一
麹町 九段――中坂 は、武蔵鐙 、江戸砂子 、惣鹿子 等によれば、いや、そんな事はどうでもいい。このあたりこそ、明治時代文芸発程の名地である。かつて文壇の梁山泊 と称えられた硯友社 、その星座の各員が陣を構え、塞頭 高らかに、我楽多文庫 の旗を飜 した、編輯所 があって、心織筆耕の花を咲かせ、綾 なす霞を靉靆 かせた。
若手の作者よ、小説家よ!……天晴 れ、と一つ煽 いでやろうと、扇子を片手に、当時文界の老将軍――佐久良 藩の碩儒 で、むかし江戸のお留守居と聞けば、武辺、文道、両達の依田 学海翁が、一 夏土用の日盛 の事……生平 の揚羽蝶の漆紋に、袴 着用、大刀がわりの杖を片手に、芝居の意休を一ゆがきして洒然 と灰汁 を抜いたような、白い髯 を、爽 に扱 きながら、これ、はじめての見参。……
「頼む。」
があいにく玄関も何もない。扇を腰に、がたがたと格子を開けると、汚い二階家の、上も下も、がらんとして、ジイと、ただ、招魂社辺の蝉の声が遠く沁込 む、明放しの三間ばかり。人影も見えないのは、演義三国誌常套手段 の、城門に敵を詭 く計略。そこは先生、武辺者だから、身構えしつつ、土間取附 の急な階子段 を屹 と仰いで、大音に、
「頼もう!」
人の気勢 もない。
「頼もう。」
途端に奇なる声あり。
「ダカレケダカ、ダカレケダカ。」
その音 、まことに不気味にして、化猫が、抱かれたい、抱かれたい、と天井裏で鳴くように聞える。坂下の酒屋の小僧なら、そのまま腰を抜かす処を、学海先生、杖の手に気を入れて、再び大音に、
「頼む。」
「ダカレケダカ、と云ってるじゃあないか。へん、野暮め。」
「頼もう。」
「そいつも、一つ、タカノコモコ、と願いたいよ。……何しろ、米八 、仇吉 の声じゃないな。彼女等 には梅柳というのが春 だ。夏やせをする質 だから、今頃は出あるかねえ。」
「頼むと申す……」
「何ものだ。」
と、いきなり段の口へ、青天の雷神 が倒 めったように這身 で大きな頭を出したのは、虎の皮でない、木綿越中の素裸 ――ちょっと今時の夫人、令嬢がたのために註しよう――唄に……
自劣亭 思案外史である。大学中途の秀才にして、のぼせを下げる三分刈の巨頭は、入道の名に謳 われ、かつは、硯友社の彦左衛門、と自から任じ、人も許して、夜討朝駆に寸分の油断のない、血気盛 の早具足なのが、昼寝時の不意討に、蠅叩 もとりあえず、ひたと向合った下土間の白い髯を、あべこべに、炎天九十度の物干から、僧正坊が覗 いたか、と驚いた、という話がある。
二
おなじ人が、金三円ばかりなり、我楽多文庫売上の暮近い集金の天保銭……世に当百ときこえた、小判形が集まったのを、引攫 って、目ざす吉原、全盛の北の廓 へ討入るのに、錣 の数ではないけれども、十枚で八銭だから、員数およそ四百枚、袂 、懐中 、こいつは持てない。辻俥 の蹴込 へ、ドンと積んで、山塞 の中坂を乗下ろし、三崎町 の原を切って、水道橋から壱岐殿坂 へ、ありゃありゃと、俥夫 と矢声を合わせ、切通 あたりになると、社中随一のハイカラで、鼻めがねを掛けている、中 山高、洋服の小説家に、天保銭の翼 が生えた、緡束 を両手に、二筋振って、きおいで左右へ捌 いた形は、空を飛んで翔 けるがごとし。不忍池 を左に、三枚橋、山下、入谷 を一のしに、土手へ飛んだ。……当時の事の趣も、ほうけた鼓草 のように、散って、残っている。
近頃の新聞の三面、連日に、偸盗 、邪淫 、殺傷の記事を読む方々に、こんな事は、話どころか、夢だとも思われまい。時世は移った。……
ところで、天保銭吉原の飛行 より、時代はずっと新しい。――ここへ点出しようというのは、件 の中坂下から、飯田町通 を、三崎町の原へ大斜めに行 く場所である。が、あの辺は家々の庭背戸が相応に広く、板塀、裏木戸、生垣の幾曲り、で、根岸の里の雪の卯 の花、水の紫陽花 の風情はないが、木瓜 、山吹の覗かれる窪地の屋敷町で、そのどこからも、駿河台 の濃い樹立の下に、和仏英女学校というのの壁の色が、凩 の吹く日も、暖かそうに霞んで見えて、裏表、露地の処々 から、三崎座の女芝居の景気幟 が、茜 、浅黄 、青く、白く、また曇ったり、濁ったり、その日の天気、時々の空の色に、ひらひらと風次第に靡 くが見えたし、場処によると――あすこがもう水道橋――三崎稲荷 の朱の鳥居が、物干場の草原だの、浅蜊 、蜆 の貝殻の棄てたも交る、空地を通して、その名の岬に立ったように、土手の松に並んで見通された。
……と見て通ると、すぐもう広い原で、屋敷町の屋敷を離れた、家並 になる。まだ、ほんの新開地で。
そこいらに、小川という写真屋の西洋館が一つ目立った。隣地の町角に、平屋建 の小料理屋の、夏は氷店 になりそうなのがあるのと、通りを隔てた一方の角の二階屋に、お泊宿の軒行燈 が見える。
お泊宿から、水道橋の方へ軒続きの長屋の中に、小さな貸本屋の店があって……お伽堂 ……びら同然の粗 な額が掛けてある。
お伽堂――少々気になる。なぜというに、仕入ものの、おとしの浅い箱火鉢の前に、二十六七の、色白で、ぽっとりした……生際はちっと薄いが、桃色の手柄の丸髷 で、何だか、はれぼったい、瞼 をほんのりと、ほかほかする小春日の日当りに表を張って、客欲しそうに坐っているから。……
羽織も、着ものも、おさすりらしいが、柔 ずくめで、前垂 の膝も、しんなりと軟 い。……その癖半襟を、頤 で圧 すばかり包ましく、胸の紐の結びめの深い陰から、色めく浅黄の背負上 が流れたようにこぼれている。解けば濡れますが、はい、身はかたく緊 めて包んで置きます、といった風容 。……これを少々気にしたが悪いだろうか……お伽堂の店番を。
三
何、別に仔細 はない。客引に使った中年増でもなければ、手軽な妾 が世間体を繕っているのでもない。お伽堂というのは、この女房の名の、おときをちょっと訛 ったので。――勿論亭主の好みである。
つい近頃、北陸の城下町から稼ぎに出て来た。商売往来の中でも、横町へそれた貸本屋だが、亭主が、いや、役人上りだから主人といおう、県庁に勤めた頃、一切猟具を用いず、むずと羽掻 をしめて、年紀 は娘にしていい、甘温、脆膏 、胸白 のこの鴨 を貪食した果報ものである、と聞く。が、いささか果報焼けの気味で内臓を損じた。勤労に堪えない。静養かたがた女で間に合う家業でつないで、そのうち一株ありつく算段で、お伽堂の額を掛けたのだそうである。
開業当初 に、僥倖 にも、素晴らしい利得 があった。
「こちらじゃ貸すばかりで、買わないですか。」
学生が一人、のっそり立ち、洋書を五六冊引抱 いて突立 ったものである。
「は、おいで遊ばしまし。」
と、丁寧に、三指もどきのお辞儀をして、
「あの、もしえ。」
と初々 しいほど細い声を掛けると、茶の間の悪く暗い戸棚の前で、その何かしら――内臓病者補壮の食はまだ考えない、むぐむぐ頬張っていた士族兀 の胡麻塩 で、ぶくりと黄色い大面 のちょんびり眉が、女房の古らしい、汚れた半□ を首に巻いたのが、鼠色の兵子帯 で、ヌーと出ると、捻 っても旋 っても、眦 と一所に垂れ下る髯の尖端 を、グイと揉 み、
「おいでい。」
と太い声で、右の洋冊 を横縦に。その鉄壺眼 で……無論読めない。貫目を引きつつ、膝のめりやすを溢出 させて、
「まるで、こりゃ値になりませんぞ。」
原著者は驚いたろう。
「しかし買うとして、いくらですか。」
――途方もない値をつけた。つけられた方は、呆れるより、いきなり撲 るべき蹴倒し方だったが、傍 に、ほんのりしている丸髷 ゆえか、主人の錆びた鋲 のような眼色 に恐怖 をなしたか、気の毒な学生は、端銭 を衣兜 に捻込 んだ。――三日目に、仕入の約二十倍に売れたという
味をしめて、古本を買込むので、床板を張出して、貸本のほかに、その商 をはじめたのはいいとして、手馴 れぬ事の悲しさは、花客 のほかに、掻払 い抜取りの外道 があるのに心づかない。毎日のように攫 われる。一度の、どか利得 が大穴になって、丸髷だけでは店が危い。つい台所用に女房が立ったあとへは、鋲の目が出て髯を揉むと、「高利貸 が居るぜ。」とか云って、貸本の素見 までが遠ざかる。当り触り、世渡 は煩 かしい。が近頃では、女房も見張りに馴れたし、亭主も段々古本市だの場末の同業を狙って、掘出しに精々出あるく。
――好 い天気の、この日も、午飯 すぎると、日向 に古足袋の埃 を立てて店を出たが、ひょこりと軒下へ、あと戻り。
「忘れものですか。」
「うふふ、丸髷 ども、よう出来たたい。」
「いやらし。」
と顔をそらしながら、若い女房の、犠牲 らしいあわれな媚 で、わざと濡色の髱 を見せる。
「うふふ。」と鳥打帽の頭 を竦 めて、少し猫背で、水道橋の方へ出向いたあとで。……
四
遅い午餉 だったから、もう二時下り。亭主の出たあと、女房は膳 の上で温茶 を含んで、干ものの残りに皿をかぶせ、余った煮豆に蓋 をして、あと片附は晩飯 と一所。で、拭布 を掛けたなり台所へ突出すと、押入続きに腰窓が低い、上の棚に立掛けた小さな姿見で、顔を映して、襟を、もう一息掻合わせ、ちょっと縮れて癖はあるが、髪結 も世辞ばかりでない、似合った丸髷 で、さて店へ出た段取だったが……
――遠くの橋を牛車 でも通るように、かたんかたんと、三崎座の昼芝居の、つけを打つのが合間に聞え、囃 の音がシャラシャラと路地裏の大溝 へ響く。……
裏長屋のかみさんが、三河島の菜漬を目笊 で買いに出るにはまだ早い。そういえば裁縫 の師匠の内の小女 が、たったいま一軒隣の芋屋から前垂 で盆を包んで、裏へ入ったきり、日和のおもてに人通りがほとんどない。
真向うは空地だし、町中は原のなごりをそのまま、窪地のあちこちには、草生 がむらむらと、尾花は見えぬが、猫じゃらしが、小糠虫 を、穂でじゃれて、逃水ならぬ日脚 の流 が暖く淀 んでいる。
例の写真館と隣合う、向う斜 の小料理屋の小座敷の庭が、破れた生垣を透いて、うら枯れた朝顔の鉢が五つ六つ、中には転ったのもあって、葉がもう黒く、鶏頭ばかり根の土にまで日当りの色を染めた空を、スッスッと赤蜻蛉 が飛んでいる。軒前 に、不精たらしい釣荵 がまだ掛 って、露も玉も干乾 びて、蛙の干物のようなのが、化けて歌でも詠みはしないか、赤い短冊がついていて、しばしば雨風を喰 ったと見え、摺切 れ加減に、小さくなったのが、フトこっち向に、舌を出した形に見える。……ふざけて、とぼけて、その癖何だか小憎らしい。
立寄る客なく、通りも途絶えた所在なさに、何心なく、じっと見た若い女房が、遠く向うから、その舌で、頬を触るように思われたので、むずむずして、顔を振ると、短冊が軽く揺れる。頤 で突きやると、向うへ動き、襟を引くと、ふわふわと襟へついて来る。……
「……まあ……」
二三度やって見ると、どうも、顔の動くとおりに動く。
頬のあたりがうそ痒 い……女房は擽 くなったのである。
袖で頬をこすって、
「いやね。」
ツイと横を向きながら、おかしく、流盻 が密 と行 くと、今度は、短冊の方から顎 でしゃくる。顎ではない、舌である。細く長いその舌である。
いかに、短冊としては、詩歌に俳句に、繍口錦心 の節を持すべきが、かくて、品性を堕落し、威容を失墜したのである。
が、じれったそうな女房は、上気した顔を向け直して、あれ性 の、少し乾いた唇でなぶるうち――どうせ亭主にうしろ向きに、今も髷 を賞 められた時に出した舌だ――すぼめ口に吸って、濡々と呂 した。
――こういう時は、南京豆ほどの魔が跳 るものと見える。――
パッと消えるようであった、日の光に濃く白かった写真館の二階の硝子窓 を開けて、青黒い顔の長い男が、中折帽を被 ったまま、戸外 へ口をあけて、ぺろりと唇を舐 めたのとほとんど同時であったから、窓と、店とで思わず舌の合った形になる。
女房は真うつむけに突伏 した、と思うと、ついと立って、茶の間へ遁 げた。着崩れがしたと見え、褄 が捻 れて足くびが白く出た。
五
「ごめんなさい。」
返事を、引込 めた舌の尖 で丸めて、黙 りのまま、若い女房が、すぐ店へ出ると……文金の高島田、銀の平打 、高彫 の菊簪 。十九ばかりの品のあるお嬢さんが、しっとり寂しいほど、着痩 せのした、縞 お召に、ゆうぜんの襲着 して、藍地 糸錦の丸帯。鶸 の嘴 がちょっと触っても微 な菫色 の痣 になりそうな白玉椿の清らかに優しい片頬を、水紅色 の絹半□ でおさえたが、且 は桔梗 紫に雁金 を銀で刺繍 した半襟で、妙齢 の髪の艶 に月の影の冴えを見せ、うつむき加減の頤 の雪。雪のすぐあとへは惜しいほど、黒塗の吾妻下駄 で、軒かげに斜 に立った。
実は、コトコトとその駒下駄の音を立てて店前 へ近づくのに、細 り捌 いた褄から、山茶花 の模様のちらちらと咲くのが、早く茶の間口から若い女房の目には映ったのであった。
作者が――謂 いたくないことだけれど、その……年暮 の稼ぎに、ここに働いている時も、昼すぎ三時頃――、ちょうど、小雨の晴れた薄靄 に包まれて、向う邸 の紅 い山茶花が覗 かれる、銀杏 の葉の真黄色 なのが、ひらひらと散って来る、お嬢さんの肌についた、ゆうぜんさながらの風情も可懐 しい、として、文金だの、平打だの、見惚 れたように呆然 として、現在の三崎町…あの辺町 の様子を、まるで忘れていたのでは、相済むまい。
――場所によると、震災後の、まだ焼原 同然で、この貸本屋の裏の溝が流れ込んだ筈 の横川などは跡も見えない。古跡のつもりで、あらかじめ一度見て歩行 いた。ひょろひょろものの作者ごときは、外套 を着た蟻のようで、電車と自動車が大昆虫のごとく跳梁奔馳 する。瓦礫 、烟塵 、混濁の巷 に面した、その中へ、小春の陽炎 とともに、貸本屋の店頭 へ、こうした娘姿を映出すのは――何とか区、何とか町、何とか様ア――と、大入の劇場から女の声の拡声器で、木戸口へ呼出すように楽には行 かない。なかなかもって、アテナ洋墨 や、日用品の唐墨の、筆、ペンなどでは追っつきそうに思われぬ。彫るにも刻むにも、鋤 と鍬 だ。
さあ、持って来い、鋤と鍬だ。
これだと、勢い汗膏 の力作とかいう事にもなって、外聞が好 い。第一、時節がら一般の気うけが好 かろう。
鋤と鍬だ、と痩腕で、たちまち息ぜわしく、つい汗になる処から――山はもう雪だというのに、この第一回には、素裸の思案入道殿をさえ煩わした。
が、再び思うに、むやみと得物 を振廻しては、馴 れない事なり、耕耘 の武器で、文金に怪我をさせそうで危かしい。
また飜 って、お嬢さんの出のあたりは――何をいうのだ――かながきの筆で行 く。
「あの……此店 に……」
若い女房が顔を見ると、いま小刻みに、長襦袢 の色か、下着の褄か、はらはらと散りつつ急いで入った、息づかいが胸に動いて、頬の半□ が少し揺れて、
「辻町、糸七の――『たそがれ』――というのがおありになって。」
と云った。
「おいで遊ばせ。」
と若い女房、おくれ馳 せの挨拶をゆっくりして、
「ございますの。……ですけれど、絡 りました一冊本ではありません……あの、雑誌の中に交って出ていますのでして。」
「ええ、そうですよ。」
と水紅色の半□がまたゆれる。
六
「ちょいちょい、お借り下さる方がございまして、よく出ますから。……唯今 見ますけれど。」
女房は片膝立ちに腰を浮かしながら能書 をいう。
「……私も読みたい読みたいと存じながら、商売もので、つい慾張 りまして、ほほほ、お貸し申します方が先へ立ちますけれど。……何ですか、お女郎の心中ものだとか申しますのね。」
「そうですって。……『たそがれ』……というのが、その娼妓 ――遊女 の名だって事です。」
と、凜 とした眦 の目もきっぱりと言った。簪の白菊も冷いばかり、清く澄んだ頬が白い。心中にも女郎にも驚いた容子 が見えぬ。もっともこのくらいな事を気にしては、清元も、長唄も、文句だって読めなかろうし、早い話が芝居の軒も潜 れまい。が、うっかり小説の筋を洩 らして、面と向ったから、女房が却って瞼 を染めた。
棚から一冊抜取ると、坐り直して、売りものに花だろう、前垂に据えて、その縮緬 の縞 でない、厚紙の表紙を撫 でた。
「どうぞ、お掛けなさいまして、まあ、どうぞ。」
はなからその気であったらしい、お嬢さんは框 へ掛けるのを猶予 わなかった。帯の錦は堆 い、が、膝もすんなりと、着流しの肩が細い。
「ちょうどいい処で、あの、ゆうべお客様から返ったばかりでございますの。それも書生さんや、職人衆からではございませんの。」
娘客の白い指の、指環 を捜すように目で追って、
「中坂下からいらっしゃいます、紫鹿子 のふっさりした、結綿 のお娘ご、召した黄八丈なぞ、それがようお似合いなさいます。それで、お袴 で、すぐお茶の水の学生さんなんでございますって。」
「その方。……」
女房の膝の方へは手も出さず、お嬢さんは、しとやかに、
「その作者が、贔屓 ?」
と莞爾 した。
辻町糸七、よく聞けよ。
「は?……」
貸本屋の客には今までほとんど例のない、ものの言葉に、一度聞返して、合点 んで、
「別にそうと限ったわけではございません。何でもよくお読みになりますの。でも、その、ゆうべおいでなさいました時、「たそがれ。――いいのね。」とおっしゃいます。……晩方でございましょう。変に暗くて気味が悪し、心細し、といいますうちにも、立込みまして、忙 しくって不可 ませんと申しましたら、お笑いなさいましたんでございます。長屋世帯はすぐそれですから、ほほほ。小説の題の事だったのでございますもの。大好きな女の名でいらっしゃるんですって。……田舎源氏、とかにもありますそうです。その時、京の五条とか三条あたりとかの暮方の、草の垣根に、雪白な花の、あわれに咲いたお話をききましたら、そのいやな入相 が、ほんのりと、夕顔ほどに明るく、白くなりましてございましてね。」
女房は、ふと気がさしたか、町通りの向う角へ顔を向けた、短冊の舌は知らん顔で、鶏頭が笑っている。写真館の硝子窓は静 に白い日を吸って。……
「……古寺の事もうかがいました。清元にございますってね。……ところどころ、あの、ほんとうに身に沁 みますようですから、そのお娘ごにおねだりして、少しばかり、巻紙の端へ。――あ、そうそう、この本の中へ挟んで、――まあ、いい事をいたしました。大事に蔵 って置こうと存じながら、つい、うっかりして、まあ、勿体ないこと。」
と、軽く前髪へあてたのである。念のため『たそがれ』の作者に言おう。これは糸七を頂いたのでは決してない。……
七
「拝見な。」
「は、どうぞ。」
雑誌に被 せた表紙の上へ、巻紙を添えて出す、かな交りの優しい書 で、
睫毛 を走った。一露瞼にうけたように、またたきして、
「すぐこのあとへ、しののめの鬼が出るんですのね、可恐 いんですこと……。」
目白からは聞えまい。三崎座だろう、釣鐘がボーンと鳴る。
柳亭種彦のその文章を、そっと包むように巻戻しながら、指を添え、表紙を開くと、薄、茅原、花野を照らす月ながら、さっと、むら雨に濡色の、二人が水の滴 りそうな、光氏 と、黄昏 と、玉なす桔梗 、黒髪の女郎花 の、簾 で抱合う、道行 姿の極彩色。
「永洗 ですね、この口絵の綺麗だこと。」
「ええ、絵も評判でございます。……中坂の、そのお娘ごもおっしゃいました。その小説の『たそがれ』は、現代 のおいらんなんだそうですけれど、作者だか、絵師 さんだかの工夫ですか、意匠 で、むかし風に誂 えたんでしょう、とおっしゃって、それに、雑誌にはいろいろの作が出ておりますけれど、一番はなへのっておりますから、そうやって一冊本の口絵のように……だそうなんでございますッて。」
「結綿 の、御容子 のいい。」
口絵から目を放さず、
「その方、いろいろな事を、ようごぞんじ……羨しいこと。表紙を別につけて、こうなされば、単行――一冊ものもおんなじようで、作者だって、どんなにか嬉しいでしょうよ。」
その方、という、この方、もいろいろな事を、ようご存じ。……で、その結綿のかな文字を、女房の手に返すと、これがために貸本屋へ立寄ったろう、借りて行く心づもりに、口絵を伏せて、表紙をきちんと、じっと見た。
「あら。」
と瞳をうつくしく、
「ちょいと、辻町糸七作、『たそがれ』――お書きになったのは、これは、どちらの、あのこちらの御主人。」
「飛んだ、とんだ、いいえ、飛んでもない。」
と何を狼狽 えたか、女房はまた顔を赤くした。同時に、要するに、黄色く、むくんだ、亭主の鼻に、額が打着 かったに相違ない。とにかく、中味が心中で、口絵の光氏とたそがれが目前 にある、ここへ亭主に出られては、しょげるより、悲 むより、周章 て狼狽 えずにいられまい。
「飛んでもない、あなた。」
と、息も忙 しく、肩を揉 んで、
「宅などが、あなた、大それた。」
そうだろう、題字は颯爽 として、輝かしい。行と、かなと、珊瑚灑 ぎ、碧樹 梳 って、触るものも自 から気を附けよう。厚紙の白さにまだ汚点 のない、筆の姿は、雪に珠琳 の装 であった。
「あの、どうも、勿体なくて、つけつけ申しますのも、いかがですけれど、小石川台町にお住居 のございます、上杉様、とおっしゃいます。」
「ええ、映山先生。」
お嬢さんの珊瑚を鏤 めた蒔絵 の櫛がうつむいた。
八
「どういたしまして。お嬢様、お心易さを頂くなぞとは、失礼で、おもいもよりませんのでございますけれど。」
この紙表紙の筆について、お嬢さんが、貸本屋として、先生と知己 のいわれを聞いたことはいうまでもなかろう。
「実は、あの、上杉先生の、多勢のお弟子さん方の。……あなたは、小説がおすきでいらっしゃいますのを、お見受け申しましたから……ご存じかも知れませんけれど、そのお一人の、糸七さんでございますが。」
「ええ。」
「実は――私ども、うまれが同じ国でございましてね、御懇意を願っておりますものですから。」
「ちっとも私……まあ、そうですか。」
「その御縁で、ついこの間、糸七さんと、もう一人おつれになって、神保町辺へ用達 においでなさいましたお帰りがけ、ご散歩かたがた、「どうだい、新店は立行 くかい。」と最初 から掛構 いなくおっしゃって。――こちらは、それと聞きますと、お大名か、お殿様が御微行 で、こんな破屋 へ、と吃驚 しましたのに、「何にも入 らない。南画の巌 のようなカステーラや、べんべらものの羊羹なんか切んなさるなよ。」とお笑いなすって、ちょうど宅が。」
また眉を顰 めたが、
「小工面 に貸本へ表紙をかぶせておりましたのをごらんなさいまして、――「辻町のやつ、まだ単行が出来ないんだ。一冊纏 ったもののように、楽屋中 で祝ってやろう。筆を下さい。」――この硯箱 を。」
「ちょいと、一度これを。」
と、お嬢さんは、硯箱を押させて、仲よしの押絵の羽子板のように胸へ当てていた『たそがれ』を、きちんと据えた。
「……「ひどい墨だな、あやしい茶人だと、これを鳥の子に包むんだ。」とおっしゃりながら、すらすらおしたためになったんでございますが、あの、筆をおとり遊ばしながら、「婦 は遊女 だ、というじゃないか。……(おん箸入 。)とかくようだ。中味は象牙 じゃあるまい。馬の骨だろう。」……何ですか、さも、おかしそうに。――そうしますと、糸七さんは、その傍 で、小さくなって。……」
お嬢さんの唇の綻 びた微笑 に、つい笑って、
「何の事ですか、私などには解りませんの、お嬢様は。」
「存じません。」
「あれ御承知らしくていらしって……お意地の悪い、ほほほ。」
「いいえ、知りません。中坂とかの、その結綿の方ならお解りでしょうね。……それよりか、『たそがれ』の作者の糸七――まあ、私、さっきから、……此店 とお知合とはちっとも知らないもんだから、……悪かったわねえ。糸七さん、ともいいませんでした。」
「いいえ、あなた、お客様は、誰方 だって、作者の名を、さん附にはなさいません。格別、お好きな、中坂のその方だって、糸七、と呼びすてでございますの。ええ、そうでございますとも。この辺でごらんなさいまし。三崎座の女役者を、御贔負 は、皆呼びずてでございます。」
言い得て女房、妙である。(おん箸入)の内容が馬の骨なら、言い得て特に妙である。が、当時梨園に擢出 た、名優久女八 は別として、三崎座なみは情 ない。場面を築地辺にとればまだしもであったと思う。けれども、三崎町が事実なのである。
「ほほほ、お呼びずての方が却ってお心易くって、――ああ、お茶を一つ。」
「おかみさん、ちょいと、あの、それより冷水 を。」
「冷水?」
「あの、ざぶざぶ、冷水で、この半□ を絞って下さいませんか。御無心ですが。私ね、実は、その町の曲角で、飛んだ気味の悪い事がありましてね。」
九
「そこの旅宿 の角まで、飯田町の方から来ますとね、妾 、俥 だったんですけれど、幌 が掛 っていましたのに、何ですか、なまぬるい、ぬめりと粘った、濡れたものが、こっちの、この耳の下から頬へ触ったんです。」
水紅色 の半□ が、今度は花弁 のしぼむ状 に白い指のさきで揺れた。
