一
「ちらちらちらちら雪の降る中へ、松明 がぱっと燃えながら二本――誰も言うことでございますが、他 にいたし方もありませんや。真白 な手が二つ、悚然 とするほどな婦 が二人……もうやがてそこら一面に薄 り白くなった上を、静 に通って行 くのでございます。正体は知れていても、何しろそれに、所が山奥でございましょう。どうもね、余り美しくって物凄 うございました。」
と鋳掛屋 が私たちに話した。
いきなり鋳掛屋が話したでは、ちと唐突 に過ぎる。知己 になってこの話を聞いた場所と、そのいきさつをちょっと申陳 べる。けれども、肝心な雪女郎と山姫が長襦袢 で顕 れたようなお話で、少くとも御覧の方はさきをお急ぎ下さるであろうと思う、で、簡単にその次第を申上げる。
所は信州姨捨 の薄暗い饂飩屋 の二階であった。――饂飩屋さえ、のっけに薄暗いと申出るほどであるから、夜の山の暗い事思うべしで。……その癖、可笑 いのは、私たちは月を見ると言って出掛けたのである。
別に迷惑を掛けるような筋ではないから、本名で言っても差支えはなかろう。その時の連 は小村雪岱 さんで、双方あちらこちらの都合上、日取が思う壺 にはならないで、十一月の上旬、潤年 の順におくれた十三夜の、それも四日ばかり過ぎた日の事であった。
――居待月である。
一杯飲んでいる内には、木賊 刈るという歌のまま、研 かれ出 づる秋の夜 の月となるであろうと、その気で篠 ノ井で汽車を乗替えた。が、日の短い頃であるから、五時そこそこというのにもうとっぷりと日が暮れて、間は稲荷山 ただ一丁場 だけれども、線路が上りで、進行が緩い処へ、乗客が急に少く、二人三人と数えるばかり、大 な木の葉がぱらりと落ちたようであるから、掻合 わす外套 の袖 も、妙にばさばさと音がする。外は霜であろう。山の深さも身に沁 みる。夜 さえそぞろに更け行くように思われた。
「来ましたよ。」
「二人きりですね。」
と私は言った。
名にし負う月の名所である。ここの停車場 を、月の劇場の木戸口ぐらいな心得違いをしていた私たちは、幟 や万燈 には及ばずとも、屋号をかいた弓張提灯 で、へい、茗荷屋 でございます、旅店の案内者ぐらいは出ていようと思ったの大きな見当違 。絵に描 いた木曾の桟橋 を想わせる、断崖 の丸木橋のようなプラットフォームへ、しかも下りたのはただ二人で、改札口へ渡るべき橋もない。
一人がバスケットと、一人が一升壜 を下げて、月はなけれど敷板の霜に寒い影を映しながら、あちらへ行 き、こちらへ戻り、で、小村さんが唇をちょっと曲げて、
「汽車が出ないと向うへは渡られませんよ。」
「成程。線路を突切 って行く仕掛けなんです。」
やがてむらむらと立昇る白い煙が、妙に透通って、颯 と屋根へ掛 る中を、汽車は音もしないように静 に動き出す、と漆 のごとき真暗 な谷底へ、轟 と谺 する……
「行っていらっしゃいまし……お静 に――」
と私はつい、目の前 をすれすれに行く、冷たそうに曇った汽車の窓の灯 に挨拶 した。ここへ二人きり置いて行かれるのが、山へ棄 てられるような気がして心細かったからである。
壇はあるが、深いから、首ばかり並んで霧の裡 なる線路を渡った。
「ちょっと、伺いますが。」
「はあ?」
手ランプを提げた、真黒 な扮装 の、年の少 い改札掛 わずかに一人 。
待合所の腰掛の隅には、頭から毛布 を被 ったのが、それもただ一人居る。……これが伊勢だと、あすこを狙 って吹矢を一本――と何も不平を言うのではない、旅の秋を覚えたので。――小村さんは一旦外へ出たが、出ると、すぐ、横の崖か巌 を滴る、ひたひたと清水の音に、用心のため引返して、駅員に訊いたのであった。
「その辺に旅籠屋 はありましょうか。」
「はあ、別に旅籠屋と言って、何ですな、これから下へ十四五町、……約半道 ばかり行 きますと、湯の立つ家があるですよ。外 は大概一週間に一度ぐらいなものですでなあ。」
「あの風呂を沸かしますのが。」
「さよう。」
「難有 う――少しどうも驚きました。とにかく、そこいらまで歩いてみましょう。」
と小村さんが暗がりの中を探りながら先へ立って、
「いきなり、風呂を沸かす宿屋が半道と来たんでは、一口飲ませる処とも聞きにくうございますよ。しかし何かしらありましょう……何 しろ暗い。」
と構内の柵について……灯 の百合 が咲く、大 な峰、広い谷に、はらはらとある灯 をたよりに、ものの十間 とは進まないで、口を開けて足を噛 む狼 のような巌 の径 に行悩んだ。
「どうです、いっそここへ蹲 んで、壜詰 の口を開けようじゃありませんか。」
「まさか。」
と小村さんは苦笑して、
「姨捨山、田毎 の月ともあろうものが、こんな路 で澄ましているって法はありません。きっと方角を取違えたんでしょう。お待ちなさいまし、逆に停車場 の裏の方へ戻ってみましょう。いくらか燈 が見えるようです。」
双方黒い外套が、こんがらかって引返すと、停車場 には早や駅員の影も見えぬ。毛布 かぶりの痩 せた達磨 の目ばかりが晃々 と光って、今度はどうやら羅漢に見える。
と停車場 の後 は、突然 荒寺の裏へ入った形で、芬 と身に沁 みる木 の葉の匂 、鳥の羽で撫 でられるように、さらさらと――袖が鳴った。
落葉を透かして、山懐 の小高い処に、まだ戸を鎖 さない灯 が見えた。
小村さんが、まばらな竹の木戸を、手を拡げつつ探り当てて、
「きっと飲ませますよ、この戸の工合 が気に入りました」
と勢 よく、一足先に上ったが、程もあらせず、ざわざわざわと、落葉を鳴らして落来るばかりに引返して、
「退却……」
「え、安達 ヶ原ですか。」
と聞く方が慌てている。
「いいえ爺さんですがね、一人土間で草鞋 を造っていましてね。何だ、誰じゃいッて喚 くんです。」
「いや、それは恐縮々々。」
「まことに済みません。発起人がこの様子で。」
「飛んでもない。こういう時は花道を歌で引込 むんです、柄にはありませんがね。何でしたっけ、……
可 いわけです。いよいよ路が分らなければ、停車場 で、次の汽車を待って、松本まで参りましょう。時間がありますからそこは気丈夫です。」
しかるところ、暗がりに目が馴 れたのか、空は星の上に星が重 って、底 なく晴れている――どこの峰にも銀の覆輪 はかからぬが、自 から月の出の光が山の膚 を透 すかして、巌 の欠 めも、路の石も、褐色 に薄く蒼味 を潮 して、はじめ志した方へ幽 ながら見えて来た。灯前 の木の葉は白く、陰なる朱葉 の色も浸 む。
かくして辿 りついた薄暗い饂飩屋であった。
何 しろ薄暗い。……赤黒くどんより煤 けた腰障子の、それも宵ながら朦朧 と閉っていて、よろず荒もの、うどんあり、と記した大 な字が、鼾 をかいていそうに見えた。
この店の女房が、東京ものは清潔 ずきだからと、気を利かして、正札のついた真新しい湯沸 を達引 いてくれた心意気に対しても、言われた義理ではないのだけれど。
「これは少々酷過 ぎますね。」
「ここまで来れば、あと一辛抱で、もうちとどうにかしたのがありましょう。」
実は、この段、囁 き合って、ちょうどそこが三岐 の、一方は裏山へ上る山岨 の落葉の径 。一方は崖を下る石ころ坂の急なやつ。で、その下りる方へ半町ばかりまた足探り試みたのであるが、がけの陰になって、暗さは暗し、路は悪し、灯 は遠し、思切って逆戻りにその饂飩屋を音訪 れたのであった。
「御免なさい。」
と小村さんが優しい穏 な声を掛けて、がたがたがたと入ったが、向うの対手 より土間の足許 を俯向 いて視 つつ、横にとぼとぼと歩行 いた。
灯が一つ、ぼうと赤く、宙に浮いたきりで何も分らぬ。釣 ランプだが、火屋 も笠も、煤 と一所に油煙で黒くなって正体が分らないのであった。
が凝視 める瞳で、やっと少しずつ、四辺 の黒白 が分った時、私はフト思いがけない珍らしいものを視 た。
二
框 の柱、天秤棒 を立掛けて、鍋釜 の鋳掛 の荷が置いてある――亭主が担ぐか、場合に依ってはこうした徒 の小宿 でもするか、鋳掛屋の居るに不思議はない。が、珍らしいと思ったのは、薄汚れた鬱金木綿 の袋に包んで、その荷に一挺 、紛 うべくもない、三味線を結 え添えた事である。
話に聞いた――谷を深く、麓 を狭く、山の奥へ入った村里を廻る遍路のような渠等 には、小唄浄瑠璃 に心得のあるのが少くない。行 く先々の庄屋のもの置 、村はずれの辻堂などを仮の住居 として、昼は村の註文を集めて仕事をする、傍ら夜は村里の人々に時々の流行唄 、浪花節 などをも唄って聞かせる。聞く方では、祝儀のかわりに、なくても我慢の出来る、片手とれた鍋の鋳掛も誂 えるといった寸法。小児 に飴菓子 を売って一手 踊ったり、唄ったり、と同じ格で、ものは違っても家業の愛想――盛場 の吉原にさえ、茶屋小屋のおかっぱお莨盆 に飴を売って、爺 やあっち、婆 やこっち、おんじゃらこっちりこ、ぱあぱあと、鳴物入で鮹 とおかめの小人形を踊らせた、おん爺 があったとか。同じ格だが、中には凄 いような巧 いのがあるという。
唄いながら、草や木の種子 を諸国に撒 く。……怪しい鳥のようなものだと、その三味線が、ひとりで鳴くように熟 と視 た。
「相談は整いました。」
「それは難有 い。」
「きあ、二階へどうぞ……何 しろ汚いんでございますよ。」
と、雨もりのような形が動くと、紺の上被 を着た婦 になって、ガチリと釣ランプを捻 って離して、框 から直ぐの階子段 。
小村さんが小さな声で、
「何 しろこの体 なんですから。」
「結構ですとも、行暮れました旅の修行者になりましょうね。」
「では、そのおつもりで――さあ、上 りましょう。」
と勢 よく、下駄を踏違えるトタンに、
「あっ、」と言った。
きゃんきゃんきゃん、クイ、キュウと息を引いて、きゃんきゃんきゃん、クイ、クウン、きゅうと鳴く。
見事に小狗 を踏 つけた。小村さんは狼狽 えながら、穴を覗 くように土間を透かして、
「御免よ……御免よ……仕方がない、御免なさいよ。」
で、遁 げないばかりに階子 を上 ると、続いた私も、一所にぐらぐらと揺れるのに、両手を壇の端 にしっかり縋 った。二階から女房が、
「お気をつけなさいましよ……お頭 をどうぞ……お危うございますよ、お頭を。」
「何 に。」
吻 としながら、小村さんは気競 ったように、
「踏着けられた狗から見りゃ、頭を打 つけるなんぞ何でもない。」
日頃、沈着な、謹み深いのがこれだから、余程周章 てたに違いない。
きゃんきゃんきゃん、クイッ、キュウ、きゃんきゃんきゃん、と断々 に、声が細って泣止 まない。
「身に沁 みますね、何ですか、狐が鳴いてるように聞えます。」
木地の古びたのが黒檀 に見える、卓子台 にさしむかって、小村さんは襟を合せた。
件 の油煙で真黒 で、ぽっと灯の赤いランプの下に畏 って、動くたびに、ぶるぶると畳の震う処は天変に対し、謹んで、日蝕を拝むがごとく、少なからず肝を冷しながら、
「旅はこれだから可 いんです。何も話の種です。……話の種と言えばね、小村さん。」
と、探らないと顔が分らぬ。
「はあ。」
「何ですか、この辺には、あわれな、寂しい、物語がありそうな処ですね。あの、月宵鄙物語 というのがあります、御存じでしょうけれど。」
「いいえ。」
「それはね、月見の人に、木曾の麻衣 まくり手したる坊さん、というのが、話をする趣向になっているんですがね。(更科山 の月見んとて、かしこに罷 登りけるに、大 なる巌 にかたかけて、肘 折 れ造りたる堂あり。観音を据え奉 れり。鏡台とか云う外山 に向いて、)……と云うんですから、今の月見堂の事でしょう。……きっとこの崖の半腹にありましょうよ。……そこの高欄におしかかりながら、月を待つ間 のお伽 にとて、その坊さんが話すのですが、薗原山 の木賊刈 、伏屋里 の箒木 、更科山の老桂 、千曲川 の細石 、姨捨山の姥石 なぞッて、標題 ばかりでも、妙にあわれに、もの寂しくなるのです。皆この辺の、山々谷々の事なんでしょう。何 にしろ、
と思わず言った。
釣ランプが、真新しい、明 いのに取換ったのである。
「お待遠様、……済みません。」
「どういたしまして、飛んだ御無理をお願い申して。」
女房は崩れた鬢 の黒い中から、思いのほか白い顔で莞爾 して、
「私どもでは難有 いんでございますけれども、まあ、何しろ、お月様がいらっしって下さると可いんですけれども。」
その時、一列に蒲鉾形 に反 った障子を左右に開けると、ランプの――小村さんが用心に蔓 を圧 えた――灯が一煽 、山気が颯 と座に沁みた。
「一昨晩の今頃は、二かさも三かさも大 い、真円 いお月様が、あの正面へお出 なさいましてございますよ。あれがね旦那、鏡台山 でございますがね、どうも暗うございまして。」
「音に聞いた。どれ、」
と立つと、ぐらぐらとなる……
