浮雲はしがき
薔薇 の花は頭 に咲て活人は絵となる世の中独り文章而已 は黴 の生えた陳奮翰 の四角張りたるに頬返 しを附けかね又は舌足らずの物言 を学びて口に涎 を流すは拙 しこれはどうでも言文一途 の事だと思立ては矢も楯 もなく文明の風改良の熱一度に寄せ来るどさくさ紛れお先真闇 三宝荒神 さまと春のや先生を頼み奉 り欠硯 に朧 の月の雫 を受けて墨摺流 す空のきおい夕立の雨の一しきりさらさらさっと書流せばアラ無情 始末にゆかぬ浮雲めが艶 しき月の面影を思い懸 なく閉籠 て黒白 も分かぬ烏夜玉 のやみらみっちゃな小説が出来しぞやと我ながら肝を潰 してこの書の巻端に序するものは
明治丁亥 初夏
浮雲第一篇序
第一編
第一回 アアラ怪しの人の挙動
千早振 る神無月 ももはや跡二日 の余波 となッた二十八日の午後三時頃に、神田見附 の内より、塗渡 る蟻 、散る蜘蛛 の子とうようよぞよぞよ沸出 でて来るのは、孰 れも顋 を気にし給 う方々。しかし熟々 見て篤 と点□ すると、これにも種々 種類のあるもので、まず髭 から書立てれば、口髭、頬髯 、顋 の鬚 、暴 に興起 した拿破崙髭 に、狆 の口めいた比斯馬克髭 、そのほか矮鶏髭 、貉髭 、ありやなしやの幻の髭と、濃くも淡 くもいろいろに生分 る。髭に続いて差 いのあるのは服飾 。白木屋 仕込みの黒物 ずくめには仏蘭西 皮の靴 の配偶 はありうち、これを召す方様 の鼻毛は延びて蜻蛉 をも釣 るべしという。これより降 っては、背皺 よると枕詞 の付く「スコッチ」の背広にゴリゴリするほどの牛の毛皮靴、そこで踵 にお飾を絶 さぬところから泥 に尾を曳 く亀甲洋袴 、いずれも釣 しんぼうの苦患 を今に脱せぬ貌付 。デモ持主は得意なもので、髭あり服あり我また奚 をか□ めんと済した顔色 で、火をくれた木頭 と反身 ッてお帰り遊ばす、イヤお羨 しいことだ。その後 より続いて出てお出でなさるは孰 れも胡麻塩 頭、弓と曲げても張の弱い腰に無残や空 弁当を振垂 げてヨタヨタものでお帰りなさる。さては老朽してもさすがはまだ職に堪 えるものか、しかし日本服でも勤められるお手軽なお身の上、さりとはまたお気の毒な。
途上人影 の稀 れに成った頃、同じ見附の内より両人 の少年 が話しながら出て参った。一人は年齢 二十二三の男、顔色は蒼味 七分に土気三分、どうも宜 しくないが、秀 た眉 に儼然 とした眼付で、ズーと押徹 った鼻筋、唯 惜 かな口元が些 と尋常でないばかり。しかし締 はよさそうゆえ、絵草紙屋の前に立っても、パックリ開 くなどという気遣 いは有るまいが、とにかく顋が尖 って頬骨が露 れ、非道 く□ れている故 か顔の造作がとげとげしていて、愛嬌気 といったら微塵 もなし。醜くはないが何処 ともなくケンがある。背 はスラリとしているばかりで左而已 高いという程でもないが、痩肉 ゆえ、半鐘なんとやらという人聞の悪い渾名 に縁が有りそうで、年数物ながら摺畳皺 の存じた霜降 「スコッチ」の服を身に纏 ッて、組紐 を盤帯 にした帽檐広 な黒羅紗 の帽子を戴 いてい、今一人は、前の男より二ツ三ツ兄らしく、中肉中背で色白の丸顔、口元の尋常な所から眼付のパッチリとした所は仲々の好男子ながら、顔立がひねてこせこせしているので、何となく品格のない男。黒羅紗の半「フロックコート」に同じ色の「チョッキ」、洋袴は何か乙な縞 羅紗で、リュウとした衣裳附 、縁 の巻上ッた釜底形 の黒の帽子を眉深 に冠 り、左の手を隠袋 へ差入れ、右の手で細々とした杖 を玩物 にしながら、高い男に向い、
「しかしネー、若 し果して課長が我輩を信用しているなら、蓋 し已 むを得ざるに出 でたんだ。何故 と言ッて見給え、局員四十有余名と言やア大層のようだけれども、皆 腰の曲ッた老爺 に非 ざれば気の利 かない奴 ばかりだろう。その内で、こう言やア可笑 しい様だけれども、若手でサ、原書も些 たア噛 っていてサ、そうして事務を取らせて捗 の往 く者と言ったら、マア我輩二三人だ。だから若し果して信用しているのなら、已 を得ないのサ」
「けれども山口を見給え、事務を取らせたらあの男程捗の往く者はあるまいけれども、やっぱり免を喰 ったじゃアないか」
「彼奴 はいかん、彼奴は馬鹿だからいかん」
「何故」
「何故と言って、彼奴は馬鹿だ、課長に向って此間 のような事を言う所を見りゃア、弥 馬鹿だ」
「あれは全体課長が悪いサ、自分が不条理な事を言付けながら、何にもあんなに頭ごなしにいうこともない」
「それは課長の方が或は不条理かも知れぬが、しかし苟 も長官たる者に向って抵抗を試みるなぞというなア、馬鹿の骨頂だ。まず考えて見給え、山口は何んだ、属吏じゃアないか。属吏ならば、仮令 い課長の言付を条理と思ったにしろ思わぬにしろ、ハイハイ言ってその通り処弁 して往きゃア、職分は尽きてるじゃアないか。然 るに彼奴のように、苟も課長たる者に向ってあんな差図がましい事を……」
「イヤあれは指図じゃアない、注意サ」
「フム乙 う山口を弁護するネ、やっぱり同病相憐 れむのか、アハアハアハ」
高い男は中背の男の顔を尻眼 にかけて口を鉗 んでしまッたので談話 がすこし中絶 れる。錦町 へ曲り込んで二ツ目の横町の角まで参った時、中背の男は不図 立止って、
「ダガ君の免を喰 たのは、弔すべくまた賀すべしだぜ」
「何故」
「何故と言って、君、これからは朝から晩まで情婦 の側 にへばり付いている事が出来らアネ。アハアハアハ」
「フフフン、馬鹿を言給うな」
ト高い男は顔に似気 なく微笑を含み、さて失敬の挨拶 も手軽るく、別れて独り小川町 の方へ参る。顔の微笑が一かわ一かわ消え往くにつれ、足取も次第々々に緩 かになって、終 には虫の這 う様になり、悄然 と頭 をうな垂れて二三町程も参ッた頃、不図 立止りて四辺 を回顧 し、駭然 として二足三足立戻ッて、トある横町へ曲り込んで、角から三軒目の格子戸 作りの二階家へ這入 る。一所 に這入ッて見よう。
高い男は玄関を通り抜けて縁側へ立出 ると、傍 の坐舗 の障子がスラリ開 いて、年頃十八九の婦人の首、チョンボリとした摘 ッ鼻 と、日の丸の紋を染抜いたムックリとした頬とで、その持主の身分が知れるという奴が、ヌット出る。
「お帰 なさいまし」
トいって、何故か口舐 ずりをする。
「叔母さんは」
「先程 お嬢さまと何処 らへか」
「そう」
ト言捨てて高い男は縁側を伝 って参り、突当りの段梯子 を登ッて二階へ上る。ここは六畳の小坐舗 、一間の床 に三尺の押入れ付、三方は壁で唯南ばかりが障子になッている。床に掛けた軸は隅々 も既に虫喰 んで、床花瓶 に投入れた二本三本 の蝦夷菊 は、うら枯れて枯葉がち。坐舗の一隅 を顧みると古びた机が一脚据 え付けてあッて、筆、ペン、楊枝 などを掴挿 しにした筆立一個に、歯磨 の函 と肩を比 べた赤間 の硯 が一面載せてある。机の側 に押立たは二本立 の書函 、これには小形の爛缶 が載せてある。机の下に差入れたは縁 の欠けた火入、これには摺附木 の死体 が横 ッている。その外坐舗一杯に敷詰めた毛団 、衣紋竹 に釣るした袷衣 、柱の釘 に懸けた手拭 、いずれを見ても皆年数物、その証拠には手擦 れていて古色蒼然 たり。だが自 ら秩然と取旁付 ている。
高い男は徐 かに和服に着替え、脱棄てた服を畳みかけて見て、舌鼓 を撃ちながらそのまま押入へへし込んでしまう。ところへトパクサと上ッて来たは例の日の丸の紋を染抜いた首の持主、横幅 の広い筋骨の逞 しい、ズングリ、ムックリとした生理学上の美人で、持ッて来た郵便を高い男の前に差置いて、
「アノー先刻 この郵便が」
「ア、そう、何処から来たんだ」
ト郵便を手に取って見て、
「ウー、国からか」
「アノネ貴君 、今日のお嬢さまのお服飾 は、ほんとにお目に懸けたいようでしたヨ。まずネ、お下着が格子縞の黄八丈 で、お上着はパッとした宜引[#「引」は小書き右寄せ]縞 の糸織で、お髪 は何時 ものイボジリ捲きでしたがネ、お掻頭 は此間 出雲屋 からお取んなすったこんな」
と故意々々 手で形を拵 らえて見せ、
「薔薇 の花掻頭 でネ、それはそれはお美しゅう御座いましたヨ……私もあんな帯留が一ツ欲しいけれども……」
ト些 し塞 いで、
「お嬢さまはお化粧なんぞはしないと仰 しゃるけれども、今日はなんでも内々で薄化粧なすッたに違いありませんヨ。だってなんぼ色がお白 ッてあんなに……私 も家 にいる時分はこれでもヘタクタ施 けたもんでしたがネ、此家 へ上ッてからお正月ばかりにして不断は施けないの、施けてもいいけれども御新造 さまの悪口が厭 ですワ、だッて何時 かもお客様のいらッしゃる前で、『鍋 のお白粉 を施けたとこは全然 炭団 へ霜が降ッたようで御座います』ッて……余 りじゃア有りませんか、ネー貴君、なんぼ私が不器量だッて余りじゃアありませんか」
ト敵手 が傍 にでもいるように、真黒になってまくしかける。高い男は先程より、手紙を把 ッては読かけ読かけてはまた下へ措 きなどして、さも迷惑な体 。この時も唯「フム」と鼻を鳴らした而已 で更に取合わぬゆえ、生理学上の美人はさなくとも罅壊 れそうな両頬 をいとど膨脹 らして、ツンとして二階を降りる。その後姿を目送 ッて高い男はホット顔、また手早く手紙を取上げて読下す。その文言 に
一筆 示し※ [#「参らせ候」のくずし字、13-8]、さても時こうがら日増しにお寒う相成り候 えども御無事にお勤め被成 候や、それのみあんじくらし※[#「参らせ候」のくずし字、13-9]、母事 もこの頃はめっきり年をとり、髪の毛も大方は白髪 になるにつき心まで愚痴に相成候と見え、今年の晩 には御地 へ参られるとは知りつつも、何とのう待遠にて、毎日ひにち指のみ折暮らし※[#「参らせ候」のくずし字、13-11]、どうぞどうぞ一日も早うお引取下されたく念じ※[#「参らせ候」のくずし字、13-12]、さる二十四日は父上の……
と読みさして覚えずも手紙を取落し、腕を組んでホット溜息 。
第二回 風変りな恋の初峯入 上
高い男と仮に名乗らせた男は、本名を内海文三 と言ッて静岡県の者で、父親は旧幕府に仕えて俸禄 を食 だ者で有ッたが、幕府倒れて王政古 に復 り時津風 に靡 かぬ民草 もない明治の御世 に成ッてからは、旧里静岡に蟄居 して暫 らくは偸食 の民となり、為 すこともなく昨日 と送り今日と暮らす内、坐して食 えば山も空 しの諺 に漏 れず、次第々々に貯蓄 の手薄になるところから足掻 き出したが、さて木から落ちた猿猴 の身というものは意久地の無い者で、腕は真陰流に固ッていても鋤鍬 は使えず、口は左様 然 らばと重く成ッていて見れば急にはヘイの音 も出されず、といって天秤 を肩へ当るも家名の汚 れ外聞が見ッとも宜 くないというので、足を擂木 に駈廻 ッて辛 くして静岡藩の史生に住込み、ヤレ嬉 しやと言ッたところが腰弁当の境界 、なかなか浮み上る程には参らぬが、デモ感心には多 も無い資本を吝 まずして一子文三に学問を仕込む。まず朝勃然 起る、弁当を背負 わせて学校へ出 て遣 る、帰ッて来る、直ちに傍近の私塾へ通わせると言うのだから、あけしい間がない。とても余所外 の小供では続かないが、其処 は文三、性質が内端 だけに学問には向くと見えて、余りしぶりもせずして出て参る。尤 も途 に蜻蛉 を追う友を見てフト気まぐれて遊び暮らし、悄然 として裏口から立戻ッて来る事も無いではないが、それは邂逅 の事で、ママ大方は勉強する。その内に学問の味も出て来る、サア面白くなるから、昨日 までは督責 されなければ取出さなかッた書物をも今日は我から繙 くようになり、随 ッて学業も進歩するので、人も賞讃 せば両親も喜ばしく、子の生長 にその身の老 るを忘れて春を送り秋を迎える内、文三の十四という春、待 に待た卒業も首尾よく済だのでヤレ嬉しやという間もなく、父親は不図感染した風邪 から余病を引出し、年比 の心労も手伝てドット床に就 く。薬餌 、呪 、加持祈祷 と人の善いと言う程の事を為尽 して見たが、さて験 も見えず、次第々々に頼み少なに成て、遂 に文三の事を言い死 にはかなく成てしまう。生残た妻子の愁傷は実に比喩 を取るに言葉もなくばかり、「嗟矣 幾程 歎いても仕方がない」トいう口の下からツイ袖 に置くは泪 の露、漸 くの事で空しき骸 を菩提所 へ送りて荼毘 一片の烟 と立上らせてしまう。さて□人 が没してから家計は一方ならぬ困難、薬礼 と葬式の雑用 とに多 もない貯叢 をゲッソリ遣い減らして、今は残り少なになる。デモ母親は男勝 りの気丈者、貧苦にめげない煮焚 の業 の片手間に一枚三厘の襯衣 を縫 けて、身を粉 にして□了 ぐに追付く貧乏もないか、どうかこうか湯なり粥 なりを啜 て、公債の利の細い烟 を立てている。文三は父親の存生中 より、家計の困難に心附かぬでは無いが、何と言てもまだ幼少の事、何時 までもそれで居られるような心地がされて、親思いの心から、今に坊がああしてこうしてと、年齢 には増せた事を言い出しては両親に袂 を絞らせた事は有 ても、又何処 ともなく他愛 のない所も有て、浪 に漂う浮艸 の、うかうかとして月日を重ねたが、父の死後便 のない母親の辛苦心労を見るに付け聞くに付け、小供心にも心細くもまた悲しく、始めて浮世の塩が身に浸 みて、夢の覚たような心地。これからは給事なりともして、母親の手足 にはならずとも責めて我口だけはとおもう由 をも母に告げて相談をしていると、捨る神あれば助 る神ありで、文三だけは東京 に居る叔父の許 へ引取られる事になり、泣 の泪 で静岡を発足 して叔父を便 って出京したは明治十一年、文三が十五に成た春の事とか。
叔父は園田孫兵衛 と言いて、文三の亡父の為めには実弟に当る男、慈悲深く、憐 ッぽく、しかも律義 真当 の気質ゆえ人の望 けも宜いが、惜 かな些 と気が弱すぎる。維新後は両刀を矢立 に替えて、朝夕算盤 を弾 いては見たが、慣れぬ事とて初の内は損毛 ばかり、今日に明日 にと喰込 で、果は借金の淵 に陥 まり、どうしようこうしようと足掻 き□ いている内、不図した事から浮み上 て当今では些とは資本も出来、地面をも買い小金をも貸付けて、家を東京に持ちながら、その身は浜のさる茶店 の支配人をしている事なれば、左而已 富貴 と言うでもないが、まず融通 のある活計 。留守を守る女房のお政 は、お摩 りからずるずるの後配 、歴 とした士族の娘と自分ではいうが……チト考え物。しかしとにかく如才のない、世辞のよい、地代から貸金の催促まで家事一切独 で切って廻る程あって、万事に抜目のない婦人。疵瑕 と言ッては唯 大酒飲みで、浮気で、しかも針を持つ事がキツイ嫌 いというばかり。さしたる事もないが、人事はよく言いたがらぬが世の習い、「あの婦人 は裾張蛇 の変生 だろう」ト近辺の者は影人形を使うとか言う。夫婦の間に二人の子がある。姉をお勢 と言ッて、その頃はまだ十二の蕾 、弟 を勇 と言ッて、これもまた袖で鼻汁 拭 く湾泊盛 り(これは当今は某校に入舎していて宅には居らぬので)、トいう家内ゆえ、叔母一人の機 に入ればイザコザは無いが、さて文三には人の機嫌 気褄 を取るなどという事は出来ぬ。唯心ばかりは主 とも親とも思ッて善く事 えるが、気が利 かぬと言ッては睨付 けられる事何時も何時も、その度ごとに親の難有 サが身に染 み骨に耐 えて、袖に露を置くことは有りながら、常に自ら叱 ッてジット辛抱、使歩行 きをする暇 には近辺の私塾へ通学して、暫 らく悲しい月日を送ッている。ト或る時、某学校で生徒の召募があると塾での評判取り取り、聞けば給費だという。何も試しだと文三が試験を受けて見たところ、幸いにして及第する、入舎する、ソレ給費が貰 える。昨日 までは叔父の家とは言いながら食客 の悲しさには、追使われたうえ気兼苦労而已 をしていたのが、今日は外 に掣肘 る所もなく、心一杯に勉強の出来る身の上となったから、ヤ喜んだの喜ばないのと、それはそれは雀躍 までして喜んだが、しかし書生と言ッてもこれもまた一苦界 。固 より余所 外 のおぼッちゃま方とは違い、親から仕送りなどという洒落 はないから、無駄遣 いとては一銭もならず、また為 ようとも思わずして、唯 一心に、便 のない一人の母親の心を安めねばならぬ、世話になった叔父へも報恩 をせねばならぬ、と思う心より、寸陰を惜んでの刻苦勉強に学業の進みも著るしく、何時の試験にも一番と言ッて二番とは下 らぬ程ゆえ、得難い書生と教員も感心する。サアそうなると傍 が喧 ましい。放蕩 と懶惰 とを経緯 の糸にして織上 たおぼッちゃま方が、不負魂 の妬 み嫉 みからおむずかり遊ばすけれども、文三はそれ等の事には頓着 せず、独りネビッチョ除 け物と成ッて朝夕勉強三昧 に歳月を消磨する内、遂に多年蛍雪 の功が現われて一片の卒業証書を懐 き、再び叔父の家を東道 とするように成ッたからまず一安心と、それより手を替え品を替え種々 にして仕官の口を探すが、さて探すとなると無いもので、心ならずも小半年ばかり燻 ッている。その間始終叔母にいぶされる辛らさ苦しさ、初 は叔母も自分ながらけぶそうな貌 をして、やわやわ吹付けていたからまず宜 ッたが、次第にいぶし方に念が入ッて来て、果は生松葉 に蕃椒 をくべるように成ッたから、そのけぶいことこの上なし。文三も暫らくは鼻をも潰 していたれ、竟 には余りのけぶさに堪え兼て噎返 る胸を押鎮 めかねた事も有ッたが、イヤイヤこれも自分が不甲斐 ないからだと、思い返してジット辛抱。そういうところゆえ、その後或人の周旋で某省の准 判任御用係となッた時は天へも昇る心地がされて、ホッと一息吐 きは吐いたが、始て出勤した時は異 な感じがした。まず取調物を受取って我坐になおり、さて落着て居廻りを視回 すと、仔細 らしく頸 を傾 けて書物 をするもの、蚤取眼 になって校合 をするもの、筆を啣 えて忙 し気に帳簿を繰るものと種々さまざま有る中に、ちょうど文三の真向うに八字の浪を額に寄せ、忙 しく眼をしばたたきながら間断 もなく算盤を弾 いていた年配五十前後の老人が、不図手を止 めて珠へ指ざしをしながら、「エー六五七十の二……でもなしとエー六五」ト天下の安危この一挙に在りと言ッた様な、さも心配そうな顔を振揚げて、その癖口をアンゴリ開いて、眼鏡 越しにジット文三の顔を見守 め、「ウー八十の二か」ト一越 調子高な声を振立ててまた一心不乱に弾き出す。余りの可笑 しさに堪えかねて、文三は覚えずも微笑したが、考えて見れば笑う我と笑われる人と余り懸隔のない身の上。アア曾 て身の油に根気の心 を浸し、眠い眼を睡 ずして得た学力 を、こんなはかない馬鹿気た事に使うのかと、思えば悲しく情なく、我になくホット太息 を吐 いて、暫らくは唯茫然 としてつまらぬ者でいたが、イヤイヤこれではならぬと心を取直して、その日より事務に取懸 る。当座四五日は例の老人の顔を見る毎に嘆息而已 していたが、それも向う境界 に移る習いとかで、日を経る随 に苦にもならなく成る。この月より国許の老母へは月々仕送をすれば母親も悦 び、叔父へは月賦で借金済 しをすれば叔母も機嫌を直す。その年の暮に一等進んで本官になり、昨年の暑中には久々にて帰省するなど、いろいろ喜ばしき事が重なれば、眉 の皺 も自ら伸び、どうやら寿命も長くなったように思われる。ここにチト艶 いた一条のお噺 があるが、これを記 す前に、チョッピリ孫兵衛の長女お勢の小伝を伺いましょう。
お勢の生立 の有様、生来 子煩悩 の孫兵衛を父に持ち、他人には薄情でも我子には眼の無いお政を母に持ッた事ゆえ、幼少の折より挿頭 の花、衣 の裏の玉と撫 で愛 まれ、何でもかでも言成 次第にオイソレと仕付けられたのが癖と成ッて、首尾よくやんちゃ娘に成果 せた。紐解 の賀の済 だ頃より、父親の望みで小学校へ通い、母親の好みで清元 の稽古 、生得 て才 溌 の一徳には生覚 えながら飲込みも早く、学問、遊芸、両 ながら出来のよいように思われるから、母親は眼も口も一ツにして大驩 び、尋ねぬ人にまで風聴 する娘自慢の手前味噌 、切 りに涎 を垂らしていた。その頃新 に隣家へ引移ッて参ッた官員は家内四人活計 で、細君もあれば娘もある。隣ずからの寒暄 の挨拶が喰付きで、親々が心安く成るにつれ娘同志も親しくなり、毎日のように訪 つ訪 れつした。隣家の娘というはお勢よりは二ツ三ツ年層 で、優しく温藉 で、父親が儒者のなれの果だけ有ッて、小供ながらも学問が好 こそ物の上手で出来る。いけ年を仕 てもとかく人真似 は輟 められぬもの、況 てや小供という中 にもお勢は根生 の軽躁者 なれば尚更 、□忽 その娘に薫陶 れて、起居挙動 から物の言いざままでそれに似せ、急に三味線 を擲却 して、唐机 の上に孔雀 の羽を押立る。お政は学問などという正坐 ッた事は虫が好かぬが、愛 し娘の為 たいと思ッて為 る事と、そのままに打棄てて置く内、お勢が小学校を卒業した頃、隣家の娘は芝辺のさる私塾へ入塾することに成ッた。サアそう成るとお勢は矢も楯 も堪 らず、急に入塾が仕たくなる。何でもかでもと親を責 がむ、寝言にまで言ッて責がむ。トいってまだ年端 も往かぬに、殊 にはなまよみの甲斐なき婦人 の身でいながら、入塾などとは以 の外、トサ一旦 は親の威光で叱り付けては見たが、例の絶食に腹を空 せ、「入塾が出来ない位なら生ている甲斐がない」ト溜息 噛雑 ぜの愁訴、萎 れ返ッて見せるに両親も我を折り、それ程までに思うならばと、万事を隣家の娘に托 して、覚束 なくも入塾させたは今より二年前 の事で。
お勢の入塾した塾の塾頭をしている婦人は、新聞の受売からグット思い上りをした女丈夫 、しかも気を使ッて一飯の恩は酬 いぬがちでも、睚眥 の怨 は必ず報ずるという蚰蜒魂 で、気に入らぬ者と見れば何かにつけて真綿に針のチクチク責をするが性分。親の前でこそ蛤貝 と反身 れ、他人の前では蜆貝 と縮まるお勢の事ゆえ、責 まれるのが辛らさにこの女丈夫に取入ッて卑屈を働らく。固より根がお茶ッぴいゆえ、その風には染り易いか、忽 の中に見違えるほど容子 が変り、何時しか隣家の娘とは疎々 しくなッた。その後英学を初めてからは、悪足掻 もまた一段で、襦袢 がシャツになれば唐人髷 も束髪に化け、ハンケチで咽喉 を緊 め、鬱陶 しいを耐 えて眼鏡を掛け、独 よがりの人笑わせ、天晴 一個のキャッキャとなり済ました。然るに去年の暮、例の女丈夫は教師に雇われたとかで退塾してしまい、その手に属したお茶ッぴい連も一人去り二人去 して残少 なになるにつけ、お勢も何となく我宿恋しく成ッたなれど、まさかそうとも言い難 ねたか、漢学は荒方 出来たと拵 らえて、退塾して宿所へ帰ッたは今年の春の暮、桜の花の散る頃の事で。
既に記した如く、文三の出京した頃はお勢はまだ十二の蕾、幅の狭 い帯を締めて姉様 を荷厄介 にしていたなれど、こましゃくれた心から、「あの人はお前の御亭主さんに貰 ッたのだヨ」ト坐興に言ッた言葉の露を実 と汲 だか、初の内ははにかんでばかりいたが、小供の馴 むは早いもので、間もなく菓子一 を二ツに割ッて喰べる程睦 み合ッたも今は一昔。文三が某校へ入舎してからは相逢 う事すら稀 なれば、況 て一 に居た事は半日もなし。唯今年の冬期休暇にお勢が帰宅した時而已 、十日ばかりも朝夕顔を見合わしていたなれど、小供の時とは違い、年頃が年頃だけに文三もよろずに遠慮勝でよそよそしく待遇 して、更に打解けて物など言ッた事なし。その癖お勢が帰塾した当坐両三日は、百年の相識に別れた如く何 となく心淋 しかッたが……それも日数 を経 る随 に忘れてしまッたのに、今また思い懸けなく一ッ家に起臥 して、折節は狎々 しく物など言いかけられて見れば、嬉しくもないが一月 が復 た来たようで、何にとなく賑 かな心地がした。人一人殖えた事ゆえ、これはさもあるべき事ながら、唯怪しむ可 きはお勢と席を同 した時の文三の感情で、何時も可笑しく気が改まり、円めていた脊 を引伸して頸を据え、異 う済して変に片付る。魂が裳抜 れば一心に主 とする所なく、居廻りに在る程のもの悉 く薄烟 に包れて虚有縹緲 の中 に漂い、有るかと思えばあり、無いかと想 えばない中 に、唯一物 ばかりは見ないでも見えるが、この感情は未 だ何とも名 け難い。夏の初より頼まれてお勢に英語を教授するように成ッてから、文三も些 しく打解け出して、折節は日本婦人の有様、束髪の利害、さては男女交際の得失などを論ずるように成ると、不思議や今まで文三を男臭いとも思わず太平楽を並べ大風呂敷を拡 げていたお勢が、文三の前では何時からともなく口数を聞かなく成ッて、何処ともなく落着て、優しく女性 らしく成ッたように見えた。或一日 、お勢の何時になく眼鏡を外して頸巾 を取ッているを怪んで文三が尋ぬれば、「それでも貴君 が、健康な者には却 て害になると仰 ッたものヲ」トいう。文三は覚えずも莞然 、「それは至極好 い事 だ」ト言ッてまた莞然。
お勢の落着たに引替え、文三は何かそわそわし出して、出勤して事務を執りながらもお勢の事を思い続けに思い、退省の時刻を待詫 びる。帰宅したとてもお勢の顔を見ればよし、さも無ければ落脱 力抜けがする。「彼女 に何したのじゃアないのかしらぬ」ト或時我を疑 ッて、覚えずも顔を※ [#「赤+報のつくり」、22-13]らめた。
お勢の帰宅した初より、自分には気が付かぬでも文三の胸には虫が生 た。なれどもその頃はまだ小さく場 取らず、胸に在ッても邪魔に成らぬ而已 か、そのムズムズと蠢動 く時は世界中が一所 に集る如く、又この世から極楽浄土へ往生する如く、又春の日に瓊葩綉葉 の間、和気 香風の中 に、臥榻 を据えてその上に臥 そべり、次第に遠 り往く虻 の声を聞きながら、眠 るでもなく眠らぬでもなく、唯ウトウトとしているが如く、何ともかとも言様なく愉快 ッたが、虫奴 は何時の間にか太く逞 しく成ッて、「何したのじゃアないか」ト疑ッた頃には、既に「添 たいの蛇 」という蛇 に成ッて這廻 ッていた……寧 ろ難面 くされたならば、食すべき「たのみ」の餌 がないから、蛇奴も餓死 に死んでしまいもしようが、憖 に卯 の花くだし五月雨 のふるでもなくふらぬでもなく、生殺 しにされるだけに蛇奴も苦しさに堪え難 ねてか、のたうち廻ッて腸 を噛断 る……初の快さに引替えて、文三も今は苦しくなッて来たから、窃 かに叔母の顔色 を伺ッて見れば、気の所為 か粋 を通して見て見ぬ風をしているらしい。「若 しそうなればもう叔母の許 を受けたも同前……チョッ寧 そ打附 けに……」ト思ッた事は屡々 有ッたが、「イヤイヤ滅多な事を言出して取着かれぬ返答をされては」ト思い直してジット意馬 の絆 を引緊 め、藻 に住む虫の我から苦んでいた……これからが肝腎要 、回を改めて伺いましょう。
第三回 余程風変 な恋の初峯入 下
今年の仲の夏、或一夜 、文三が散歩より帰ッて見れば、叔母のお政は夕暮より所用あッて出たまま未 だ帰宅せず、下女のお鍋 も入湯にでも参ッたものか、これも留守、唯 お勢の子舎 に而已 光明 が射 している。文三初 は何心なく二階の梯子段 を二段三段登 ッたが、不図立止まり、何か切 りに考えながら、一段降りてまた立止まり、また考えてまた降りる……俄 かに気を取直して、将 に再び二階へ登らんとする時、忽 ちお勢の子舎の中 に声がして、
「誰方 」
トいう。
「私 」
ト返答をして文三は肩を縮 める。
「オヤ誰方かと思ッたら文さん……淋 しくッてならないから些 とお噺 しにいらッしゃいな」
「エ多謝 う、だがもう些 と後 にしましょう」
「何か御用が有るの」
「イヤ何も用はないが……」
「それじゃア宜 じゃア有りませんか、ネーいらッしゃいヨ」
文三は些 し躊躇 て梯子段を降果てお勢の子舎の入口まで参りは参ッたが、中 へとては立入らず、唯鵠立 でいる。
「お這入 なさいな」
「エ、エー……」
ト言ッたまま文三は尚 お鵠立 でモジモジしている、何か這入りたくもあり這入りたくもなしといった様な容子 。
「何故 貴君 、今夜に限ッてそう遠慮なさるの」
「デモ貴嬢 お一人ッきりじゃア……なんだか……」
「オヤマア貴君にも似合わない……アノ何時 か、気が弱くッちゃア主義の実行は到底覚束ないと仰 しゃッたのは何人 だッけ」
ト□ の首を斜 に傾 しげて嫣然 片頬 に含んだお勢の微笑に釣 られて、文三は部屋へ這入り込み坐に着きながら、
「そう言われちゃア一言もないが、しかし……」
「些とお遣いなさいまし」
トお勢は団扇 を取出 して文三に勧め、
「しかしどうしましたと」
「エ、ナニサ影口がどうも五月蠅 ッて」
「それはネ、どうせ些とは何とか言いますのサ。また何とか言ッたッて宜じゃア有りませんか、若 しお相互 に潔白なら。どうせ貴君、二千年来の習慣を破るんですものヲ、多少の艱苦 は免 れッこは有りませんワ」
「トハ思ッているようなものの、まさか影口が耳に入ると厭 なものサ」
「それはそうですヨネー。この間もネ貴君、鍋が生意気に可笑 しな事を言ッて私にからかうのですよ。それからネ私が余 り五月蠅なッたから、到底解るまいとはおもいましたけれども試 に男女交際論を説て見たのですヨ。そうしたらネ、アノなんですッて、私の言葉には漢語が雑 ざるから全然 何を言ッたのだか解りませんて……真個 に教育のないという者は仕様のないもんですネー」
「アハハハ其奴 は大笑いだ……しかし可笑しく思ッているのは鍋ばかりじゃア有りますまい、必 と母親 さんも……」
「母ですか、母はどうせ下等の人物ですから始終可笑しな事を言ッちゃアからかいますのサ。それでもネ、そのたんびに私が辱 しめ辱しめ為 い為いしたら、あれでも些とは耻 じたと見えてネ、この頃じゃアそんなに言わなくなりましたよ」
「ヘーからかう、どんな事を仰しゃッて」
「アノーなんですッて、そんなに親しくする位なら寧 ろ貴君と……(すこしもじもじして言かねて)結婚してしまえッて……」
ト聞くと等しく文三は駭然 としてお勢の顔を目守 る。されど此方 は平気の躰 で
「ですがネ、教育のない者ばかりを責める訳にもいけませんヨネー。私の朋友 なんぞは、教育の有ると言う程有りゃアしませんがネ、それでもマア普通の教育は享 けているんですよ、それでいて貴君、西洋主義の解るものは、二十五人の内に僅 四人 しかないの。その四人 もネ、塾にいるうちだけで、外 へ出てからはネ、口程にもなく両親に圧制せられて、みんなお嫁に往 ッたりお婿 を取ッたりしてしまいましたの。だから今までこんな事を言ッてるものは私ばッかりだとおもうと、何だか心細 ッて心細ッてなりません。でしたがネ、この頃は貴君という親友が出来たから、アノー大変気丈夫になりましたわ」
文三はチョイと一礼して
「お世辞にもしろ嬉 しい」
「アラお世辞じゃア有りませんよ、真実 ですよ」
「真実なら尚お嬉しいが、しかし私にゃア貴嬢 と親友の交際は到底出来ない」
「オヤ何故ですエ、何故親友の交際が出来ませんエ」
「何故といえば、私には貴嬢が解からず、また貴嬢には私が解からないから、どうも親友の交際は……」
「そうですか、それでも私には貴君はよく解ッている積りですよ。貴君の学識が有ッて、品行が方正で、親に孝行で……」
「だから貴嬢には私が解らないというのです。貴嬢は私を親に孝行だと仰しゃるけれども、孝行じゃア有りません。私には……親より……大切な者があります……」
ト吃 ながら言ッて文三は差俯向 いてしまう。お勢は不思議そうに文三の容子を眺 めながら
「親より大切な者……親より……大切な……者……親より大切な者は私にも有りますワ」
文三はうな垂れた頸 を振揚げて
「エ、貴嬢にも有りますと」
「ハア有りますワ」
「誰 ……誰れが」
「人じゃアないの、アノ真理」
「真理」
ト文三は慄然 と胴震 をして唇 を喰 いしめたまま暫 らく無言 、稍 あッて俄 に喟然 として歎息して、
「アア、貴嬢は清浄なものだ潔白なものだ……親より大切なものは真理……アア潔白なものだ……しかし感情という者は実に妙なものだナ、人を愚 にしたり、人を泣かせたり笑わせたり、人をあえだり揉 だりして玩弄 する。玩弄されると薄々気が附きながらそれを制することが出来ない。アア自分ながら……」
ト些 し考えて、稍ありて熱気 となり、
「ダガ思い切れない……どう有ッても思い切れない……お勢さん、貴嬢は御自分が潔白だからこんな事を言ッてもお解りがないかも知れんが、私には真理よりか……真理よりか大切な者があります。去年の暮から全半歳 、その者の為 めに感情を支配せられて、寐 ても寤 めても忘らればこそ、死ぬより辛 いおもいをしていても、先では毫 しも汲んでくれない。寧ろ強顔 なくされたならば、また思い切りようも有ろうけれども……」
ト些し声をかすませて、
「なまじい力におもうの親友だのといわれて見れば私は……どうも……どう有ッても思い……」
「アラ月が……まるで竹の中から出るようですよ、ちょっと御覧なさいヨ」
庭の一隅 に栽込 んだ十竿 ばかりの繊竹 の、葉を分けて出る月のすずしさ。月夜見の神の力の測りなくて、断雲一片の翳 だもない、蒼空 一面にてりわたる清光素色、唯亭々皎々 として雫 も滴 たるばかり。初は隣家の隔ての竹垣に遮 られて庭を半 より這初 め、中頃は縁側へ上 ッて座舗 へ這込み、稗蒔 の水に流れては金瀲□ 、簷馬 の玻璃 に透 りては玉 玲瓏 、座賞の人に影を添えて孤燈一穂 の光を奪い、終 に間 の壁へ這上 る。涼風一陣吹到る毎 に、ませ籬 によろぼい懸る夕顔の影法師が婆娑 として舞い出し、さてわ百合 の葉末にすがる露の珠 が、忽ち蛍 と成ッて飛迷う。艸花 立樹 の風に揉 まれる音の颯々 とするにつれて、しばしは人の心も騒ぎ立つとも、須臾 にして風が吹罷 めば、また四辺 蕭然 となって、軒の下艸 に集 く虫の音 のみ独り高く聞える。眼に見る景色はあわれに面白い。とはいえ心に物ある両人 の者の眼には止まらず、唯お勢が口ばかりで