「あれ、と思って、手を当てても何にもないんです。」
「あの、此店 へおいでなさいました、今しがた……」
女房は頬をすぼめ、眉を寄せて、
「……まあ。」
「慌てて俥をとめましてね、上も下も見ましたけれど、別に何にもないんです。でも、可厭 らしく、変に臭 うようで、気味が悪くって、気味が悪くって。無理にも、何でもお願いしてと思っても、旅宿 でしょう、料理屋ですもの、両方とも。……お店の看板が「かし本」と見えました時は、ほんとうに、地獄で……血の池で……蓮 の花を見たようでしたわ。いきなり冷水 を、とも言いかねましたけれど、そのうちに、永洗の、名もいいんですのね、『たそがれ』の島田に、むら雨のかかる処だの、上杉先生の、結構なお墨の色を見ましたら、実は、いくらかすっきりして来ましたんです。」
珊瑚碧樹の水茎は、清 く、その汚濁 を洗ったのである。
「いつまでも、さっきのままですと、私はほんとうに、おいらんの心中ではないんですけど、死んでしまいたいほどでしたよ。」
大袈裟 なのを笑いもしない女房は、その路連 、半町此方 ぐらいには同感であったらしい
「ええええお易い事。まあ、ごじょうだんをおっしゃって、そんなお人がらな半□を。……唯今、お手拭 。」
茶の室 へ入るうしろから、
「綿屑 で結構よ。」
手拭をさえ惜しんだのは、余程 身に沁 みた不気味さに違いない。
女房は行 きがけに、安手な京焼の赤湯呑を引攫 うと、ごぼごぼと、仰向 くまで更 めて嗽 をしたが、俥で来たのなどは見た事もない、大事なお花客 である。たしない買水を惜気なく使った。――そうして半□を畳みながら、行儀よく膝に両の手を重ねて待ったお嬢さんに、顔へ当てるように、膝を伸 しざまに差出した。
「ほんとうに、あなた、蟆子 のたかりましたほどのあともございませんから、御安心遊ばせ。絞りかえて差上げましょう。――さようでございますか、フとしたお心持に、何か触ったのでございましょう。御気分は……」
「はい、お庇 で。」
「それにつけて、と申すのでもございませんけれど、そういえば、つい四五日前にも、同じ処で、おかしなことがあったんでございますの。ええ、本郷の大学へお通いなさいます学生さんで、時々おいで下さいます。その方ですが、あなた、今日のような好 いお日和ではありません、何ですか、しぐれて、曇って、寂しい暮方でございましたの。
やあ、と云って、その学生さんが、あの辻の方から。――油を惜しむなよ、店が暗いじゃないか。今つける処なのよ、とお心易立てに、そんな口を利きましてね、釣洋燈 の傍 に立っていますと、その時はお寄りなさらないで、さっさと水道橋の方へ通越していらっしゃいました。
三崎座が刎 ねまして、両方へばらばら人通りがありました。それが途絶えましたちょうどあとで、お一人で、さっさと幟 のかげへ見えなくおなんなすったんですが、燈 がつきました、まだ蕊 の加減もしません処へ、変だ、変だ、取殺される、幽霊だ、ばけものだ、と帽子なんか、仰向けに、あなた……」
十
「……燈をあかるくしてくれ、変だ。あ、痛い痛いと、左の手を握って、何ですか――印を結んだとかいいますように、中指を一本押立てていらっしゃるんです。……はじめは蜘蛛 の巣かと思ったよ、とそうおいいなさるものですから、狂犬 でなくて、お仕合せ、蜘蛛ぐらい、幽霊も化ものも、まあ、大袈裟なことを、とおかしいようでございましたが、燈でよく、私も一所に、その中指を、じっと見ますと、女の髪の毛が巻きついているんでございましてね。」
「髪の毛ですえ、女の。」
お嬢さんは細い指を、白く揃えて、箱火鉢に寄せた。例の枯荵 の怪しい短冊の舌は、この時朦朧 として、滑稽 が理に落ちて、寂しくなったし、鶏頭の赤さもやや陰翳 ったが、日はまだ冷くも寒くもない。娘の客は女房と親しさを増したのである。
「ええ、そうなんでございます。二人して、よく見ましたの、この火鉢の処で。」
お嬢さんは手を引込 めた。枯野の霧の緋葉 ほど、三崎街道の人の目をひいたろう。色ある半□も、安んじて袖の振 へ納った。が、うっかりした。その頬を拭 った濡手拭は、火鉢の縁に掛 っている。
女房はさまでは汚がらないで、そのままで、
「――学生さんの制服で駈戻 って来なさいましたのは水道橋の方からでございましょう。お稲荷様の鳥居が一つ、跨 を上げて飛んで来たように見えたのですけれど、変な事は――そこの旅宿 と向うの料理屋の中ほどの辻の処からだったんだそうでございましてね――灰色の雲の空から、すーっと、細いものが舞下って来て、顔から肩の処へ掛 ったように思われたんでございますって。最初 、蜘蛛の巣だろう……誰だってそう思いますわ。
身体 をもがいて払うほどの事じゃなし――声を掛けて、内の前をお通りなさいました時は、もうお忘れなすったほどだったそうなんですが、芝居の前あたりで、それが咽喉 へ触りました、むずむずと、ぐうと扱 くように。」
「いやですねえ。」
「いやでございますことね。――久女八が土蜘蛛をやっている、能がかりで評判なあの糸が、破風 か、棟から抜出したんだろう。そんな事を、串戯 でなくお思いなすったそうです。
芝居好 な方で、酔っぱらった遊びがえりの真夜中に、あなた、やっぱり芝居ずきの俥夫 と話がはずむと、壱岐殿坂の真中 あたりで、俥夫 は吹消した提灯 を、鼠に踏まえて、真鍮 の煙管 を鉄扇で、ギックリやりますし、その方は蝦蟇口 を口に、忍術の一巻ですって、蹴込 へ踞 んで、頭までかくした赤毛布 を段々に、仁木弾正 で糶上 った処を、交番の巡査 さんに怒鳴られたって人なんでございますもの。
芝居のちっと先方 へいらっしゃると、咽喉 を、そのしめ加減が違って来て、呼吸 にさわるほどですから、払ってもとれないのを、無理にむしり離して、からだを二つ三つ廻りながら、掻きはなすと、空へ消えたようだったそうでございますのに、また、キーと、まるで音でもしますように戻って来て、今度は、その中指へくるくると巻きついたんですが、巻きつくと一所に、きりきりきりきり引きしめて、きりきり、きりきり、その痛さといっては。……
縫針のさきでさえ、身のうち響きますわ。ただ事でない。解くにも、引切 るにも、目に見えるか、見えないほどだし、そこらは暗し、何よりか知った家 の洋燈 の灯を――それでもって、ええ。……
さあ、女の髪と分りました、漆のような、黒い、すなおな、柔かな、細々した、その長うございましたこと。……お嬢様。」
「いいえ、私のは。」
ついした様で、鬢 へ触った。一うち、という眉が凜 として、顔の色が一層白澄 んだ。が、怪しい黒髪に見くらべたらしい女房の素振を憎んだのでなく、妙な話が身に沁 みたものらしい。
女房の言 を切って、「いいえ」と云ったのは、またそんな意味ではなかったのである。
「あれ、変な人が、変な人が……」
変な人が、女房の正面 へ、写真館の前へ出たのであった。
十一
「こむ僧でしょうか、あれ、役者が舞台の扮装 のままで写真を撮って来たのでしょうか。」
と伸上るので、お嬢さんも連れられて目を遣 った。
この場末の、冬日の中へ、きらびやかとも言ッつべく顕 われたから、怪しいまで人の目を驚かした。が、話の続きでも、学生を悩ました一筋の黒髪とはいささかも関係はない。勿論揃って男で、変な人で、三人である。
並んだ、その真中 のが一番脊が高い。だから偉大なる掌 の、親指と、小指を隠して、三本に箔 を塗り、彩色したように見えるのが、横通りへは抜けないで、ずんずん空地の前を、このお伽堂へ押して来た。
下駄と下駄の音も聞える。近づいたから、よく解る。三人とも揃いの黒羽二重 の羽織で、五つ紋の、その、紋の一つ一つ、円か、環の中へ、小鳥を一羽ずつ色絵に染めた誂 えで、着衣 も同じ紋である。が、地 は上下 とも黒紬 で、質素と堅実を兼ねた好みに見えた。
しかし、袴 は、精巧平 か、博多か、りゅうとして、皆見事で、就中 その脊の高い、顔の長い、色は青黒いようだけれども、目鼻立の、上品向きにのっぺりと、且つしおらしいほど口の小形なのが、あまつさえ、長い指で、ちょっとその口元を圧 えているのは、特に緞子 の袴を着した。
盛装した客である。まだお膳も並ばぬうち、譬喩 にもしろ憚 るべきだが、密 と謂 おう。――繻子 の袴の襞□ とるよりも――とさえいうのである。いわんや……で、綾 の見事さはなお目立つが、さながら紋緞子の野袴である。とはいえ、人品 にはよく似合った。
この人が、塩瀬の服紗 に包んだ一管の横笛を袴腰に帯びていた。貸本屋の女房がのっけに、薦僧 と間違えたのはこれらしい。……ばかりではない。
一人、骨組の厳丈 した、赤ら顔で、疎髯 のあるのは、張肱 に竹の如意 を提 げ、一人、目の窪んだ、鼻の低い頤 の尖 ったのが、紐に通して、牙彫 の白髑髏 を胸から斜 に取って、腰に附けた。
その上、まだある。申合わせて三人とも、青と白と綯交 ぜの糸の、あたかも片襷 のごときものを、紋附の胸へ顕著に帯 した。
いずれも若い、三十許少 に前後。気を負い、色熾 に、心を放つ、血気のその燃ゆるや、男くささは格別であろう。
お嬢さんは、上気した。
処へ、竹如意 と、白髑髏である。
お嬢さんはまた少し寒気がした。
横笛だけは、お嬢さんを三人で包んで立った時、焦茶の中折帽を真俯向 けに、爪皮 の掛 った朴歯 の日和下駄を、かたかたと鳴らしざまに、その紋緞子の袴の長い裾を白足袋で緩く刎 ねて、真中の位置をずれて、ツイと軒下を横に離れたが。
弱い咳をすると、口元を蔽 うた指が離れしなに、舌を赤く、唇をぺろりと舐 めた。
貸本屋の女房は、耳朶 まで真赤 になった。
写真館の二階窓で、荵 の短冊とともに飜 った舌はこれである。
が、接吻と誤 ったのは、心得違いであろう。腰の横笛を見るがいい。たしなみの楽の故に歌口をしめすのが、つい癖になって出たのである。且つその不断の特異な好みは、歯を染めているので分る。女は気味が悪かろうが、そんなことは一向構わん、艶々として、と見た目に、舌まで黒い。
十二
「何とかいったな、あの言種 は。――宴会前で腹のすいた野原 では、見るからに唾 を飲まざるを得ない。薄皮で、肉充満 という白いのが、妾 だろう、妾に違いない。あの、とろりと色気のある工合がよ。お伽堂、お伽堂か、お伽堂。」
竹如意が却って一竹箆 食 いそうなことを言う。そのかわり、悟った道人のようなあッはッはッはッ。
「その、言種がよ、「ちとお慰みに何ぞごらん遊ばせ。」は悩ませるじゃないか。借問 す貸本屋に、あんな口上、というのがあるかい。」
「柄にあり、人により、類に応じて違うんだ。貸本屋だからと言って、股引 の尻端折 で、読本 の包みを背負って、とことこと道を真直 ぐに歩行 いて来て、曲尺形 に門戸 を入って、「あ、本屋でござい。」とばかりは限るまい。あいつ妾か。あの妾が、われわれの並んで店へ立ったのに対して、「あ、本屋とござい。」と言って見ろ、「知ってるよ。」といって喧嘩 になりか、嘘にもしろ。」とその髑髏 を指で弾 く。
「いや、その喧嘩がしたかった。実は、取組合 いたいくらいなものだった。「ちと、お慰みにごらん遊ばせ。」……おまけに、ぽッと紅 くなった、怪しからん。」
「当る、当る、当るというに。如意をそう振廻わしちゃ不可 んよ。」
豆府屋の親仁 が、売声をやめて、このきらびやかな一行に見惚 れた体で、背後 に廻ったり、横に出たり、ついて離れて歩行 くのが、この時一度後 へ退 った。またこの親仁も妙である。青、黄に、朱さえ交った、麦藁 細工の朝鮮帽子、唐人笠か、尾の尖 った高さ三尺ばかり、鯰 の尾に似て非なるものを頂いて。その癖、素銅 の矢立 、古草鞋 というのである。おしい事に、探偵ものだと、これが全篇を動かすほど働くであろう。が、今のチンドン屋の極めて幼稚なものに過ぎない。……しばらくあって、一つ「とうふイ、生揚 、雁 もどき」……売声をあげて、すぐに引込 む筈 である。
従って一行三人には、目に留めさせるまでもなければ、念頭に置かせる要もない。
「あれが仮に翠帳 における言語にして見ろ。われわれが、もとの人間の形を備えて、ここを歩行 いていられるわけのものじゃないよ。斬るか、斬られるか、真剣抜打の応酬なくんばあるべからざる処を、面壁九年、無言の行だ。――どうだい、御前 、この殿様。」
「お止 しよ、その御前、殿様は。」
と、横笛の紋緞子が、軽くその口を圧 えて、真中 に居て二人を制した。
「あれだからな、仕方をしたり、目くばせしたり、ひたすら、自重謹厳を強要するものだから、止 むことを得ず、口を箝 した。」
「無理はないよ、殿様は貸本屋を素見 したんじゃない。――見合の気だ。」
とまた髑髏を弾く。
「串戯 じゃありません。ほほほ。」
「ああ、心臓の波打つ呼吸 だぜ、何しろ、今や、シャッターを切らむとする三人の姿勢を崩して、窓口へ飛出したんだ。写真屋も驚いたが、われわれも唖然とした。何しろ、奢 るべし、今夜の会には非常なる寄附をしろ。俥 がそれなり駆抜けないで、今まで、あの店に居たのは奇縁だ。」
「しかし、我輩は与 しない。」
「何を。」
「寂しい、のみならず澄まし切ってる、冷然としたものだ。」
「お上品さ、そこが殿様の目のつけ処よ。」
十三
「……何しろ、不思議な光景だった。かくして三人が、ほとんど無言だ。……」
「ほとんど処か全然無言で。……店頭 をすとすと離れ際に、「帰途 に寄るよ。」はいささか珍だ。白い妾に対してだけに、河岸の張見世 を素見 の台辞 だ。」
「人が聞きますよ、ほほほ、見っともない。」
と、横笛が咳 する。この時、豆府屋の唐人笠が間近くその鼻を撞 かんとしたからである。
「ところで、立向って赴く会場が河岸の富士見楼で、それ、よくこの頃新聞にかくではないか、紅裙 さ。給仕の紅裙が飯田町だろう。炭屋、薪屋 、石炭揚場の間から蹴出しを飜して顕われたんでは、黒雲の中にひらめく風情さ。羅生門に髣髴 だよ。……その竹如意はどうだい。」
「如意がどうした。」
と竹如意を持直す。
「綱が切った鬼の片腕……待てよ、鬼にしては、可厭 に蒼白 い。――そいつは何だ、講釈師がよく饒舌 る、天保水滸伝 中、笹川方の鬼剣士、平手造酒猛虎 が、小塚原 で切取って、袖口に隠して、千住 の小格子を素見 した、内から握って引張 ると、すぽんと抜ける、女郎を気絶さした腕に見える。」
「腰の髑髏が言わせますかね。いうことが殺風景に過ぎますよ。」
「殿様、かつぎたまうかな。わはは。」
と揺笑 いをすると、腰の髑髏の歯も笑う。
「冷く澄んでお上品な処に、ぞっこんというんだから、切った、切ったが気になるんだ。」
「いや、縁はすぐつながるよ。会のかえりに酔払って、今夜、立処 に飛込むんだ。おでん、鍋焼、驕 る、といって、一升買わせて、あの白い妾。」
「肝腎 の文金が、何、それまで居るものか。」
「僕はむしろ妾に与 する。」
三崎座の幟 がのどかに揺れて、茶屋の軒のつくり桜が野中に返咲きの霞を視 せた。おもては静かだが、場は大入らしい、三人は、いろいろの幟の影を、袴で波形に乗って行く。
「また何か言われそうな気がしますがね、それはそれとしてだね、娘が借りるらしかった――あの小説を見ましたかね。」
「見た、なお且つ早くから知っている。――中味は読まんが、口絵は永洗だ、艶 なものだよ。」
「そうだ、いや、それだ。」
竹如意が歩行 きざまの膝を打って、
「あの文金だがね、何だか見たようでいて、さっきから思出せなかったが、髑髏が言うので思出した。春頃出たんだ、『閨秀 小説』というのがある、知ってるかい。」
「見ないが、聞いたよ。」
「樋口一葉、若松賤子 ――小金井きみ子は、宝玉入の面紗 でね、洋装で素敵な写真よ、その写真が並んだ中に、たしか、あの顔、あの姿が半身で出ていたんだ。」
「私もそうらしいと思うですがね、ほほほ。」
「おかしいじゃないか、それにしちゃ、小説家が、小説を、小説の貸本屋で。」
「ほほほ、私たちだって、画師 の永洗の絵を、絵で見るじゃありませんか。」
「あそうか、清麗楚々 とした、あの娘が、引抜くと鬼女になる。」
「戻橋だな、扇折の早百合 とくるか、凄 いぞ、さては曲者 だ。」
と、気競 って振返ると、髑髏が西日に燃えた、柘榴 の皮のようである。連れて見返った、竹如意が茶色に光って、横笛が半ば開いた口の歯が、また黒い。
三人の影が大きく向うの空地へ映ったが、位置を軽く転ずれば、たちまち、文金に蔽 いかかりそうである。烏がカアと鳴いた。
こうなると、皆化ける。安旅宿 の辻の角から、黒鴨仕立の車夫がちょろりと鯰のような天窓 を出すと、流るるごとく俥が寄った。お嬢さんの白い手が玉のようにのびて、軒はずれに衝 と招いたのである。と、緋羽 の蹴込敷へ褄 はずれ美しく、ゆうぜんの模様にない、雪なす山茶花 がちらりと上へかくれた。
十四
しかり、文金 のお嬢さんは、当時中洲辺に住居 した、月村京子、雅名を一雪 といって、実は小石川台町なる、上杉先生の門下の才媛 なのである。
ちょっとした緊張にも小さき神は宿る。ここに三人の凝視の中に、立って俥を呼んだ手の、玉を伸べたのは、宿れる文筆の気の、おのずから、美しい影を顕 わしたものであろう。
あたかも、髑髏と、竹如意と、横笛とが、あるいは燃え、あるいは光り、あるいは照らして、各々自家識見の象徴を示せるごとくに、
そういえば――影は尖 って一番長い、豆府屋の唐人笠も、この時その本領を発揮した。
余り随 いて歩行 いたのが疾 しかったか、道中 へ荷を下ろして、首をそらし、口を張って、
――「とうふイ、生揚、雁もどき。」――
唐突 に、三人のすぐ傍 で……馬鹿な奴である。
またこの三人を誰だ、と思う?……しかしこれは作者の言 よりも、世上の大 なる響 に聞くのが可 かろう。――次いで、四日と経 たないうちに、小川写真館の貸本屋と向合 った店頭 に、三人の影像が掲焉 として、金縁の額になって顕われたのであるから。
――青雲社、三大画伯、御写真――
よって釈然とした。紋の丸は、色も青麦である。小鳥は、雲雀 である。
幅広と胸に掛けた青白の糸は、すなわち、青天と白雲を心に帯 した、意気衝天 の表現なのである。当時、美術、絵画の天地に、気昂 り、意熱して、麦のごとく燃え、雲雀のごとく翔 った、青雲社の同人は他にまた幾人か、すべておなじ装 をしたのであった。
ただしこれは如実の描写に過ぎない。ここに三画伯の扮装 を記したのを視 て、衒奇 、表異、いささかたりとも軽佻 、諷刺 の意を寓 したりとせらるる読者は、あの、紫の顱巻 で、一つ印籠何とかの助六の気障 さ加減は論外として、芝居の入山形段々 のお揃 をも批判すべき無法な権利を、保有せらるべきものであらねばならない。
ついでにいう。ちょうどこの時代 ――この篇、連載の新聞の挿絵 受持で一座の清方 さんは、下町育ちの意気なお母さんの袖の裡 に、博多の帯の端然 とした、襟の綺麗な、眉の明るい、秘蔵子の健ちゃんであったと思う。
さて続いて、健ちゃんに、上野あたりの雪景色をお頼み申そう。
清水 の石磴 は、三階五階、白瀬の走る、声のない滝となって、落ちたぎり流るる道に、巌角 ほどの人影もなし。
不忍 へ渡す橋は、玉の欄干を築いて、全山の樹立 は真白 である。
これは――翌年の二月 、末の七日の朝の大雪であった。――
昨夜 、宵のしとしと雨が、初夜過ぎに一度どっと大降りになって、それが留 むと、陽気もぽっと、近頃での春らしかったが、夜半 に寂然 と何の音もなくなると、うっすりと月が朧 に映すように、大路、小路、露地や、背戸や、竹垣、生垣、妻戸、折戸に、密 と、人目を忍んで寄添う風情に、都振 なる雪女郎の姿が、寒くば絹綿を、と柳に囁 き、冷い梅の莟 はもとより、行倒れた片輪車、掃溜 の破筵 までも、肌すく白い袖で抱いたのである。が、由来宿業 として情と仇 と手のうらかえす雪女郎は、東雲 の頃の極寒に、その気色たちまち変って、拳 を上げて、戸を煽 り、廂 を鼓 き、褄を飛ばして棟を蹴 た。白面皓身 の夜叉 となって、大空を駆けめぐり、地を埋め、水を消そうとする。……
今さかんに降っている。
十五
……盛に降っている。
たてに、斜 に、上に、下に、散り、飛び、煽 ち、舞い、漂い、乱るる、雪の中に不忍の池なる天女の楼台は、絳碧 の幻を、梁 の虹に鏤 め、桜柳の面影は、靉靆 たる瓔珞 を白妙 の中空に吹靡 く。
厳 しき門の礎 は、霊ある大魚の、左右 に浪を立てて白く、御堂 を護るのを、詣 るものの、浮足に行潜 ると、玉敷く床の奥深く、千条 の雪の簾 のあなたに、丹塗 の唐戸は、諸扉 両方に細めに展 け、錦 の帳 、翠藍 の裡 に、銀の皿の燈明は、天地の一白に凝って、紫の油、朱燈心、火尖 は金色 の光を放って、三つ二つひらひらと動く時、大池の波は、さながら白蓮華 を競って咲いた。
――白雪の階 の下 に、ただ一人、褄を折り緊 め、跪 いて、天女を伏拝む女がある。
すぐ傍 に、空しき蘆簀張 の掛茶屋が、埋 れた谷の下伏せの孤屋 に似て、御手洗 がそれに続き、並んで二体の地蔵尊の、来迎 の石におわするが、はて、この娘 はの、と雪に顔を見合わせたまう。
見れば島田髷 の娘の、紫地の雨合羽 に、黒天鵝絨 の襟を深く、拝んで俯向 いた頸 の皓 さ。
吹乱す風である。渋蛇目傘 を開いたままで、袖摺 れに引着けた、またその袖にも、霏々 と降りかかって、見る見る鬢 のおくれ毛に、白い羽子 が、ちらりと来て、とまって消えては、ちらりと来て、消えては、飛ぶ。
前髪にも、眉毛にも。
その眉の上なる、朱の両方の円柱 に、
聯 の文字が、雪の降りつもる中 に、瑠璃 と、真珠を刻んで、清らかに輝いた。
再び見よ、烈しくなった池の波は、ざわざわとまた亀甲 を聳 てる。
といううちに、ふと風が静まると、広小路あたりの物音が渡って来て、颯 と浮世に返ると、枯蓮の残ンの葉、折れた茎の、且つ浮き且つ沈むのが、幾千羽の白鷺 のあるいは彳 み、あるいは眠り、あるいは羽搏 つ風情があった。
青い頭、墨染の僧の少 い姿が、御堂 内に、白足袋でふわりと浮くと、蝋燭 が灯を点じた。二つ三つまた五つ、灯 さきは白く立って、却って檐前 を舞う雪の二片 三片 が、薄紅 の蝶に飜 って、ほんのりと、娘の瞼 を暖めるように見える。
「お蝋をあげましてござります。」
「は。」
僧は中腰に会釈して、
「早朝より、ようお詣り……」
「はい。」
「寒じが強うござります、ちとおあがりになって、御休息遊ばせ。」
この僧が碧牡丹 の扉の蔭へかくれた時、朝詣 の娘は、我がために燈明の新しい光を見守った。
われら、作者なかまの申合わせで、ここは……を入れる処であるが、これが、紅 で印刷が出来ると面白い。もの言わず念願する、娘の唇の微 に動くように見えるから。黒ゝゝ では、睫毛 の顫 える形にも見えない。見えても、ゝと短いようで悪いから、紙費 だけれど、「 」白にする。
十六
時に、伏拝むのに合せた袖口の、雪に未開紅の風情だったのを、ひらりと一咲き咲かせて立って、ちょっとおくれ毛を直した顔を見ると、これは月村一雪、――中洲のお京であった。
実は――――
「……小説が上手に書けますように……」
どうも可訝 しい、絵が上手になりますように、踊が、浄瑠璃 が、裁縫 が、だとよく解 えるけれども、小説は、他 に何とか祈念のしようがありそうに思われる。作者だってそう思う。人生の機微に針の尖 で触れますように、真理を鋭刀 で裂きますように、もう一息、世界の文豪を圧倒しますように……でないと、承知の出来ない方々が多いと思う。が、一雪のお京さんは確 に前条のごとくに祈念したのである。精確な処は、傍 に真白 に立たせたまえる地蔵尊に、今からでも聞かるるが可 い。
なお、かし本屋の店頭でもそうだし、ここでの紫の雨合羽に、塗 の足駄など、どうも尋常 な娘で、小説家らしい処がない。断髪で、靴で、頬辺 が赤くないと、どうも……らしくない。が、硯友社 より、もっと前、上杉先生などよりなお先に、一輪、大きく咲いたという花形の曙 女史と聞えたは、浅草の牛肉屋の娘で――御新客 、鍋 で御酒 ――帳場ばかりか、立込むと出番をする。緋鹿子 の襷掛 けで、二の腕まで露呈 に白い、いささかも黒人 らしくなかったと聞いている。
また……ああ惜しいかな、前記の閨秀 小説が出て世評一代を風靡 した、その年の末。秋あわれに、残ンの葉の、胸の病 の紅 い小枝に縋 ったのが、凧 に儚 く散った、一葉女史は、いつも小机に衣紋 正しく筆を取り、端然として文章を綴ったように、誰も知りまた想うのである。が、どういたして……
――やがてこのあとへ顔を出す――辻町糸七が、その想う盾の裏を見せられて面食 った。糸七は、一雑誌の編輯にゆかりがあって、その用で、本郷丸山町、その路次が、(あしき隣もよしや世の中)と昂然 として女史が住んだ、あしき隣の岡場所で。……
