一
柳を植えた……その柳の一処 繁った中に、清水の湧 く井戸がある。……大通り四 ツ角 の郵便局で、東京から組んで寄越 した若干金 の為替 を請取 って、三 ツ巻 に包 んで、ト先 ず懐中に及ぶ。
春は過ぎても、初夏 の日の長い、五月中旬 、午頃 の郵便局は閑 なもの。受附にもどの口にも他に立集 う人は一人もなかった。が、為替は直ぐ手取早 くは受取 れなかった。
取扱いが如何 にも気長で、
「金額は何ほどですか。差出人は誰でありますか。貴下 が御当人なのですか。」
などと間伸 のした、しかも際立 って耳につく東京の調子で行 る、……その本人は、受取口から見た処 、二十四、五の青年で、羽織 は着ずに、小倉 の袴 で、久留米 らしい絣 の袷 、白い襯衣 を手首で留めた、肥った腕の、肩の辺 まで捲手 で何とも以 て忙しそうな、そのくせ、する事は薩張 捗 らぬ。態 に似合わず悠然 と落着済 まして、聊 か権高 に見える処 は、土地の士族の子孫らしい。で、その尻上がりの「ですか」を饒舌 って、時々じろじろと下目 に見越すのが、田舎漢 だと侮 るなと言う態度の、それが明 かに窓から見透 く。郵便局員貴下 、御心安 かれ、受取人の立田織次 も、同国 の平民である。
さて、局の石段を下りると、広々とした四辻 に立った。
「さあ、何処 へ行 こう。」
何処へでも勝手に行くが可 、また何処へも行かないでも可 い。このまま、今度の帰省中転 がってる従姉 の家 へ帰っても可 いが、其処 は今しがた出て来たばかり。すぐに取って返せば、忘れ物でもしたように思うであろう。……先祖代々の墓詣 は昨日 済ますし、久しぶりで見たかった公園もその帰りに廻る。約束の会は明日 だし、好 なものは晩に食べさせる、と従姉 が言った。差当 り何の用もない。何年にも幾日 にも、こんな暢気 な事は覚えぬ。おんぶするならしてくれ、で、些 と他愛 がないほど、のびのびとした心地 。
気候は、と言うと、ほかほかが通り越した、これで赫 と日が当ると、日中は早 じりじりと来そうな頃が、近山曇 りに薄 りと雲が懸って、真綿 を日光に干 すような、ふっくりと軽い暖かさ。午頃 の蔭もささぬ柳の葉に、ふわふわと柔 い風が懸る。……その柳の下を、駈けて通る腕車 も見えず、人通りはちらほらと、都で言えば朧夜 を浮れ出したような状 だけれども、この土地ではこれでも賑 な町の分 。城趾 のあたり中空 で鳶 が鳴く、と丁 ど今が春 の鰯 を焼く匂 がする。
飯を食べに行っても可 、ちょいと珈琲 に菓子でも可 、何処 か茶店で茶を飲むでも可 、別にそれにも及ばぬ。が、袷 に羽織で身は軽し、駒下駄 は新しし、為替は取ったし、ままよ、若干金 か貸しても可 い。
「いや、串戯 は止 して……」
そうだ!小北 の許 へ行 かねばならぬ――と思うと、のびのびした手足が、きりきりと緊 って、身体 が帽子まで堅くなった。
何故 か四辺 が視 められる。
こう、小北と姓を言うと、学生で、故郷の旧友のようであるが、そうでない。これは平吉 ……平 さんと言うが早解 り。織次の亡き親父と同じ夥間 の職人である。
此処 からはもう近い。この柳の通筋 を突当りに、真蒼 な山がある。それへ向って二町 ばかり、城の大手 を右に見て、左へ折れた、屋並 の揃 った町の中ほどに、きちんとして暮しているはず。
その男を訪ねるに仔細 はないが、訪ねて行 くのに、十年越 の思出がある、……まあ、もう少し秘 して置こう。
さあ、其処 へ、となると、早や背後 から追立 てられるように、そわそわするのを、なりたけ自分で落着いて、悠々 と歩行 き出したが、取って三十という年紀 の、渠 の胸の騒ぎよう。さては今の時の暢気 さは、この浪 が立とうとする用意に、フイと静まった海らしい。
二
この通 は、渠 が生れた町とは大分間 が離れているから、軒 を並べた両側の家に、別に知己 の顔も見えぬ。それでも何かにつけて思出す事はあった。通りの中ほどに、一軒料理屋を兼ねた旅店 がある。其処 へ東京から新任の県知事がお乗込 とあるについて、向った玄関に段々 の幕を打ち、水桶 に真新しい柄杓 を備えて、恭 しく盛砂 して、門から新筵 を敷詰 めてあるのを、向側の軒下に立って視 めた事がある。通り懸 りのお百姓は、この前を過ぎるのに、
「ああっ、」といって腰をのめらして行った。……御威勢のほどは、後年地方長官会議の節 に上京なされると、電話第何番と言うのが見得 の旅館へ宿って、葱 の□ で、東京の町へ出らるる御身分とは夢にも思われない。
また夢のようだけれども、今見れば麺麭 屋になった、丁 どその硝子 窓のあるあたりへ、幕を絞って――暑くなると夜店の中へ、見世 ものの小屋が掛 った。猿芝居、大蛇、熊、盲目 の墨塗 ――(この土俵は星の下に暗かったが)――西洋手品など一廓 に、□草 の花を咲かせた――表通りへ目に立って、蜘蛛男 の見世物があった事を思出す。
額 の出た、頭の大きい、鼻のしゃくんだ、黄色い顔が、その長さ、大人 の二倍、やがて一尺、飯櫃形 の天窓 にチョン髷 を載せた、身の丈 というほどのものはない。頤 から爪先の生えたのが、金ぴかの上下 を着た処 は、アイ来た、と手品師が箱の中から拇指 で摘 み出しそうな中親仁 。これが看板で、小屋の正面に、鼠 の嫁入 に担 ぎそうな小さな駕籠 の中に、くたりとなって、ふんふんと鼻息を荒くするごとに、その出額 に蚯蚓 のような横筋を畝 らせながら、きょろきょろと、込合 う群集 を視 めて控える……口上言 がその出番に、
「太夫 いの、太夫いの。」と呼ぶと、駕籠の中で、しゃっきりと天窓 を掉立 て、
「唯今 、それへ。」