「アア佳 こと」
トいって何故 ともなく莞然 と笑い、仰向いて月に観惚 れる風 をする。その半面 を文三が窃 むが如く眺め遣 れば、眼鼻口の美しさは常に異 ッたこともないが、月の光を受けて些し蒼味を帯 んだ瓜実顔 にほつれ掛ッたいたずら髪、二筋三筋扇頭 の微風に戦 いで頬 の辺 を往来するところは、慄然 とするほど凄味 が有る。暫らく文三がシケジケと眺めているト、やがて凄味のある半面 が次第々々に此方 へ捻 れて……パッチリとした涼しい眼がジロリと動き出して……見とれていた眼とピッタリ出逢 う。螺 の壺々口 に莞然 と含んだ微笑を、細根大根に白魚 を五本並べたような手が持ていた団扇で隠蔽 して、耻 かしそうなしこなし。文三の眼は俄に光り出す。
「お勢さん」
但 し震声 で。
「ハイ」
但し小声で。
「お勢さん、貴嬢 もあんまりだ、余 り……残酷だ、私がこれ……これ程までに……」
トいいさして文三は顔に手を宛 てて黙ッてしまう。意 を注 めて能 く見れば、壁に写ッた影法師が、慄然 とばかり震えている。今一言 ……今一言の言葉の関を、踰 えれば先は妹背山 、蘆垣 の間近き人を恋い初 めてより、昼は終日 夜は終夜 、唯その人の面影 而已 常に眼前 にちらついて、砧 に映る軒の月の、払ッてもまた去りかねていながら、人の心を測りかねて、末摘花 の色にも出さず、岩堰水 の音にも立てず、独りクヨクヨ物をおもう、胸のうやもや、もだくだを、払うも払わぬも今一言の言葉の綾 ……今一言……僅 一言……その一言をまだ言わぬ……折柄 ガラガラと表の格子戸 の開 く音がする……吃驚 して文三はお勢と顔を見合わせる、蹶然 と起上 る、転げるように部屋を駆出る。但しその晩はこれきりの事で別段にお話しなし。
翌朝に至りて両人 の者は始めて顔を合わせる。文三はお勢よりは気まりを悪がッて口数をきかず、この夏の事務の鞅掌 さ、暑中休暇も取れぬので匆々 に出勤する。十二時頃に帰宅する。下坐舗 で昼食 を済して二階の居間へ戻り、「アア熱かッた」ト風を納 れている所へ梯子バタバタでお勢が上 ッて参り、二ツ三ツ英語の不審を質問する。質問してしまえばもはや用の無い筈 だが、何かモジモジして交野 の鶉 を極めている。やがて差俯向いたままで鉛筆を玩弄 にしながら
「アノー昨夕 は貴君どうなすったの」
返答なし。
「何だか私が残酷だッて大変憤 ッていらしったが、何が残酷ですの」
ト笑顔 を擡 げて文三の顔を窺 くと、文三は狼狽 て彼方 を向いてしまい
「大抵察していながらそんな事を」
「アラそれでも私にゃ何だか解りませんものヲ」
「解らなければ解らないでよう御座んす」
「オヤ可笑しな」
それから後は文三と差向いになる毎に、お勢は例の事を種にして乙 うからんだ水向け文句、やいのやいのと責め立てて、終 には「仰しゃらぬとくすぐりますヨ」とまで迫ッたが、石地蔵と生れ付たしょうがには、情談のどさくさ紛れにチョックリチョイといって除 ける事の出来ない文三、然 らばという口付からまず重くろしく折目正しく居すまッて、しかつべらしく思いのたけを言い出だそうとすれば、お勢はツイと彼方 を向いて「アラ鳶 が飛でますヨ」と知らぬ顔の半兵衛模擬 、さればといって手を引けば、また意 あり気な色目遣い、トこうじらされて文三は些 とウロが来たが、ともかくも触らば散ろうという下心の自 ら素振りに現われるに「ハハア」と気が附て見れば嬉しく難有 く辱 けなく、罪も報 も忘れ果てて命もトントいらぬ顔付。臍 の下を住家として魂が何時の間にか有頂天外へ宿替をすれば、静かには坐ッてもいられず、ウロウロ座舗を徘徊 いて、舌を吐たり肩を縮 めたり思い出し笑いをしたり、又は変ぽうらいな手附きを為たりなど、よろずに瘋癲 じみるまで喜びは喜んだが、しかしお勢の前ではいつも四角四面に喰いしばって猥褻 がましい挙動 はしない。尤 も曾 てじゃらくらが高じてどやぐやと成ッた時、今まで□ しそうに笑ッていた文三が俄かに両眼を閉じて静まり返えり何と言ッても口をきかぬので、お勢が笑らいながら「そんなに真面目 にお成 なさるとこう成 るからいい」とくすぐりに懸ッたその手頭 を払らい除けて文三が熱気 となり、「アア我々の感情はまだ習慣の奴隷だ。お勢さん下へ降りて下さい」といった為めにお勢に憤られたこともあッたが……しかしお勢も日を経 るままに草臥 れたか、余りじゃらくらもしなくなって、高笑らいを罷 めて静かになッて、この頃では折々物思いをするようには成ッたが、文三に向ッてはともすればぞんざいな言葉遣いをするところを見れば、泣寐入りに寐入ッたのでもない光景 。
アア偶々 咲懸ッた恋の蕾 も、事情というおもわぬ沍 にかじけて、可笑しく葛藤 れた縁 の糸のすじりもじった間柄、海へも附かず河へも附かぬ中ぶらりん、月下翁 の悪戯 か、それにしても余程風変りな恋の初峯入り。
文三の某省へ奉職したは昨日 今日のように思う間に既に二年近くになる。年頃節倹の功が現われてこの頃では些 しは貯金 も出来た事ゆえ、老□ ッたお袋に何時までも一人住 の不自由をさせて置くも不孝の沙汰 、今年の暮には東京 へ迎えて一家を成して、そうして……と思う旨 を半分報知 せてやれば母親は大悦 び、文三にはお勢という心宛 が出来たことは知らぬが仏のような慈悲心から、「早く相応な者を宛 がって初孫 の顔を見たいとおもうは親の私としてもこうなれど、其地 へ往ッて一軒の家を成 ようになれば家の大黒柱とて無くて叶 わぬは妻、到底 貰 う事なら親類某 の次女お何 どのは内端 で温順 く器量も十人并 で私には至極機 に入ッたが、この娘 を迎えて妻 としては」と写真まで添えての相談に、文三はハット当惑の眉 を顰 めて、物の序 に云々 と叔母のお政に話せばこれもまた当惑の躰 。初めお勢が退塾して家に帰ッた頃「勇 という嗣子 があッて見ればお勢は到底 嫁に遣らなければならぬが、どうだ文三に配偶 せては」と孫兵衛に相談をかけられた事も有ッたが、その頃はお政も左様 さネと生返事、何方 附かずに綾 なして月日を送る内、お勢の甚 だ文三に親しむを見てお政も遂 にその気になり、当今では孫兵衛が「ああ仲が好 のは仕合わせなようなものの、両方とも若い者同志だからそうでもない心得違いが有ッてはならぬから、お前が始終看張 ッていなくッてはなりませぬぜ」といっても、お政は「ナアニ大丈夫ですよ、また些 とやそッとの事なら有ッたッて好う御座んさアネ、到底 早かれ晩 かれ一所にしようと思ッてるとこですものヲ」ト、ズット粋 を通し顔でいるところゆえ、今文三の説話 を听 て当惑をしたもその筈の事で。「お袋の申通り家 を有 つようになれば到底 妻 を貰わずに置けますまいが、しかし気心も解らぬ者を無暗 に貰うのは余りドットしませぬから、この縁談はまず辞 ッてやろうかと思います」ト常に異 ッた文三の決心を聞いてお政は漸 く眉を開いて切 りに点頭 き、「そうともネそうともネ、幾程 母親 さんの機に入ッたからッて肝腎のお前さんの機に入らなきゃア不熟の基 だ。しかしよくお話しだッた。実はネお前さんのお嫁の事に就 ちゃア些 イと良人 でも考えてる事があるんだから、これから先き母親さんがどんな事を言ッておよこしでも、チョイと私に耳打してから返事を出すようにしておくんなさいヨ。いずれ良人 でお話し申すだろうが、些イと考えてる事があるんだから……それはそうと母親さんの貰いたいとお言いのはどんなお子だか、チョイとその写真をお見せナ」といわれて文三はさもきまりの悪るそうに、「エ写真ですか、写真は……私の所には有りません、先刻 アノ何が……お勢さんが何です……持ッて往ッておしまいなすった……」
トいう光景 で、母親も叔父夫婦の者も宛 とする所は思い思いながら一様に今年の晩 れるを待詫 びている矢端 、誰れの望みも彼れの望みも一ツにからげて背負ッて立つ文三が(話を第一回に戻して)今日思懸けなくも……諭旨免職となった。さても星□ というものは是非のないもの、トサ昔気質 の人ならば言うところでも有ろうか。
第四回 言うに言われぬ胸の中
さてその日も漸 く暮れるに間もない五時頃に成っても、叔母もお勢も更に帰宅する光景 も見えず、何時 まで待っても果てしのない事ゆえ、文三は独り夜食を済まして、二階の縁端 に端居 しながら、身を丁字 欄干に寄せかけて暮行く空を眺 めている。この時日は既に万家 の棟 に没しても、尚 お余残 の影を留 めて、西の半天を薄紅梅に染 た。顧みて東方 の半天を眺むれば、淡々 とあがった水色、諦視 たら宵星 の一つ二つは鑿 り出せそうな空合 。幽 かに聞える伝通院 の暮鐘 の音 に誘われて、塒 へ急ぐ夕鴉 の声が、彼処此処 に聞えて喧 ましい。既にして日はパッタリ暮れる、四辺 はほの暗くなる。仰向 て瞻 る蒼空 には、余残 の色も何時しか消え失 せて、今は一面の青海原、星さえ所斑 に燦 き出 でて殆 んと交睫 をするような真似 をしている。今しがたまで見えた隣家の前栽 も、蒼然 たる夜色に偸 まれて、そよ吹く小夜嵐 に立樹の所在 を知るほどの闇 さ。デモ土蔵の白壁はさすがに白 だけに、見透かせば見透かされる……サッと軒端 近くに羽音がする、回首 ッて観る……何も眼 に遮 るものとてはなく、唯 もう薄闇 い而已 。
心ない身も秋の夕暮には哀 を知るが習い、況 して文三は糸目の切れた奴凧 の身の上、その時々の風次第で落着先 は籬 の梅か物干の竿 か、見極めの附かぬところが浮世とは言いながら、父親が没してから全 十年、生死 の海のうやつらやの高波に揺られ揺られて辛 じて泳出 した官海もやはり波風の静まる間がないことゆえ、どうせ一度は捨小舟 の寄辺ない身に成ろうも知れぬと兼て覚悟をして見ても、其処 が凡夫 のかなしさで、危 に慣れて見れば苦にもならず宛 に成らぬ事を宛にして、文三は今歳の暮にはお袋を引取ッて、チト老楽 をさせずばなるまい、国へ帰えると言ッてもまさかに素手でも往 かれまい、親類の所への土産は何にしよう、「ムキ」にしようか品物にしようかと、胸で弾 いた算盤 の桁 は合いながらも、とかく合いかねるは人の身のつばめ、今まで見ていた廬生 の夢も一炊 の間に覚め果てて「アアまた情ない身の上になッたかナア……」
俄 にパッと西の方 が明るくなッた。見懸けた夢をそのままに、文三が振返ッて視遣 る向うは隣家の二階、戸を繰り忘れたものか、まだ障子のままで人影が射 している……スルトその人影が見る間にムクムクと膨れ出して、好加減 の怪物となる……パッと消失せてしまッた跡はまた常闇 。文三はホッと吐息を吻 て、顧みて我家 の中庭を瞰下 ろせば、所狭 きまで植駢 べた艸花 立樹 なぞが、詫 し気に啼 く虫の音を包んで、黯黒 の中 からヌッと半身を捉出 して、硝子張 の障子を漏れる火影 を受けているところは、家内 を覘 う曲者かと怪まれる……ザワザワと庭の樹立 を揉 む夜風の余りに顔を吹かれて、文三は慄然 と身震をして起揚 り、居間へ這入 ッて手探りで洋燈 を点 し、立膝 の上に両手を重ねて、何をともなく目守 たまま暫 らくは唯茫然 ……不図手近かに在ッた薬鑵 の白湯 を茶碗 に汲取 りて、一息にグッと飲乾し、肘 を枕 に横に倒れて、天井に円く映る洋燈 の火燈 を目守めながら、莞爾 と片頬 に微笑 を含んだが、開 た口が結ばって前歯が姿を隠すに連れ、何処 からともなくまた愁 の色が顔に顕 われて参ッた。
「それはそうとどうしようかしらん、到底言わずには置けん事 たから、今夜にも帰ッたら、断念 ッて言ッてしまおうかしらん。さぞ叔母が厭 な面 をする事 たろうナア……眼に見えるようだ……しかしそんな事を苦にしていた分には埒 が明かない、何にもこれが金銭を借りようというではなし、毫 しも耻 かしい事はない、チョッ今夜言ッてしまおう……だが……お勢がいては言い難 いナ。若しヒョット彼 の前で厭味なんぞを言われちゃア困る。これは何んでも居ない時を見て言う事 た。いない……時を……見……何故 、何故言難い、苟 も男児たる者が零落したのを耻ずるとは何んだ、そんな小胆な、糞 ッ今夜言ッてしまおう。それは勿論 彼娘 だッて口へ出してこそ言わないが何んでも来年の春を楽しみにしているらしいから、今唐突 に免職になッたと聞いたら定めて落胆するだろう。しかし落胆したからと言ッて心変りをするようなそんな浮薄な婦人 じゃアなし、かつ通常の婦女子と違ッて教育も有ることだから、大丈夫そんな気遣いはない。それは決 してないが、叔母だて……ハテナ叔母だて。叔母はああいう人だから、我 が免職になッたと聞たら急にお勢をくれるのが厭になッて、無理に彼娘 を他 へかたづけまいとも言われない。そうなったからと言ッて此方 は何も確 い約束がして有るんでないから、否 そうは成りませんとも言われない……嗚呼 つまらんつまらん、幾程 おもい直してもつまらん。全躰 何故我 を免職にしたんだろう、解らんナ、自惚 じゃアないが我 だッて何も役に立たないという方でもなし、また残された者だッて何も別段役に立つという方でもなし、して見ればやっぱり課長におべッからなかったからそれで免職にされたのかな……実に課長は失敬な奴だ、課長も課長だが残された奴等もまた卑屈極まる。僅 かの月給の為めに腰を折ッて、奴隷 同様な真似をするなんぞッて実に卑屈極まる……しかし……待 よ……しかし今まで免官に成ッて程なく復職した者がないでも無いから、ヒョッとして明日 にも召喚状が……イヤ……来ない、召喚状なんぞが来て耐 るものか、よし来たからと言ッて今度 は此方 から辞してしまう、誰が何と言おうト関 わない、断然辞してしまう。しかしそれも短気かナ、やっぱり召喚状が来たら復職するかナ……馬鹿奴 、それだから我 は馬鹿だ、そんな架空な事を宛にして心配するとは何んだ馬鹿奴。それよりかまず差当りエート何んだッけ……そうそう免職の事を叔母に咄 して……さぞ厭な顔をするこッたろうナ……しかし咄さずにも置かれないから思切ッて今夜にも叔母に咄して……ダガお勢のいる前では……チョッいる前でも関 わん、叔母に咄して……ダガ若し彼娘 のいる前で口汚たなくでも言われたら……チョッ関わん、お勢に咄して、イヤ……お勢じゃない叔母に咄して……さぞ……厭な顔……厭な顔を咄して……口……口汚なく咄 ……して……アア頭が乱れた……」
ト、ブルブルと頭 を左右へ打振る。
轟然 と駆て来た車の音が、家の前でパッタリ止まる。ガラガラと格子戸 が開 く、ガヤガヤと人声がする。ソリャコソと文三が、まず起直ッて突胸 をついた。両手を杖 に起 んとしてはまた坐り、坐らんとしてはまた起 つ。腰の蝶番 は満足でも、胸の蝶番が「言ッてしまおうか」「言難いナ」と離れ離れに成ッているから、急には起揚 られぬ……俄に蹶然 と起揚ッて梯子段 の下口 まで参ッたが、不図立止まり、些 し躊躇 ッていて、「チョッ言ッてしまおう」と独言 を言いながら、急足 に二階を降りて奥坐舗 へ立入る。
奥坐舗の長手の火鉢 の傍 に年配四十恰好 の年増 、些し痩肉 で色が浅黒いが、小股 の切上 ッた、垢抜 けのした、何処ともでんぼう肌 の、萎 れてもまだ見所のある花。櫛巻 きとかいうものに髪を取上げて、小弁慶 の糸織の袷衣 と養老の浴衣 とを重ねた奴を素肌に着て、黒繻子 と八段 の腹合わせの帯をヒッカケに結び、微酔機嫌 の啣楊枝 でいびつに坐ッていたのはお政で。文三の挨拶 するを見て、
「ハイ只今 、大層遅かッたろうネ」
「全体今日 は何方 へ」
「今日はネ、須賀町 から三筋町 へ廻わろうと思ッて家 を出たんだアネ。そうするとネ、須賀町へ往ッたらツイ近所に、あれはエート芸人……なんとか言ッたッけ、芸人……」
「親睦 会」
「それそれその親睦会が有るから一所に往こうッてネお浜さんが勧めきるんサ。私は新富座 か二丁目ならともかくも、そんな珍木会 とか親睦会とかいう者 なんざア七里々 けぱいだけれども、お勢 ……ウーイプー……お勢が往 たいというもんだから仕様事 なしのお交際 で往 て見たがネ、思ッたよりはサ。私はまた親睦会というから大方演じゅつ会のような種 のもんかしらとおもったら、なアにやっぱり品 の好い寄席 だネ。此度 文さんも往ッて御覧な、木戸は五十銭だヨ」
「ハアそうですか、それでは孰 れまた」
説話 が些し断絶 れる。文三は肚 の裏 に「おなじ言うのならお勢の居ない時だ、チョッ今言ッてしまおう」ト思い決 めて今将 に口を開かんとする……折しも縁側にパタパタと跫音 がして、スラリと背後 の障子が開 く、振反 ッて見れば……お勢で。年は鬼もという十八の娘盛り、瓜実顔 で富士額、生死 を含む眼元の塩にピンとはねた眉 で力味 を付け、壺々口 の緊笑 いにも愛嬌 をくくんで無暗 には滴 さぬほどのさび、背 はスラリとして風に揺 めく女郎花 の、一時をくねる細腰もしんなりとしてなよやか、慾にはもうすこし生際 と襟足 とを善くして貰 いたいが、何 にしても七難を隠くすという雪白の羽二重肌、浅黒い親には似ぬ鬼子 でない天人娘。艶 やかな黒髪を惜気もなくグッと引詰 めての束髪、薔薇 の花挿頭 を□ したばかりで臙脂 も甞 めねば鉛華 も施 けず、衣服 とても糸織の袷衣 に友禅と紫繻子の腹合せの帯か何かでさして取繕いもせぬが、故意 とならぬ眺 はまた格別なもので、火をくれて枝を撓 わめた作花 の厭味 のある色の及ぶところでない。衣透姫 に小町の衣 を懸けたという文三の品題 は、それは惚 れた慾眼の贔負沙汰 かも知れないが、とにもかくにも十人並優れて美くしい。坐舗へ這入りざまに文三と顔を見合わして莞然 、チョイと会釈をして摺足 でズーと火鉢の側 まで参り、温藉 に坐に着く。
お勢と顔を見合わせると文三は不思議にもガラリ気が変ッて、咽元 まで込み上げた免職の二字を鵜呑 みにして何喰 わぬ顔色 、肚の裏 で「もうすこし経 ッてから」
「母親 さん、咽が涸 いていけないから、お茶を一杯入れて下さいナ」
「アイヨ」
トいってお政は茶箪笥 を覗 き、
「オヤオヤ茶碗が皆 汚れてる……鍋」
ト呼ばれて出て来た者を見れば例の日の丸の紋を染抜いた首の持主で、空嘯 いた鼻の端 へ突出された汚穢物 を受取り、振栄 のあるお尻 を振立てて却退 る。やがて洗ッて持ッて来る、茶を入れる、サアそれからが今日聞いて来た歌曲の噂 で、母子 二 の口が結ばる暇なし。免職の事を吹聴 したくも言出す潮 がないので、文三は余儀なく聴きたくもない咄 を聞て空 しく時刻を移す内、説話 は漸くに清元 長唄 の優劣論に移る。
「母親さんは自分が清元が出来るもんだからそんな事をお言いだけれども、長唄の方が好 サ」
「長唄も岡安 ならまんざらでもないけれども、松永は唯つッこむばかりで面白くもなんとも有りゃアしない。それよりか清元の事サ、どうも意気でいいワ。『四谷 で始めて逢 うた時、すいたらしいと思うたが、因果な縁の糸車』」
ト中音で口癖の清元を唄 ッてケロリとして
「いいワ」
「その通り品格がないから嫌 い」
「また始まッた、ヘン跳馬 じゃアあるまいし、万古に品々 も五月蠅 い」
「だッて人間は品格が第一ですワ」
「ヘンそんなにお人柄 なら、煮込 みのおでんなんぞを喰 たいといわないがいい」
「オヤ何時私がそんな事を言ました」
「ハイ一昨日 の晩いいました」
「嘘 ばっかし」
トハ言ッたが大 にへこんだので大笑いとなる。不図お政は文三の方を振向いて
「アノ今日出懸けに母親さんの所 から郵便が着たッけが、お落掌 か」
「ア真 にそうでしたッけ、さっぱり忘却 ていました……エー母からもこの度は別段に手紙を差上げませんが宜 しく申上げろと申ことで」
「ハアそうですか、それは。それでも母親さんは何時 もお異 なすったことも無くッて」
「ハイ、お蔭 さまと丈夫だそうで」
「それはマア何よりの事 た。さぞ今年の暮を楽しみにしておよこしなすったろうネ」
「ハイ、指ばかり屈 ていると申てよこしましたが……」
「そうだろうてネ、可愛 い息子さんの側へ来るんだものヲ。それをネー何処 かの人 みたように親を馬鹿にしてサ、一口 いう二口目には直 に揚足を取るようだと義理にも可愛いと言われないけれど、文さんは親思いだから母親さんの恋しいのもまた一倍サ」
トお勢を尻目 にかけてからみ文句で宛 る。お勢はまた始まッたという顔色 をして彼方 を向てしまう、文三は余儀なさそうにエヘヘ笑いをする。
「それからアノー例の事ネ、あの事をまた何とか言ッてお遣 しなすッたかい」
「ハイ、また言ッてよこしました」
「なんッてネ」
「ソノー気心が解らんから厭だというなら、エー今年の暮帰省した時に、逢ッてよく気心を洞察 た上で極めたら好かろうといって遣しましたが、しかし……」
「なに、母親さん」
「エ、ナニサ、アノ、ソラお前にもこの間話したアネ、文さんの……」
お勢は独り切 りに点頭 く。
「ヘーそんな事を言ッておよこしなすッたかい、ヘーそうかい……それに附けても早く内で帰ッて来れば好 が……イエネ此間 もお咄し申た通りお前さんのお嫁の事に付ちゃア内でも些 と考えてる事も有るんだから……尤 も私も聞て知てる事 たから今咄してしまってもいいけれども……」
ト些し考えて
「何時返事をお出しだ」
「返事はもう出しました」
「エ、モー出したの、今日」
「ハイ」
「オヤマア文さんでもない、私になんとか一言 咄してからお出しならいいのに」
「デスガ……」
「それはマアともかくも、何と言ッてお上げだ」
「エー今は仲々婚姻どころじゃアないから……」
「アラそんな事を言ッてお上げじゃア母親さんが尚 お心配なさらアネ。それよりか……」
「イエまだお咄し申さぬから何ですが……」
「マアサ私の言事 をお聞きヨ。それよりかアノ叔父も何だか考えがあるというからいずれ篤 りと相談した上でとか、さもなきゃア此地 に心当りがあるから……」
「母親 さん、そんな事を仰 しゃるけれど、文さんは此地 に何 か心当りがお有 なさるの」
「マアサ有ッても無くッても、そう言ッてお上げだと母親さんが安心なさらアネ……イエネ、親の身に成ッて見なくッちゃア解らぬ事 たけれども、子供一人身を固めさせようというのはどんなに苦労なもんだろう。だからお勢みたようなこんな親不孝な者 でもそう何時までもお懐中 で遊 ばせても置 ないと思うと私は苦労で苦労でならないから、此間 も私 がネ、『お前ももう押付 お嫁に往かなくッちゃアならないんだから、ソノーなんだとネー、何時までもそんなに小供の様な心持でいちゃアなりませんと、それも母親さんのようにこんな気楽な家へお嫁に往かれりゃアともかくもネー、若 しヒョッと先に姑 でもある所 へ往 んで御覧、なかなかこんなに我儘 気儘をしちゃアいられないから、今の内に些 と覚悟をして置かなくッちゃアなりませんヨ』と私が先へ寄ッて苦労させるのが可憐 そうだから為をおもって言ッて遣りゃアネ文さん、マア聞ておくれ、こうだ。『ハイ私 にゃア私の了簡が有ります、ハイ、お嫁に往こうと往くまいと私の勝手で御座います』というんだヨ、それからネ私が『オヤそれじゃアお前はお嫁に往かない気かエ』と聞たらネ、『ハイ私は生一本 で通します』ッて……マア呆 れかえるじゃアないかネー文さん、何処の国にお前、尼じゃアあるまいし、亭主 持たずに一生暮すもんが有る者 かネ」
これは万更 形のないお噺 でもない。四五日前 何かの小言序 にお政が尖 り声で「ほんとにサ戯談 じゃアない、何歳 になるとお思いだ、十八じゃアないか。十八にも成ッてサ、好頃 嫁にでも往こうという身でいながら、なんぼなんだッて余 り勘弁がなさすぎらア。アアアア早く嫁にでも遣りたい、嫁に往ッて小喧 しい姑でも持ッたら、些たア親の難有味 が解るだろう」
ト言ッたのが原因 で些 ばかりいじり合をした事が有ッたが、お政の言ッたのは全くその作替 で、
「トいうが畢竟 るとこ、これが奥だからの事 サ。私共がこの位の時分にゃア、チョイとお洒落 をしてサ、小色 の一ツも□了 だもんだけれども……」
「また猥褻 」
トお勢は顔を皺 める。
「オホオホオホほんとにサ、仲々小悪戯 をしたもんだけれども、この娘 はズー体 ばかり大くッても一向しきなお懐 だもんだから、それで何時まで経ッても世話ばッかり焼けてなりゃアしないんだヨ」
「だから母親さんは厭ヨ、些 とばかりお酒に酔うと直 に親子の差合いもなくそんな事をお言いだものヲ」
「ヘーヘー恐れ煎豆 はじけ豆ッ、あべこべに御意見か。ヘン、親の謗 はしりよりか些と自分の頭の蠅 でも逐 うがいいや、面白くもない」
「エヘヘヘヘ」
「イエネこの通り親を馬鹿にしていて、何を言ッてもとても私共の言事 を用いるようなそんな素直なお嬢さまじゃアないんだから、此度 文さんヨーク腹に落ちるように言ッて聞かせておくんなさい、これでもお前さんの言事なら、些 たア聞くかも知れないから」
トお政は又もお勢を尻目に懸ける。折しも紙襖 一ツ隔ててお鍋の声として、
「あんな帯留め……どめ……を……」
此方 の三人は吃驚 して顔を見合わせ「オヤ鍋の寐言 だヨ」と果ては大笑いになる。お政は仰向いて柱時計を眺 め、
「オヤもう十一時になるヨ、鍋の寐言を言うのも無理はない、サアサア寝ましょう寝ましょう、あんまり夜深しをするとまた翌日 の朝がつらい。それじゃア文さん、先刻 の事はいずれまた翌日 にも緩 りお咄しましょう」
「ハイ私も……私も是非お咄し申さなければならん事が有りますが、いずれまた明日 ……それではお休み」
ト挨拶 をして文三は座舗 を立出 で梯子段 の下 まで来ると、後 より、
「文さん、貴君 の所 に今日の新聞が有りますか」
「ハイ有ります」
「もうお読みなすッたの」
「読みました」
「それじゃア拝借」
トお勢は文三の跡に従 いて二階へ上る。文三が机上に載せた新聞を取ッてお勢に渡すと、
「文さん」
「エ」
返答はせずしてお勢は唯 笑ッている。
「何です」
「何時 か頂戴 した写真を今夜だけお返し申ましょうか」
「何故 」
「それでもお淋 しかろうとおもって、オホオホ」
ト笑いながら逃ぐるが如く二階を駆下りる。そのお勢の後姿を見送ッて文三は吻 と溜息 を吐 いて、
「ますます言難 い」
一時間程を経て文三は漸 く寐支度をして褥 へは這入 ッたが、さて眠られぬ。眠られぬままに過去 将来 を思い回 らせば回らすほど、尚お気が冴 て眼も合わず、これではならぬと気を取直し緊 しく両眼を閉じて眠入 ッた風 をして見ても自ら欺 くことも出来ず、余儀なく寐返りを打ち溜息を吻 きながら眠らずして夢を見ている内に、一番鶏 が唱 い二番鶏が唱い、漸く暁 近くなる。
「寧 そ今夜 はこのままで」トおもう頃に漸く眼がしょぼついて来て額 が乱れだして、今まで眼前に隠見 ていた母親の白髪首 に斑 な黒髯 が生えて……課長の首になる、そのまた恐 らしい髯首が暫 らくの間眼まぐろしく水車 の如くに廻転 ている内に次第々々に小いさく成ッて……やがて相恰 が変ッて……何時の間にか薔薇 の花掻頭 を挿 して……お勢の……首……に……な……
第五回胸算 違いから見一無法 は難題
枕頭 で喚覚 ます下女の声に見果てぬ夢を驚かされて、文三が狼狽 た顔を振揚げて向うを見れば、はや障子には朝日影が斜めに射 している。「ヤレ寐過 したか……」と思う間もなく引続いてムクムクと浮み上ッた「免職」の二字で狭い胸がまず塞 がる……□□ を振掛けられた死蟇 の身で、躍上 り、衣服を更 めて、夜の物を揚げあえず楊枝 を口へ頬張 り故手拭 を前帯に□ んで、周章 て二階を降りる。その足音を聞きつけてか、奥の間で「文さん疾 く為 ないと遅くなるヨ」トいうお政の声に圭角 はないが、文三の胸にはぎっくり応 えて返答にも迷惑 く。そこで頬張ッていた楊枝をこれ幸いと、我にも解らぬ出鱈目 を句籠勝 に言ッてまず一寸遁 れ、匆々 に顔を洗ッて朝飯 の膳 に向ッたが、胸のみ塞がッて箸 の歩みも止まりがち、三膳の飯を二膳で済まして、何時 もならグッと突出す膳もソッと片寄せるほどの心遣い、身体 まで俄 に小いさくなったように思われる。
文三が食事を済まして縁側を廻わり窃 かに奥の間を覗 いて見れば、お政ばかりでお勢の姿は見えぬ。お勢は近属 早朝より駿河台辺 へ英語の稽古 に参るようになッたことゆえ、さては今日ももう出かけたのかと恐々 座舗 へ這入 ッて来る。その文三の顔を見て今まで火鉢 の琢磨 をしていたお政が、俄かに光沢布巾 の手を止 めて不思議そうな顔をしたもその筈 、この時の文三の顔色 がツイ一通りの顔色でない。蒼 ざめていて力なさそうで、悲しそうで恨めしそうで耻 かしそうで、イヤハヤ何とも言様がない。
「文さんどうかお為 か、大変顔色がわりいヨ」
「イエどうも為ませぬが……」
「それじゃア疾 くお為ヨ。ソレ御覧な、モウ八時にならアネ」
「エーまだお話し……申しませんでしたが……実は、ス、さくじつ……め……め……」
息気 はつまる、冷汗は流れる、顔は※ [#「赤+報のつくり」、50-8]くなる、如何 にしても言切れぬ。暫 らく無言でいて、更らに出直おして、
「ム、めん職になりました」
ト一思いに言放ッて、ハッと差俯向 いてしまう。聞くと等しくお政は手に持ッていた光沢布巾 を宙に釣 るして、「オヤ」と一声 叫んで身を反らしたまま一句も出 でばこそ、暫らくは唯 茫然 として文三の貌 を目守 めていたが、稍 あッて忙 わしく布巾を擲却 り出して小膝 を進ませ、
「エ御免にお成りだとエ……オヤマどうしてマア」
「ど、ど、どうしてだか……私 にも解りませんが……大方……ひ、人減 らしで……」
「オーヤオーヤ仕様がないネー、マア御免になってサ。ほんとに仕様がないネー」
ト落胆した容子 。須臾 あッて、
「マアそれはそうと、これからはどうして往 く積 だエ」
「どうも仕様が有りませんから、母親 にはもう些 し国に居て貰 ッて、私はまた官員の口でも探そうかと思います」
「官員の口てッたッてチョックラチョイと有りゃアよし、無かろうもんならまた何時 かのような憂 い思いをしなくッちゃアならないやアネ……だから私 が言わない事 ちゃアないんだ、些 イと課長さんの所 へも御機嫌 伺いにお出でお出でと口の酸ぱくなるほど言ッても強情張ッてお出ででなかッたもんだから、それでこんな事になったんだヨ」
「まさかそういう訳でもありますまいが……」
「イイエ必 とそうに違いないヨ。デなくッて成程 人減 らしだッて罪も咎 もない者をそう無暗 に御免になさる筈がないやアネ……それとも何か御免になっても仕様がないようなわりい事をした覚えがお有りか」
「イエ何にも悪い事をした覚えは有りませんが……」
「ソレ御覧なネ」
両人とも暫らく無言。
「アノ本田さんは(この男の事は第六回にくわしく)どうだッたエ」
「かの男はよう御座んした」
「オヤ善かッたかい、そうかい、運の善方 は何方 へ廻ッても善 んだネー。それというが全躰 あの方は如才がなくッて発明で、ハキハキしてお出でなさるからだヨ。それに聞けば課長さんの所 へも常不断 御機嫌伺いにお出でなさるという事 たから、必 とそれで此度 も善かッたのに違いないヨ。だからお前さんも私の言事 を聴いて、課長さんに取り入ッて置きゃア今度もやっぱり善かッたのかも知れないけれども、人の言事をお聴きでなかッたもんだからそれでこんな事になっちまッたんだ」
「それはそうかも知れませんが、しかし幾程 免職になるのが恐 いと言ッて、私にはそんな鄙劣 な事は……」
「出来ないとお言いのか……フン□我慢 をお言いでない、そんな了簡方だから課長さんにも睨 られたんだ。マアヨーク考えて御覧、本田さんのようなあんな方でさえ御免になってはならないと思 なさるもんだから、手間暇かいで課長さんに取り入ろうとなさるんじゃアないか、ましてお前さんなんざアそう言ッちゃアなんだけれども、本田さんから見りゃア……なんだから、尚更 の事だ。それもネー、これがお前さん一人の事なら風見 の烏 みたように高くばッかり止まッて、食うや食わずにいようといまいとそりゃアもうどうなりと御勝手次第サ、けれどもお前さんには母親 さんというものが有るじゃアないかエ」
母親と聞いて文三の萎 れ返るを見て、お政は好い責 道具を視付 けたという顔付、長羅宇 の烟管 で席 を叩 くをキッカケに、
「イエサ母親さんがお可愛 そうじゃアないかエ、マア篤 り胸に手を宛 てて考えて御覧。母親さんだッて父親 さんには早くお別れなさるし、今じゃ便りにするなアお前さんばっかりだから、どんなにか心細いか知れない。なにもああしてお国で一人暮しの不自由な思いをしてお出でなさりたくもあるまいけれども、それもこれも皆 お前さんの立身するばッかりを楽 にして辛抱してお出でなさるんだヨ。そこを些 しでも汲分 けてお出でなら、仮令 えどんな辛いと思う事が有ッても厭 だと思う事があッても我慢をしてサ、石に噛付 ても出世をしなくッちゃアならないと心懸なければならないとこだ。それをお前さんのように、ヤ人の機嫌を取るのは厭だの、ヤそんな鄙劣 な事は出来ないのとそんな我儘気随 を言ッて母親さんまで路頭に迷わしちゃア、今日 冥利 がわりいじゃないか。それゃアモウお前さんは自分の勝手で苦労するんだから関 うまいけれども、それじゃア母親さんがお可愛そうじゃアないかい」
ト層 にかかッて極付 れど、文三は差俯向いたままで返答をしない。
「アアアア母親さんもあんなに今年の暮を楽しみにしてお出でなさるとこだから、今度 御免にお成りだとお聞きなすったらさぞマア落胆 なさる事だろうが、年を寄 ッて御苦労なさるのを見ると真個 にお痛 しいようだ」
「実に母親 には面目 が御座んせん」
「当然 サ、二十三にも成ッて母親さん一人さえ楽に養 す事が出来ないんだものヲ。フフン面目が無くッてサ」
ト、ツンと済まして空嘯 き、烟草 を環 に吹 ている。そのお政の半面 を文三は畏 らしい顔をして佶 と睨付 け、何事をか言わんとしたが……気を取直して莞爾 微笑した積 でも顔へ顕 われたところは苦笑い、震声 とも附かず笑声 とも附かぬ声で、