表 を通る山高帽子の三十男、あれなりと取らずんば――と二十三の女にして、読書界に舌を巻かせた、あの、すなわちその、怪しからん……しかも梅雨時、陰惨としていた。低い格子戸を音訪 れると、見通しの狭い廊下で、本郷の高台の崖下だから薄暗い。部屋が両方にある、茶の間かと思う左の一層暗い中から、ひたひたと素足で、銀杏返 のほつれながら、きりりとした蒼白 い顔を見せた、が、少し前屈 みになった両手で、黒繻子 と何か腹合せの帯の端を、ぐい、と取って、腰を斜めに、しめかけのまま框 へ出た。さて、しゃんと緊 ったところが、(引掛 け、)また、(じれった結び)、腰の下緊 へずれ下った、一名(まおとこ結び)というやつ、むすび方の称 えを聞いただけでも、いまでは町内で棄て置くまい。差配が立処 に店 だてを啖 わせよう。
――「失礼な、うまいなり、いいえね、余りくさくさするもんですから、湯呑で一杯……てったところ……黙ってて頂戴。」――
端正どころか、これだと、しごきで、頽然 としていた事になる。もっとも、おいらんの心中などを書く若造を対手 ゆえの、心易さの姐娘 の挙動 であったろうも知れぬ。
――「今日は珍らしいんです、いつも素見 大勢。山の方から下りていらっしゃる方、皆さん学者、詩人連でおいで遊ばすでしょう。英語はもとより、仏蘭西 をどうの、独乙 をこうの、伊太利 語、……希臘 拉甸 ……」――
と云って、にっこり笑ったそうである。
が、山から下りて来るという、この人々に対しては、(じれった結び)なぞ見せはしない、所帯ぎれのした昼夜帯も(お互に貧乏で、相向った糸七も足袋の裏が破れていた。)きちんと胸高なお太鼓に、一銭が紫粉 で染返しの半襟も、りゅうと紗綾形 見せたであろう、通力自在、姐娘の腕は立派である。
――それにつけても、お京さんは娘であった。雪の朝の不忍の天女詣 は、可憐 く、可愛い。
十七
お京は下向 の、碧玳瑁 、紅珊瑚 、粧門 の下 で、ものを期したるごとくしばらく人待顔に彳 んだのは誰 がためだろう。――やがて頭巾 を被 った。またこれだけも一仕事で、口で啣 えても藤色縮緬 を吹返すから、頤 へ手繰って引結うのに、撓 った片手は二の腕まで真白 に露呈 で、あこがるる章魚 、太刀魚 、烏賊 の類 が吹雪の浪を泳ぎ寄りそうで、危っかしい趣さえ見えた。
――ついでに言おう。形容にもせよ、章魚、太刀魚はいかがだけれど、烏賊は事実居た……透かして見て広小路まで目は届かずとも、料理店、待合など、池の端 あたりにはふらふらと泳いでいたろう――
その頃は外套 の襟へ三角形 の羅紗 帽子を、こんな時に、いや、こんな時に限らない。すっぽりと被るのが、寒さを凌ぐより、半分は見得で、帽子の有無 では約二割方、仕立上りの値が違う。ところで小座敷、勿論、晴れの席ではない、卓子台 の前へ、右のその三角帽子、外套の態 で着座して、左褄 を折捌 いたの、部屋着を開 けたのだのが、さしむかいで、盃洗が出るとなっては、そのままいきなり、泳いで宜 しい、それで寄鍋をつつくうちは、まだしも無鱗類の餌らしくて尋常だけれども、沸燗 を、めらめらと燃やして玉子酒となる輩 は、もう、妖怪に近かった。立てば槍 烏賊、坐れば真 烏賊、動く処は、あおり烏賊、と拍子にかかると、また似たものが外 にあった。
季節はそれるが、その形は、油蝉にも似たのである。
――月府玄蝉 ――上杉先生が、糸七同門の一人に戯 に名づけたので、いう心は月賦で拵 えた黒色外套の揶揄 である。これが出来上った時、しかも玉虫色の皆絹裏 がサヤサヤと四辺 を払って、と、出立 った処は出来 したが、懐中空 しゅうして行処 がない。まさか、蕎麦屋 で、かけ一、御酒なしでも済まないので、苦心の結果、場末の浪花節を聞いたという。こんなのは月賦が必ず滞 る。……洋服屋の宰取 の、あのセルの前掛 で、頭の禿 げたのが、ぬかろうものか、春暖相催し申候や否や、結構なお外套、ほこり落しは今のうち、と引剥 いで持って行 くと、今度は蝉の方で、ジイジイ鳴噪 いでも黐棹 の先へも掛けないで、けろりと返さぬのがおきまりであった。
――弁持 十二――というのも居た。おなじ門葉 の一人で、手弁で新聞社へ日勤する。月給十二円の洒落 、非ず真剣を、上杉先生が笑ったのである。
ここに――もう今頃は、仔細 あって、変な形でそこいらをのそついているだろう――辻町糸七の名は、そんな意味ではない。
上杉先生の台町とは、山……一つ二つあなたなる大塚辻町に自炊して、長屋が五十七番地、渠 自ら思いついた、辻町はまずいい、はじめは五十七、いそなの磯菜。
「ヘン笑かすぜ、」「にやけていやがる、」友達が熱笑冷罵する。そこで糸七としたのである。七夕の恋の意味もない。三味線 の音色もない。
その糸七が、この大雪に、乗らない車坂あたりを段々に、どんな顔をしていよう。名を聞いただけでも空腹 へキヤリと応える、雁鍋 の前あたりへ……もう来たろう。
お京の爪皮 が雪を噛 んで出た。まっすぐに清水 下の道へは出ないで、横に池について、褄はするすると捌 くが、足許の辿々 しさ。
十八
寒い、めっきり寒い。……
氷月と云う汁粉屋の裏垣根に近づいた時、……秋は七草で待遇 したろう、枯尾花に白い風が立って、雪が一捲 き頭巾を吹きなぐると、紋の名入の緋葉 がちらちらと空に舞った。お京の姿は、傘もたわわに降り積り、浅黄で描いた手弱女 の朧夜 深き風情である。
「あら、月村さん。」
紅入ゆうぜんの裳 も蹴開くばかり、包ましい腰の色気も投棄てに……風はその背後 から煽 っている……吹靡 く袖で抱込むように、前途 から飛着いた状 なる女性 があった。
濃緑 の襟巻に頬を深く、書生羽織で、花月巻の房々したのに、頭巾は着ない。雪の傘 の烈 しく両手に揺るるとともに、唇で息を切って、
「済みません、済みませんでした、お約束の時間におくれッちまいまして。」
「まあ、よくねえ。」
と、此方 も息を吻 としながら、
「これではどうせ――三浜 さん、来 らっしゃらないと思ったもんですから、参詣 を先に済ませて、失礼でしたわ。」
「いいえ、いいえ。」
「何しろこの雪でしょう、それに私などと違って、あなたはお勤めがおありになりますから。」
「ところが、ですの。」
とまた一息して、
「私の方こそ、あなたと違って、歩行 くのも、動くのも、雨風だって、毎日体操同然なんでございますものね。」
と云った。「教え子」と題した、境遇自叙の一篇が、もう世に出ていた。これも上杉先生の門下で。――思案入道殿の館 に近い処、富坂 辺に家居 した、礫川 小学校の訓導で、三浜渚 女史である。年紀 はお京より三つ四つ姉さんだし、勤務が勤務だし、世馴 れて身の動作 も柔かく、内輪の裡 にもおのずから世の中つい通り――ここは大衆としようか――大衆向の艶 を含んで、胸も腰もふっくらしている。
「わけなし、疾 くに支度をして、この日曜だというのに袴まで穿 きましたんです、風がありますからですが。この雪と来て、あなたは不断お弱いし……きっとお出掛けなさりはしないだろう、と一人で極 めて、その袴も除 けてさ、まあ。ご丁寧に、それで火鉢に噛 りついたんですけど……そうでもない、ほかの事とは違って、お参詣 をするのに、他所 の方が、こうだから、それだから、どうの、といっては勿体なし……一人ででも、と思いますと、さあ、あなたも同じ心でお出掛けになったかも分らない。――急に火鉢の火のつくように、飛上って、時間がおくれた、大変だ。お待合わせを約束の仲町 を出た、あの大時計が雪の塔、大吹雪の峠の下に、一人旅で消えそうに彳 っていらっしゃるのが目さきに隠現 くもんですから、一息に駆出すようにして来たんです。気ばかり急いで。」
と、顔をひたと合わせそうに、傘 を横に傾けたので、耳にまで飛ぶ雪を、鬢 を振って、払い、はらい、
「この煙とも霧とも靄 とも分らない卍巴 の中に、ただ一人、薄 りとあなたのお姿を見ました時は、いきなり胸で引包 んで、抱いてあげたいと思いましたよ。」
「抱かれたい、おほほ。」
と口紅が小さく白く、雪に染まった。
「え?」
ただの世辞ではなかったが、おもいがけないお京の返事が胸を衝 いたから、ちょっと呆れて、ちょっと退 って、
「まあ、月村さん」
「おほほ、三浜さん」
「お元気、お元気……」
十九
渚も元気を増したらしい。
「ですが、顔の色がお悪いわ、少し蒼ざめて。……何しろ、ここへ入って休みましょう――ええ、私のお詣りはそれから、お精進だから構いません、お汁粉ですもの。家がまた氷月ですね。気のきかない、こんな時は、ストーブ軒か、炬燵亭 とでもすれば可 ござんすのに。」
その木戸口に、柳が一本 、二人を蔽 う被衣 のように。
「閉っていたって。」
と、少し脊伸びの及腰 に、
「この枝折戸 の掛金は外ずしてありましょう。表へだと、大廻りですものね。さあ、いらっしゃい。まこと開かなけりゃ四目垣ぐらい、破るか、乗越 すかしちまいますわ。抱かれてやろうといって下すった、あなたのためなら。……飛んだ門破りの板額 ですね。」
渚が傘を取直して、
「武器 は、薙刀 。」
「私は、懐剣。」
二人が、莞爾 。
お京の方が先んじて、ギイと押すと、木戸が向うへ、一歩先陣、蹴出す緋鹿子、揺 の糸が、弱腰をしめて雪を開いた。
「おお、まあ、天晴 れ。」
「と、おっしゃって下すった処で、敵手 はお汁粉よ。」
「あなたは。」
「え、私は、塩餡 。」
「ご尋常……てまえは、いなか。」
「あとで、鴨雑煮 。」
「驕 る平家ね、揚羽の蝶のように、まだ釣荵 がかかっていますわ。」
と閉った縁の廂 を見つつ、急に渚が肩をよじた。
「ああ、冷い、柳の枝が背 から。」
肩を払うと、顔へかかるのを、片手でまた掻 き遣って、頬をすぼめた。
「雫 もしないのに濡れたんですか、冷いこと。」
お京も立停 まって振向いた。
「髪の毛ですわ……あら、私ンじゃない。」
しごいて、引いて、幾重にも巻取るようにした指を、離すと、すっと解けて頬を離れる。成程、渚のではない。その渚が――女だ、髪にはどこまでも目が繊細 い――雪を透かして、
「まあ、長い、黒い、美しい……どこまでも雪の上を。――月村さん、あなたのですよ。」
「いいえ、私。」
「良 い薫もするようです。どこかに梅かしら。それ、そうですとも。……頭巾をこぼれて、黒く一筋。」
「すこしは長いといいますけれど、薄いほどだって言われますもの。」
と頭巾を解き、颯 と顕 われた島田の銀の丈長 が指尖 とともに揺れると、思わず傘を落した。
「気味の悪い。」
降りしきったのが小留 をした、春の雪だから、それほどの気色でも、霽 れると迅 い。西空の根津一帯、藍染 川の上あたり、一筋の藍を引いた。池の水はまだ暗い。
「気味の悪い?……気味の悪い事があるもんですか。手で引いてごらんなさいよ、ね、それ、触るでしょう、耳の下、ちっと横、手繰って。……そう、そう、すらすらと動きますわ、木戸の外の柳の上まで、まあ。」
「私どうしましょう。」
「結構じゃありませんか、あなたの指から、ああ鬢 の中へ。」
と、相傘するまで、つと寄添う。
「私どうしましょう。」
と、乳のあたりへ袖を緊 めつつ、
「空から降って来やしないんでしょうか。」
「……空からでしょうよ、池からでしょうよ、天女からお授かりなすったのかも知れませんね、羨しいったらありませんわねえ。」
二十
「でも、私、小説が上手に出来ますように――笑わないで頂戴……そういって拝んだんですのに。」
「じょうだんじゃありません、かりにもそのくらいなものをお授かりになったんですのに。」
「半分切ってあげましょうか。」
「驚いた……誰方 にさ。」
「三浜さんに。」
「まあ。」
「だって、二人でお詣りに来たんですもの。」
「まあ、慾 のおあんなさらない、可愛い、それだから私に抱かれようって……ほんとに抱きますよ。」
「あれ、人が居ます、ほほほ。」
「ええ、そう。――もうあそこまで行きました。」
――斉 しく見遣った。
富士颪 というのであろう。西の空はわずかに晴間を見せた。が、池の端を内へ、柵に添って、まだ濛々 と、雪烟 する中を、スイと一人、スイと、もう一人。やや高いのと低いのと、海月 が泳ぐような二人づれが、足はただようのに、向ううつむけに沈んで行 く。……
脊の高い方は、それでも外套 一着で、すっぽりと中折帽を被 っている。が、寸の短い方は、黒の羽織に袴なし、蓑 もなしで、見っともない、その上紋着 。やがて渚に聞けば、しかも五つ紋で。――これは外套の頭巾ばかりを木菟 に被って、藻抜けたか、辷落 ちたか、その魂魄 のようなものを、片手にふらふらと提げている。渚に聞けば、竹の皮包だ――そうであった。
「――あれ、辻町さんよ、ちょいと。」
「辻……町」
「糸七さんですってば。――つい、取紛れて、いきなり噂をしようって処、おくれちまいましたんですがね、いま、さっき、現にいま……」
「今……」
「懐剣、といって、花々しく、あなたがその木戸をお開けなすった時ですよ。立停 ってしばらく見ていましたんですよ、二人とも。頭巾を被っておいでだし、横吹きに吹掛けていましたから、お気がつかなかったんです。もっともね、すぐその前、あすこで――私はお約束の大時計より、大変な後 れ方ですから、俥 をおりると、早廻りに、すぐ池の端へ出て、揚出しわきの、あの、どんどんの橋を渡って、正面に傘を突翳 して来たんでしょう。ぶつかりそうに、後縋 りに、あの二人に。
おや……帽子はすっぽりでも、顔は分りましたから、ちょっと挨拶はしましたけれど、御堂 の方へ心はせきます。それにお連れがまるで知らない人ですから、それなり黙ってさ。それだって、様子を見ただけでも、お久しぶりとも、第一、お早う、とも言えた義理じゃありませんわ。」
「どうしたんでしょう、こんな朝……雪見とでもいうのかしら。」
「あなたもあんまりお嬢さんね。――吉原の事を随筆になすったじゃありませんか。」
「いやです、きまりの悪いこと。……親類に連れられて、浅草から燈籠 を見に行っただけなんです、玉菊の、あの燈籠のいわれは可哀 ですわね。」
「その燈籠は美しく可哀だし、あの落武者……極 っていますよ、吉原がえりの落武者は、みじめにあわれだこと。あの情 ない様子ったら。おや、立停りましたよ、また――それ、こっちを見ています。挨拶――およしなさい、連 がありますから。どんなことを言出そうも知れません。糸七さん一人だって、あなたは仲が悪いんでしょう。おなじ雑誌に、その随筆の、あの人、悪口を記 いたじゃありませんか。」
「よくご存じですこと。」
簪 を挿込むと、きりりと一文字にひそめた眉を、隠すように、傘を取って、熟 と、糸七とその連を視 た。
二十一
「しかし、しかしだね、(雪見と志した処が、まだしも)……何とかいったっけ、そうだ(……まだしも、ふ憫 だ。)」
「あわれ、憫然というやつかい。」
「やっぱり、まだしも、ふ憫だ。――(いや、ますます降るわえ、奇絶々々。)と寒さにふるえながら牛骨が虚飾 をいうと(妙。)――と歯を喰切 って、骨董 が負惜しみに受ける処だ。
またあたかも三馬の向島の雪景色とおなじように、巻込まれた処へ、(骨董子、向うから来るのは確 に婦人だぜ。)と牛骨がいうと、(さん候この雪中を独歩するもの、俳気のある婦人か、さては越 の国にありちゅう雪女なるべし、)傭 お針か、産婆だろう、とある処へ。……聞いたら怒るだろう、……バッタリ女教師の渚女史にぶつかったなぞは――(奇絶、奇絶。)妙……とお言いよ。」
「言えないよ。女作家の事はまた、べつとして……馬鹿々々しいよ。」
「三馬(式亭)が馬鹿々々しい、といって……女郎買に振られて帰ったこの朝だ。俥賃 なしの大雪に逢って、飜訳ものの、トルストイや、ツルゲネーフと附合ったり、ゲーテ、シルレルを談じたって、何の役に立つものか。そこへ行 くと三馬だ。お馴染 がいにいくらか、景気をつけてくれる。――「人間万事嘘誕計 」――骨董と牛骨が向島へ雪見の洒落で、ふられた雪を吹飛ばそう。」
「外聞の悪いことをいうなよ、雪は知らないが、ふられたのは俺じゃないぜ。」
と、大島の小袖に鉄無地の羽織で、角打の紐を縦に一扱 き扱いたのは、大学法科出の新学士。肩書の分限 に依って職を求むれば、速 に玄関を構えて、新夫人にかしずかるべき処を、僻 して作家を志し、名は早く聞えはするが、名実あい合 わず、砕いて言えば収入 が少いから、かくの始末。藍染川と、忍川の、晴れて逢っても浮名の流れる、茅町 あたりの借屋に帰って、吉原がえりの外套を、今しがた脱いだところ。姓氏は矢野弦光 で、対手 とは四つ五つ長者である。
さし向って、三馬とトルストイをごっちゃに饒舌 る、飜訳者からすれば、不埒 ともいうべき若いのは、想像でも知れた、辻町糸七。道づれなしに心中だけは仕兼ねない、身のまわり。ほうしょの黒の五つ紋(借りもの)を鴨居 の釘に剥取 られて、大名縞とて、笑わせる、よれよれ銘仙 の口綿一枚。素肌の寒さ。まだ雪の雫 の干 ない足袋は、ぬれ草鞋 のように脱いだから、素足の冷たさ。実は、フランネルの手首までの襯衣 は着て出たが、洗濯をしないから、仇汚 れて、且つその……言い憎いけれど、少し臭う。遊女 に嫌われる、と昨宵 行きがけに合乗俥 の上で弦光がからかったのを、酔った勢い、幌 の中で肌脱ぎに引きかなぐり、松源の池が横町にあるあたりで威勢よく、ただし、竜どころか、蚤 の刺青 もなしに放り出した。後悔をしても追附 かない。で、弦光のひとり寝の、浴衣をかさねた木綿広袖 に包 まって、火鉢にしがみついて、肩をすくめているのであった。
が、幸 に窓は明 い。閉め込んだ障子も、ほんのりと桃色に、畳も小庭の雪影に霞を敷いた。いま、忍川の日も紅 を解き、藍染川の雲も次第に青く流れていよう。不忍 の池の風情が思われる。
上野の山も、広小路にも、人と車と、一斉 に湧 き動揺 いて、都大路を八方へ溢 れる時、揚出しの鍋は百人の湯気を立て、隣近 な汁粉屋、その氷月の小座敷には、閨秀二人が、雪も消えて、衣紋 も、褄 も、春の色にやや緩 けたであろう。
先刻 に氷月の白い柳の裏木戸と、遠見の馬場の柵際と、相望んでから、さて小半時経 っている。
崖下ながら、ここの屋根に日は当るが、軒も廂 もまだ雫をしないから、狭いのに寂然 とした平屋の奥の六畳に、火鉢からやや蒸気 が立って、炭の新しいのが頼もしい。小鍋立 というと洒落に見えるが、何、無精たらしい雇婆 さんの突掛 けの膳で、安ものの中皿に、葱 と菎蒻 ばかりが、堆 く、狩野派末法の山水を見せると、傍 に竹の皮の突張 った、牛の並肉の朱 く溢出 た処は、未来派尖鋭の動物を思わせる。
二十二
「仰せにゃ及ぶべき。そうよ、誰も矢野がふられたとは言やしない。今朝――先刻 のあの形は何だい。この人、帰したくない、とか云って遊女 が、その帯で引張 るか、階子段 の下り口で、遁 げる、引く、くるくる廻って、ぐいと胸で抱合った機掛 に、頬辺 を押着 けて、大きな結綿 の紫が垂れ掛 っているじゃないか。その顔で二人で私を見て、ニヤニヤはどうしたんだ、こっちは一人だぜ。」
「そうずけずけとのたまうな、はははは談じたまうなよ、息子は何でも内輪がいい。……まずお酌だ。」
いかがな首尾だか、あのくらい雪にのめされながら、割合に元気なのは、帰宅早々婆さんを使いに、角店の四方 から一升徳利を通帳 という不思議な通力で取寄せたからで。……これさえあれば、むかしも今も、狸だって酒は呑める。
二人とも冷酒 で呷 った。
やがて、小形の長火鉢で、燗 もつき、鍋も掛 ったのである。
「あれはね、いいかい、這般 の瑣事 はだ、雪折笹にむら雀という処を仕方でやったばかりなんだ。――除 の二の段、方程式のほんの初歩さ。人の見ている前の所作なんぞ。――望む処は、ひけ過ぎの情夫 の三角術、三蒲団の微分積分を見せたかった……といううちにも、何しろ昨夜 は出来が悪いのさ。本来なら今朝の雪では、遊女 も化粧を朝直しと来て、青柳か湯豆府とあろう処を、大戸を潜 って、迎 も待たず、……それ、女中が来ると、祝儀が危い……。一目散に茶屋まで仲之町を切って駆けこんだろう。お同伴 は、と申すと、外套なし。」
「そいつは打殺 したのを知ってる癖に。」
「萌 した悪心の割前の軍用金、分っているよ、分っている……いるだけに、五つ紋の雪びたしは一層あわれだ、しかも借りものだと言ったっけかな。」
「春着に辛うじて算段した、苦生 の一張羅さ。」
「苦生?……」
「知ってるじゃないか、月府玄蝉、弁持十二。」
「好 い、好い。」
「並んだ中にいつも陰気で、じめじめして病人のようだからといって、上杉先生が、おなじく渾名 して――久須利 、苦生 。」
「ああ、そう、久須利か。」
「くせえというようで悪いから、皆 で、苦生 、苦生だよ。」
「さてまたさぞ苦 る事だろう、ほうしょは折目摺 れが激しいなあ。ああ、おやおや、五つ紋の泡が浮いて、黒の流れに藍 が兀 げて出た処は、まるで、藍瓶 の雪解だぜ。」
「奇絶、奇絶。――妙とお言いよ。」
「妙でないよ、また三馬か。」
「いい燗だ。そろそろ、トルストイ、ドストイフスキーが煮えて来た。」
「やけを言うなというに。そのから元気を見るにつけても、年下の息子を悩ませ、且つその友達を苦らせる、(一張羅だと聞けばかなしも。)我ながら情 ない寂しい声だな。――懺悔 をするがね。茶屋で、「お傘を。」と言ったろう。――「お傘を」――家来どもが居並んだ処だと、この言 は殿様に通ずるんだ、それ、麻裃 か、黒羽二重 お袴 で、すっと翳 す、姿は好いね。処をだよ。……呼べば軒下まで俥 の自由につく処を、「お俥。」となぜいわない。「お傘。」と来ては、茶屋めが、お互の懐中 を見透かした、俥賃なし、と睨 んだり、と思ったから、そこは意地だよ、見得もありか、土手まで雪見だ、と仲之町で袖を払った。」
「私は、すぼめた。」
「ははは、借りものだっけな、皮肉をいうなよ。息子はおとなしく内輪が好い。がつらつら思うに、茶屋の帳場は婆さんか、痘痕 の亭主に限ります。もっともそれじゃ、繁昌はしまいがね。早いから女中はまだ鼾 で居る。名代の女房の色っぽいのが、長火鉢の帳場奥から、寝乱れながら、艶々とした円髷 で、脛 も白やかに起きてよ、達手巻 ばかり、引掛 けた羽織の裏にも起居 の膝にも、浅黄縮緬 がちらちらしているんだ。」……
二十三
つれづれ草の作者に音が似ているから、法師とも人が呼ぶ、弦光法師は、盃 を置き息をついて、
「しかも件 の艶なのが、あまつさえ大概番傘の処を、その浅黄をからめた白い手で、蛇目傘 と来た。祝儀なしに借りられますか。且つまたこれを返す時の入費が可恐 しい。ここしばらくあてなしなんだからね。」
「そこで、雪の落人 となったんだね。私は見得も外聞も要らない。なぜ、この降るのに傘を借りないだろうと、途中では怨んだけれど、外套の頭巾をはずして被 せてくれたのには感謝した、烏帽子 をつけたようで景気が直った。」
「白く群がる朝返りの中で、土手を下りた処だったな。その頭巾の紐をしめながらどこで覚えたか――一段と烏帽子が似合いて候。――と器用な息子だ。しかも節なしはありがたかった。やがて静の前に逢わせたいよ。」
「静といえば。」
「乗出すなよ。こいつ、昨夜 の遊女 か。」
「そんなものは名も知らない。てんで顔を見せないんだから。」
「自棄 をいうなよ、そこが息子の辛抱どころだ。その遊女 に、馴染 をつけて、このぬし辻町様(おん箸入)に、象牙が入って、蝶足の膳につかなくっちゃ。……もっともこの箸、万客に通ずる事は、口紅と同じだがね、ははは。」
「おって教授に預ろうよ。そんな事より、私のいうのは、昨夜 それ引前 を茶屋へのたり込んだ時、籠洋燈 の傍 で手紙を書いていた、巻紙に筆を持添えて……」
「写実、写実。」
「目の凜 とした、一の字眉の、瓜実顔 の、裳 を引いたなり薄い片膝立てで黒縮緬の羽織を着ていた、芸妓島田 の。」
「うむ、それだ。それは婀娜 なり……それに似て、これは素研清楚 なり、というのを不忍の池で。……」
と、半ば口で消して、
「さあ、お酌だ。重ねたり。」
「あれは、内芸者というんだろう。ために傘を遠慮した茶屋の女房なぞとは、較べものにならなかったよ。」
「よくない、よくない量見だ。」
と、法師は大きく手を振って、
「原稿料じゃ当分のうち間に合いません。稿料不如 傘二本か。一本だと寺を退 く坊主になるし、三本目には下り松か、遣切 れない。」
と握拳 で、猫板ドンとやって、
「糸ちゃん! お互にちっと植上げをする工夫はないかい。」
と、喟然 として歎じて、こんどは、ぐたりとその板へ肘 をつく。
「へい、へい、遅 わりましてござります。」
爪の黒ずんだ婆さんの、皺頸 へ垢手拭 を巻いたのが、乾 びた葡萄豆 を、小皿にして、兀 げた汁椀を二つ添えて、盆を、ぬい、と突出した。片手に、旦那様穿換 えの古足袋を握っている。
「ああ、これだ。」と、喟然として歎じて、こんどは、畳へ手をついた。