とひねこびれた声を出し、頤 をしゃくって衣紋 を造る。その身動きに、鼬 の香 を芬 とさせて、ひょこひょこと行 く足取 が蜘蛛 の巣を渡るようで、大天窓 の頸窪 に、附木 ほどな腰板が、ちょこなんと見えたのを憶起 す。
それが舞台へ懸る途端に、ふわふわと幕を落す。その時木戸 に立った多勢 の方を見向いて、
「うふん。」といって、目を剥 いて、脳天から振下 ったような、紅 い舌をぺろりと出したのを見て、織次は悚然 として、雲の蒸す月の下を家 へ遁帰 った事がある。
人間ではあるまい。鳥か、獣 か、それともやっぱり土蜘蛛 の類 かと、訪ねると、……その頃六十ばかりだった織次の祖母 さんが、
「あれはの、二股坂 の庄屋 殿じゃ。」といった。
この二股坂と言うのは、山奥で、可怪 い伝説が少くない。それを越すと隣国への近路 ながら、人界との境 を隔 つ、自然のお関所のように土地の人は思うのである。
この辺 からは、峰の松に遮 られるから、その姿は見えぬ。最 っと乾 の位置で、町端 の方へ退 ると、近山 の背後 に海がありそうな雲を隔てて、山の形が歴然 と見える。……
汽車が通じてから、はじめて帰ったので、停車場 を出た所の、故郷 は、と一目見ると、石を置いた屋根より、赤く塗った柱より、先ずその山を見て、暫時 茫然 として彳 んだのは、つい二、三日前の事であった。
腕車 を雇って、さして行 く従姉 の町より、真先に、
「あの山は?」
「二股 じゃ。」と車夫 が答えた。――織次は、この国に育ったが、用のない町端 まで、小児 の時には行 かなかったので、唯 名に聞いた、五月晴 の空も、暗い、その山。
三
その時は何んの心もなく、件 の二股を仰 いだが、此処 に来て、昔の小屋の前を通ると、あの、蜘蛛大名 が庄屋をすると、可怪 しく胸に響くのであった。
まだ、その蜘蛛大名の一座に、胴の太い、脚の短い、芋虫 が髪を結 って、緋 の腰布 を捲 いたような侏儒 の婦 が、三人ばかりいた。それが、見世ものの踊 を済まして、寝しなに町の湯へ入る時は、風呂の縁 へ両手を掛けて、横に両脚 でドブンと浸 る。そして湯の中でぶくぶくと泳ぐと聞いた。
そう言えば湯屋 はまだある。けれども、以前見覚えた、両眼 真黄色 な絵具の光る、巨大な蜈□ が、赤黒い雲の如く渦 を巻いた真中に、俵藤太 が、弓矢を挟 んで身構えた暖簾 が、ただ、男、女と上へ割って、柳湯 、と白抜きのに懸替 って、門 の目印の柳と共に、枝垂 れたようになって、折から森閑 と風もない。
人通りも殆ど途絶えた。
が、何処 ともなく、柳に暗い、湯屋の硝子戸 の奥深く、ドブンドブンと、ふと湯の煽 ったような響 が聞える。……
立淀 んだ織次の耳には、それが二股から遠く伝わる、ものの谺 のように聞えた。織次の祖母 は、見世物のその侏儒 の婦 を教えて、
「あの娘 たちはの、蜘蛛庄屋 にかどわかされて、その□ になったいの。」
と昔語りに話して聞かせた所為 であろう。ああ、薄曇りの空低く、見通しの町は浮上 ったように見る目に浅いが、故郷 の山は深い。
また山と言えば思出す、この町の賑 かな店々の赫 と明るい果 を、縦筋 に暗く劃 った一条 の路 を隔てて、数百 の燈火 の織目 から抜出 したような薄茫乎 として灰色の隈 が暗夜 に漾 う、まばらな人立 を前に控えて、大手前 の土塀 の隅 に、足代板 の高座に乗った、さいもん語りのデロレン坊主、但し長い頭髪 を額 に振分 け、ごろごろと錫 を鳴らしつつ、塩辛声 して、
「……姫松 どのはエ」と、大宅太郎光国 の恋女房が、滝夜叉姫 の山寨 に捕えられて、小賊 どもの手に松葉燻 となる処 ――樹の枝へ釣上げられ、後手 の肱 を空 に、反返 る髪を倒 に落して、ヒイヒイと咽 んで泣く。やがて夫の光国が来合わせて助けるというのが、明晩、とあったが、翌晩 もそのままで、次第に姫松の声が渇 れる。
「我が夫 いのう、光国どの、助けて給 べ。」とばかりで、この武者修業の、足の遅さ。
三晩目 に、漸 とこさと山の麓 へ着いたばかり。
織次は、小児心 にも朝から気になって、蚊帳 の中でも髣髴 と蚊燻 しの煙が来るから、続けてその翌晩も聞きに行って、汚 い弟子が古浴衣 の膝切 な奴を、胸の処 でだらりとした拳固 の矢蔵 、片手をぬい、と出し、人の顋 をしゃくうような手つきで、銭を強請 る、爪の黒い掌 へ持っていただけの小遣 を載せると、目を□ ったが、黄色い歯でニヤリとして、身体 を撫 でようとしたので、衝 と極 が悪く退 った頸 へ、大粒な雨がポツリと来た。
忽 ち大驟雨 となったので、蒼くなって駈出 して帰ったが、家 までは七、八町、その、びしょ濡れさ加減 思うべしで。
あと二夜 ばかりは、空模様を見て親たちが出さなかった。
さて晴れれば晴れるものかな。磨出 した良 い月夜に、駒 の手綱を切放 されたように飛出 して行った時は、もうデロレンの高座は、消えたか、と跡もなく、後幕 一重 引いた、あたりの土塀の破目 へ、白々 と月が射した。
茫 となって、辻に立って、前夜の雨を怨 めしく、空を仰 ぐ、と皎々 として澄渡 って、銀河一帯、近い山の端 から玉 の橋を町家 の屋根へ投げ懸ける。その上へ、真白 な形で、瑠璃 色の透 くのに薄い黄金 の輪郭した、さげ結びの帯の見える、うしろ向きで、雲のような女の姿が、すっと立って、するすると月の前を歩行 いて消えた。……織次は、かつ思いかつ歩行 いて、丁 どその辻へ来た。
四
湯屋 は郵便局の方へ背後 になった。
辻の、この辺 で、月の中空 に雲を渡る婦 の幻 を見たと思う、屋根の上から、城の大手 の森をかけて、一面にどんよりと曇った中に、一筋 真白 な雲の靡 くのは、やがて銀河になる時節も近い。……視 むれば、幼い時のその光景 を目前 に見るようでもあるし、また夢らしくもあれば、前世が兎 であった時、木賊 の中から、ひょいと覗 いた景色かも分らぬ。待て、希 くは兎でありたい。二股坂 の狸 は恐れる。