「ヘヘヘヘ面目は御座んせんが、しかし……出……出来た事なら……仕様が有りません」
「何だとエ」
トいいながら徐 かに此方 を振向いたお政の顔を見れば、何時しか額に芋□ ほどの青筋を張らせ、肝癪 の眥 を釣上げて唇 をヒン曲げている。
「イエサ何とお言いだ。出来た事なら仕様が有りませんと……誰れが出来 した事 たエ、誰れが御免になるように仕向けたんだエ、皆自分の頑固 から起ッた事 じゃアないか。それも傍 で気を附けぬ事か、さんざッぱら人 に世話を焼かして置て、今更御免になりながら面目ないとも思わないで、出来た事なら仕様が有ませんとは何の事 たエ。それはお前さんあんまりというもんだ、余 り人 を踏付けにすると言う者 だ。全躰マア人 を何だと思ッてお出 でだ、そりゃアお前さんの事 たから鬼老婆 とか糞老婆 とか言ッて他人にしてお出でかも知れないが、私ア何処 までも叔母の積だヨ。ナアニこれが他人で見るがいい、お前さんが御免になッたッて成らなくッたッて此方 にゃア痛くも痒 くも何とも無い事 たから、何で世話を焼くもんですか。けれども血は繋 らずとも縁あッて叔母となり甥 となりして見れば、そうしたもんじゃア有りません。ましてお前さんは十四の春ポッと出の山出しの時から、長の年月 、この私が婦人 の手一ツで頭から足の爪頭 までの事を世話アしたから、私はお前さんを御迷惑かは知らないが血を分けた子息 同様に思ッてます。ああやッてお勢や勇という子供が有ッても、些しも陰陽 なくしている事がお前さんにゃア解らないかエ。今までだッてもそうだ、何卒 マア文さんも首尾よく立身して、早く母親 さんを此地 へお呼び申すようにして上げたいもんだと思わない事は唯の一日も有ません。そんなに思ッてるとこだものヲ、お前さんが御免にお成りだと聞いちゃア私 は愉快 はしないよ、愉快 はしないからアア困ッた事に成ッたと思ッて、ヤレこれからはどうして往く積だ、ヤレお前さんの身になったらさぞ母親さんに面目があるまいと、人事 にしないで歎 いたり悔 だりして心配してるとこだから、全躰なら『叔母さんの了簡に就 かなくッて、こう御免になって実 に面目が有りません』とか何とか詫言 の一言でも言う筈のとこだけれど、それも言わないでもよし聞たくもないが、人 の言事を取上げなくッて御免になりながら、糞落着に落着払ッて、出来た事なら仕様が有りませんとは何の事 たエ。マ何処を押せばそんな音 が出ます……アアアアつまらない心配をした、此方ではどこまでも実の甥と思ッて心を附けたり世話を焼たりして信切を尽していても、先様じゃア屁 とも思召 さない」
「イヤ決してそう言う訳じゃア有りませんが、御存知の通り口不調法なので、心には存じながらツイ……」
「イイエそんな言訳は聞きません。なんでも私 を他人にしてお出でに違いない、糞老婆 と思ッてお出でに違いない……此方はそんな不実な心意気の人 と知らないから、文さんも何時までもああやッて一人 でもいられまいから、来年母親さんがお出でなすったら篤 り御相談申して、誰と言ッて宛 もないけれども相応なのが有ッたら一人 授けたいもんだ、それにしても外人 と違ッて文さんがお嫁をお貰いの事たから黙ッてもいられない、何かしら祝ッて上げなくッちゃアなるまいからッて、この頃じゃア、アノ博多 の帯をくけ直おさして、コノお召縮緬 の小袖 を仕立直おさして、あれをこうしてこれをこうしてと、毎日々々勘 えてばッかいたんだ。そうしたら案外で、御免になるもいいけれども、面目ないとも思わないで、出来た事なら仕様が有りませぬと済まアしてお出でなさる……アアアアもういうまいいうまい、幾程 言ッても他人にしてお出 じゃア無駄 だ」
ト厭味文句を並べて始終肝癪の思入 。暫らく有ッて、
「それもそうだが、全躰その位なら昨夕 の中 に、実はこれこれで御免になりましたと一言 位言ッたッてよさそうなもんだ。お話しでないもんだから此方 はそんな事とは夢にも知らず、お弁当のお菜 も毎日おんなじ物 ばッかりでもお倦 きだろう、アアして勉強してお勤にお出の事たからその位な事は此方で気を附けて上げなくッちゃアならないと思ッて、今日のお弁当のお菜 は玉子焼にして上げようと思ッても鍋には出来ず、余儀所 ないから私が面倒な思いをして拵 らえて附けましたアネ……アアアア偶 に人 が気を利 かせればこんな事 ッた……しかし飛んだ余計なお世話でしたヨネー、誰れも頼みもしないのに……鍋」
「ハイ」
「文さんのお弁当は打開 けておしまい」
お鍋女郎 は襖 の彼方 から横幅 の広い顔を差出 して、「ヘー」とモッケな顔付。
「アノネ、内の文さんは昨日 御免にお成りだッサ」
「ヘーそれは」
「どうしても働のある人 は、フフン違ッたもんだヨ」
ト半 まで言切らぬ内、文三は血相を変てツと身を起し、ツカツカと座舗 を立出でて我子舎 へ戻り、机の前にブッ座ッて歯を噛切 ッての悔涙 、ハラハラと膝へ濫 した。暫 らく有ッて文三は、はふり落ちる涙の雨をハンカチーフで拭止 めた……がさて拭ッても取れないのは沸返える胸のムシャクシャ、熟々 と思廻 らせば廻らすほど、悔しくも又口惜 しくなる。免職と聞くより早くガラリと変る人の心のさもしさは、道理 らしい愚痴の蓋 で隠蔽 そうとしても看透 かされる。とはいえそれは忍ぼうと思えば忍びもなろうが、面 あたりに意久地なしと言わぬばかりのからみ文句、人を見括 ッた一言 ばかりは、如何 にしても腹に据 えかねる。何故 意久地がないとて叔母がああ嘲 り辱 めたか、其処 まで思い廻らす暇がない、唯もう腸 が断 れるばかりに悔しく口惜しく、恨めしく腹立たしい。文三は憤然として「ヨシ先がその気なら此方 もその気だ、畢竟 姨 と思えばこそ甥と思えばこそ、言たい放題をも言わして置くのだ。ナニ縁を断 ッてしまえば赤の他人、他人に遠慮も糸瓜 もいらぬ事だ……糞ッ、面宛 半分に下宿をしてくれよう……」ト肚 の裏 で独言 をいうと、不思議やお勢の姿が目前にちらつく。「ハテそうしては彼娘 が……」ト文三は少しく萎 れたが……不図又叔母の悪々 しい者面 を憶出 して、又憤然 となり、「糞ッ止めても止まらぬぞ」ト何時 にない断念 のよさ。こう腹を定 めて見ると、サアモウ一刻も居るのが厭になる、借住居かとおもえば子舎 が気に喰わなくなる、我物でないかと思えば縁 の欠けた火入まで気色 に障わる。時計を見れば早十一時、今から荷物を取旁付 けて是非とも今日中には下宿を為よう、と思えば心までいそがれ、「糞ッ止めても止まらぬぞ」ト口癖のように言いながら、熱気 となって其処らを取旁付けにかかり、何か探そうとして机の抽斗 を開け、中 に納 れてあッた年頃五十の上をゆく白髪たる老婦の写真にフト眼を注 めて、我にもなく熟々 と眺 め入ッた。これは老母の写真で。御存知の通り文三は生得 の親おもい、母親の写真を視て、我が辛苦を甞 め艱難 を忍びながら定めない浮世に存生 らえていたる、自分一個 の為 而已 でない事を想出 し、我と我を叱 りもし又励しもする事何時も何時も。今も今母親の写真を見て文三は日頃喰付 けの感情をおこし覚えずも悄然 と萎れ返ッたが、又悪々 しい叔母の者面 を憶出して又熱気 となり、拳 を握り歯を喰切 り、「糞ッ止めて止まらぬぞ」ト独言 を言いながら再び将 に取旁付 に懸らんとすると、二階の上り口で「お飯 で御座いますヨ」ト下女の呼ぶ声がする。故 らに二三度呼ばして返事にも勿躰 をつけ、しぶしぶ二階を降りて、気むずかしい苦り切ッた怖 ろしい顔色をして奥坐舗 の障子を開けると……お勢がいるお勢が……今まで残念口惜しいと而已 一途に思詰めていた事ゆえ、お勢の事は思出したばかりで心にも止めず忘れるともなく忘れていたが、今突然可愛らしい眼と眼を看合わせ、しおらしい口元で嫣然 笑われて見ると……淡雪 の日の眼に逢 ッて解けるが如く、胸の鬱結 も解けてムシャクシャも消え消えになり、今までの我を怪しむばかり、心の変動、心底 に沈んでいた嬉 しみ有難みが思い懸けなくもニッコリ顔へ浮み出し懸ッた……が、グッと飲込んでしまい、心では笑いながら顔ではフテテ膳に向ッた。さて食事も済む。二階へ立戻ッて文三が再び取旁付に懸ろうとして見たが、何となく拍子抜 けがして以前のような気力が出ない。ソッと小声で「大丈夫」と言ッて見たがどうも気が引立 たぬ。依 て更に出直して「大丈夫」ト熱気 とした風 をして見て、歯を喰切 ッて見て、「一旦思い定めた事を変 がえるという事が有るものか……しらん、止めても止まらんぞ」
と言ッて出て往 けば、彼娘 を捨てなければならぬかと落胆したおもむき。今更未練が出てお勢を捨るなどという事は勿躰 なくて出来ず、と言ッて叔母に詫言 を言うも無念、あれも厭 なりこれも厭なりで思案の糸筋が乱 れ出し、肚の裏 では上を下へとゴッタ返えすが、この時より既にどうやら人が止めずとも遂 には我から止まりそうな心地がせられた。「マアともかくも」ト取旁付に懸りは懸ッたが、考えながらするので思の外暇取り、二時頃までかかって漸 く旁付終りホッと一息吐いていると、ミシリミシリと梯子段 を登る人の跫音 がする。跫音を聞たばかりで姿を見ずとも文三にはそれと解ッた者か、先刻飲込んだニッコリを改めて顔へ現わして其方 を振向く。上ッて来た者はお勢で、文三の顔を見てこれもまたニッコリして、さて坐舗を見廻わし、
「オヤ大変片付たこと」
「余りヒッ散らかっていたから」
ト我知らず言ッて文三は我を怪んだ。何故虚言 を言ッたか自分にも解りかねる。お勢は座に着きながら、さして吃驚 した様子もなく、
「アノ今母親さんがお噺 しだッたが、文さん免職におなりなすったとネ」
「昨日 免職になりました」
ト文三も今朝とはうって反 ッて、今は其処どころで無いと言ッたような顔付。
「実に面目は有りませんが、しかし幾程 悔んでも出来た事は仕様が無いと思ッて今朝母親さんに御風聴 申したが……叱られました」
トいって歯を囓切 ッて差俯向 く。
「そうでしたとネー、だけれども……」
「二十三にも成ッて親一人楽に過す事の出来ない意久地なし、と言わないばかりに仰 しゃッた」
「そうでしたとネー、だけれども……」
「成程私は意久地なしだ、意久地なしに違いないが、しかしなんぼ叔母甥の間柄 だと言ッて面と向ッて意久地なしだと言われては、腹も立たないが余 り……」
「だけれどもあれは母親さんの方が不条理ですワ。今もネ母親さんが得意になってお話しだったから、私が議論したのですよ。議論したけれども母親さんには私の言事 が解らないと見えてネ、唯 腹ばッかり立てているのだから、教育の無い者は仕様がないのネー」
ト極り文句。文三は垂れていた頭 をフッと振挙げて、
「エ、母親さんと議論を成 すった」
「ハア」
「僕の為めに」
「ハア、君の為めに弁護したの」
「アア」
ト言ッて文三は差俯向いてしまう。何 だか膝 の上へボッタリ落ちた物が有る。
「どうかしたの、文さん」
トいわれて文三は漸く頭 を擡 げ、莞爾 笑い、その癖□ を湿 ませながら、
「どうもしないが……実に……実に嬉れしい……母親さんの仰しゃる通り、二十三にも成ッてお袋一人さえ過しかねるそんな不甲斐 ない私をかばって母親さんと議論をなすったと、実に……」
「条理を説ても解らない癖に腹ばかり立てているから仕様がないの」
ト少し得意の躰 。
「アアそれ程までに私 を……思ッて下さるとは知らずして、貴嬢 に向ッて匿立 てをしたのが今更耻 かしい、アア耻かしい。モウこうなれば打散 けてお話してしまおう、実はこれから下宿をしようかと思ッていました」
「下宿を」
「サ為 ようかと思ッていたんだが、しかしもう出来ない。他人同様の私をかばって実の母親さんと議論をなすった、その貴嬢の御信切を聞ちゃ、しろと仰しゃッてももう出来ない……がそうすると、母親さんにお詫 を申さなければならないが……」
「打遣 ッてお置きなさいヨ。あんな教育の無い者が何と言ッたッて好う御座んさアネ」
「イヤそうでない、それでは済まない、是非お詫を申そう。がしかしお勢さん、お志は嬉しいが、もう母親さんと議論をすることは罷 めて下さい、私の為めに貴嬢を不孝の子にしては済まないから」
「お勢」
ト下坐舗の方でお政の呼ぶ声がする。
「アラ母親さんが呼んでお出でなさる」
「ナアニ用も何にも有るんじゃアないの」
「お勢」
「マア返事を為 さいヨ」
「お勢お勢」
「ハアイ……チョッ五月蠅 こと」
ト起揚 る。
「今話した事は皆 母親さんにはコレですよ」
ト文三が手頭 を振ッて見せる。お勢は唯点頭 た而已 で言葉はなく、二階を降りて奥坐舗へ参ッた。
先程より疳癪 の眥 を釣 り上げて手ぐすね引て待ッていた母親のお政は、お勢の顔を見るより早く、込み上げて来る小言を一時にさらけ出しての大怒鳴 。
「お……お……お勢、あれ程呼ぶのがお前には聞えなかッたかエ、聾者 じゃアあるまいし、人 が呼んだら好加減に返事をするがいい……全躰マア何の用が有ッて二階へお出でだ、エ、何の用が有ッてだエ」
ト逆上 あがッて極 め付けても、此方 は一向平気なもので、
「何 にも用は有りゃアしないけれども……」
「用がないのに何故お出でだ。先刻 あれほど、もうこれからは今までのようにヘタクタ二階へ往ッてはならないと言ッたのがお前にはまだ解らないかエ。さかりの附た犬じゃアあるまいし、間 がな透 がな文三の傍 へばッかし往きたがるよ」
「今までは二階へ往ッても善くッてこれからは悪いなんぞッて、そんな不条理な」
「チョッ解らないネー、今までの文三と文三が違います。お前にゃア免職になった事が解らないかエ」
「オヤ免職に成ッてどうしたの、文さんが人を見ると咬付 きでもする様になったの、ヘーそう」
「な、な、な、なんだと、何とお言いだ……コレお勢、それはお前あんまりと言うもんだ、余 り親をば、ば、ば、馬鹿にすると言うもんだ」
「ば、ば、ば、馬鹿にはしません。ヘー私は条理のある所を主張するので御座います」
ト唇を反らしていうを聞くや否 や、お政は忽 ち顔色を変えて手に持ッていた長羅宇 の烟管 を席 へ放り付け、
「エーくやしい」
ト歯を喰切 ッて口惜 しがる。その顔を横眼でジロリと見たばかりで、お勢はすまアし切ッて座舗を立出でてしまッた。
しかしながらこれを親子喧嘩 と思うと女丈夫の本意に負 く。どうしてどうして親子喧嘩……そんな不道徳な者でない。これはこれ辱 なくも難有 くも日本文明の一原素ともなるべき新主義と時代後 れの旧主義と衝突をするところ、よくお眼を止めて御覧あられましょう。
その夜文三は断念 ッて叔母に詫言をもうしたが、ヤ梃 ずったの梃ずらないのと言てそれはそれは……まずお政が今朝言ッた厭味に輪を懸け枝を添えて百万陀羅 并 べ立てた上句 、お勢の親を麁末 にするのまでを文三の罪にして難題を言懸ける。されども文三が死だ気になって諸事お容 るされてで持切ッているに、お政もスコだれの拍子抜けという光景 で厭味の音締 をするように成ッたから、まず好しと思う間もなく、不図又文三の言葉尻 から燃出して以前にも立優 る火勢、黒烟 焔々 と顔に漲 るところを見てはとても鎮火しそうも無かッたのも、文三が済 ませぬの水を斟尽 して澆 ぎかけたので次第々々に下火になって、プスプス燻 になって、遂に不精々々に鎮火 る。文三は吻 と一息、寸善尺魔 の世の習い、またもや御意の変らぬ内にと、挨拶 も匆々 に起ッて坐敷を立出で二三歩すると、後 の方 でお政がさも聞えよがしの独語 、
「アアアア今度 こそは厄介 払いかと思ッたらまた背負 込みか」
第六回 どちら着 ずのちくらが沖
秋の日影も稍 傾 いて庭の梧桐 の影法師が背丈を伸ばす三時頃、お政は独り徒然 と長手の火鉢 に凭 れ懸ッて、斜 に坐りながら、火箸 を執 て灰へ書く、楽書 も倭文字 、牛の角文字いろいろに、心に物を思えばか、怏々 たる顔の色、動 もすれば太息 を吐いている折しも、表の格子戸 をガラリト開けて、案内もせず這入 ッて来て、隔 の障子の彼方 からヌット顔を差出して、
「今日 は」
ト挨拶 をした男を見れば、何処 かで見たような顔と思うも道理、文三の免職になった当日、打連れて神田見附の裏 より出て来た、ソレ中背の男と言ッたその男で。今日は退省後と見えて不断着の秩父縞 の袷衣 の上へ南部の羽織をはおり、チト疲労 れた博多の帯に袂 時計の紐 を捲付 けて、手に土耳斯 形の帽子を携えている。
「オヤ何人 かと思ッたらお珍らしいこと、此間 はさっぱりお見限りですネ。マアお這入 なさいナ、それとも老婆 ばかりじゃアお厭 かネ、オホホホホホ」
「イヤ結構……結構も可笑 しい、アハハハハハ。トキニ何は、内海 は居ますか」
「ハア居ますヨ」
「それじゃちょいと逢 て来てからそれからこの間の復讐 だ、覚悟をしてお置きなさい」
「返討 じゃアないかネ」
「違いない」
ト何か判 らぬ事を言ッて、中背の男は二階へ上ッてしまッた。
帰ッて来ぬ間 にチョッピリこの男の小伝をと言う可 きところなれども、何者の子でどんな教育を享 けどんな境界 を渡ッて来た事か、過去ッた事は山媛 の霞 に籠 ッておぼろおぼろ、トント判らぬ事而已 。風聞に拠 れば総角 の頃に早く怙恃 を喪 い、寄辺渚 の棚 なし小舟 では無く宿無小僧となり、彼処 の親戚 此処 の知己 と流れ渡ッている内、曾 て侍奉公までした事が有るといいイヤ無いという、紛々たる人の噂 は滅多に宛 になら坂 や児手柏 の上露 よりももろいものと旁付 て置いて、さて正味の確実 なところを掻摘 んで誌 せば、産 は東京 で、水道の水臭い士族の一人 だと履歴書を見た者の噺 し、こればかりは偽 でない。本田昇 と言ッて、文三より二年前 に某省の等外を拝命した以来 、吹小歇 のない仕合 の風にグットのした出来星 判任、当時は六等属の独身 ではまず楽な身の上。
昇は所謂 才子で、頗 る智慧 才覚が有ッてまた能 く智慧才覚を鼻に懸ける。弁舌は縦横無尽、大道に出る豆蔵 の塁を摩して雄を争うも可なりという程では有るが、竪板 の水の流を堰 かねて折節は覚えず法螺 を吹く事もある。また小奇用 で、何一ツ知らぬという事の無い代り、これ一ツ卓絶 て出来るという芸もない、怠 るが性分で倦 るが病だといえばそれもその筈 か。
昇はまた頗る愛嬌 に富でいて、極 て世辞がよい。殊 に初対面の人にはチヤホヤもまた一段で、婦人にもあれ老人にもあれ、それ相応に調子を合せて曾てそらすという事なし。唯 不思議な事には、親しくなるに随 い次第に愛想 が無くなり、鼻の頭 で待遇 て折に触れては気に障る事を言うか、さなくば厭 におひゃらかす。それを憤 りて喰 て懸れば、手に合う者はその場で捻返 し、手に合わぬ者は一時 笑ッて済まして後 、必ず讐 を酬 ゆる……尾籠 ながら、犬の糞 で横面 を打曲 げる。
とはいうものの昇は才子で、能く課長殿に事 える。この課長殿というお方は、曾て西欧の水を飲まれた事のあるだけに「殿様風」という事がキツイお嫌 いと見えて、常に口を極めて御同僚方の尊大の風を御誹謗 遊ばすが、御自分は評判の気むずかし屋で、御意 に叶 わぬとなると瑣細 の事にまで眼を剥出 して御立腹遊ばす、言わば自由主義の圧制家という御方だから、哀れや属官の人々は御機嫌 の取様に迷 いてウロウロする中に、独り昇は迷 かぬ。まず課長殿の身態 声音 はおろか、咳払 いの様子から嚔 の仕方まで真似 たものだ。ヤそのまた真似の巧 な事というものは、あたかもその人が其処 に居て云為 するが如くでそっくりそのまま、唯相違と言ッては、課長殿は誰の前でもアハハハとお笑い遊ばすが、昇は人に依ッてエヘヘ笑いをする而已 。また課長殿に物など言懸けられた時は、まず忙わしく席を離れ、仔細 らしく小首を傾けて謹 で承り、承り終ッてさて莞爾 微笑して恭 しく御返答申上る。要するに昇は長官を敬すると言ッても遠ざけるには至らず、狎 れるといっても涜 すには至らず、諸事万事御意の随意々々 曾て抵抗した事なく、しかのみならず……此処が肝賢要 ……他の課長の遺行を数 て暗に盛徳を称揚する事も折節はあるので、課長殿は「見所のある奴じゃ」ト御意遊ばして御贔負 に遊ばすが、同僚の者は善く言わぬ。昇の考では皆法界悋気 で善く言わぬのだという。
ともかくも昇は才子で、毎日怠らず出勤する。事務に懸けては頗る活溌 で、他人の一日分沢山 の事を半日で済ましても平気孫左衛門、難渋そうな顔色 もせぬが、大方は見せかけの勉強態 、小使給事などを叱散 らして済まして置く。退省 て下宿へ帰る、衣服を着更 る、直ぐ何処 へか遊びに出懸けて、落着て在宿していた事は稀 だという。日曜日には、御機嫌伺いと号して課長殿の私邸へ伺候し、囲碁のお相手をもすれば御私用をも達 す。先頃もお手飼に狆 が欲しいと夫人の御意、聞 よりも早飲込み、日ならずして何処で貰 ッて来た事か、狆の子一疋 を携えて御覧に供える。件 の狆を御覧じて課長殿が「此奴 妙な貌 をしているじゃアないか、ウー」ト御意遊ばすと、昇も「左様で御座います、チト妙な貌をしております」ト申上げ、夫人が傍 から「それでも狆はこんなに貌のしゃくんだ方が好いのだと申ます」ト仰 しゃると、昇も「成程夫人 の仰 の通り狆はこんなに貌のしゃくんだ方が好いのだと申ます」ト申上げて、御愛嬌にチョイト狆の頭を撫 でて見たとか。しかし永い間には取外 しも有ると見えて、曾て何かの事で些 しばかり課長殿の御機嫌を損ねた時は、昇はその当坐一両日 の間、胸が閉塞 て食事が進まなかッたとかいうが、程なく夫人のお癪 から揉 やわらげて、殿さまの御肝癖も療治し、果は自分の胸の痞 も押さげたという、なかなか小腕のきく男で。
下宿が眼と鼻の間の所為 か、昇は屡々 文三の所へ遊びに来る。お勢が帰宅してからは、一段足繁くなって、三日にあげず遊びに来る。初とは違い、近頃は文三に対しては気に障わる事而已 を言散らすか、さもなければ同僚の非を数えて「乃公 は」との自負自讃、「人間地道 に事をするようじゃ役に立たぬ」などと勝手な熱を吐散らすが、それは邂逅 の事で、大方は下坐敷でお政を相手に無駄 口を叩 き、或る時は花合せとかいうものを手中に弄 して、如何 な真似をした上句 、寿司 などを取寄せて奢散 らす。勿論 お政には殊 の外気に入ッてチヤホヤされる、気に入り過ぎはしないかと岡焼をする者も有るが、まさか四十面 をさげて……お勢には……シッ跫音 がする、昇ではないか……当ッた。
「トキニ内海はどうも飛だ事で、実に気の毒な、今も往 て慰めて来たが塞切 ッている」
「放擲 てお置きなさいヨ。身から出た錆 だもの、些 とは塞ぐも好 のサ」
「そう言えばそんなような者だが、しかし何しろ気の毒だ。こういう事になろうと疾 くから知ていたらまたどうにか仕様も有たろうけれども、何しても……」
「何とか言ッてましたろうネ」
「何を」
「私の事をサ」
「イヤ何とも」
「フム貴君 も頼もしくないネ、あんな者 を朋友 にして同類 にお成んなさる」
「同類 にも何にも成りゃアしないが、真実 に」
「そう」
ト談話 の内に茶を入れ、地袋の菓子を取出して昇に侑 め、またお鍋を以 てお勢を召 ばせる。何時 もならば文三にもと言うところを今日は八分 したゆえ、お鍋が不審に思い、「お二階へは」ト尋ねると、「ナニ茶がカッ食 いたきゃア……言 ないでも宜 ヨ」ト答えた。これを名 けて Woman's revenge (婦人の復讐 )という。
「どうしたんです、鬩 り合いでもしたのかネ」
「鬩合 いなら宜がいじめられたの、文三にいじめられたの……」
「それはまたどうした理由 で」
「マア本田さん、聞ておくんなさい、こうなんですヨ」
ト昨日 文三にいじめられた事を、おまけにおまけを附着 てベチャクチャと饒舌 り出しては止度 なく、滔々蕩々 として勢い百川 の一時に決した如くで、言損じがなければ委 みもなく、多年の揣摩 一時の宏弁 、自然に備わる抑揚頓挫 、或 は開き或は闔 じて縦横自在に言廻わせば、鷺 も烏 に成らずには置かぬ。哀 むべし文三は竟 に世にも怖 ろしい悪棍 と成り切ッた所へ、お勢は手に一部の女学雑誌を把持 ち、立 ながら読み読み坐舗 へ這入て来て、チョイト昇に一礼したのみで嫣然 ともせず、饒舌 ながら母親が汲 で出す茶碗 を憚 りとも言わずに受取りて、一口飲で下へ差措 たまま、済まアし切ッて再 復 び読みさした雑誌を取り上げて眺 め詰めた、昇と同席の時は何時でもこうで。
「トいう訳でツイそれなり鳧 にしてしまいましたがネ、マア本田さん、貴君 は何方 が理屈だとお思なさる」
「それは勿論内海が悪い」
「そのまた悪 い文三の肩を持ッてサ、私 に喰ッて懸ッた者があると思召 せ」
「アラ喰ッて懸りはしませんワ」
「喰ッて懸らなくッてサ……私はもうもう腹が立て腹が立て堪 らなかッたけれども、何してもこの通り気が弱いシ、それに先には文三という荒神 様が附てるからとても叶 う事 ちゃア無いとおもって、虫を殺ろして噤黙 てましたがネ……」
「アラあんな虚言 ばッかり言ッて」
「虚言じゃないワ真実 だワ……マなんぼなんだッて呆 れ返るじゃ有りませんか。ネー貴君、何処の国にか他人の肩を持ッてサ、シシババの世話をしてくれた現在の親に喰ッて懸るという者 が有るもんですかネ。ネー本田さん、そうじゃア有りませんか。ギャット産れてからこれまでにするにア仇 や疎 かな事 じゃア有りません。子を持てば七十五度 泣くというけれども、この娘 の事 てはこれまで何百度泣たか知れやアしない。そんなにして養育 て貰ッても露程も有難いと思ッてないそうで、この頃じゃ一口いう二口目にゃ速 ぐ悪たれ口だ。マなんたら因果でこんな邪見な子を持ッたかと思うとシミジミ悲しくなりますワ」
「人が黙ッていれば好気 になってあんな事を言ッて、余 りだから宜 ワ。私は三歳の小児じゃないから親の恩位は知ていますワ。知ていますけれども条理……」
「アアモウ解ッた解ッた、何にも宣 うナ。よろしいヨ、解ッたヨ」
ト昇は憤然 と成ッて饒舌り懸けたお勢の火の手を手頸 で煽 り消して、さてお政に向い、
「しかし叔母さん、此奴 は一番失策 ッたネ、平生の粋 にも似合わないなされ方、チトお恨みだ。マア考えて御覧 じろ、内海といじり合いが有ッて見ればネ、ソレ……という訳が有るからお勢さんも黙ッては見ていられないやアネ、アハハハハ」
ト相手のない高笑い。お勢は額 で昇を睨 めたまま何 とも言わぬ、お政も苦笑いをした而已 でこれも黙然 、些 と席がしらけた趣き。
「それは戯談 だがネ、全体叔母さん余り慾が深過るヨ、お勢さんの様なこんな上出来な娘を持ちながら……」
「なにが上出来なもんですか……」
「イヤ上出来サ。上出来でないと思うなら、まず世間の娘子 を御覧なさい。お勢さん位の年恰好 でこんなに縹致 がよくッて見ると、学問や何かは其方退 けで是非色狂いとか何とか碌 な真似はしたがらぬものだけれども、お勢さんはさすがは叔母さんの仕込みだけ有ッて、縹致は好くッても品行は方正で、曾て浮気らしい真似をした事はなく、唯一心に勉強してお出でなさるから漢学は勿論出来るシ、英学も……今何を稽古 してお出でなさる」
「『ナショナル』の『フォース』に列国史 に……」
「フウ、『ナショナル』の『フォース』、『ナショナル』の『フォース』と言えば、なかなか難 しい書物だ、男子でも読 ない者は幾程 も有る。それを芳紀 も若くッてかつ婦人の身でいながら稽古してお出でなさる、感心な者だ。だからこの近辺じゃアこう言やア失敬のようだけれども、鳶 が鷹 とはあの事だと言ッて評判していますゼ。ソレ御覧、色狂いして親の顔に泥 を塗 ッても仕様がないところを、お勢さんが出来が宜いばっかりに叔母さんまで人に羨 まれる。ネ、何も足腰按 るばかりが孝行じゃアない、親を人に善く言わせるのも孝行サ。だから全体なら叔母さんは喜んでいなくッちゃアならぬところを、それをまだ不足に思ッてとやこういうのは慾サ、慾が深過ぎるのサ」
「ナニ些 とばかりなら人様 に悪く言われても宜 からもう些 し優しくしてくれると宜 だけれども、邪慳 で親を親臭いとも思ッていないから悪 くッて成りゃアしません」
ト眼を細くして娘の方を顧視 る。こういう眺 め方も有るものと見える。
「喜び叙 にもう一ツ喜んで下さい。我輩今日一等進みました」
「エ」
トお政は此方 を振向き、吃驚 した様子で暫 らく昇の顔を目守 めて、
「御結構が有ッたの……ヘエエー……それはマア何してもお芽出度 御座いました」
ト鄭重 に一礼して、さて改めて頭 を振揚げ、
「ヘー御結構が有ッたの……」
お勢もまた昇が「御結構が有ッた」と聞くと等しく吃驚した顔色 をして些 し顔を※ [#「赤+報のつくり」、74-9]らめた。咄々 怪事もあるもので。
「一等お上 なすッたと言うと、月給は」
「僅 五円違いサ」
「オヤ五円違いだッて結構ですワ。こうッ今までが三十円だッたから五円殖えて……」
「何ですネー母親 さん、他人の収入を……」
「マアサ五円殖えて三十五円、結構ですワ、結構でなくッてサ。貴君 どうして今時高利貸したッて月三十五円取ろうと言うなア容易な事 ちゃア有りませんヨ……三十五円……どうしても働らき者 は違ッたもんだネー。だからこの娘 とも常不断 そう言ッてます事サ、アノー本田さんは何だと、内の文三や何 かとは違ッてまだ若くッてお出 でなさるけれども、利口で気働らきが有ッて、如才が無くッて……」
「談話 も艶消 しにして貰 たいネ」
「艶じゃア無い、真個 にサ。如才が無くッてお世辞がよくッて男振も好けれども、唯物喰 いの悪 いのが可惜 瑜 に疵 だッて、オホホホホ」
「アハハハハ、貧乏人の質 で上げ下げが怖ろしい」
「それはそうと、孰 れ御結構振舞いが有りましょうネ。新富 かネ、但 しは市村 かネ」
「何処 へなりとも、但し負 ぶで」
「オヤそれは難有 くも何ともないこと」
トまた口を揃 えて高笑い。
「それは戯談 だがネ、芝居はマア芝居として、どうです、明後日 団子坂 へ菊見という奴は」
「菊見、さようさネ、菊見にも依りけりサ。犬川 じゃア、マア願い下げだネ」
「其処にはまた異 な寸法も有ろうサ」
「笹 の雪じゃアないかネ」
「まさか」
「真個 に往きましょうか」
「お出でなさいお出でなさい」
「お勢、お前もお出ででないか」
「菊見に」
「アア」
お勢は生得の出遊 き好き、下地は好きなり御意 はよし、菊見の催 頗 る妙だが、オイソレというも不見識と思ッたか、手弱く辞退して直ちに同意してしまう。十分ばかりを経て昇が立帰ッた跡で、お政は独言 のように、
「真個 に本田さんは感心なもんだナ、未 だ年齢 も若いのに三十五円月給取るように成んなすった。それから思うと内の文三なんざア盆暗 の意久地なしだッちゃアない、二十三にも成ッて親を養 すどこか自分の居所 立所 にさえ迷惑 てるんだ。なんぼ何だッて愛想 が尽きらア」
「だけれども本田さんは学問は出来ないようだワ」
「フム学問々々とお言いだけれども、立身出世すればこそ学問だ。居所 立所 に迷惑 くようじゃア、些 とばかし書物 が読めたッてねっから難有味 がない」
「それは不運だから仕様がないワ」
トいう娘の顔をお政は熟々 目守 めて、
「お勢、真個 にお前は文三と何にも約束した覚えはないかえ。エ、有るなら有ると言ておしまい、隠立 をすると却 てお前の為にならないヨ」
「またあんな事を言ッて……昨日 あれ程そんな覚えは無いと言ッたのが母親 さんには未だ解らないの、エ、まだ解らないの」
「チョッ、また始まッた。覚えが無いなら無いで好やアネ、何にもそんなに熱くならなくッたッて」
「だッて人をお疑 りだものヲ」
暫らく談話 が断絶 れる、母親も娘も何か思案顔。
「母親 さん、明後日 は何を衣 て行こうネ」
「何なりとも」
「エート、下着は何時 ものアレにしてト、それから上着は何衣 にしようかしら、やッぱり何時もの黄八丈 にして置こうかしら……」
「もう一ツのお召縮緬 の方にお為 ヨ、彼方 がお前にゃア似合うヨ」
「デモあれは品が悪いものヲ」
「品 が悪 いてッたッて」
「アアこんな時にア洋服が有ると好のだけれどもナ……」
「働き者 を亭主 に持ッて、洋服なとなんなと拵 えて貰うのサ」
トいう母親の顔をお勢はジット目守 めて不審顔。
[#改丁]
第二編
第七回団子坂 の観菊 上
日曜日は近頃に無い天下晴れ、風も穏かで塵 も起 たず、暦を繰 て見れば、旧暦で菊月初旬 という十一月二日の事ゆえ、物観遊山 には持 て来いと云う日和 。
園田一家 の者は朝から観菊行 の支度 とりどり。晴衣 の亘長 を気にしてのお勢のじれこみがお政の肝癪 と成て、廻りの髪結の来ようの遅いのがお鍋の落度となり、究竟 は万古の茶瓶 が生れも付かぬ欠口 になるやら、架棚 の擂鉢 が独手 に駈出 すやら、ヤッサモッサ捏返 している所へ生憎 な来客、しかも名打 の長尻 で、アノ只今 から団子坂へ参ろうと存じて、という言葉にまで力瘤 を入れて見ても、まや薬ほども利 かず、平気で済まして便々とお神輿 を据 えていられる。そのじれッたさ、もどかしさ。それでも宜 くしたもので、案じるより産むが易く、客もその内に帰れば髪結も来る、ソコデ、ソレ支度も調い、十一時頃には家内も漸 く静まッて、折節には高笑がするようになッた。
文三は拓落失路 の人、仲々以 て観菊などという空 は無い。それに昇は花で言えば今を春辺 と咲誇る桜の身、此方 は日蔭 の枯尾花、到頭 楯突 く事が出来ぬ位なら打たせられに行くでも無いと、境界 に随 れて僻 みを起し、一昨日 昇に誘引 た時既にキッパリ辞 ッて行かぬと決心したからは、人が騒ごうが騒ぐまいが隣家 の疝気 で関繋 のない噺 、ズット澄していられそうなもののさて居られぬ。嬉 しそうに人のそわつくを見るに付け聞くに付け、またしても昨日 の我が憶出 されて、五月雨 頃の空と湿める、嘆息もする、面白くも無い。