この傭 にさえ、弦光法師は配慮した。……俥賃には足りなくても、安肉四半斤……二十匁以上、三十匁以内だけの料はある。竹の皮包を土産らしく提げて帰れば、廓 から空腹 だ、とは思うまい。――内証だが、ここで糸七は実は焼芋を主張した。粮 と温石 と凍餓共に救う、万全の策だったのである、けれども、いやしくも文学者たるべきものの、紅玉 、緑宝玉 、宝玉を秘め置くべき胸から、黄色に焦げた香 を放って、手を懐中 に暖めたとあっては、蕎麦屋 の、もり二杯の小婢の、ぼろ前垂 の下に手首を突込むのと軌を一にする、と云って斥 けた。良策の用いられざるや、古今敗亡のそれこそ、軌を一にする処である。
が、途中まず無事に三橋まで引上げた。池の端となって見たがいい、時を得顔の梅柳が、行ったり来たり緋縮緬に、ゆうぜんに、白いものをちらちらと、人を悩す朝である。はたそれ、二階の欄干 、小窓などから、下界を覗 いて――野郎めが、「ああ降ったる雪かな、あの二人のもの、簑 を着れば景色になるのに。」――婦 めが、「なぜまた蜆 を売らないだろう。」と置炬燵 で、白魚鍋 でも突 かれてみろ、畜生! 吹雪に倒るればといって、黒塀の描割 の下が通れるものか。――そこで、どんどんから忍川の柵内へ、池のまわり、雪の原へ迷込んだ次第であったが。……
二十四
「ありがたい、この、汁レルから湯気が立つ。」
と、味噌椀の蓋を落して、かぶりついた糸七が、
「何だ、中味は芋※殻 [#「くさかんむり/哽のつくり」、71-10]か、下手な飜訳みたいだね。」
「そういうなよ、漂母の餐 だよ。婆やの里から来たんだよ。」
「それだから焼芋を主張したのに、ほぐして入れると直ぐに実 になる。」
「仲之町の芸者の噂のあとへ、それだけは、その、焼芋、焼芋だけはあやまるよ。」
と、弦光が頭 を下げた。
同感である。――糸七のおなじ話でも、紅玉 、緑宝玉 だと取次栄 がするが、何分焼芋はあやまる。安っぽいばかりか、稚気が過ぎよう。近頃は作者夥間 も、ひとりぎめに偉くなって、割前の宴会 の座敷でなく、我が家の大広間で、脇息 と名づくる殿様道具の几 に倚 って、近う……などと、若い人たちを頤 で麾 く剽軽者 さえあると聞く。仄 に聞くにつけても、それらの面々の面目に係ると悪い。むかし、八里半、僭称 して十三里、一名、書生の羊羹、ともいった、ポテト……どうも脇息向の饌 でない。
ついこの間の事――一 大書店の支配人が見えた。関東名代の、強弓 の達者で、しかも苦労人だと聞いたが違いない。……話の中に、田舎から十四で上京した時は、鍛冶町辺の金物屋へ小僧で子守に使われた。泥濘 で、小銅五厘を拾った事がある。小銅五厘也 、交番へ届けると、このお捌 きが面白い、「若 、金鍔 を食うが可 かッ。」勇んで飛込んだ菓子屋が、立派過ぎた。「余所 へ行きな、金鍔一つは売られない。」という。そこで焼芋。
と、活機 に作者が、
「三つ。」
声と共に、□□ の呼吸で、支配人が指を三本。……こうなると焼芋にも禅がある。
が、何しろ、煮豆だの、芋※[#「くさかんむり/哽のつくり」、72-15]殻だのと相並んで、婆やが持出した膳もさめるし、新聞の座がさめる。ものが清新でないのである。
不精髯 も大分のびた。一つ髪でも洗って来ようと、最近人に教えられ、いくらか馴染になった、有楽町辺の大石造館十三階、地階の床屋へ行くと、お帽子お外套というも極 りの悪い代 ものが釦 で棚へ入って、「お目金、」と四度半が手近な手函 へ据 る、歯科のほかでは知らなかった、椅子がぜんまいでギギイと巻上る……といった勢 。しゃぼんの泡は、糸七が吉原返りに緒をしめた雪の烏帽子ほどに被 さる。冷い香水がざっと流れる。どこか場末の床店 が、指の尖 で、密 とクリームを扱 いて掌 で広げて息で伸ばして、ちょんぼりと髯剃あとへ塗る手際などとは格別の沙汰で、しかもその場末より高くない。
お職人が念のために、分け目を熟 と瞻 ると、奴 、いや、少年の助手が、肩から足の上まで刷毛 を掛ける。「お麁末様 。」「お世話でした。」と好 い気持になって、扉 を出ると、大理石の床続きの隣、パール(真珠)と云うレストランに青衿菫衣 の好女子ひとりあり、緑扉 に倚 りて佇 めり。
「番町さん。」
「…………」
「泉さん。」
驚いて縮めた近目の皺 を、莞爾 ……でもって、鼻の下まで伸ばさせて、
「床屋へお入んなったのを……どうもそうらしいと思ったもんですから、お帰り時分を待っていたの、寄ってらっしゃいよ。」
「は、いや、その。」
ああ、そうか、思い出した。この真珠 の本店が築地の割烹 懐石で、そこに、月並に、懇意なものの会がある。客が立込んだ時ここから選抜 きで助 けに来た、その一人である。
「どこかへいらっしゃる、ちょっと紅茶でも。」
面喰 った慌 しい中にも、忽然として、いつぞのむかし吉原の横町の、ずるずる引摺 った青い裳 と、紅 い扱帯 と、脂臭 い吸いつけ煙草を憶起 すと、憶起す要はないのに、独りで恥しくなって、横を向いた。
「お可厭 。」
「飛んでもない。」
「あら、ご挨拶。」
「飛んでもない。可厭なものかね。」
「お世辞のいいこと、熱燗 も存じております。どうぞ――さあいらっしゃい。」
二十五
「人が見ては厭 なんでしょう。お馴 れなさらない場所ですから。――あいにく三組ばかり宴会があって、多勢お見えになっていますから。……ああと……こっちが可いわ。」
拙者生れてより、今この年配 で、人見知りはしないというのに、さらさら三方をカーテンで囲って、
「覗 いちゃ不可 ません。」
何事だろうと、布目を覗く若い娘 をたしなめて、内の障子より清純 だというのに、卓子掛 の上へ真新しいのをまた一枚敷いて、その上を撓 った指で一のし伸して、
「お紅茶?」
「いや、酒です、燗を熱く。」
「分っていますわ。」
「それから、勿論食べます。」
「お無駄をなさらないでも。」
「食べますとも、空腹です。そこで、お任せ、という処だけれど、鳥を。」
「蒸焼にしましょう、よく、火を通して。」
それまで御存じか、感謝を表して、一礼すると、もう居なくなる。
すっと入交 ったのが、瞳 の大きい、色の白い、年の若い、あれは何と云うのか、引緊 ったスカートで、肩が膨 りと胴が細って、腰の肉置 、しかも、その豊 なのがりんりんとしている。
「私も築地で……先日は。」
乳のふくらみを卓子 に近く寄せて朗かに莞爾 した。その装 は四辺 を払って、泰西の物語に聞く、少年の騎士 の爽 に鎧 ったようだ。高靴の踵 の尖 りを見ると、そのままポンと蹴 て、馬に騎 って、いきなり窓の外を、棟を飛んで、避雷針の上へ出そうに見える。
カーネーション、フリージヤの陰へ、ひしゃげた煙管 を出して点 けようとしていたが、火燧 をパッとさし寄せられると、かかる騎士に対して、脂下 る次第には行 かない。雁首 を俯向 けにして、内端 に吸いつけて、
「有難う。」
と、まず落着こうとして、ふと、さあ落着かれぬ。
「はてな、や、忘れた。」
「え。」
「下足札。」
吃驚 したように顔を見たが、
「そこに穿 いていらっしゃるじゃないの。」
実は外套を預けた時、札を貰わなかったのを、うっかりと下足札。ああ、面目次第もない。
騎士 が悟って、おかしがって、笑う事笑う事、上身をほとんど旋廻して、鎧 の腹筋 を捩 る処へ、以前のが、銚子を持参。で、入れかわるように駆出した。
「お帽子も杖 も、私が預ったじゃありませんか。安心してめしあがれ。あの方、今日は会計係、がちゃがちゃん、ごとンなの。……お酌をしますわ。」
やがて少々、とろりとなって、「さてそこへ立っていちゃ、ああ成程――風紀上、尤 です……と、従って杯は。」
「さあ。(あたりを忍び目、カーテンばかり。)ちょっと一杯 ぐらい……お盃洗がなくて不可 ませんわね。」
「いや、特に感謝します、結構です。」
「あの、番町さん。私あの辺を知っていますわ。――学院の出ですもの。」
「ほう、すると英学者だ、そのお酌では恐縮です、が超恐縮で、光栄です。」
焼を念入に注意したが、もう出来たろうと、そこで運出 した一枚は、胸を引いて吃驚するほどな大皿に、添えものが堆 く、鳥の片股 、譬喩 はさもしいが、それ、支配人が指を三本の焼芋を一束 ねにしたのに、ズキリと脚がついた処は、大江山の精進日の尾頭ほどある、ピカピカと小刀 、肉叉 、これが見事に光るので、呆れて見ていると、あがりにくくば、取分けて、で、折返して小さめの、皿に、小形小刀の、肉叉がまたきらりと光る。
「ご念の入った事で……光栄です、ありがたい。」
「……お気にめして……おいしいこと。……まあ、嬉しい。それはね、手で持って、めしあがって、結構よ。」
「構いませんか、そいつは可 い、光栄です。」
仰 に従うと、口のまわりが……
「はい、お手拭。」
二十六
お会計はあちらで、がちゃがちゃがちゃんの方なんですが……ここで……分っていますからと、鉛筆を軽く紙片に走らせた。
この会計だが、この分では、物価騰昇 寒さの砌 、堅炭 三俵が処と観念の臍 を固めたのに、
「おうう、こんな事で。……光栄です。」
「お給仕の分もついておりますから、ご心配なく。」
「いよいよ光栄です。」
と思わず口へ出た。床屋の分を倍額に、少し内へ引込んだのである。ここにおいて、番町さんの、泉、はじめて悠然として、下足を出口へ運ぶと、クローク(預所 )とかで、青衿が、外套を受取って、着せてくれて、帽子、杖 、またどうぞ、というのが、それ覚えてか、いつのこと……。後朝 に、冷い拳固を背中へくらったのとは質 が違う。
噫 、噫 、世も許し、人も許し、何よりも自分も許して、今時も河岸をぞめいているのであったら、ここでぷッつりと数珠を切る処だ!……思えば、むかし、夥間 の飲友達の、遊び呆 けて、多日 寄附 かなかった本郷の叔母さんの許 を訪ねたのがあった。お柏で寝る夜具より三倍ふっくらした坐蒲団 。濃いお茶が入って、お前さんの好きな藤村の焼ぎんとんだよ、おあがり、今では宗旨が違うかい。連雀 の藪蕎麦が近いから、あの佳味 いので一銚子、と言われて涙を流した。親身の情……これが無銭 である。さても、どれほどの好男 に生れ交 って、どれほどの金子 を使ったら、遊んでこれだけ好遇 るだろう。――しかるにもかかわらず、迷いは、その叔母さんに俥賃を強請 って北廓 へ飛んだ。耽溺 、痴乱、迷妄 の余り、夢とも現 ともなく、「おれの葬礼 はいつ出る。」と云って、無理心中かと、遊女 を驚かし、二階中を騒がせた男がある。
これにつけ、またそれよ、壱岐殿坂で鼠の印 を結んでより、雪の中を傘なしで、池の端まで、などと云うにつけても、天保銭を車に積んで切通しを飛んだ、思案入道殿の方が柄が大きい。……その意気や、仙台、紀文を凌駕 するものである。
と、大理石の建物にはあるまじき、ひょろひょろとした楽書 の形になって彳 む処に、お濠 の方から、円タクが、するすると流して来て、運転手台から、仰向 けに指を三本出した。
「これだ。」
外套の袖を浮せて膝をたたいた。番町は、何のために、この床屋へ来たんだ。あまりそこらに焼芋の匂 がするから、気をかえようと髪を洗いに来たのである。そうだ、焼芋の事を、ここにちなんで(真珠)としよう。
ものは称呼 も大事である。辻町糸七が、その時もし、真珠、と云って策を立てたら、弦光も即諾して、こま切 同然な竹の皮包は持たなかったに違いない。雪に真珠を食に充 て、真珠をもって手を暖むとせんか、含玉鳳炭 の奢侈 、蓋 し開元天宝の豪華である。
即時、その三本に二貫たして、円タクで帰ったが、さて、思うに大分道草――(これも真珠としよう)――真珠を食った。
茅町の弦光の借屋の膳の上には、芋がらの汁と、葡萄豆ぽっちり、牛鍋には糸菎蒻ばかりが、火だけは盛 だから炎天の蚯蚓 のようだ、焦げて残っている、と云った処で、真珠を食ったあとだから、気が驕 って、そんなものには、構っておられん。
本文を取急ごう。
その主意たるや、要するに矢野弦光が、その日、今朝、真 もって、月村一雪、お京さんの雪の姿に惚れたのである。
一升徳利の転がったを枕にして、投足の片膝組みの仰向けで、酒の酔を陰に沈めて、天井を睨んでいたのが、むっくり、がばと起きると、どたりと凭掛 ったまま、窓下の机をハタと打った。崖下の雪解の音は余所 よりも。……
いま、障子外の雨落の雫 がこの響きで刎 ねそうであった。
「糸的 。」
「ええ、驚いた。」
この方は、袖よじれに横倒れで、鉄張りの煙管を持った手を投出したまま、吸殻を忘れたらしい、畳に焼焦――最も紳士の恥ずべきこと――を拵 えながら、うとうとしていた。
「呼んだぐらいで驚いてくれちゃ困る。よ、糸的 、いい名だなあ、従兄弟 に聞えて、親身のようだ。そのつもりで聞いてくれよ。ああ私は実は酔わん、酔えなかったんだよ。生れて三十年にして、いま目が覚めた。――ついてはだ。」
二十七
「――賛成だ、至極いいよ。私たち風来とは違って、矢野には学士の肩書がある。――御縁談は、と来ると、悪く老成 じみるが仕方がない……として、わけなく絡 るだろうと思うがね、実はこのお取次は、私じゃ不可 いよ。」
「そう、そう、そう来るだろうと思ったんだ。が、こうなれば刺違えても今更糸的 に譲って、指を銜 えて、引込 みはしない。」
と、わざとらしいまで、膝の上で拳 を握ると、糸七は気 もない顔で、
「何を刺違えるんだ、間違えているんだろう。」
「だってそうじゃないか、いつか雑誌に写真が出ていたそうだが、そんなものはほとんど眼中になかった。今朝の雪は不意打さ。俥で帰ると、追分で一生の道が南北へ分れるのを、ほんとうに一呼吸という処で、不思議な縁で……どうも言う事が甘ったるいが、どうもどうも、腹の底まで汁粉に化けた。
――氷月の雪の枝折戸 を、片手ざしの渋蛇目傘 で、衝 いて入るように褄 を上げた雨衣 の裾の板じめだか、鹿子絞りだか、あの緋色がよ、またただ美しさじゃない、清さ、と云ったら。……ここをいうのだ、茶屋の女房の浅黄縮緬のちらちらなぞは、突っくるみものの寄切 だよ、……目も覚め、心 に沁 みようじゃないか。
……同時に、時々の出入りとまでしばしばでなくても、同門の友輩 で知合ってる糸的 が、少くとも、岡惚れを。」
「その事かい、何だ。」
と笑いもカラカラと五徳に響いて、煙管を払 いた。
「対手 は素人だ、憚 りながら。」
「昨夜 振られてもかい。」
「勿論。」
「直言を感謝す。」
と俯向 いて、袖口をのばすように膝に手を長く置き、
「人壮 んなる時は、娘に勝ち、人衰うる時は女房が欲しい。……その意気だ。が、そうすると、話に乗ってくれるのに、また何が不都合だろう。」
「月村と性 が合わないんだ。先方 は言うまでもなかろうが、私も虫が好かないんだ。前 にね、月村が随筆を書いた事がある。燈籠見に誘われて、はじめて廓 を覗 いたというんだがね、雑誌の編輯でも、女というと優待するよ。――年方 の挿絵でね、編中の見物の中に月村の似顔の娘が立っている。」
「素晴しいね。早速捜そう。」
「見るんなら内にあるよ。その随筆だがね、足が土についていない。お高く中洲の中二階、いや三階あたりに。――政党出の府会議員――一雪の親だよ――その令嬢が、自分一人。女は生れさえすりゃ誰でも処女だ、純潔だのに、一人で純潔がって廓の売色を、汚 れた、頽 れた、浅ましい、とその上に、余計な事を、あわれがって、慈善家がって、異 う済まして、ツンと気取った。」
「おおおお念入りだ。」
「そいつが癪 に障ったから。――折から、焼芋(訂正)真珠を、食過ぎたせいか、私が脚気 になってね。」
「色気がないなあ。」
「祖母 に小豆を煮て貰って、三度、三度。」
「止 せよ、……今、酒を追加する……小豆は意気を銷沈 せしめる。」
「意気銷沈より脚気衝心 が可恐 かったんだ。――そこで、その小豆を喰いながら、私 らが、売女なら、どうしよってんだい、小姐 さん、内々の紐が、ぶら下ったり、爪の掃除をしない方が、余程 汚れた、頽れた、浅ましい。……塩みがきの私らを大きにお世話だ、お茶でもあがれ、とべっかっこをして見せた。」
「そうだろう、べっかっこでなくっちゃ筋は通らない。まともに弁じて、汚れた売女を憎んだのじゃない、あわれんだに……無理はないから。」
「勿論、つけた題が『べっかっこ。』さ――」
「見たいな、糸七……本名か。」
「まさか――署名は――江戸町河岸の、紫。おなじ雑誌の翌月の雑録さ。令嬢は随。……野郎は雑。――編輯部の取扱いが違うんだ。」
「辛うじて一坂越したよ、お互に、静かに、静かに。」
弦光は一息ふッ、日のあたる窓下の机の埃 を吹き、吹いた後を絹切で掃 った。
二十八
「それでも、上杉先生の、詞成堂――台町の山の屋敷の庭続き崖下にある破 借家……矢野も二三度遊びに行ったね、あの塾の、小部屋小部屋に割居して、世間ものの活字にはまだ一度も文選されない、雑誌の半面、新聞の五行でも、そいつを狙って、鷹の目、梟 の爪で、待機中の友達のね、墨色の薄いのと、字の拙 いのばかり、先生にまだしも叱正を得て、色の恋のと、少しばかり甘たれかかると、たちまち朱筆の一棒を啖 うだけで、気の吐きどころのない、嵎 を負う虎、壁裏の蝙蝠 、穴籠 の熊か、中には瓜子 という可憐なのも、気ばかり手負の荒猪 だろう。
見す見す一雪女史に先 を越されて、畜生め、でいる処へ、私のその『べっかっこ』だ、行 った! 行った! 痛快! などと喝采だから、内々得意でいたっけが――一日 、久しく御不沙汰で、台町へ機嫌伺いに出た処が、三和土 に、見馴れた二足の下駄が揃えてある。先生お出掛けらしい。玄関には下の塾から交代の当番で、弁持十二が居るのさ。日曜だったし……すぐの座敷で、先生は箪笥 の前で着換えの最中、博多の帯をきりりと緊 った処なんだ。令夫人は藤色の手柄の高尚 な円髷 で袴を持って支膝 という処へ、敷居越にこの面 が、ヌッと出た、と思いたまえ。」
「その顔だね。」
「この面 だ。――今朝なぞは特に拙いよ。「糸。」縮んだよ、先生の声が激しい。「お前、中洲のお京の悪口を書いたそうだな。」いきなりだろう、へどもどした。「は、いえ、別に。」「何、何を……悪気はない。悪気がなくって、悪口 を、何だ、洒落 だ。黙んな、黙んな。洒落は一廉 の人間のする事、云う事だ。そのつらで洒落なんぞ、第一読者に対して無礼だよ。べっかっこが聞いて呆れる。そのべっかっこという面を俺の前へ出して見ろ。うわさに聞けば、友子づれで、吉原の河岸をせせって。格子へ飛びつくというから、だぼ沙魚 のようになりやがった。――弁持……」十二のくすくす笑っているのを呼びかけて、「溝 をせせって、格子へ飛びつくのは、だぼ沙魚じゃない……お前はよく、くだらない事を知っている、何だっけな。」弁持が鹿爪らしく、「は、飛沙魚 です、は。」「飛沙魚だ、贅沢 だ。もぐり沙魚の孑孑 だ。――先方 は女だ、娘だよ。可哀そうに、(口惜 いか、)と俺が聞いたら、(恥かしい、)と云って、ほろりとしたんだ、袖で顔を隠したよ。孑孑め、女だって友だちだ、頼みある夥間 じゃないか。黒髪を腰へ捌 いた、緋縅 の若い女が、敵の城へ一番乗で塀際へ着いた処を、孑孑が這上 って、乳の下を擽 って、同じ溝 の中へ引込むんだ。」と……」
「分った、もう可 い、もう可い。」
と弦光は膝も浮きそうに、火鉢の向うで、肩をわななかせて、手を振った。
「雪のごとき、玉のごとき、乳の下を……串戯 にしろ、話にしろ、ものの譬喩 にしろ、聞いちゃおられん。私には、今日 、今朝 よりの私には――ははははは。」
寂しい笑いで、
「話はおかしいが、大心配な事が出来た。糸的 の先生、上杉さんは、その様子じゃ大分一雪女史が贔屓 らしい。あの容色 で、しんなりと肩で嬌態 えて、机の傍 よ。先生が二階の時なぞは、令夫人やや穏 ならずというんじゃないかな。」
「串戯 じゃない、片田舎の面疱 だらけの心得違 の教員なぞじゃあるまいし、女の弟子を。失礼だ。」
「失礼、結構、失礼で安心した。しかし、一言でそうむきになって、腰のものを振廻すなよ。だから振られるんだ、遊女 持てのしない小道具だ。淀屋 か何か知らないが、黒の合羽張 の両提 の煙草入 、火皿までついてるが、何じゃ、塾じゃ揃いかい。」
「先生に貰ったんだ。弁持と二人さ、あとは巻莨 だからね。」
「何しろ真田 の郎党が秘 し持った張抜の短銃 と来て、物騒だ。」
「こんなものを物騒がって、一雪を細君に……しっかりおしよ。月村はね、駿河台へ通って、依田学海翁に学んでいるんだ。」
と居直った。
二十九
「学海翁に。」
弦光は□目 一番した。
「まさか剣術じゃあるまいな。それじゃ、僧正坊の術譲りと……そうか、言わずとも白氏文集。さもありなん、これぞ淑女のたしなむ処よ。」
「違う違う、稗史 だそうだ。」
「まさか、金瓶梅 ……」
「紅楼夢 かも知れないよ。」
「何だ、紅楼夢だ。清 代第一の艶書、翁が得意だと聞いてはいるが、待った、待った。」
と上目づかいに、酒の呼吸 を、ふっと吐いて、
「学海説一雪紅楼夢 ――待った、待った、第一の艶書を、あの娘 に説かれては穏かでない。」
「教ゆ。授く。」
「……教ゆ。授く。気になる、気になる。」
「施す。」
「……施す、妙だ。いや、待った。待った。」
と掌 で押えて留めるとともに、今度は、ぐっと深く目を瞑 って、
「学海施一雪紅楼夢――や不可 え。あの髯 が白い頸脚 へ触るようだ。女教員渚の方は閑話休題として、前刻 入って行った氷月の小座敷に天狗 の面でも掛 っていやしないか、悪く捻 って払子 なぞが。大変だ、胸がどきどきして来たぞ。」
弦光はわざとらしく胸をわななかせたと思うと、その胸を反 らし、畳後 へ両の手をどさんと支 いた。
「安心するがいい。誰が紅楼夢だときめたよ、一人で慌てているんじゃないか。一雪の習ってるのは水滸伝 だとさ、白文でね。」
「何、水滸伝。はてな、妙齢の姿色、忽然 として剣侠 下地だ、うっかりしちゃいられない。」
と面 を正しく、口元を緊 めて坐り直し、
「寝ているうちに、匕首 が飛んで首を攫 うんだ、恐るべし……どころでない、魂魄 をひょいと掴 んで、血の道の薬に持って行 く。それも、もう他事 ではない、既に今朝の雪の朝茶の子に、肝まで抜かれて、ぐったりとしているんだ。聞けば聞得で、なお有難い。その様子じゃ――調ったとして婚礼の時は、薙刀 の先払い、新夫人は錦 の帯に守刀というんだね。夢にでも見たいよ、そんなのを。……
……といううちにも、糸的 、糸的 はひとりで目の覚めた顔をして澄ましているが、内で話した、外で逢ったという気振 も見せない癖に、よく、そんな、……お京さんいい名だなあ、その娘 の駿河台の研学の科目なぞを知っているね。あいつ、高慢だことの、ツンとしているのと、口でけなして何とかじゃないのかい。刺違えるならここで頼む。お互に怪我はしても、生命 に別条のない決闘なら、立処 にしようと云うんだ。俺はもう目が据 っている、真剣だよ。」
「対手 にならないが、次第 は話そう。――それ、弁持の甘き、月府の酸 きさ、誰某 と……久須利苦生の苦きに至るまで、目下、素人堅気輩には用なしだ。誰が売女 に好かれるか、それは知らないけれどもだよ。――塾の中に一人、自ら、新派の伊井蓉峰 に「似てるです。」と云って、頤 を撫でる色白な鼻の突出た男がいる。映山先生が洩 れ聞いてね、渾名 して、曰く――荷高似内 ――何だか勘平と伴内を捏合 わせたようだけれど、おもしろかろう。ところがこれだけが素人ばりの、大の、しんし。」
「大のしんし、いい許 の息子、金 ありかい。」
「お互に懐中は寂しいね、一杯おつぎよ、満々と。しんしと聞いていい許の息子かは慌て過ぎる、大晦日 に財布を落したようだ。簇 だよ、張物に使う。……押を強く張る事経師屋以上でね。着想に、文章に、共鳴するとか何とか唱えて、この男ばかりが、ちょいちょい、中洲の月村へ出向くのさ。隅田 に向いた中二階で、蒔絵 の小机の前を白魚 船がすぐ通る、欄干に凭 れて、二人で月を視 た、などと云う、これが、駿河台へ行く一雪の日取まで知っているんだ。
黙 りでは相済まないと思って、「先生、私 も、京子とともに無点本の水滸伝。」上杉先生が、「その隙 に、すいとんか、おでんを売れ。」「ははっ。」とこそは荷高似内、口をへの字に頤 の下まで結んで鼻を一すすり、無念の思入で畳をすごすごと退 る処は、旧派の花道の引込 みさ。」
「三枚目だな、我がお京さんを誰だと思うよ、取るに足らず。すると、まず、どこにも敵の心配はなしか。」
「……ところがある、あるんだ! 一人ある。」
弦光は猫板に握拳 を、むずと出して、
「驚破 、驚破、その短銃 という煙草入を意気込んで持直した、いざとなると、やっぱり、辻町が敵なのか。」
「噴出さしちゃ不可 いぜ。私は最初 から、気にも留めていなかった、まったくだ。いまこう真剣となると、黙っちゃいられない。対手 がある、美芸青雲派の、矢野 も知ってる名高い絵工 だ。」