「おっと。」
欄干につかまって、蝸牛 という身で、背を縮めながら首を伸ばし、
「漆で塗ったようだ、ぼっと霧のかかった処は研出 しだね。」
宵の明星が晃然 と蒼 い。
「あの山裾 が、左の方へ入江のように拡がって、ほんのり奥に灯 が見えるでございましょう。善光寺平 でございましてね。灯のありますのは、善光寺の町なんでございますよ。」
「何里あります。」
「八里ございます。」
「ははあ。」
「真下の谷底に、ちらちらと灯 が見えましょう、あそこが、八幡 の町でございましてね、お月見の方は、あそこから、皆さんが支度をなすって、私どもの裏の山へお上りになりますんでございますがね。鏡台山と、ちょうどさし向いになっております――おお、冷えますこと、……唯今 お火鉢を。」
「小村さん、寸法は分りました、どうなすったんです、景色も見ないで。」
と座に戻ると、小村さんは真顔で膝 に手を置いて、
「いえ、その縁側に三人揃って立ったんでは、桟敷 が落ちそうで危険 ですから。」
「まったく、これで猿楽があると、……天狗が揺り倒しそうな処です。可恐 しいね。」
と二人は顔を見合せた。
が、註文通り、火鉢に湯沸 が天上して来た、火も赫 と――この火鉢と湯沸が、前に言った正札つきなる真新しいのである。酒も銚子 だけを借りて、持参の一升壜 の燗 をするのに、女房は気障 だという顔もせず、お客冥利 に、義理にうどんを誂 えれば、乱れてもすなおに銀杏返 の鬢 を振って、
「およしなさいまし、むだな事でございます。おしたじが悪くって、めしあがられやしませんから。……何ぞお香 のものを差上げましょう。」
その心意気。
「難有 い。」
と熱燗 三杯、手酌でたてつけた顔を撫でて、
「おかみさん。」
杯をずいとさして、
「一つ申上げましょう、お知己 に……」
「私は一向に不調法ものでございまして。」
「まあ一盞 。」
「もう、全く。」
「でも、一盞 ぐらい、お酌をしましょう。」
と小村さんが銚子を持ったのに、左右に手を振って、辷 るように、しかも軋 んで遁 げ下りる。
「何だい。」
「毒だとでも思いましたかね。してみると、お互の人相が思われます。おかみさん一人きりなんでしょうかしら。」
「泊りましょうか。」
「御串戯 を。」
クイッ、キュウ、クック――と……うら悲 げに、また聞える。
「弱りました。あの狗 には。」
と小村さんはまた滅入 った。
のしのしみしり、大皿を片手に、そこへ天井を抜きそうに、ぬいと顕 れたのは、色の黒い、いが栗 で、しるし半纏 の上へ汚れくさった棒縞 の大広袖 を被 った、から脛 の毛だらけ、図体は大 いが、身の緊 った、腰のしゃんとした、鼻の隆い、目の光る……年配は四十余 で、稼盛 りの屈竟 な山賊面 ……腰にぼッ込んだ山刀の無いばかり、あの皿は何 んだ、へッへッ、生首二個 受取ろうか、と言いそうな、が、そぐわないのは、頤 に短い山羊髯 であった。
「御免なせえ……お香のものと、媽々衆 が気前を見せましたが、取っておきのこの奈良漬、こいつあ水ぽくてちと中 でがす。菜ッ葉が食えますよ。長蕪 てッて、ここら一体の名物で、異 に食えまさ、めしあがれ。――ところで、媽々衆のことづてですがな。せつかく御酒を一つと申されたものを、やけな御辞退で、何だかね、南蛮 秘法の痲痺薬 ……あの、それ、何とか伝三熊の膏薬 とか言う三題噺 を逆に行ったような工合で、旦那方のお酒に毒でもありそうな様子合 が、申訳がございません。で、居候の私 に、代理として一杯、いんえただ一つだけ。おしるしに頂戴してくれるようにと申すんで、や、も、御覧の通 、不躾 ながら罷 出ました。実はね、媽々衆、ああ見えて、浮気もんでね、亭主は旅稼ぎで留守なり、こちらのお若い方のような、おッこちが欲しさに、酒どころか、杯を禁 っておりますんでね。はッはッはッ。」
階子 の下から、伸上った声がして、
「馬鹿な事を言わねえもんだ。」
と、むきになると、まるだしの田舎なまり。
「真鍮台 め。」と言った。
「……真鍮台?……」
聞くと……真鍮台、またの名を銀流しの藤助 と言う、金箔 つきの鋳掛屋で、これが三味線の持ぬしであった。面構 でも知れる……このしたたかものが、やがて涙ぐんで……話したのである。
三
「私 はね、旦那。まだその時分、宿を取っちゃあいなかったんでございます、居酒屋、といった処で、豆腐も駄菓子も突 くるみに売っている、天井に釣 した蕃椒 の方が、燈 よりは真赤 に目に立つてッた、皺 びた店で、榾 同然の鰊 に、山家片鄙 はお極 りの石斑魚 の煮浸 、衣川 で噛 しばった武蔵坊弁慶の奥歯のようなやつをせせりながら、店前 で、やた一きめていた処でございましてね。
ちょっと私 の懐中合 と、鋳掛屋風情のこの容体では、宿が取悪 かったんでございますよ。というのが、焼山 の下で、パッと一くべ、おへッつい様を燃 したも同じで、山を越しちゃあ、別に騒動も聞えなかったんでございますが、五日ばかり前に、その温泉に火事がありました。ために、木賃らしい、この方に柄相当のなんぞ焼けていて、二三軒残ったのは、いずれも玄関附だからちとたじろいだ次第なんでございますが。
ええ……温泉でございますか、名は体をあらわすとか言います、とんだ山中 で、……狼温泉――」
「ああ、どこか、三峰山 の近所ですか。」
と、かつて美術学校の学生時代に、そのお山へ抜参 りをして、狼よりも旅費の不足で、したたか可恐 い思いをした小村さんは、聞怯 をして口を入れた……噛 むがごとく杯を銜 みながら、
「あすこじゃあ、お狗様 と言わないと山番に叱られますよ。」
藤助は真顔で、微酔 の頭 を掉 った。
「途方もねえ、見当違い、山また山を遥 に離れた、峰々、谷々……と言えばね、山の中に島々と言う処がありまさ、おかしいね。いやもっと、深い、松本から七里も深 へ入った、飛騨 の山中――心細い処で……それでも小学校もありゃ、郵便局もありましたっけが、それなんぞも焼けていたんでございましてね。
山坂を踏越えて、少々平 な盆地になった、その温泉場へ入りますと、火沙汰 はまた格別、……酷 いもので、村はずれには、落葉、枯葉、焼灰に交って、□子鳥 、頬白 、山雀 、鶸 、小雀 などと言う、紅 だ、青だ、黄色だわ、紫の毛も交って、あの綺麗な小鳥どもが、路傍 にはらはらと落ちている。こいつあ、それ、時節が今頃になりますと、よく、この信州路、木曾街道の山家には、暗い軒に、糸で編んで、ぶら下げて、美しい手鞠 が縺 れたように売ってるやつだて。それが、お前さん、火事騒ぎに散らかったんで――驚いたのは、中に交って、鴛鴦 が二羽……番 かね。……
や、頂きます、ト、ト、ごぜえやさ。」
と小村さんの酌を、蓋 するような大 な掌 で請けながら、
「どうもね、捨って抱きたいようでがしたぜ。まさか、池に泳いだり、樹に眠ったのが、火の粉を浴びはしますめえ。売ものが散らばりましたか、真赤 に染 った木の葉を枕で、目を眠っていましたよ。
天秤棒一本で、天井へ宙乗 でもするように、ふらふらふらふら、山から山を経歴 って……ええちょうど昨年の今月、日は、もっと末へ寄っておりましたが――この緋葉 の真最中 、草も雲も虹 のような彩色の中を、飽くほど視 て通った私 もね、これには足が停 りました。
なんと……綺麗な、その翼の上も、一重 敷いて、薄 り、白くなりました。この景色に舞台が換 って、雪の下から鴛鴦 の精霊が、鬼火をちらちらと燃しながら、すっと糶上 ったようにね、お前さん……唯今の、その二人の婦 が、私 の目に映りました。凄 いように美しゅうがした。」
と鋳掛屋は、肩を軟 に、胸を低うして、更 めて私たち二人を視 たが、
「で、山路へ掛 る、狼温泉の出口を通るんでございますが、場所はソレ件 の盆地だ。私 が飲んでいました有合 御肴 というお極 りの一膳めしの前なんざ、小さな原場 ぐらい小広うございますのに――それでも左右へ並ばないで、前後 になって、すっと連立って通ります。
前へ立ったのは、蓑 を着て、竹の子笠を冠 っていました。……端折った片褄 の友染 が、藁 の裙 に優しくこぼれる、稲束 の根に嫁菜が咲いたといった形。ふっさりとした銀杏返 が耳許 へばらりと乱れて、道具は少し大きゅうがすが、背がすらりとしているから、その眉毛の濃いのも、よく釣合って、抜けるほど色が白い、ちと大柄ではありますが、いかにも体つきの嫋娜 な婦 で、
(今晩は。)
と、通掛 りに、めし屋へ声を掛けて行 きました。が、※ [#「火+發」、174-5]と燃えてる松明 の火で、おくれ毛へ、こう、雪の散るのが、白い、その頬を殺 ぐようで、鮮麗 に見えて、いたいたしい。
いたいたしいと言えば、それがね、素足に上草履 。あの、旅店 で廊下を穿 かせる赤い端緒 の立ったやつで――しっとりとちと沈んだくらい落着いた婦 なんだが、実際その、心も空になるほど気の揉 めるわけがあって――思い掛けず降出した雪に、足駄でなし、草鞋 でなし、中ぶらりに右のつッかけ穿 で、ストンと落ちるように、旅館から、上草履で出たと見えます。……その癖、一生の晴着というので、母 さん譲りの裙模様、紋着 なんか着ていました。
お話をしますうちに、仔細 は追々おわかりになりますが――これが何でさ、双葉屋と言って、土地での、まず一等旅館の女中で、お道さんと言う別嬪 、以前で申せば湯女 なんだ。
いや、湯女 に見惚 れていて、肝心の御婦人が後 れました。もう一人の方は、山茶花 と小菊の花の飛模様のコオトを着て、白地の手拭 を吹流しの……妙な拵 だと思えば……道理こそ、降りかゝる雪を厭 ったも。お前さん、いま結立 てと見える高島田の水の滴 りそうなのに、対に照った鼈甲 の花笄 、花櫛 ――この拵 じゃあ、白襟に相違ねえ。お化粧も濃く、紅もさしたが、なぜか顔の色が透き通りそうに血が澄んで、品のいいのが寂しく見えます。華奢 な事は、吹つけるほどではなくても、雪を持った向風 にゃ、傘も洋傘 も持切れますめえ、被 りもしないで、湯女 と同じ竹の子笠を胸へ取って、襟を伏せて、俯向 いて行 きます。……袖の下には、お位牌 を抱いて葬礼 の施主 に立ったようで、こう[#「こう」は底本では「かう」]正しく端然 とした処は、視 る目に、神々しゅうございます。何となく容子 が四辺 を沈めて、陰気だけれど、気高いんでございますよ。
同じ人間もな……鑄掛屋を一人土間で飲 らして、納戸の炬燵 に潜込んだ、一ぜん飯の婆々 媽々 などと言う徒 は、お道さんの(今晩は。)にただ、(ふわ、)と言ったきりだ。顔も出さねえ。その(ふわ、)がね、何の事アねえ、鼠の穴から古綿が千断 れて出たようだ。」
「ちと耳が疼 いだな。」
と饂飩屋の女房が口を入れた、――女房は鋳掛屋の話に引かれて、二階の座に加わっていたのである。
「そのかわり大まかなものだよ。店の客人が、飲さしの二合壜 と、もう一本、棚より引攫 って、こいつを、丼へ突込 んで、しばらくして、婦人 たちのあとを追ってぶらりと出て行くのに、何とも言わねえ。山は深い、旦那方のおっしゃる、それ、何とかって、山中暦日なしじゃあねえ、狼温泉なんざ、いつもお正月で、人間がめでてえね。」
「ははあ。」
「成程。」
私たちは、そんな事は徒 に聞いて、さきを急いだ。
「荷はどうしたよ。」
と女房が笑って言った。
「ほい忘れた。いや、忘れたんじゃあねえ、一ぜん飯に置放 しよ。」
「それ見たか、あんな三味線だって、壜詰 二升ぐらいな値はあるでござんさあ、なあ、旦那方。」
「うむ、まったくな。」
と藤助は額を圧 えて、
「おめでてえのはこっちだっけ、はッはッはッ。」
四
「さて旦那方、洒落 や串戯 じゃあねえんでございます。……御覧の通り人間の中の変な蕈 のような、こんな野郎にも、不思議なまわり合せで、その婦 たちのあとを尾 けて行 かなけりゃならねえ一役ついていたのでございましてね。……乗掛 った船だ。鬱陶 しくもお聞きなせえ。」
すっとこ被 りで、
襟を敲 いて、
「どんつくで出ましたわ……見えがくれに行 く段取だから、急ぐにゃ当らねえ。別して先方 は足弱だ。はてな、ここらに色鳥の小鳥の空蝉 、鴛鴦 の亡骸 と言うのが有ったっけと、酒の勢 、雪なんざ苦にならねえが、赤い鼻尖 を、頬被 から突出して、へっぴり腰で嗅 ぐ工合は、夜興引 の爺 が穴一のばら銭 を探すようだ。余計な事でございますがね――性 が知れちゃいましても、何だか、婦 の二人の姿が、鴛鴦の魂がスッと抜出したようでなりませんや。この辺だっけと、今度は、雪まじりに鳥の羽より焼屑 が堆 い処を見着けて、お手向 にね、壜 の口からお酒を一雫 と思いましたが、待てよと私 あ考えた、正覚坊じゃアあるめえし、鴛鴦が酒を飲むやら、飲ねえやら。いっその事だと、手前の口へね、喇叭 と遣 った……こうすりゃ鳥の精がめしあがると同じ事だと……何しろ腹ン中は鴛鷲で一杯でございました。」