いや、こうも、他愛 のない事を考えるのも、思出すのも、小北 の許 へ行 くにつけて、人は知らず、自分で気が咎 める己 が心を、我 とさあらぬ方 へ紛 らそうとしたのであった。
さて、この辻から、以前織次の家のあった、某 ……町の方へ、大手筋 を真直 に折れて、一丁 ばかり行った処 に、小北の家がある。
両側に軒の並んだ町ながら、この小北の向側 だけ、一軒づもりポカリと抜けた、一町内の用心水 の水溜 で、石畳みは強勢 でも、緑晶色 の大溝 になっている。
向うの溝から鰌 にょろり、こちらの溝から鰌にょろり、と饒舌 るのは、けだしこの水溜 からはじまった事であろう、と夏の夜店へ行帰 りに、織次は独 りでそう考えたもので。
同一 早饒舌 りの中に、茶釜雨合羽 と言うのがある。トあたかもこの溝の左角 が、合羽屋 、は面白い。……まだこの時も、渋紙 の暖簾 が懸 った。
折から人通りが二、三人――中の一人が、彼の前を行過 ぎて、フト見返って、またひょいひょいと尻軽に歩行出 した時、織次は帽子の庇 を下げたが、瞳 を屹 と、溝の前から、件 の小北の店を透かした。
此処 にまた立留 って、少時 猶予 っていたのである。
木格子 の中に硝子戸 を入れた店の、仕事の道具は見透 いたが、弟子の前垂 も見えず、主人 の平吉が半纏 も見えぬ。
羽織の袖口 両方が、胸にぐいと上 るように両腕を組むと、身体 に勢 を入れて、つかつかと足を運んだ。
軒 から直ぐに土間 へ入って、横向きに店の戸を開けながら、
「御免なさいよ。」
「はいはい。」
と軽い返事で、身軽にちょこちょこと茶の間から出た婦 は、下膨 れの色白で、真中から鬢 を分けた濃い毛の束 ね髪 、些 と煤 びたが、人形だちの古風な顔。満更 の容色 ではないが、紺の筒袖 の上被衣 を、浅葱 の紐で胸高 にちょっと留 めた甲斐甲斐 しい女房ぶり。些 と気になるのは、この家 あたりの暮向 きでは、これがつい通りの風俗で、誰 も怪 しみはしないけれども、畳の上を尻端折 、前垂 で膝を隠したばかりで、湯具 をそのままの足を、茶の間と店の敷居で留 めて、立ち身のなりで口早 なものの言いよう。
「何処 からおいで遊ばしたえ、何んの御用で。」
と一向 気のない、空 で覚えたような口上 。言 つきは慇懃 ながら、取附 き端 のない会釈をする。
「私だ、立田 だよ、しばらく。」
もう忘れたか、覚えがあろう、と顔を向ける、と黒目がちでも勢 のない、塗ったような瞳を流して、凝 と見たが、
「あれ。」と言いさま、ぐったりと膝を支 いた。胸を衝 と反らしながら、驚いた風をして、
「どうして貴下 。」
とひょいと立つと、端折 った太脛 の包 ましい見得 ものう、ト身を返して、背後 を見せて、つかつかと摺足 して、奥の方 へ駈込みながら、
「もしえ! もしえ! ちょっと……立田様の織 さんが。」
「何、立田さんの。」
「織さんですがね。」
「や、それは。」
という平吉の声が台所で。がたがた、土間を踏む下駄 の音。
五
「さあ、お上 り遊ばして、まあ、どうして貴下 。」
とまた店口 へ取って返して、女房は立迎 える。
「じゃ、御免なさい。」
「どうぞこちらへ。」と、大きな声を出して、満面の笑顔を見せた平吉は、茶の室 を越した見通しの奥へ、台所から駈込んで、幅の広い前垂 で、濡 れた手をぐいと拭 きつつ、
「ずっと、ずっとずっとこちらへ。」ともう真中へ座蒲団 を持出して、床の間の方へ直しながら、一ツくるりと立身 で廻る。
「構っちゃ可厭 だよ。」と衝 と茶の間を抜ける時、襖 二間 の上を渡って、二階の階子段 が緩 く架 る、拭込 んだ大戸棚 の前で、入 ちがいになって、女房は店の方へ、ばたばたと後退 りに退 った。
その茶の室 の長火鉢を挟 んで、差 むかいに年寄りが二人いた。ああ、まだ達者だと見える。火鉢の向うに踞 って、その法然天窓 が、火の気の少い灰の上に冷たそうで、鉄瓶 より低い処 にしなびたのは、もう七十の上 になろう。この女房の母親 で、年紀 の相違が五十の上 、余り間があり過ぎるようだけれども、これは女房が大勢の娘の中に一番末子 である所為 で、それ、黒のけんちゅうの羽織 を着て、小さな髷 に鼈甲 の耳こじりをちょこんと極 めて、手首に輪数珠 を掛けた五十格好の婆 が背後向 に坐ったのが、その総領 の娘である。
不沙汰 見舞に来ていたろう。この婆 は、よそへ嫁附 いて今は産んだ忰 にかかっているはず。忰というのも、煙管 、簪 、同じ事を業 とする。
が、この婆娘 は虫が好かぬ。何為 か、その上、幼い記憶に怨恨 があるような心持 が、一目見ると直ぐにむらむらと起ったから――この時黄色い、でっぷりした眉 のない顔を上げて、じろりと額 で見上げたのを、織次は屹 と唯一目 。で、知らぬ顔して奥へ通った。
「南無阿弥陀仏 。」
と折から唸 るように老人 が唱 えると、婆娘 は押冠 せて、
「南無阿弥陀仏 。」と生若 い声を出す。
「さて、どうも、お珍しいとも、何んとも早や。」と、平吉は坐りも遣 らず、中腰でそわそわ。
「お忙しいかね。」と織次は構わず、更紗 の座蒲団を引寄せた。
「ははは、勝手に道楽で忙しいんでしてな、つい暇 でもございまするしね、怠 け仕事に板前 で庖丁 の腕前を見せていた所でしてねえ。ええ、織さん、この二、三日は浜で鰯 がとれますよ。」と縁 へはみ出るくらい端近 に坐ると一緒に、其処 にあった塵 を拾って、ト首を捻 って、土間に棄てた、その手をぐいと掴 んで、指を揉 み、
「何時 、当地 へ。」
「二、三日前さ。」
「雑 と十四、五年になりますな。」