三十
「――野土青麟 だよ。」
「あ、野土青麟か。」
「うむ、野土青麟だ。およそ世の中に可厭 な奴 。」
「当代無類の気障 だ。」
声を逸 って、言うとともに、火鉢越に二人が思わず握手した。
(……ふと思うと、前段に述べた、作者が、真珠 三枚 で、書店の支配人と、ばらりの調子で声と指を合わせたと、趣を斉 しゅうする。)
「絵だけ描いていれぱ、当人も世間も助かるものを、紫の太緒 を胸高々と、紋緞子 の袴 を引摺 って、他 が油断をしようものなら、白襟を重ねて出やがる。歯茎が真黒 だというが。」
この弦光の言、――聞くべし、特説也 。
「乱杭、歯くそ隠 の鉄漿 をつけて、どうだい、その状 で、全国の女子の服装を改良しようの、音楽を古代に回 すの、美術をどうのと、鼻の尖 で議論をして、舌で世間を嘗 めやがる。爪垢 で楽譜を汚して、万葉、古今を、あの臭い息で笛で吹くんだ。生命 知らずが、誰にも解りこないから、歌を一つ一つ、異変、畜類な声を張り、高らかに唱 って、続くは横笛、ひゃらひゅで、緞子袴の膝を敲 くと、一座を□ し、ほほほ、と笑って、おほん、と反るんだ。堪 らないと言っちゃない。あいつ、麟を改めて鱗 とすればいい、青大将め。――聞けばそいつが(次第前後す、段々解る)その三崎町のお伽堂とかで蟠 を巻いて黒い舌をべらべらとやるのかい。」
「横笛は、八本の調子を、もう一本上げたいほど高い処で張ってるのさ。貸本屋へしけ込むのは、道士逸人 、どれも膏切 った髑髏 と、竹如意 なんだよ――「ちとお慰みにごらん遊ばせ。」――などとお時の声色をそのまま、手や肩へ貸本ぐるみしなだれかかる。女房がまた、背筋や袖をしなり、くなり、自由に揉 まれながら、どうだい頬辺 と膝へ、道士、逸人の面を附着 けたままで、口絵の色っぽい処を見せる、ゆうぜんが溢出 るなぞは、地獄変相、極楽、いや天国変態の図だ。」
「図かい。」
「図だよ。」
「見料は高かろう。」
「高い、何、見料どころか、この図を視 ながら、ちょんぼり髯 の亭主が、「えへへ、ご壮 な事 だい。」勢 の趣くところ、とうとう袴を穿 いて、辻の角の(安旅籠 )へ、両画伯を招待さ……「見苦しゅうはごわすが、料理店は余り露骨……」料理屋の余り露骨は可訝 しいがね、腰掛同然の店だからさ、そこから、むすび針魚 の椀 、赤貝の酢などという代表的なやつを並べると、お時が店をしめて、台所から、これが、どうだい葛籠 に秘め置いた小紋の小袖に、繻珍 の帯という扮装 で画伯ご所望の前垂 をはずしてお取持さ。色紙、短冊、扇面、紙本、立どころに、雨となり、雲となり……いや少し慎もう……竹となり、蘭となる。……情流既に枯渇して、今はただ金慾 、野 を燎 く髯だからね。向うの写真館の、それ「三大画伯お写真。」へは、三崎座の看板前、大道の皿廻しほどには人だかりがするんだから、考えたんだよ。
(――これ皆、中洲を伺い、三崎町を覗く、荷高似内の見聞して報ずるところさ。)
ところで、青麟――青麟と中洲の関係は、はじめ、ただ、貸本屋から本を借りるには、帳面へ、所番地を控える常規 だ。きっと、馴染か、その時が初めかは分らないが、店頭 で見たお嬢さんの住居 も名も、すぐ分るだろう、というので、誰に見せる気だか薄化粧 って。」
「白粉 を?……遣るだろう!」
「すぼめ口に紅をつけて「ほほほ景気はどうかね。」とお伽堂へ一人で青麟が顕 われたそうだ。この方は、女房の手にも足にも触りっこなし、傍へ寄ろうともしない澄まし方、納まり方だそうだが、見ていると、むかっとする、離れていても胸が悪い、口をきかれると、虫唾 が走る、ほほほ、と笑われると、ぐ、ぐ、と我知らず、お時が胸へ嘔上 げて、あとで黄色い水を吐く……」
「聞いちゃおられん、そ、そいつが我がお京さんを。」
「痛い、痛い。」
「あ、何度めだい、また握手した。糸的 もよく一息に饒舌 ったなあ。」
三十一
「まず握手を解こう。両方がこう意気込んでは、青麟輩に――断って置くが、意地にも我慢にも、所得は違うが――彼等に対して、いやしくも、糸七、弦光二人掛 りのようで癪に障る。そこで、大切なその話はどうなったんだい。」
「……いずれ、その安料理屋へ青麟を請待 さ。こいつは、あと二人より大分に値が違うそうだからね。その節は、席を改めまして、が、富士見楼どころだろう。お伽堂の亭主の策略さ。
そこへ、愛読の俥 、一つ飛べば敬拝の馬車に乗せて、今を花形の女義太夫もどきで中洲の中二階から、一雪をおびき出す。」
「三崎町へ、いいえさ、地獄変相の図の中へな、ううう。」
「せき込むなよ……という事も出来るし、亭主がまた髯を捻 って、「先方御親父 が、府会議員とごわすれば、直接に打附 って見るも手廻しが早いでごわす。久しく県庁に勤めたで、大なり、小なり議員を扱う手心も承知でごわす。」などという段取になってるそうだ。」
弦光がこの時、腕を拱 いた。
「少からず煩 いな、いつからだね、そんな事のはじまってるのは。」
「初冬から年末……ははは、いやに仲人染みたぜ……そち以来 だそうだ。」
「……だそうじゃ不可 いよ、冷淡だよ、友達効 のない。」
「頼まれたのは、今日はじめてじゃないか。」
「それにしても冷淡過ぎるよ。――したたかに中洲へ魔手が伸びているのに。」
「私は中洲が煮て喰われようが、焼いて……不可 い、人道の問題だ。ただし、呼出されようが、出されまいが、喰わそうが喰わすまいが、一雪の勝手だから、そんな事は構っちゃいられん。……不首尾重って途絶えているけれど、中洲より洲崎 の遊女 が大切なんだ。しかし、心配は要るまいと思う。荷高の偵察によれば――不思議な日、不思議な場合、得 も知れない悪臭い汚い点滴 が頬を汚して、一雪が、お伽堂へ駆込んだ時、あとで中洲の背後 へ覆被 さった三人の中 にも、青麟の黒い舌の臭気が頬にかかった臭さと同じだ、というのを、荷高が、またお時から、又聞 、孫引に聞いている。お時でさえ黄水を吐く。一雪は舐 められると血を吐くだろう、話にはなりゃしないよ。」
弦光は案じ入って、立処 に年を取ること十 ばかり。
「いやいや、そうでない。すべて悲劇はそこらで起る。不思議に、そんな縁の――万々一あるまいが――結ばる事が、事実としてありかねない。予感が良くない。胸が騒ぐ。……糸ちゃん、すぐにもお伽堂とかへ行って。」
「そいつは、そいつは不可 い……」
「なぜだよ、どうもお伽堂というのは、糸的 の知合からはじまった事らしいのに、妙に自分を除外して、荷高ばかりを廻しているし、第一、中洲がだね、二三度、その店へ行 きながら、糸的 のうわさなぞをしないらしいのは、おかしいじゃないか。」
「ちっともしない、何にも言わない。またこっちも、うわさなんかして貰いたくないんだよ。」
――(様子を見ると、仔細 は什□ 、京子が『たそがれ』を借りた事など、女房は、それに一言も及ばぬらしい。)――
「ただ、いかんせん、亭主に高利の借がある。催促が厳しいんだ。亭主の催促が厳しいのに――そこを蔭になり、日向になり、「あなたア」などとその目でじろりと遣るだろう……白肉の柔い楯 になって、庇 ってくれようという――女房を、その上に、近い頃また痛めつけた。」
「誰だい、髑髏かい、竹如意かい。」
「また急込 むよ。中洲の話になってからというものは、どうも、骨董 はあせって不可 い。話の続きでも知れてるじゃないか。……高利の借りぬし、かくいう牛骨、私とそれに弁持十二さ。」
「何だ二人でか、まさか、そんな竹如意、髑髏の亜流のごとき……」
「黙るよ、私は。失礼な、素人を馬鹿な、誰が失礼を。」
「はやまった、言 のはずみだ、逸外 った。その短銃 を、すぐに引掴 んで引金を捻 くるから殺風景だ。」
「けれどもね。実は、その時の光景というのが、短銃と短刀同然だったよ。弁持と二人で、女房を引挟 んで。」
といって、苦笑した。
三十二
「――何ね、義理と附合で、弁持と二人で出掛けなくちゃならない葬式 があった、青山の奥の裏寺さ。不断は不断、お儀式の時の、先生のいいつけが厳しい。……というのは羽織袴です――弁持も私も、銀行は同一 取引の資産家だから、出掛けに、捨利 で一着に及んだ礼服を、返りがけに質屋の店さきで、腰を掛けながら引剥 ぐと、江戸川べりの冬空に――いいかね――青山から、歩行 で一度中の橋手前の銀行へ寄ったんだ。――着流 と来て、袂 へ入れた、例の菓子さ、紫蘇入 の塩竈 が両提 の煙草入と一所にぶらぶら、皀莢 の実で風に驚く……端銭 もない、お葬式 で無常は感じる、ここが隅田 で、小夜時雨 、浅草寺の鐘の声だと、身投げをすべき処だけれど、凡夫壮 にして真昼間 午後一時、風は吹いても日和はよしと……どうしても両国を乗越 さないじゃ納まらない。弁持も洲崎に馴染 があってね、洲崎の塩竈……松風空風 遊びという、菓子台一枚で、女人とともに涅槃 に入 ろう。……その一枚とさえいう処を、台ばかり。……菓子はこれだ、と袂から二人揃って、件 の塩竈を二包。……こいつには、笹川の剣士、平手造酒 の片腕より女郎が反 るぜ、痛快! となった処で――端銭もない。
ほかに工面のしようがないので、お伽堂へ大刀 さ。
三崎町の土手を行ったり来たり、お伽堂の裏手になる。……なまじっか蘆 がばらばらだから、直ぐ汐入 の土手が目先にちらついて、気は逸 るが、亭主が危い。……古本漁 りに留守の様子は知ってるけれど、鉄壺眼 が光っては、と跼 むわ、首を伸ばすわで、幸いあいてる腰窓から窺 って、大丈夫。店前 へ廻ると、「いい話がある、内証だ。」といきなり女房を茶の間へ連込むと、長火鉢の向うへ坐るか坐らないに、「達引 けよや。」と身構えた。「ありませんわ。」極 ってら。「そこだ。」というと、言合わせたように、両方から詰寄るのと、両提から鉄砲張 を、両人、ともに引抜くのとほとんど同時さ、「身体 から借りたいんだ。」「あれえ、」といったぜ。いやみな色気だ、袖屏風 で倒れやがる、片膝はみ出させた、蹴出 しでね。「騒ぐな。」と言句 は凄 いぜ、が、二人とも左右に遁 げてね、さて、身体から珊瑚 の五分珠 という釵 を借りたんだがね。……この方の催促は、またそれ亭主が妬 くといういやなものが搦 んでさ、髻 を掴 んで、引きずって、火箸 で打 たれました、などと手紙を寄越す、田舎芝居の責場があるから。」
「いや、はや、どうも。いや、どうも。」
屋根の雪がずるずると、窓下へ、どしんと響く。
弦光は坐り直して、
「出直しだ、出直しだ。この上はただ、偏 に上杉さんに頼むんだ。……と云って俺 も若いものよ。あの娘 を拝むとも言いたくないから、似合いだとか、頃合いだとか、そこは何とか、糸的 の心づもりで、糸的 の心からこの縁談を思いついたようによ、な、上杉さんに。」
「分ったよ。」
「直ぐにも頼む、もう、あの娘は俺の命だから、あの娘なしには半日も――午砲 ! までも生きられない。ううむ。」
うむと唸 って、徳利を枕にごろんとなると、辷 った徳利が勃然 と起き、弦光の頸窪 はころんと辷って、畳の縁 で頭を抱える。
「討死したな。……何も功徳だ、すぐにも先生の許 へ駆附けよう。――湯に行きたいな。」
「勿論よ。清めてくれ。――婆や、湯に行く支度だ。婆や婆や。」
「ふええ。」
「あれだ、聞いたか――池の端茅町の声でないよ、麻布狸穴 の音 だ。ああ、返事と一所に、鶯を聞きたいなあ。」
やがて、水の流 を前にして、眩 い日南 の糸桜に、燦々 と雪の咲いた、暖簾 の藍 もぱっと明 い、桜湯の前へ立った。
「糸ちゃん、望みが叶うと、よ、もやいの石鹸 なんか使わせやしない。お京さんの肌の香が芬 とする、女持の小函 をわざと持たせてあげるよ。」
悚然 として、糸七は不思議に女の肌を感じた。
「昨夜 ふられているんだい。」
「おや。」
背中を、どしんと撲 わせた。
「こいつ、こいつ。――しかし、さすがに上杉先生のお仕込みだ、もてたと言わない。何だ、見ろ。耳朶 に女の髪の毛が巻きついているじゃないか。」
「頭巾を借りて被 ったから、矢野 のだよ。ああ、何だか、急に、むずむずする。」
「長いなあ、長い、細い、真漆 。……口惜 いが、俺のはこんな美人じゃない。待てここは二瀬よ。藍染川へ、忍川へ……流すは惜しい、桜の枝へ……」――
桜の枝が、たよたよして、しずれ落ちに雪がさらさらと落ちて、巻きかけた一筋のその黒髪の丈を包んだ。
上野の山の松杉の遠く真白 な中から、柳が青く綾 に流れて、御堂 の棟は日の光紫に、あの氷月の背戸あたり、雪の陽炎 う幻の薄絹かけて、紅 の花が、二つ、三つ。
三十三
辻町糸七は、ぽかんとしていた仕入もの、小机の傍 の、火もない炉辺 から、縁を飛んで――跣足 で逃げた。
逃げた庭――庭などとは贅 の言分。放題の荒地で、雑草は、やがて人だけに生茂 った、上へ伸び、下を這 って、芥穴 を自然に躍った、怪しき精のごとき南瓜 の種が、いつしか一面に生え拡がり、縦横無尽に蔓 り乱れて、十三夜が近いというのに、今が黄色な花ざかり。花盛りで一つも実のない、ない実の、そのあって可 い実の数ほど、大きな蝦蟇 がのそのそと這いありく。
歌俳諧や絵につかう花野茅原とは品変って、自 から野武士の殺気が籠 るのであるから、蝶々も近づかない。赤蜻蛉 もツイとそれて、尾花の上から視 めている。……その薄 さえ、垣根の隅に忍ぶばかり、南瓜の勢 は逞 しく、葉の一枚も、烏を組んで伏せそうである。
――遠くに居る家主が、かつて適切なる提案をした。曰く、これでは地味が荒れ果てる、無代 で広い背戸を皆借そうから、胡瓜 なり、茄子 なり、そのかわり、実のない南瓜を刈取って雑草を抜けという。が、肥料なしに、前栽 もの、実入 はない。二十六、七の若いものに、畠 いじりは第一無理だし、南瓜の蔓 は焚附 にもならぬ。町に、隠れたる本草家があって、その用途を伝授しても、鎌を買う資本 がない、従ってかの女、いや、あの野郎の狼藉 にまかせてあるが、跳梁跋扈 の凄 じさは、時々切って棄てないと、木戸を攀 じ、縁側へ這いかかる。……こんな荒地は、糸七ごときに、自 からの禄と見えて、一方は隣地の華族邸 の厚い塀だし、一方は大きな植木屋の竹垣だし、この貸屋の背戸として、小さく囲った、まばら垣は、早く朽崩れたから杭もないのに、縁側の片隅に、がたがただけれども、南瓜の蔓が開 け閉 てする、その木戸が一つ附いていて、前長屋総体と区切があるから、およそ一百坪に余るのが、おのずから、糸七の背戸のようになっている。
(――そこへ遁 げた――)
糸七は、南瓜の葉を被 らんばかり、驚破 といえば躍越えて遁げるつもりの植木屋の竹垣について、薄 の根にかくれて、蝦蟇 のように跼 んで、遁げた抜けがらの巣を――窺 えば――
――籠 るのは、故郷から出て来て寄食している、糸七の甥の少年で、小説家の巣に居ながら、心掛は違う、見上げたものの大学志願で、試験準備に、神田辺 の学校へ通って、折からちょうど居なかった。
七十八歳になるただ一人、祖母ばかり。大塚の場末の――俥 がその辻まで来ると、もう郡部だといって必ず賃銀の増加 を強請 る――馬方の通る町筋を、奥へ引込 んだ格子戸わきの、三畳の小部屋で。……ああ、他事 ながらいたわしくて、記すのに筆がふるえる、遥々 と故郷 から引取られて出て来なすっても、不心得な小説孫が、式 のごとき体装 であるから、汽車の中で睡 るにもその上へ白髪 の額を押当てて頂いた、勿体ない、鼠穴のある古葛籠 を、仏壇のない押入の上段 に据えて、上へ、お仏像と先祖代々の位牌 を飾って、今朝も手向けた一銭 蝋燭 も、三分一が処で、倹約で消 した、糸心のあと、ちょんぼりと黒いのを背 に、日だけはよく当る、そこで、破足袋 の継ぎものをしてござった。
さて、その、ひょいと持って軽く置くと、古葛籠の上へも据りそうな、小さな白髪の祖母 さんの起居 の様子もなしに、悉 しく言えば誰が取次いだという形もなしに、土間から格子戸まで見通しの框 の板敷、取附 きの縦四畳、框を仕切った二枚の障子が、すっと開いて、開いた、と思うと、すぐと閉った。穴だらけの障子紙へ、穴から抜けたように、すらりと立った、霧のような女の姿。
姿を。……
ここから、南瓜の葉がくれに熟 と覗 くと、霧が濃くなり露のしたたる、水々とした濡色の島田髷 に、平打 がキラリとした。中洲のお京さん、一雪である。
三十四
――この破屋 へ、ついぞない、何しに来たろう――
来やがったろう、と言いたくらいだ。そりの合わない……というのも行き過ぎか、合うにも合わないにも妙齢 の女なんぞ影も見せたことのない処へ何しに来たろう。――ああ、そうか。矢野(弦光)の、通俗、首ったけな惚 れかたを、台町の先生に直ぐ取次いだところ、「好 かろう。」と笑いながらの声が掛 った。先生の一言だ、「好かろう。」は引受けたと同然だから、いずれ嬉しい返事を、と弦光も待つうちに、さあ……梅雨ごろだったか、降っていた。持崩した身は、雨にたたかれた藁 のようになって、どこかの溝へ引掛 り、くさり抜いた、しょびたれで、昼間は見っともなくて長屋居廻 へ顔も出せない。日が暮れて晩 く帰ると、牛込の料理屋から、俥夫 が持って駈 けつけたという、先生の手紙があって、「弦光座にあり、待つ」とおっしゃる。……飛びたいにも、駈けたいにも、俥賃なぞあるんじゃない、天保銭の翼も持たぬ。破傘 の尻端折 、下駄をつまんだ素跣足 が、茗荷谷 を真黒 に、切支丹坂 下から第六天をまっしぐら。中の橋へ出て、牛込へ潜込 んだ、が、ああ、後 れた。料理屋の玄関へ俥が並んで、□々 と、一番の幌 の中から、「遅いじゃないか。」先生の声にひやりとすると、その後から、「待っていたんですよ。」という声は、令夫人。こんな処へ御同行は、見た事、聞いた事もない、と呆れた、がまた吃驚 。三つ目の俥の楫棒 を上げた、幌に覗かれた島田の白い顔が……
……あの、お京……いやに、ひったり俯向 いた……
幌の中で、どしばたして、弦光が、「辻町か、引返 して飲もう」という時、先生の俥がちょっとあと戻りして、「矢野は酔ってる、もう帰んな。……塾のものには誰にも黙っているんだぜ。」――馬鹿にも分った、これは、見合だ。
納ったか、悦に入ったか、気取ったか、弦光め、それきり多日 顔を見せに来ない。酒でも催促するようで癪だからこっちからは出向かずと――塾では先生にお目には掛 るが、月府、弁持、久須利、荷高の面々が列している。口留をされたほどだから話は出ずと。――結婚はいつだ、とその後、矢野に打撞 れば、「息子は世間を知らないよ、紳士、淑女の一生の婚礼だ、引きつけで対妓 が極 るように、そう手軽に行くものか、ははは。」と笑 の、何だか空虚 さ。所帯気で緊 ると、笑も理に落ちるかと思ったっけ。やがて、故郷、佐賀県の田舎の実家に、整理すべき事がある、といって、夏うち国に帰ったのが――まだ出て来ない。それについて、御縁女、相談に来 せられたかな……
咄嗟 に心 で思ううちに、框 の障子の、そこに立ったお京の、あでやかに何だか寂しい姿が、褄さきが冷いように、畳をしとしと運ぶのが見えて、縁の敷居際で、すんなりと撓 うばかり、浮腰の膝をついた。
同時に南瓜の葉が一面に波を打って、真黄色 な鴎 がぱっと立ち、尾花が白く、冷い泡で、糸七の面 を叩いた。
大塚の通 を、舟が漕 ぎ、帆が走る……
――や、あの時にそっくりだ。そうだ、しかも八月極暑よ。去んぬる年、一葉女史を、福山町の魔窟に訪ねたと同じ雑誌社の用向きで、中洲の住居 を音信 れた事がある。府会議員の邸と聞いたが、場処柄だろう、四枚格子の意気造り。式台で声をかけると、女中も待たず、夕顔のほんのり咲いた、肌をそのままかと思う浴衣が、青白い立姿で、蘆戸 の蔭へ透いて映ると、すぐ敷居際に――ここに今見ると同じ、支膝 の七分身。紅 、緋 でない、水紅 より淡い肉色の縮緬 が、片端とけざまに弛 んで胸へふっさりと巻いた、背負上 の不思議な色気がまだ目に消えない。
――原稿を十四五枚、言託 けただけで帰ろうと思うのを、「どうぞ、」と黙って入ってしまった。埃 だらけの足を、下駄へ引擦 ったなり、中二階のような夏座敷へ。……団扇 を出したっけな、お京も持って。さて、何を聞いたか、饒舌 ったか、腰掛窓の机の前の大川の浪に皆流れた。成程、夕顔の浴衣を着た、白い顔の眉の上を、すぐに、すらすらと帆が通る……と見ただけでも、他事 ながら、簇 、荷高似内のする事に、挙動 の似たのが、気咎 めして、浅間しく恥しく、我身を馬鹿と罵 って、何も知らないお京の待遇 を水にした。アイスクリームか、ぶっかきか、よくも見ないで、すたすた、どかどか、がらん、うしろを見られる極りの悪さに、とッつき玄関の植込の敷石に蹴躓 いて、ひょろ、ひょろ。……
「何のざまだ。」
心の裡 で呟 いた……
三十五
塞 り、不義理だらけで、友達も好 い顔せず、渡って行 きたい洲崎へも首尾成らず……と新大橋の真中 に、ひょろ、ひょろのままで欄干に縋 って立つと、魂が中ぶらり、心得違いの気の入れどころが顛倒 っていたのであるから、手玉に取って、月村に空へ投出されたように思った。一雪め、小説なぞ書かなければ、雑誌編輯の用だと云って、こんな使いはしまいものを、お京め。と、隅田の川波、渺々 たるに、網の大きく水脚を引いたような、斜向うの岸に、月村のそれらしい、青簾 のかかった、中二階――隣に桟橋を張出した料理店か待合の庭の植込が深いから、西日を除けて日蔭の早い、その窓下の石垣を蔽 うて、もう夕顔がほの白い……
……時であった。簾が巻き消えに、上へ揚ると、その雪白の花が、一羽、翡翠 を銜 えた。いや、お京の口元に含んだ浅黄の団扇が一枚。大潮を真南 に上げ颯 と吹く風とともに、その団扇がハッと落ちて、宙に涼しい昼の月影のようにひらひらと飜 ると見るうちに、水面へスッと流れて、水よりも青くすらすらと橋へ寄った。その時悚然 として、目を閉 いで俯向 いた――挨拶 をしたかも知れない。――
さて何と思ったろう……その晩だったか、あと二三日おいてだったか、東雲 の朝帰りに、思わず聞いた、「こんな身体 で、墓詣りをしてもいいだろうか。」遊女 が、「仏様でしたら差支えござんすまい。御両親。」その墓は故郷にある。「お許婚 ……?」「いや、」一葉女史の墓だときいて、庭の垣根の常夏 の花、朝涼 だから萎 むまいと、朝顔を添えた女の志を取り受けて、築地本願寺の墓地へ詣でて、夏の草葉の茂りにも、樒 のうらがれを見た覚えがある……
……とばかりで、今、今まで胴忘れをしていた、お京さん……が、何しに来たろう。ああ、あの時の雑誌の使いの挨拶だ。
視 めたようだっけ……後姿に、そっと立った。真横の襖 を越して、背戸正面に半ば開いたのが見える。角の障子の、その、隅へ隠れたらしい。
それは居間だ。四畳半、机がある。仕事場である。が、硯 も机も埃 だらけ、炉とは名のみの、炬燵 の藻抜け、吸殻ばかりで、火の気もない。
右手の一方は甥の若いのが遣り放し、散らかし放題だが、まだその方へ入ってくれればよかったものをと、さながら遁出 したあとの城を、乗取 られたようなありさまで。――とにかく、来客――跣足 のまま、素袷 のくたびれた裾を悄々 として、縁側へ――下まで蔓 る南瓜の蔓で、引拭 うても済もうけれど、淑女の客に、そうはなるまい。台所へ廻ろうか、足を拭 いてと、そこに居る娘 の、呼吸 の気勢 を、伺い伺い、縁端 へ。――がらり、がちゃがちゃがちゃん。吃驚 した。
耳元近い裏木戸が開くのと、バケツを打 ッつけたのが一時 で、
「やーい、けいせい買のふられ男の、意気地なしの弱虫や、花嫁さんが来たって遁げたや、ちゃッ、ちゃッ、ちゃッ。」
……と、みそさざいのように笑ったのは、お滝といって、十一二、前髪を振下げた、舞みだれの蝶々髷 。色も白く、子柄もいいが、氏より育ちで長屋中のお茶ッぴい。
「足をお洗いよ、さあ、ぼんやりしないで、よ、光邦 様。」
けいせい買の、ふられ男の弱虫は、障子が開くと、冷汗をした。あまつさえ、光邦様。……
五目の師匠も近所なり、近い頃氷川様の祭礼 に、踊屋台の、まさかどに、附きっきりで居てから以来、自から任じて、滝夜叉 だから扱いにくい。
「チチーン、シャン、チチチ、チチチン。(鼓の口真似)ポン、ポン、大宅 の太郎は目をさまし……ぼんやりしないでさ。」
「馬鹿、雑巾がないじゃないか。」
「まあ、この私とした事が、ほんにそうでござんした、おほほ。」
ちゃッちゃッ、と笑いながら、お滝が木戸をポイと出る。糸七の気早く足へ掛けたバケツの水は、南瓜にしぶいて、ばちゃばちゃ鳴るのに、障子一重、そこのお京は、気息 もしない。はじめからの様子も変だし、消えたのではないか、と足首から背筋が冷い。
衣 の薫が、ほんのりと、お京がすッとそこへ出た。
三十六
慌てて、
「唯今 、御挨拶。」
これには、ただ身の動作 で、返事して、
「おつかいなさいましな。」