女房が肥 った膝で、畳に当って、
「藤助さんよ。」
「ああ。」
「酒の話じゃあないじゃあないかね、ねえ、旦那方。」
「何しろ、そこで。」
と、促せば、
「と二人はもう雑木林の崖に添って、上りを山路 に懸 っています。白い中を、ふつふつと、真紅 な鳥のたつように、向うへ行 く。……一軒、家だか、穴だか知れねえ、えた、非人の住んでいそうな、引傾 いだ小屋に、筵 を二枚ぶら下げて、こいつが戸になる……横の羽目に、半分ちぎれた浪花節 の比羅 がめらめらと動いているのがありました、それが宿 はずれで、もう山になります。峠を越すまで、当分のうち家らしいものはございませんや。
水の音が聞えます。ちょろちょろ水が、青いように冷く走る。山清水の小流 のへりについてあとを慕いながら、いい程合で、透かして見ると、坂も大分急になった石□道 で、誰がどっちのを解いたか、扱帯 をな、一条 、湯女 の手から後 に取って、それをその少 い貴婦人てった高島田のが、片手に控えて縋 っています……もう笠は外して脊へ掛けて……絞 の紅 いのがね、松明 が揺れる度に、雪に薄紫に颯 と冴 えながら、螺旋 の道条 にこう畝 ると、そのたびに、崖の緋葉 がちらちらと映りました、夢のようだ。
視 る奴 の方が夢のようだから、御当人たちは現 かも知れねえ。
でその二人は、そうやって、雪の夜道を山坂かけて、どこへ行くんだと思召 す。
ここだて――旦那。」
藤助は息継 に呷 と煽 って、
「この二階から、鏡台山を――(少し薄明りが映 しますぜ、月が出ましょう。まあ、御緩 りなさいまし、)――それ、こうやって視 るように、狼温泉の宿はずれの坂から横正面といった、肩でこう捻向 いて高く上を視る処に、耳はねえが、あのトランプのハアト形に頭 を押立 った梟 ヶ嶽 、梟、梟と一口に称 えて、何嶽と言うほどじゃねえ、丘が一座 、その頂辺 に、天狗の撞木杖 といった形に見える、柱が一本。……風の吹まわしで、松明の尖 がぼっと伸びると、白くなって顕 れる時は、耶蘇 の看板の十字架てったやつにも似ている……こりゃ、もし、電信柱で。
蔭に隠れて見えねえけれど、そこに一張 天幕 があります。何だと言うと、火事で焼けたがために、仮ごしらえの電信局で、温泉場から、そこへ出張 っているのでございます。
そこへ行くんだね、婦 二人は。
で、その郵便局の天幕の裡 に、この湯女 の別嬪 が、生命 がけ二年越 に思い詰めている技手の先生……ともう一人は、上州高崎の大資産家 の若旦那で、この高島田のお嬢さんの婿さんと、その二人が、いわれあって、二人を待って、対の手戟 の石突 をつかないばかり、洋服を着た、毘沙門天 、増長天 という形で、五体を緊 めて、殺気を含んで、呼吸 を詰めて、待構えているんでがしてな。
お嬢さんの方は、名を縫子さんと言うんで、申さずとも娘ッ子じゃありません、こりゃ御新姐 ……じゃあねえね――若奥様。」
五
私 は日暮前に、その天幕張 の郵便局の前を通って来たんでございますよ。……ちょうど狼の温泉へ入込 みます途中でな。……晩に雪が来ようなどとは思いも着かねえ、小春日和 といった、ぽかぽかした好 い天気。……
もっとも、甲州から木曾街道、信州路を掛けちゃあ、麓 の岐路 を、天秤 で、てくてくで、路傍 の木の葉がね、あれ性 の、いい女の、ぽうとなって少し唇の乾いたという容子 で、へりを白くして、日向 にほかほかしていて、草も乾燥 いで、足のうらが擽 ってえ、といった陽気でいながら、槍 、穂高、大天井、やけに焼 ヶ嶽などという、大薩摩 でもの凄 いのが、雲の上に重 って、天に、大波を立てている、……裏の峰が、たちまち颯 と暗くなって、雲が被 ったと思うと、箕 で煽 るように前の峰へ畝 りを立ててあびせ掛けると、浴びせておいて晴れると思えば、その裏の峰がもう晴れた処から、ひだを取って白くなります。見る見るうちに雪が掛 るんでございましてね。左右の山は、紅くなったり、黄色かったり、酔ったり、醒 めたりして、移って来るそのむら雲を待っている。
といった次第 で、雪の神様が、黒雲の中を、大 な袖を開いて、虚空を飛行 なさる姿が、遠くのその日向の路に、螽斯 ほどの小さな旅のものに、ありありと拝まれます。
だから、日向で汗ばむくらいだと言った処で、雑樹一株隔てた中には、草の枯れたのに、日が映 すかと見れば、何、瑠璃色 に小さく凝 った竜胆 が、日中 も冷い白い霜を噛 んでいます。
が、陽の赤い、その時梟ヶ嶽は、猫が日向ぼっこをしたような形で、例の、草鞋 も脚絆 も擽 ってえ。……満山のもみじの中 に、もくりと一つ、道も白く乾いて、枯草がぽかぽかする。……芳 しい落葉の香のする日の影を、まともに吸って、くしゃみが出そうなのを獅噛面 で、
(鋳掛……錠前の直し。)
すくッと立った電信柱に添って、片枝折れた松が一株、崖へのしかかって立っています、天幕張だろうが、掘立小屋だろうが、人さえ住んでいれば家業冥利 ……
(鋳掛……錠前直し。)……
と、天幕とその松のあります、ちょっと小高くなった築山 てった下を……温泉場の屋根を黒く小さく下に見て、通りがかりに、じろり……」
藤助は、ぎょろりとしながら、頬辺 を平手で敲 いて、
「この人相だ、お前さん、じろりとよりか言いようはねえてね、ト行 った時、はじめて見たのが湯女のその別嬪だ。お道さんは、半襟の掛った縞の着ものに、前垂掛 、昼夜帯、若い世話女房といった形で、その髪のいい、垢抜 のした白い顔を、神妙に俯向 いて、麁末 な椅子に掛けて、卓子 に凭掛 って、足袋を繕っていましたよ、紺足袋を……
(鋳掛……錠前の直し。)……
ちょっと顔を上げて見ましたっけ。直 に、じっと足袋を刺すだて。
動いただけになお活 きて、光沢 を持った、きめの細 な襟脚の好 さなんと言っちゃねえ。……通り切れるもんじゃあねえてね、お前さん、雲だか、風だか、ふらふらと野道山道宿なしの身のほまちだ。
一言 ぐらい口を利いて、渋茶の一杯も、あのお手からと思いましたがね、ぎょっとしたのは半分焦げたなりで天幕の端に真直 に立った看板だ。電信局としてある……
茶屋小屋、出茶屋の姉 さんじゃあねえ。風俗 はこの目で確 に睨 んだが……おやおや、お役人の奥様かい。……郵便局員の御夫人かな。
これが旦那方だと仔細 ねえ。湯茶の無心も雑作はねえ。西行法師なら歌をよみかける処だが、山家めぐりの鋳掛屋じゃあ道を聞くのも跋 が変だ。
ところで、椅子はまだ二三脚、何だか、こちとらにゃ分らねえが、ぴかぴか機械を据附けた卓子 がもう一台。向ってきちんと椅子が置いてあるが、役人らしいのは影も見えねえ。
ははあ、来る道で、向 の小山の土手腹 に伝わった、電信の鋼線 の下あたりを、木の葉の中に現れて、茶色の洋服で棒のようなものを持って、毛虫が動くように小さく歩行 いている形を視 た。……鉄砲打の鳥おどしかと思ったが、大きにそんなのが局員の先生で、この姉さんの旦那かも知れねえよ。
が何しろ留守だ。
(鋳掛……錠前直し。)……
と崖ぶちの日向 に立ったが、紺足袋の繕い。……雪の襟脚、白い手だ。悚然 とするほど身に沁みてなりませんや。
遥 に見える高山の、かげって桔梗色 したのが、すっと雪を被 いでいるにつけても。で、そこへまず荷をおろしました。
(や、えいとこさ。)と、草鞋 の裏が空へ飜 るまで、山端 へどっしりと、暖かい木の葉に腰を落した。
間拍子もきっかけも渡らねえから、ソレ向うの嶽 の雪を視 ながら、
(ああ、降ったる雪かな。)
とか何とか、うろ覚えの独言 を言ってね、お前さん、
(それ、雪は鵝毛 に似て飛んで散乱し、人は鶴□ を着て立って徘徊 すと言えり……か。)
なんのッて、ひらひらと来る紅色 の葉から、すぐに吸いつけるように煙草 を吹かした。が、何分にも鋳掛屋じゃあ納 りませんな。
ところでさて、首に巻いた手拭 を取って、払 いて、馬士 にも衣裳 だ、芳原かぶりと気取りましたさ。古三味線を、チンとかツンとか引掻鳴 らして、ここで、内証で唄ったやつでさ。
極 が悪い……何と、もし、これで別嬪の姉さんを引寄せようという腹だ、おかしな腹だ、狸 の腹だね。
だが、こいつあこちとら徒 の、すなわち狸の腹鼓という甘術 でね。不気味でも、気障 でも、何でも、聞く耳を立てるうちに、うかうかと釣出されずにゃいねえんだね。どうですえ、……それ、来ました。」
と不意に振向く、階子段 の暗い穴。
小村さんも私も慄然 した。
女房はなおの事……
「あれ、吃驚 した。」
と膝で摺寄 る。
藤助は一笑して、
「まずは、この寸法でございましてね、お道さんを引寄せた工合というのが、あはッはッ。」
六
「見ない振 、知らない振、雪の遠山 に向いて、……溶けて流れてと、唄っていながら、後方 へ来るのが自然と分るね、鹿の寄るのとは違います。……別嬪の香 がほんのりで、縹緻 に打たれて身に沁む工合が、温泉の女神様 が世話に砕けて顕 れたようでございましたぜ。……(逢いたさに見たさに)何とか唄 って、チャンと句切ると、
(あの、鋳掛屋さん。)
と、初音 だね。……
視 ると、朱塗の盆に、吸子 、茶碗を添えて持っている。黒繻子 の引掛帯 で、浅葱 の襟のその様子が何とも言えねえ。
いえ、もう一つ、盆の上に、紙に包んだ蝶々というのが載 っていました。……それがために讃 めるんじゃあねえけれど、拵 えねえで、なまめいたもんでしたぜ。人を喰ったこっちの芳原かぶりなんざ、もの欲しそうで極 りが悪くなったくらいで。
(へい、へい、へい、こりゃ奥様、恐入りました。)
とわざとらしくも、茶碗をな、両手で頂かずにゃいられなかった。
姉 さんが、初々しい、しおらしい事を、お聞きなせえ、ぽうッとなって、
(まあ、あんな事、私は奉公人なんですよ。)
さ、その奉公人風情が、生意気のようだけれど、唄をもう一つ唄って聞かしてもらえまいか、と言うんじゃありませんかい。お眺 が註文にはまった。こんな処でよろしければ、山で樹の数、幾つだって構やあしませんと、……今度は(浮世はなれて奥山ずまい、恋もりん気も忘れていたが、)……で御機嫌を取結ぶと、それよりか、やっぱり、先 の(やがて嬉しく溶けて流れて合うのじゃわいな)の方を聞かして欲しいと、山姫様、御意遊ばす。」
藤助は杯でちょっと句切って、眉も口も引緊 った。
「旦那方の前でございますがね、こう中腰に、〆加減 の好 い帯腰で、下に居て、白い細い指の先を、染めた草につくようにして熟 と聞く。……聞手が、聞手だ。唄う方も身につまされて、これでもお前さん、人間交際 もすりゃ、女出入 も知らねえじゃあねえ。少 い時を思い出して、何となく、我身ながら引入れられて、……覚えて、ついぞねえ、一生に一度だ。較 べものにゃあなりませんが、むかし琵琶法師 の名誉なのが、こんな処で草枕、山の神様に一曲奏でた心持。
と姉さんがとけて流れて合うのじゃわいなと、きき入りながら、睫毛 を長くうつむいて、ほろりとした時、こっらも思わず、つい、ほろり……いえさ、この面 だからポタリと出ました。」
と口では言いつつ声が湿った。
「(つかん事を聞きますけれど、鋳掛屋さん、錠の合鍵 を頼まれて下さいますか。)……と姉さんがね。
私 あこれを聞いて、ポンと両手を拍 った。
このくらいつく事は、私の唄が三味線につくようなもんじゃあねえ。
(鍵が狂ったんでございますかい。)
(いいえ、無いんですけれど。)
(雑作はがあせん、煙草三服飲む間 だ。)
そこで錠前を見て、という事になると、ちと内証事らしい。……しとやかな姉さんが、急に何だか、そわついて、あっちこっち□ しましたが、高い処にこう立つと、風が攫 って、すっと、雲の上へ持って行 きそうで危 ッかしいように見えます。
勿論人影は、ぽッつりともない。
が、それでも、天幕 の正面からじゃあ、気咎 めがしたと見えて、
(済みませんが、こっちから。)
裏へ廻わると、綻 びた処があるので。……姉さんは科 よく消えたが、こっちは自雷也 の妖術にアリャアリャだね。列子 という身で這込 みました。が、それどころじゃあねえ。この錠前だと言うのを一見に及ぶと、片隅に立掛けた奴だが、大蝦蟆 の干物とも、河馬 の木乃伊 とも譬 えようのねえ、皺 びて突張 って、兀斑 の、大古物の大 かい革鞄 で。
こいつを、古新聞で包んで、薄汚れた兵児帯 でぐるぐると巻いてあるんだが、結びめは、はずれて緩んで、新聞もばさりと裂けた。そこからそれ、煤 を噴きそうな面 を出して、蘆 の茎 から谷覗 くと、鍵の穴を真黒 に窪ましているじゃアありませんか。
(何が入っておりますえ。)
失礼な……人様の革鞄を……だが、私 あつい、うっかり言った。
(あの、旦那さんのお大事なものばかり。)
(へい、貴女 の旦那様の?)
