるんですよ。きみたちの仕事を、ちょっと無駄にしたぜ。一杯買おう、これです、ぶつぶつに縄を
「はい、これは、はあ、いい事をさっせえて下さりました。」
「何だか、あべこべのような挨拶だな。」
「いんね、全くいい事をなさせえました。」
「いい事をなさいましたじゃないわ、おいたわしいじゃないの、女□さんがさ。」
「ご新姐、それがね、いや、この、からげ縄、畜生。」
そこで、
妙なもので、下木戸の日傭取たちも、申合せたように、揃って、
「いい
「一体何だね、それは。」
「もの、それがでござりますよ、お客様、この、はい、石塔を動かすにつきましてだ。」
「いずれ、あの糸塚とかいうのについての事だろうが、何かね、掘返してお骨でも。」
「いや、それはなりましねえ。記念碑発起押っぽだての、帽子、靴、洋服、
「そうあるべき処だよ。」
「ところで、はい、あのさ、
お米は着流しのお太鼓で、まことに優に立っている。
「おお、成仏をさっしゃるずら、しおらしい、嫁菜の花のお羽織きて、霧は紫の雲のようだ、しなしなとしてや。」
と、
「ああ、
「何でがすい。」
と、何も知らず、久助は墓の羽織を、もう一撫で。
「この石塔を
と、泥でまぶしそうに、口の
「――そのさ、担ぎ出しますに、石の
和尚様は今日は留守なり、お
たった今や、それまでというものは、四人八ツの、
ほれ、のろのろとこっちさ寄って来るだ。あの、さきへ立って、丸太棒をついた、その
それでがすもの、ご新姐、お客様。」
「それじゃ、私たち差出た事は、
「ほってもねえ、いい
そこへ、丸太棒が、のっそり来た。
「おじい、もういいか、大丈夫かよ。」
「うむ、見せえ、大智識さ五十年の
「幽霊も大袈裟だがよ、悪く、蜻蛉に
と不精髯の布子が、ぶつぶついった。
「そういう口で、何で包むもの持って来ねえ。糸塚さ、女□様、
「よし、おれが行く。」
と、冬の
「ああ、ちょっと。」
袖を開いて、お米が留めて、
「そのまま、その上からお
不精髯が――どこか昔の提灯屋に似ていたが、
「このままでかね、
「かまいませんわ。」
「構わねえたって、これ、縛るとなると。」
「うつくしいお方が、見てる前で、むざとなあ。」
「いいんですよ、構いませんから。」
この時、丸太棒が鉄のように見えた。ぶるぶると腕に力の
「よし、石も
というままに、
「えらいぞ、権太、怪我をするな。」
と、髯が小走りに、土手の方から後へ下りる。
「俺だって、出来ねえ事はなかったい、遠慮をした、えい、誰に。」
と、お米を見返って、ニヤリとして、麦藁が後に続いた。
「
そういって久助が、掻き集めた縄の
「久……爺や、爺やさん、羽織はね。式台へほうり込んで置いて
この羽織が、黒塗の華頭窓に
こんなにも、清らかなものかと思う、お米の
(――この、提灯が出ないと、ご迷惑でも話が済まない――)
信仰に頒布する、当山、本尊のお札を捧げた三宝を
「――きっと思いついた、初路さんの糸塚に手向けて帰ろう。赤蜻蛉――尾を
と、たそがれの立籠めて一際漆のような板敷を、お米の白い足袋の伝う時、
水をたっぷりと
「出来た、見事々々。お米坊、机にそうやった処は、赤絵の紫式部だね。」
「知らない、おっかさんにいいつけて叱らせてあげるから。」
「失礼。」
と、茶碗が、また、赤絵だったので、思わず失言を
「これは、大分うらに青苔がついた。悪いなあ。たたんで持つか。」
と、持ったのに、それにお米が手を添えて、
「着ますわ。」
「きられるかい、墓のを、そのまま。」
「おかわいそうな方のですもの、これ、
その優しさに、思わず胸がときめいて。
「肩をこっちへ。」
「まあ、おじさん。」
「おっかさんの名代だ、娘に着せるのに
「はい、……どうぞ。」
くるりと向きかわると、思いがけず、辻町の胸にヒヤリと髪をつけたのである。
「私、こいしい、おっかさん。」
「へい。お待遠でござりました。」
片手に
「糸塚さんへ置いて行きます、あとで気をつけて下さいましよ、烏が火を
お米も、式台へもうかかった。
「へい、もう、刻限で、
大城下は、目の下に、町の
あきない帰りの豆府屋が、ぶつかるように、ハタと留った時、
「あれ、蜻蛉が。」
お米が膝をついて、手を合せた。
あの墓石を寄せかけた、塚の糸枠の柄にかけて下山した、提灯が、山門へ出て、すこしずつ高くなり、裏山の風一通り、赤蜻蛉が
昭和十四(一九三九)年七月
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