と、すぐに糸七が腰かけた縁端 へ、袖摺れに、色香折敷く屈 み腰で、手に水色の半□ を。
「私が、あの……」
と、その半□を足へ寄せる。
呆気 に取られる。
「ね。」
「よして、よして下さい。罰が、罰が当る。」
「罰の当りますのは私の方です、私の方です。」
切 った声して、
「――牛込の料理屋へ、跣足 で雨の中をおいでなさいました。あの時にも、おみあしを洗って上げたかったんです。」
「何の事です、あれは先生の用で駆けつけたんです。」
「でも、それだって。」
「不可 い不可い、不可 ません。あなたの罰はともかくも、御両親の罰が当る――第一何の洒落 です。」
「洒落……」
と引息に声が掠 れて、志を払退 けられたように、ひぞりもし拗 ねた状 に、身を起してお京が立った。
そこへ、お滝が飛込んで――
「あい、雑巾。あら、あら、二人とも気取ってる。バケツが引っくり返ってるじゃないの――テン、チン、嵯峨 やおむろの花ざかり、浮気な蝶も色かせぐ、廓 のものにつれられて、外めずらしき嵐山、ソレ覚えてか、きみさまの、袴も春の朧染 、おぼろげならぬ殿ぶりを、見初 めて、そめて、恥かしの、森の下露、思いは胸に、」
と早饒舌 りの一息にやってのけ、
「わあい……光邦、妖術にかかって、宙に釣られて、ふらふらしてるよ。」
背中にひったり、うしろ姿でお京が立ったのを、弱った糸七は沓脱 がないから、拭いた足を、成程釣られながら、密 と振向いて見ると、愁 を瞼 に含めて遣瀬 なさそうに、持ち忘れたもののような半□ が、宙に薄青く、白昼 の燐火 のように見えて、寂しさの上に凄 いのに、すぐ目を反らして首垂 れた。
お滝が、ひょいと、飛んで傍 へ来て、
「きれいなお姉ちゃん、少しお動きよ。」
「はい、動きましょう。」
と、縁をうつくしい褄捌 き、袖の動きに半□を持添えて、お滝の掌 へ、ひしと当てた。
「これ、雑巾のおうつりです。」
「あら、あら、私に。」
「でも新しいんですから。」
お滝は受けた半□を、前髪に当て、額に当て、頬に当て、頬摺 して、肩へかけ、胸に抱 いた、その胸ではらりと拡げ、小腕を張って、目を輝かして身を反らし、
「さてこそさてこそ、この旗を所持なすからは、問うに及ばず、将門 が忘れがたみ、滝夜叉姫であろうがな。」
「何だ、あべこべじゃないか、違ってら。」
「チエエ、残念や、口おしや、かくなるうえは何をかつつまん、まこと我こそ――滝夜叉なるわ。どろんどろん、」
と、あとしざりに、
「……帯だって出来るわ、この半□。嬉しい! 花嫁さん、ありがとう、お楽しみ光邦様、どろんどろん。」
木戸も閉めないで、トンと行 く。
「――何とも、かとも、言いようはありません。」
すぐにお京を招じ入れた、というよりも、お京はひとりでに、ものあって誘うように、いま居た四畳半の縁の障子と、格子戸見通しの四畳を隔てた破襖 の角柱で相合うその片隅に身を置いたし、糸七は窓下の机の、此方 へ、炉を前にすると同時に、いきなり頭 を下げて、せき込んで言ったのである。
「何とも、かとも、いいようはありません、失礼しました。」
お京は薄い桔梗色 の襟を深く、俯向 いて、片手で胸をおさえて黙っていたが、島田を簪 で畳の上へ縫ったように手をついた。
「辻町さん……私を折檻 して、折檻して下さいまし。折檻して下さいまし。」
「何、折檻。」
「ええ。」
「折檻、あなたはおよそ折檻ということを、知っていますか。あなたの身で、そのおからだで折檻という言葉をさえ知っていますか、本では読み話では聞いて、それは知っていらっしゃるかも知れませんが、何をいうんです。」
――一昨年 か、一昨々年 、この人の筆に、かくもの優しい、たおやかな娘に、蝦蟇 の面 の「べっかっこ。」、それも一つの折檻か、知らず、悪たれ小僧の礫 をぶつけた――悪戯 を。
糸七はすくむよりも、恐れるよりも、ただ、悄然 とするのであった。
三十七
上げた顔は、血が澄んで、色の白さも透通る……お京は片袖を膝の上に、
「何よりか、あの、何より先に、申訳がありません。あなたのお内へお許しも受けないで、お言葉も受けないで、勝手に上って来たんですもの。」
「そんな、そんな事、何、こんな内、上るにも、踏むにも、ごらんの通り、西瓜 の番小屋でもありゃしません、南瓜畑の物置です。」
「いいえ、いいえ、私だって、幾度も、お玄関で。」
「あやまります、恐入ります。お玄関は弱り果てます。」
「おうかがいはしたんですけれど、しんとして、誰方 のお声も聞えません。」
「すぐ開き扉 一つの内に、祖母 が居ますが、耳が遠い。」
「あれ、お祖母様 にも失礼な、どうしたら可 いでしょう。……それに、御近所の方、おかみさんたちが多勢、井戸端にも、格子外にも、勝手口にも、そうしてあの、花嫁、花嫁。……」
「今も居ます。現に居ます、ごめんなさい。談じます。談判します、打 なぐります、花嫁だなんて失礼な。」
「あれ、あなた、そんな気ではありません。極 りが悪くて、極りが悪くて、外へ出られないもんですから、お内へ入ってかくれました。それだし、ただ、人の口の端 の串戯 だけでも、嫁だなぞと、あなたのお耳へ入ったらどうしようと、私……私を見て、庭へ出ておしまいなさいますし、私、死にたくなりました。」
と、片袖で顔をかくすと、姿も、消入る風情である。
「それが、それがです、それにわけがあるんです。何しろ、あなたを見てからではありません、見ない前に飛出したんです、――今申訳をします。待って下さい。どうも、何しろ、周囲 が煩 い。」
軸物 も、何もない、がらん堂の一つ道具に、机わきの柱にかけた、真田が短銃 の両提 。
鉄の煙管 はいつも座右に、いまも持って、巻莨 の空缶 の粉煙草を捻 りながら、余りの事に、まだ喫 む隙 を見出さなかった、その煙管を片手に急いで立って、机の前の肱掛窓 の障子を開けると、植木屋の竹垣つづきで、細い処を、葎 くぐりに人は通う。
「――夜叉的 、夜叉的 。」
声の下に、鼻の上まで窓の外へ、二ツ目が出た。
「光邦様、何。」
ひやりと、また汗になりながら、
「媽々 連を追払 ってくれ、消してくれよ、妖術、魔術で。」
黙って瞬 でうなずいた目が消えると、たちまち井戸端へ飛んだと思う、総長屋の桝形形 の空地へ水輪なりにキャキャと声が響いた。
「放れ馬だよ、そら前町を、放れ馬だよ、五匹だ。放れ馬だよッ。」
跫音 が、ばたばたばた、そんなにも居たかと思う。表通の出入口へ、どっと潮のように馳 り退 いて、居まわりがひっそりする、と、秋空が晴れて、部屋まで青い。
畳の埃も澄んだようで、炉の灰の急な白さ。背きがち、首 だれがちに差向ったより炉の灰にうつくしい面影が立って、その淡 い桔梗の無地の半襟、お納戸縦縞 の袷 の薄色なのに、黒繻珍 に朱、藍 、群青 、白群 で、光琳 模様に錦葉 を織った。中にも真紅に燃ゆる葉は、火よりも鮮明 に、ちらちらと、揺れつつ灰に描かるる。
それを汚すようだから、雁首で吹溜めの吸殻を隅の方へ掻こうとすると、頑固な鉄が、脇明 の板じめ縮緬 、緋 の長襦袢 に危く触ろうとするから、吃驚 して引込 める時、引っかけて灰が立った。その立つ灰にも、留南木 の香が芬 と薫る。
覚えず、恍惚 する、鼻の尖 へ、炎が立って、自分で摺 った燐寸 にぎょっとした。が、しゃにむに一服まず吸って、はじめて、一息吻 とした。
「月村さん、あなたを見て、花嫁、いや、待って下さい。言うのも憚 りますが、その花嫁のわけなんです。――実は、今更何とも面目次第もありません、跣足 で庭へ遁 げましたのも、盟 って言います。あなたのお姿を見てからではないのです。……
……聞いたばかり、聞いたばかりで腰も抜かさないのは、まだしもの僥倖 で飛出したんです。今しがた、あなたが、大方、この長屋の総木戸をお入んなすった時でしょう。その頃です、唯今のお茶っぴいが、その窓から頭を出して、「花嫁が来た。」と言ったんです。――来たらば知らしておくれよ、と不断、お茶っぴいを斥候 同然だったものですから、聞くか聞かないに、何とも、不状 を演じました。……いま、そのわけを話しますが。……
……煙草は……それはありがたい、お嫌 でも、お友だちがいに、すぱすぱ。」
と妙に砕けて、変に勢 って、しょげて、笑って、すぱすぱ。
三十八
「……また何も、ここへ友達を引張 り出して、それに託 けるのは卑怯 ですが、二月ばかり前でした。あなたなぞの前では、お話もいかがわしい悪場所の、それも獣の巣のような処へ引掛 ったんです。泥々に酔って二階へ押上って、つい蹌踉 けなりに梯子段 の欄干へつかまると、ぐらぐらします。屋台根こそぎ波を打って、下土間へ真逆 に落ちようとしました……と云った楼 で。……障子の小間 は残らず穴ばかり。――その一つ一つから化ものが覗いて、蛞蝓 の舌を出しそうな様子ですが、ふるえるほど寒くはありませんから、まず可 いとして、その隅っ子の柱に凭掛 って、遣手 という三途河 の婆さんが、蒼黒 い、痩 せた脚を突出してましてね。」
……褌 というのを……控えたらしい。
「舐 めちゃ取り、舐めちゃ取り、蚤 だか、虱 だか捻 っています。――あなたも、こんな、私のようなものの処へおいで下すった因果に、何事も忘れてお聞き下さい。
その蚤だか虱だかを捻る片手間に、部屋から下ったという蕎麦の残り、伸びて、蚯蚓 のようにのたくるのを撮 んじゃ食い、撮んじゃ食う。そこをまた、牙と舌を剥出 して、犬ですね、狆 か面 の長い洋犬などならまだしも、尻尾を捲上 げて、耳の押立 った、痩せて赤剥 だらけなのが喘 ぎながら掻食 う、と云っただけでも浅ましさが――ああ、そうだ。」
糸七は煙管を落した。
「あなたの吉原の随筆は、たしか、題は『あさましきもの。』でしたね。私が飛んだ『べッかッこ』をした。」
「もう、どうぞ。」
お京は膝に袖を千鳥に掛けたまま、雌浪 を柔 に肩に打たせた。
「大目玉を頂きましたよ、先生に。」
「もうどうぞ、ご堪忍。」
「いや、お詫びは私こそ、いわばやっぱりあなたの罰です。その「浅ましい」一つの穴で……部屋は真暗 、がたがた廊下の曲角に、洋鉄 の洋燈 一つ。余り情 ない、「あかりが欲 い。」……「蝋燭代を別に出せ。」で、奈落に落ちて一夜あける、と勘定は一度済ましたんですが、茶を一杯にも附足しの再勘定、その勘定書を、その勘定を催促しても、わざと待たして持って来ません。これが、ぼると言います。阿漕 な術 です。はめられたんです。といううちに、朝直し……遊蕩 が二度振 になって、また、前勘定、このつけを出されると、金が足りない、足りないどころですか、まるで始末が出来ないのです。
――「あさましきもの」が引受けてくれました、暑いのに、破屏風 にすくんで、かびた蒲団に縮まったありさまは、人間に、そのまま草が生えそうです。無面目 で廊下へ顔も出せません。お螻 の兄さん、ちと、ご運動とか云って、「あさましきもの」に廊下へ連出されると、トトトン、トトトンと太鼓の音。それを、欄干 から覗 きますとね、漬物桶 、炭俵と並んで、小さな堂があって、子供が四五人――午 の日でした。お稲荷講、万年講、お稲荷さんのお初穂 。「お初穂よ、」といって、女がお捻 を下へ投げると、揃って上を向いた。青いんだの、黄色いんだの、子供の狐の面を五つ見た時は、欄干越 に廂 へ下った女の扱帯 が、真赤 な尻尾に見えたんです。
その女が、これも化けた一つの欺 で、俥 まで拵 えて、無事に帰してくれたんです。が、こちらが身震 をするにつけて、立替 の催促が烈 しく来ます。金子 は為替 で無理算段で返しましたが、はじめての客に帰りの俥まで達引 いた以上、情夫 ――情夫(苦い顔して)が一度きり鼬 の道では、帳場はじめ、朋輩へ顔が立たぬ、今日来い、明日来い、それこそ日ぶみ、矢ぶみで。――もうこの頃では、押掛ける、引摺りに行く、連れて帰る、と決闘状 。それが可恐 さに、「女が来たら、俥が見えたら、」と、お滝といいます……あのお茶っぴいに、見張を頼んで、まさか、女郎、とはいえませんから、そこは附景気に、「嫁が来るんだ。遠くからでも見えたら頼むよ。」合点ものです。そいつが、今です、前刻 ですよ。そこから覗いて、「来たよ、花嫁。」……
一言で面くらって、あなたのお顔も、姿も見ないで、跣足 で庭へ逃出した始末です。断じて、決して、あなたと知って逃げたのではありません。」
しまった! 大家が家賃の催促でも済んだものを、馬鹿の智慧は後からで、お京のとりなしの純真さに、つい、事実をあからさまに、達引だの、いや矢ぶみだの、あさましく聞きはしないか、と、舌がたちまち縮んで咽喉 へ声の詰る処へ。
「光邦様。」
日ぶみ矢ぶみの色男の汗を流した顔を見よ。いまうわさしたその窓から、お滝の蝶々髷が、こん度は羽目板の壊れを踏んで上ったらしい。口まで出た。
「お客様の、ご馳走は。……つかいに行って上げるわよ。」
また、冷汗だ、銭がない。
三十九
「これは、これは、おうようこそや。……今の、上 り端 を覗いたら、見事な駒下駄 があったでの。」
ちと以前より、ごそごそと、台所で、土瓶、炭、火箸、七輪。もの音がしていたが、すぐその一枚の扉 から、七十八の祖母が、茶盆に何か載せて出た。
これにお京のお諸礼式は、長屋に過ぎて、瞠目 に価値 した。
「あの、お祖母様 ……お祖母様。」
二声目に、やっと聞えて、
「はい、はい。」
「辻町さんに……」
「…………」
「糸七さんに……」
肩身を狭く、ちょっと留めて、
「そんな事いったって、分りませんよ。」
「……お孫さんに。……」
「はい。」
「いろいろとお世話になります。」
「……孫めは幸福 、お綺麗なお客様で、ばばが目にも枯樹に花じゃ。ほんにこの孫 の母親、わしには嫁ごじゃ。江戸から持ってござっての、大事にさしゃった錦絵にそのままじゃ。後の節句にも、お雛様 に進ぜさした、振出しの、有平 、金米糖でさえ、その可愛らしいお口よごしじゃろうに、山家 在所の椎 の実一つ、こんなもの。」
と、へぎ盆も有合さず、菜漬づかいの、小皿をそこへ、二人分。糸七は俯向 いた。一雪 よ、聞け。山果庭ニ落チテ、朝三 ノ食秋風 ニ□ クとは申せども、この椎の実とやがて栗は、その椎の木も、栗の木も、背戸の奥深く真暗 な大藪 の多数の蛇 と、南瓜畑の夥多 しい蝦蟇 と、相戦う衝 に当る、地境の悪所にあって、お滝の夜叉さえ辟易 する。……小雀 頬白 も手にとまる、仏づくった、祖母でなくては拾われぬ。
「それからの、青紫蘇 を粉にしたのじゃがの、毒にはならぬで、まいれ。」
と湯気の立つ茶椀。――南無三宝、茶が切れた。
「ほんにの、これが春で、餅草があると、私が手に、すぐに団子なと拵えて進じょうもの。孫が、ほっておきで、南瓜の葉ばかり何にもないがの。」
と寂しい笑いの、口には歯がない。
お京がいとしげに打傾き、
「お祖母様、いまに可愛い嫁菜が咲きます。」
「嫁菜がの、嬉しやの、あなたのような、のう。」
糸七は仰天した、人参のごとく真 まで染 って、
「お祖母さん、お祖母さん、お祖母さん、そんな事より、仏間へ行って、この、きれいな、珍らしいお客様の見えた事を、父、母に話して下さい。」
「おいの、そうじゃの。」
何と思ったか、お京が急いで、さも、遠慮のないように椎の実を取った。
「お祖母様。」
「……おお、食べてくださるかの。」
「おいしい……」
と、長いまつ毛をふるわせて、
「三度、三度、ここに居まして、ご飯のかわりに頂いたら、どんなにか嬉しいでしょう……」
と、息をふくんだ頬を削って、ツと湧 く涙に袖を当てると、いう事も、する事も、訳は知らず誘われて、糸七も身を絞ってほろほろと出る涙を、引振 うように炉に目を外 らした。
「喧嘩せまい、喧嘩せまい。何じゃ、この、孫めがまた……」
「――お祖母さん、芝居の話をしていたんです、それが悲しいもんですから。」
「それは、それは……嫁ごもの、芝居が何より好きでござったよ。たんと、ゆっくり話さっしゃい。……ほんにの、お蒲団もない。道中にも、寝床にも被 るのなれど、よう払うてなと進ぜましょう。」
祖母の立ったのを見ると斉 しく、糸七はぴったり手をついた。
「祖母 の失言をあやまります。」
「勿体ない。私は嬉しゅう存じました。」
と膝を退 って、礼を返して、
「辻町さん、では、失礼をいたします。」
何しに来たこの女、何を泣いたこの女、なぜ泣かせたこの女、椎と青紫蘇の葉に懲りて、破毛布 に辟易 したろう。
黙って、糸七が挨拶すると、悄然 と立った、が屹 と胸を緊 めた。その姿に似ず、ゆるく、色めかしく、柔かな、背負 あげの紗綾形絞 りの淡紅色 が、ものの打解けたようで可懐 しい。
框 の障子を、膝をついて開けると、板に置いた、つつみものを手に引きつけて、居直る時、心急 いた状 に前褄が浅く揺れて、帯の模様の緋葉 が散った。
「お恥しいもんです。小さな盃は、内に久しくありました。それに、お酒をお一口。」
四十
「…………」
「私……しばらくお別れに来たんです。」
「……旅行――遠方へ。」
「いいえ。」
糸七は釈然として、胸で解けた。
「ああ、極りましたか、矢野とお約束。」
眉が一文字に、屹 と視 て、
「あの方、お断りしてしまいました、他所 へ嫁に参ります。」
「他所へ。……おきき申すのも変ですが。」
お京は引結んだ口元をやっと解いたように見えて、
「野土青麟の許 へです。」
糸七は聞くより思わず戦 いた。あの青大将が、横笛を、臭 を浴びても頬が腐る、黒い舌に――この帯を、背負揚 を、襟を、島田を、緋 の張襦袢 を、肌を。
「あなたが、あなたが、私を――矢野さんにお媒妁 なすった事を聞きました口惜 しさに――女は、何をするか私にも分りません――あなたが世の中で一番お嫌いだという青麟に、結納を済ませたんです。」
「…………」
「辻町さん、よく存じております、知っていたんです。お嫌いなさいますのも、お憎しみも分っています。いますけれど、思う方、慕う方が、その女を余所 へ媒妁なさると聞いた時の、その女の心は、気が違うよりほかありません。」
と蒼 い顔で、また熟 と視て、はっと泣きつつ、背けた背を、そのまま、土間へ早や片褄。その褄を圧 えても、帯をひしと掴 んでも、搦 まる緋が炎でも、その中の雪の手首を衝 と取っても、世にげに一度は許されよう、引戻そうと、我を忘れて衝と進んだ。
「危え、危え、ええ危えというに、やい、小阿魔女 め。」
「何を小癪 な……チンツン」
と、目をぱっちり、ちょっと、一見得。
黒鴨 の俥夫 が、後 から、横から、飛廻って、喚 くを構わず、
「チンツン、さすがの勇者もたじたじたじ、チチレ、トツツル、ツンツ、ツンツ、こずえ木の葉のさらさらさら、チャン、チャン、チャンチャンラン、チャンラン、魔風とともに光邦が、襟がみつかんで……おほほ、ははは、ちゃっちゃっ、ちゃっ。」
お京の姿を、框に覗くと、帰る、と見た、おしゃまの、お先走りのお茶っぴいが、木戸傍 で待った俥の楫棒 を自分で上げて右左へ振りながら駆込んで来たのである。
「わかれに、……その気でいたかも知れない。」
小杯は朱塗のちょっと受口で、香炉形とも言いそうな、内側に銀の梅の蒔絵 が薫る。……薫るのなんぞ何のその、酒の冷 の気を浴びて、正宗を、壜 の口の切味 や、錵 も匂も金色 に、梅を、朧 に湛 えつつ、ぐいと飲み、ぐいと煽 った――立続けた。
吻 と吹く酒の香を、横状 に反 らしたのは、目前 に歴々 とするお京の向合 った面影に、心遣いをしたのである。
杯を持直して、
「別れだといいました。糸七も潔く受けました。あなたも、一つ。」
弱い酒を、一時に、頭上 った酔に、何をいうやら。しかもひたりと坐直 って、杯を、目ざすお京の姿に献 そうとして置くのが、畳も縁 も、炉縁も外れて、ずか、と灰の中へ突込もうとして、衝 と手を引いて、ぎょっとしたように四辺 を視た。
「どうかしている。」
第一に南瓜畠が暗かった。数千の葉が庭ぐるみ皆戦 いだ。颶風 落来 と目がくらみ、頭髪 が乱れた。
その時、遣場 に失した杯は思わず頭の真中 へ載せたそうである。
一よろけ、ひょろりとして、
「――一段と烏帽子が似合いて候――」
とすっくり立った。
が、これは雪の朝、吉原を落武者の困惑を繰返したものではない。一人の友達の、かつて、深山越 の峠の茶屋で、凄 じき迅雷 猛雨に逢って、遁 げも、引きも、ほとんど詮術 のなさに、飲みかけていた硝子盃 を電力遮断の悲哀なる焦慮で、天窓 に被 ったというのを、改めて思出すともなく、無意識か、はた、意識してか、知らず、しかくあらしめたものである。
青麟に嫁 く一言 や、直ちに霹靂 であった。あたかもこの時の糸七に、屋の内八方、耳も目も、さながら大雷大風であった。
四十一
と、突立 ったまま、苦 い顔、渋い顔、切ない顔、甘い顔、酔って呆 けた青い顔をしていた。が、頬へたらたらと垂れかかった酒の雫 を、横舐 めに、舌打して、
「鳴るは滝の水、と来るか、来たと……何だ、日は照るとも絶えずとうたりか、絶えずとうたりと、絶えずとうたり、とくとく立てや手束弓 の。」
真似を動いて、くるくる舞ったが、打傾いて耳を聳 て、
「や、囃子 が聞える。ええ、横笛が。笛は止せ、笛は止せ、止せ、止さないか、畜生。」
と、いうとともに、胆略も武勇もない、判官 ならぬ足弱の下強力 の、ただその金剛杖 の一棒をくらったごとく、ぐたりとなって、畳にのめった。
がんがんがんと、胸は早鐘、幽 にチチと耳が鳴る。
仏間にては、祖母が、さっきの言 を真 に受けて、りんなど打っていられはしないか。この秋の取ッつきに、雷雨おびただしかりし中に、ピシャン、と物凄く響いたのを、昼寝の目を柔かに孫を視て、「軒近に桶屋が来ているかの、竹の箍 が弾 いたようじゃ。」と、またうとうとと寝 ったほど、仏になってござるから、お京が今し帰った時の俥の音など、沙汰なしで、ご存じないが。
「祖母 さん……」
なき父、なき母。
「私は決してお京さんに。……ただただ、青大将の女房にはしたくないんです。」
と、きちんと両手をついたかと思えば、すぐに引□ りそうな手を、そのまま宙に振って、また飛上って、河童 に被 った杯をたたいた。
「でんでん虫、虫。雨も風も吹かンのんに、でんでん虫、虫……」
と、狂言舞に、無性矢鱈 に刎歩行 く。
のそのそ、のそのそ、一面の南瓜の蔭から這出 したものは蝦蟇 である。とにかく、地借 の輩 だし、妻なしが、友だち附合の義理もあり、かたがた、埴生 の小屋の貧旦那 が、今の若さに気が違ったのじゃあるまいか。狂い方も、蛞蝓 だとペロリと呑みたくなって危いが、蝸牛 なら仔細 あるまい、見舞おうと、おのおの鹿爪らしく憂慮気 に、中には――時々の事――縁へ這上ったのもあって、まじまじと見て面 を並べている。
ここに不思議な事は、結びも、留めもしない、朱塗の梅の杯が気狂舞 に跳ねても飛んでも、辷 らず、転らず、頭から落ちようとしないので。……ふと心附いて、蟇 のごとく跼 んで、手もて取って引く、女の黒髪が一筋、糸底を巻いて、耳から額へ細 りと、頬にさえ掛 っている。
猛然として、藍染川、忍川、不忍の池の雪を思出すと、思わず震える指で、毛筋を引けば、手繰れば、扱 けば、するすると伸び、伸びつつ、長く美しく、黒く艶やかに、芬 と薫って、手繰り集めた杯の裡 が、光るばかりに漆を刷 く。と見ると、毛先がおのずから動いて、杯の縁を刎 ね、灰に染めじ、と思う糸七の袖に弛 く掛 りながら、すらすらと濡縁へ靡 いたのである。
この瞬間、誰が、その藍染川、忍川、不忍の池を眺めた雪の糸桜を憶起 さずにいられよう。
見る見る、黒髪に散る雪が、輝く膚 を露呈 して、再び、あの淡紅色 の紗綾形 の、品よく和やかに、情ありげな背負揚が解け、襟が開け緋が乱れて、石鹸 の香を聞いてさえ、身に沁 みた雪を欺 く肩を、胸を、腕 を……青大将の黒い歯が、黒い唾が、黒い舌が。――
糸七は拳 を固めて宙を打った――「この狂人 」――「悪魔が憑 いたか、狂わすか、しまったり」……と叫びつつ、蝦蟇を驚かしつつ、敷きわがね、伸び靡いた、一条 の黒髪の上を、光琳の錦を敷いた木 の葉ぢらしの帯の上のごとく、転々として転げ倒れた。
「光邦様、光邦様。」
ぎょっとすると、お滝夜叉。
「あい、お手紙。ほら、さっき来たんだけれどね、ね、花嫁が妬 くと悪いから預っといたのよ、えらいでしょう。……女の人の手紙なんですもの。」
――お伽堂、時より――で、都合で帰郷する事になり、それにつけ、いつぞや、『たそがれ』など、あなたを大のご贔屓 の、中坂下のお娘ごのお達引で、金子 、珊瑚 の釵 の、ご心配はもうなくなりましたと申したのは、実は中洲、月村様のお厚情 。京子様、その事堅くお口どめゆえ、秘 してはおりましたが、このたび帰国の上は、かれこれ、打明けます折もつい伸々 と心苦しく、お京様とは幾久しきおつきあい、何かにつけ、お胸にそのお含み、なによりと存じ…………
――もう可 い。
若手の作者よ、小説家よ!……
「頼む。」