(いいえ、技師の先生の方ですが、その方のお大事なものが残らず、お国でおかくれになりました奥様のお骨 も、たったお一人ッ子の、かけがえのない坊ちゃまのお骨も、この中に入っていらっしゃるんですって。)
と、こう言うんですね。」
小村さんと私は、黙って気を引いて瞳を合した。
藤助は一息ついて、
「それを聞いて、安心をしたくらいだ。技師の旦那の奥様と坊ちゃまのお骨と聞いて、安心したも、おかしなものでございますがね、一軒家の化葛籠 だ、天幕の中の大革鞄じゃあ、中 に何が入ってるか薄気味が悪かったんで。
(へい、その鍵をおなくしなすった……そいつはお困りで、)
と錠前の寸法を当りながら、こう見ますとね、新聞のまだ残った処に、青錆 にさびた金具の口でくいしめた革鞄の中から、紫の袖が一枚。……
袂 が中に、袖口をすんなり、白羽二重の裏が生々 と、女の膚 を包んだようで、被 た人がらも思われる、裏が通って、揚羽 の蝶の紋がちらちらと羽を動かすように見えました。」
小村さんと私とは、じっと見合っていたままの互の唇がぶるぶると震えたのである。
七
――実はこの時から数えて前々年の秋、おなじ小村さんと、(連 がもう一人あった。)三人連で、軽井沢、碓氷 のもみじを見た汽車の中 に、まさしく間違うまい、これに就いた事実があって、私は、不束 ながら、はじめ、淑女画報に、「革鞄 の怪。」後に「片袖。」と改題して、小集の中 に編んだ一篇を草した事がある。
確 に紫の袖の紋も、揚羽の蝶と覚えている。高島田に花笄 の、盛装した嫁入姿の窈窕 たる淑女が、その嫁御寮に似もつかぬ、卑しげな慳 のある女親まじりに、七八人の附添とともに、深谷 駅から同じ室に乗組んで、御寮はちょうど私たちの真向うの席に就いた。まさに嫁がんとする娘の、嬉しさと、恥らいと、心遣 と、恐怖 と、笑 と、涙とは、そのまま膝に手を重ねて、つむりを重たげに、ただ肩を細く、さしうつむいた黒髪に包んで、顔も上げない。まことにしとやかな佳人であった。
この片袖が、隣席にさし置かれた、他の大革鞄の口に挟まったのである。……失礼ながらその革鞄は、ここに藤助が饒舌 るのと、ほぼ大差のないものであった。
が、持ぬしは、意気沈んで、髯 、髪もぶしょうにのび、面 は憔悴 はしていたが、素純にして、しかも謹厳なる人物であった。
汽車の進行中に、この出来事が発見された時、附添の騒ぎ方は……無理もないが、思わぬ麁□ であろう、失策した人物に対して、傍 の見る目は寧 ろ気の毒なほどであった。
一も二もない、したたかに詫びて、その革鞄の口を開くので、事は決着するに相違あるまい。
我も人も、しかあるべく信じた。
しかるにもかかわらず、その人物は、人々が騒いで掛けた革鞄の手の中から、すかりと握拳 の手を抜くと斉 しく、列車の内へすっくと立って、日に焼けた面 は瓦 の黄昏 るるごとく色を変えながら、決然たる態度で、同室の御婦人、紳士の方々、と室内に向って、掠声 して言った。……これなる窈窕たる淑女(――私もここにその人物の言った言 を、そのまま引用したのであるが)窈窕たる淑女のはれ着の袖を侵 したのは偶然の麁□である。はじめは旅行案内を掴出 して、それを投込んで錠を下した時に、うっかり挟んだものと思われる。が、それを心着いた時は――と云って垂々 と額に流るる汗を拭 って――ただ一瞬間に千万無量、万劫 の煩悩を起した。いかに思い、いかに想っても、この窈窕たる淑女は、正 しく他 に嫁せらるるのである……ばかりでない、次か、あるいはその次の停車場 にて下車なさるるとともにたちまち令夫人とならるる、その片袖である。自分は生命を掛けて恋した、生命を掛くるのみか、罪はまさに死である、死すともこの革鞄の片袖はあえて離すまいと思う。思い切って鍵を棄てました。私 はこの窓から、遥 に北の天に、雪を銀襴のごとく刺繍 した、あの遠山 の頂を望んで、ほとんど無辺際に投げたのです、と言った。
――汽車は赤城山 をその巽 の窓に望んで、広漠たる原野の末を貫いていたのであった。――
渠 は電信技師である。立野竜三郎 と自ら名告 った。渠 はもとより両親も何もない、最愛の児 を失い、最愛の妻を失って、世を果敢 むの余り、その妻と子の白骨と、ともに、失うべからざるものの一式、余さずこの古革鞄に納めた、むしろ我が孤 の煢然 たる影をも納めて、野に山に棄つるがごとく、絶所、僻境 を望んで飛騨山中の電信局へ唯今赴任する途中である。すでに我身ながら葬り去った身は、ここに片袖とともに蘇生 った。蘇生ると同時に、罪は死である。否 、死はなお容易 い、天の咎 、地の責 、人の制規 、いかなる制裁といえども、甘んじて覚悟して相受ける。各位が、我 ために刑を撰んで、その最も酷なのは、磔 でない、獄門でない、牛裂 の極刑でもない。この片袖を挟んだ古革鞄を自分にぶら下げさせて、嫁御寮のあとに犬のごとく従わせて、そのまま今日 の婿君の脚下に拝し跪 かせらるる事である。諾 、その厳罰を蒙 りましょう、断じて自分はこの革鞄を開いて片袖は返さぬのである。ただ、天地神明に誓うのは、貴女 の淑徳と貞潔である。自分は生れてより今に及んで、その姿を視 たのはわずかに今より前 、約三十分に過ぎない、……包ましくさしうつむかれた淑女は、申すまでもなく、自分に向って瞳をも動かされなかった事を保証する、――謹んで断罪を待ちます……各位。
吶々 として、しかも沈着に、純真に、縷々 この意味の数千言を語ったのが、轟々 たる汽車の中 に、あたかも雷鳴を凌 ぐ、深刻なる独白のごとく私たちの耳に響いた。
附添の数多 の男女は、あるいは怒り、あるい罵 り、あるいは呆れ、あるいは呪詛 った。が、狼狽 したのは一様である。車外には御寮を迎 の人数 が満ちて、汽車は高崎に留まろうとしたのであるから……
既に死灰のごとく席に復して瞑目 した技師がその時再び立った。ここに手段があります、天が命ずるにあらず、地が教うるにあらず、人の知れるにあらず、ただ何ものの考慮とも分らない手段である……すなわち小刀 をもって革鞄を切開く事なのです。……私 は拒みません。刀ものは持合せました、と云って、鞘 をパチンと抜いて渡したのを、あせって震える手に取って、慳相 な女親が革鞄の口を切裂こうとして、屹 と猜疑 の瞳を技師に向くると同時に、大革鞄を、革鞄のまま提げて、そのまま下車しようとした時であった。
「いいえ!」
と一言 、その窈窕たる淑女は、袖つけをひしと取って、びりびりと引切 った。緋 の長襦袢 が※ [#「火+發」、192-6]と燃える、片身を火に焼いたように衝 と汽車を出たその姿は、かえって露の滴るごとく、おめき集 う群集は黒煙 に似たのである。
技師は真俯向 けに、革鞄の紫の袖に伏した。
乗合は喝采 して、万歳の声が哄 と起った。
汽車の進むがままに、私たちは窓から視 た。人数に抱上げらるるようになって、やや乱れた黒髪に、雪なす小手を翳 して此方 を見送った半身の紅 は、美しき血をもって描いたる煉獄 の女精であった。
碓氷の秋は寒かった。
八
藤助は語り継いだ。
「姉 さんが、そうすると……驚いたように、
(あれ、それを見ちゃ不可 ません。)
(やあ、つい麁□ を。)
と、何事も御意のまま、頭をすくめて恐縮をしますとね、低声 になって気の毒そうに、
(でも、あの、そういう私が、密 と出して、見たいんでございます。)
(そこで鍵が御入用。)
(ええ、ですけど、人様のものを、お許しも受けないで、内証で見ては悪うございましょうねえ。)
(何、開けたらまた閉めておきゃあ、何でもありゃしませんや。)
とその容子 だもの、お前さん、何だって構やしません。――お手軽様に言って退 けると、口に袖をあてながら、うっかり釣込まれたような様子でね、また前後 を視 ましたっけ。
(では、ちょっと今のうち鋳掛屋さん、あなたお職柄で鍵を拵 えるより前 に、手で開けるわけには参りませんの。)
ぶるぶるぶる……私 あ、頭と嘴 を一所に振った。旦那の前 だが、……指を曲げて、口を押えて、瞼 へ指の環を当がって、もう一度頭を掉 った。それ、鍵の手は、内証で遣 っても、たちまちお目玉。……不可 えてんだ、お前さん。
(御法度 だ。)
と重く持たせて、
(ではござれども、姉さんの事だ、遣らかしやしょう、大達引 。奥様のお記念 だか、何だか知らねえ。成程こいつあ、そのな、へッへッ、誰方 かに向っての姉さんの心意気では……お邪魔になるでございましょうよ。奥歯にものが挟まったって譬 はこれだ。すっぱり、打開 けてお出しなせえまし。)
(いえ、あの、開けて出すよりか、私が中へ入りたい。)
と仇気 なく莞爾 すら、チェーしたもんだ。
(御串戯 で、中へ入ると、恐怖 え、その亡くなった奥さんの骨 があるんじゃありませんかい。)
(もう、私は、あの、奥さまの、その骨 になりたいの。)
ああ、その骨になりたいか、いや、その骨でこっちは海月 だ、ぐにゃりとなった。
(御勝手だ。)
(あれ、そのかわりに奥さまが、活きた私におなんなさる、容色 は、たとえこんなでも。)
(御勝手だ。いや、御法度だね。)
(そんな事を言わないで、後生ですから、鋳掛屋さん。)
(開けますよ。だがね……)
と、一つ勿体 で、
(こいつあ口伝 だ、見ちゃ不可 え、目を瞑 っていておくんなさい。)
(はい。)
(もっと。)
(はい。)
(不可 え不可え、薄目を開けてら。)
(まあ、では後を向きますわ。)
(引 しまって、ふっくりと柔 かで、ああ、堪 らねえ腰附だ。)
(可厭 ……知りませんよ。)
と向直ると、串戯 の中にしんみりと、
(あれ、ちょっと待って下さいまし。いま目をふさいで考えますと、お許 がないのに錠前を開けるのは、どうも心が済みません。神様、仏様に、誓文 して、悪い心でなくっても、よくない事だと存じます。)
私 も真面目 にうなずきました。