「早いものだね。」
「早いにも、織さん、私 なんざもう御覧の通り爺 になりましたよ。これじゃ途中で擦違 ったぐらいでは、ちょっとお分りになりますまい。」
「否 、些 とも変らないね、相 かわらず意気 な人さ。」
「これはしたり!」
と天井抜けに、突出 す腕 で額 を叩 いて、
「はっ、恐入 ったね。東京仕込 のお世辞は強 い。人 、可加減 に願いますぜ。」
と前垂 を横に刎 ねて、肱 を突張 り、ぴたりと膝に手を支 いて向直 る。
「何、串戯 なものか。」と言う時、織次は巻莨 を火鉢にさして俯向 いて莞爾 した。面色 は凛 としながら優 しかった。
「粗末なお茶でございます、直ぐに、あの、入 かえますけれど、お一 ツ。」
と女房が、茶の室 から、半身を摺 らして出た。
「これえ、私 が事を意気な男だとお言いなさるぜ、御馳走 をしなけりゃ不可 んね。」
「あれ、もし、お膝に。」と、うっかり平吉の言う事も聞落 したらしかったのが、織次が膝に落ちた吸殻 の灰を弾 いて、はっとしたように瞼 を染めた。
六
「さて、どうも更 りましては、何んとも申訳 のない御無沙汰 で。否 、もう、そりゃ実に、烏 の鳴かぬ日はあっても、お噂 をしない日はありませんが、なあ、これえ。」
「ええ。」と言った女房の顔色の寂 しいので、烏ばかり鳴くのが分る。が、別に織次は噂をされようとも思わなかった。
平吉は畳 み掛 け、
「牛は牛づれとか言うんでえしょう。手前が何しますにつけて、これもまた、学校に縁遠 い方だったものでえすから、暑さ寒さの御見舞だけと申すのが、書けないものには、飛んだどうも、実印 を捺 しますより、事も大層になります処 から、何とも申訳 がございやせん。
何しろ、まあ、御緩 りなすって、いずれ今晩は手前どもへ御一泊下さいましょうで。」
と膝をすっと手先で撫 でて、取澄 ました風をしたのは、それに極 った、という体 を、仕方で見せたものである。
「串戯 じゃない。」と余りその見透 いた世辞の苦々 しさに、織次は我知らず打棄 るように言った。些 とその言 が激しかったか、
「え。」と、聞直 すようにしたが、忽 ち唇の薄笑 。
「ははあ、御同伴 の奥さんがお待兼 ねで。」
「串戯じゃない。」
と今度は穏 かに微笑 んで、
「そんなものがあるものかね。」
「そんなものとは?」
「貴下 、まだ奥様 はお持ちなさりませんの。」
と女房、胸を前へ、手を畳にす。
織次は巻莨 を、ぐいと、さし捨てて、
「持つもんですか。」
「織さん。」
と平吉は薄く刈揃 えた頭を掉 って、目を据 えた。
「まだ、貴下 、そんな事を言っていますね。持つものか! なんて貴下 、一生持たないでどうなさる。……また、こりゃお亡くなんなすった父様 に代 って、一説法 せにゃならん。例の晩酌 の時と言うとはじまって、貴下 が殊 の外 弱らせられたね。あれを一つ遣 りやしょう。」
と片手で小膝をポンと敲 き、
「飲みながらが可 い、召飯 りながら聴聞 をなさい。これえ、何を、お銚子 を早く。」
「唯 、もう燗 けてござりえす。」と女房が腰を浮かす、その裾端折 で。
織次は、酔った勢 で、とも思う事があったので、黙っていた。
「ぬたをの……今、私 が擂鉢 に拵 えて置いた、あれを、鉢に入れて、小皿を二つ、可 いか、手綺麗 に装 わないと食えぬ奴さね。……もう不断 、本場で旨 いものを食 りつけてるから、田舎料理なんぞお口には合わん、何にも入 らない、ああ、入 らないとも。」
と独 りで極 めて、もじつく女房を台所へ追立 てながら、
「織さん、鰯 のぬただ、こりゃ御存じの通り、他国にはない味です。これえ、早くしなよ。」
ああ、しばらく。座にその鰯 の臭気のない内 、言わねばならぬ事がある……
「あの、平さん。」
と織次は若々しいもの言いした。
「此家 に何だね、僕ン許 のを買ってもらった、錦絵 があったっけね。」
「へい、錦絵。」と、さも年久 しい昔を見るように、瞳 を凝 と上へあげる。
「内 で困って、……今でも貧乏は同一 だが。」
と織次は屹 と腕を拱 んだ。
「私が学校で要 る教科書が買えなかったので、親仁 が思切 って、阿母 の記念 の錦絵を、古本屋に売ったのを、平さんが買戻 して、蔵 っといてくれた。その絵の事だよ。」
時雨 の雲の暗い晩、寂しい水菜 で夕餉 が済む、と箸 も下に置かぬ前 から、織次はどうしても持たねばならない、と言って強請 った、新撰物理書 という四冊ものの黒表紙。これがなければ学校へ通 われぬと言うのではない。科目は教師が黒板 に書いて教授するのを、筆記帳へ書取 って、事は足りたのであるが、皆 が持ってるから欲しくてならぬ。定価がその時金 八十銭と、覚えている。
七
親父はその晩、一合の酒も飲まないで、燈火 の赤黒い、火屋 の亀裂 に紙を貼った、笠の煤 けた洋燈 の下 に、膳を引いた跡を、直ぐ長火鉢の向うの細工場 に立ちもせず、袖 に継 のあたった、黒のごろの半襟 の破れた、千草色 の半纏 の片手を懐 に、膝を立てて、それへ頬杖 ついて、面長 な思案顔を重そうに支 えて黙然 。
ちょっと取着端 がないから、
「だって、欲 いんだもの。」と言い棄てに、ちょこちょこと板の間 を伝って、だだッ広い、寒い台所へ行 く、と向うの隅 に、霜 が見える……祖母 さんが頭巾 もなしの真白な小さなおばこで、皿小鉢を、がちがちと冷 い音で洗ってござる。
「買っとくれよ、よう。」
と聞分 けもなく織次がその袂 にぶら下った。流 は高い。走りもとの破れた芥箱 の上下 を、ちょろちょろと鼠が走って、豆洋燈 が蜘蛛 の巣の中に茫 とある……
「よう、買っとくれよ、お弁当は梅干 で可 いからさ。」
祖母 は、顔を見て、しばらく黙って、
「おお、どうにかして進ぜよう。」