があいにく玄関も何もない。扇を腰に、がたがたと格子を開けると、汚い二階家の、上も下も、がらんとして、ジイと、ただ、招魂社辺の蝉の声が遠く
「頼もう!」
人の
「頼もう。」
途端に奇なる声あり。
「ダカレケダカ、ダカレケダカ。」
その
「頼む。」
「ダカレケダカ、と云ってるじゃあないか。へん、野暮め。」
「頼もう。」
「そいつも、一つ、タカノコモコ、と願いたいよ。……何しろ、
「頼むと申す……」
「何ものだ。」
と、いきなり段の口へ、青天の
……どうすりゃ添われる縁じゃやら、じれったいね……
というのがある。――恋は思案のほか――という折紙附の格言がある。よってもって、自から称した、すなわちこれ、二
おなじ人が、金三円ばかりなり、我楽多文庫売上の暮近い集金の天保銭……世に当百ときこえた、小判形が集まったのを、
近頃の新聞の三面、連日に、
ところで、天保銭吉原の
……と見て通ると、すぐもう広い原で、屋敷町の屋敷を離れた、
そこいらに、小川という写真屋の西洋館が一つ目立った。隣地の町角に、平屋
お泊宿から、水道橋の方へ軒続きの長屋の中に、小さな貸本屋の店があって……お
お伽堂――少々気になる。なぜというに、仕入ものの、おとしの浅い箱火鉢の前に、二十六七の、色白で、ぽっとりした……生際はちっと薄いが、桃色の手柄の
羽織も、着ものも、おさすりらしいが、
三
何、別に
つい近頃、北陸の城下町から稼ぎに出て来た。商売往来の中でも、横町へそれた貸本屋だが、亭主が、いや、役人上りだから主人といおう、県庁に勤めた頃、一切猟具を用いず、むずと
開業
「こちらじゃ貸すばかりで、買わないですか。」
学生が一人、のっそり立ち、洋書を五六冊
「は、おいで遊ばしまし。」
と、丁寧に、三指もどきのお辞儀をして、
「あの、もしえ。」
と
「おいでい。」
と太い声で、右の
「まるで、こりゃ値になりませんぞ。」
原著者は驚いたろう。
「しかし買うとして、いくらですか。」
――途方もない値をつけた。つけられた方は、呆れるより、いきなり
味をしめて、古本を買込むので、床板を張出して、貸本のほかに、その
――
「忘れものですか。」
「うふふ、
「いやらし。」
と顔をそらしながら、若い女房の、
「うふふ。」と鳥打帽の
四
遅い
――遠くの橋を
裏長屋のかみさんが、三河島の菜漬を
真向うは空地だし、町中は原のなごりをそのまま、窪地のあちこちには、
例の写真館と隣合う、向う
立寄る客なく、通りも途絶えた所在なさに、何心なく、じっと見た若い女房が、遠く向うから、その舌で、頬を触るように思われたので、むずむずして、顔を振ると、短冊が軽く揺れる。
「……まあ……」
二三度やって見ると、どうも、顔の動くとおりに動く。
頬のあたりがうそ
袖で頬をこすって、
「いやね。」
ツイと横を向きながら、おかしく、
いかに、短冊としては、詩歌に俳句に、
が、じれったそうな女房は、上気した顔を向け直して、あれ
――こういう時は、南京豆ほどの魔が
パッと消えるようであった、日の光に濃く白かった写真館の二階の
女房は真うつむけに
五
「ごめんなさい。」
返事を、
実は、コトコトとその駒下駄の音を立てて
作者が――
――場所によると、震災後の、まだ
さあ、持って来い、鋤と鍬だ。
これだと、勢い汗
鋤と鍬だ、と痩腕で、たちまち息ぜわしく、つい汗になる処から――山はもう雪だというのに、この第一回には、素裸の思案入道殿をさえ煩わした。
が、再び思うに、むやみと
また
「あの……
若い女房が顔を見ると、いま小刻みに、
「辻町、糸七の――『たそがれ』――というのがおありになって。」
と云った。
「おいで遊ばせ。」
と若い女房、おくれ
「ございますの。……ですけれど、
「ええ、そうですよ。」
と水紅色の半□がまたゆれる。
六
「ちょいちょい、お借り下さる方がございまして、よく出ますから。……
女房は片膝立ちに腰を浮かしながら
「……私も読みたい読みたいと存じながら、商売もので、つい
「そうですって。……『たそがれ』……というのが、その
と、
棚から一冊抜取ると、坐り直して、売りものに花だろう、前垂に据えて、その
「どうぞ、お掛けなさいまして、まあ、どうぞ。」
はなからその気であったらしい、お嬢さんは
「ちょうどいい処で、あの、ゆうべお客様から返ったばかりでございますの。それも書生さんや、職人衆からではございませんの。」
娘客の白い指の、
「中坂下からいらっしゃいます、紫
「その方。……」
女房の膝の方へは手も出さず、お嬢さんは、しとやかに、
「その作者が、
と
辻町糸七、よく聞けよ。
「は?……」
貸本屋の客には今までほとんど例のない、ものの言葉に、一度聞返して、
「別にそうと限ったわけではございません。何でもよくお読みになりますの。でも、その、ゆうべおいでなさいました時、「たそがれ。――いいのね。」とおっしゃいます。……晩方でございましょう。変に暗くて気味が悪し、心細し、といいますうちにも、立込みまして、
女房は、ふと気がさしたか、町通りの向う角へ顔を向けた、短冊の舌は知らん顔で、鶏頭が笑っている。写真館の硝子窓は
「……古寺の事もうかがいました。清元にございますってね。……ところどころ、あの、ほんとうに身に
と、軽く前髪へあてたのである。念のため『たそがれ』の作者に言おう。これは糸七を頂いたのでは決してない。……
七
「拝見な。」
「は、どうぞ。」
雑誌に
――折しも月は、むら雲に、影うす暗きをさいわいと、傍 に忍びてやりすごし、尚 も人なき野中の細道、薄茅原 、押分け押分け、ここは何処 と白妙 の、衣打つらん砧 の声、幽 にきこえて、雁音 も、遠く雲井に鳴交わし、風すこし打吹きたるに、月皎々 と照りながら、むら雨さっと降りいづれば――
水茎の墨の色が、はらはらとお嬢さんの「すぐこのあとへ、しののめの鬼が出るんですのね、
目白からは聞えまい。三崎座だろう、釣鐘がボーンと鳴る。
柳亭種彦のその文章を、そっと包むように巻戻しながら、指を添え、表紙を開くと、薄、茅原、花野を照らす月ながら、さっと、むら雨に濡色の、二人が水の
「
「ええ、絵も評判でございます。……中坂の、そのお娘ごもおっしゃいました。その小説の『たそがれ』は、
「
口絵から目を放さず、
「その方、いろいろな事を、ようごぞんじ……羨しいこと。表紙を別につけて、こうなされば、単行――一冊ものもおんなじようで、作者だって、どんなにか嬉しいでしょうよ。」
その方、という、この方、もいろいろな事を、ようご存じ。……で、その結綿のかな文字を、女房の手に返すと、これがために貸本屋へ立寄ったろう、借りて行く心づもりに、口絵を伏せて、表紙をきちんと、じっと見た。
「あら。」
と瞳をうつくしく、
「ちょいと、辻町糸七作、『たそがれ』――お書きになったのは、これは、どちらの、あのこちらの御主人。」
「飛んだ、とんだ、いいえ、飛んでもない。」
と何を
「飛んでもない、あなた。」
と、息も
「宅などが、あなた、大それた。」
そうだろう、題字は
「あの、どうも、勿体なくて、つけつけ申しますのも、いかがですけれど、小石川台町にお
「ええ、映山先生。」
お嬢さんの珊瑚を
八
「どういたしまして。お嬢様、お心易さを頂くなぞとは、失礼で、おもいもよりませんのでございますけれど。」
この紙表紙の筆について、お嬢さんが、貸本屋として、先生と
「実は、あの、上杉先生の、多勢のお弟子さん方の。……あなたは、小説がおすきでいらっしゃいますのを、お見受け申しましたから……ご存じかも知れませんけれど、そのお一人の、糸七さんでございますが。」
「ええ。」
「実は――私ども、うまれが同じ国でございましてね、御懇意を願っておりますものですから。」
「ちっとも私……まあ、そうですか。」
「その御縁で、ついこの間、糸七さんと、もう一人おつれになって、神保町辺へ
また眉を
「
「ちょいと、一度これを。」
と、お嬢さんは、硯箱を押させて、仲よしの押絵の羽子板のように胸へ当てていた『たそがれ』を、きちんと据えた。
「……「ひどい墨だな、あやしい茶人だと、これを鳥の子に包むんだ。」とおっしゃりながら、すらすらおしたためになったんでございますが、あの、筆をおとり遊ばしながら、「
お嬢さんの唇の
「何の事ですか、私などには解りませんの、お嬢様は。」
「存じません。」
「あれ御承知らしくていらしって……お意地の悪い、ほほほ。」
「いいえ、知りません。中坂とかの、その結綿の方ならお解りでしょうね。……それよりか、『たそがれ』の作者の糸七――まあ、私、さっきから、……
「いいえ、あなた、お客様は、
言い得て女房、妙である。(おん箸入)の内容が馬の骨なら、言い得て特に妙である。が、当時梨園に
「ほほほ、お呼びずての方が却ってお心易くって、――ああ、お茶を一つ。」
「おかみさん、ちょいと、あの、それより
「冷水?」
「あの、ざぶざぶ、冷水で、この
九
「そこの
「あれ、と思って、手を当てても何にもないんです。」
「あの、
女房は頬をすぼめ、眉を寄せて、
「……まあ。」
「慌てて俥をとめましてね、上も下も見ましたけれど、別に何にもないんです。でも、
珊瑚碧樹の水茎は、
「いつまでも、さっきのままですと、私はほんとうに、おいらんの心中ではないんですけど、死んでしまいたいほどでしたよ。」
「ええええお易い事。まあ、ごじょうだんをおっしゃって、そんなお人がらな半□を。……唯今、お
茶の
「
手拭をさえ惜しんだのは、
女房は
「ほんとうに、あなた、
「はい、お
「それにつけて、と申すのでもございませんけれど、そういえば、つい四五日前にも、同じ処で、おかしなことがあったんでございますの。ええ、本郷の大学へお通いなさいます学生さんで、時々おいで下さいます。その方ですが、あなた、今日のような
やあ、と云って、その学生さんが、あの辻の方から。――油を惜しむなよ、店が暗いじゃないか。今つける処なのよ、とお心易立てに、そんな口を利きましてね、
三崎座が
十
「……燈をあかるくしてくれ、変だ。あ、痛い痛いと、左の手を握って、何ですか――印を結んだとかいいますように、中指を一本押立てていらっしゃるんです。……はじめは
「髪の毛ですえ、女の。」
お嬢さんは細い指を、白く揃えて、箱火鉢に寄せた。例の
「ええ、そうなんでございます。二人して、よく見ましたの、この火鉢の処で。」
お嬢さんは手を
女房はさまでは汚がらないで、そのままで、
「――学生さんの制服で
「いやですねえ。」
「いやでございますことね。――久女八が土蜘蛛をやっている、能がかりで評判なあの糸が、
芝居
芝居のちっと
縫針のさきでさえ、身のうち響きますわ。ただ事でない。解くにも、
さあ、女の髪と分りました、漆のような、黒い、すなおな、柔かな、細々した、その長うございましたこと。……お嬢様。」
「いいえ、私のは。」
ついした様で、
女房の
「あれ、変な人が、変な人が……」
変な人が、女房の
十一
「こむ僧でしょうか、あれ、役者が舞台の
と伸上るので、お嬢さんも連れられて目を
この場末の、冬日の中へ、きらびやかとも言ッつべく
並んだ、その
下駄と下駄の音も聞える。近づいたから、よく解る。三人とも揃いの黒
しかし、
盛装した客である。まだお膳も並ばぬうち、
この人が、塩瀬の
一人、骨組の
その上、まだある。申合わせて三人とも、青と白と
いずれも若い、三十
お嬢さんは、上気した。
処へ、
お嬢さんはまた少し寒気がした。
横笛だけは、お嬢さんを三人で包んで立った時、焦茶の中折帽を
弱い咳をすると、口元を
貸本屋の女房は、
写真館の二階窓で、
が、接吻と
十二
「何とかいったな、あの
竹如意が却って
「その、言種がよ、「ちとお慰みに何ぞごらん遊ばせ。」は悩ませるじゃないか。
「柄にあり、人により、類に応じて違うんだ。貸本屋だからと言って、
「いや、その喧嘩がしたかった。実は、
「当る、当る、当るというに。如意をそう振廻わしちゃ
豆府屋の
従って一行三人には、目に留めさせるまでもなければ、念頭に置かせる要もない。
「あれが仮に
「お
と、横笛の紋緞子が、軽くその口を
「あれだからな、仕方をしたり、目くばせしたり、ひたすら、自重謹厳を強要するものだから、
「無理はないよ、殿様は貸本屋を
とまた髑髏を弾く。
「
「ああ、心臓の波打つ
「しかし、我輩は
「何を。」
「寂しい、のみならず澄まし切ってる、冷然としたものだ。」
「お上品さ、そこが殿様の目のつけ処よ。」
十三
「……何しろ、不思議な光景だった。かくして三人が、ほとんど無言だ。……」
「ほとんど処か全然無言で。……
「人が聞きますよ、ほほほ、見っともない。」
と、横笛が
「ところで、立向って赴く会場が河岸の富士見楼で、それ、よくこの頃新聞にかくではないか、
「如意がどうした。」
と竹如意を持直す。
「綱が切った鬼の片腕……待てよ、鬼にしては、
「腰の髑髏が言わせますかね。いうことが殺風景に過ぎますよ。」
「殿様、かつぎたまうかな。わはは。」
と
「冷く澄んでお上品な処に、ぞっこんというんだから、切った、切ったが気になるんだ。」
「いや、縁はすぐつながるよ。会のかえりに酔払って、今夜、
「
「僕はむしろ妾に
三崎座の
「また何か言われそうな気がしますがね、それはそれとしてだね、娘が借りるらしかった――あの小説を見ましたかね。」
「見た、なお且つ早くから知っている。――中味は読まんが、口絵は永洗だ、
「そうだ、いや、それだ。」
竹如意が
「あの文金だがね、何だか見たようでいて、さっきから思出せなかったが、髑髏が言うので思出した。春頃出たんだ、『
「見ないが、聞いたよ。」
「樋口一葉、若松
「私もそうらしいと思うですがね、ほほほ。」
「おかしいじゃないか、それにしちゃ、小説家が、小説を、小説の貸本屋で。」
「ほほほ、私たちだって、
「あそうか、清麗
「戻橋だな、扇折の
と、
三人の影が大きく向うの空地へ映ったが、位置を軽く転ずれば、たちまち、文金に
こうなると、皆化ける。安
十四
しかり、
ちょっとした緊張にも小さき神は宿る。ここに三人の凝視の中に、立って俥を呼んだ手の、玉を伸べたのは、宿れる文筆の気の、おのずから、美しい影を
あたかも、髑髏と、竹如意と、横笛とが、あるいは燃え、あるいは光り、あるいは照らして、各々自家識見の象徴を示せるごとくに、
そういえば――影は
余り
――「とうふイ、生揚、雁もどき。」――
またこの三人を誰だ、と思う?……しかしこれは作者の
――青雲社、三大画伯、御写真――
よって釈然とした。紋の丸は、色も青麦である。小鳥は、
幅広と胸に掛けた青白の糸は、すなわち、青天と白雲を心に
ただしこれは如実の描写に過ぎない。ここに三画伯の
ついでにいう。ちょうどこの
さて続いて、健ちゃんに、上野あたりの雪景色をお頼み申そう。
これは――翌年の
今さかんに降っている。
十五
……盛に降っている。
たてに、
――白雪の
すぐ
見れば島田
吹乱す風である。
前髪にも、眉毛にも。
その眉の上なる、朱の両方の
……妙吉祥 ……
……如蓮華 ……
一……
再び見よ、烈しくなった池の波は、ざわざわとまた
といううちに、ふと風が静まると、広小路あたりの物音が渡って来て、
青い頭、墨染の僧の
「お蝋をあげましてござります。」
「は。」
僧は中腰に会釈して、
「早朝より、ようお詣り……」
「はい。」
「寒じが強うござります、ちとおあがりになって、御休息遊ばせ。」
この僧が
われら、作者なかまの申合わせで、ここは……を入れる処であるが、これが、
十六
時に、伏拝むのに合せた袖口の、雪に未開紅の風情だったのを、ひらりと一咲き咲かせて立って、ちょっとおくれ毛を直した顔を見ると、これは月村一雪、――中洲のお京であった。
実は――――
「……小説が上手に書けますように……」
どうも
なお、かし本屋の店頭でもそうだし、ここでの紫の雨合羽に、
また……ああ惜しいかな、前記の
――やがてこのあとへ顔を出す――辻町糸七が、その想う盾の裏を見せられて
――おい、木村さん、信さん寄っておいでよ、お寄りといったら寄っても宜 いではないか、また素通りで二葉屋へ行く気だろう――
にはじまって、――ある雨の日のつれづれに――「失礼な、うまいなり、いいえね、余りくさくさするもんですから、湯呑で一杯……てったところ……黙ってて頂戴。」――
端正どころか、これだと、しごきで、
――「今日は珍らしいんです、いつも
と云って、にっこり笑ったそうである。
が、山から下りて来るという、この人々に対しては、(じれった結び)なぞ見せはしない、所帯ぎれのした昼夜帯も(お互に貧乏で、相向った糸七も足袋の裏が破れていた。)きちんと胸高なお太鼓に、一銭が
――それにつけても、お京さんは娘であった。雪の朝の不忍の天女
十七
お京は
――ついでに言おう。形容にもせよ、章魚、太刀魚はいかがだけれど、烏賊は事実居た……透かして見て広小路まで目は届かずとも、料理店、待合など、池の
その頃は
季節はそれるが、その形は、油蝉にも似たのである。
――
――
ここに――もう今頃は、
上杉先生の台町とは、山……一つ二つあなたなる大塚辻町に自炊して、長屋が五十七番地、
「ヘン笑かすぜ、」「にやけていやがる、」友達が熱笑冷罵する。そこで糸七としたのである。七夕の恋の意味もない。
その糸七が、この大雪に、乗らない車坂あたりを段々に、どんな顔をしていよう。名を聞いただけでも
お京の
十八
寒い、めっきり寒い。……
氷月と云う汁粉屋の裏垣根に近づいた時、……秋は七草で
「あら、月村さん。」
紅入ゆうぜんの
「済みません、済みませんでした、お約束の時間におくれッちまいまして。」
「まあ、よくねえ。」
と、
「これではどうせ――
「いいえ、いいえ。」
「何しろこの雪でしょう、それに私などと違って、あなたはお勤めがおありになりますから。」
「ところが、ですの。」
とまた一息して、
「私の方こそ、あなたと違って、
と云った。「教え子」と題した、境遇自叙の一篇が、もう世に出ていた。これも上杉先生の門下で。――思案入道殿の
「わけなし、
と、顔をひたと合わせそうに、
「この煙とも霧とも
「抱かれたい、おほほ。」
と口紅が小さく白く、雪に染まった。
「え?」
ただの世辞ではなかったが、おもいがけないお京の返事が胸を
「まあ、月村さん」
「おほほ、三浜さん」
「お元気、お元気……」
十九
渚も元気を増したらしい。
「ですが、顔の色がお悪いわ、少し蒼ざめて。……何しろ、ここへ入って休みましょう――ええ、私のお詣りはそれから、お精進だから構いません、お汁粉ですもの。家がまた氷月ですね。気のきかない、こんな時は、ストーブ軒か、
その木戸口に、柳が
「閉っていたって。」
と、少し脊伸びの
「この
渚が傘を取直して、
「
「私は、懐剣。」
二人が、
お京の方が先んじて、ギイと押すと、木戸が向うへ、一歩先陣、蹴出す緋鹿子、
「おお、まあ、
「と、おっしゃって下すった処で、
「あなたは。」
「え、私は、
「ご尋常……てまえは、いなか。」
「あとで、
「
と閉った縁の
「ああ、冷い、柳の枝が
肩を払うと、顔へかかるのを、片手でまた
「
お京も
「髪の毛ですわ……あら、私ンじゃない。」
しごいて、引いて、幾重にも巻取るようにした指を、離すと、すっと解けて頬を離れる。成程、渚のではない。その渚が――女だ、髪にはどこまでも目が
「まあ、長い、黒い、美しい……どこまでも雪の上を。――月村さん、あなたのですよ。」
「いいえ、私。」
「
「すこしは長いといいますけれど、薄いほどだって言われますもの。」
と頭巾を解き、
「気味の悪い。」
降りしきったのが
「気味の悪い?……気味の悪い事があるもんですか。手で引いてごらんなさいよ、ね、それ、触るでしょう、耳の下、ちっと横、手繰って。……そう、そう、すらすらと動きますわ、木戸の外の柳の上まで、まあ。」
「私どうしましょう。」
「結構じゃありませんか、あなたの指から、ああ
と、相傘するまで、つと寄添う。
「私どうしましょう。」
と、乳のあたりへ袖を
「空から降って来やしないんでしょうか。」
「……空からでしょうよ、池からでしょうよ、天女からお授かりなすったのかも知れませんね、羨しいったらありませんわねえ。」
二十
「でも、私、小説が上手に出来ますように――笑わないで頂戴……そういって拝んだんですのに。」
「じょうだんじゃありません、かりにもそのくらいなものをお授かりになったんですのに。」
「半分切ってあげましょうか。」
「驚いた……
「三浜さんに。」
「まあ。」
「だって、二人でお詣りに来たんですもの。」
「まあ、
「あれ、人が居ます、ほほほ。」
「ええ、そう。――もうあそこまで行きました。」
――
富士
脊の高い方は、それでも
「――あれ、辻町さんよ、ちょいと。」
「辻……町」
「糸七さんですってば。――つい、取紛れて、いきなり噂をしようって処、おくれちまいましたんですがね、いま、さっき、現にいま……」
「今……」
「懐剣、といって、花々しく、あなたがその木戸をお開けなすった時ですよ。
おや……帽子はすっぽりでも、顔は分りましたから、ちょっと挨拶はしましたけれど、
「どうしたんでしょう、こんな朝……雪見とでもいうのかしら。」
「あなたもあんまりお嬢さんね。――吉原の事を随筆になすったじゃありませんか。」
「いやです、きまりの悪いこと。……親類に連れられて、浅草から
「その燈籠は美しく可哀だし、あの落武者……
「よくご存じですこと。」
二十一
「しかし、しかしだね、(雪見と志した処が、まだしも)……何とかいったっけ、そうだ(……まだしも、ふ
「あわれ、憫然というやつかい。」
「やっぱり、まだしも、ふ憫だ。――(いや、ますます降るわえ、奇絶々々。)と寒さにふるえながら牛骨が
またあたかも三馬の向島の雪景色とおなじように、巻込まれた処へ、(骨董子、向うから来るのは
「言えないよ。女作家の事はまた、べつとして……馬鹿々々しいよ。」
「三馬(式亭)が馬鹿々々しい、といって……女郎買に振られて帰ったこの朝だ。
「外聞の悪いことをいうなよ、雪は知らないが、ふられたのは俺じゃないぜ。」
と、大島の小袖に鉄無地の羽織で、角打の紐を縦に
さし向って、三馬とトルストイをごっちゃに
が、
上野の山も、広小路にも、人と車と、
崖下ながら、ここの屋根に日は当るが、軒も
二十二
「仰せにゃ及ぶべき。そうよ、誰も矢野がふられたとは言やしない。今朝――
「そうずけずけとのたまうな、はははは談じたまうなよ、息子は何でも内輪がいい。……まずお酌だ。」
いかがな首尾だか、あのくらい雪にのめされながら、割合に元気なのは、帰宅早々婆さんを使いに、角店の
二人とも
やがて、小形の長火鉢で、
「あれはね、いいかい、
「そいつは
「
「春着に辛うじて算段した、
「苦生?……」
「知ってるじゃないか、月府玄蝉、弁持十二。」
「
「並んだ中にいつも陰気で、じめじめして病人のようだからといって、上杉先生が、おなじく
「ああ、そう、久須利か。」
「くせえというようで悪いから、
「さてまたさぞ
「奇絶、奇絶。――妙とお言いよ。」
「妙でないよ、また三馬か。」
「いい燗だ。そろそろ、トルストイ、ドストイフスキーが煮えて来た。」
「やけを言うなというに。そのから元気を見るにつけても、年下の息子を悩ませ、且つその友達を苦らせる、(一張羅だと聞けばかなしも。)我ながら
「私は、すぼめた。」
「ははは、借りものだっけな、皮肉をいうなよ。息子はおとなしく内輪が好い。がつらつら思うに、茶屋の帳場は婆さんか、
二十三
つれづれ草の作者に音が似ているから、法師とも人が呼ぶ、弦光法師は、
「しかも
「そこで、雪の
「白く群がる朝返りの中で、土手を下りた処だったな。その頭巾の紐をしめながらどこで覚えたか――一段と烏帽子が似合いて候。――と器用な息子だ。しかも節なしはありがたかった。やがて静の前に逢わせたいよ。」
「静といえば。」
「乗出すなよ。こいつ、
「そんなものは名も知らない。てんで顔を見せないんだから。」
「
「おって教授に預ろうよ。そんな事より、私のいうのは、
「写実、写実。」
「目の
「うむ、それだ。それは
と、半ば口で消して、
「さあ、お酌だ。重ねたり。」
「あれは、内芸者というんだろう。ために傘を遠慮した茶屋の女房なぞとは、較べものにならなかったよ。」
「よくない、よくない量見だ。」
と、法師は大きく手を振って、
「原稿料じゃ当分のうち間に合いません。稿料
と
「糸ちゃん! お互にちっと植上げをする工夫はないかい。」
と、
「へい、へい、
爪の黒ずんだ婆さんの、
「ああ、これだ。」と、喟然として歎じて、こんどは、畳へ手をついた。
この
が、途中まず無事に三橋まで引上げた。池の端となって見たがいい、時を得顔の梅柳が、行ったり来たり緋縮緬に、ゆうぜんに、白いものをちらちらと、人を悩す朝である。はたそれ、二階の
二十四
「ありがたい、この、汁レルから湯気が立つ。」
と、味噌椀の蓋を落して、かぶりついた糸七が、