(でも、合鍵は拵えて下さいまし、大事にそれを持っていて、……出来るだけ我慢はしますけれども、どうしても開けたくってならなくなりました時に、生命 にかえても、開けて見とうございますから。)――
晩の泊 はどこだって聞きますから、向うの峰の日脚を仰向 いて、下の温泉だと云いますとね、双葉屋の女中だと、ここで姉さんが名を言って、お世話しましょうと、きつい発奮 さ。
御旅館などは勿体ねえ、こちとら式がと木賃がると、今頃はからあきで、人気 がなくって寂しいくらい。でも、お一方――一昨日 から、上州高崎の方だそうだけれど、東京にも少 かろう、品のいい美しい、お嬢さんだか、夫人 だか、少 い方がお一方……」
「お一方?」
と、うっかり訊 いて私は膝を堅うした。――小村さんも同じ思いは疑いない。――あの時、その窈窕たる御寮が、汽車を棄てたのは、かしこで、その高崎であった。
「さようで。――お一方御逗留 、おさみしそうなその方にも、いまの立山が聞かせたいと、何となくそのお一方が、もっての外気になるようで、妙に眉のあたりを暗くしましたっけ、熟 と日のかげる山を視 めたが、
(ああ。鋳掛屋さん。)
と慌 しい。……皆まで聞かずと飲込んだ、旦那様帰り引[#「引」は小文字]と……ここらは鵜 だてね、天幕 の逢目 をひょこりと出た。もとの山端 へ引退 り、さらば一服仕 ろう……つぎ置の茶の中には、松の落葉と朱葉 が一枚。……」
(ああ、腹が減った……)
と色気のない声を出して、どかりと椅子に掛けたのは、焦茶色の洋服で、身の緊 った、骨格のいい、中古 の軍人といった技師の先生だ。――言うまでもなく、立野竜三郎は渠 である――
(減った、減った、無茶に減った。)
と、いきなり卓子 の上の風呂敷包みを解くと、中が古風にも竹の子弁当。……御存じはございますまい、三組 の食籠 で、畳むと入子 に重 るやつでね。案ずるまでもありませんや、お道姉さんが心入れのお手料理か何かを、旅館から運ぶんだね。
(うまい、ああ旨 い、この竹輪は骨がなくて難有 い。)
余り旨そうなので、こっちは里心が着きました。建場 々々で飲酒 りますから、滅多に持出した事のない仕込の片餉 、油揚 の煮染 に沢庵というのを、もくもくと頬張りはじめた。
お道さんが手拭を畳んでちょっと帯に挟んだ、茶汲女 という姿で、湯呑を片手に、半身で立って私 の方を視 ましたがね。
(旦那様 ……あの、鋳掛屋さんが、お弁当を使いますので、お茶を御馳走 いたしました。……お盆がなくて手で失礼でございます。)
と湯気の上る処を、卓子の上へ置くんでございますがね、加賀の赤絵の金々たるものなれども、ねえ、湯呑は嬉しい心意気だ。
(何、鋳掛屋。)
と、何だか、気を打ったように言って、先生、扁平 い肩で捻 じて、私 の方を覗 きましたが、
(やあ、御馳走はありますか。)
とかすれ笑いをしなさるんだ。
(へッ、へッ。)と、先はお役人様でがさ、お世辞笑 をしたばかりで、こちらも肩で捻向く面 だ、道陸神 の首を着換 えたという形だてね。
(旨い。)
姉さんが嬉しそうな顔をしながら、
(あの、電信の故障は、直りましてございますか。)
(うむ、取払ったよ。)
と頬張った含声 で、
(思ったより余程さきだった。)
ははあ、電線に故障があって、障 るものの見当が着いた処から、先生、山めぐりで見廻ったんだ。道理こそ、いまし方天幕へ戻って来た時に、段々塗の旗竿 を、北極探検の浦島といった形で持っていて、かたりと立掛けて入 んなすった。
(どうかなっていましたの。)
(変なもの……何、くだらないものが、線の途中に引搦 って……)
カラリと箸 を投げる音が響いた。
(うむ、来た。……トーン、トーン……可 し。)
お道さんの声で、
(旦那様、何ぞ御心配な事ではございませんか。)
一口がぶりと茶を飲んで、
(詰 らぬ事を……他所 へ来た電報に、一々気を揉 んでいて堪 るもんですか。)
(でも、先刻 、この電信が参りました時、何ですか、お顔の色が……)
(……故障のためですよ、青天井の煤払 は下さりませんからな、は、は。)
と笑った。
坂をするすると這上 る、蝙蝠 か、穴熊のようなのが、衝 と近く来ると、海軍帽を被 ったが、形 は郵便の配達夫――高等二年ぐらいな可愛い顔の少年が、ちゃんと恭 しく礼をした。
(ああ、ちょうどいま繋 った。)
(どうした故障でございますか。)
と切口上で、さも心配をしたらしい。たのもしいじゃあございませんか。
(網掛場 の先の処だ、烏を蛇が捲 いたなりで、電線に引搦 って死んでいたんだよ。烏が引啣 えて飛ぼうとしたんだろう……可なり大 な重い蛇だから、飛切れないで鋼線 に留った処を、電流で殺されたんだ。ぶら下った奴は、下から波を打って鎌首をもたげたなりに、黒焦 になっていた――君、急いでくれ給え、約四時間延着だ。)
(はっ。)
と云って行 くのを、
(ああ、時さん。)
とお道さんは沈んで呼んだ。が、寂しい笑顔を向け直して、
(配達さん――どこへ……)と訊 いた。
少年が正しく立停 まって、畳んだ用紙を真 すぐに視 て、
(狼温泉――双葉館方……村上縫子……)
(そしてどちらから。)
(ヤホ次郎――行って来ます。)
(そんな事を聞くもんじゃあない。)
(ああ、済みませんでした。)
(何、構わないようなもんじゃあるがね――どっこいしょ。)
がた、がたんと音がする。先生、もう一つの卓子 を引立って、猪と取組 むように勢 よく持って出ると、お道さんはわけも知らないなりに、椅子を取って手伝いながら、
(どう遊ばすの。)
と云ううちに、一段下りた草原 へ据えたんでございますがね、――わけも知らずに手伝った、お道さんの心持を、あとで思うと涙が出ます。」
と肩もげっそりと、藤助は沈んで言った。……
「で、何でございますよ――どう遊ばすのかと、お道さんが言うと、心待、この日暮にはここに客があるかも知れんと、先生が言いますわ。あれ、それじゃこんな野天でなく、と、言おうじゃあございませんか。
(いや、中で間違 があるとならんので。)
(え、間違とおっしゃって。)
とお道さんが、ひったり寄った。
(私は、)
と先生は、肘 で口の端 を横撫 して、
(髯 もまずいが、言う事がまずくて不可 んです。間違じゃあない、故障です、素人は気なしだからして、あんな狭い天幕の中で、器械にでも障って、また故障にでもなると不可んのだ。決して心配な事ではないのです、――さあ飯だ、飯だ。)
と今度はなぜか、箸を着けずに弁当をしまいかけて、……親方の手前もある、客に電報が来た様子では、また和女 の手も要るだろう、余り遅くならないうちにと、懇 に言うと、
(はい、はい。)
と柔順 に返事する。片手間に、継掛けの紺足袋と、寝衣 に重ねる浴衣のような洗濯ものを一包、弁当をぶら下げて、素足に藁草履 、ここらは、山家で――悄々 と天幕を出た姿に、もう山の影が薄暗く隈を取って映りました。
(今、何時だろう。)
と天幕口へ出て、先生が後姿を呼びましたね。
(……四時半頃にもなりましょうか。)
(時計が止 ったよ――気をつけておいで。)
と大 な懐中時計と、旗竿の影を、すっくり立って、片頬 夕日を浴びながら、熟 と落着いて視 めていなさる。……落着いて視 ちゃあいなすったが、先生少々どうかなさりやしねえのかと思ったのは、こう変に山が寂しくなって、通魔 でもしそうな、静寂 の鐘の唄の塩梅 。どことなくドン――と響いて天狗倒 の木精 と一所に、天幕の中 じゃあ、局の掛時計がコトリコトリと鳴りましたよ。
お地蔵様が一体、もし、この梟ヶ嶽の頭を肩へ下り口に立ってござる。――私 どもは、どうかすると一日 の中 にゃ人間の数より多くお目に掛 る、至極可懐 しいお方だが……後で分りました。この丘は、むかし、小さな山寺があったあとだそうで、そう言や草の中に、崩れた石の段々が蔦 と一所に、真下の径 へ、山懐 へまとっています。その下の径というのが、温泉宿 入りの本街道だね。
お道さんが、帰りがけに、その地蔵様を拝みました。石の袈裟 の落葉を払って、白い手を、じっと合せて、しばらくして、
(また、お目にかかります。)
と顔を上げて、
(後程に――)
もう先生は天幕へ入った――で、私 にしみじみとした調子で云った時の面影が忘れられねえ!……睫毛 にたまって、涙が一杯。……風が冷く、山はこれから、湿っぽい。
秋の日は釣瓶 落しだ、お前さん、もうやがて初冬 とは言い条、別して山家だ。静 に大沼の真中 へ石を投げたように、山際へ日暮の波が輪になって颯 と広がる中で、この藤助と云う奴が、何をしたと思召 す。
三尺をしめ直す、脚絆の埃 を払 いたり、荷づなを天秤 に掛けたり、はずしたり。……三味線の糸をゆるめたり、袋に入れたり……さてまた袋を結んだり。
そこへ……いまお道さんが下りました、草にきれぎれの石段を、攀 じ攀じ、ずッと上 って来た、一個 、年紀 の少 い紳士 があります。
山の陰気な影をうけて、凄 いような色の白いのが、黒の中折帽を廂下 りに、洋杖 も持たず腕を組んだ、背広でオオバアコオトというのが、色がまた妙に白茶けて、うそ寂しい。瘠 せて肩の立った中脊でね。これが地蔵様の前へ来て、すっくりと立ったと思うと、頭髪 の伸びた技師の先生が、ずかずかと天幕を出ました。
それ、卓子 を中に、控えて、開いて、屹 と向合ったと思召せ。
少 い紳士 が慇懃 に、
(失礼ですが、立野竜三郎氏でいらっしゃいますか。)
(さよう、お尋ねを蒙 りました竜三郎、私 であります。)
(申しおくれました、私は村上八百次郎 と申すものです。はじめてお目にかかります……唯今、名刺を。)
(いや。)
と先生、卓子の上へ両手をずかと支 いて、
(三年前 から、御尊名は、片時といえども相忘れません、出過ぎましたが、ほぼ、御訪問[#「訪問」は底本では「訪門」]に預りました御用向 も存じております。)
と、少 いのが少し屹 となって、
(用向を御存じですか?)