と洗いさした茶碗をそのまま、前垂 で手を拭 き拭き、氷のような板の間を、店の畳へ引返 して、火鉢の前へ、力なげに膝をついて、背後 向きに、まだ俯向 いたなりの親父を見向いて、
「の、そうさっしゃいよ。」
「なるほど。」
「他の事ではない、あの子も喜ぼう。」
「それでは、母親 、御苦労でございます。」
「何んの、お前。」
と納戸 へ入って、戸棚から持出した風呂敷包 が、その錦絵 で、国貞 の画が二百余枚、虫干 の時、雛祭 、秋の長夜 のおりおりごとに、馴染 の姉様 三千で、下谷 の伊達者 、深川 の婀娜者 が沢山 いる。
祖母 さんは下に置いて、
「一度見さっしゃるか。」と親父に言った。
「いや、見ますまい。」
と顔を背向 ける。
祖母 は解 き掛 けた結目 を、そのまま結 えて、ちょいと襟 を引合わせた。細い半襟 の半纏 の袖 の下に抱 えて、店のはずれを板の間から、土間へ下りようとして、暗い処 で、
「可哀 やの、姉様 たち。私 が許 を離れてもの、蜘蛛男 に買われさっしゃるな、二股坂 へ行 くまいぞ。」
と小さな声して言聞 かせた。織次は小児心 にも、その絵を売って金子 に代えるのである、と思った。……顔馴染 の濃い紅 、薄紫 、雪の膚 の姉様 たちが、この暗夜 を、すっと門 を出る、……と偶 と寂しくなった。が、紅 、白粉 が何んのその、で、新撰物理書の黒表紙が、四冊並んで、目の前で、ひょい、と躍 った。
「待ってござい、織 や。」
ごろごろと静かな枢戸 の音。
台所を、どどんがたがた、鼠が荒野 と駈廻 る。
と祖母 が軒先から引返して、番傘 を持って出直 す時、
「あのう、台所の燈 を消しといてくらっしゃいよ、の。」
で、ガタリと門 の戸がしまった。
コトコトと下駄 の音して、何処 まで行 くぞ、時雨 の脚 が颯 と通る。あわれ、祖母 に導かれて、振袖 が、詰袖 が、褄 を取ったの、裳 を引いたの、鼈甲 の櫛 の照々 する、銀の簪 の揺々 するのが、真白な脛 も露わに、友染 の花の幻めいて、雨具もなしに、びしゃびしゃと、跣足 で田舎の、山近 な町の暗夜 を辿 る風情 が、雨戸の破目 を朦朧 として透 いて見えた。
それも科学の権威である。物理書というのを力に、幼い眼 を眩 まして、その美しい姉様たちを、ぼったて、ぼったて、叩き出した、黒表紙のその状 を、後 に思えば鬼であろう。
台所の灯 は、遙 に奥山家 の孤家 の如くに点 れている。
トその壁の上を窓から覗 いて、風にも雨にも、ばさばさと髪を揺 って、団扇 の骨ばかりな顔を出す……隣の空地の棕櫚 の樹が、その夜は妙に寂 として気勢 も聞えぬ。
鼠も寂莫 と音を潜 めた。……
八
台所と、この上框 とを隔ての板戸 に、地方 の習慣 で、蘆 の簾 の掛ったのが、破れる、断 れる、その上、手の届かぬ何年かの煤 がたまって、相馬内裏 の古御所 めく。
その蔭に、遠い灯 のちらりとするのを背後 にして、お納戸色 の薄い衣 で、ひたと板戸に身を寄せて、今出て行った祖母 の背後影 を、凝 と見送る状 に彳 んだ婦 がある。
一目見て、幼い織次はこの現世 にない姿を見ながら、驚きもせず、しかし、とぼんとして小さく立った。
その小児 に振向 けた、真白な気高い顔が、雪のように、颯 と消える、とキリキリキリ――と台所を六角 に井桁 で仕切った、内井戸 の轆轤 が鳴った。が、すぐに、かたりと小皿が響いた。
流 の処 に、浅葱 の手絡 が、時ならず、雲から射す、濃い月影のようにちらちらして、黒髪 のおくれ毛がはらはらとかかる、鼻筋のすっと通 った横顔が仄見 えて、白い拭布 がひらりと動いた。
「織坊 。」
と父が呼んだ。
「あい。」
ばたばたと駈出して、その時まで同じ処 に、画 に描 いたように静 として動かなかった草色 の半纏 に搦附 く。
「ああ、阿母 のような返事をする。肖然 だ、今の声が。」
と膝へ抱く。胸に附着 き、
「台所に母様 が。」
「ええ!」と父親が膝を立てた。
「祖母 さんの手伝いして。」
親父は、そのまま緊乎 と抱いて、
「織坊、本を買って、何を習う。」
「ああ、物理書を皆 読むとね、母様 のいる処 が分るって、先生がそう言ったよ。だから、早く欲しかったの、台所にいるんだもの、もう買わなくとも可 い。……おいでよ、父上 。」
と手を引張 ると、猶予 いながら、とぼとぼと畳に空足 を踏んで、板の間 へ出た。
その跫音 より、鼠の駈ける音が激しく、棕櫚 の骨がばさりと覗 いて、其処 に、手絡 の影もない。
織次はわっと泣出した。
父は立ちながら背 を擦 って、わなわな震えた。
雨の音が颯 と高い。
「おお、冷 え、本降 、本降。」
と高調子 で門を入ったのが、此処 に差向 ったこの、平吉の平 さんであった。
傘 をがさりと掛けて、提灯 をふっと消す、と蝋燭 の匂 が立って、家中 仏壇の薫 がした。
「呀 ! 世話場 だね、どうなすった、父 さん。お祖母 は、何処 へ。」
で、父が一伍一什 を話すと――
「立替 えましょう、可惜 ものを。七貫や八貫で手離すには当りゃせん。本屋じゃ幾干 に買うか知れないけれど、差当 り、その物理書というのを求めなさる、ね、それだけ此処 にあれば可 い訳 だ、と先ず言った訳 だ。先方 の買直 がぎりぎりの処 なら買戻 すとする。……高く買っていたら破談にするだ、ね。何しろ、ここは一ツ、私に立替えさしてお置きなさい。……そらそら、はじめたはじめた、お株が出たぜえ。こんな事に済まぬも義理もあったものかね、ええ、君。」
と太 く書生ぶって、