ヤ面白からぬ。文三には昨日お勢が「貴君 もお出 なさるか」ト尋ねた時、行かぬと答えたら、「ヘーそうですか」ト平気で澄まして落着払ッていたのが面白からぬ。文三の心持では、成ろう事なら、行けと勧めて貰 いたかッた。それでも尚 お強情を張ッて行かなければ、「貴君と御一所でなきゃア私も罷 しましょう」とか何とか言て貰いたかッた……
「シカシこりゃア嫉妬 じゃアない……」
と不図何か憶出 して我と我に分疏 を言て見たが、まだ何処 かくすぐられるようで……不安心で。
行くも厭 なり留 まるも厭なりで、気がムシャクシャとして肝癪が起る。誰と云て取留めた相手は無いが腹が立つ。何か火急の要事が有るようでまた無いようで、無いようでまた有るようで、立てもいられず坐 てもいられず、どうしてもこうしても落着かれない。
落着かれぬままに文三がチト読書でもしたら紛れようかと、書函 の書物を手当放題に取出して読みかけて見たが、いッかな争 な紛れる事でない。小むずかしい面相 をして書物と疾視競 したところはまず宜 たが、開巻第一章の一行目を反覆読過して見ても、更にその意義を解 し得ない。その癖下坐舗 でのお勢の笑声 は意地悪くも善く聞えて、一回 聞けば則 ち耳の洞 の主人 と成ッて、暫 らくは立去らぬ。舌鼓 を打ちながら文三が腹立しそうに書物を擲却 して、腹立しそうに机に靠着 ッて、腹立しそうに頬杖 を杖 き、腹立しそうに何処ともなく凝視 めて……フトまた起直ッて、蘇生 ッたような顔色 をして、
「モシ罷めになッたら……」
ト取外 して言いかけて倏忽 ハッと心附き、周章 て口を鉗 んで、吃驚 して、狼狽 して、遂 に憤然 となッて、「畜生」と言いざま拳 を振挙げて我と我を威 して見たが、悪戯 な虫奴 は心の底でまだ……やはり……
シカシ生憎 故障も無かッたと見えて昇は一時頃に参ッた。今日は故意 と日本服で、茶の糸織の一ツ小袖 に黒七子 の羽織、帯も何か乙なもので、相変らず立 とした服飾 。梯子段 を踏轟 かして上ッて来て、挨拶 をもせずに突如 まず大胡坐 。我鼻を視るのかと怪しまれる程の下眼を遣ッて文三の顔を視ながら、
「どうした、土左 的宜しくという顔色 だぜ」
「些 し頭痛がするから」
「そうか、尼御台 に油を取られたのでもなかッたか、アハハハハ」
チョイと云う事からしてまず気 に障わる。文三も怫然 とはしたが、其処 は内気だけに何とも言わなかった。
「どうだ、どうしても往 かんか」
「まずよそう」
「剛情だな……ゴジョウだからお出 なさいよじゃ無いか、アハハハ。ト独りで笑うほかまず仕様が無い、何を云ッても先様にゃお通じなしだ、アハハハ」
戯言 とも附かず罵詈 とも附かぬ曖昧 なお饒舌 に暫らく時刻を移していると、忽 ち梯子段の下にお勢の声がして、
「本田さん」
「何です」
「アノ車が参りましたから、よろしくば」
「出懸けましょう」
「それではお早く」
「チョイとお勢さん」
「ハイ」
「貴嬢 と合乗 なら行ても宜 というのがお一方 出来たが承知ですかネ」
返答は無く、唯 バタバタと駆出す足音がした。
「アハハハ、何にも言わずに逃出すなぞは未 だしおらしいネ」
ト言ったのが文三への挨拶で、昇はそのまま起上 ッて二階を降りて往った。跡を目送 りながら文三が、さもさも苦々しそうに口の中 で、
「馬鹿奴 ……」
ト言ったその声が未だ中有 に徘徊 ッている内に、フト今年の春向島 へ観桜 に往った時のお勢の姿を憶出し、どういう心計 か蹶然 と起上り、キョロキョロと四辺 を環視 して火入 に眼を注 けたが、おもい直おして旧 の座になおり、また苦々しそうに、
「馬鹿奴」
これは自 ら叱責 ったので。
午後はチト風が出たがますます上天気、殊 には日曜と云うので団子坂近傍は花観る人が道去り敢 えぬばかり。イヤ出たぞ出たぞ、束髪も出た島田も出た、銀杏返 しも出た丸髷 も出た、蝶々 髷も出たおケシも出た。○○ 会幹事、実は古猫の怪という、鍋島 騒動を生 で見るような「マダム」某 も出た。芥子 の実ほどの眇少 しい智慧 を両足に打込んで、飛だり跳 たりを夢にまで見る「ミス」某も出た。お乳母も出たお爨婢 も出た。ぞろりとした半元服、一夫数妻 論の未だ行われる証拠に上りそうな婦人も出た。イヤ出たぞ出たぞ、坊主も出た散髪 も出た、五分刈も出たチョン髷も出た。天帝の愛子 、運命の寵臣 、人の中 の人、男の中 の男と世の人の尊重の的、健羨 の府となる昔所謂 お役人様、今の所謂官員さま、後の世になれば社会の公僕とか何とか名告 るべき方々も出た。商賈 も出た負販 の徒も出た。人の横面 を打曲 げるが主義で、身を忘れ家を忘れて拘留の辱 に逢 いそうな毛臑 暴出 しの政治家も出た。猫も出た杓子 も出た。人様々の顔の相好 、おもいおもいの結髪風姿 、聞覩 に聚 まる衣香襟影 は紛然雑然として千態万状 、ナッカなか以て一々枚挙するに遑 あらずで、それにこの辺は道幅 が狭隘 ので尚お一段と雑沓 する。そのまた中を合乗で乗切る心無し奴 も有難 の君が代に、その日活計 の土地の者が摺附木 の函 を張りながら、往来の花観る人をのみ眺 めて遂に真 の花を観ずにしまうかと、おもえば実に浮世はいろいろさまざま。
さてまた団子坂の景況は、例の招牌 から釣込む植木屋は家々の招きの旗幟 を翩翻 と金風 に飄 し、木戸々々で客を呼ぶ声はかれこれからみ合て乱合 て、入我我入 でメッチャラコ、唯逆上 ッた木戸番の口だらけにした面 が見える而已 で、何時 見ても変ッた事もなし。中へ這入 ッて見てもやはりその通りで。
一体全体菊というものは、一本 の淋 しきにもあれ千本八千本 の賑 しきにもあれ、自然のままに生茂 ッてこそ見所の有ろう者を、それをこの辺の菊のようにこう無残々々 と作られては、興も明日 も覚めるてや。百草の花のとじめと律義 にも衆芳に後 れて折角咲いた黄菊白菊を、何でも御座れに寄集めて小児騙欺 の木偶 の衣裳 、洗張りに糊 が過ぎてか何処へ触ッてもゴソゴソとしてギゴチ無さそうな風姿 も、小言いッて観る者は千人に一人か二人、十人が十人まず花より団子と思詰めた顔色 、去りとはまた苦々しい。ト何処かの隠居が、菊細工を観ながら愚痴を滴 したと思食 せ。(看官)何だ、つまらない。
閑話不題 。
轟然 と飛ぶが如くに駆来 ッた二台の腕車 がピッタリと停止 る。車を下りる男女三人の者はお馴染 の昇とお勢母子 の者で。
昇の服装 は前文にある通り。
お政は鼠微塵 の糸織の一ツ小袖に黒の唐繻子 の丸帯、襦袢 の半襟 も黒縮緬 に金糸でパラリと縫の入 ッた奴か何かで、まず気の利いた服飾 。
お勢は黄八丈の一ツ小袖に藍鼠金入繻珍 の丸帯、勿論 下にはお定 りの緋縮緬 の等身 襦袢、此奴 も金糸で縫の入 ッた水浅黄 縮緬の半襟をかけた奴で、帯上はアレハ時色 縮緬、統括 めて云えばまず上品なこしらえ。
シカシ人足 の留まるは衣裳附 よりは寧 ろその態度で、髪も例 の束髪ながら何とか結びとかいう手のこんだ束ね方で、大形の薔薇 の花挿頭 を挿 し、本化粧は自然に背 くとか云ッて薄化粧の清楚 な作り、風格□神 共に優美で。
「色だ、ナニ夫婦サ」と法界悋気 の岡焼連が目引袖引 取々に評判するを漏聞く毎 に、昇は得々として機嫌 顔、これ見よがしに母子 の者を其処茲処 と植木屋を引廻わしながらも片時と黙してはいない。人の傍聞 するにも関 わず例の無駄 口をのべつに並べ立てた。
お勢も今日は取分け気の晴れた面相 で、宛然 籠 を出た小鳥の如くに、言葉は勿論歩風 身体 のこなしにまで何処ともなく活々 としたところが有ッて冴 が見える。昇の無駄を聞ては可笑 しがッて絶えず笑うが、それもそうで、強 ち昇の言事 が可笑しいからではなく、黙ッていても自然 と可笑しいからそれで笑うようで。
お政は菊細工には甚 だ冷淡なもので、唯「綺麗だことネー」ト云ッてツラリと見亘 すのみ。さして眼を注 める様子もないが、その代りお勢と同年配頃の娘に逢えば、叮嚀 にその顔貌風姿 を研窮 する。まず最初に容貌 を視て、次に衣服 を視て、帯を視て爪端 を視て、行過ぎてからズーと後姿 を一瞥 して、また帯を視て髪を視て、その跡でチョイとお勢を横目で視て、そして澄ましてしまう。妙な癖も有れば有るもので。
昇等三人の者は最後に坂下の植木屋へ立寄ッて、次第々々に見物して、とある小舎 の前に立止ッた。其処に飾付 て在ッた木像 の顔が文三の欠伸 をした面相 に酷 く肖 ているとか昇の云ッたのが可笑しいといって、お勢が嬌面 に袖を加 てて、勾欄 におッ被 さッて笑い出したので、傍 に鵠立 でいた書生体 の男が、俄 に此方 を振向いて愕然 として眼鏡越しにお勢を凝視 めた。「みッともないよ」ト母親ですら小言を言ッた位で。
漸くの事で笑いを留 めて、お勢がまだ莞爾々々 と微笑のこびり付ている貌 を擡 げて傍 を視ると、昇は居ない。「オヤ」ト云ッてキョロキョロと四辺 を環視 わして、お勢は忽ち真面目 な貌をした。
と見れば後 の小舎 の前で、昇が磬折 という風に腰を屈 めて、其処に鵠立 でいた洋装紳士の背 に向ッて荐 りに礼拝していた。されども紳士は一向心附かぬ容子 で、尚お彼方 を向いて鵠立 でいたが、再三再四虚辞儀 をさしてから、漸くにムシャクシャと頬鬚 の生弘 ッた気むずかしい貌を此方 へ振向けて、昇の貌を眺め、莞然 ともせず帽子も被ッたままで唯鷹揚 に点頭 すると、昇は忽ち平身低頭、何事をか喃々 と言いながら続けさまに二ツ三ツ礼拝した。
紳士の随伴 と見える両人 の婦人は、一人は今様おはつとか称 える突兀 たる大丸髷、今一人は落雪 とした妙齢の束髪頭、孰 れも水際 の立つ玉揃 い、面相 といい風姿 といい、どうも姉妹 らしく見える。昇はまず丸髷の婦人に一礼して次に束髪の令嬢に及ぶと、令嬢は狼狽 て卒方 を向いて礼を返えして、サット顔を※ [#「赤+報のつくり」、87-7]めた。
暫らく立在 での談話 、間 が隔離 れているに四辺 が騒がしいのでその言事は能 く解らないが、なにしても昇は絶えず口角 に微笑を含んで、折節に手真似をしながら何事をか喋々 と饒舌り立てていた。その内に、何か可笑しな事でも言ッたと見えて、紳士は俄然 大口を開 いて肩を揺ッてハッハッと笑い出し、丸髷の夫人も口頭 に皺 を寄せて笑い出し、束髪の令嬢もまた莞爾 笑いかけて、急に袖で口を掩 い、額越 に昇の貌を眺めて眼元で笑った。身に余る面目に昇は得々として満面に笑いを含ませ、紳士の笑い罷 むを待ッてまた何か饒舌り出した。お勢母子 の待ッている事は全く忘れているらしい。
お勢は紳士にも貴婦人にも眼を注 めぬ代り、束髪の令嬢を穴の開く程目守 めて一心不乱、傍目 を触らなかった、呼吸 をも吻 かなかッた、母親が物を言懸けても返答もしなかった。
その内に紳士の一行がドロドロと此方 を指して来る容子を見て、お政は茫然 としていたお勢の袖を匆 わしく曳揺 かして疾歩 に外面 へ立出で、路傍 に鵠在 で待合わせていると、暫らくして昇も紳士の後 に随って出て参り、木戸口の所でまた更に小腰を屈 めて皆それぞれに分袂 の挨拶 、叮嚀に慇懃 に喋々しく陳 べ立てて、さて別れて独り此方 へ両三歩来て、フト何か憶出したような面相をしてキョロキョロと四辺 を環視 わした。
「本田さん、此処だよ」
ト云うお政の声を聞付けて、昇は急足 に傍 へ歩寄 り、
「ヤ大 にお待遠う」
「今の方は」
「アレガ課長です」
ト云ってどうした理由 か莞爾々々 と笑い、
「今日来る筈 じゃ無かッたんだが……」
「アノ丸髷に結 ッた方は、あれは夫人 ですか」
「そうです」
「束髪の方は」
「アレですか、ありゃ……」
ト言かけて後を振返って見て、
「妻君の妹です……内で見たよりか余程 別嬪 に見える」
「別嬪も別嬪だけれども、好いお服飾 ですことネー」
「ナニ今日はあんなお嬢様然とした風をしているけれども、家 にいる時は疎末 な衣服 で、侍婢 がわりに使われているのです」
「学問は出来ますか」
ト突然お勢が尋ねたので、昇は愕然として、
「エ学問……出来るという噺 も聞かんが……それとも出来るかしらん。この間から課長の所に来ているのだから、我輩もまだ深くは情実 を知らないのです」
ト聞くとお勢は忽ち眼元に冷笑の気を含ませて、振反って、今将 に坂の半腹 の植木屋へ這入ろうとする令嬢の後姿を目送 ッて、チョイと我帯を撫 でてそしてズーと澄ましてしまッた。
坂下 に待たせて置た車に乗ッて三人の者はこれより上野の方へと参ッた。
車に乗ッてからお政がお勢に向い、
「お勢、お前も今のお娘 さんのように、本化粧にして来りゃア宜かッたのにネー」
「厭 サ、あんな本化粧は」
「オヤ何故 え」
「だッて厭味ッたらしいもの」
「ナニお前十代の内なら秋毫 も厭味なこたア有りゃしないわネ。アノ方が幾程 宜か知れない、引立 が好くッて」
「フフンそんなに宜きゃア慈母 さんお做 なさいな。人が厭だというものを好々 ッて、可笑しな慈母さんだよ」
「好と思ッたから唯好じゃ無いかと云ッたばかしだアネ、それをそんな事いうッて真個 にこの娘は可笑しな娘だよ」
お勢はもはや弁難攻撃は不必要と認めたと見えて、何とも言わずに黙してしまッた。それからと云うものは、塞 ぐのでもなく萎 れるのでもなく、唯何となく沈んでしまッて、母親が再び談話 の墜緒 を紹 うと試みても相手にもならず、どうも乙な塩梅 であったが、シカシ上野公園に来着いた頃にはまた口をきき出して、また旧 のお勢に立戻ッた。
上野公園の秋景色、彼方此方 にむらむらと立駢 ぶ老松奇檜 は、柯 を交じえ葉を折重ねて鬱蒼 として翠 も深く、観る者の心までが蒼 く染りそうなに引替え、桜杏桃李 の雑木 は、老木 稚木 も押なべて一様に枯葉勝な立姿、見るからがまずみすぼらしい。遠近 の木間 隠れに立つ山茶花 の一本 は、枝一杯に花を持ッてはいれど、□々 として友欲し気に見える。楓 は既に紅葉したのも有り、まだしないのも有る。鳥の音 も時節に連れて哀れに聞える、淋しい……ソラ風が吹通る、一重桜は戦栗 をして病葉 を震い落し、芝生の上に散布 いた落葉は魂の有る如くに立上りて、友葉 を追って舞い歩き、フトまた云合せたように一斉 にパラパラと伏 ッてしまう。満眸 の秋色蕭条 として却々 春のきおいに似るべくも無いが、シカシさびた眺望 で、また一種の趣味が有る。団子坂へ行く者皈 る者が茲処 で落合うので、処々に人影 が見える、若い女の笑い動揺 めく声も聞える。
お勢が散歩したいと云い出したので、三人の者は教育博物館の前で車を降りて、ブラブラ行きながら、石橋を渡りて動物園の前へ出 で、車夫には「先へ往ッて観音堂の下辺 に待ッていろ」ト命じて其処から車に離れ、真直 に行ッて、矗立千尺 、空 を摩 でそうな杉の樹立の間を通抜けて、東照宮の側面 へ出た。
折しも其処の裏門より Let us go on (行こう)ト「日本の」と冠詞の付く英語を叫びながらピョッコリ飛出した者が有る。と見れば軍艦羅紗 の洋服を着て、金鍍金 の徽章 を附けた大黒帽子を仰向けざまに被 った、年の頃十四歳ばかりの、栗虫のように肥 った少年で、同遊 と見える同じ服装 の少年を顧みて、
「ダガ何か食 たくなったなア」
「食たくなった」
「食たくなってもか……」
ト愚痴ッぽく言懸けて、フトお政と顔を視合わせ、
「ヤ……」
「オヤ勇 が……」
ト云う間もなく少年は駈 出して来て、狼狽 てて昇に三ツ四ツ辞儀をして、サッと赤面して、
「母親 さん」
「何を狼狽 てて[#「狼狽 てて」は底本では「狼狙 てて」]いるんだネー」
「家 へ往ったら……鍋に聞いたら、文さんばッかだッてッたから、僕ア……それだから……」
「お前、モウ試験は済んだのかえ」
「ア済んだ」
「どうだッたえ」
「そんな事よりか、些 し用が有るから……母親さん……」
ト心有気 に母親の顔を凝視 めた。
「用が有るなら茲処 でお言いな」
少年は横目で昇の顔をジロリと視て、
「チョイと此方 へ来ておくれッてば」
「フンお前の用なら大抵知れたもんだ、また『小遣いが無い』だろう」
「ナニそんな事 ちゃない」
ト云ッてまた昇の顔を横眼で視て、サッと赤面して、調子外れな高笑いをして、無理矢理に母親を引張ッて、彼方 の杉の樹の下 へ連れて参ッた。
昇とお勢はブラブラと歩き出して、来るともなく往 くともなしに宮の背後 に出た。折柄 四時頃の事とて日影も大分傾 いた塩梅、立駢 んだ樹立の影は古廟 の築墻 を斑 に染めて、不忍 の池水は大魚の鱗 かなぞのように燦 めく。ツイ眼下に、瓦葺 の大家根 の翼然 として峙 ッているのが視下される。アレハ大方馬見所 の家根で、土手に隠れて形は見えないが車馬の声が轆々 として聞える。
お勢は大榎 の根方 の所で立止まり、翳 していた蝙蝠傘 をつぼめてズイと一通り四辺 を見亘 し、嫣然 一笑しながら昇の顔を窺 き込んで、唐突に、
「先刻 の方は余程 別嬪でしたネー」
「エ、先刻の方とは」
「ソラ、課長さんの令妹とか仰 しゃッた」
「ウー誰の事かと思ッたら……そうですネ、随分別嬪ですネ」
「そして家で視たよりか美しくッてネ。それだもんだから……ネ……貴君 もネ……」
ト眼元と口元に一杯笑いを溜 めてジッと昇の貌を凝視 めて、さてオホホホと吹溢 ぼした。
「アッ失策 ッた、不意を討たれた。ヤどうもおそろ感心、手は二本きりかと思ッたらこれだもの、油断も隙 もなりゃしない」
「それにあの嬢 も、オホホホ何だと見えて、お辞儀する度 に顔を真赤にして、オホホホホホ」
「トたたみかけて意地目 つけるネ、よろしい、覚えてお出でなさい」
「だッて実際の事ですもの」
「シカシあの娘が幾程 美しいと云ッたッても、何処かの人にゃア……とても……」
「アラ、よう御座んすよ」
「だッて実際の事ですもの」
「オホホホ直ぐ復讐 して」
「真 に戯談 は除 けて……」
ト言懸ける折しも、官員風の男が十 ばかりになる女の子の手を引いて来蒐 ッて、両人 の容子を不思議そうにジロジロ視ながら行過ぎてしまッた。昇は再び言葉を続 いで、
「戯談は除けて、幾程美しいと云ッたッてあんな娘にゃア、先方 もそうだろうけれども此方 も気が無い」
「気が無いから横目なんぞ遣いはなさらなかッたのネー」
「マアサお聞きなさい。あの娘ばかりには限らない、どんな美しいのを視たッても気移りはしない。我輩には『アイドル』(本尊)が一人有るから」
「オヤそう、それはお芽出度う」
「ところが一向お芽出度く無い事サ、所謂 鮑 の片思いでネ。此方 はその『アイドル』の顔が視たいばかりで、気まりの悪いのも堪 えて毎日々々その家へ遊びに往けば、先方 じゃ五月蠅 と云ッたような顔をして口も碌々 きかない」
トあじな眼付をしてお勢の貌をジッと凝視 めた。その意を暁 ッたか暁らないか、お勢は唯ニッコリして、
「厭な『アイドル』ですネ、オホホホ」
「シカシ考えて見れば此方 が無理サ、先方 には隠然亭主と云ッたような者が有るのだから。それに……」
「モウ何時でしょう」
「それに想 を懸けるは宜く無い宜く無いと思いながら、因果とまた思い断 る事が出来ない。この頃じゃ夢にまで見る」
「オヤ厭だ……モウ些 と彼地 の方へ行て見ようじゃ有りませんか」
「漸 くの思いで一所に物観遊山に出るとまでは漕付 は漕付たけれども、それもほんの一所に歩く而已 で、慈母 さんと云うものが始終傍 に附ていて見れば思う様に談話 もならず」
「慈母さんと云えば何を做 ているんだろうネー」
ト背後 を振返ッて観た。
「偶 好機会が有ッて言出せば、その通りとぼけておしまいなさるし、考えて見ればつまらんナ」
ト愚痴ッぽくいッた。
「厭ですよ、そんな戯談を仰しゃッちゃ」
ト云ッてお勢が莞爾々々 と笑いながら此方 を振向いて視て、些 し真面目 な顔をした。昇は萎 れ返ッている。
「戯談と聞かれちゃ填 まらない、こう言出すまでにはどの位苦しんだと思いなさる」
ト昇は歎息した。お勢は眼睛 を地上に注いで、黙然 として一語をも吐かなかッた。
「こう言出したと云ッて、何にも貴嬢 に義理を欠かして私 の望 を遂げようと云うのじゃア無いが、唯貴嬢の口から僅 一言、『断念 めろ』と云ッて戴 きたい。そうすりゃア私もそれを力に断然思い切ッて、今日ぎりでもう貴嬢にもお眼に懸るまい……ネーお勢さん」
お勢は尚お黙然としていて返答をしない。
「お勢さん」
ト云いながら昇が項垂 れていた首を振揚げてジッとお勢の顔を窺 き込めば、お勢は周章狼狽 してサッと顔を※ [#「赤+報のつくり」、96-9]らめ、漸く聞えるか聞えぬ程の小声で、
「虚言 ばッかり」
ト云ッて全く差俯向 いてしまッた。
「アハハハハハ」
ト突如 に昇が轟然 と一大笑を発したので、お勢は吃驚 して顔を振揚げて視て、
「オヤ厭だ……アラ厭だ……憎らしい本田さんだネー、真面目くさッて人を威 かして……」
ト云ッて悔しそうにでもなく恨めしそうにでもなく、謂 わば気まりが悪るそうに莞爾 笑ッた。
「お巫山戯 でない」
ト云う声が忽然 背後 に聞えたのでお勢が喫驚 して振返ッて視ると、母親が帯の間へ紙入を挿 みながら来る。
「大分 談判が難 かッたと見えますネ」
「大きにお待ち遠うさま」
ト云ッてお勢の顔を視て、
「お前、どうしたんだえ、顔を真赤にして」
ト咎 められてお勢は尚お顔を赤くして、
「オヤそう、歩いたら暖 かに成ッたもんだから……」
「マア本田さん聞ておくんなさい、真個 にあの児の銭遣 いの荒いのにも困りますよ。此間 ネ試験の始まる前に来て、一円前借して持ッてッたんですよ。それを十日も経たない内にもう使用 ッちまって、またくれろサ。宿所 ならこだわりを附けてやるんだけれども……」
「あんな事を云ッて虚言 ですよ、慈母 さんが小遣いを遣りたがるのよ、オホホホ」
ト無理に押出したような高笑をした。
「黙ッてお出で、お前の知ッた事 ちゃない……こだわりを附けて遣るんだけれども、途中だからと思ッてネ黙ッて五十銭出して遣ッたら、それんばかじゃ足らないから一円くれろと云うんですよ。そうそうは方図が無いと思ッてどうしても遣らなかッたらネ、不承々々に五十銭取ッてしまッてネ、それからまた今度は、明後日 お友達同志寄ッて飛鳥山 で饂飩会 とかを……」
「オホホホ」
この度 は真に可笑しそうにお勢が笑い出した。昇は荐 りに点頭 いて、
「運動会」
「そのうんどうかいとか蕎麦 買いとかをするからもう五十銭くれろッてネ、明日 取りにお出でと云ッても何と云ッても聞かずに持ッて往きましたがネ。それも宜いが、憎い事を云うじゃ有りませんか。私 が『明日お出でか』ト聞いたらネ、『これさえ貰えばもう用は無い、また無くなってから行く』ッて……」
「慈母さん、書生の運動会なら会費と云ッても高が十銭か二十銭位なもんですよ」
「エ、十銭か二十銭……オヤそれじゃ三十銭足駄を履かれたんだよ……」
ト云ッて昇の顔を凝視 めた。とぼけた顔であッたと見えて、昇もお勢も同時に
「オホホホ」
「アハハハ」
第八回 団子坂の観菊 下
お勢母子 の者の出向いた後 、文三は漸 く些 し沈着 て、徒然 と机の辺 に蹲踞 ッたまま腕を拱 み顋 を襟 に埋めて懊悩 たる物思いに沈んだ。
どうも気に懸る、お勢の事が気に懸る。こんな区々たる事は苦に病むだけが損だ損だと思いながら、ツイどうも気に懸ってならぬ。
凡 そ相愛 する二ツの心は、一体分身で孤立する者でもなく、又仕ようとて出来るものでもない。故 に一方 の心が歓ぶ時には他方 の心も共に歓び、一方 の心が悲しむ時には他方 の心も共に悲しみ、一方 の心が楽しむ時には他方 の心も共に楽み、一方 の心が苦しむ時には他方 の心も共に苦しみ、嬉笑 にも相感じ怒罵 にも相感じ、愉快適悦、不平煩悶 にも相感じ、気が気に通じ心が心を喚起 し決して齟齬 し扞格 する者で無い、と今日が日まで文三は思っていたに、今文三の痛痒 をお勢の感ぜぬはどうしたものだろう。
どうも気が知れぬ、文三には平気で澄ましているお勢の心意気が呑込 めぬ。
若 し相愛 していなければ、文三に親しんでから、お勢が言葉遣いを改め起居動作 を変え、蓮葉 を罷 めて優に艶 しく女性 らしく成る筈 もなし、又今年の夏一夕 の情話に、我から隔 の関を取除 け、乙な眼遣 をし麁匆 な言葉を遣って、折節に物思いをする理由 もない。
若し相愛 していなければ、婚姻 の相談が有った時、お勢が戯談 に托辞 けてそれとなく文三の肚 を探る筈もなし、また叔母と悶着 をした時、他人同前 の文三を庇護 って真実の母親と抗論する理由 もない。
「イヤ妄想 じゃ無い、おれを思っているに違いない……ガ……そのまた思ッているお勢が、そのまた死なば同穴と心に誓った形の影が、そのまた共に感じ共に思慮し共に呼吸生息する身の片割が、従兄弟 なり親友なり未来の……夫ともなる文三の鬱々 として楽まぬのを余所 に見て、行 かぬと云ッても勧めもせず、平気で澄まして不知顔 でいる而已 か、文三と意気 が合わねばこそ自家 も常居 から嫌 いだと云ッている昇如き者に伴われて、物観遊山 に出懸けて行く……
「解らないナ、どうしても解らん」
解らぬままに文三が、想像弁別の両刀を執ッて、種々 にしてこの気懸りなお勢の冷淡を解剖して見るに、何か物が有ってその中 に籠 っているように思われる、イヤ籠っているに相違ない。が、何だか地体は更に解らぬ。依てさらに又勇気を振起して唯この一点に注意を集め、傍目 も触らさず一心不乱に茲処 を先途 と解剖して見るが、歌人の所謂 箒木 で有りとは見えて、どうも解らぬ。文三は徐々 ジレ出した。スルト悪戯 な妄想奴 が野次馬に飛出して来て、アアでは無いかこうでは無いかと、真赤な贋物 、宛事 も無い邪推を掴 ませる。贋物だ邪推だと必ずしも見透かしているでもなく、又必ずしも居ないでもなく、ウカウカと文三が掴 ませられるままに掴んで、あえだり揉 だり円めたり、また引延ばしたりして骨を折て事実 にしてしまい、今目前にその事が出来 したように足掻 きつ□ きつ四苦八苦の苦楚 を甞 め、然 る後フト正眼 を得てさて観ずれば、何の事だ、皆夢だ邪推だ取越苦労だ。腹立紛れに贋物を取ッて骨灰微塵 と打砕き、ホッと一息吐 き敢えずまた穿鑿 に取懸り、また贋物を掴ませられてまた事実 にしてまた打砕き、打砕いてはまた掴み、掴んではまた打砕くと、何時 まで経 っても果 しも附かず、始終同じ所に而已 止ッていて、前へも進まず後へも退 かぬ。そして退いて能 く視 れば、尚お何物だか冷淡の中 に在ッて朦朧 として見透かされる。
文三ホッと精を尽かした。今はもう進んで穿鑿する気力も竭 き勇気も沮 んだ。乃 ち眼を閉じ頭顱 を抱えて其処 へ横に倒れたまま、五官を馬鹿にし七情の守 を解いて、是非も曲直も栄辱も窮達も叔母もお勢も我の吾 たるをも何もかも忘れてしまって、一瞬時なりともこの苦悩この煩悶を解脱 れようと力 め、良 暫 らくの間というものは身動もせず息気 をも吐かず死人の如くに成っていたが、倏忽 勃然 と跳起 きて、
「もしや本田に……」
ト言い懸けて敢て言い詰めず、宛然 何か捜索 でもするように愕然 として四辺 を環視 した。
それにしてもこの疑念は何処 から生じたもので有ろう。天より降ッたか地より沸いたか、抑 もまた文三の僻 みから出た蜃楼海市 か、忽然 として生じて思わずして来 り、恍々惚々 としてその来所 を知るに由 しなしといえど、何にもせよ、あれ程までに足掻 きつ□ きつして穿鑿しても解らなかった所謂 冷淡中の一物 を、今訳もなく造作もなくツイチョット突留めたらしい心持がして、文三覚えず身の毛が弥立 ッた。
とは云うものの心持は未 だ事実でない。事実から出た心持で無ければウカとは信を措 き難い。依て今までのお勢の挙動 を憶出 して熟思審察して見るに、さらにそんな気色 は見えない。成程お勢はまだ若い、血気も未 だ定らない、志操も或 は根強く有るまい。が、栴檀 は二葉 から馨 ばしく、蛇 は一寸にして人を呑む気が有る。文三の眼より見る時はお勢は所謂女豪 の萌芽 だ。見識も高尚 で気韻も高く、洒々落々 として愛すべく尊 ぶべき少女であって見れば、仮令 道徳を飾物にする偽君子 、磊落 を粧 う似而非 豪傑には、或は欺 かれもしよう迷いもしようが、昇如きあんな卑屈な軽薄な犬畜生にも劣った奴に、怪我にも迷う筈はない。さればこそ常から文三には信切でも昇には冷淡で、文三をば推尊していても昇をば軽蔑 している。相愛は相敬の隣に棲 む、軽蔑しつつ迷うというは、我輩人間の能く了解し得る事でない。
「シテ見れば大丈夫かしら……ガ……」
トまた引懸りが有る、まだ決徹 しない。文三周章 ててブルブルと首を振ッて見たが、それでも未 だ散りそうにもしない。この「ガ」奴 が、藕糸孔中 蚊睫 の間にも這入 りそうなこの眇然 たる一小「ガ」奴 が、眼の中 の星よりも邪魔になり、地平線上に現われた砲車一片の雲よりも畏 ろしい。
然り畏ろしい。この「ガ」の先にはどんな不了簡 が竊 まッているかも知れぬと思えば、文三畏ろしい。物にならぬ内に一刻も早く散らしてしまいたい。シカシ散らしてしまいたいと思うほど尚お散り難 る。しかも時刻の移るに随 ッて枝雲は出来る、砲車雲 は拡 がる、今にも一大颶風 が吹起りそうに見える。気が気で無い……
国許 より郵便が参ッた。散らし薬には崛竟 の物が参ッた。飢えた蒼鷹 が小鳥を抓 むのはこんな塩梅 で有ろうかと思う程に文三が手紙を引掴 んで、封目 を押切ッて、故意 と声高 に読み出したが、中頃に至ッて……フト黙して考えて……また読出して……また黙して……また考えて……遂 に天を仰いで轟然 と一大笑を発した。何を云うかと思えば、
「お勢を疑うなんぞと云ッて我 も余程 どうかしている、アハハハハ。帰ッて来たら全然 咄 して笑ッてしまおう、お勢を疑うなんぞと云ッて、アハハハハ」
この最後の大笑で砲車雲 は全く打払ッたが、その代り手紙は何を読んだのだか皆無 判 らない。
ハッと気を取直おして文三が真面目 に成ッて落着いて、さて再び母の手紙を読んで見ると、免職を知らせた手紙のその返辞で、老耋 の悪い耳、愚痴を溢 したり薄命を歎 いたりしそうなものの、文 の面 を見ればそんなけびらいは露程もなく、何もかも因縁 ずくと断念 めた思切りのよい文言 。シカシさすがに心細いと見えて、返えす書 に、跡で憶出して書加えたように薄墨で、
措 いて、黙然 として腕を拱 んだ。
叔母ですら愛想 を尽かすに、親なればこそ子なればこそ、ふがいないと云ッて愚痴をも溢さず茶断までして子を励ます、その親心を汲分 けては難有泪 に暮れそうなもの、トサ文三自分にも思ッたが、どうしたものか感涙も流れず、唯何 となくお勢の帰りが待遠しい。
「畜生、慈母 さんがこれ程までに思ッて下さるのに、お勢なんぞの事を……不孝極まる」
ト熱気 として自ら叱責 ッて、お勢の貌 を視るまでは外出 などを做 たく無いが、故意 と意地悪く、
「これから往って頼んで来よう」
ト口に言って、「お勢の帰って来ない内に」ト内心で言足しをして、憤々 しながら晩餐 を喫して宿所を立出 で、疾足 に番町 へ参って知己を尋ねた。
知己と云うは石田某 と云って某学校の英語の教師で、文三とは師弟の間繋 、曾 て某省へ奉職したのも実はこの男の周旋で。
この男は曾て英国に留学した事が有るとかで英語は一通り出来る。当人の噺 に拠 れば彼地 では経済学を修めて随分上出来の方で有ったと云う事で、帰朝後も経済学で立派に押廻わされるところでは有るが、少々仔細 有ッて当分の内(七八年来の当分の内で)、唯の英語の教師をしていると云う事で。
英国の学者社会に多人数 知己が有る中に、かの有名の「ハルベルト・スペンセル」とも曾て半面の識が有るが、シカシもう七八年も以前の事ゆえ、今面会したら恐らくは互に面忘 れをしているだろうと云う、これも当人の噺 で。
ともかくもさすがは留学しただけ有りて、英国の事情、即 ち上下 議院の宏壮 、竜動府 市街の繁昌、車馬の華美、料理の献立、衣服杖履 、日用諸雑品の名称等、凡 て閭巷猥瑣 の事には能 く通暁 していて、骨牌 を弄 ぶ事も出来、紅茶の好悪 を飲別ける事も出来、指頭で紙巻烟草 を製する事も出来、片手で鼻汁 を拭 く事も出来るが、その代り日本の事情は皆無解らない。
日本の事情は皆無解らないが当人は一向苦にしない。啻 苦にしないのみならず、凡そ一切の事一切の物を「日本の」トさえ冠詞が附けば則 ち鼻息でフムと吹飛ばしてしまって、そして平気で済ましている。
まだ中年の癖に、この男はあだかも老人の如くに過去の追想而已 で生活している。人に逢 えば必ず先 ず留学していた頃の手柄噺 を咄 し出す。尤 もこれを封じてはさらに談話 の出来ない男で。
知己の者はこの男の事を種々 に評判する。或 は「懶惰 だ」ト云い、或は「鉄面皮 だ」ト云い、或は「自惚 だ」ト云い、或は「法螺吹 きだ」と云う。この最後の説だけには新知故交統括 めて総起立、薬種屋の丁稚 が熱に浮かされたように「そうだ」トいう。
「シカシ、毒が無くッて宜 」と誰だか評した者が有ッたが、これは極めて確評で、恐らくは毒が無いから懶惰で鉄面皮で自惚で法螺を吹くので、ト云ッたら或は「イヤ懶惰で鉄面皮で自惚で法螺を吹くから、それで毒が無いように見えるのだ」ト云う説も出ようが、ともかくも文三はそう信じているので。
尋ねて見ると幸い在宿、乃 ち面会して委細を咄して依頼すると、「よろしい承知した」ト手軽な挨拶 。文三は肚 の裏 で、「毒がないから安請合をするが、その代り身を入れて周旋はしてくれまい」と思ッて私 に嘆息した。
「これが英国だと君一人位どうでもなるんだが、日本だからいかん。我輩こう見えても英国にいた頃は随分知己が有ったものだ。まず『タイムス』新聞の社員で某 サ、それから……」
ト記憶に存した知己の名を一々言い立てての噺、屡々 聞いて耳にタコが入 ッている程では有るが、イエそのお噺ならもう承りましたとも言兼ねて、文三も始めて聞くような面相 をして耳を借している。そのジレッタサもどかしさ、モジモジしながらトウトウ二時間ばかりというもの無間断 に受けさせられた。その受賃という訳でも有るまいが帰り際 になって、