「何だ、中味は
「そういうなよ、漂母の
「それだから焼芋を主張したのに、ほぐして入れると直ぐに
「仲之町の芸者の噂のあとへ、それだけは、その、焼芋、焼芋だけはあやまるよ。」
と、弦光が
同感である。――糸七のおなじ話でも、
ついこの間の事――
と、
「三つ。」
声と共に、
が、何しろ、煮豆だの、芋※[#「くさかんむり/哽のつくり」、72-15]殻だのと相並んで、婆やが持出した膳もさめるし、新聞の座がさめる。ものが清新でないのである。
お職人が念のために、分け目を
「番町さん。」
「…………」
「泉さん。」
驚いて縮めた近目の
「床屋へお入んなったのを……どうもそうらしいと思ったもんですから、お帰り時分を待っていたの、寄ってらっしゃいよ。」
「は、いや、その。」
ああ、そうか、思い出した。この
「どこかへいらっしゃる、ちょっと紅茶でも。」
「お
「飛んでもない。」
「あら、ご挨拶。」
「飛んでもない。可厭なものかね。」
「お世辞のいいこと、
二十五
「人が見ては
拙者生れてより、今この
「
何事だろうと、布目を覗く若い
「お紅茶?」
「いや、酒です、燗を熱く。」
「分っていますわ。」
「それから、勿論食べます。」
「お無駄をなさらないでも。」
「食べますとも、空腹です。そこで、お任せ、という処だけれど、鳥を。」
「蒸焼にしましょう、よく、火を通して。」
それまで御存じか、感謝を表して、一礼すると、もう居なくなる。
すっと
「私も築地で……先日は。」
乳のふくらみを
カーネーション、フリージヤの陰へ、ひしゃげた
「有難う。」
と、まず落着こうとして、ふと、さあ落着かれぬ。
「はてな、や、忘れた。」
「え。」
「下足札。」
「そこに
実は外套を預けた時、札を貰わなかったのを、うっかりと下足札。ああ、面目次第もない。
「お帽子も
やがて少々、とろりとなって、「さてそこへ立っていちゃ、ああ成程――風紀上、
「さあ。(あたりを忍び目、カーテンばかり。)ちょっと
「いや、特に感謝します、結構です。」
「あの、番町さん。私あの辺を知っていますわ。――学院の出ですもの。」
「ほう、すると英学者だ、そのお酌では恐縮です、が超恐縮で、光栄です。」
焼を念入に注意したが、もう出来たろうと、そこで
「ご念の入った事で……光栄です、ありがたい。」
「……お気にめして……おいしいこと。……まあ、嬉しい。それはね、手で持って、めしあがって、結構よ。」
「構いませんか、そいつは
「はい、お手拭。」
二十六
お会計はあちらで、がちゃがちゃがちゃんの方なんですが……ここで……分っていますからと、鉛筆を軽く紙片に走らせた。
この会計だが、この分では、物価
「おうう、こんな事で。……光栄です。」
「お給仕の分もついておりますから、ご心配なく。」
「いよいよ光栄です。」
と思わず口へ出た。床屋の分を倍額に、少し内へ引込んだのである。ここにおいて、番町さんの、泉、はじめて悠然として、下足を出口へ運ぶと、クローク(
これにつけ、またそれよ、壱岐殿坂で鼠の
と、大理石の建物にはあるまじき、ひょろひょろとした
「これだ。」
外套の袖を浮せて膝をたたいた。番町は、何のために、この床屋へ来たんだ。あまりそこらに焼芋の
ものは
即時、その三本に二貫たして、円タクで帰ったが、さて、思うに大分道草――(これも真珠としよう)――真珠を食った。
茅町の弦光の借屋の膳の上には、芋がらの汁と、葡萄豆ぽっちり、牛鍋には糸菎蒻ばかりが、火だけは
本文を取急ごう。
その主意たるや、要するに矢野弦光が、その日、今朝、
一升徳利の転がったを枕にして、投足の片膝組みの仰向けで、酒の酔を陰に沈めて、天井を睨んでいたのが、むっくり、がばと起きると、どたりと
いま、障子外の雨落の
「糸
「ええ、驚いた。」
この方は、袖よじれに横倒れで、鉄張りの煙管を持った手を投出したまま、吸殻を忘れたらしい、畳に焼焦――最も紳士の恥ずべきこと――を
「呼んだぐらいで驚いてくれちゃ困る。よ、糸
二十七
「――賛成だ、至極いいよ。私たち風来とは違って、矢野には学士の肩書がある。――御縁談は、と来ると、悪く
「そう、そう、そう来るだろうと思ったんだ。が、こうなれば刺違えても今更糸
と、わざとらしいまで、膝の上で
「何を刺違えるんだ、間違えているんだろう。」
「だってそうじゃないか、いつか雑誌に写真が出ていたそうだが、そんなものはほとんど眼中になかった。今朝の雪は不意打さ。俥で帰ると、追分で一生の道が南北へ分れるのを、ほんとうに一呼吸という処で、不思議な縁で……どうも言う事が甘ったるいが、どうもどうも、腹の底まで汁粉に化けた。
――氷月の雪の
……同時に、時々の出入りとまでしばしばでなくても、同門の
「その事かい、何だ。」
と笑いもカラカラと五徳に響いて、煙管を
「
「
「勿論。」
「直言を感謝す。」
と
「人
「月村と
「素晴しいね。早速捜そう。」
「見るんなら内にあるよ。その随筆だがね、足が土についていない。お高く中洲の中二階、いや三階あたりに。――政党出の府会議員――一雪の親だよ――その令嬢が、自分一人。女は生れさえすりゃ誰でも処女だ、純潔だのに、一人で純潔がって廓の売色を、
「おおおお念入りだ。」
「そいつが
「色気がないなあ。」
「
「
「意気銷沈より脚気
「そうだろう、べっかっこでなくっちゃ筋は通らない。まともに弁じて、汚れた売女を憎んだのじゃない、あわれんだに……無理はないから。」
「勿論、つけた題が『べっかっこ。』さ――」
「見たいな、糸七……本名か。」
「まさか――署名は――江戸町河岸の、紫。おなじ雑誌の翌月の雑録さ。令嬢は随。……野郎は雑。――編輯部の取扱いが違うんだ。」
「辛うじて一坂越したよ、お互に、静かに、静かに。」
弦光は一息ふッ、日のあたる窓下の机の
二十八
「それでも、上杉先生の、詞成堂――台町の山の屋敷の庭続き崖下にある
見す見す一雪女史に
「その顔だね。」
「この
「分った、もう
と弦光は膝も浮きそうに、火鉢の向うで、肩をわななかせて、手を振った。
「雪のごとき、玉のごとき、乳の下を……
寂しい笑いで、
「話はおかしいが、大心配な事が出来た。糸
「
「失礼、結構、失礼で安心した。しかし、一言でそうむきになって、腰のものを振廻すなよ。だから振られるんだ、
「先生に貰ったんだ。弁持と二人さ、あとは
「何しろ
「こんなものを物騒がって、一雪を細君に……しっかりおしよ。月村はね、駿河台へ通って、依田学海翁に学んでいるんだ。」
と居直った。
二十九
「学海翁に。」
弦光は
「まさか剣術じゃあるまいな。それじゃ、僧正坊の術譲りと……そうか、言わずとも白氏文集。さもありなん、これぞ淑女のたしなむ処よ。」
「違う違う、
「まさか、
「
「何だ、紅楼夢だ。
と上目づかいに、酒の
「学海
「教ゆ。授く。」
「……教ゆ。授く。気になる、気になる。」
「施す。」
「……施す、妙だ。いや、待った。待った。」
と
「学海施一雪紅楼夢――や
弦光はわざとらしく胸をわななかせたと思うと、その胸を
「安心するがいい。誰が紅楼夢だときめたよ、一人で慌てているんじゃないか。一雪の習ってるのは
「何、水滸伝。はてな、妙齢の姿色、
と
「寝ているうちに、
……といううちにも、糸
「
「大のしんし、いい
「お互に懐中は寂しいね、一杯おつぎよ、満々と。しんしと聞いていい許の息子かは慌て過ぎる、
「三枚目だな、我がお京さんを誰だと思うよ、取るに足らず。すると、まず、どこにも敵の心配はなしか。」
「……ところがある、あるんだ! 一人ある。」
弦光は猫板に
「
「噴出さしちゃ
三十
「――
「あ、野土青麟か。」
「うむ、野土青麟だ。およそ世の中に
「当代無類の
声を
(……ふと思うと、前段に述べた、作者が、
「絵だけ描いていれぱ、当人も世間も助かるものを、紫の
この弦光の言、――聞くべし、特説
「乱杭、歯くそ
「横笛は、八本の調子を、もう一本上げたいほど高い処で張ってるのさ。貸本屋へしけ込むのは、道士
「図かい。」
「図だよ。」
「見料は高かろう。」
「高い、何、見料どころか、この図を
(――これ皆、中洲を伺い、三崎町を覗く、荷高似内の見聞して報ずるところさ。)
ところで、青麟――青麟と中洲の関係は、はじめ、ただ、貸本屋から本を借りるには、帳面へ、所番地を控える
「
「すぼめ口に紅をつけて「ほほほ景気はどうかね。」とお伽堂へ一人で青麟が
「聞いちゃおられん、そ、そいつが我がお京さんを。」
「痛い、痛い。」
「あ、何度めだい、また握手した。糸
三十一
「まず握手を解こう。両方がこう意気込んでは、青麟輩に――断って置くが、意地にも我慢にも、所得は違うが――彼等に対して、いやしくも、糸七、弦光二人
「……いずれ、その安料理屋へ青麟を
そこへ、愛読の
「三崎町へ、いいえさ、地獄変相の図の中へな、ううう。」
「せき込むなよ……という事も出来るし、亭主がまた髯を
弦光がこの時、腕を
「少からず
「初冬から年末……ははは、いやに仲人染みたぜ……そち
「……だそうじゃ
「頼まれたのは、今日はじめてじゃないか。」
「それにしても冷淡過ぎるよ。――したたかに中洲へ魔手が伸びているのに。」
「私は中洲が煮て喰われようが、焼いて……
弦光は案じ入って、
「いやいや、そうでない。すべて悲劇はそこらで起る。不思議に、そんな縁の――万々一あるまいが――結ばる事が、事実としてありかねない。予感が良くない。胸が騒ぐ。……糸ちゃん、すぐにもお伽堂とかへ行って。」
「そいつは、そいつは
「なぜだよ、どうもお伽堂というのは、糸
「ちっともしない、何にも言わない。またこっちも、うわさなんかして貰いたくないんだよ。」
――(様子を見ると、
「ただ、いかんせん、亭主に高利の借がある。催促が厳しいんだ。亭主の催促が厳しいのに――そこを蔭になり、日向になり、「あなたア」などとその目でじろりと遣るだろう……白肉の柔い
「誰だい、髑髏かい、竹如意かい。」
「また
「何だ二人でか、まさか、そんな竹如意、髑髏の亜流のごとき……」
「黙るよ、私は。失礼な、素人を馬鹿な、誰が失礼を。」
「はやまった、
「けれどもね。実は、その時の光景というのが、短銃と短刀同然だったよ。弁持と二人で、女房を
といって、苦笑した。
三十二
「――何ね、義理と附合で、弁持と二人で出掛けなくちゃならない
ほかに工面のしようがないので、お伽堂へ
三崎町の土手を行ったり来たり、お伽堂の裏手になる。……なまじっか
「いや、はや、どうも。いや、どうも。」
屋根の雪がずるずると、窓下へ、どしんと響く。
弦光は坐り直して、
「出直しだ、出直しだ。この上はただ、
「分ったよ。」
「直ぐにも頼む、もう、あの娘は俺の命だから、あの娘なしには半日も――
うむと
「討死したな。……何も功徳だ、すぐにも先生の
「勿論よ。清めてくれ。――婆や、湯に行く支度だ。婆や婆や。」
「ふええ。」
「あれだ、聞いたか――池の端茅町の声でないよ、麻布
やがて、水の
「糸ちゃん、望みが叶うと、よ、もやいの
「
「おや。」
背中を、どしんと
「こいつ、こいつ。――しかし、さすがに上杉先生のお仕込みだ、もてたと言わない。何だ、見ろ。
「頭巾を借りて
「長いなあ、長い、細い、
桜の枝が、たよたよして、しずれ落ちに雪がさらさらと落ちて、巻きかけた一筋のその黒髪の丈を包んだ。
上野の山の松杉の遠く
三十三
辻町糸七は、ぽかんとしていた仕入もの、小机の
逃げた庭――庭などとは
歌俳諧や絵につかう花野茅原とは品変って、
――遠くに居る家主が、かつて適切なる提案をした。曰く、これでは地味が荒れ果てる、
(――そこへ
糸七は、南瓜の葉を
――
七十八歳になるただ一人、祖母ばかり。大塚の場末の――
さて、その、ひょいと持って軽く置くと、古葛籠の上へも据りそうな、小さな白髪の
姿を。……
ここから、南瓜の葉がくれに
糸七は、蟇 と踞み、
南瓜の葉がくれ、
尾花を透かして、
蜻蛉の目で。
南瓜の葉がくれ、
尾花を透かして、
蜻蛉の目で。
三十四
――この
来やがったろう、と言いたくらいだ。そりの合わない……というのも行き過ぎか、合うにも合わないにも
……あの、お京……いやに、ひったり
幌の中で、どしばたして、弦光が、「辻町か、
納ったか、悦に入ったか、気取ったか、弦光め、それきり
糸七は蟇と踞み、
南瓜の葉がくれ、
尾花を透かして、
蜻蛉の目で、
覗きながら、南瓜の葉がくれ、
尾花を透かして、
蜻蛉の目で、
同時に南瓜の葉が一面に波を打って、
大塚の
――や、あの時にそっくりだ。そうだ、しかも八月極暑よ。去んぬる年、一葉女史を、福山町の魔窟に訪ねたと同じ雑誌社の用向きで、中洲の
――原稿を十四五枚、
「何のざまだ。」
心の
糸七は蟇と踞み。
南瓜の葉蔭に……
南瓜の葉蔭に……
三十五
尾花を透かして、
蜻蛉の目で。
内へ帰れば借金取、そこら一面八方蜻蛉の目で。
……時であった。簾が巻き消えに、上へ揚ると、その雪白の花が、一羽、
さて何と思ったろう……その晩だったか、あと二三日おいてだったか、
……とばかりで、今、今まで胴忘れをしていた、お京さん……が、何しに来たろう。ああ、あの時の雑誌の使いの挨拶だ。
尾花を透かして、
蜻蛉の目で。……
見ていると、その縁の敷居際に膝をついたまま、こちらを蜻蛉の目で。……
それは居間だ。四畳半、机がある。仕事場である。が、
右手の一方は甥の若いのが遣り放し、散らかし放題だが、まだその方へ入ってくれればよかったものをと、さながら
耳元近い裏木戸が開くのと、バケツを
「やーい、けいせい買のふられ男の、意気地なしの弱虫や、花嫁さんが来たって遁げたや、ちゃッ、ちゃッ、ちゃッ。」
……と、みそさざいのように笑ったのは、お滝といって、十一二、前髪を振下げた、舞みだれの蝶々
「足をお洗いよ、さあ、ぼんやりしないで、よ、
けいせい買の、ふられ男の弱虫は、障子が開くと、冷汗をした。あまつさえ、光邦様。……
五目の師匠も近所なり、近い頃氷川様の
「チチーン、シャン、チチチ、チチチン。(鼓の口真似)ポン、ポン、
「馬鹿、雑巾がないじゃないか。」
「まあ、この私とした事が、ほんにそうでござんした、おほほ。」
ちゃッちゃッ、と笑いながら、お滝が木戸をポイと出る。糸七の気早く足へ掛けたバケツの水は、南瓜にしぶいて、ばちゃばちゃ鳴るのに、障子一重、そこのお京は、
三十六
慌てて、
「
これには、ただ身の
「おつかいなさいましな。」
と、すぐに糸七が腰かけた
「私が、あの……」
と、その半□を足へ寄せる。
「ね。」
「よして、よして下さい。罰が、罰が当る。」
「罰の当りますのは私の方です、私の方です。」
「――牛込の料理屋へ、
「何の事です、あれは先生の用で駆けつけたんです。」
「でも、それだって。」
「
「洒落……」
と引息に声が
そこへ、お滝が飛込んで――
「あい、雑巾。あら、あら、二人とも気取ってる。バケツが引っくり返ってるじゃないの――テン、チン、
と
「わあい……光邦、妖術にかかって、宙に釣られて、ふらふらしてるよ。」
背中にひったり、うしろ姿でお京が立ったのを、弱った糸七は
お滝が、ひょいと、飛んで
「きれいなお姉ちゃん、少しお動きよ。」
「はい、動きましょう。」
と、縁をうつくしい
「これ、雑巾のおうつりです。」
「あら、あら、私に。」
「でも新しいんですから。」
お滝は受けた半□を、前髪に当て、額に当て、頬に当て、
「さてこそさてこそ、この旗を所持なすからは、問うに及ばず、
「何だ、あべこべじゃないか、違ってら。」
「チエエ、残念や、口おしや、かくなるうえは何をかつつまん、まこと我こそ――滝夜叉なるわ。どろんどろん、」
と、あとしざりに、
「……帯だって出来るわ、この半□。嬉しい! 花嫁さん、ありがとう、お楽しみ光邦様、どろんどろん。」
木戸も閉めないで、トンと
「――何とも、かとも、言いようはありません。」
すぐにお京を招じ入れた、というよりも、お京はひとりでに、ものあって誘うように、いま居た四畳半の縁の障子と、格子戸見通しの四畳を隔てた
「何とも、かとも、いいようはありません、失礼しました。」
お京は薄い
「辻町さん……私を
「何、折檻。」
「ええ。」
「折檻、あなたはおよそ折檻ということを、知っていますか。あなたの身で、そのおからだで折檻という言葉をさえ知っていますか、本では読み話では聞いて、それは知っていらっしゃるかも知れませんが、何をいうんです。」
――
糸七はすくむよりも、恐れるよりも、ただ、
三十七
上げた顔は、血が澄んで、色の白さも透通る……お京は片袖を膝の上に、
「何よりか、あの、何より先に、申訳がありません。あなたのお内へお許しも受けないで、お言葉も受けないで、勝手に上って来たんですもの。」
「そんな、そんな事、何、こんな内、上るにも、踏むにも、ごらんの通り、
「いいえ、いいえ、私だって、幾度も、お玄関で。」
「あやまります、恐入ります。お玄関は弱り果てます。」
「おうかがいはしたんですけれど、しんとして、
「すぐ開き
「あれ、お
「今も居ます。現に居ます、ごめんなさい。談じます。談判します、
「あれ、あなた、そんな気ではありません。
と、片袖で顔をかくすと、姿も、消入る風情である。
「それが、それがです、それにわけがあるんです。何しろ、あなたを見てからではありません、見ない前に飛出したんです、――今申訳をします。待って下さい。どうも、何しろ、
鉄の
「――夜叉
声の下に、鼻の上まで窓の外へ、二ツ目が出た。
「光邦様、何。」
ひやりと、また汗になりながら、
「
黙って
「放れ馬だよ、そら前町を、放れ馬だよ、五匹だ。放れ馬だよッ。」
畳の埃も澄んだようで、炉の灰の急な白さ。背きがち、
それを汚すようだから、雁首で吹溜めの吸殻を隅の方へ掻こうとすると、頑固な鉄が、
覚えず、
「月村さん、あなたを見て、花嫁、いや、待って下さい。言うのも
……聞いたばかり、聞いたばかりで腰も抜かさないのは、まだしもの
……煙草は……それはありがたい、お
と妙に砕けて、変に
三十八
「……また何も、ここへ友達を
……
「
その蚤だか虱だかを捻る片手間に、部屋から下ったという蕎麦の残り、伸びて、
糸七は煙管を落した。
「あなたの吉原の随筆は、たしか、題は『あさましきもの。』でしたね。私が飛んだ『べッかッこ』をした。」
「もう、どうぞ。」
お京は膝に袖を千鳥に掛けたまま、
「大目玉を頂きましたよ、先生に。」
「もうどうぞ、ご堪忍。」
「いや、お詫びは私こそ、いわばやっぱりあなたの罰です。その「浅ましい」一つの穴で……部屋は
――「あさましきもの」が引受けてくれました、暑いのに、
その女が、これも化けた一つの
一言で面くらって、あなたのお顔も、姿も見ないで、
しまった! 大家が家賃の催促でも済んだものを、馬鹿の智慧は後からで、お京のとりなしの純真さに、つい、事実をあからさまに、達引だの、いや矢ぶみだの、あさましく聞きはしないか、と、舌がたちまち縮んで
「光邦様。」
日ぶみ矢ぶみの色男の汗を流した顔を見よ。いまうわさしたその窓から、お滝の蝶々髷が、こん度は羽目板の壊れを踏んで上ったらしい。口まで出た。
「お客様の、ご馳走は。……つかいに行って上げるわよ。」
また、冷汗だ、銭がない。
三十九
「これは、これは、おうようこそや。……今の、
ちと以前より、ごそごそと、台所で、土瓶、炭、火箸、七輪。もの音がしていたが、すぐその一枚の
これにお京のお諸礼式は、長屋に過ぎて、
「あの、お
二声目に、やっと聞えて、
「はい、はい。」
「辻町さんに……」
「…………」
「糸七さんに……」
肩身を狭く、ちょっと留めて、
「そんな事いったって、分りませんよ。」
「……お孫さんに。……」
「はい。」
「いろいろとお世話になります。」
「……孫めは
と、へぎ盆も有合さず、菜漬づかいの、小皿をそこへ、二人分。糸七は
「それからの、
と湯気の立つ茶椀。――南無三宝、茶が切れた。
「ほんにの、これが春で、餅草があると、私が手に、すぐに団子なと拵えて進じょうもの。孫が、ほっておきで、南瓜の葉ばかり何にもないがの。」
と寂しい笑いの、口には歯がない。
お京がいとしげに打傾き、
「お祖母様、いまに可愛い嫁菜が咲きます。」
「嫁菜がの、嬉しやの、あなたのような、のう。」
糸七は仰天した、人参のごとく
「お祖母さん、お祖母さん、お祖母さん、そんな事より、仏間へ行って、この、きれいな、珍らしいお客様の見えた事を、父、母に話して下さい。」
「おいの、そうじゃの。」
何と思ったか、お京が急いで、さも、遠慮のないように椎の実を取った。
「お祖母様。」
「……おお、食べてくださるかの。」
「おいしい……」
と、長いまつ毛をふるわせて、
「三度、三度、ここに居まして、ご飯のかわりに頂いたら、どんなにか嬉しいでしょう……」
と、息をふくんだ頬を削って、ツと
「喧嘩せまい、喧嘩せまい。何じゃ、この、孫めがまた……」
「――お祖母さん、芝居の話をしていたんです、それが悲しいもんですから。」
「それは、それは……嫁ごもの、芝居が何より好きでござったよ。たんと、ゆっくり話さっしゃい。……ほんにの、お蒲団もない。道中にも、寝床にも
祖母の立ったのを見ると
「
「勿体ない。私は嬉しゅう存じました。」
と膝を
「辻町さん、では、失礼をいたします。」
何しに来たこの女、何を泣いたこの女、なぜ泣かせたこの女、椎と青紫蘇の葉に懲りて、
黙って、糸七が挨拶すると、
「お恥しいもんです。小さな盃は、内に久しくありました。それに、お酒をお一口。」
四十
「…………」
「私……しばらくお別れに来たんです。」
「……旅行――遠方へ。」
「いいえ。」
糸七は釈然として、胸で解けた。
「ああ、極りましたか、矢野とお約束。」
眉が一文字に、
「あの方、お断りしてしまいました、
「他所へ。……おきき申すのも変ですが。」
お京は引結んだ口元をやっと解いたように見えて、
「野土青麟の
糸七は聞くより思わず
「あなたが、あなたが、私を――矢野さんにお
「…………」
「辻町さん、よく存じております、知っていたんです。お嫌いなさいますのも、お憎しみも分っています。いますけれど、思う方、慕う方が、その女を
と
「危え、危え、ええ危えというに、やい、
「何を
と、目をぱっちり、ちょっと、一見得。
「チンツン、さすがの勇者もたじたじたじ、チチレ、トツツル、ツンツ、ツンツ、こずえ木の葉のさらさらさら、チャン、チャン、チャンチャンラン、チャンラン、魔風とともに光邦が、襟がみつかんで……おほほ、ははは、ちゃっちゃっ、ちゃっ。」
お京の姿を、框に覗くと、帰る、と見た、おしゃまの、お先走りのお茶っぴいが、木戸
「わかれに、……その気でいたかも知れない。」
小杯は朱塗のちょっと受口で、香炉形とも言いそうな、内側に銀の梅の
杯を持直して、
「別れだといいました。糸七も潔く受けました。あなたも、一つ。」
弱い酒を、一時に、
「どうかしている。」
第一に南瓜畠が暗かった。数千の葉が庭ぐるみ皆
その時、
一よろけ、ひょろりとして、
「――一段と烏帽子が似合いて候――」
とすっくり立った。
が、これは雪の朝、吉原を落武者の困惑を繰返したものではない。一人の友達の、かつて、
青麟に
四十一
と、
「鳴るは滝の水、と来るか、来たと……何だ、日は照るとも絶えずとうたりか、絶えずとうたりと、絶えずとうたり、とくとく立てや
真似を動いて、くるくる舞ったが、打傾いて耳を
「や、
と、いうとともに、胆略も武勇もない、
がんがんがんと、胸は早鐘、
仏間にては、祖母が、さっきの
「
なき父、なき母。
「私は決してお京さんに。……ただただ、青大将の女房にはしたくないんです。」
と、きちんと両手をついたかと思えば、すぐに
「でんでん虫、虫。雨も風も吹かンのんに、でんでん虫、虫……」
と、狂言舞に、無性
のそのそ、のそのそ、一面の南瓜の蔭から
ここに不思議な事は、結びも、留めもしない、朱塗の梅の杯が
猛然として、藍染川、忍川、不忍の池の雪を思出すと、思わず震える指で、毛筋を引けば、手繰れば、
この瞬間、誰が、その藍染川、忍川、不忍の池を眺めた雪の糸桜を
見る見る、黒髪に散る雪が、輝く
糸七は
「光邦様、光邦様。」
ぎょっとすると、お滝夜叉。
「あい、お手紙。ほら、さっき来たんだけれどね、ね、花嫁が
――お伽堂、時より――で、都合で帰郷する事になり、それにつけ、いつぞや、『たそがれ』など、あなたを大のご
――もう
――(完)
作者自から評して云う、この(結び)には拵えた作意がある。誰方にもよく解る。……お滝が手紙を渡す条 である。纏 りがいいようにと思ったが、見えすいた筋立らしい、こんな事はしないが好 い。――実は、お伽堂の女房の手紙が糸七に届いたのは、過ぐること二月ばかり、お京さんと、野土青鱗(あおだいしょうめ)画伯と、結婚式の済んだ後だったのだそうである。
昭和十四(一九三九)年三月
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