「だから、気が済まないなら、預け給え。僕に、ね、僕は構わん。構わないけれど、唯 立替えさして気が済まない、と言うんなら、その金子 の出来るまで、僕が預かって置けば可 うがしょう。さ、それで極 った。……一ツ莞爾 としてくれ給え。君、しかし何んだね、これにつけても、小児 に学問なんぞさせねえが可 いじゃないかね。くだらない、もうこれ織公 も十一、吹□ ばたばたは勤まるだ。二銭三銭の足 にはなる。ソレ直ぐに鹿尾菜 の代 が浮いて出ようというものさ。……実の処 、僕が小指 の姉なんぞも、此家 へ一人二度目妻 を世話しようといってますがね、お互にこの職人が小児 に本を買って遣 る苦労をするようじゃ、末 を見込んで嫁入 がないッさ。ね、祖母 が、孫と君の世話をして、この寒空 に水仕事だ。
因果な婆さんやないかい、と姉がいつでも言ってます。」……とその時言った。
――その姉と言うのが、次室 の長火鉢の処 に来ている。――
九
そこへ、祖母 が帰って来たが、何んにも言わず、平吉に挨拶 もせぬ先に、
「さあ」と言って、本を出す。
織次は飛んで獅子の座へ直 った勢 。上から新撰に飛付 く、と突 のめったようになって見た。黒表紙には綾 があって、艶 があって、真黒な胡蝶 の天鵝絨 の羽のように美しく……一枚開くと、きらきらと字が光って、細流 のように動いて、何がなしに、言いようのない強い薫 が芬 として、目と口に浸込 んで、中に描 いた器械の図などは、ずッしり鉄 の楯 のように洋燈 の前に顕 れ出 でて、絵の硝子 が燐 と光った。
さて、祖母 の話では、古本屋は、あの錦絵 を五十銭から直 を付け出して、しまいに七十五銭よりは出せぬと言う。きなかもその上はつかぬと断 る。欲 い物理書は八十銭。何でも直ぐに買って帰って、孫が喜ぶ顔を見たさに、思案に余って、店端 に腰を掛けて、時雨 に白髪 を濡らしていると、其処 の亭主が、それでは婆さんこうしなよ。此処 にそれ、はじめの一冊だけ、ちょっと表紙に竹箆 の折返しの跡をつけた、古本の出物 がある。定価から五銭引いて、丁 どに鍔 を合わせて置く。で、孫に持って行って遣 るが可 い、と捌 きを付けた。国貞 の画が雑 と二百枚、辛 うじてこの四冊の、しかも古本と代ったのである。
平吉はいきり出した。何んにも言うなで、一円出した。
「織坊 、母様 の記念 だ。お祖母 さんと一緒に行って、今度はお前が、背負 って来い。」
「あい。」
とその四冊を持って立つと、
「路 が悪い、途中で落して汚すとならぬ、一冊だけ持って来さっしゃい、また抱いて寝るのじゃの。」
と祖母 も莞爾 して、嫁の記念 を取返す、二度目の外出 はいそいそするのに、手を曳 かれて、キチンと小口 を揃えて置いた、あと三冊の兄弟を、父の膝許 に残しながら、出しなに、台所を竊 と覗 くと、灯 は棕櫚 の葉風 に自 から消えたと覚 しく……真の暗がりに、もう何んにも見えなかった。
雨は小止 で。
織次は夜道をただ、夢中で本の香 を嗅 いで歩行 いた。
古本屋は、今日この平吉の家 に来る時通った、確か、あの湯屋 から四、五軒手前にあったと思う。四辻 へ行 く時分に、祖母 が破傘 をすぼめると、蒼 く光って、蓋 を払ったように月が出る。山の形は骨ばかり白く澄 んで、兎 のような雲が走る。
織次は偶 と幻に見た、夜店の頃の銀河の上の婦 を思って、先刻 とぼとぼと地獄へ追遣 られた大勢の姉様 は、まさに救われてその通り天にのぼる、と心が勇む。
一足先へ駈出して、見覚えた、古本屋の戸へ附着 いたが、店も大戸 も閉っていた。寒さは寒し、雨は降ったり、町は寂 として何処 にも灯 の影は見えぬ。
「もう寝たかの。」
と祖母 がせかせかござって、
「御許 さい、御許さい。」
と遠慮らしく店頭 の戸を敲 く。
天窓 の上でガッタリ音して、
「何んじゃ。」
と言う太い声。箱のような仕切戸 から、眉の迫った、頬の膨 れた、への字の口して、小鼻の筋から頤 へかけて、べたりと薄髯 の生えた、四角な顔を出したのは古本屋の亭主で。……この顔と、その時の口惜 さを、織次は如何 にしても忘れられぬ。
絵はもう人に売った、と言った。
見知越 の仁 ならば、知らせて欲 い、何処 へ行って頼みたい、と祖母 が言うと、ちょいちょい見懸ける男だが、この土地のものではねえの。越後 へ行 く飛脚だによって、脚 が疾 い。今頃はもう二股 を半分越したろう、と小窓に頬杖 を支 いて嘲笑 った。
縁 の早い、売口 の美 い別嬪 の画 であった。主 が帰って間 もない、店の燈許 へ、あの縮緬着物 を散らかして、扱帯 も、襟 も引 さらげて見ている処 へ、三度笠 を横っちょで、てしま茣蓙 、脚絆穿 、草鞋 でさっさっと遣 って来た、足の高い大男が通りすがりに、じろりと見て、いきなり価 をつけて、ずばりと買って、濡 らしちゃならぬと腰づけに、きりりと、上帯 を結び添えて、雨の中をすたすたと行方 知れずよ。……
「分ったか、お婆々 。」と言った。
十
断念 めかねて、祖母 が何か二ツ三ツ口を利くと、挙句 の果 が、
「老耄婆 め、帰れ。」
と言って、ゴトンと閉めた。
祖母 が、ト目を擦 った帰途 。本を持った織次の手は、氷のように冷めたかった。そこで、小さな懐中 へ小口 を半分差込 んで、圧 えるように頤 をつけて、悄然 とすると、辻 の浪花節 が語った……
「姫松 殿がエ。」
が暗 から聞える。――織次は、飛脚に買去 られたと言う大勢の姉様 が、ぶらぶらと甘干 の柿のように、樹の枝に吊下 げられて、上 げつ下 ろしつ、二股坂 で苛 まれるのを、目のあたりに見るように思った。
とやっぱり芬 とする懐中 の物理書が、その途端に、松葉の燻 る臭気 がし出した。
固 より口実、狐が化けた飛脚でのうて、今時 町を通るものか。足許 を見て買倒 した、十倍百倍の儲 が惜 さに、貉 が勝手なことを吐 く。引受 けたり平吉が。