「新聞の翻訳物が有るから周旋しよう。明後日 午後に来給 え、取寄せて置こう」
トいうから文三は喜びを述べた。
「フン新聞か……日本の新聞は英国の新聞から見りゃ全 で小児 の新聞だ、見られたものじゃない……」
文三は狼狽 てて告別 の挨拶を做直 おして□々 に戸外 へ立出で、ホッと一息溜息 を吐 いた。
早くお勢に逢いたい、早くつまらぬ心配をした事を咄してしまいたい、早く心の清い所を見せてやりたい、ト一心に思詰めながら文三がいそいそ帰宅して見るとお勢はいない。お鍋に聞けば、一旦 帰ってまた入湯に往ったという。文三些 し拍子抜 けがした。
居間へ戻ッて燈火を点じ、臥 て見たり起きて見たり、立て見たり坐ッて見たりして、今か今かと文三が一刻千秋の思いをして頸 を延ばして待構えていると、頓 て格子戸 の開く音がして、縁側に優しい声がして、梯子段 を上る跫音 がして、お勢が目前に現われた。と見れば常さえ艶 やかな緑の黒髪は、水気 を含んで天鵞絨 をも欺むくばかり、玉と透徹る肌 は塩引の色を帯びて、眼元にはホンノリと紅 を潮 した塩梅 、何処やらが悪戯 らしく見えるが、ニッコリとした口元の塩らしいところを見ては是非を論ずる遑 がない。文三は何もかも忘れてしまッて、だらしも無くニタニタと笑いながら、
「お皈 なさい。どうでした団子坂は」
「非常に雑沓 しましたよ、お天気が宜 のに日曜だッたもんだから」
ト言いながら膝 から先へベッタリ坐ッて、お勢は両手で嬌面 を掩 い、
「アアせつない、厭 だと云うのに本田さんが無理にお酒を飲まして」
「母親 さんは」
ト文三が尋ねた、お勢が何を言ッたのだかトント解らないようで。
「お湯から買物に回ッて……そしてネ自家 もモウ好加減に酔てる癖に、私が飲めないと云うとネ、助 けて遣 るッてガブガブそれこそ牛飲 したもんだから、究竟 にはグデングデンに酔てしまッて」
ト聞いて文三は満面の笑を半 引込ませた。
「それからネ、私共を家へ送込んでから、仕様が無いんですものヲ、巫山戯 て巫山戯て。それに慈母 さんも悪いのよ、今夜だけは大眼に看て置くなんぞッて云うもんだから好気 になって尚お巫山戯て……オホホホ」
ト思出し笑をして、
「真個 に失敬な人だよ」
文三は全く笑を引込ませてしまッて腹立しそうに、
「そりゃさぞ面白かッたでしょう」
ト云ッて顔を皺 めたが、お勢はさらに気が附かぬ様子。暫 らく黙然として何か考えていたが、頓 てまた思出し笑をして、
「真個に失敬な人だよ」
つまらぬ心配をした事を全然 咄 して、快よく一笑に付して、心の清いところを見せて、お勢に……お勢に……感信させて、そして自家 も安心しようという文三の胸算用は、ここに至ッてガラリ外れた。昇が酒を強 いた、飲めぬと云ッたら助 けた、何でも無い事。送り込んでから巫山戯 た……道学先生に聞かせたら巫山戯させて置くのが悪いと云うかも知れぬが、シカシこれとても酒の上の事、一時の戯 ならそう立腹する訳にもいかなかッたろう。要するにお勢の噺 に於 て深く咎 むべき節も無い。がシカシ文三には気に喰わぬ、お勢の言様 が気に喰わぬ。「昇如き犬畜生にも劣ッた奴の事を、そう嬉 しそうに『本田さん本田さん』ト噂 をしなくても宜さそうなものだ」トおもえばまた不平に成ッて、また面白く無くなッて、またお勢の心意気が呑込 めなく成ッた。文三は差俯向 いたままで黙然 として考えている。
「何をそんなに塞 いでお出でなさるの」
「何も塞いじゃいません」
「そう、私はまたお留 さん(大方老母が文三の嫁に欲しいと云ッた娘の名で)とかの事を懐出 して、それで塞いでお出でなさるのかと思ッたら、オホホホ」
文三は愕然としてお勢の貌を暫らく凝視 めて、ホッと溜息を吐いた。
「オホホホ溜息をして。やっぱり当ッたんでしょう、ネそうでしょう、オホホホ。当ッたもんだから黙ッてしまッて」
「そんな気楽じゃ有りません。今日母の所から郵便が来たから読 で見れば、私のこういう身に成ッたを心配して、この頃じゃ茶断して願掛けしているそうだシ……」
「茶断して、慈母さんが、オホホホ。慈母さんもまだ旧弊だ事ネー」
文三はジロリとお勢を尻眼 に懸けて、恨めしそうに、
「貴嬢 にゃ可笑 しいか知らんが私 にゃさっぱり可笑しく無い。薄命とは云いながら私の身が定 らんばかりで、老耋 ッた母にまで心配掛けるかと思えば、随分……耐 らない。それに慈母さんも……」
「また何とか云いましたか」
「イヤ何とも仰 しゃりはしないが、アレ以来始終気不味 い顔ばかりしていて打解けては下さらんシ……それに……それに……」
「貴嬢 も」ト口頭 まで出たが、どうも鉄面皮 しく嫉妬 も言いかねて思い返してしまい、
「ともかくも一日も早く身を定 めなければ成らぬと思ッて、今も石田の所へ往ッて頼んでは来ましたが、シカシこれとても宛にはならんシ、実に……弱りました。唯私一人苦しむのなら何でもないが、私の身が定 らぬ為めに『方々 』が我他彼此 するので誠に困る」
ト萎 れ返ッた。
「そうですネー」
ト今まで冴 えに冴えていたお勢もトウトウ引込まれて、共に気をめいらしてしまい、暫らくの間黙然としてつまらぬものでいたが、やがて小さな欠伸 をして、
「アア寐 むく成ッた、ドレもう往ッて寐ましょう。お休みなさいまし」
ト会釈 をして起上 ッてフト立止まり、
「アそうだッけ……文さん、貴君はアノー課長さんの令妹 を御存知」
「知りません」
「そう、今日ネ、団子坂でお眼に懸ッたの。年紀 は十六七でネ、随分別品 は……別品だッたけれども、束髪の癖にヘゲル程白粉 を施 けて……薄化粧なら宜けれども、あんなに施けちゃア厭味ッたらしくッてネー……オヤ好気なもんだ、また噺込 んでいる積りだと見えるよ。お休みなさいまし」
ト再び会釈してお勢は二階を降りてしまッた。
縁側で唯今帰ッたばかりの母親に出逢ッた。
「お勢」
「エ」
「エじゃないよ、またお前二階へ上ッてたネ」
また始まッたと云ッたような面相 をして、お勢は返答をもせずそのまま子舎 へ這入 ッてしまッた。
さて子舎へ這入ッてからお勢は手疾 く寐衣 に着替えて床へ這入り、暫らくの間臥 ながら今日の新聞を覧 ていたが……フト新聞を取落した。寐入ッたのかと思えばそうでもなく、眼はパッチリ視開 いている、その癖静まり返ッていて身動きをもしない。やがて、
「何故 アア不活溌 だろう」
ト口へ出して考えて、フト両足 を蹈延 ばして莞然 笑い、狼狽 てて起揚 ッて枕頭 の洋燈 を吹消してしまい、枕に就いて二三度臥反 りを打ッたかと思うと間も無くスヤスヤと寐入ッた。
第九回 すわらぬ肚
今日は十一月四日、打続いての快晴で空は余残 なく晴渡ッてはいるが、憂愁 ある身の心は曇る。文三は朝から一室 に垂籠 めて、独り屈托 の頭 を疾 ましていた。実は昨日 朝飯 の時、文三が叔母に対 て、一昨日 教師を番町に訪うて身の振方を依頼して来た趣を縷々 咄 し出したが、叔母は木然 として情寡 き者の如く、「ヘー」ト余所事 に聞流していてさらに取合わなかッた、それが未 だに気になって気になってならないので。
一時頃に勇 が帰宅したとて遊びに参ッた。浮世の塩を踏まぬ身の気散じさ、腕押、坐相撲 の噺 、体操、音楽の噂 、取締との議論、賄方 征討の義挙から、試験の模様、落第の分疏 に至るまで、凡 そ偶然に懐 に浮んだ事は、月足らずの水子 思想、まだ完成 ていなかろうがどうだろうがそんな事に頓着 はない、訥弁 ながらやたら無性に陳 べ立てて返答などは更に聞ていぬ。文三も最初こそ相手にも成ていたれ、遂 にはホッと精を尽かしてしまい、勇には随意に空気を鼓動さして置いて、自分は自分で余所事 を、と云たところがお勢の上や身の成行で、熟思黙想しながら、折々間外 れな溜息 噛交 ぜの返答をしていると、フトお勢が階子段 を上 ッて来て、中途から貌 而已 を差出して、
「勇」
「だから僕 ア議論して遣 ッたんだ。ダッテ君、失敬じゃないか。『ボート』の順番を『クラッス』(級)の順番で……」
「勇と云えば。お前の耳は木くらげかい」
「だから何だと云ッてるじゃ無いか」
「綻 を縫てやるからシャツをお脱ぎとよ」
勇はシャツを脱ぎながら、
「『クラッス』の順番で定 めると云うんだもの、『ボート』の順番を『クラッス』の順番で定めちゃア、僕ア何だと思うな、僕ア失敬だと思うな。だって君、『ボート』は……」
「さッさとお脱ぎで無いかネー、人が待ているじゃ無いか」
「そんなに急がなくッたッて宜 やアネ、失敬な」
「誰方 が失敬だ……アラあんな事言ッたら尚 お故意 と愚頭々々 しているよ。チョッ、ジレッタイネー、早々 としないと姉さん知らないから宜 い」
「そんな事云うなら Bridle path と云う字を知てるか、I was at our uncle's ト云う事知てるか、I will keep your ……」
「チョイとお黙り……」
ト口早に制して、お勢が耳を聳 てて何か聞済まして、忽 ち満面に笑 を含んでさも嬉 しそうに、
「必 と本田さんだよ」
ト言いながら狼狽 てて梯子段 を駈下 りてしまッた。
「オイオイ姉さん、シャツを持ッてッとくれッてば……オイ……ヤ失敬な、モウ往 ちまッた。渠奴 近頃生意気になっていかん。先刻 も僕ア喧嘩 して遣たんだ。婦人 の癖に園田勢子と云う名刺 を拵 らえるッてッたから、お勢ッ子で沢山だッてッたら、非常に憤 ッたッけ」
「アハハハハ」
ト今まで黙想していた文三が突然無茶苦茶に高笑を做出 したが、勿論 秋毫 も可笑 しそうでは無かッた。シカシ少年の議論家は称讃 されたのかと思ッたと見えて、
「お勢ッ子で沢山だ、婦人の癖にいかん、生意気で」
ト云いながら得々として二階を降りて往た。跡で文三は暫 らくの間また腕を拱 んで黙想していたが、フト何か憶出 したような面相 をして、起上 ッて羽織だけを着替えて、帽子を片手に二階を降りた。
奥の間の障子を開けて見ると、果して昇が遊 に来ていた。しかも傲然 と火鉢 の側 に大胡坐 をかいていた。その傍 にお勢がベッタリ坐ッて、何かツベコベと端手 なく囀 ッていた。少年の議論家は素肌 の上に上衣 を羽織ッて、仔細 らしく首を傾 げて、ふかし甘薯 の皮を剥 いてい、お政は囂々 しく針箱を前に控えて、覚束 ない手振りでシャツの綻 を縫合わせていた。
文三の顔を視 ると、昇が顔で電光 を光らせた、蓋 し挨拶 の積 で。お勢もまた後方 を振反ッて顧 は顧たが、「誰かと思ッたら」ト云わぬばかりの索然とした情味の無い面相 をして、急にまた彼方 を向いてしまッて、
「真個 」
ト云いながら、首を傾げてチョイと昇の顔を凝視 めた光景 。
「真個さ」
「虚言 だと聴きませんよ」
アノ筋の解らない他人の談話 と云う者は、聞いて余り快くは無いもので。
「チョイと番町まで」ト文三が叔母に会釈 をして起上 ろうとすると、昇が、
「オイ内海、些 し噺が有る」
「些 と急ぐから……」
「此方 も急ぐんだ」
文三はグット視下ろす、昇は視上げる、眼と眼を疾視合 わした、何だか異 な塩梅 で。それでも文三は渋々ながら坐舗 へ這入 ッて坐に着いた。
「他の事でも無いんだが」
ト昇がイヤに冷笑しながら咄し出した。スルトお政はフト針仕事の手を止 めて不思議そうに昇の貌 を凝視 めた。
「今日役所での評判に、この間免職に成た者の中 で二三人復職する者が出来るだろうと云う事だ。そう云やア課長の談話に些し思当る事も有るから、或 は実説だろうかと思うんだ。ところで我輩考えて見るに、君が免職になったので叔母さんは勿論お勢さんも……」
ト云懸けてお勢を尻眼 に懸けてニヤリと笑ッた。お勢はお勢で可笑 しく下唇 を突出して、ムッと口を結んで、額 で昇を疾視付 けた。イヤ疾視付ける真似 をした。
「お勢さんも非常に心配してお出 でなさるシ、かつ君だッてもナニモ遊 んでいて食えると云う身分でも有るまいシするから、若 し復職が出来ればこの上も無いと云ッたようなもんだろう。ソコデ若し果してそうならば、宜 しく人の定 らぬ内に課長に呑込 ませて置く可 しだ。がシカシ君の事 たから今更直付 けに往 き難 いとでも思うなら、我輩一臂 の力を仮しても宜しい、橋渡 をしても宜しいが、どうだお思食 は」
「それは御信切……難有 いが……」
ト言懸けて文三は黙してしまった。迷惑は匿 しても匿し切れない、自 ら顔色 に現われている。モジ付く文三の光景 を視て昇は早くもそれと悟ッたか、
「厭 かネ、ナニ厭なものを無理に頼んで周旋しようと云うんじゃ無いから、そりゃどうとも君の随意サ、ダガシカシ……痩 我慢なら大抵にして置く方が宜かろうぜ」
文三は血相を変えた……
「そんな事仰 しゃるが無駄 だよ」
トお政が横合から嘴 を容 れた。
「内の文さんはグッと気位が立上ってお出でだから、そんな卑劣 な事ア出来ないッサ」
「ハハアそうかネ、それは至極お立派な事 た。ヤこれは飛 だ失敬を申し上げました、アハハハ」
ト聞くと等しく文三は真青 に成ッて、慄然 と震え出して、拳 を握ッて歯を喰切 ッて、昇の半面をグッと疾視付 けて、今にもむしゃぶり付きそうな顔色をした……が、ハッと心を取直して、
「エヘヘヘヘ」
何となく席がしらけた。誰も口をきかない。勇がふかし甘薯 を頬張 ッて、右の頬を脹 らませながら、モッケな顔をして文三を凝視 めた。お勢もまた不思議そうに文三を凝視めた。
「お勢が顔を視ている……このままで阿容々々 と退 くは残念、何か云ッて遣りたい、何かコウ品の好 い悪口雑言、一言 の下 に昇を気死 させる程の事を云ッて、アノ鼻頭 をヒッ擦 ッて、アノ者面 を※ [#「赤+報のつくり」、117-7]らめて……」トあせるばかりで凄 み文句は以上見附からず、そしてお勢を視れば、尚 お文三の顔を凝視めている……文三は周章狼狽 とした……
「モウそ……それッきりかネ」
ト覚えず取外して云って、我ながら我音声の変ッているのに吃驚 した。
「何が」
またやられた。蒼 ざめた顔をサッと※[#「赤+報のつくり」、117-12]らめて文三が、
「用事は……」
「ナニ用事……ウー用事か、用事と云うから判 らない……さよう、これッきりだ」
モウ席にも堪えかねる。黙礼するや否 や文三が蹶然 起上 ッて坐舗を出て二三歩すると、後 の方でドッと口を揃 えて高笑いをする声がした。文三また慄然 と震えてまた蒼ざめて、口惜 しそうに奥の間の方を睨詰 めたまま、暫らくの間釘付 けに逢 ッたように立在 でいたが、やがてまた気を取直おして悄々 と出て参ッた。
が文三無念で残念で口惜しくて、堪え切れぬ憤怒の気がカッとばかりに激昂 したのをば無理無体に圧着 けた為めに、発しこじれて内攻して胸中に磅□ 鬱積する、胸板が張裂ける、腸 が断絶 れる。
無念々々、文三は耻辱 を取ッた。ツイ近属 と云ッて二三日前までは、官等に些 とばかりに高下は有るとも同じ一課の局員で、優 り劣りが無ければ押しも押されもしなかッた昇如き犬自物 の為めに耻辱を取ッた、然 り耻辱を取ッた。シカシ何の遺恨が有ッて、如何 なる原因が有ッて。
想 うに文三、昇にこそ怨 はあれ、昇に怨みられる覚えは更にない。然るに昇は何の道理も無く何の理由も無く、あたかも人を辱 める特権でも有 ているように、文三を土芥 の如くに蔑視 して、犬猫の如くに待遇 ッて、剰 え叔母やお勢の居る前で嘲笑 した、侮辱した。
復職する者が有ると云う役所の評判も、課長の言葉に思当る事が有ると云うも、昇の云う事なら宛 にはならぬ。仮令 それ等は実説にもしろ、人の痛いのなら百年も我慢すると云う昇が、自家 の利益を賭物 にして他人の為めに周旋しようと云う、まずそれからが呑込めぬ。
仮りに一歩を譲ッて、全く朋友 の信実心からあの様な事を言出したとしたところで、それならそれで言様 が有る。それを昇は、官途を離れて零丁孤苦 、みすぼらしい身に成ッたと云ッて文三を見括 ッて、失敬にも無礼にも、復職が出来たらこの上が無かろうト云ッた。
それも宜しいが、課長は昇の為めに課長なら、文三の為めにもまた課長だ。それを昇は、あだかも自家 一個 の課長のように、課長々々とひけらかして、頼みもせぬに「一臂 の力を仮してやろう、橋渡しをしてやろう」と云ッた。
疑いも無く昇は、課長の信用、三文不通の信用、主人が奴僕 に措く如き信用を得ていると云ッて、それを鼻に掛けているに相違ない。それも己 一個 で鼻に掛けて、己 一個 でひけらかして、己 と己 が愚 を披露 している分の事なら空家で棒を振ッたばかり、当り触りが無ければ文三も黙ッてもいよう、立腹もすまいが、その三文信用を挟 んで人に臨んで、人を軽蔑して、人を嘲弄 して、人を侮辱するに至ッては文三腹に据 えかねる。
面と向ッて図 大柄 に、「痩我慢なら大抵にしろ」と昇は云ッた。
痩我慢々々々、誰が痩我慢していると云ッた、また何を痩我慢していると云ッた。
俗務をおッつくねて、課長の顔色を承 けて、強 て笑ッたり諛言 を呈したり、四 ン這 に這廻わッたり、乞食 にも劣る真似をして漸 くの事で三十五円の慈恵金 に有附いた……それが何処 が栄誉になる。頼まれても文三にはそんな卑屈な真似は出来ぬ。それを昇は、お政如き愚痴無知の婦人に持長 じられると云ッて、我程 働き者はないと自惚 てしまい、しかも廉潔 な心から文三が手を下げて頼まぬと云えば、嫉 み妬 みから負惜しみをすると臆測 を逞 うして、人も有ろうにお勢の前で、
「痩我慢なら大抵にしろ」
口惜しい、腹が立つ。余 の事はともかくも、お勢の目前で辱められたのが口惜しい。
「しかも辱められるままに辱められていて、手出 もしなかッた」
ト何処でか異 な声が聞えた。
「手出がならなかッたのだ、手出がなっても為得 なかッたのじゃない」
ト文三憤然 として分疏 を為出 した。
「我 だッて男児だ、虫も有る胆気も有る。昇なんぞは蚊蜻蛉 とも思ッていぬが、シカシあの時憖 じ此方 から手出をしては益々向うの思う坪に陥 ッて玩弄 されるばかりだシ、かつ婦人の前でも有ッたから、為難 い我慢もして遣ッたんだ」
トは知らずしてお勢が、怜悧 に見えても未惚女 の事なら、蟻 とも螻 とも糞中 の蛆 とも云いようのない人非人、利の為 めにならば人糞をさえ甞 めかねぬ廉耻 知らず、昇如き者の為めに文三が嘲笑されたり玩弄されたり侮辱されたりしても手出をもせず阿容々々 として退 いたのを視て、或 は不甲斐 ない意久地が無いと思いはしなかッたか……仮令 お勢は何とも思わぬにしろ、文三はお勢の手前面目ない、耻 かしい……
「ト云うも昇、貴様から起ッた事だぞ、ウヌどうするか見やがれ」
ト憤然 として文三が拳を握ッて歯を喰切 ッて、ハッタとばかりに疾視付 けた。疾視付けられた者は通りすがりの巡査で、巡査は立止ッて不思議そうに文三の背長 を眼分量に見積ッていたが、それでも何とも言わずにまた彼方 の方へと巡行して往ッた。
愕然 として文三が、夢の覚めたような面相 をしてキョロキョロと四辺 を環視 わして見れば、何時 の間にか靖国 神社の華表際 に鵠立 でいる。考えて見ると、成程俎橋 を渡ッて九段坂を上ッた覚えが微 に残ッている。
乃 ち社内へ進入 ッて、左手の方の杪枯 れた桜の樹の植込みの間へ這入ッて、両手を背後に合わせながら、顔を皺 めて其処此処 と徘徊 き出した。蓋 し、尋ねようと云う石田の宿所は後門 を抜ければツイ其処では有るが、何分にも胸に燃す修羅苦羅 の火の手が盛 なので、暫らく散歩して余熱 を冷ます積りで。
「シカシ考えて見ればお勢も恨みだ」
ト文三が徘徊 きながら愚痴を溢 し出した。
「現在自分の……我 が、本田のような畜生に辱められるのを傍観していながら、悔しそうな顔もしなかッた……平気で人の顔を視ていた……」
「しかも立際に一所に成ッて高笑いをした」ト無慈悲な記臆が用捨なく言足 をした。
「そうだ高笑いをした……シテ見れば弥々 心変りがしているかしらん……」
ト思いながら文三が力無さそうに、とある桜の樹の下 に据え付けてあッたペンキ塗りの腰掛へ腰を掛ける、と云うよりは寧 ろ尻餅 を搗 いた。暫らくの間は腕を拱 んで、顋 を襟 に埋 めて、身動きをもせずに静 り返ッて黙想していたが、忽 ちフッと首を振揚げて、
「ヒョットしたらお勢に愛想 を尽かさして……そして自家 の方に靡 びかそうと思ッて……それで故意 と我 を……お勢のいる処で我を……そういえばアノ言様 、アノ……お勢を視た眼付き……コ、コ、コリャこのままには措けん……」
ト云ッて文三は血相を変えて突起上 ッた。
がどうしたもので有ろう。
何かコウ非常な手段を用いて、非常な豪胆を示して、「文三は男児だ、虫も胆気もこの通り有る、今まで何と言われても笑ッて済ましていたのはな、全く恢量大度 だからだぞ、無気力だからでは無いぞ」ト口で言わんでも行為 で見付 けて、昇の胆 を褫 ッて、叔母の睡 を覚まして、若し愛想を尽かしているならばお勢の信用をも買戻して、そして……そして……自分も実に胆気が有ると……確信して見たいが、どうしたもので有ろう。
思うさま言ッて言ッて言いまくッて、そして断然絶交する……イヤイヤ昇も仲々口強馬 、舌戦は文三の得策でない。と云ッてまさか腕力に訴える事も出来ず、
「ハテどうしてくれよう」
ト殆 んど口へ出して云いながら、文三がまた旧 の腰掛に尻餅を搗いて熟々 と考込んだまま、一時間ばかりと云うものは静まり返ッていて身動きをもしなかッた。
「オイ内海君」
ト云う声が頭上 に響いて、誰だか肩を叩 く者が有る。吃驚 して文三がフッと貌 を振揚げて見ると、手摺 れて垢光 りに光ッた洋服、しかも二三カ所手痍 を負うた奴を着た壮年の男が、余程酩酊 していると見えて、鼻持のならぬ程の熟柿 臭い香 をさせながら、何時の間にか目前に突立ッていた。これは旧 と同僚で有ッた山口某 という男で、第一回にチョイト噂 をして置いたアノ山口と同人で、やはり踏外し連の一人。
「ヤ誰かと思ッたら一別以来だネ」
「ハハハ一別以来か」
「大分御機嫌 のようだネ」
「然り御機嫌だ。シカシ酒でも飲まんじゃー堪 らん。アレ以来今日で五日になるが、毎日酒浸しだ」
ト云ッてその証拠立の為めにか、胸で妙な間投詞を発して聞かせた。
「何故 またそう Despair を起したもんだネ」
「Despair じゃー無いが、シカシ君面白く無いじゃーないか。何等の不都合が有ッて我々共を追出したんだろう、また何等の取得が有ッてあんな庸劣 な奴ばかりを撰 んで残したのだろう、その理由が聞いて見たいネ」
ト真黒に成ッてまくし立てた。その貌を見て、傍 を通りすがッた黒衣の園丁らしい男が冷笑した。文三は些 し気まりが悪くなり出した。
「君もそうだが、僕だッても事務にかけちゃー……」
「些し小いさな声で咄 し給 え、人に聞える」
ト気を附けられて俄 に声を低めて、
「事務に懸けちゃこう云やア可笑 しいけれども、跡に残ッた奴等に敢 て多くは譲らん積りだ。そうじゃないか」
「そうとも」
「そうだろう」
ト乗地 に成ッて、
「然るに唯 一種事務外の事務を勉励しないと云ッて我々共を追出した、面白く無いじゃないか」
「面白く無いけれども、シカシ幾程 云ッても仕様が無いサ」
「仕様が無いけれども面白く無いじゃないか」
「トキニ、本田の云事だから宛にはならんが、復職する者が二三人出来るだろうと云う事だが、君はそんな評判を聞いたか」
「イヤ聞かない。ヘー復職する者が二三人」
「二三人」
山口は俄に口を鉗 んで何か黙考していたが、やがてスコシ絶望気味 で、
「復職する者が有ッても僕じゃ無い、僕はいかん、課長に憎まれているからもう駄目だ」
ト云ッてまた暫らく黙考して、
「本田は一等上ッたと云うじゃないか」
「そうだそうだ」
「どうしても事務外の事務の巧 なものは違ッたものだネ、僕のような愚直なものにはとてもアノ真似は出来ない」
「誰にも出来ない」
「奴の事だからさぞ得意でいるだろうネ」
「得意も宜いけれども、人に対 ッて失敬な事を云うから腹が立つ」
ト云ッてしまッてからアア悪い事を云ッたと気が附いたが、モウ取返しは附かない。
「エ失敬な事を、どんな事をどんな事を」
「エ、ナニ些し……」
「どんな事を」
「ナニネ、本田が今日僕に或人の所へ往ッてお髯 の塵 を払わないかと云ッたから、失敬な事を云うと思ッてピッタリ跳付 けてやッたら、痩我慢と云わんばかりに云やアがッた」
「それで君、黙ッていたか」
ト山口は憤然として眼睛 を据えて、文三の貌を凝視 めた。
「余程 やッつけて遣ろうかと思ッたけれども、シカシあんな奴の云う事を取上げるも大人気 ないト思ッて、赦 して置てやッた」
「そ、そ、それだから不可 、そう君は内気だから不可」
ト苦々しそうに冷笑 ッたかと思うと、忽ちまた憤然として文三の貌を疾視 んで、
「僕なら直ぐその場でブン打 ッてしまう」
「打 ぐろうと思えば訳は無いけれども、シカシそんな疎暴 な事も出来ない」
「疎暴だッて関 わんサ、あんな奴 は時々打 ぐッてやらんと癖になっていかん。君だから何だけれども、僕なら直ぐブン打ッてしまう」
文三は黙してしまッてもはや弁駁 をしなかッたが、暫らくして、
「トキニ君は、何だと云ッて此方 の方へ来たのだ」
山口は俄かに何か思い出したような面相 をして、
「アそうだッけ……一番町に親類が有るから、この勢でこれから其処へ往ッて金を借りて来ようと云うのだ。それじゃこれで別れよう、些 と遊びに遣ッて来給え。失敬」
ト自己 が云う事だけを饒舌 り立てて、人の挨拶 は耳にも懸けず急歩 に通用門の方へと行く。その後姿を目送 りて文三が肚の裏 で、
「彼奴 まで我 の事を、意久地なしと云わんばかりに云やアがる」
第十回 負るが勝
知己を番町の家に訪えば主人 は不在、留守居の者より翻訳物を受取ッて、文三が旧 と来た路 を引返して俎橋 まで来た頃はモウ点火 し頃で、町家では皆店頭洋燈 を点 している。「免職に成ッて懐淋 しいから、今頃帰るに食事をもせずに来た」ト思われるも残念と、つまらぬ所に力瘤 を入れて、文三はトある牛店へ立寄ッた。
この牛店は開店してまだ間もないと見えて見掛けは至極よかッたが、裏 へ這入 ッて見ると大違い、尤 も客も相応にあッたが、給事の婢 が不慣れなので迷惑 く程には手が廻わらず、帳場でも間違えれば出し物も後 れる。酒を命じ肉を命じて、文三が待てど暮らせど持て来ない、催促をしても持て来ない、また催促をしてもまた持て来ない、偶々 持て来れば後から来た客の所へ置いて行く。さすがの文三も遂 には肝癪 を起して、厳しく談じ付けて、不愉快不平な思いをして漸 くの事で食事を済まして、勘定を済まして、「毎度難有 御座い」の声を聞流して戸外 へ出た時には、厄落 しでもしたような心地がした。
両側の夜見世 を窺 きながら、文三がブラブラと神保町 の通りを通行した頃には、胸のモヤクヤも漸く絶え絶えに成ッて、どうやら酒を飲んだらしく思われて、昇に辱 められた事も忘れ、お勢の高笑いをした事をも忘れ、山口の言葉の気に障ッたのも忘れ、牛店の不快をも忘れて、唯 □顔 に当る夜風の涼味をのみ感じたが、シカシ長持はしなかッた。
宿所へ来た。何心なく文三が格子戸 を開けて裏 へ這入ると、奥坐舗 の方でワッワッと云う高笑いの声がする。耳を聳 てて能 く聞けば、昇の声もその中 に聞える……まだ居ると見える。文三は覚えず立止ッた。「若 しまた無礼を加えたら、モウその時は破れかぶれ」ト思えば荐 りに胸が浪 だつ。暫 らく鵠立 でいて、度胸を据 えて、戦争が初まる前の軍人の如くに思切ッた顔色 をして、文三は縁側へ廻 り出た。
奥坐舗を窺いて見ると、杯盤狼藉 と取散らしてある中に、昇が背なかに円 く切抜いた白紙 を張られてウロウロとして立ている、その傍 にお勢とお鍋が腹を抱えて絶倒している、が、お政の姿はカイモク見えない。顔を見合わしても「帰ッたか」ト云う者もなく、「叔母さんは」ト尋ねても返答をする者もないので、文三が憤々 しながらそのままにして行過ぎてしまうと、忽 ち後 の方で、
(昇)「オヤこんな悪戯 をしたネ」
(勢)「アラ私じゃ有りませんよ、アラ鍋ですよ、オホホホホ」
(鍋)「アラお嬢さまですよ、オホホホホ」
(昇)「誰も彼も無い、二人共敵手 だ。ドレまずこの肥満奴 から」
(鍋)「アラ私 じゃ有りませんよ、オホホホホ。アラ厭 ですよ……アラー御新造 さアん引[#「引」は小書き右寄せ]」
ト大声を揚げさせての騒動、ドタバタと云う足音も聞えた、オホホホと云う笑声も聞えた、お勢の荐 りに「引掻 てお遣 りよ、引掻て」ト叫喚 く声もまた聞えた。
騒動 に気を取られて、文三が覚えず立止りて後方 を振向く途端に、バタバタと跫音 がして、避ける間もなく誰だかトンと文三に衝当 ッた。狼狽 た声でお政の声で、
「オー危ない……誰だネーこんな所 に黙ッて突立ッてて」
「ヤ、コリャ失敬……文三です……何処 ぞ痛めはしませんでしたか」
お政は何とも言わずにツイと奥坐舗へ這入りて跡ピッシャリ。恨めしそうに跡を目送 ッて文三は暫らく立在 でいたが、やがて二階へ上ッて来て、まず手探りで洋燈 を点じて机辺 に蹲踞 してから、さて、
「実に淫哇 だ。叔母や本田は論ずるに足らんが、お勢が、品格々々と口癖に云ッているお勢が、あんな猥褻 な席に連 ッている……しかも一所に成ッて巫山戯 ている……平生の持論は何処へ遣ッた、何の為 めに学問をした、先自侮而後人侮レ之 、その位の事は承知しているだろう、それでいてあんな真似を……実に淫哇 だ。叔父の留守に不取締 が有ッちゃ我 が済まん、明日 厳しく叔母に……」
トまでは調子に連れて黙想したが、ここに至ッてフト今の我身を省みてグンニャリと萎 れてしまい、暫らくしてから「まずともかくも」ト気を替えて、懐中して来た翻訳物を取出して読み初めた。
鉗 んで、
「チョッ失敬極まる。我 の帰ッたのを知ッていながら、何奴 も此奴 も本田一人の相手に成ッてチヤホヤしていて、飯を喰ッて来たかと云う者も無い……アまた笑ッた、アリャお勢だ……弥々 心変りがしたならしたと云うが宜 、切れてやらんとは云わん。何の糞 、我 だッて男児だ、心変 のした者に……」
ハッと心附 て、また一越 調子高に、
聳 てた。□ わしく縁側を通る人の足音がして、暫らくすると梯子段 の下で洋燈をどうとかこうとか云うお鍋の声がしたが、それから後は粛然 として音沙汰 をしなくなった。何となく来客でもある容子 。
高笑いの声がする内は何をしている位は大抵想像が附たからまず宜かッたが、こう静 ッて見るとサア容子が解らない。文三些 し不安心に成ッて来た。「客の相手に叔母は坐舗へ出ている。お鍋も用がなければ可 し、有れば傍に附てはいない。シテ見ると……」文三は起ッたり居たり。
キット思付いた、イヤ憶出 した事が有る。今初まッた事では無いが、先刻から酔醒めの気味で咽喉 が渇く。水を飲めば渇 が歇 まるが、シカシ水は台所より外には無い。しこうして台所は二階には附いていない。故 に若し水を飲まんと欲せば、是非とも下坐舗へ降りざるを得ず。「折が悪いから何となく何だけれども、シカシ我慢しているも馬鹿気ている」ト種々 に分疏 をして、文三は遂 に二階を降りた。
台所へ来て見ると、小洋燈 が点 しては有るがお鍋は居ない。皿小鉢 の洗い懸けたままで打捨てて有るところを見れば、急に用が出来て遣 にでも往たものか。「奥坐舗は」と聞耳を引立てれば、ヒソヒソと私語 く声が聞える。全身の注意を耳一ツに集めて見たが、どうも聞取れない。ソコで竊 むが如くに水を飲んで、抜足をして台所を出ようとすると、忽ち奥坐舗の障子がサッと開いた。文三は振反 ッて見て覚えず立止ッた。お勢が開懸 けた障子に掴 まッて、出るでも無く出ないでもなく、唯此方 へ背を向けて立在 んだままで坐舗の裏 を窺 き込んでいる。
「チョイと茲処 へお出 で」
ト云うは慥 に昇の声。お勢はだらしもなく頭振 りを振りながら、
「厭サ、あんな事をなさるから」
「モウ悪戯 しないからお出でと云えば」
「厭」
「ヨーシ厭と云ッたネ」
「真個 か、其処 へ往 きましょうか」
ト、チョイと首を傾 げた。
「ア、お出で、サア……サア……」
「何方 の眼で」
「コイツメ」
ト確に起上 る真似。
オホホホと笑いを溢 しながら、お勢は狼狽 てて駈出して来て危 く文三に衝当ろうとして立止ッた。
「オヤ誰……文さん……何時 帰ッたの」
文三は何にも言わず、ツンとして二階へ上ッてしまッた。
その後 からお勢も続いて上ッて来て、遠慮会釈も無く文三の傍にベッタリ坐ッて、常よりは馴々 しく、しかも顔を皺 めて可笑 しく身体 を揺りながら、
「本田さんが巫山戯 て巫山戯て仕様がないんだもの」
ト鼻を鳴らした。
文三は恐ろしい顔色 をしてお勢の柳眉 を顰 めた嬌面 を疾視付 けたが、恋は曲物 、こう疾視付けた時でも尚 お「美は美だ」と思わない訳にはいかなかッた。折角の相好 もどうやら崩れそうに成ッた……が、はッと心附いて、故意 と苦々しそうに冷笑 いながら率方 を向いてしまッた。
折柄 梯子段を踏轟 かして昇が上ッて来た。ジロリと両人 の光景 を見るや否 や、忽ちウッと身を反らして、さも業山 そうに、
「これだもの……大切なお客様を置去りにしておいて」
「だッて貴君 があんな事をなさるもの」
「どんな事を」
ト言いながら昇は坐ッた。
「どんな事ッて、あんな事を」
「ハハハ、此奴 ア宜い。それじゃーあんな事ッてどんな事を、ソラいいたちこッこだ」
「そんなら云ッてもよう御座んすか」
「宜しいとも」
「ヨーシ宜しいと仰 しゃッたネ、そんなら云ッてしまうから宜い。アノネ文さん、今ネ、本田さんが……」
ト言懸けて昇の顔を凝視 めて、
「オホホホ、マアかにして上げましょう」
「ハハハ言えないのか、それじゃー我輩が代ッて噺 そう。『今ネ本田さんがネ……』」
「本田さん」