(まず、お掛け下さい。)
と先生は、ドカリと野天の椅子に掛けた。
何となく気色ばんだ双方の意気込が、殺気を帯びて四辺 を払った。この体 を視た私 だ。むかし物語によくあります、峰の堂、山の祠 で、怪しく凄 い神たちが、神つどいにつどわせたという場所へ、破戒坊主が、はい蹲 ったという体で、可恐 し可恐し、地蔵様の前に踞 んで、こう、伏拝む形 をして、密 と視たんで。
先生は更 めて、両手を卓子につき直して、
「――受信人、……狼温泉二葉屋方、村上縫子、発信人は尊名、貴姓であります。
コンニチゴゴツク。ヨウイ(今日午後着く。用意)」
と聞きも済まさず、若い紳士 は、斜 に衝 と開いて、身構えて、
(何、私信を見た上、用件を御承知になりましたな。)
「偏 に申訳をいたします。電報を扱います節、文字 は拾いますが、文字は普通……拾いますが、職務の徳義として、文字は綴りましても、用件は記憶しません。しかるところ、唯今申上げました(コンニチゴゴツク、ヨウイ)で、不意に故障が起りました、幾度も接続を試みますうちに、うかと記憶に残ったのです。のち四時間、やっと電線が恢復 して(ヨキカ)と受信しましたのです。謹んで謝罪いたします。」
と面 を上げ、乾 びた咳 して、
「すなわち、受信人、狼温泉、二葉屋方、村上縫子。発信人、尊名、貴姓、すなわち、(今日午後着く。用意よきか。)」
(分りました。)
と静 に言う時、ふと見返った目が、私 に向いた、と一所にな……先生の眼 も光りました。
怯 えて立ったね、悚然 した。
荷を担いで、ひょうろ、ひょろ。
ようやく石段の中ほどで、吻 と息をして立った処が、薄暮合 の山の凄 さ。……天秤かついだ己 が形 が、何でございますかね、天狗様の下男が清水を汲みに山一つ彼方 へといった体 で、我ながら、余り世間離れがした心細さに、
(ほっ、)
と云ったが、声も、ふやける。肩をかえて性根だめしに、そこで一つ……
(鋳掛――錠前の直し。)――
何と――旦那。」
九
「……時に――雪の松明 が二把 。前後 に次第に高くなって、白い梟 、化梟、蔦葛 が鳥の毛に見えます、その石段を攀 じるのは、まるで幻影 の女体が捧げて、頂の松、電信柱へ、竜燈が上 るんでございました。
上り果てた時分には、もう降っているのが止 みましたっけ。根雪に残るのじゃあございません、ほんの前触れで、一きよめ白くしましたので、ぼっとほの白く、薄鼠に、梟の頂が暗夜 に浮いて見えました。
苦しい時ばかりじゃあねえ。こんな時も神頼み、で、私 は崖縁 をひょいと横へ切れて、のしこと地蔵様の背後 に蹲 み込んで覗 いたんで。石像のお袈裟 の前へは、真白 に吹掛けましたが、うしろは苔 のお法衣 のまま真黒 で、お顔が青うございましたよ。
大方いまの雪のために、先生も、客人も、天幕に引籠 ったんでございましょう。卓子 ばかりで影もない。野天のその卓子が、雪で、それ大理石。――立派やかなお座敷にも似合わねえ、安火鉢の曲 んだやつが転がるように出ていました。
その火鉢へ、二人が炬火 をさし込みましたわ。一ふさり臥 って、柱のように根を持って、赫 と燃えます。その灯 で、早や出端 に立って出かかった先生方、左右の形は、天幕がそのままの巌石 で、言わねえ事じゃあねえ、青くまた朱に刻みつけた、怪しい山神 に、そっくりだね。
ツツとあとへ引いて、若い紳士 が、卓子に、さきの席を取って、高島田の天人を、
(縫子さん。)
と呼びました。
御婦人が、髪の吹流 を取った、気高い顔は、松明の火に活々 と、その手拭で、お召のコオトの雪を払っていなすったけ、揺れて山茶花 が散るようだ。
(立野さんに御挨拶をなさい。)
(唯今。)
と静 に言って、例の背後 に掛けた竹の子笠を、紐を解いて、取りましたが、吹添って、風はあるのに、気で鎮めたかして、その笠が動きもしません。
卓子の脚に、お道さんのと重ねて置いて、
(貴方 ――御機嫌よう。)
(は。)
と先生は一言云ったきり、顔も上げないで、めり込むように深く卓子の端についた太い腕が震えたが、それより深いのは、若旦那の方の年紀 とも言わない額に刻んだ幾筋かの皺 で、短く一分刈かと見える頭 は、坊さんのようで、福々しく耳の押立 って大 いのに、引締った口が窪んで、大きく見えるまで、げっそりと頬の肉が落ちている。
(夫人 。)
と先生はうつむいたままで、
(再び、御機嫌のお顔を拝することを得まして、私 一代の本懐です。生れつきの口不調法が、かく眼前 に、貴方のお姿に対しましては、何も申上げる言 を覚えません、ただしかし、唯今。)
と、よろめいて立って、椅子の手に縋 りました。
(唯今、一言 御挨拶を申上げます。)
と天幕に入ると、提げて出た、卓子を引抱 えたようなものではない、千仭 の重さに堪えない体 に、大革鞄を持った胸が、吐呼吸 を浪に吐 く。
それと見ると、簑 を絞って棄てました、お道さんが手を添えながら、顔を見ながら、搦 んで、縺 れて、うっかりしたように手伝う姿は、かえって、あの、紫の片袖に魂が入って、革鞄を抜けたように見えました。
ずしりと、卓子の上に置くと、……先生は一足退 って、起立の形 で、
(もはや、お二方に対しましては、……御夫婦に向いましては、立って身を支えるにも堪えません、一刻も早くこの人畜 の行為 に対する、御制裁を待ちます。即時に御処分のほどを願います。)
若旦那が、
(よろしいか。)
とちと甘いほどな、この場合優しい声で、御夫人に言いました。
(はい。)
と、若奥様は潔い。
若旦那はまっすぐに立直って、
(立野さん。)
(…………)
(では、御要求をいたします。)
(謹んで承ります、一点といえども相背きはいたしますまい。)
(そこに、卓子の上に横にお置きなさいました、革鞄を、縦にまっすぐにお直し下さい。)
(承知いたしました――いやいや罪人の手伝をしては、お道さん、汚 れるぞ。)
と手伝を払って、しっかとその処へ据直す。
(立野さん。貴下 は革鞄の全形と折重 って、その容量を外れない範囲内にお立ち下さい。縫子が私の妻として、婚礼の日の途中、汽車の中で。)
と云う声が少し震えました。
(貴下に、その紫の袖を許しました、その責 に任ずるために、ここに短銃 を所持しております、――その短銃をもってここに居て革鞄を打ちます。弾丸をもって錠前を射切 るのです。錠前を射切 って、その片袖を――同棲三年間――まだ純真なる処女の身にして、私のために取返すんです。袖が返るとともに、更 めて結婚します。夫婦になります。が、勿論しかし、それが夫婦のものの、身の終結になるかも分りません。なぜと云うに、革鞄と同時に、兇器をもって貴下のお身体 に向うのです。万一お生命 を縮めるとなれば、私はその罪を負わねばならないのですから。それは勿論覚悟の前です……お察し下さい、これはほとんど私が生命を忘れ、世間を忘れ、甚しきは一人 の親をも忘れるまで、寝食を廃しまして、熟慮反省を重ねた上の決意なのです。はじめは貴方が、当時汽車の窓から赤城山の絶頂に向って御投棄てになったという、革鞄の鍵を、何 とぞして、拾い戻して、その鍵を持ちながらお目にかかって、貴下の手から錠を解いて、縫のその袖を返して頂きたいと存じ、およそ半年、百日に亙 りまして、狂と言われ、痴と言われ、愚と言われ、嫉妬 と言われ、じんすけと嘲 けられつつも、多勢 の人数を狩集 めて、あの辺の汽車の沿道一帯を、粟 、蕎麦 、稲を買求めて、草に刈り、芥 にむしり、甚しきは古塚の横穴を発 いてまで、捜させました。流星のごとく天際に消えたのでしょう、一点似た釘も見当りません。――唯今……要求しますのは、その後 の決心である事を諒 として下さいまし。縫もよくこの意を体して、三年の間、昼夜を分かず、的を射る修錬をいたしました。――最初、的をつくります時、縫がものさしを取って、革鞄の寸法を的に切りましたが、ここで実物を拝見しますと、その大 さと言い、錠前のある位置と言い、ほとんど寸分の違いもありません。……不思議です。……特に奇蹟と存じますのは、――家の地続きを劃 って、的場を建てましたのですが、土地の様子、景色、一本の松の形、地蔵のあるまで。)
――私 はすくんだね――
(夢のようによく似ています。……多分、皆お互に、こうした運命だと存じます。……短銃 は特に外国に註文して、英国製の最優良なのを取寄せました。連発ですが、弾丸はただ一つしか籠 めてありません、きっと仕損じますまい。しかし、御覚悟を下さいまし。――もっとも革鞄と重 ってお立ち下さいますのに、その間隔は、五間 、十間、あるいは百間、三百間、貴下 の、お心に任せます。要はただ、着弾距離をお離れになりません事です。)
(一歩もここを動きません。)
先生は、拱 いた腕を解いて言いましたぜ。」
――そうだろうと、私たちも思ったのである。
十
「堪 らねえやね。お前さん。
私 あ猿坊 のように、ちょろりと影を畝 って這出 して、そこに震えて立っている、お道姉さんの手に合鍵を押 つけた。早く早く、と口じゃあ言わねえが、袖を突いた。
――若奥様の手が、もう懐中 に入った時でございますよ。
(御免遊ばせ。)
と縋 りつくように、伸上って、お道さんが鍵を合せ合せするのが、あせるから、ツルツルと二三度辷 りました。
(ああ、ちょっと。)
と若奥様が、手で圧 えて、
(どうぞ……そればかりは。)
と清 しく言います。この手二つが触ったものを、錠前の奴、がんとして、雪になっても消えなんだ。
舌の硬 ばったような先生が、
(飛んでもない事――お道さん。)
(いいえ、構いません。)
と若旦那はきっぱりと、
(飛んでもない事ではありません。それが当然なのです。立野さん。貴下 が御自分でなくっても、貴下が許して、錠前をさえお開き下さるなら――方法は択 びません。短銃 なんぞ何になりましょう、私はそれで満足します。)
(旦那様。)
と精一杯で、お道さんが、押留められた一つの手を、それなり先生の袖に縋って、無量の思 の目を凝らした。
(はあ、)
と落込むような大息して、先生の胸が崩れようとしますとな。
(貴方、……あの鍵が返りましたか。……優しい、お道さん、美しい、姉 さん、……お優しい、お美しい姉さんに、貴方はもうお心が移りましたか。)
と云って、若奥様が熟 と視 ました。
先生が蒼くなって、両手でお道さんを押除 けながら、
(これは余所 の娘です、あわれな孤児 です。)
とあとが消えた。
(決行なさい、縫子。)
(…………)
(打て、お打ちなさい。)
(唯今。)
と肩を軽く斜めに落すと、コオトが、すっと脱げたんです。煽 りもせぬのに気が立って、颯 と火の上る松明 より、紅 に燃立つばかり、緋 の紋縮緬 の長襦袢 が半身に流れました。……袖を切ったと言う三年前 の婚礼の日の曠衣裳 を、そのままで、一方紫の袖の紋の揚羽の蝶は、革鞄に留まった友を慕って、火先にひらひらと揺れました。
若奥様が片膝ついて、その燃ゆる火の袖に、キラリと光る短銃 を構えると、先生は、両方の膝に手を垂れて、目を瞑 って立ちました。
(お身代りに私が。)
とお道さんが、その前に立塞 がった。
「あ、危い、あなた。」
と若旦那が声を絞った。
若奥様は折敷いたままで、
(不可 ません――お道さん。)
(いいえ、本望でございます。)
(私が肯 きません。)
と若奥様が頭 を掉 ります。
(貴方が、お肯き遊ばさねば、旦那様にお願い申上げます。こんな山家の女でも、心にかわりはござんせん、願 を叶 えて下さいまし。お情 はうけませんでも、色も恋も存じております。もみじを御覧なさいまし、つれない霜にも血を染めます。私はただ活 きておりますより、旦那さんのかわりに死にたいのです。その方が嬉しいのです。こんな事があろうと思って、もう家を出ます時、なくなった母親の記念 の裾模様を着て参りました。……手織木綿に前垂 した、それならば身分相応ですから、人様の前に出られます。時おくれの古い紋着 、襦袢も帯もうつりません、あられもないなりをして、恋の仇 の奥様と、並んでここへ参りました。ふびんと思って下さいまし。ああ女は浅間しい、私にはただ一枚、母親の記念 だけれど、奥様のお姿と、こんなはかないなりをくらべて、思う方の前に出るのは死ぬよりも辛うござんす。それさえ思い切りました。男のために死ぬのです。冥加 に余って勿体ない。……ただ心がかりなは、私と同じ孤児 の、時ちゃん―少年の配達夫―の事ですが、あの児 も先生おもいですから、こうと聞いたら喜びましょう。)
若旦那の目にも、奥様にも、輝く涙が見えました。
先生は胸に大波を打たせながら、半ば串戯 にするように、手を取って、泣笑 をして、
(これ、馬鹿な、馬鹿な、ふふふ、馬鹿を事を。)
(ええ、馬鹿な女でなくっては、こんなに旦那様の事を思いはしません。私は、馬鹿が嬉しゅうございます。)
(弱った。これ、詰 らん、そんな。)
(お手間が取れます。)
(さあ、お退 き、これ、そっちへ。)
(いいえ、いいえ。)
否々 をして、頭 をふって甘える肩を、先生が抱いて退 けようとするなり、くるりとうしろ向きになって、前髪をひしと胸に当てました。
呼吸 を鎮 めて、抱 いた腕を、ぐいと背中へ捲 きましたが、
(お退 きと云うに。――やあ、お道さんの御 母君、御 母堂、お記念 の肉身と、衣類に対して失礼します、御許し下さい……御免。)
と云うと、抱倒して、
(ああれ。)