で、この平さんが、古本屋の店へ居直って、そして買戻 してくれた錦絵 である。
が、その後 、折を見て、父が在世 の頃も、その話が出たし、織次も後 に東京から音信 をして、引取 ろう、引取ろうと懸合 うけれども、ちるの、びるので纏 まらず、追っかけて追詰 めれば、片音信 になって埒 が明かぬ。
今日こそ何んでも、という意気込 みであった。
さて、その事を話し出すと、それ、案の定、天井睨 みの上睡 りで、ト先ず空惚 けて、漸 と気が付いた顔色 で、
「はあ、あの江戸絵 かね、十六、七年、やがて二昔 、久しいもんでさ、あったっけかな。」
と聞きも敢 えず……
「ないはずはないじゃないか、あんなに頼んで置いたんだから。……」と何故 かこの絵が、いわれある、活ける恋人の如く、容易 くは我が手に入 らない因縁 のように、寝覚めにも懸念して、此家 へ入るのに肩を聳 やかしたほど、平吉がかかる態度に、織次は早や躁立 ち焦 る。
平吉は他処事 のように仰向 いて、
「なあ、これえ。」
と戸棚の前で、膳ごしらえする女房を頤 で呼んで、
「知るまいな。忘れたろうよ、な、な、お前も、あの、江戸絵さ、蔵の中にあったっけか。」
「唯 、ござりえす、出しますかえ。」と女房は判然 言った。
「難有 う、お琴 さん。」
とはじめて親しげに名を言って、凝 と振向くと、浪 の浅葱 の暖簾越 に、また颯 と顔を赧 らめた処 は、どうやら、あの錦絵の中の、その、どの一人かに俤 が幽 に似通 う。……
「お一つ。」
とそこへ膳を直 して銚子 を取った。変れば変るもので、まだ、七八 ツ九 ツばかり、母が存生 の頃の雛祭 には、緋 の毛氈 を掛けた桃桜 の壇の前に、小さな蒔絵 の膳に並んで、この猪口 ほどな塗椀 で、一緒に蜆 の汁 を替えた時は、この娘が、練物 のような顔のほかは、着くるんだ花の友染 で、その時分から円 い背を、些 と背屈 みに座る癖 で、今もその通りなのが、こうまで変った。
平吉は既 う五十の上、女房はまだ二十 の上を、二ツか、多くて三ツであろう。この姉だった平吉の前 の家内が死んだあとを、十四、五の、まだ鳥も宿らぬ花が、夜半 の嵐に散らされた。はじめ孫とも見えたのが、やがて娘らしく、妹らしく、こうした処 では肖 しくなって、女房ぶりも哀 に見える。
これも飛脚に攫 われて、平吉の手に捕われた、一枚の絵であろう。
いや、何んにつけても、早く、とまた屹 と居直ると、女房の返事に、苦い顔して、横睨 みをした平吉が、
「だが、何だぜ、これえ、何それ、何、あの貸したきりになってるはずだぜ。催促はするがね……それ、な、これえ。まだ、あのまま返って来ないよ、そうだよ。ああ、そうだよ。」
と幾度 も一人で合点 み、
「ええ、織さん、いや、どうも、あの江戸絵ですがな、近所合壁 、親類中の評判で、平吉が許 へ行ったら、大黒柱より江戸絵を見い、という騒ぎで、来るほどに、集 るほどに、丁 と片時 も落着いていた験 はがあせん。」
と蔵の中に、何とやらと言った、その口の下……
「手前 じゃ、まあ、持物 と言ったようなものの、言わばね、織さん、何んですわえ。それ、貴下 から預かっているも同然な品なんだから、出入れには、自然、指垢 、手擦 、つい汚れがちにもなりやしょうで、見せぬと言えば喧嘩 になる……弱るの何んの。そこで先ず、貸したように、預けたように、余所 の蔵に秘 ってありますわ。ところが、それ。」
と、これも気色 ばんだ女房の顔を、兀上 った額越 に、ト睨 って、
「その蔵持 の家 には、手前が何でさ、……些 とその銭式 の不義理があって、当分顔の出せない、といったような訳 で、いずれ、取って来ます。取って来るには取って来ますが、ついちょっと、ソレ銭式 の事ですからな。
それに、織さん、近頃じゃ価 が出ましたっさ。錦絵 は……唯 た一枚が、雑とあの当時の二百枚だってね、大事のものです。貴下 にも大事のもので、またこっちも大事のものでさ。価 は惜 まぬ、ね、価 は惜まぬから手放さないか、と何度 も言われますがね、売るものですか。そりゃ売らない。憚 りながら平吉売らないね。預りものだ、手放して可 いものですかい。
けれども、おいそれとは今言ったような工合ですから、いずれ、その何んでさ。ま、ま、めし飲 れ、熱い処 を。ね、御緩 り。さあ、これえ、お焼物 がない。ええ、間抜けな、ぬたばかり。これえ、御酒 に尾頭 は附物 だわ。ぬたばかり、いやぬたぬたとぬたった婦 だ。へへへへへ、鰯 を焼きな、気は心よ、な、鰯をよ。」
と何か言いたそうに、膝で、もじもじして、平吉の額 をぬすみ見る女房の様 は、湯船 へ横飛びにざぶんと入る、あの見世物の婦 らしい。これも平吉に買われたために、姿まで変ったのであろう。
坐り直って、
「あなたえ。」
と怨 めしそうな、情 ない顔をする。
ぎょろりと目を剥 き、険 な面 で、
「これえ。」と言った。
が、鰯 の催促をしたようで。
「今、焼いとるんや。」
と隣室 の茶の室 で、女房の、その、上の姉が皺 びた声。
「なんまいだ。」
と婆 が唱 える。……これが――「姫松殿 がえ。」と耳を貫く。……称名 の中から、じりじりと脂肪 の煮える響 がして、腥 いのが、むらむらと来た。
この臭気 が、偶 と、あの黒表紙に肖然 だと思った。
とそれならぬ、姉様 が、山賊の手に松葉燻 しの、乱るる、揺 めく、黒髪 までが目前 にちらつく。
織次は激 くいった。
「平吉、金子 でつく話はつけよう。鰯 は待て。」
柳を植えた……その柳の
春は過ぎても、
取扱いが
「金額は何ほどですか。差出人は誰でありますか。
などと
さて、局の石段を下りると、広々とした
「さあ、
何処へでも勝手に行くが
気候は、と言うと、ほかほかが通り越した、これで
飯を食べに行っても
「いや、
そうだ!