「私の……」
「アラ本田さん、仰しゃりゃー承知しないから宜い」
「ハハハ、自分から言出して置きながら、そうも亭主と云うものは恐 いものかネ」
「恐かア無いけれども私の不名誉になりますもの」
「何故 」
「何故と云ッて、貴君に凌辱 されたんだもの」
「ヤこれは飛でも無いことを云いなさる、唯チョイと……」
「チョイとチョイと本田さん、敢て一問を呈す、オホホホ。貴方は何ですネ、口には同権論者だ同権論者だと仰しゃるけれども、虚言 ですネ」
「同権論者でなければ何だと云うんでゲス」
「非同権論者でしょう」
「非同権論者なら」
「絶交してしまいます」
「エ、絶交してしまう、アラ恐ろしの決心じゃなアじゃないか、アハハハ。どうしてどうして我輩程熱心な同権論者は恐らくは有るまいと思う」
「虚言 仰しゃい。譬 えばネ熱心でも、貴君のような同権論者は私ア大嫌 い」
「これは御挨拶 。大嫌いとは情ない事を仰しゃるネ。そんならどういう同権論者がお好き」
「どう云うッてアノー、僕の好きな同権論者はネ、アノー……」
ト横眼で天井を眺 めた。
昇が小声で、
「文さんのような」
お勢も小声で、
「Yes ……」
ト微 かに云ッて、可笑しな身振りをして、両手を貌 に宛 てて笑い出した。文三は愕然 としてお勢を凝視 めていたが、見る間に顔色を変えてしまッた。
「イヨー妬 ます引[#「引」は小書き右寄せ]羨 ましいぞ引[#「引」は小書き右寄せ]。どうだ内海、エ、今の御託宣は。『文さんのような人が好きッ』アッ堪 らぬ堪らぬ、モウ今夜家 にゃ寝られん」
「オホホホホそんな事仰しゃるけれども、文さんのような同権論者が好きと云ッたばかりで、文さんが好きと云わないから宜いじゃ有りませんか」
「その分疏 闇 い闇い。文さんのような人が好きも文さんが好きも同じ事で御座います」
「オホホホホそんならばネ……アこうですこうです。私はネ文さんが好きだけれども、文さんは私が嫌いだから宜 じゃ有りませんか。ネー文さん、そうですネー」
「ヘン嫌いどころか好きも好き、足駄 穿 いて首ッ丈と云う念の入ッた落 こちようだ。些 し水層 が増そうものならブクブク往生しようと云うんだ。ナア内海」
文三はムッとしていて莞爾 ともしない。その貌をお勢はチョイと横眼で視て、
「あんまり貴君が戯談 仰しゃるものだから、文さん憤 ッてしまいなすッたよ」
「ナニまさか嬉 しいとも云えないもんだから、それであんな貌をしているのサ。シカシ、アア澄ましたところは内海も仲々好男子だネ、苦味ばしッていて。モウ些しあの顋 がつまると申分がないんだけれども、アハハハハ」
「オホホホ」
ト笑いながらお勢はまた文三の貌を横眼で視た。
「シカシそうは云うものの内海は果報者だよ。まずお勢さんのようなこんな」
ト、チョイとお勢の膝 を叩 いて、
「頗 る付きの別品、しかも実の有るのに想 い附かれて、叔母さんに油を取られたと云ッては保護 して貰 い、ヤ何だと云ッては保護して貰う、実に羨ましいネ。明治年代の丹治 と云うのはこの男の事だ。焼 て粉 にして飲んでしまおうか、そうしたら些 とはあやかるかも知れん、アハハハハ」
「オホホホ」
「オイ好男子、そう苦虫を喰潰 していずと、些 と此方 を向いてのろけ給 え。コレサ丹治君。これはしたり、御返答が無い」
「オホホホホ」
トお勢はまた作笑いをして、また横眼でムッとしている文三の貌を視て、
「アー可笑しいこと。余 り笑ッたもんだから咽喉が渇いて来た。本田さん、下へ往ッてお茶を入れましょう」
「マアもう些と御亭主さんの傍 に居て顔を視せてお上げなさい」
「厭 だネー御亭主さんなんぞッて。そんなら入れて茲処 へ持ッて来ましょうか」
「茶を入れて持て来る実が有るなら寧 そ水を持ッて来て貰いたいネ」
「水を、お砂糖入れて」
「イヤ砂糖の無い方が宜い」
「そんならレモン入れて来ましょうか」
「レモンが這入 るなら砂糖気 がチョッピリ有ッても宜いネ」
「何だネーいろんな事云ッて」
ト云いながらお勢は起上 ッて、二階を降りてしまッた。跡には両人 の者が、暫 らく手持無沙汰 と云う気味で黙然 としていたが、やがて文三は厭に落着いた声で、
「本田」
「エ」
「君は酒に酔ッているか」
「イイヤ」
「それじゃア些 し聞く事が有るが、朋友 の交 と云うものは互に尊敬していなければ出来るものじゃ有るまいネ」
「何だ、可笑しな事を言出したな。さよう、尊敬していなければ出来ない」
「それじゃア……」
ト云懸けて黙していたが、思切ッて些し声を震わせて、
「君とは暫らく交際していたが、モウ今夜ぎりで……絶交して貰いたい」
「ナニ絶交して貰いたいと……何だ、唐突千万な。何だと云ッて絶交しようと云うんだ」
「その理由は君の胸に聞て貰おう」
「可笑しく云うな、我輩少しも絶交しられる覚えは無い」
「フン覚えは無い、あれ程人を侮辱して置きながら」
「人を侮辱して置きながら。誰が、何時、何と云ッて」
「フフン仕様が無いな」
「君がか」
文三は黙然 として暫らく昇の顔を凝視 めていたが、やがて些し声高 に、
「何にもそうとぼけなくッたッて宜いじゃ無いか。君みたようなものでも人間と思うからして、即 ち廉耻 を知ッている動物と思うからして、人間らしく美しく絶交してしまおうとすれば、君は一度ならず二度までも人を侮辱して置きながら……」
「オイオイオイ、人に物を云うならモウ些 と解るように云って貰いたいネ。君一人位友人を失ッたと云ッてそんなに悲しくも無いから、絶交するならしても宜しいが、シカシその理由も説明せずして唯 無暗 に人を侮辱した侮辱したと云うばかりじゃ、ハアそうかとは云ッておられんじゃないか」
「それじゃ何故先刻 叔母やお勢 のいる前で、僕に『痩 我慢なら大抵にしろ』と云ッた」
「それがそんなに気に障ッたのか」
「当前 サ……何故今また僕の事を明治年代の丹治即ち意久地なしと云ッた」
「アハハハ弥々 腹筋 だ。それから」
「事に大小は有ッても理に巨細 は無い。痩我慢と云ッて侮辱したも丹治と云ッて侮辱したも、帰するところは唯 一の軽蔑 からだ。既に軽蔑心が有る以上は朋友の交際は出来ないものと認めたからして絶交を申出 したのだ。解ッているじゃないか」
「それから」
「但 しこうは云うようなものの、園田の家と絶交してくれとは云わん。からして今までのように毎日遊びに来て、叔母と骨牌 を取ろうが」
ト云ッて文三冷笑した。
「お勢 を芸娼妓 の如く弄 ぼうが」
ト云ッてまた冷笑した。
「僕の関係した事でないから、僕は何とも云うまい。だから君もそう落胆イヤ狼狽 して遁辞 を設ける必要も有るまい」
「フフウ嫉妬 の原素も雑 ッている。それから」
「モウこれより外に言う事も無い。また君も何にも言う必要も有るまいから、このまま下へ降りて貰いたい」
「イヤ言う必要が有る。冤罪 を被 ッてはこれを弁解する必要が有る。だからこのまま下へ降りる事は出来ない。何故痩我慢なら大抵にしろと『忠告』したのが侮辱になる。成程親友でないものにそう直言したならば侮辱したと云われても仕様が無いが、シカシ君と我輩とは親友の関繋 じゃ無いか」
「親友の間にも礼義は有る。然 るに君は面と向ッて僕に『痩我慢なら大抵にしろ』と云ッた。無礼じゃないか」
「何が無礼だ。『痩我慢なら大抵にしろ』と云ッたッけか、『大抵にした方がよかろうぜ』と云ッたッけか、何方 だッたかモウ忘れてしまッたが、シカシ何方 にしろ忠告だ。凡 そ忠告と云う者は――君にかぶれて哲学者振るのじゃアないが――忠告と云う者は、人の所行を非と認めるから云うもので、是 と認めて忠告を試みる者は無い。故 に若 し非を非と直言したのが侮辱になれば、総 の忠告と云う者は皆君の所謂 無礼なものだ。若しそれで君が我輩の忠告を怒 るのならば、我輩一言もない、謹 で罪を謝そう。がそうか」
「忠告なら僕は却 て聞く事を好む。シカシ君の言ッた事は忠告じゃない、侮辱だ」
「何故」
「若し忠告なら何故人のいる前で言ッた」
「叔母さんやお勢さんは内輪の人じゃないか」
「そりゃ内輪の者サ……内輪の者サ……けれども……しかしながら……」
文三は狼狽した。昇はその光景 を見て私 かに冷笑した。
「内輪な者だけれども、シカシ何にもアア口汚く言わなくッても好じゃないか」
「どうも種々に論鋒 が変化するから君の趣意が解りかねるが、それじゃア何か、我輩の言方即ち忠告の Manner が気に喰 わんと云うのか」
「勿論 Manner も気に喰 んサ」
「Manner が気に喰わないのなら改めてお断り申そう。君には侮辱と聞えたかも知れんが我輩は忠告の積りで言ッたのだ、それで宜かろう。それならモウ絶交する必要も有るまい、アハハハ」
文三は何と駁 して宜いか解らなくなッた、唯ムシャクシャと腹が立つ。風が宜ければさほどにも思うまいが、風が悪いので尚お一層腹が立つ。油汗を鼻頭 ににじませて、下唇 を喰締めながら、暫らくの間口惜 しそうに昇の馬鹿笑いをする顔を疾視 んで黙然としていた。
お勢が溢 れるばかりに水を盛ッた「コップ」を盆に載せて持ッて参ッた。
「ハイ本田さん」
「これはお待遠うさま」
「何ですと」
「エ」
「アノとぼけた顔」
「アハハハハ、シカシ余り遅かッたじゃないか」
「だッて用が有ッたんですもの」
「浮気でもしていやアしなかッたか」
「貴君 じゃ有るまいシ」
「我輩がそんなに浮気に見えるかネ……ドッコイ『課長さんの令妹』と云いたそうな口付をする。云えば此方 にも『文さん』ト云う武器が有るから直ぐ返討だ」
「厭な人だネー、人が何にも言わないのに邪推を廻わして」
「邪推を廻わしてと云えば」
ト文三の方を向いて、
「どうだ隊長、まだ胸に落んか」
「君の云う事は皆遁辞 だ」
「何故」
「そりゃ説明するに及ばん、Self -evident truth だ」
「アハハハ、とうとう Self-evident truth にまで達したか」
「どうしたの」
「マア聞いて御覧なさい、余程面白い議論が有るから」
ト云ッてまた文三の方を向いて、
「それじゃその方の口はまず片が附たと。それからしてもう一口の方は何だッけ……そうそう丹治丹治、アハハハ何故丹治と云ッたのが侮辱になるネ、それもやはり Self-evident truth かネ」
「どうしたの」
「ナニネ、先刻 我輩が明治年代の丹治と云ッたのが御気色 に障ッたと云ッて、この通り顔色まで変えて御立腹だ。貴嬢 の情夫 にしちゃア些 と野暮天すぎるネ」
「本田」
昇は飲かけた「コップ」を下に置いて、
「何でゲス」
「人を侮辱して置きながら、咎 められたと云ッて遁辞を設けて逃るような破廉耻 的の人間と舌戦は無益と認める。からしてモウ僕は何にも言うまいが、シカシ最初の『プロポーザル』(申出)より一歩も引く事は出来んから、モウ降りてくれ給え」
「まだそんな事を云ッてるのか、ヤどうも君も驚く可 き負惜しみだな」
「何だと」
「負惜しみじゃないか、君にももう自分の悪かッた事は解ッているだろう」
「失敬な事を云うな、降りろと云ッたら降りたが宜じゃないか」
「モウお罷 しなさいよ」
「ハハハお勢さんが心配し出した。シカシ真 にそうだネ、モウ罷した方が宜い。オイ内海、笑ッてしまおう。マア考えて見給え、馬鹿気切ッているじゃないか。忠告の仕方が気に喰わないの、丹治と云ッたが癪 に障るのと云ッて絶交する、全 で子供の喧嘩 のようで、人に対して噺 しも出来ないじゃないか。ネ、オイ笑ッてしまおう」
文三は黙ッている。
「不承知か、困ッたもんだネ。それじゃ宜ろしい、こうしよう、我輩が謝まろう。全くそうした深い考 が有ッて云ッた訳じゃないから、お気に障ッたら真平 御免下さい。それでよかろう」
文三はモウ堪え切れない憤 りの声を振上げて、
「降りろと云ッたら降りないか」
「それでもまだ承知が出来ないのか。それじゃ仕様がない、降りよう。今何を言ッても解らない、逆上 ッているから」
「何だと」
「イヤ此方の事だ。ドレ」
ト起上 る。
「馬鹿」
昇も些しムッとした趣きで、立止ッて暫らく文三を疾視付 けていたが、やがてニヤリと冷笑 ッて、
「フフン、前後忘却の体 か」
ト云いながら二階を降りてしまッた。お勢も続いて起上ッて、不思議そうに文三の容子 を振反ッて観ながら、これも二階を降りてしまッた。
跡で文三は悔しそうに歯を喰切 ッて、拳 を振揚げて机を撃ッて、
「畜生ッ」
梯子段 の下あたりで昇とお勢のドッと笑う声が聞えた。
第十一回 取付く島
翌朝朝飯の時、家内の者が顔を合わせた。お政は始終顔を皺 めていて口も碌々 聞かず、文三もその通り。独りお勢而已 はソワソワしていて更らに沈着 かず、端手 なく囀 ッて他愛 もなく笑う。かと思うとフト口を鉗 んで真面目 に成ッて、憶出 したように額越 しに文三の顔を眺 めて、笑うでも無く笑わぬでもなく、不思議そうな剣呑 そうな奇々妙々な顔色 をする。
食事が済む。お勢がまず起上 ッて坐舗 を出て、縁側でお鍋に戯 れて高笑をしたかと思う間も無く、忽 ち部屋の方で低声 に詩吟をする声が聞えた。
益々顔を皺めながら文三が続いて起上ろうとして、叔母に呼留められて又坐直 して、不思議そうに恐々 叔母の顔色を窺 ッて見てウンザリした。思做 かして叔母の顔は尖 ッている。
人を呼留めながら叔母は悠々 としたもので、まず煙草 を環 に吹くこと五六ぷく、お鍋の膳 を引終るを見済ましてさて漸 くに、
「他の事でも有りませんがネ、昨日 私がマア傍 で聞てれば――また余計なお世話だッて叱 られるかも知れないけれども――本田さんがアアやッて信切に言ておくんなさるものを、お前さんはキッパリ断ッておしまいなすッたが、ソリャモウお前さんの事 たから、いずれ先に何とか確乎 な見当 が無くッてあんな事をお言いなさりゃアすまいネ」
「イヤ何にも見当 が有ッてのどうのと云う訳じゃ有りませんが、唯 ……」
「ヘー、見当も有りもしないのに無暗 に辞 ッておしまいなすッたの」
「目的なしに断わると云ッては或 は無考 のように聞えるかも知れませんが、シカシ本田の言ッた事でもホンノ風評と云うだけで、ナニモ確に……」
縁側を通る人の跫音 がした。多分お勢が英語の稽古 に出懸 るので。改ッて外出をする時を除くの外は、お勢は大抵母親に挨拶 をせずして出懸る、それが習慣で。
「確にそうとも……」
「それじゃ何ですか、弥々 となりゃ御布告にでもなりますか」
「イヤそんな、布告なんぞになる気遣いは有りませんが」
「それじゃマア人の噂 を宛 にするほか仕様が無いと云ッたようなもんですネ」
「デスガ、それはそうですが、シカシ……本田なぞの言事は……」
「宛にならない」
「イヤそ、そ、そう云う訳でも有りませんが……ウー……シカシ……幾程 苦しいと云ッて……課長の所へ……」
「何ですとえ、幾程 苦しいと云ッて課長さんの所 へは往 けないとえ。まだお前さんはそんな気楽な事を言てお出 でなさるのかえ」
トお政が層 に懸ッて極付 けかけたので、文三は狼狽 てて、
「そ、そ、そればかりじゃ有りません……仮令 今課長に依頼して復職が出来たと云ッても、とても私 のような者は永くは続きませんから、寧 ろ官員はモウ思切ろうかと思います」
「官員はモウ思切る、フン何が何だか理由 が解りゃしない。この間お前さん何とお言いだ。私がこれからどうして行く積だと聞いたら、また官員の口でも探そうかと思ッてますとお言いじゃなかッたか。それを今と成ッて、モウ官員は思切る……左様 サ、親の口は干上ッても関 わないから、モウ官員はお罷 めなさるが宜いのサ」
「イヤ親の口が干上ッても関わないと云う訳じゃ有りませんが、シカシ官員ばかりが職業でも有りませんから、教師に成ッても親一人位は養えますから……」
「だから誰もそうはならないとは申しませんよ。そりゃお前さんの勝手だから、教師になと車夫 になと何になとお成 なさるが宜いのサ」
「デスガそう御立腹なすッちゃ私 も実に……」
「誰が腹を立 てると云いました。ナニお前さんがどうしようと此方 に関繋 の無い事だから誰も腹も背も立ちゃしないけれども、唯本田さんがアアやッて信切に言ッておくンなさるもんだから、周旋 て貰 ッて課長さんに取入ッて置きゃア、仮令 んば今度の復職とやらは出来ないでも、また先へよって何ぞれ角 ぞれお世話アして下さるまいものでも無いトネー、そうすりゃ、お前さんばかしか慈母 さんも御安心なさる事 たシ、それに……何だから『三方四方』円く納まる事 たから(この時文三はフット顔を振揚げて、不思議そうに叔母を凝視 めた)ト思ッて、チョイとお聞き申したばかしさ。けれども、ナニお前さんがそうした了簡方 ならそれまでの事サ」
両人共暫 らく無言。
「鍋」
「ハイ」
トお鍋が襖 を開けて顔のみを出した。見れば口をモゴ付かせている。
「まだ御膳 を仕舞わないのかえ」
「ハイ、まだ」
「それじゃ仕舞ッてからで宜 いからネ、何時 もの車屋へ往ッて一人乗一挺 誂 らえて来ておくれ、浜町 まで上下 」
「ハイ、それでは只今 直 に」
ト云ッてお鍋が襖を閉切 るを待兼ねていた文三が、また改めて叔母に向って、
「段々と承ッて見ますと、叔母さんの仰 しゃる事は一々御尤 のようでも有るシ、かつ私 一個 の強情から、母親 は勿論 叔母さんにまで種々 御心配を懸けまして甚 だ恐入りますから、今一応篤 と考えて見まして」
「今一応も二応も無いじゃ有りませんか、お前さんがモウ官員にゃならないと決めてお出でなさるんだから」
「そ、それはそうですが、シカシ……事に寄ッたら……思い直おすかも知れませんから……」
お政は冷笑しながら、
「そんならマア考えて御覧なさい。だがナニモ何ですよ、お前さんが官員に成ッておくんなさらなきゃア私どもが立往かないと云うんじゃ無いから、無理に何ですよ、勧めはしませんよ」
「ハイ」
「それから序 だから言ッときますがネ、聞けば昨夕 本田さんと何だか入組みなすったそうだけれども、そんな事が有ッちゃ誠に迷惑しますネ。本田さんはお前さんのお朋友 とは云いじょう、今じゃア家 のお客も同前の方だから」
「ハイ」
トは云ッたが、文三実は叔母が何を言ッたのだかよくは解らなかッた、些 し考え事が有るので。
「そりゃアア云う胸の広 い方だから、そんな事が有ッたと云ッてそれを根葉に有 ッて周旋 をしないとはお言いなさりゃすまいけれども、全体なら……マアそれは今言ッても無駄 だ、お前さんが腹を極 めてからの事にしよう」
ト自家撲滅 、文三はフト首を振揚げて、
「ハイ」
「イエネ、またの事にしましょう、と云う事サ」
「ハイ」
何だかトンチンカンで。
叔母に一礼して文三が起上ッて、そこそこに部屋へ戻ッて、室 の中央に突立 ッたままで坐りもせず、良 暫くの間と云うものは造付 けの木偶 の如くに黙然としていたが、やがて溜息 と共に、
「どうしたものだろう」
ト云ッて、宛然 雪達磨 が日の眼に逢 ッて解けるように、グズグズと崩れながらに坐に着いた。
何故 「どうしたものだろう」かとその理由 を繹 ねて見ると、概略 はまず箇様 で。
先頃免職が種で油を取られた時は、文三は一途 に叔母を薄情な婦人と思詰めて恨みもし立腹もした事では有るが、その後沈着 いて考えて見るとどうやら叔母の心意気が飲込めなくなり出した。
成程叔母は賢婦でも無い、烈女でもない、文三の感情、思想を忖度 し得ないのも勿論の事では有るが、シカシ菽麦 を弁ぜぬ程の痴女子 でもなければ自家独得の識見をも保着 している、論事矩 をも保着している、処世の法をも保着している。それでいて何故アア何の道理も無く何の理由もなく、唯文三が免職に成ッたと云うばかりで、自身も恐らくは無理と知り宛 無理を陳 べて一人で立腹して、また一人で立腹したとてまた一人で立腹して、罪も咎 も無い文三に手を杖 かして謝罪 さしたので有ろう。お勢を嫁 するのが厭 になってと或時 は思いはしたようなものの、考えて見ればそれも可笑 しい。二三分時 前までは文三は我女 の夫、我女は文三の妻と思詰めていた者が、免職と聞くより早くガラリ気が渝 ッて、俄 に配合 せるのが厭に成ッて、急拵 の愛想尽 かしを陳立 てて、故意に文三に立腹さしてそして娘と手を切らせようとした……どうも可笑しい。
こうした疑念が起ッたので、文三がまた叔母の言草、悔しそうな言様、ジレッタそうな顔色を一々漏らさず憶起 して、さらに出直おして思惟 して見て、文三は遂 に昨日 の非を覚 ッた。
叔母の心事を察するに、叔母はお勢の身の固まるのを楽みにしていたに相違ない。来年の春を心待に待ていたに相違ない。アノ帯をアアしてコノ衣服をこうしてと私 に胸算用をしていたに相違ない。それが文三が免職に成ッたばかりでガラリト宛 が外れたので、それで失望したに相違ない。凡 そ失望は落胆を生み落胆は愚痴を生む。「叔母の言艸 を愛想尽 かしと聞取ッたのは全く此方 の僻耳 で、或は愚痴で有ッたかも知れん」ト云う所に文三気が附いた。
こう気が附 て見ると文三は幾分か恨 が晴れた。叔母がそう憎くはなくなった、イヤ寧 ろ叔母に対して気の毒に成ッて来た。文三の今我 は故吾 でない、シカシお政の故吾も今我でない。
悶着 以来まだ五日にもならぬに、お政はガラリその容子 を一変した。勿論以前とてもナニモ非常に文三を親愛していた、手車に乗せて下へも措かぬようにしていたト云うでは無いが、ともかくも以前は、チョイと顔を見る眼元、チョイと物を云う口元に、真似て真似のならぬ一種の和気を帯びていたが、この頃は眼中には雲を懸けて口元には苦笑 を含んでいる。以前は言事がさらさらとしていて厭味気 が無かッたが、この頃は言葉に針を含めば聞て耳が痛くなる。以前は人我 の隔歴が無かッたが、この頃は全く他人にする。霽顔 を見せた事も無い、温語をきいた事も無い。物を言懸ければ聞えぬ風 をする事も有り、気に喰わぬ事が有れば目を側 てて疾視付 ける事も有り、要するに可笑しな処置振りをして見せる。免職が種の悶着はここに至ッて、沍 ててかじけて凝結し出した。
文三は篤実温厚な男、仮令 その人と為 りはどう有ろうとも叔母は叔母、有恩 の人に相違ないから、尊尚親愛して水乳 の如くシックリと和合したいとこそ願え、決して乖背 し□離 したいとは願わないようなものの、心は境に随 ッてその相を顕 ずるとかで、叔母にこう仕向けられて見ると万更好い心地もしない。好い心地もしなければツイ不吉な顔もしたくなる。が其処 は篤実温厚だけに、何時も思返してジッと辛抱している。蓋 し文三の身が極まらなければお勢の身も極まらぬ道理、親の事ならそれも苦労になろう。人世の困難に遭遇 て、独りで苦悩して独りで切抜けると云うは俊傑 の為 る事、並 や通途 の者ならばそうはいかぬがち。自心に苦悩が有る時は、必ずその由来する所を自身に求めずして他人に求める。求めて得なければ天命に帰してしまい、求めて得 れば則 ちその人を□嫉 する。そうでもしなければ自 ら慰める事が出来ない。「叔母もそれでこう辛 く当るのだな」トその心を汲分 けて、どんな可笑しな処置振りをされても文三は眼を閉 ッて黙ッている。
「が若 し叔母が慈母 のように我 の心を噛分 けてくれたら、若し叔母が心を和 げて共に困厄 に安んずる事が出来たら、我 ほど世に幸福な者は有るまいに」ト思ッて文三屡々 嘆息した。依 て至誠は天をも感ずるとか云う古賢 の格言を力にして、折さえ有れば力 めて叔母の機嫌 を取ッて見るが、お政は油紙に水を注ぐように、跳付 けて而已 いてさらに取合わず、そして独りでジレている。文三は針の筵 に坐ッたような心地。
シカシまだまだこれしきの事なら忍んで忍ばれぬ事も無いが、茲処 に尤も心配で心配で耐 られぬ事が一ツ有る。他 でも無い、この頃叔母がお勢と文三との間を関 ような容子が徐々 見え出した一事 で。尤も、今の内は唯お勢を戒めて今までのように文三と親しくさせないのみで、さして思切ッた処置もしないからまず差迫ッた事では無いが、シカシこのままにして捨置けば将来何等 な傷心恨 事が出来 するかも測られぬ。一念ここに至る毎 に、文三は我 も折れ気も挫 じけてそして胸膈 も塞 がる。
こう云う矢端 には得て疑心も起りたがる。縄麻 に蛇相 も生じたがる、株杭 に人想 の起りたがる。実在の苦境 の外に文三が別に妄念 から一苦界 を産み出して、求めてその中 に沈淪 して、あせッて□ いて極大 苦悩を甞 めている今日この頃、我慢勝他 が性質 の叔母のお政が、よくせきの事なればこそ我から折れて出て、「お前さんさえ我 を折れば、三方四方円く納まる」ト穏便をおもって言ッてくれる。それを無面目にも言破ッて立腹をさせて、我から我他彼此 の種子 を蒔 く……文三そうは為 たく無い。成ろう事なら叔母の言状を立ててその心を慰めて、お勢の縁をも繋 ぎ留めて、老母の心をも安めて、そして自分も安心したい。それで文三は先刻も言葉を濁して来たので、それで文三は今又屈托 の人と為 ッているので。
「どうしたものだろう」
ト文三再び我と我に相談を懸けた。
「寧 そ叔母の意見に就いて、廉耻も良心も棄ててしまッて、課長の所へ往ッて見ようかしらん。依頼さえして置けば、仮令 えば今が今どうならんと云ッても、叔母の気が安まる。そうすれば、お勢さえ心変りがしなければまず大丈夫と云うものだ。かつ慈母 さんもこの頃じゃア茶断 して心配してお出でなさるところだから、こればかりで犠牲 に成ッたと云ッても敢て小胆とは言われまい。コリャ寧 そ叔母の意見に……」
が猛然として省思すれば、叔母の意見に就こうとすれば厭でも昇に親まなければならぬ。昇とあのままにして置いて独り課長に而已 取入ろうとすれば、渠奴 必ず邪魔を入れるに相違ない。からして厭でも昇に親まなければならぬ。老母の為お勢の為めなら、或は良心を傷 けて自重の気を拉 いで課長の鼻息を窺 い得るかも知れぬが、如何 に窮したればと云ッて苦しいと云ッて、昇に、面と向ッて図 大柄 に「痩我慢なら大抵にしろ」ト云ッた昇に、昨夜も昨夜とて小児の如くに人を愚弄して、陽 に負けて陰 に復 り討に逢わした昇に、不倶戴天 の讎敵 、生ながらその肉を啖 わなければこの熱腸が冷されぬと怨みに思ッている昇に、今更手を杖 いて一着 を輸 する事は、文三には死しても出来ぬ。課長に取入るも昇に上手を遣 うも、その趣きは同じかろうが同じく有るまいが、そんな事に頓着 はない。唯是もなく非もなく、利もなく害もなく、昇に一着を輸する事は文三には死しても出来ぬ。
ト決心して見れば叔母の意見に負 かなければならず、叔母の意見に負くまいとすれば昇に一着を輸さなければならぬ。それも厭なりこれも厭なりで、二時間ばかりと云うものは黙坐して腕を拱 んで、沈吟して嘆息して、千思万考、審念熟慮して屈托して見たが、詮 ずる所は旧 の木阿弥 。
「ハテどうしたものだろう」
物皆終あれば古筵 も鳶 にはなりけり。久しく苦しんでいる内に文三の屈托も遂にその極度に達して、忽ち一ツの思案を形作ッた。所謂 思案とは、お勢に相談して見ようと云う思案で。
蓋し文三が叔母の意見に負きたくないと思うも、叔母の心を汲分けて見れば道理 な所もあるからと云い、叔母の苦 り切ッた顔を見るも心苦しいからと云うは少分 で、その多分は、全くそれが原因 でお勢の事を断念 らねばならぬように成行きはすまいかと危ぶむからで。故 に若しお勢さえ、天は荒れても地は老ても、海は枯 れても石は爛 れても、文三がこの上どんなに零落しても、母親がこの後どんな言 を云い出しても、決してその初 の志を悛 めないと定 ッていれば、叔母が面 を脹 らしても眼を剥出 しても、それしきの事なら忍びもなる。文三は叔母の意見に背 く事が出来る。既に叔母の意見に背く事が出来れば、モウ昇に一着を輸する必要もない。「かつ窮して乱するは大丈夫の為 るを愧 る所だ」
そうだそうだ、文三の病原はお勢の心に在る。お勢の心一ツで進退去就を決しさえすればイサクサは無い。何故最初から其処に心附かなかッたか、今と成ッて考えて見ると文三我ながら我が怪しまれる。
お勢に相談する、極めて上策。恐らくはこれに越す思案も有るまい。若しお勢が、小挫折に逢ッたと云ッてその節を移さずして、尚お未 だに文三の智識で考えて、文三の感情で感じて、文三の息気 で呼吸して、文三を愛しているならば、文三に厭な事はお勢にもまた厭に相違は有るまい。文三が昇に一着を輸する事を屑 と思わぬなら、お勢もまた文三に、昇に一着を輸させたくは有るまい。相談を懸けたら飛だ手軽ろく「母が何と云おうと関 やアしませんやアネ、本田なんぞに頼む事はお罷 しなさいよ」ト云ッてくれるかも知れぬ。またこの後 の所を念を押したら、恨めしそうに、「貴君 は私をそんな浮薄なものだと思ッてお出でなさるの」ト云ッてくれるかも知れぬ。お勢がそうさえ云ッてくれれば、モウ文三天下に懼 るる者はない。火にも這入 れる、水にも飛込める。況 んや叔母の意見に負く位の事は朝飯前の仕事、お茶の子さいさいとも思わない。
「そうだ、それが宜い」
ト云ッて文三起上 ッたが、また立止ッて、
「がこの頃の挙動 と云い容子 と云い、ヒョッとしたら本田に……何してはいないかしらん……チョッ関わん、若しそうならばモウそれまでの事だ。ナニ我 だッて男子だ、心渝 のした者に未練は残らん。断然手を切ッてしまッて、今度こそは思い切ッて非常な事をして、非常な豪胆を示して、本田を拉 しいで、そしてお勢にも……お勢にも後悔さして、そして……そして……そして……」
ト思いながら二階を降りた。
が此処が妙で、観菊行 の時同感せぬお勢の心を疑ッたにも拘 らず、その夜帰宅してからのお勢の挙動 を怪んだのにも拘らず、また昨日 の高笑い昨夜 のしだらを今以 て面白からず思ッているにも拘らず、文三は内心の内心では尚おまだお勢に於て心変りするなどと云うそんな水臭い事は無いと信じていた。尚おまだ相談を懸ければ文三の思う通りな事を云って、文三を励ますに相違ないと信じていた。こう信ずる理由が有るからこう信じていたのでは無くて、こう信じたいからこう信じていたので。
第十二回 いすかの嘴
文三が二階を降りて、ソットお勢の部屋の障子を開けるその途端 に、今まで机に頼杖 をついて何事か物思いをしていたお勢が、吃驚 した面相 をして些 し飛上ッて居住居 を直おした。顔に手の痕 の赤く残ッている所を観ると、久しく頬杖をついていたものと見える。
「お邪魔じゃ有りませんか」
「イイエ」
「それじゃア」
ト云いながら文三は部屋へ這入 ッて坐に着いて
「昨夜 は大 に失敬しました」
「私 こそ」
「実に面目が無い、貴嬢 の前をも憚 らずして……今朝その事で慈母 さんに小言を聞きました。アハハハハ」
「そう、オホホホ」
ト無理に押出したような笑い。何となく冷淡 い、今朝のお勢とは全で他人のようで。
「トキニ些し貴嬢に御相談が有る。他の事でも無いが、今朝慈母さんの仰 しゃるには……シカシもうお聞きなすッたか」
「イイエ」
「成程そうだ、御存知ない筈 だ……慈母さんの仰しゃるには、本田がアア信切に云ッてくれるものだから、橋渡しをして貰 ッて課長の所へ往 ッたらばどうだと仰しゃるのです。そりゃ成程慈母さんの仰しゃる通り今茲処 で私さえ我 を折れば私の身も極 まるシ、老母も安心するシ、『三方四方』(ト言葉に力瘤 を入れて)円く納まる事だから、私も出来る事ならそうしたいが、シカシそう為 ようとするには良心を締殺 さなければならん。課長の鼻息 を窺 わなければならん。そんな事は我々には出来んじゃ有りませんか」
「出来なければそれまでじゃ有りませんか」
「サ其処 です。私には出来ないが、シカシそうしなければ慈母さんがまた悪い顔をなさるかも知れん」
「母が悪い顔をしたッてそんな事は何だけれども……」
「エ、関 わんと仰しゃるのですか」
ト文三はニコニコと笑いながら問懸けた。
「だッてそうじゃ有りません。貴君 が貴君の考どおりに進退して良心に対して毫 しも耻 る所が無ければ、人がどんな貌 をしたッて宜 いじゃ有りませんか」
文三は笑いを停 めて、
「デスガ唯 慈母さんが悪い顔をなさるばかりならまだ宜いが、或 はそれが原因と成ッて……貴嬢にはどうかはしらんが……私の為 めには尤 も忌 むべき尤も哀 む可 き結果が生じはしないかと危ぶまれるから、それで私も困まるのです……尤もそんな結果が生ずると生じないとは貴嬢の……貴嬢の……」
ト云懸けて黙してしまッたが、やがて聞えるか聞えぬ程の小声で、
「心一ツに在る事だけれども……」
ト云ッて差俯向 いた、文三の懸けた謎々 が解けても解けない風 をするのか、それともどうだか其所 は判然しないが、ともかくもお勢は頗 る無頓着な容子 で、
「私にはまだ貴君の仰しゃる事がよく解りませんよ。何故 そう課長さんの所へ往 のがお厭 だろう。石田さんの所へ往てお頼みなさるも課長さんの所へ往てお頼みなさるも、その趣は同一じゃ有りませんか」
「イヤ違います」
ト云ッて文三は首を振揚げた。
「非常な差が有る、石田は私を知ているけれど課長は私を知らないから……」
「そりゃどうだか解りゃしませんやアネ、往て見ない内は」
「イヤそりゃ今までの経験で解ります、そりゃ掩 う可 らざる事実だから何だけれども……それに課長の所へ往こうとすれば、是非とも先 ず本田に依頼をしなければなりません、勿論 課長は私も知らない人じゃないけれども……」
「宜いじゃ有りませんか、本田さんに依頼したッて」
「エ、本田に依頼をしろと」
ト云ッた時は文三はモウ今までの文三でない、顔色 が些し変ッていた。
「命令するのじゃ有りませんがネ、唯依頼したッて宜いじゃ有りませんか、と云うの」
「本田に」
ト文三はあたかも我耳を信じないように再び尋ねた。
「ハア」
「あんな卑屈な奴に……課長の腰巾着 ……奴隷 ……」
「そんな……」
「奴隷と云われても耻とも思わんような、犬……犬……犬猫同前な奴に手を杖 いて頼めと仰しゃるのですか」
ト云ッてジッとお勢の顔を凝視 めた。
「昨夜 の事が有るからそれで貴君はそんなに仰しゃるんだろうけれども、本田さんだッてそんなに卑屈な人じゃ有りませんワ」