と震えてもがくのを、しかと片足に蹈据 えて、仁王立 にすっくと立った。
(用意は宜 しい。……縫子さん。)
(…………)
(…………)
(さようなら……)
(……さようなら、貴方。)
日光の御廟 の天井に、墨絵の竜があって鳴きます、尾の方へ離れると音はしねえ、頤 の下の低い処で手を叩くと、コリンと、高い天井で鳴りますので、案内者は、勝手に泣竜と云うのでございますが、同じ音で。――
コリンと響いたと思うと、先生の身体 は左右へふらふらして動いたが、不思議な事には倒れません。
南無三宝 。
片手づきに、白襟の衣紋 を外らして仰向 きになんなすった、若奥様の水晶のような咽喉 へ、口からたらたらと血が流れて、元結 が、ぷつりと切れた。
トタンにな、革鞄の袖が、するすると抜けて落ちました。
(貴方……短銃 を離しても、もう可 うございますか。)
若旦那が跪 いてその手を吸うと、釣鐘を落したように、軽そうな手を柔かに、先生の膝に投げて、
(ああ、嬉しい。……立野さん、お道さん、短銃をそちらへ向けて打つような女とお思いなさいましたか。)
(只今 、立処 に自殺します。)
と先生の、手をついて言うのをきいて、かぶりを掉 って、櫛笄 も、落ちないで、乱れかかる髪をそのまま莞爾 して、
(いいえ、百万年の後 に……また、お目にかかります。お二方に、これだけに思われて、縫は世界中のしあわせです――貴方、お詫 は、あの世から……)
最後の言葉でございました。」
「お道さんが銀杏返 の針を抜いて、あの、片袖を、死骸の袖に縫つけました。
その間、膝にのせて、胸に抱いて、若旦那が、お縫さんの、柔かに投げた腕 を撫で、撫で、
(この、清い、雪のような手を見て下さい。私の偏執と自我と自尊と嫉妬のために、詮 ずるに烈 しい恋のために、――三年の間、夜 に、日に、短銃 を持たせられた、血を絞り、肉を刻み、骨を砂利にするような拷掠 に、よくもこの手が、鉄にも鉛にもなりませんでした。ああ、全く魔のごとき残虐にも、美しいものは滅びません。私は慚愧 します。しかし、貴下 と縫子とで、どんなにもお話合のつきますように、私に三日先立って、縫子をこちらによこしました、それに、あからさまに名を云って、わざと電報を打ちました。……貴下 を当電信局員と存じましていたした事です。とにかく私の心も、身の果 も、やがて、お分りになりましょう。)
と、いいいい、地蔵様の前へ、男が二人で密 と舁 ぐと、お道さんが、笠を伏せて、その上に帯を解いて、畳んで枕にさせました。
私 も十本の指を、額に堅く組んで頂いて拝んだ。
そこらの木の葉を、やたらに火鉢にくべながら……
(失礼、支度をいたしますから。)
若旦那がするすると松の樹の処へ行 きます。
そこで内証で涙を払うのかと偲うと、肩に一揺 り、ゆすぶりをくれるや否や、切立 の崖の下は、剣 を植えた巌 の底へ、真逆様 。霧の海へ、薄ぐろく、影が残って消えません。
――旦那方。
先生を御覧なせえ、いきなりうしろからお道さんの口へ猿轡 を嵌 めましたぜ。――一人は放さぬ、一所に死のうと悶 えたからで。――それをね、天幕 の中へ抱入れて、電信事務の卓子 に向けて、椅子にのせて、手は結 えずに、腰も胸も兵児帯でぐるぐる巻だ。
(時夫の来るまで……)
そう言って、石段へずッと行 く。
私 は下口 まで追掛 けたが、どうして可 いか、途方にくれてくるくる廻った。
お道さんが、さんばら髪に肩を振って、身悶えすると、消えかかった松明が赫 と燃えて、あれあれ、女の身の丈に、めらめらと空へ立った。
先生の身体 が、影のように帰って来て、いましめを解くと一所に、五体も溶けたようなお道さんを、確 と腕に抱きました。
いや何とも……酔った勢いで話しましたが、その人たちの事を思うと、何とも言いようがねえ。
実は、私 と云うものは……若奥様には内証だが、その高崎の旦那に、頼まれまして、技師の方が可 い、とさえと一言 云えば、すぐに合鍵を拵 えるように、道中お抱えだったので。……何、鍵までもありゃしません。――天幕でお道さんが相談をしました時、寸法を見るふりをして、錠は、はずしておいたんでございますのに――
皆、何とも言いようがねえ、見てござった地蔵様にも手のつけようがなかったに違えねえ。若旦那のお心持も察して上げておくんなせえ。
あくる日岨道 を伝いますと、山から取った水樋 が、空を走って、水車 に颯 と掛 ります、真紅 な木の葉が宙を飛んで流れましたっけ、誰の血なんでございましょう。」
姨捨山の月霜にして、果 なき谷の、暗き靄 の底に、千曲川は水晶の珠数の乱るるごとく流れたのである。
「ちらちらちらちら雪の降る中へ、
と
いきなり鋳掛屋が話したでは、ちと
所は信州
別に迷惑を掛けるような筋ではないから、本名で言っても差支えはなかろう。その時の
――居待月である。
一杯飲んでいる内には、
「来ましたよ。」
「二人きりですね。」
と私は言った。
名にし負う月の名所である。ここの
一人がバスケットと、一人が一升
「汽車が出ないと向うへは渡られませんよ。」
「成程。線路を
やがてむらむらと立昇る白い煙が、妙に透通って、
「行っていらっしゃいまし……お
と私はつい、目の
壇はあるが、深いから、首ばかり並んで霧の
「ちょっと、伺いますが。」
「はあ?」
手ランプを提げた、
待合所の腰掛の隅には、頭から
「その辺に
「はあ、別に旅籠屋と言って、何ですな、これから下へ十四五町、……約
「あの風呂を沸かしますのが。」
「さよう。」
「
と小村さんが暗がりの中を探りながら先へ立って、
「いきなり、風呂を沸かす宿屋が半道と来たんでは、一口飲ませる処とも聞きにくうございますよ。しかし何かしらありましょう……
と構内の柵について……
「どうです、いっそここへ
「まさか。」
と小村さんは苦笑して、
「姨捨山、
双方黒い外套が、こんがらかって引返すと、
と
落葉を透かして、
小村さんが、まばらな竹の木戸を、手を拡げつつ探り当てて、
「きっと飲ませますよ、この戸の
と
「退却……」
「え、
と聞く方が慌てている。
「いいえ爺さんですがね、一人土間で
「いや、それは恐縮々々。」
「まことに済みません。発起人がこの様子で。」
「飛んでもない。こういう時は花道を歌で
わが心なぐさめかねつ更科 や
姨捨山に照る月をみて
照る月をみて慰めかねつですもの、暗いから慰められて姨捨山に照る月をみて
しかるところ、暗がりに目が
かくして
この店の女房が、東京ものは
「これは少々
「ここまで来れば、あと一辛抱で、もうちとどうにかしたのがありましょう。」
実は、この段、
「御免なさい。」
と小村さんが優しい
灯が一つ、ぼうと赤く、宙に浮いたきりで何も分らぬ。
が
二
話に聞いた――谷を深く、
唄いながら、草や木の
「相談は整いました。」
「それは
「きあ、二階へどうぞ……
と、雨もりのような形が動くと、紺の
小村さんが小さな声で、
「
「結構ですとも、行暮れました旅の修行者になりましょうね。」
「では、そのおつもりで――さあ、
と
「あっ、」と言った。
きゃんきゃんきゃん、クイ、キュウと息を引いて、きゃんきゃんきゃん、クイ、クウン、きゅうと鳴く。
見事に
「御免よ……御免よ……仕方がない、御免なさいよ。」
で、
「お気をつけなさいましよ……お
「
「踏着けられた狗から見りゃ、頭を
日頃、沈着な、謹み深いのがこれだから、余程
きゃんきゃんきゃん、クイッ、キュウ、きゃんきゃんきゃん、と
「身に
木地の古びたのが
「旅はこれだから
と、探らないと顔が分らぬ。
「はあ。」
「何ですか、この辺には、あわれな、寂しい、物語がありそうな処ですね。あの、
「いいえ。」
「それはね、月見の人に、木曾の
信濃なる千曲の川のさゞれ石も
君しふみなば玉とひろはん
と言う場所なんですもの。――やあ、明るくなった。」君しふみなば玉とひろはん
と思わず言った。
釣ランプが、真新しい、
「お待遠様、……済みません。」
「どういたしまして、飛んだ御無理をお願い申して。」
女房は崩れた
「私どもでは
その時、一列に
「一昨晩の今頃は、二かさも三かさも
「音に聞いた。どれ、」
と立つと、ぐらぐらとなる……
「おっと。」
欄干につかまって、
「漆で塗ったようだ、ぼっと霧のかかった処は
宵の明星が
「あの
「何里あります。」
「八里ございます。」
「ははあ。」
「真下の谷底に、ちらちらと
「小村さん、寸法は分りました、どうなすったんです、景色も見ないで。」
と座に戻ると、小村さんは真顔で
「いえ、その縁側に三人揃って立ったんでは、
「まったく、これで猿楽があると、……天狗が揺り倒しそうな処です。
と二人は顔を見合せた。
が、註文通り、火鉢に
「およしなさいまし、むだな事でございます。おしたじが悪くって、めしあがられやしませんから。……何ぞお
その心意気。
「
と
「おかみさん。」
杯をずいとさして、
「一つ申上げましょう、お
「私は一向に不調法ものでございまして。」
「まあ
「もう、全く。」
「でも、
と小村さんが銚子を持ったのに、左右に手を振って、
「何だい。」
「毒だとでも思いましたかね。してみると、お互の人相が思われます。おかみさん一人きりなんでしょうかしら。」
「泊りましょうか。」
「
クイッ、キュウ、クック――と……うら
「弱りました。あの
と小村さんはまた
のしのしみしり、大皿を片手に、そこへ天井を抜きそうに、ぬいと
「御免なせえ……お香のものと、
「馬鹿な事を言わねえもんだ。」
と、むきになると、まるだしの田舎なまり。
「
「……真鍮台?……」
聞くと……真鍮台、またの名を銀流しの
三
「
ちょっと
ええ……温泉でございますか、名は体をあらわすとか言います、とんだ
「ああ、どこか、
と、かつて美術学校の学生時代に、そのお山へ
「あすこじゃあ、お
藤助は真顔で、
「途方もねえ、見当違い、山また山を
山坂を踏越えて、少々
や、頂きます、ト、ト、ごぜえやさ。」
と小村さんの酌を、
「どうもね、捨って抱きたいようでがしたぜ。まさか、池に泳いだり、樹に眠ったのが、火の粉を浴びはしますめえ。売ものが散らばりましたか、
天秤棒一本で、天井へ
なんと……綺麗な、その翼の上も、
と鋳掛屋は、肩を
「で、山路へ
前へ立ったのは、
(今晩は。)
と、
いたいたしいと言えば、それがね、素足に
お話をしますうちに、
いや、
同じ人間もな……鑄掛屋を一人土間で
「ちと耳が
と饂飩屋の女房が口を入れた、――女房は鋳掛屋の話に引かれて、二階の座に加わっていたのである。
「そのかわり大まかなものだよ。店の客人が、飲さしの二合
「ははあ。」
「成程。」
私たちは、そんな事は
「荷はどうしたよ。」
と女房が笑って言った。
「ほい忘れた。いや、忘れたんじゃあねえ、一ぜん飯に
「それ見たか、あんな三味線だって、
「うむ、まったくな。」
と藤助は額を
「おめでてえのはこっちだっけ、はッはッはッ。」
四
「さて旦那方、
すっとこ
襟を
「どんつくで出ましたわ……見えがくれに
女房が
「藤助さんよ。」
「ああ。」
「酒の話じゃあないじゃあないかね、ねえ、旦那方。」
「何しろ、そこで。」
と、促せば、
「と二人はもう雑木林の崖に添って、上りを
水の音が聞えます。ちょろちょろ水が、青いように冷く走る。山清水の
でその二人は、そうやって、雪の夜道を山坂かけて、どこへ行くんだと
ここだて――旦那。」
藤助は
「この二階から、鏡台山を――(少し薄明りが
蔭に隠れて見えねえけれど、そこに
そこへ行くんだね、
で、その郵便局の天幕の
お嬢さんの方は、名を縫子さんと言うんで、申さずとも娘ッ子じゃありません、こりゃ
五
峰の白雪、麓 の氷、
今は互に隔てていれど、
やがて嬉しく、溶けて流れて、
合うのじゃわいな。……
「今は互に隔てていれど、
やがて嬉しく、溶けて流れて、
合うのじゃわいな。……
もっとも、甲州から木曾街道、信州路を掛けちゃあ、
といった
だから、日向で汗ばむくらいだと言った処で、雑樹一株隔てた中には、草の枯れたのに、日が
が、陽の赤い、その時梟ヶ嶽は、猫が日向ぼっこをしたような形で、例の、
(鋳掛……錠前の直し。)
すくッと立った電信柱に添って、片枝折れた松が一株、崖へのしかかって立っています、天幕張だろうが、掘立小屋だろうが、人さえ住んでいれば家業
(鋳掛……錠前直し。)……
と、天幕とその松のあります、ちょっと小高くなった
藤助は、ぎょろりとしながら、
「この人相だ、お前さん、じろりとよりか言いようはねえてね、ト
(鋳掛……錠前の直し。)……
ちょっと顔を上げて見ましたっけ。
動いただけになお
茶屋小屋、出茶屋の
これが旦那方だと
ところで、椅子はまだ二三脚、何だか、こちとらにゃ分らねえが、ぴかぴか機械を据附けた
ははあ、来る道で、
が何しろ留守だ。
(鋳掛……錠前直し。)……
と崖ぶちの
(や、えいとこさ。)と、
間拍子もきっかけも渡らねえから、ソレ向うの
(ああ、降ったる雪かな。)
とか何とか、うろ覚えの
(それ、雪は
なんのッて、ひらひらと来る
ところでさて、首に巻いた
峰の白雪、麓の氷――
旦那、顔を見っこなし……だが、こいつあこちとら
と不意に振向く、
小村さんも私も
女房はなおの事……
「あれ、
と膝で
藤助は一笑して、
「まずは、この寸法でございましてね、お道さんを引寄せた工合というのが、あはッはッ。」
六
「見ない
(あの、鋳掛屋さん。)
と、
いえ、もう一つ、盆の上に、紙に包んだ蝶々というのが