こう、小北と姓を言うと、学生で、故郷の旧友のようであるが、そうでない。これは
その男を訪ねるに
さあ、
二
この
「ああっ、」といって腰をのめらして行った。……御威勢のほどは、後年地方長官会議の
また夢のようだけれども、今見れば
「
「
とひねこびれた声を出し、
それが舞台へ懸る途端に、ふわふわと幕を落す。その時
「うふん。」といって、目を
人間ではあるまい。鳥か、
「あれはの、
この二股坂と言うのは、山奥で、
この
汽車が通じてから、はじめて帰ったので、
「あの山は?」
「
三
その時は何んの心もなく、
まだ、その蜘蛛大名の一座に、胴の太い、脚の短い、
そう言えば
人通りも殆ど途絶えた。
が、
「あの
と昔語りに話して聞かせた
また山と言えば思出す、この町の
「……
「我が
織次は、
あと
さて晴れれば晴れるものかな。
四
辻の、この
いや、こうも、
さて、この辻から、以前織次の家のあった、
両側に軒の並んだ町ながら、この小北の
向うの溝から
折から人通りが二、三人――中の一人が、彼の前を
羽織の
「御免なさいよ。」
「はいはい。」
と軽い返事で、身軽にちょこちょこと茶の間から出た
「
と
「私だ、
もう忘れたか、覚えがあろう、と顔を向ける、と黒目がちでも
「あれ。」と言いさま、ぐったりと膝を
「どうして
とひょいと立つと、
「もしえ! もしえ! ちょっと……立田様の
「何、立田さんの。」
「織さんですがね。」
「や、それは。」
という平吉の声が台所で。がたがた、土間を踏む
五
「さあ、お
とまた
「じゃ、御免なさい。」
「どうぞこちらへ。」と、大きな声を出して、満面の笑顔を見せた平吉は、茶の
「ずっと、ずっとずっとこちらへ。」ともう真中へ
「構っちゃ
その茶の
が、この
「
と折から
「
「さて、どうも、お珍しいとも、何んとも早や。」と、平吉は坐りも
「お忙しいかね。」と織次は構わず、
「ははは、勝手に道楽で忙しいんでしてな、つい
「
「二、三日前さ。」
「
「早いものだね。」
「早いにも、織さん、
「
「これはしたり!」
と天井抜けに、
「はっ、
と
「何、
「粗末なお茶でございます、直ぐに、あの、
と女房が、茶の
「これえ、
「あれ、もし、お膝に。」と、うっかり平吉の言う事も
六
「さて、どうも
「ええ。」と言った女房の顔色の
平吉は
「牛は牛づれとか言うんでえしょう。手前が何しますにつけて、これもまた、学校に
何しろ、まあ、
と膝をすっと手先で
「
「え。」と、
「ははあ、
「串戯じゃない。」
と今度は
「そんなものがあるものかね。」
「そんなものとは?」
「
と女房、胸を前へ、手を畳にす。
織次は
「持つもんですか。」
「織さん。」
と平吉は薄く
「まだ、
と片手で小膝をポンと
「飲みながらが
「
織次は、酔った
「ぬたをの……今、
と
「織さん、
ああ、しばらく。座にその
「あの、平さん。」
と織次は若々しいもの言いした。
「
「へい、錦絵。」と、さも
「
と織次は
「私が学校で
七
親父はその晩、一合の酒も飲まないで、
ちょっと
「だって、
「買っとくれよ、よう。」
と
「よう、買っとくれよ、お弁当は
「おお、どうにかして進ぜよう。」
と洗いさした茶碗をそのまま、
「の、そうさっしゃいよ。」
「なるほど。」
「他の事ではない、あの子も喜ぼう。」
「それでは、
「何んの、お前。」
と
「一度見さっしゃるか。」と親父に言った。
「いや、見ますまい。」
と顔を
「
と小さな声して
「待ってござい、
ごろごろと静かな
台所を、どどんがたがた、鼠が
と
「あのう、台所の
で、ガタリと
コトコトと
それも科学の権威である。物理書というのを力に、幼い
台所の
トその壁の上を窓から
鼠も
八
台所と、この
その蔭に、遠い
一目見て、幼い織次はこの
その
「
と父が呼んだ。
「あい。」
ばたばたと駈出して、その時まで同じ
「ああ、
と膝へ抱く。胸に
「台所に
「ええ!」と父親が膝を立てた。
「
親父は、そのまま
「織坊、本を買って、何を習う。」
「ああ、物理書を
と手を
その
織次はわっと泣出した。
父は立ちながら
雨の音が
「おお、
と
「
で、父が
「
と
「だから、気が済まないなら、預け給え。僕に、ね、僕は構わん。構わないけれど、
因果な婆さんやないかい、と姉がいつでも言ってます。」……とその時言った。
――その姉と言うのが、
九
そこへ、
「さあ」と言って、本を出す。
織次は飛んで獅子の座へ
さて、
平吉はいきり出した。何んにも言うなで、一円出した。
「
「あい。」
とその四冊を持って立つと、
「
と
雨は
織次は夜道をただ、夢中で本の
古本屋は、今日この平吉の
織次は
一足先へ駈出して、見覚えた、古本屋の戸へ
「もう寝たかの。」
と
「
と遠慮らしく
「何んじゃ。」
と言う太い声。箱のような
絵はもう人に売った、と言った。
「分ったか、お
十
「
と言って、ゴトンと閉めた。
「
が
とやっぱり
で、この平さんが、古本屋の店へ居直って、そして
が、その
今日こそ何んでも、という
さて、その事を話し出すと、それ、案の定、
「はあ、あの
と聞きも
「ないはずはないじゃないか、あんなに頼んで置いたんだから。……」と
平吉は
「なあ、これえ。」
と戸棚の前で、膳ごしらえする女房を
「知るまいな。忘れたろうよ、な、な、お前も、あの、江戸絵さ、蔵の中にあったっけか。」
「
「
とはじめて親しげに名を言って、
「お一つ。」
とそこへ膳を
平吉は
これも飛脚に
いや、何んにつけても、早く、とまた
「だが、何だぜ、これえ、何それ、何、あの貸したきりになってるはずだぜ。催促はするがね……それ、な、これえ。まだ、あのまま返って来ないよ、そうだよ。ああ、そうだよ。」
と
「ええ、織さん、いや、どうも、あの江戸絵ですがな、
と蔵の中に、何とやらと言った、その口の下……
「
と、これも
「その
それに、織さん、近頃じゃ
けれども、おいそれとは今言ったような工合ですから、いずれ、その何んでさ。ま、ま、めし
と何か言いたそうに、膝で、もじもじして、平吉の
坐り直って、
「あなたえ。」
と
ぎょろりと目を
「これえ。」と言った。
が、
「今、焼いとるんや。」
と
「なんまいだ。」
と
この
とそれならぬ、
織次は
「平吉、
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