「フフン卑屈でない、本田を卑屈でない」
ト云ッてさも苦々しそうに冷笑 いながら顔を背 けたが、忽 ちまたキッとお勢の方を振向いて、
「何時 か貴嬢何と仰しゃッた、本田が貴嬢に対 ッて失敬な情談を言ッた時に……」
「そりゃあの時には厭な感じも起ッたけれども、能 く交際して見ればそんなに貴君のお言いなさるように破廉耻 の人じゃ有りませんワ」
文三は黙然 としてお勢の顔を凝視めていた、但 し宜 しくない徴候で。
「昨夜 もアレから下へ降りて、本田さんがアノー『慈母 さんが聞 と必 と喧 ましく言出すに違いない、そうすると僕は何だけれどもアノ内海が困るだろうから黙ッていてくれろ』と口止めしたから、私は何とも言わなかッたけれども鍋がツイ饒舌 ッて……」
「古狸奴 、そんな事を言やアがッたか」
「またあんな事を云ッて……そりゃ文さん、貴君が悪いよ。あれ程貴君に罵詈 されても腹も立てずにやっぱり貴君の利益を思ッて云う者を、それをそんな古狸なんぞッて……そりゃ貴君は温順だのに本田さんは活溌 だから気が合わないかも知れないけれども、貴君と気の合わないものは皆 破廉耻と極 ッてもいないから……それを無暗 に罵詈して……そんな失敬な事ッて……」
ト些し顔を※ [#「赤+報のつくり」、162-17]めて口早に云ッた。文三は益々腹立しそうな面相 をして、
「それでは何ですか、本田は貴嬢の気に入ッたと云うんですか」
「気に入るも入らないも無いけれども、貴君の云うようなそんな破廉耻な人じゃ有りませんワ……それを古狸なんぞッて無暗に人を罵詈して……」
「イヤ、まず私の聞く事に返答して下さい。弥々 本田が気に入ッたと云うんですか」
言様が些し烈 しかッた。お勢はムッとして暫 らく文三の容子をジロリジロリと視 ていたが、やがて、
「そんな事を聞いて何になさる。本田さんが私の気に入ろうと入るまいと、貴君の関係した事は無いじゃ有りませんか」
「有るから聞くのです」
「そんならどんな関係が有ります」
「どんな関係でもよろしい、それを今説明する必要は無い」
「そんなら私も貴君の問に答える必要は有りません」
「それじゃア宜ろしい、聞かなくッても」
ト云ッて文三はまた顔を背けて、さも苦々しそうに独語 のように、
「人に問詰められて逃るなんぞと云ッて、実にひ、ひ、卑劣極まる」
「何ですと、卑劣極まると……宜う御座んす、そんな事お言いなさるなら匿 したッて仕様がない、言てしまいます……言てしまいますとも……」
ト云ッてスコシ胸を突立 して、儼然 として、
「ハイ本田さんは私の気に入りました……それがどうしました」
ト聞くと文三は慄然 と震えた、真蒼 に成ッた……暫らくの間は言葉はなくて、唯恨めしそうにジッとお勢の澄ました顔を凝視 めていた、その眼縁 が見る見るうるみ出した……が忽ちはッと気を取直おして、儼然 と容 を改めて、震声 で、
「それじゃ……それじゃこうしましょう、今までの事は全然 ……水に……」
言切れない、胸が一杯に成て。暫らく杜絶 れていたが思い切ッて、
「水に流してしまいましょう……」
「何です、今までの事とは」
「この場に成てそうとぼけなくッても宜いじゃ有りませんか。寧 そ別れるものなら……綺麗 に……別れようじゃ……有りませんか……」
「誰がとぼけています、誰が誰に別れようと云うのです」
文三はムラムラとした。些し声高 に成ッて、
「とぼけるのも好加減になさい、誰が誰に別れるのだとは何の事です。今までさんざ人の感情を弄 んで置きながら、今と成て……本田なぞに見返えるさえ有るに、人が穏かに出れば附上 ッて、誰が誰に別れるのだとは何の事です」
「何ですと、人の感情を弄んで置きながら……誰が人の感情を弄びました……誰が人の感情を弄びましたよ」
ト云った時はお勢もうるみ眼に成っていた。文三はグッとお勢の顔を疾視付 けている而已 で、一語をも発しなかった。
「余 だから宜 い……人の感情を弄んだの本田に見返ったのといろんな事を云って讒謗 して……自分の己惚 でどんな夢を見ていたって、人の知た事 ちゃ有りゃしない……」
トまだ言終らぬ内に文三はスックと起上 って、お勢を疾視付 けて、
「モウ言う事も無い聞く事も無い。モウこれが口のきき納めだからそう思ってお出 でなさい」
「そう思いますとも」
「沢山……浮気をなさい」
「何ですと」
ト云った時にはモウ文三は部屋には居なかった。
「畜生……馬鹿……口なんぞ聞いてくれなくッたッて些 とも困りゃしないぞ……馬鹿……」
ト跡でお勢が敵手 も無いに独りで熱気 となって悪口 を並べ立てているところへ、何時の間に帰宅したかフと母親が這入って来た。
「どうしたんだえ」
「畜生……」
「どうしたんだと云えば」
「文三と喧嘩 したんだよ……文三の畜生と……」
「どうして」
「先刻 突然 這入ッて来て、今朝慈母 さんがこうこう言ッたがどうしようと相談するから、それから昨夜 慈母さんが言た通りに……」
「コレサ、静かにお言い」
「慈母さんの言た通りに云て勧めたら腹を立てやアがッて、人の事をいろんな事を云ッて」
ト手短かに勿論自分に不利な所はしッかい取除いて次第を咄 して、
「慈母さん、私ア口惜 しくッて口惜しくッてならないよ」
ト云ッて襦袢 の袖口 で泪 を拭 いた。
「フウそうかえ、そんな事を云ッたかえ。それじゃもうそれまでの事だ。あんな者 でも家大人 の血統 だから今と成てかれこれ言出しちゃ面倒臭 いと思ッて、此方 から折れて出て遣 れば附上ッて、そんな我儘 勝手を云う……モウ勘弁がならない」
ト云ッて些し考えていたが、やがてまた娘の方を向いて一段声を低めて、
「実はネ、お前にはまだ内々でいたけれども、家大人 はネ、行々はお前を文三に配合 せる積りでお出でなさるんだが、お前は……厭だろうネ」
「厭サ厭サ、誰があんな奴に……」
「必 とそうかえ」
「誰があんな奴 つに……乞食 したッてあんな奴のお嫁に成るもんか」
「その一言 をお忘れでないよ。お前が弥々 その気なら慈母さんも了簡が有るから」
「慈母さん、今日から私を下宿さしておくんなさいな」
「なんだネこの娘 は、藪 から棒に」
「だッて私ア、モウ文さんの顔を見るのも厭だもの」
「そんな事言ッたッて仕様が無いやアネ。マアもう些と辛抱してお出で、その内にゃ慈母さんが宜いようにして上るから」
この時はお勢は黙していた、何か考えているようで。
「これからは真個 に慈母さんの言事を聴いて、モウ余 り文三と口なんぞお聞きでないよ」
「誰が聞てやるもんか」
「文三ばかりじゃ無い、本田さんにだッてもそうだよ。あんなに昨夜 のように遠慮の無い事をお言いでないよ。ソリャお前の事だからまさかそんな……不埒 なんぞはお為 じゃ有るまいけれども、今が嫁入前で一番大事な時だから」
「慈母さんまでそんな事を云ッて……そんならモウこれから本田さんが来たッて口もきかないから宜い」
「口を聞くなじゃ無いが、唯昨夜 のように……」
「イイエイイエ、モウ口も聞かない聞かない」
「そうじゃ無いと云えばネ」
「イイエ、モウ口も聞かない聞かない」
ト頭振 りを振る娘の顔を視て、母親は、
「全 で狂気 だ。チョイと人が一言いえば直 に腹を立 てしまッて、手も附けられやアしない」
ト云い捨てて起上 ッて、部屋を出てしまッた。
[#改丁]
第三編
第十三回
心理の上から観 れば、智愚の別なく人咸 く面白味は有る。内海文三の心状を観れば、それは解ろう。
前回参看※[#白ゴマ点、169-10]文三は既にお勢に窘 められて、憤然として部屋へ駈戻 ッた。さてそれからは独り演劇 、泡 を噛 だり、拳 を握ッたり。どう考えて見ても心外でたまらぬ。「本田さんが気に入りました」それは一時の激語、も承知しているでもなく、又いないでも無い。から、強 ちそればかりを怒ッた訳でもないが、只 腹が立つ、まだ何か他 の事で、おそろしくお勢に欺 かれたような心地がして、訳もなく腹が立つ。
腹の立つまま、遂 に下宿と決心して宿所を出た。ではお勢の事は既にすッぱり思切ッているか、というに、そうではない、思切ッてはいない。思切ッてはいないが、思切らぬ訳にもゆかぬから、そこで悶々 する。利害得喪、今はそのような事に頓着無い。只己 れに逆らッてみたい、己れの望まない事をして見たい。鴆毒 ? 持ッて来い。甞 めてこの一生をむちゃくちゃにして見せよう!……
そこで宿所を出た。同じ下宿するなら、遠方がよいというので、本郷辺へ往 ッて尋ねてみたが、どうも無かッた。から、彼地 から小石川へ下りて、其処此処 と尋廻 るうちに、ふと水道町 で一軒見当てた。宿料も廉 、その割には坐舗 も清潔、下宿をするなら、まず此所等 と定めなければならぬ……となると文三急に考え出した。「いずれ考えてから、またそのうちに……」言葉を濁してその家 を出た。
「お勢と諍論 ッて家を出た――叔父が聞いたら、さぞ心持を悪くするだろうなア……」と歩きながら徐々 畏縮 だした。「と云ッて、どうもこのままには済まされん……思切ッて今の家に下宿しようか?……」
今更心が動く、どうしてよいか訳がわからない。時計を見れば、まだ漸 く三時半すこし廻わッたばかり。今から帰るも何となく気が進まぬ。から、彼所 から牛込見附 へ懸ッて、腹の屈托 を口へ出して、折々往来の人を驚かしながら、いつ来るともなく番町へ来て、例の教師の家を訪問 てみた。
折善くもう学校から帰ッていたので、すぐ面会した。が、授業の模様、旧生徒の噂 、留学、竜動 、「たいむす」、はッばァと、すぺんさあー――相変らぬ噺 で、おもしろくも何ともない。「私……事に寄ると……この頃に下宿するかも知れません」、唐突に宛 もない事を云ッてみたが、先生少しも驚かず、何故 かふむと鼻を鳴らして、只「羨 ましいな。もう一度そんな身になってみたい」とばかり。とんと方角が違う。面白くないから、また辞して教師の宅をも出てしまッた。
出た時の勢 に引替えて、すごすご帰宅したは八時ごろの事で有ッたろう。まず眼を配ッてお勢を探す。見えない、お勢が……棄てた者に用も何もないが、それでも、文三に云わせると、人情というものは妙なもので、何となく気に懸るから、火を持ッて上ッて来たお鍋にこッそり聞いてみると、お嬢さまは気分が悪いと仰 しゃッて、御膳 も碌 に召上らずに、モウお休みなさいました、という。
「御膳も碌に?……」
「御膳も碌に召しやがらずに」
確められて文三急に萎 れかけた……が、ふと気をかえて、「ヘ、ヘ、ヘ、御膳も召上らずに……今に鍋焼饂飩 でも喰 たくなるだろう」
おかしな事をいうとは思ッたが、使に出ていて今朝の騒動を知らないから、お鍋はそのまま降りてしまう。
と、独りになる。「ヘ、ヘ、ヘ」とまた思出して冷笑 ッた……が、ふと心附いてみれば、今はそんな、つまらぬ、くだらぬ、薬袋 も無い事に拘 ッている時ではない。「叔父の手前何と云ッて出たものだろう?」と改めて首を捻 ッて見たが、もウ何となく馬鹿気ていて、真面目 になって考えられない。「何と云ッて出たものだろう?」と強 いて考えてみても、心奴 がいう事を聴かず、それとは全く関繋 もない余所事 を何時 からともなく思ッてしまう。いろいろに紛れようとしてみても、どうも紛れられない、意地悪くもその余所事が気に懸ッて、気に懸ッて、どうもならない。怺 えに、怺えに、怺えて見たが、とうどう怺え切れなくなッて、「して見ると、同じように苦しんでいるかしらん」、はッと云ッても追付かず、こう思うと、急におそろしく気の毒になッて来て、文三は狼狽 てて後悔をしてしまッた。
叱 るよりは謝罪 る方が文三には似合うと誰やらが云ッたが、そうかも知れない。
第十四回
「気の毒気の毒」と思い寐 にうとうととして眼を覚まして見れば、烏 の啼声 、雨戸を繰る音、裏の井戸で釣瓶 を軋 らせる響 。少し眠足 りないが、無理に起きて下坐舗へ降りてみれば、只お鍋が睡むそうな顔をして釜 の下を焚付 けているばかり。誰も起きていない。
朝寐が持前のお勢、まだ臥 ているは当然の事、とは思いながらも、何となく物足らぬ心地がする。
早く顔が視 たい、如何様 な顔をしているか。顔を視れば、どうせ好い心地がしないは知れていれど、それでいて只早く顔が視たい。
三十分たち、一時間たつ。今に起きて来るか、と思えば、肉癢 ゆい。髪の寐乱れた、顔の蒼 ざめた、腫瞼 の美人が始終眼前 にちらつく。
「昨日 下宿しようと騒いだは誰で有ッたろう」と云ッたような顔色 ……
朝飯 がすむ。文三は奥坐舗を出ようとする、お勢はその頃になッて漸々 起きて来て、入ろうとする、――縁側でぴッたり出会ッた……はッと狼狽 えた文三は、予 て期 した事ながら、それに引替えて、お勢の澄ましようは、じろりと文三を尻眼 に懸けたまま、奥坐舗へツイとも云わず入ッてしまッた。只それだけの事で有ッた。
が、それだけで十分。そのじろりと視た眼付が眼の底に染付 いて忘れようとしても忘れられない。胸は痞 えた。気は結ぼれる。搗 てて加えて、朝の薄曇りが昼少し下 る頃より雨となッて、びしょびしょと降り出したので、気も消えるばかり。
お勢は気分の悪いを口実 にして英語の稽古 にも往かず、只一間に籠 ッたぎり、音沙汰 なし。昼飯 の時、顔を合わしたが、お勢は成りたけ文三の顔を見ぬようにしている。偶々 眼を視合わせれば、すぐ首を据 えて可笑 しく澄ます。それが睨付 られるより文三には辛 い。雨は歇 まず、お勢は済まぬ顔、家内も湿り切ッて誰とて口を聞く者も無し。文三果は泣出したくなッた。
心苦しいその日も暮れてやや雨はあがる。昇が遊びに来たか、門口で華やかな声。お鍋のけたたましく笑う声が聞える。お勢はその時奥坐舗に居たが、それを聞くと、狼狽 えて起上ろうとしたが間に合わず、――気軽 に入ッて来る昇に視られて、さも余義なさそうに又坐ッた。
何も知らぬから、昇、例の如く、好もしそうな眼付をしてお勢の顔を視て、挨拶 よりまず戯言 をいう、お勢は莞爾 ともせず、真面目な挨拶をする、――かれこれ齟齬 う。から、昇も怪訝 な顔色 をして何か云おうとしたが、突然お政が、三日も物を云わずにいたように、たてつけて饒舌 り懸けたので、つい紛 らされてその方を向く。その間 にお勢はこッそり起上ッて坐舗を滑り出ようとして……見附けられた。
「何処 へ、勢ちゃん?」
けれども、聞えませんから返答を致しませんと云わぬばかりで、お勢は坐舗を出てしまッた。
部屋は真の闇 。手探りで摺附木 だけは探り当てたが、洋燈 が見附らない。大方お鍋が忘れてまだ持ッて来ないので有ろう。「鍋や」と呼んで少し待ッてみて又「鍋や……」、返答をしない。「鍋、鍋、鍋」たてつけて呼んでも返答をしない。焦燥 きッていると、気の抜けたころに、間の抜けた声で、
「お呼びなさいましたか?」
「知らないよ……そんな……呼んでも呼んでも、返答もしないンだものを」
「だッてお奥で御用をしていたンですものを」
「用をしていると返答は出来なくッて?」
「御免遊ばせ……何か御用?」
「用が無くッて呼びはしないよ……そンな……人を……くらみ(暗黒)でるのがわかッ(分ら)なッかえッ?」
二三度聞直して漸く分ッて洋燈 は持ッて来たが、心無し奴 が跡をも閉めずして出て往ッた。
「ばか」
顔に似合わぬ悪体を吐 きながら、起上 ッて邪慳 に障子を〆 切り、再び机の辺 に坐る間もなく、折角〆た障子をまた開けて……己 れ、やれ、もう堪忍 が……と振り反ッてみれば、案外な母親。お勢は急に他所 を向く。
「お勢」と小声ながらに力瘤 を込めて、お政は呼ぶ。此方 はなに返答をするものかと力身 だ面相 。
「何だと云ッて、あんなおかしな処置振りをお為 だ? 本田さんが何とか思いなさらアね。彼方 へお出でよ」
と暫 らく待ッていてみたが、動きそうにも無いので、又声を励まして、
「よ、お出でと云ッたら、お出でよ」
「その位ならあんな事云わないがいい……」
と差俯向 く、その顔を窺 けば、おやおや泪 ぐんで……
「ま呆 れけえッちまわア!」と母親はあきれけエッちまッた。「たンとお脹 れ」
とは云ッたが、又折れて、
「世話ア焼かせずと、お出でよ」
返答なし。
「ええ、も、じれッたい! 勝手にするがいい!」
そのまま母親は奥坐舗へ還 ってしまった。
これで坐舗へ還る綱も截 れた。求めて截ッて置きながら今更惜しいような、じれッたいような、おかしな顔をして暫く待ッていてみても、誰も呼びに来てもくれない。また呼びに来たとて、おめおめ還られもしない。それに奥坐舗では想像 のない者共が打揃 ッて、噺 すやら、笑うやら……肝癪 紛れにお勢は色鉛筆を執ッて、まだ真新しなすういんとんの文典の表紙をごしごし擦 り初めた。不運なはすういんとんの文典!
表紙が大方真青になッたころ、ふと縁側に足音……耳を聳 てて、お勢ははッと狼狽 えた……手ばしこく文典を開けて、倒 しまになッているとも心附かで、ぴッたり眼で喰込んだ、とんと先刻から書見していたような面相 をして。
すらりと障子が開 く。文典を凝視 めたままで、お勢は少し震えた。遠慮気もなく無造作に入ッて来た者は云わでと知れた昇。華美 な、軽い調子で、「遁 げたね、好男子 が来たと思ッて」
と云わして置いて、お勢は漸く重そうに首を矯 げて、世にも落着いた声で、さもにべなく、
「あの失礼ですが、まだ明日 の支度 をしませんから……」
けれども、敵手 が敵手だから、一向利 かない。
「明日 の支度? 明日の支度なぞはどうでも宜いさ」
と昇はお勢の傍 に陣を取ッた。
「本統にまだ……」
「何をそう拗捩 たンだろう? 令慈 に叱 られたね? え、そうでない。はてな」
と首を傾 けるより早く横手を拍 ッて、
「あ、ああわかッた。成 、成 、それで……それならそうと早く一言云えばいいのに……なンだろう大方かく申す拙者奴 に……ウ……ウと云ッたような訳なンだろう? 大蛤 の前じゃア口が開 きかねる、――これやア尤 だ。そこで釣寄 せて置いて……ほんありがた山の蜀魂 、一声漏らそうとは嬉 しいぞえ嬉しいぞえ」
と妙な身振りをして、
「それなら、実は此方 も疾 からその気ありだから、それ白痴 が出来合靴 を買うのじゃないが、しッくり嵌 まるというもンだ。嵌まると云えば、邪魔の入らない内だ。ちょッくり抱 ッこのぐい極 めと往きやしょう」
と白らけた声を出して、手を出しながら、摺寄 ッて来る。
「明日の支度が……」
とお勢は泣声を出して身を縮ませた。
「ほい間違ッたか。失敗、々々」
何を云ッても敵手 にならぬのみか、この上手を附けたら雨になりそうなので、さすがの本田も少し持あぐねたところへ、お鍋が呼びに来たから、それを幸いにして奥坐舗へ還ッてしまッた。
文三は昇が来たから安心を失 くして、起ッて見たり坐ッて見たり。我他彼此 するのが薄々分るので、弥以 堪 らず、無い用を拵 えて、この時二階を降りてお勢の部屋の前を通りかけたが、ふと耳を聳て、抜足をして障子の間隙 から内を窺 てはッと顔※[#白ゴマ点、178-15]お勢が伏臥 になッて泣……い……て……
「Explanation (示談 )」と一時に胸で破裂した……
第十五回
Explanation (示談 )、と肚 を極めてみると、大きに胸が透いた。己れの打解けた心で推測 るゆえ、さほどに難事とも思えない。もウ些 しの辛抱、と、哀 む可 し、文三は眠らでとも知らず夢を見ていた。
機会 を窺 ている二日目の朝、見知り越しの金貸が来てお政を連出して行く。時機到来……今日こそは、と領 を延ばしているとも知らずして帰ッて来たか、下女部屋の入口で「慈母 さんは?」と優しい声。
その声を聞くと均 しく、文三起上 りは起上ッたが、据 えた胸も率 となれば躍る。前へ一歩 、後 へ一歩 、躊躇 ながら二階を降りて、ふいと縁を廻わッて見れば、部屋にとばかり思ッていたお勢が入口に柱に靠着 れて、空を向上 げて物思い顔……はッと思ッて、文三立ち止まッた。お勢も何心なく振り反ッてみて、急に顔を曇らせる……ツと部屋へ入ッて跡ぴッしゃり。障子は柱と額合 わせをして、二三寸跳ね返ッた。
跳ね返ッた障子を文三は恨めしそうに凝視 めていたが、やがて思い切りわるく二歩三歩 。わななく手頭 を引手へ懸けて、胸と共に障子を躍らしながら開けてみれば、お勢は机の前に端坐 ッて、一心に壁と睨 め競 。
「お勢さん」
と瀬蹈 をしてみれば、愛度気 なく返答をしない。危きに慣れて縮めた胆 を少し太くして、また、
「お勢さん」
また返答をしない。
この分なら、と文三は取越して安心をして、莞爾々々 しながら部屋へ入り、好き程の所に坐を占めて、
「少しお噺 が……」
この時になッてお勢は初めて、首の筋でも蹙 ッたように、徐々 顔を此方 へ向け、可愛 らしい眼に角を立てて、文三の様子を見ながら、何か云いたそうな口付をした。
今打とうと振上げた拳 の下に立ッたように、文三はひやりとして、思わず一生懸命にお勢の顔を凝視 めた。けれども、お勢は何とも云わず、また向うを向いてしまッたので、やや顔を霽 らして、極 りわるそうに莞爾々々 しながら、
「この間は誠にどう……」
もと云い切らぬうち、つと起き上ッたお勢の体が……不意を打たれて、ぎょッとする、女帯が、友禅 染の、眼前 にちらちら……はッと心附く……我を忘れて、しッかり捉 えたお勢の袂 を……
「何をなさるンです?」
と慳貪 に云う。
「少しお噺し……お……」
「今用が有ります」
邪慳 に袂を振払ッて、ついと部屋を出 しまッた。
その跡を眺 めて文三は呆 れた顔……「この期 を外 しては……」と心附いて起ち上りてはみたが、まさか跡を慕ッて往 かれもせず、萎 れて二階へ狐鼠々々 と帰ッた。
「失敗 ッた」と口へ出して後悔して後 れ馳 せに赤面。「今にお袋が帰ッて来る。『慈母さんこれこれの次第……』失敗 ッた、失策 ッた」
千悔、万悔、臍 を噬 んでいる胸元を貫くような午砲 の響 。それと同時に「御膳 で御座いますよ」。けれど、ほいきたと云ッて降りられもしない。二三度呼ばれて拠 どころ無く、薄気味わるわる降りてみれば、お政はもウ帰ッていて、娘と取膳 で今食事最中。文三は黙礼をして膳に向ッた。「もウ咄したか、まだ咄さぬか」と思えば胸も落着かず、臆病 で好事 な眼を額越 にそッと親子へ注いでみればお勢は澄ました顔、お政は意味の無い顔、……咄したとも付かず、咄さぬとも付かぬ。
寿命を縮めながら、食事をしていた。
「そらそら、気をお付けなね。小供じゃア有るまいし」
ふと轟 いたお政の声に、怖気 の附いた文三ゆえ、吃驚 して首を矯 げてみて、安心した※[#白ゴマ点、181-17]お勢が誤まッて茶を膝 に滴 したので有ッた。
気を附けられたからと云うえこじな顔をして、お勢は澄ましている。拭 きもしない。「早くお拭きなね」と母親は叱 ッた。「膝の上へ茶を滴 して、ぽかんと見てえる奴が有るもんか。三歳児 じゃア有るまいし、意久地の無いにも方図 が有ッたもンだ」
もはやこう成ッては穏 に収まりそうもない。黙ッても視 ていられなくなッたから、お鍋は一とかたけ煩張 ッた飯を鵜呑 にして、「はッ、はッ」と笑ッた。同じ心に文三も「ヘ、ヘ」と笑ッた。
するとお勢は佶 と振向いて、可畏 らしい眼付をして文三を睨 め出した。その容子 が常で無いから、お鍋はふと笑い罷 んでもッけな顔をする。文三は色を失ッた……
「どうせ私は意久地が有りませんのさ」とお勢はじぶくりだした、誰に向ッて云うともなく。
「笑いたきゃア沢山 お笑いなさい……失敬な。人の叱られるのが何処 が可笑 しいンだろう? げたげたげたげた」
「何だよ、やかましい!言艸 云わずと、早々 と拭いておしまい」
と母親は火鉢の布巾 を放 げ出す。けれども、お勢は手にだも触れず、
「意久地がなくッたッて、まだ自分が云ッたことを忘れるほど盲録 はしません。余計なお世話だ。人の事よりか自分の事を考えてみるがいい。男の口からもう口も開 かないなンぞッて云ッて置きながら……」
「お勢!」
と一句に力を籠 めて制する母親、その声ももウこう成ッては耳には入らない。文三を尻眼 に懸けながらお勢は切歯 りをして、
「まだ三日も経 たないうちに、人の部屋へ……」
「これ、どうしたもンだ」
「だッて私ア腹が立つものを。人の事を浮気者 だなンぞッて罵 ッて置きながら、三日も経たないうちに、人の部屋へつかつか入ッて来て……人の袂なンぞ捉 えて、咄 が有るだの、何だの、種々 な事を云ッて……なんぼ何だッて余 り人を軽蔑 した……云う事が有るなら、茲処 でいうがいい、慈母さんの前で云えるなら、云ッてみるがいい……」
留めれば留めるほど、尚 お喚 く。散々喚かして置いて、もう好い時分と成ッてから、お政が「彼方 へ」と顋 でしゃくる。しゃくられて、放心して人の顔ばかり視ていたお鍋は初めて心附き、倉皇 箸 を棄ててお勢の傍 へ飛んで来て、いろいろに賺 かして連れて行こうとするが、仲々素直に連れて行かれない。
「いいえ、放擲 ッといとくれ。何だか云う事が有 ッていうンだから、それを……聞かないうちは……いいえ、私 しゃ……あンまり人を軽蔑した……いいえ、其処 お放しよ……お放しッてッたら、お放しよッ……」
けれども、お鍋の腕力には敵 わない。無理無体に引立られ、がやがや喚きながらも坐舗 を連れ出されて、稍々 部屋へ収まッたようす。
となッて、文三始めて人心地が付いた。
いずれ宛擦 りぐらいは有ろうとは思ッていたが、こうまでとは思い掛けなかッた。晴天の霹靂 、思いの外なのに度肝 を抜かれて、腹を立てる遑 も無い。脳は乱れ、神経は荒れ、心神 錯乱して是非の分別も付かない。只 さしあたッた面目なさに消えも入りたく思うばかり。叔母を観れば、薄気味わるくにやりとしている。このままにも置かれない、……から、余義なく叔母の方へ膝を押向け、おろおろしながら、
「実に……どうもす、す、済まんことをしました……まだお咄はいたしませんでしたが……一昨日阿勢 さんに……」
と云いかねる。
「その事なら、ちらと聞きました」と叔母が受取ッてくれた。「それはああした我儘者ですから、定めしお気に障るような事もいいましたろうから……」
「いや、決してお勢さんが……」
「それゃアもう」と一越 調子高に云ッて、文三を云い消してしまい、また声を並に落して、「お叱んなさるも、あれの身の為めだから、いいけれども、只まだ婚嫁前 の事 てすから、あんな者 でもね、余 り身体 に疵 の……」
「いや、私は決して……そんな……」
「だからさ、お云いなすッたとは云わないけれども、これからも有る事 たから、おねがい申して置くンですよ。わるくお聞きなすッちゃアいけないよ」
ぴッたり釘 を打たれて、ぐッとも云えず、文三は只口惜 しそうに叔母の顔を視詰めるばかり。
「子を持ッてみなければ、分らない事 たけれども、女の子というものは嫁 けるまでが心配なものさ。それゃア、人さまにゃアあんな者 をどうなッてもよさそうに思われるだろうけれども、親馬鹿とは旨 く云ッたもンで、あんな者 でも子だと思えば、有りもしねえ悪名 つけられて、ひょッと縁遠くでもなると、厭 なものさ。それに誰にしろ、踏付られれゃア、あンまり好い心持もしないものさ、ねえ、文さん」
もウ文三堪 りかねた。
「す、す、それじゃ何ですか……私が……私がお勢さんを踏付たと仰ッしゃるンですかッ?」
「可畏 い事をお云いなさるねえ」とお政はおそろしい顔になッた。「お前さんがお勢を踏付たと誰が云いました? 私ア自分にも覚えが有るから、只の世間咄に踏付られたと思うと厭なもンだと云ッたばかしだよ。それをそんな云いもしない事をいって……ああ、なんだね、お前さん云い掛りをいうンだね? 女だと思ッて、そんな事を云ッて、人を困らせる気だね?」
と層 に懸ッて極付 る。
「ああわるう御座ンした……」と文三は狼狽 てて謝罪 ッたが、口惜 し涙が承知をせず、両眼に一杯溜 るので、顔を揚げていられない。差俯向 いて「私が……わるう御座ンした……」
「そうお云いなさると、さも私が難題でもいいだしたように聞こゆるけれども、なにもそう遁 げなくッてもいいじゃないか? そんな事を云い出すからにゃア、お前さんだッて、何か訳が無 ッちゃア、お云いなさりもすまい?」
「私がわるう御座ンした……」と差俯向いたままで重ねて謝罪 た。「全くそんな気で申した訳じゃア有りませんが……お、お、思違いをして……つい……失礼を申しました……」
こう云われては、さすがのお政ももう噛付 きようが無いと見えて、無言で少選 文三を睨 めるように視ていたが、やがて、
「ああ厭だ厭だ」と顔を皺 めて、「こんな厭な思いをするも皆 彼奴 のお蔭 だ。どれ」と起ち上ッて、「往ッて土性骨 を打挫 いてやりましょう」
お政は坐舗を出てしまッた。
お政が坐舗を出るや否 や、文三は今までの溜涙 を一時にはらはらと落した。ただそのまま、さしうつむいたままで、良 久 らくの間、起ちも上がらず、身動きもせず、黙念として坐ッていた。が、そのうちにお鍋が帰ッて来たので、文三も、余義なく、うつむいたままで、力無さそうに起ち上り、悄々 我部屋へ戻ろうとして梯子段 の下まで来ると、お勢の部屋で、さも意地張ッた声で、
「私ゃアもう家 に居るのは厭だ厭だ」
第十六回
あれほどまでにお勢母子 の者に辱 められても、文三はまだ園田の家を去る気になれない。但 だ、そのかわり、火の消えたように、鎮 まッてしまい、いとど無口が一層口を開 かなくなッて、呼んでも捗々 しく返答をもしない。用事が無ければ下へも降りて来ず、只 一間 にのみ垂れ籠 めている。余り静かなので、つい居ることを忘れて、お鍋が洋燈 の油を注がずに置いても、それを吩咐 けて注がせるでもなく、油が無ければ無いで、真闇 な坐舗 に悄然 として、始終何事をか考えている。
けれど、こう静まッているは表相 のみで、乞の胸臆 の中 へ立入ッてみれば、実に一方 ならぬ変動。あたかも心が顛動 した如くに、昨日 好いと思ッた事も今日は悪く、今日悪いと思う事も昨日は好いとのみ思ッていた。情慾の曇が取れて心の鏡が明かになり、睡入 ッていた智慧 は俄 に眼を覚まして決然として断案を下し出す。眼に見えぬ処 、幽妙の処で、文三は――全くとは云わず――稍々 変生 ッた。
眼を改めてみれば、今まで為 て来た事は夢か将 た現 か……と怪しまれる。
お政の浮薄、今更いうまでも無い。が、過 まッた文三は、――実に今まではお勢を見謬 まッていた。今となッて考えてみれば、お勢はさほど高潔でも無 。移気、開豁 、軽躁 、それを高潔と取違えて、意味も無い外部の美、それを内部のと混同して、愧 かしいかな、文三はお勢に心を奪われていた。
我に心を動かしていると思ッたがあれが抑 も誤まりの緒 。苟 めにも人を愛するというからには、必ず先 ず互いに天性気質を知りあわねばならぬ。けれども、お勢は初 より文三の人と為 りを知ッていねば、よし多少文三に心を動かした如き形迹 が有 ばとて、それは真に心を動かしていたではなく、只ほんの一時感染 れていたので有ッたろう。
感受の力の勝つ者は誰しも同じ事ながら、お勢は眼前に移り行く事や物やのうち少しでも新奇な物が有れば、眼早くそれを視て取ッて、直ちに心に思い染 める。けれども、惜しいかな、殆 ど見たままで、別に烹煉 を加うるということをせずに、無造作にその物その事の見解を作ッてしまうから、自 ら真相を看破 めるというには至らずして、動 もすれば浅膚 の見 に陥いる。それゆえ、その物に感染 れて、眼色 を変えて、狂い騒ぐ時を見れば、如何 にも熱心そうに見えるものの、固 より一時の浮想ゆえ、まだ真味を味 わぬうちに、早くも熱が冷めて、厭気になッて惜し気もなく打棄ててしまう。感染 れる事の早い代りに、飽きる事も早く、得る事に熱心な代りに、既に得た物を失うことには無頓着 。書物を買うにしても、そうで、買いたいとなると、矢も楯 もなく買いたがるが、買ッてしまえば、余り読みもしない。英語の稽古 を初めた時も、またその通りで、初めるまでは一日 をも争ッたが、初めてみれば、さほどに勉強もしない。万事そうした気風で有てみれば、お勢の文三に感染 れたも、また厭 いたも、その間にからまる事情を棄てて、単にその心状をのみ繹 ねてみたら、恐らくはその様な事で有ろう。
かつお勢は開豁 な気質、文三は朴茂 な気質。開豁が朴茂に感染れたから、何処 か仮衣 をしたように、恰当 わぬ所が有ッて、落着 が悪かッたろう。悪ければ良くしようというが人の常情で有ッてみれば、仮令 え免職、窮愁、耻辱 などという外部の激因が無いにしても、お勢の文三に対する感情は早晩一変せずにはいなかッたろう。
お勢は実に軽躁 で有る。けれども、軽躁で無い者が軽躁な事を為 ようとて為得ぬが如く、軽躁な者は軽躁な事を為まいと思ッたとて、なかなか為 ずにはおられまい。軽躁と自 ら認めている者すら、尚おこうしたもので有ッてみれば、況 してお勢の如き、まだ我をも知らぬ、罪の無い処女が己 の気質に克 ち得ぬとて、強 ちにそれを無理とも云えぬ。若 しお勢を深く尤 む可 き者なら、較 べて云えば、稍々 学問あり智識ありながら、尚お軽躁 を免がれぬ、譬 えば、文三の如き者は(はれやれ、文三の如き者は?)何としたもので有ろう?
人事 で無い。お勢も悪るかッたが、文三もよろしく無かッた。「人の頭の蠅 を逐 うよりは先ず我頭のを逐え」――聞旧 した諺 も今は耳新しく身に染 みて聞かれる。から、何事につけても、己 一人 をのみ責めて敢 て叨 りにお勢を尤 めなかッた。が、如何に贔負眼 にみても、文三の既に得た所謂 識認というものをお勢が得ているとはどうしても見えない。軽躁 と心附かねばこそ、身を軽躁に持崩しながら、それを憂 しとも思わぬ様子※[#白ゴマ点、190-1]醜穢 と認めねばこそ、身を不潔な境に処 きながら、それを何とも思わぬ顔色 。これが文三の近来最も傷心な事、半夜夢覚めて燈 冷 かなる時、想 うてこの事に到れば、毎 に悵然 として太息 せられる。
して見ると、文三は、ああ、まだ苦しみが甞 め足りぬそうな!