(へい、へい、へい、こりゃ奥様、恐入りました。)
とわざとらしくも、茶碗をな、両手で頂かずにゃいられなかった。
(まあ、あんな事、私は奉公人なんですよ。)
さ、その奉公人風情が、生意気のようだけれど、唄をもう一つ唄って聞かしてもらえまいか、と言うんじゃありませんかい。お
藤助は杯でちょっと句切って、眉も口も
「旦那方の前でございますがね、こう中腰に、
と姉さんがとけて流れて合うのじゃわいなと、きき入りながら、
と口では言いつつ声が湿った。
「(つかん事を聞きますけれど、鋳掛屋さん、錠の
このくらいつく事は、私の唄が三味線につくようなもんじゃあねえ。
(鍵が狂ったんでございますかい。)
(いいえ、無いんですけれど。)
(雑作はがあせん、煙草三服飲む
そこで錠前を見て、という事になると、ちと内証事らしい。……しとやかな姉さんが、急に何だか、そわついて、あっちこっち
勿論人影は、ぽッつりともない。
が、それでも、
(済みませんが、こっちから。)
裏へ廻わると、
こいつを、古新聞で包んで、薄汚れた
(何が入っておりますえ。)
失礼な……人様の革鞄を……だが、
(あの、旦那さんのお大事なものばかり。)
(へい、
(いいえ、技師の先生の方ですが、その方のお大事なものが残らず、お国でおかくれになりました奥様のお
と、こう言うんですね。」
小村さんと私は、黙って気を引いて瞳を合した。
藤助は一息ついて、
「それを聞いて、安心をしたくらいだ。技師の旦那の奥様と坊ちゃまのお骨と聞いて、安心したも、おかしなものでございますがね、一軒家の
(へい、その鍵をおなくしなすった……そいつはお困りで、)
と錠前の寸法を当りながら、こう見ますとね、新聞のまだ残った処に、
小村さんと私とは、じっと見合っていたままの互の唇がぶるぶると震えたのである。
七
――実はこの時から数えて前々年の秋、おなじ小村さんと、(
この片袖が、隣席にさし置かれた、他の大革鞄の口に挟まったのである。……失礼ながらその革鞄は、ここに藤助が
が、持ぬしは、意気沈んで、
汽車の進行中に、この出来事が発見された時、附添の騒ぎ方は……無理もないが、思わぬ
一も二もない、したたかに詫びて、その革鞄の口を開くので、事は決着するに相違あるまい。
我も人も、しかあるべく信じた。
しかるにもかかわらず、その人物は、人々が騒いで掛けた革鞄の手の中から、すかりと
――汽車は
附添の
既に死灰のごとく席に復して
「いいえ!」
と
技師は
乗合は
汽車の進むがままに、私たちは窓から
碓氷の秋は寒かった。
八
藤助は語り継いだ。
「
(あれ、それを見ちゃ
(やあ、つい
と、何事も御意のまま、頭をすくめて恐縮をしますとね、
(でも、あの、そういう私が、
(そこで鍵が御入用。)
(ええ、ですけど、人様のものを、お許しも受けないで、内証で見ては悪うございましょうねえ。)
(何、開けたらまた閉めておきゃあ、何でもありゃしませんや。)
とその
(では、ちょっと今のうち鋳掛屋さん、あなたお職柄で鍵を
ぶるぶるぶる……
(
と重く持たせて、
(ではござれども、姉さんの事だ、遣らかしやしょう、
(いえ、あの、開けて出すよりか、私が中へ入りたい。)
と
(
(もう、私は、あの、奥さまの、その
ああ、その骨になりたいか、いや、その骨でこっちは
(御勝手だ。)
(あれ、そのかわりに奥さまが、活きた私におなんなさる、
(御勝手だ。いや、御法度だね。)
(そんな事を言わないで、後生ですから、鋳掛屋さん。)
(開けますよ。だがね……)
と、一つ
(こいつあ
(はい。)
(もっと。)
(はい。)
(
(まあ、では後を向きますわ。)
(
(
と向直ると、
(あれ、ちょっと待って下さいまし。いま目をふさいで考えますと、お
(でも、合鍵は拵えて下さいまし、大事にそれを持っていて、……出来るだけ我慢はしますけれども、どうしても開けたくってならなくなりました時に、
晩の
御旅館などは勿体ねえ、こちとら式がと木賃がると、今頃はからあきで、
「お一方?」
と、うっかり
「さようで。――お一方
(ああ。鋳掛屋さん。)
と
(ああ、腹が減った……)
と色気のない声を出して、どかりと椅子に掛けたのは、焦茶色の洋服で、身の
(減った、減った、無茶に減った。)
と、いきなり
(うまい、ああ
余り旨そうなので、こっちは里心が着きました。
お道さんが手拭を畳んでちょっと帯に挟んだ、
(
と湯気の上る処を、卓子の上へ置くんでございますがね、加賀の赤絵の金々たるものなれども、ねえ、湯呑は嬉しい心意気だ。
(何、鋳掛屋。)
と、何だか、気を打ったように言って、先生、
(やあ、御馳走はありますか。)
とかすれ笑いをしなさるんだ。
(へッ、へッ。)と、先はお役人様でがさ、お世辞
(旨い。)
姉さんが嬉しそうな顔をしながら、
(あの、電信の故障は、直りましてございますか。)
(うむ、取払ったよ。)
と頬張った
(思ったより余程さきだった。)
ははあ、電線に故障があって、
(どうかなっていましたの。)
(変なもの……何、くだらないものが、線の途中に
カラリと
(うむ、来た。……トーン、トーン……
お道さんの声で、
(旦那様、何ぞ御心配な事ではございませんか。)
一口がぶりと茶を飲んで、
(
(でも、
(……故障のためですよ、青天井の
と笑った。
坂をするすると
(ああ、ちょうどいま
(どうした故障でございますか。)
と切口上で、さも心配をしたらしい。たのもしいじゃあございませんか。
(
(はっ。)
と云って
(ああ、時さん。)
とお道さんは沈んで呼んだ。が、寂しい笑顔を向け直して、
(配達さん――どこへ……)と
少年が正しく
(狼温泉――双葉館方……村上縫子……)
(そしてどちらから。)
(ヤホ次郎――行って来ます。)
(そんな事を聞くもんじゃあない。)
(ああ、済みませんでした。)
(何、構わないようなもんじゃあるがね――どっこいしょ。)
がた、がたんと音がする。先生、もう一つの
(どう遊ばすの。)
と云ううちに、一段下りた
と肩もげっそりと、藤助は沈んで言った。……
「で、何でございますよ――どう遊ばすのかと、お道さんが言うと、心待、この日暮にはここに客があるかも知れんと、先生が言いますわ。あれ、それじゃこんな野天でなく、と、言おうじゃあございませんか。
(いや、中で
(え、間違とおっしゃって。)
とお道さんが、ひったり寄った。
(私は、)
と先生は、
(
と今度はなぜか、箸を着けずに弁当をしまいかけて、……親方の手前もある、客に電報が来た様子では、また
(はい、はい。)
と
(今、何時だろう。)
と天幕口へ出て、先生が後姿を呼びましたね。
(……四時半頃にもなりましょうか。)
(時計が
と
お地蔵様が一体、もし、この梟ヶ嶽の頭を肩へ下り口に立ってござる。――
お道さんが、帰りがけに、その地蔵様を拝みました。石の
(また、お目にかかります。)
と顔を上げて、
(後程に――)
もう先生は天幕へ入った――で、
秋の日は
三尺をしめ直す、脚絆の
そこへ……いまお道さんが下りました、草にきれぎれの石段を、
山の陰気な影をうけて、
それ、
(失礼ですが、立野竜三郎氏でいらっしゃいますか。)
(さよう、お尋ねを
(申しおくれました、私は村上
(いや。)
と先生、卓子の上へ両手をずかと
(三年
と、
(用向を御存じですか?)
(まず、お掛け下さい。)
と先生は、ドカリと野天の椅子に掛けた。
何となく気色ばんだ双方の意気込が、殺気を帯びて
先生は
「――受信人、……狼温泉二葉屋方、村上縫子、発信人は尊名、貴姓であります。
コンニチゴゴツク。ヨウイ(今日午後着く。用意)」
と聞きも済まさず、若い
(何、私信を見た上、用件を御承知になりましたな。)
「
と
「すなわち、受信人、狼温泉、二葉屋方、村上縫子。発信人、尊名、貴姓、すなわち、(今日午後着く。用意よきか。)」
(分りました。)
と
荷を担いで、ひょうろ、ひょろ。
ようやく石段の中ほどで、
(ほっ、)
と云ったが、声も、ふやける。肩をかえて性根だめしに、そこで一つ……
(鋳掛――錠前の直し。)――
何と――旦那。」
九
「……時に――雪の
上り果てた時分には、もう降っているのが
苦しい時ばかりじゃあねえ。こんな時も神頼み、で、
大方いまの雪のために、先生も、客人も、天幕に
その火鉢へ、二人が
ツツとあとへ引いて、若い
(縫子さん。)
と呼びました。
御婦人が、髪の
(立野さんに御挨拶をなさい。)
(唯今。)
と
卓子の脚に、お道さんのと重ねて置いて、
(
(は。)
と先生は一言云ったきり、顔も上げないで、めり込むように深く卓子の端についた太い腕が震えたが、それより深いのは、若旦那の方の
(
と先生はうつむいたままで、
(再び、御機嫌のお顔を拝することを得まして、
と、よろめいて立って、椅子の手に
(唯今、
と天幕に入ると、提げて出た、卓子を
それと見ると、
ずしりと、卓子の上に置くと、……先生は一足
(もはや、お二方に対しましては、……御夫婦に向いましては、立って身を支えるにも堪えません、一刻も早くこの
若旦那が、
(よろしいか。)
とちと甘いほどな、この場合優しい声で、御夫人に言いました。
(はい。)
と、若奥様は潔い。
若旦那はまっすぐに立直って、
(立野さん。)
(…………)
(では、御要求をいたします。)
(謹んで承ります、一点といえども相背きはいたしますまい。)
(そこに、卓子の上に横にお置きなさいました、革鞄を、縦にまっすぐにお直し下さい。)
(承知いたしました――いやいや罪人の手伝をしては、お道さん、
と手伝を払って、しっかとその処へ据直す。
(立野さん。
と云う声が少し震えました。
(貴下に、その紫の袖を許しました、その
――
(夢のようによく似ています。……多分、皆お互に、こうした運命だと存じます。……
(一歩もここを動きません。)
先生は、
――そうだろうと、私たちも思ったのである。
十
「
――若奥様の手が、もう
(御免遊ばせ。)
と
(ああ、ちょっと。)
と若奥様が、手で
(どうぞ……そればかりは。)
と
舌の
(飛んでもない事――お道さん。)
(いいえ、構いません。)
と若旦那はきっぱりと、
(飛んでもない事ではありません。それが当然なのです。立野さん。
(旦那様。)
と精一杯で、お道さんが、押留められた一つの手を、それなり先生の袖に縋って、無量の
(はあ、)
と落込むような大息して、先生の胸が崩れようとしますとな。
(貴方、……あの鍵が返りましたか。……優しい、お道さん、美しい、
と云って、若奥様が
先生が蒼くなって、両手でお道さんを
(これは
とあとが消えた。
(決行なさい、縫子。)
(…………)
(打て、お打ちなさい。)
(唯今。)
と肩を軽く斜めに落すと、コオトが、すっと脱げたんです。
若奥様が片膝ついて、その燃ゆる火の袖に、キラリと光る
(お身代りに私が。)
とお道さんが、その前に
「あ、危い、あなた。」
と若旦那が声を絞った。
若奥様は折敷いたままで、
(
(いいえ、本望でございます。)
(私が
と若奥様が
(貴方が、お肯き遊ばさねば、旦那様にお願い申上げます。こんな山家の女でも、心にかわりはござんせん、
若旦那の目にも、奥様にも、輝く涙が見えました。
先生は胸に大波を打たせながら、半ば
(これ、馬鹿な、馬鹿な、ふふふ、馬鹿を事を。)
(ええ、馬鹿な女でなくっては、こんなに旦那様の事を思いはしません。私は、馬鹿が嬉しゅうございます。)
(弱った。これ、
(お手間が取れます。)
(さあ、お
(いいえ、いいえ。)
(お
と云うと、抱倒して、
(ああれ。)
と震えてもがくのを、しかと片足に
(用意は
(…………)
(…………)
(さようなら……)
(……さようなら、貴方。)
日光の
コリンと響いたと思うと、先生の
片手づきに、白襟の
トタンにな、革鞄の袖が、するすると抜けて落ちました。
(貴方……
若旦那が
(ああ、嬉しい。……立野さん、お道さん、短銃をそちらへ向けて打つような女とお思いなさいましたか。)
(
と先生の、手をついて言うのをきいて、かぶりを
(いいえ、百万年の
最後の言葉でございました。」
「お道さんが
その間、膝にのせて、胸に抱いて、若旦那が、お縫さんの、柔かに投げた
(この、清い、雪のような手を見て下さい。私の偏執と自我と自尊と嫉妬のために、
と、いいいい、地蔵様の前へ、男が二人で
そこらの木の葉を、やたらに火鉢にくべながら……
(失礼、支度をいたしますから。)
若旦那がするすると松の樹の処へ
そこで内証で涙を払うのかと偲うと、肩に
――旦那方。
先生を御覧なせえ、いきなりうしろからお道さんの口へ
(時夫の来るまで……)
そう言って、石段へずッと
お道さんが、さんばら髪に肩を振って、身悶えすると、消えかかった松明が
先生の
いや何とも……酔った勢いで話しましたが、その人たちの事を思うと、何とも言いようがねえ。
実は、
皆、何とも言いようがねえ、見てござった地蔵様にも手のつけようがなかったに違えねえ。若旦那のお心持も察して上げておくんなせえ。
あくる日
(峰の白雪麓 の氷
今は互に隔てていれど)
あとで、鋳掛屋に立山を聴いた――追善の心である。皆涙を流した……座は通夜のようであった。今は互に隔てていれど)
姨捨山の月霜にして、
大正九(一九二〇)年十二月
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