第十七回
お勢のあくたれた時、お政は娘の部屋で、凡 そ二時間ばかりも、何か諄々 と教誨 せていたが、爾後 は、どうしたものか、急に母子 の折合が好 なッて来た。取分けてお勢が母親に孝順 する、折節には機嫌 を取るのかと思われるほどの事をも云う。親も子も睨 める敵 は同じ文三ゆえ、こう比周 うもその筈 ながら、動静 を窺 るに、只 そればかりでも無さそうで。
昇はその後ふッつり遊びに来ない。顔を視 れば鬩 み合う事にしていた母子ゆえ、折合が付いてみれば、咄 も無く、文三の影口も今は道尽 す、――家内が何時 からと無く湿ッて来た。
「ああ辛気 だこと!」と一夜 お勢が欠 びまじりに云ッて泪 ぐンだ。
新聞を拾読 していたお政は眼鏡越しに娘を見遣 ッて、「欠びをして徒然 としていることは無 やアね。本でも出して来てお復習 なさい」
「復習 ッて」とお勢は鼻声になッて眉 を顰 めた。
「明日 の支度 はもう済してしまッたものを」
「済ましッちまッたッて」
お政は復 新聞に取掛ッた。
「慈母 さん」とお勢は何をか憶出して事有り気に云ッた。「本田さんは何故 来ないンだろう?」
「何故だか」
「憤 ッているのじゃないのだろうか?」
「そうかも知れない」
何を云ッても取合わぬゆえ、お勢も仕方なく口を箝 んで、少 く物思わし気に洋燈 を凝視 ていたが、それでもまだ気に懸ると見えて、「慈母さん」
「何だよ?」と蒼蠅 そうにお政は起直ッた。
「真個 に本田さんは憤ッて来ないのだろうか?」
「何を?」
「何をッて」と少し気を得て、「そら、この間来た時、私が構わなかったから……」
と母の顔を凝視た。
「なに人 」とお政は莞爾 した、何と云ッてもまだおぼだなと云いたそうで。「お前に構ッて貰 いたいンで来なさるンじゃ有るまいシ」
「あら、そうじゃ無いンだけれどもさ……」
と愧 かしそうに自分も莞爾 。
おほんという罪を作ッているとは知らぬから、昇が、例の通り、平気な顔をしてふいと遣ッて来た。
「おや、ま、噂 をすれば影とやらだよ」とお政が顔を見るより饒舌 り付けた。「今貴君 の噂をしていた所 さ。え? 勿論 さ、義理にも善くは云えないッさ……ははははは。それは情談だが、きついお見限りですね。何処 か穴でも出来たンじゃないかね? 出来たとえ? そらそら、それだもの、だから鰻男 だということさ。ええ鰌 で無くッてお仕合せ? 鰌とはえ? ……あ、ほンに鰌と云えば、向う横町に出来た鰻屋ね、ちょいと異 ですッさ。久し振りだッて、奢 らなくッてもいいよ。はははは」
皺延 ばしの太平楽、聞くに堪えぬというは平日の事、今宵 はちと情実 が有るから、お勢は顔を皺 めるはさて置き、昇の顔を横眼でみながら、追蒐 け引蒐 けて高笑い。てれ隠 しか、嬉 しさの溢 れか当人に聞いてみねば、とんと分からず。
「今夜は大分御機嫌だが」と昇も心附いたか、お勢を調戯 だす。「この間はどうしたもンだッた? 何を云ッても、『まだ明日 の支度をしませんから』はッ、はッ、はッ、憶出すと可笑 しくなる」
「だッて、気分が悪かッたンですものを」と淫哇 しい、形容も出来ない身振り。
「何が何だか、訳が解りゃアしません」
少ししらけた席の穴を填 るためか、昇が俄 かに問われもせぬ無沙汰 の分疏 をしだして、近ごろは頼まれて、一夜 はざめに課長の所へ往 て、細君と妹に英語の下稽古をしてやる、という。「いや、迷惑な」と言葉を足す。
と聞いて、お政にも似合わぬ、正直な、まうけに受けて、その不心得を諭 す、これが立身の踏台になるかも知れぬと云ッて。けれども、御弟子が御弟子ゆえ、飛だ事まで教えはすまいかと思うと心配だと高く笑う。
お勢は昇が課長の所へ英語を教えに往くと聞くより、どうしたものか、俄かに萎 れだしたが、この時母親に釣 られて淋 しい顔で莞爾 して、「令妹の名は何というの?」
「花とか耳とか云ッたッけ」
「余程出来るの?」
「英語かね? なアに、から駄目だ。Thank you for your kind だから、まだまだ」
お勢は冷笑の気味で、「それじゃアア……」
I will ask to you と云ッて今日教師に叱 られた、それはこの時忘れていたのだから、仕方が無い。
「ときに、これは」と昇はお政の方を向いて親指を出してみせて、「どうしました、その後?」
「居ますよまだ」とお政は思い切りて顔を皺 めた。
「ずうずうしいと思ッてねえ!」
「それも宜 が、また何かお勢に云いましたッさ」
「お勢さんに?」
「はア」
「どんな事を?」
おッとまかせと饒舌 り出した、文三のお勢の部屋へ忍び込むから段々と順を逐 ッて、剰 さず漏さず、おまけまでつけて。昇は顋 を撫 でてそれを聴いていたが、お勢が悪たれた一段となると、不意に声を放ッて、大笑に笑ッて、「そいつア痛かッたろう」
「なにそン時こそ些 ばかし可怪 な顔をしたッけが、半日も経 てば、また平気なものさ。なンと、本田さん、ずうずうしいじゃア有りませんか!」
「そうしてね、まだ私の事を浮気者だなンぞッて」
「ほんとにそんな事も云たそうですがね、なにも、そんなに腹がたつなら、此所 の家に居ないが宜じゃ有りませんか。私ならすぐ下宿か何かしてしまいまさア。それを、そんな事を云ッて置きながら、ずうずうしく、のべんくらりと、大飯を食らッて……ているとは何所 まで押 が重 いンだか数 が知れないと思ッて」
昇は苦笑いをしていた。暫時 して返答とはなく、ただ、「何しても困ッたもンだね」
「ほんとに困ッちまいますよ」
困ッている所へ勝手口で、「梅本でござい」。梅本というは近処の料理屋。「おや家 では……」とお政は怪しむ、その顔も忽 ち莞爾々々 となッた、昇の吩咐 とわかッて。
「それだからこの息子は可愛 いよ」。片腹痛い言 まで云ッてやがて下女が持込む岡持の蓋 を取ッて見るよりまた意地の汚い言 をいう。それを、今夜に限 て、平気で聞いているお勢どのの心持が解らない、と怪しんでいる間も有ればこそ、それッと炭を継 ぐ、吹く、起こす、燗 をつけるやら、鍋 を懸けるやら、瞬 く間に酒となッた。
あいのおさえのという蒼蠅 い事の無 代 り、洒落 、担 ぎ合い、大口、高笑、都々逸 の素 じぶくり、替歌の伝受等 、いろいろの事が有ッたが、蒼蠅 いからそれは略す。
刺身は調味 のみになッて噎 で応答 をするころになッて、お政は、例の所へでも往きたくなッたか、ふと起 ッて坐舗 を出た。
と両人 差向いになッた。顔を視合わせるとも無く視合わして、お勢はくすくすと吹出したが、急に真面目になッてちんと澄ます。
「これアおかしい。何がくすくすだろう?」
「何でも無いの」
「のぼる源氏のお顔を拝んで嬉しいか?」
「呆 れてしまわア、ひょッとこ面 の癖に」
「何だと?」
「綺麗 なお顔で御座いますということ」
昇は例の黙ッてお勢を睨 め出す。
「綺麗なお顔だというンだから、ほほほ」と用心しながら退却 をして、「いいじゃア……おッ……」
ツと寄ッた昇がお勢の傍 へ……空 で手と手が閃 く、からまる……と鎮 まッた所をみれば、お勢は何時 か手を握られていた。
「これがどうしたの?」と平気な顔。
「どうもしないが、こうまず俘虜 にしておいてどッこい……」と振放そうとする手を握りしめる。
「あちちち」と顔を皺 めて、「痛い事をなさるねえ!」
「ちッとは痛いのさ」
「放して頂戴 よ。よう。放さないとこの手に喰付 ますよ」
「喰付たいほど思えども……」と平気で鼻歌。
お勢はおそろしく顔を皺 めて、甘たるい声で、「よう、放して頂戴と云えばねえ……声を立てますよ」
「お立てなさいとも」
と云われて一段声を低めて、「あら引[#「引」は小書き右寄せ]本田さんが引[#「引」は小書き右寄せ]手なんぞ握ッて引[#「引」は小書き右寄せ]ほほほ、いけません、ほほほ」
「それはさぞ引[#「引」は小書き右寄せ]お困りで御座いましょう引[#「引」は小書き右寄せ]」
「本統に放して頂戴よ」
「何故 ? 内海に知れると悪いか?」
「なにあんな奴に知れたッて……」
「じゃ、ちッとこうしてい給 え。大丈夫だよ、淫褻 なぞする本田にあらずだ……が、ちょッと……」と何やら小声で云ッて、「……位 いは宜かろう?」
するとお勢は、どうしてか、急に心から真面目になッて、「あたしゃア知らないからいい……私 しゃア……そんな失敬な事ッて……」
昇は面白そうにお勢の真面目くさッた顔を眺 めて莞爾々々 しながら、「いいじゃないか? ただちょいと……」
「厭 ですよ、そんな……よッ、放して頂戴と云えばねえッ」
一生懸命に振放そうとする、放させまいとする、暫時争ッていると、縁側に足音がする、それを聞くと、昇は我からお勢の手を放 て大笑に笑い出した。
ずッとお政が入ッて来た。
「叔母さん叔母さん、お勢さんを放飼 はいけないよ。今も人を捉 えて口説 いて口説いて困らせ抜いた」
「あらあらあんな虚言 を吐 いて……非道 い人だこと!……」
昇は天井を仰向いて、「はッ、はッ、はッ」
第十八回
一週間と経 ち、二週間と経つ。昇は、相かわらず、繁々 遊びに来る。そこで、お勢も益々親しくなる。
けれど、その親しみ方が、文三の時とは、大きに違う。かの時は華美 から野暮 へと感染 れたが、この度 は、その反対で、野暮の上塗が次第に剥 げて漸 く木地 の華美 に戻る。両人とも顔を合わせれば、只 戯 ぶれるばかり、落着いて談話 などした事更に無し。それも、お勢に云わせれば、昇が宜しく無いので、此方 で真面目 にしているものを、とぼけた顔をし、剽軽 な事を云い、軽く、気無しに、調子を浮かせてあやなしかける。それ故 、念に掛けて笑うまいとはしながら、おかしくて、おかしくて、どうも堪 らず、唇を噛締 め、眉 を釣上 げ、真赤になッても耐 え切れず、つい吹出して大事の大事の品格を落してしまう。果は、何を云われんでも、顔さえ見れば、可笑 しくなる。「本当に本田さんはいけないよ、人を笑わしてばかりいて」。お勢は絶えず昇を憎がッた。
こうお勢に対 うと、昇は戯 れ散らすが、お政には無遠慮といううちにも、何処 かしっとりした所が有ッて、戯言 を云わせれば、云いもするが、また落着く時には落着いて、随分真面目な談話 もする。勿論 、真面目な談話と云ッたところで、金利公債の話、家屋敷の売買 の噂 、さもなくば、借家人が更らに家賃 を納 れぬ苦情――皆つまらぬ事ばかり。一つとしてお勢の耳には面白くも聞こえないが、それでいて、両人 の話している所を聞けば、何か、談話 の筋の外に、男女交際、婦人矯風 の議論よりは、遥 に優 りて面白い所が有ッて、それを眼顔 で話合ッて娯 しんでいるらしいが、お勢にはさっぱり解らん。が、余程面白いと見えて、その様な談話 が始まると、お政は勿論、昇までが平生の愛嬌 は何処へやら遣 ッて、お勢の方は見向もせず、一心になッて、或 は公債を書替える極 簡略な法、或は誰も知ッている銀行の内幕、またはお得意 の課長の生計の大した事を喋々 と話す。お勢は退屈で退屈で、欠 びばかり出る。起上 ッて部屋へ帰ろうとは思いながら、つい起 そそくれて潮合 を失い、まじりまじり思慮の無い顔をして面白 もない談話 を聞いているうちに、いつしか眼が曇り両人 の顔がかすんで話声もやや遠く籠 ッて聞こえる……「なに、十円さ」と突然鼓膜 を破る昇の声に駭 かされ、震え上る拍子 に眼を看開 いて、忙わしく両人 の顔を窺 えば、心附かぬ様子、まずよかッたと安心し、何喰わぬ顔をしてまた両人の話を聞出すと、また眼の皮がたるみ、引入れられるような、快 い心地になッて、睡 るともなく、つい正体を失う……誰かに手暴 く揺ぶられてまた愕然 として眼を覚ませば、耳元にどっと高笑 の声。お勢もさすがに莞爾 して、「それでも睡いんだものを」と睡そうに分疏 をいう。またこういう事も有る※[#白ゴマ点、199-16]前のように慾張ッた談話 で両人は夢中になッている※[#白ゴマ点、199-17]お勢は退屈やら、手持無沙汰 やら、いびつに坐りてみたり、危坐 ッてみたり。耳を借していては際限もなし、そのうちにはまた睡気 がさしそうになる、から、ちと談話 の仲間入りをしてみようとは思うが、一人が口を箝 めば、一人が舌を揮 い、喋々として両 つの口が結ばるという事が無ければ、嘴 しを容 れたいにも、更にその間隙 が見附からない。その見附からない間隙を漸やく見附けて、此処 ぞと思えば、さて肝心のいうことが見附からず迷 つくうちにはや人に取られてしまう。経験が知識を生んで、今度 はいうべき事も予 て用意して、じれッたそうに挿頭 で髪を掻 きながら、漸くの思 で間隙 を見附け、「公債は今幾何 なの?」と嘴 を挿 さんでみれば、さて我ながら唐突千万! 無理では無いが、昇も、母親も、胆 を潰 して顔を視合 わせて、大笑に笑い出す。――今のは半襟 の間違いだろう。――なに、人形の首だッさ。――違 えねえ。またしても口を揃 えて高笑い。――あんまりだから、いい! とお勢は膨れる。けれど、膨れたとて、機嫌 を取られれば、それだけ畢竟 安目にされる道理。どうしても、こうしても、敵 わない。
お勢はこの事を不平に思ッて、或は口を聞かぬと云い、或は絶交すると云ッて、恐喝 してみたが、昇は一向平気なもの、なかなかそんな甘手ではいかん。圧制家 、利己論者 と口では呪 いながら、お勢もついその不届者と親しんで、玩 ばれると知りつつ、玩ばれ、調戯 られると知りつつ、調戯 られている。けれど、そうはいうものの、戯 けるも満更でも無いと見えて、偶々 昇が、お勢の望む通り、真面目にしていれば、さてどうも物足りぬ様子で、此方 から、遠方から、危うがりながら、ちょッかいを出してみる。相手にならねば、甚 機嫌がわるい※[#白ゴマ点、200-17]から、余義なくその手を押さえそうにすれば、忽 ちきゃッきゃッと軽忽 な声を発し、高く笑い、遠方へ迯 げ、例の睚 の裏を返して、ベベベーという。総 てなぶられても厭 だが、なぶられぬも厭、どうしましょう、といいたそうな様子。
母親は見ぬ風 をして見落しなく見ておくから、歯癢 ゆくてたまらん。老功の者の眼から観れば、年若の者のする事は、総てしだらなく、手緩 るくて更に埒 が明かん。そこで耐 え兼て、娘に向い、厳 かに云い聞かせる、娘の時の心掛を。どのような事かと云えば、皆多年の実験から出た交際の規則で、男、取分けて若い男という者はこうこういう性質のもので有るから、若 し情談をいいかけられたら、こう、花を持たせられたら、こう、弄 られたら、こう待遇 うものだ、など、いう事であるが、親の心子知らずで、こう利益 を思ッて、云い聞かせるものを、それをお勢は、生意気な、まだ世の態 も見知らぬ癖に、明治生れの婦人は芸娼妓 で無いから、男子に接するにそんな手管 はいらないとて、鼻の頭 で待遇 ッていて、更に用いようともしない。手管では無い、これが娘の時の心掛というものだと云い聞かせても、その様な深遠な道理はまだ青いお勢には解らない。そんな事は女大学にだッて書いて無いと強情を張る。勝手にしなと肝癪 を起こせば、勝手にしなくッてと口答 をする。どうにも、こうにも、なッた奴じゃない!
けれど、母親が気を揉 むまでも無く、幾程 もなくお勢は我から自然に様子を変えた。まずその初 を云えば、こうで。
この物語の首 にちょいと噂をした事の有るお政の知己 「須賀町 のお浜」という婦人が、近頃に娘をさる商家へ縁付るとて、それを風聴 かたがたその娘を伴 れて、或日お政を尋ねて来た。娘というはお勢に一ツ年下で、姿色 は少し劣る代り、遊芸は一通り出来て、それでいて、おとなしく、愛想 がよくて、お政に云わせれば、如才の無い娘 で、お勢に云わせれば、旧弊な娘 、お勢は大嫌 い、母親が贔負 にするだけに、尚 お一層この娘を嫌う※[#白ゴマ点、202-5]但 しこれは普通の勝心 のさせる業 ばかりではなく、この娘の蔭 で、おりおり高い鼻を擦 られる事も有るからで。縁付ると聞いて、お政は羨 ましいと思う心を、少しも匿 さず、顔はおろか、口へまで出して、事々しく慶 びを陳 べる。娘の親も親で、慶びを陳べられて、一層得意になり、さも誇貌 に婿 の財産を数え、または支度 に費 ッた金額の総計から内訳まで細々 と計算をして聞かせれば、聞く事毎 にお政はかつ驚き、かつ羨やんで、果は、どうしてか、婚姻の原因を娘の行状に見出 して、これというも平生の心掛がいいからだと、口を極 めて賞 める、嫁 る事が何故 そんなに手柄 であろうか、お勢は猫が鼠 を捕 ッた程にも思ッていないのに! それをその娘は、耻 かしそうに俯向 きは俯向きながら、己れも仕合と思い顔で高慢は自 ら小鼻に現われている。見ていられぬ程に醜態を極める! お勢は固 より羨ましくも、妬 ましくも有るまいが、ただ己れ一人でそう思ッているばかりでは満足が出来んと見えて、おりおりさも苦々しそうに冷笑 ッてみせるが、生憎 誰も心附かん。そのうちに母親が人の身の上を羨やむにつけて、我身の薄命を歎 ち、「何処かの人」が親を蔑 ろにしてさらにいうことを用いず、何時 身を極 めるという考も無いとて、苦情をならべ出すと、娘の親は失礼な、なにこの娘 の姿色 なら、ゆくゆくは「立派な官員さん」でも夫に持ッて親に安楽をさせることで有ろうと云ッて、嘲 けるように高く笑う。見よう見真似に娘までが、お勢の方を顧みて、これもまた嘲けるようにほほと笑う。お勢はおそろしく赤面してさも面目なげに俯向いたが、十分も経 ぬうちに座舗 を出てしまッた。我部屋へ戻りてから、始めて、後馳 に憤然 となッて「一生お嫁になんぞ行くもんか」と奮激した。
客は一日打くつろいで話して夜 に入 ッてから帰ッた。帰ッた後に、お政はまた人の幸福 をいいだして羨やむので、お勢はもはや勘弁がならず、胸に積る昼間からの鬱憤 を一時に霽 そうという意気込で、言葉鋭く云いまくッてみると、母の方にも存外な道理が有ッて、ついにはお勢も成程と思ッたか、少し受大刀 になッた。が、負けじ魂から、滅多には屈服せず、尚おかれこれと諍論 ッている。そのうちにお政は、何か妙案を思い浮べたように、俄 に顔色 を和げ、今にも笑い出しそうな眼付をして、「そんな事をお云いだけれども、本田さんなら、どうだえ? 本田さんでも、お嫁に行くのは厭かえ?」という。「厭なこった」、と云ッて、お勢は今まで顔へ出していた思慮を尽 く内へ引込ましてしまう。「おや、何故だろう。本田さんなら、いいじゃないか、ちょいと気が利 いていて、小金も少 とは持ッていなさりそうだし、それに第一男が好くッて」「厭なこッた」「でも、若し本田さんがくれろと云ッたら、何と云おう?」、と云われて、お勢は少し躊躇 ッたが、狼狽 えて、「い……いやなこッた」。お政はじろりとその様子をみて、何を思ッてか、高く笑ッたばかりで、再び娘を詰 らなかッた。その後 はお勢は故 らに何喰わぬ顔を作ッてみても、どうも旨 くいかぬようすで、動 もすれば沈んで、眼を細くして何処か遠方を凝視 め、恍惚 として、夢現 の境に迷うように見えたことも有ッた。「十一時になるよ」と母親に気を附けられたときは、夢の覚めたような顔をして溜息 さえ吐 いた。
部屋へ戻ッても、尚お気が確かにならず、何心なく寐衣 に着代えて、力無さそうにベッたり、床の上へ坐ッたまま、身動もしない。何を思ッているのか? 母の端 なく云ッた一言 の答を求めて求め得んのか? 夢のように、過ぎこした昔へ心を引戻して、これまで文三如き者に拘 ッて、良縁をも求めず、徒 に歳月 を送ッたを惜しい事に思ッているのか? 或は母の言葉の放ッた光りに我身を□ る暗黒 を破られ、始めて今が浮沈の潮界 、一生の運の定まる時と心附いたのか? 抑 また狂い出す妄想 につれられて、我知らず心を華やかな、娯 しい未来へ走らし、望みを事実にし、現 に夢を見て、嬉しく、畏 ろしい思をしているのか? 恍惚 とした顔に映る内の想 が無いから、何を思ッていることかすこしも解らないが、とにかく良 久 らくの間は身動をもしなかッた、そのままで十分ばかり経ったころ、忽然 として眼が嬉しそうに光り出すかと思う間に、見る見る耐 えようにも耐え切れなさそうな微笑が口頭 に浮び出て、頬 さえいつしか紅 を潮 す。閉じた胸の一時に開けた為め、天成の美も一段の光を添えて、艶 なうちにも、何処か豁然 と晴やかに快さそうな所も有りて、宛然 蓮 の花の開くを観るように、見る眼も覚めるばかりで有ッた。突然お勢は跳ね起きて、嬉しさがこみあげて、徒 は坐ッていられぬように、そして柱に懸けた薄暗い姿見に対 い、糢糊 写る己 が笑顔を覗 き込んで、あやすような真似をして、片足浮かせて床の上でぐるりと回り、舞踏でもするような運歩 で部屋の中 を跳ね廻ッて、また床の上へ来るとそのまま、其処 へ臥倒 れる拍子に手ばしこく、枕 を取ッて頭 に宛 がい、渾身 を揺りながら、締殺ろしたような声を漏らして笑い出して。
この狂気 じみた事の有ッた当坐は、昇が来ると、お勢は臆 するでもなく耻 らうでもなく只何となく落着が悪いようで有ッた。何か心に持ッているそれを悟られまいため、やはり今までどおり、おさなく、愛度気 なく待遇 うと、影では思うが、いざ昇と顔を合せると、どうももうそうはいかないと云いそうな調子で。いう事にさしたる変りも無いが、それをいう調子に何処か今までに無いところが有ッて、濁ッて、厭味を含む。用も無いに坐舗を出たり、はいッたり、おかしくも無いことに高く笑ッたり、誰やらに顔を見られているなと心附きながら、それを故意 と心附かぬ風 をして、磊落 に母親に物をいッたりするはまだな事、昇と眼を見合わして、狼狽 て横へ外らしたことさえ度々 有ッた。総 て今までとは様子が違う、それを昇の居る前で母親に怪しまれた時はお勢もぱッと顔を※ [#「赤+報のつくり」、205-14]めて、如何 にも極 りが悪そうに見えた。が、その極り悪そうなもいつしか失 せて、その後は、昇に飽いたのか、珍らしくなくなったのか、それとも何か争 いでもしたのか、どうしたのか解らないが、とにかく昇が来ないとても、もウ心配もせず、来たとて、一向構わなくなッた。以前は鬱々としている時でも、昇が来れば、すぐ冴 えたものを、今は、その反対で、冴えている時でも、昇の顔を見れば、すぐ顔を曇らして、冷淡になって、余り口数もきかず、総て仲のわるい従兄妹 同士のように、遠慮気なく余所々々 しく待遇 す。昇はさして変らず、尚お折節には戯言 など云い掛けてみるが、云ッても、もウお勢が相手にならず、勿論嬉しそうにも無く、ただ「知りませんよ」と彼方 向くばかり。それ故 に、昇の戯 ばみも鋒尖 が鈍ッて、大抵は、泣眠入 るように、眠入ッてしまう。こうまで昇を冷遇する。その代り、昇の来ていない時は、おそろしい冴えようで、誰彼の見さかいなく戯 れかかッて、詩吟するやら、唱歌するやら、いやがる下女をとらえて舞踏の真似をするやら、飛だり、跳ねたり、高笑をしたり、さまざまに騒ぎ散らす。が、こう冴えている時でも、昇の顔さえ見れば、不意にまた眼の中 を曇らして、落着いて、冷淡になッて、しまう。
けれど、母親には大層やさしくなッて、騒いで叱られたとて、鎮 まりもしないが、悪 まれ口もきかず、却 ッて憎気なく母親にまでだれかかるので、母親も初のうちは苦い顔を作ッていたものの、竟 には、どうかこうか釣込まれて、叱る声を崩して笑ッてしまう。但し朝起される時だけはそれは例外で、その時ばかりは少し頬を脹 らせる※[#白ゴマ点、206-14]が、それもその程が過ぎれば、我から機嫌を直して、華やいで、時には母親に媚 びるのかと思うほどの事をもいう。初の程はお政も不審顔をしていたが、慣れれば、それも常となッてか、後には何とも思わぬ様子で有ッた。
そのうちにお勢が編物の夜稽古 に通いたいといいだす。編物よりか、心易 い者に日本の裁縫を教える者が有るから、昼間其所 へ通えと、母親のいうを押反して、幾度 か幾度か、掌 を合せぬばかりにして是非に編物をと頼む。西洋の処女なら、今にも母の首にしがみ付いて頬の辺 に接吻 しそうに、あまえた強請 るような眼付で顔をのぞかれ、やいやいとせがまれて、母親は意久地なく、「ええ、うるさい! どうなと勝手におし」と賺 されてしまッた。
編物の稽古は、英語よりも、面白いとみえて、隔晩の稽古を楽しみにして通う。お勢は、全体、本化粧が嫌いで、これまで、外出 するにも、薄化粧ばかりしていたが、編物の稽古を初めてからは、「皆 が大層作ッて来るから、私一人なにしない……」と咎 める者も無いに、我から分疏 をいいいい、こッてりと、人品 を落すほどに粧 ッて、衣服も成 たけ美 いのを撰 んで着て行く。夜だから、此方 ので宜いじゃないかと、美くない衣服を出されれば、それを厭とは拒みはしないが、何となく機嫌がわるい。
お政はそわそわして出て行く娘の後姿を何時も請難 くそうに目送 る……
昇は何時からともなく足を遠くしてしまッた。
第十九回
お勢は一旦 は文三を仂 なく辱 めはしたものの、心にはさほどにも思わんか、その後はただ冷淡なばかりで、さして辛 くも当らん※[#白ゴマ点、207-16]が、それに引替えて、お政はますます文三を憎んで、始終出て行けがしに待遇 す。何か用事が有りて下座敷へ降りれば、家内中寄集 りて、口を解 いて面白そうに雑談 などしている時でも、皆云い合したように、ふと口を箝 んで顔を曇らせる、といううちにも取分けてお政は不機嫌 な体 で、少し文三の出ようが遅ければ、何を愚頭々々 していると云わぬばかりに、此方 を睨 めつけ、時には気を焦 ッて、聞えよがしに舌鼓 など鳴らして聞かせる事も有る。文三とても、白痴でもなく、瘋癲 でもなければ、それほどにされんでも、今ここで身を退 けば眉 を伸べて喜ぶ者がそこらに沢山あることに心附かんでも無いから、心苦しいことは口に云えぬほどで有る、けれど、尚 お園田の家を辞し去ろうとは思わん。何故 にそれほどまでに園田の家を去りたくないのか、因循な心から、あれほどにされても、尚おそのような角立った事は出来んか、それほどになっても、まだお勢に心が残るか、抑 もまた、文三の位置では陥り易 い謬 、お勢との関繋 がこのままになってしまッたとは情談らしくてそうは思えんのか? 総 てこれ等の事は多少は文三の羞 を忍んで尚お園田の家に居る原因となったに相違ないが、しかし、重な原因ではない。重な原因というは即 ち人情の二字、この二字に覊絆 れて文三は心ならずも尚お園田の家に顔を皺 めながら留 ッている。
心を留 めて視 なくとも、今の家内の調子がむかしとは大 に相違するは文三にも解る。以前まだ文三がこの調子を成す一つの要素で有ッて、人々が眼を見合しては微笑し、幸福といわずして幸福を楽んでいたころは家内全体に生温 い春風が吹渡ッたように、総て穏 に、和いで、沈着 いて、見る事聞く事が尽 く自然に適 ッていたように思われた。そのころの幸福は現在の幸福ではなくて、未来の幸福の影を楽しむ幸福で、我も人も皆何か不足を感じながら、強 ちにそれを足そうともせず、却 って今は足らぬが当然と思っていたように、急 かず、騒がず、優游 として時機の熟するを竢 っていた、その心の長閑 さ、寛 さ、今憶 い出しても、閉じた眉が開くばかりな……そのころは人々の心が期せずして自 ら一致し、同じ事を念 い、同じ事を楽んで、強 ちそれを匿 くそうともせず、また匿くすまいともせず※[#白ゴマ点、209-6]胸に城郭を設けぬからとて、言って花の散るような事は云わず、また聞こうともせず、まだ妻でない妻、夫でない夫、親で無い親、――も、こう三人集ッたところに、誰が作り出すともなく、自らに清く、穏な、優しい調子を作り出して、それに随 れて物を言い、事をしたから、人々があたかも平生の我よりは優 ったようで、お政のような婦人でさえ、尚お何処 か頼もし気な所が有ったのみならず、却ってこれが間に介 まらねば、余り両人 の間が接近しすぎて穏さを欠くので、お政は文三等の幸福を成すに無 て叶 わぬ人物とさえ思われた。が、その温 な愛念も、幸福な境界 も、優しい調子も、嬉 しそうに笑う眼元も口元も、文三が免職になッてから、取分けて昇が全く家内へ立入ったから、皆突然に色が褪 め、気が抜けだして、遂 に今日この頃のこの有様となった……
今の家内の有様を見れば、もはや以前のような和いだ所も無ければ、沈着 いた所もなく、放心 に見渡せば、総て華 かに、賑 かで、心配もなく、気あつかいも無く、浮々 として面白そうに見えるものの、熟々 視れば、それは皆衣物 で、□体 にすれば、見るも汚 わしい私欲、貪婪 、淫褻 、不義、無情の塊 で有る。以前人々の心を一致さした同情も無ければ、私心の垢 を洗った愛念もなく、人々己 一個の私 をのみ思ッて、己 が自恣 に物を言い、己が自恣に挙動 う※[#白ゴマ点、210-4]欺 いたり、欺かれたり、戯言 に託して人の意 を測ッてみたり、二つ意味の有る言 を云ってみたり、疑ッてみたり、信じてみたり、――いろいろさまざまに不徳を尽す。
お政は、いうまでもなく、死灰 の再び燃えぬうちに、早く娘を昇に合せて多年の胸の塊を一時におろしてしまいたいが、娘が、思うように、如才なくたちまわらんので、それで歯癢 がって気を揉 み散らす。昇はそれを承知しているゆえ、後 の面倒を慮 って迂濶 に手は出さんが、罠 のと知りつつ、油鼠 の側 を去られん老狐 の如くに、遅疑しながらも、尚おお勢の身辺を廻って、横眼で睨 んでは舌舐 りをする(文三は何故か昇の妻となる者は必ず愚 で醜い代り、権貴な人を親に持った、身柄 の善い婦人とのみ思いこんでいる)。お政は昇の意 を見抜いてい、昇もまたお政の意を見抜いている※[#白ゴマ点、210-12]しかも互に見抜れていると略 ぼ心附いている。それゆえに、故 らに無心な顔を作り、思慮の無い言 を云い、互に瞞着 しようと力 めあうものの、しかし、双方共力は牛角 のしたたかものゆえ、優 もせず、劣 もせず、挑 み疲れて今はすこし睨合 の姿となった。総てこれ等の動静 は文三も略 ぼ察している。それを察しているから、お勢がこのような危い境に身を処 きながら、それには少しも心附かず、私欲と淫欲とが爍 して出来 した、軽く、浮いた、汚 わしい家内の調子に乗せられて、何心なく物を言っては高笑 をする、その様子を見ると、手を束 ねて安座していられなくなる。
お勢は今甚 だしく迷っている、豕 を抱 いて臭きを知らずとかで、境界 の臭みに居ても、おそらくは、その臭味がわかるまい。今の心の状 を察するに、譬 えば酒に酔ッた如くで、気は暴 ていても、心は妙に昧 んでいるゆえ、見る程の物聞く程の事が眼や耳やへ入ッても底の認識までは届かず、皆中途で立消をしてしまうであろう※[#白ゴマ点、211-5]また徒 だ外界と縁遠くなったのみならず、我内界とも疎 くなったようで、我心ながら我心の心地はせず、始終何か本体の得知れぬ、一種不思議な力に誘 われて言動作息 するから、我 にも我が判然とは分るまい、今のお勢の眼には宇宙は鮮 いで見え、万物は美しく見え、人は皆我一人 を愛して我一人のために働いているように見えよう※[#白ゴマ点、211-9]若 し顔を皺 めて溜息 を吐 く者が有れば、この世はこれほど住みよいに、何故人はそう住み憂 く思うか、殆 どその意 を解し得まい※[#白ゴマ点、211-10]また人の老やすく、色の衰え易いことを忘れて、今の若さ、美しさは永劫 続くように心得て未来の事などは全く思うまい、よし思ッたところで、華かな、耀 いた未来の外は夢にも想像に浮ぶまい。昇に狎 れ親んでから、お勢は故 の吾を亡 くした、が、それには自分も心附くまい※[#白ゴマ点、211-13]お勢は昇を愛しているようで、実は愛してはいず、只昇に限らず、総て男子に、取分けて、若い、美しい男子に慕われるのが何 となく快いので有ろうが、それにもまた自分は心附いていまい。これを要するに、お勢の病 は外 から来たばかりではなく、内からも発したので、文三に感染 れて少し畏縮 た血気が今外界の刺激を受けて一時に暴 れだし、理性の口をも閉じ、認識の眼を眩 ませて、おそろしい力を以 て、さまざまの醜態に奮見するので有ろう。若しそうなれば、今がお勢の一生中で尤 も大切な時※[#白ゴマ点、212-2]能 く今の境界を渡り課 せれば、この一時 にさまざまの経験を得て、己の人と為 りをも知り、所謂 放心を求め得て始て心でこの世を渡るようになろうが、若し躓 けばもうそれまで、倒 たままで、再び起上る事も出来まい。物のうちの人となるもこの一時 、人の中 の物となるもまたこの一時※[#白ゴマ点、212-5]今が浮沈の潮界 、尤も大切な時で有るに、お勢はこの危い境を放心 して渡ッていて何時 眼が覚めようとも見えん。
このままにしては置けん。早く、手遅れにならんうちに、お勢の眠 った本心を覚まさなければならん、が、しかし誰がお勢のためにこの事に当ろう?
見渡したところ、孫兵衛は留守、仮令 居たとて役にも立たず、お政は、あの如く、娘を愛する心は有りても、その道を知らんから、娘の道心を縊殺 そうとしていながら、しかも得意顔 でいるほどゆえ、固 よりこれは妨 になるばかり、ただ文三のみは、愚昧 ながらも、まだお勢よりは少しは智識も有り、経験も有れば、若しお勢の眼を覚ます者が必要なら、文三を措いて誰 がなろう?
と、こうお勢を見棄 たくないばかりでなく、見棄ては寧 ろ義理に背 くと思えば、凝性 の文三ゆえ、もウ余事は思ッていられん、朝夕只この事ばかりに心を苦めて悶苦 んでいるから、あたかも感覚が鈍くなったようで、お政が顔を皺 めたとて、舌鼓を鳴らしたとて、その時ばかり少し居辛 くおもうのみで、久しくそれに拘 ってはいられん。それでこう邪魔にされると知りつつ、園田の家を去る気にもなれず、いまに六畳の小座舗 に気を詰らして始終壁に対 ッて歎息 のみしているので。
歎息のみしているので、何故なればお勢を救おうという志は有っても、その道を求めかねるから。「どうしたものだろう?」という問は日に幾度 となく胸に浮ぶが、いつも浮ぶばかりで、答を得ずして消えてしまい、その跡に残るものは只不満足の三字。その不満足の苦を脱 れようと気をあせるから、健康 な智識は縮んで、出過た妄想 が我から荒出 し、抑えても抑え切れなくなッて、遂にはまだどうしてという手順をも思附き得ぬうちに、早くもお勢を救い得た後 の楽しい光景 が眼前 に隠現 き、払っても去らん事が度々有る。
しかし、始終空想ばかりに耽 ッているでも無い※[#白ゴマ点、213-9]多く考えるうちには少しは稍々 行われそうな工夫を付ける、そのうちでまず上策というは、この頃の家内 の動静 を詳く叔父の耳へ入れて父親の口から篤 とお勢に云い聞かせる、という一策で有る。そうしたら、或はお勢も眼が覚めようかと思われる。が、また思い返せば、他人の身の上なればともかくも、我と入組んだ関繋の有るお勢の身の上をかれこれ心配してその親の叔父に告げると何 となく後めだくてそうも出来ん。仮使 思い切ッてそうしたところで、叔父はお勢を諭 し得ても、我儘 なお政は説き伏せるをさて置き、却 ッて反対にいいくるめられるも知れん、と思えば、なるべくは叔父に告げずして事を収めたい。叔父に告げずして事を収めようと思えば、今一度お勢の袖 を扣 えて打附 けに掻口説 く外、他に仕方もないが、しかし、今の如くに、こう齟齬 ッていては言ったとて聴きもすまいし、また毛を吹いて疵 を求めるようではと思えば、こうと思い定めぬうちに、まず気が畏縮 けて、どうもその気にもなれん。から、また思い詰めた心を解 して、更に他にさまざまの手段を思い浮べ、いろいろに考え散してみるが、一つとして行われそうなのも見当らず、回 り回ッてまた旧 の思案に戻って苦しみ悶 えるうちに、ふと又例の妄想 が働きだして無益な事を思わせられる。時としては妙な気になッて、総てこの頃の事は皆一時 の戯 で、お勢は心から文三に背 いたのでは無くて、只背いた風 をして文三を試ているので、その証拠には今にお勢が上って来て、例の華かな高笑で今までの葛藤 を笑い消してしまおうと思われる事が有る※[#白ゴマ点、214-8]が、固より永くは続かん※[#白ゴマ点、214-8]無慈悲な記憶が働きだしてこの頃あくたれた時のお勢の顔を憶い出させ、瞬息の間 にその快い夢を破ってしまう。またこういう事も有る※[#白ゴマ点、214-10]ふと気が渝 って、今こう零落していながら、この様な薬袋 も無い事に拘 ッて徒 に日を送るを極 て愚 のように思われ、もうお勢の事は思うまいと、少時 思の道を絶ッてまじまじとしていてみるが、それではどうも大切な用事を仕懸けて罷 めたようで心が落居 ず、狼狽 てまたお勢の事に立戻って悶え苦しむ。
人の心というものは同一の事を間断なく思ッていると、遂に考え草臥 て思弁力の弱るもので。文三もその通り、始終お勢の事を心配しているうちに、何時からともなく注意が散って一事 には集らぬようになり、おりおり互に何の関係をも持たぬ零々砕々 の事を取締 もなく思う事も有った。曾 つて両手を頭 に敷き、仰向けに臥 しながら天井を凝視 めて初は例の如くお勢の事をかれこれと思っていたが、その中 にふと天井の木目 が眼に入って突然妙な事を思った※[#白ゴマ点、215-2]「こう見たところは水の流れた痕 のようだな」、こう思うと同時にお勢の事は全く忘れてしまった、そして尚お熟々 とその木目に視入って、「心の取り方に依っては高低 が有るようにも見えるな。ふふん、『おぷちかる、いるりゅうじょん』か」。ふと文三等に物理を教えた外国教師の立派な髯 の生えた顔を憶い出すと、それと同時にまた木目の事は忘れてしまった。続いて眼前 に七八人の学生が現われて来たと視れば、皆同学の生徒等で、或は鉛筆を耳に挿 んでいる者も有れば、或は書物を抱えている者も有り又は開いて視ている者も有る。能く視れば、どうか文三もその中 に雑 っているように思われる。今越歴 の講義が終ッて試験に掛る所で、皆「えれくとりある、ましん」の周囲 に集って、何事とも解らんが、何か頻 りに云い争いながら騒いでいるかと思うと、忽 ちその「ましん」も生徒も烟 の如く痕迹 もなく消え失 せて、ふとまた木目が眼に入った。「ふん、『おぷちかる、いるりゅうじょん』か」と云って、何故 ともなく莞爾 した。「『いるりゅうじょん』と云えば、今まで読だ書物の中でさるれえの「いるりゅうじょんす」ほど面白く思ったものは無いな。二日一晩に読切ってしまったっけ。あれほどの頭にはどうしたらなるだろう。余程組織が緻密 に違いない……」。さるれえの脳髄とお勢とは何の関係も無さそうだが、この時突然お勢の事が、噴水の迸 る如くに、胸を突いて騰 る。と、文三は腫物 にでも触 られたように、あっと叫びながら、跳ね起きた。しかし、跳ね起きた時は、もうその事は忘れてしまッた、何のために跳ね起きたとも解らん。久く考えていて、「あ、お勢の事か」と辛 くして憶い出しは憶い出しても、宛然 世を隔てた事の如くで、面白くも可笑 も無く、そのままに思い棄てた、暫 くは惘然 として気の抜けた顔をしていた。
こう心の乱れるまでに心配するが、しかし只心配するばかりで、事実には少しも益が無いから、自然は己 が為 べき事をさっさっとして行ってお勢は益々深味へ陥る。その様子を視て、さすがの文三も今は殆ど志を挫 き、とても我力にも及ばんと投首 をした。
が、その内にふと嬉しく思い惑う事に出遇 ッた。というは他の事でも無い、お勢が俄 に昇と疎々 しくなった、その事で。それまではお勢の言動に一々目を注 けて、その狂う意 の跟 を随 いながら、我も意 を狂わしていた文三もここに至って忽 ち道を失って暫く思念の歩 を留 めた。あれ程までにからんだ両人 の関繋が故なくして解 れてしまう筈 は無いから、早まって安心はならん。けれど、喜ぶまいとしても、喜ばずにはいられんはお勢の文三に対する感情の変動で、その頃までは、お政程には無くとも、文三に対して一種の敵意を挟 んでいたお勢が俄に様子を変えて、顔を※ [#「赤+報のつくり」、216-13]らめ合 た事は全く忘れたようになり、眉 を皺 め眼の中 を曇らせる事はさて置き、下女と戯 れて笑い興じている所へ行きがかりでもすれば、文三を顧みて快気 に笑う事さえ有る。この分なら、若し文三が物を言いかけたら、快く返答するかと思われる。四辺 に人眼が無い折などには、文三も数々 話しかけてみようかとは思ったが、万一 に危む心から、暫く差控ていた――差控ているは寧 しろ愚に近いとは思いながら、尚お差控ていた。
編物を始めた四五日後の事で有った、或日の夕暮、何か用事が有って文三は奥座敷へ行 こうとて、二階を降りてと見ると、お勢が此方 へ背を向けて縁端 に佇立 んでいる。少しうなだれて何か一心に為 ていたところ、編物かと思われる。珍らしいうちゆえと思いながら、文三は何心なくお勢の背後 を通り抜けようとすると、お勢が彼方 向いたままで、突然「まだかえ?」という。勿論人違 と見える。が、この数週 の間妄想 でなければ言葉を交 えた事の無いお勢に今思い掛なくやさしく物を言いかけられたので、文三ははっと当惑して我にも無く立留る、お勢も返答の無いを不思議に思ってか、ふと此方 を振向く途端に、文三と顔を相視 しておッと云って驚いた、しかし驚きは驚いても、狼狽 はせず、徒 莞爾 したばかりで、また彼方 向いて、そして編物に取掛ッた。文三は酒に酔った心地、どう仕ようという方角もなく、只茫然 として殆ど無想の境に彷徨 ッているうちに、ふと心附いた、は今日お政が留守の事。またと無い上首尾。思い切って物を言ってみようか……と思い掛けてまたそれと思い定めぬうちに、下女部屋の紙障 がさらりと開く、その音を聞くと文三は我にも無く突 と奥座敷へ入ッてしまった――我にも無く、殆ど見られては不可 とも思わずして。奥座敷へ入ッて聞いていると、やがてお鍋がお勢の側 まで来て、ちょいと立留ッた光景 で「お待遠うさま」という声が聞えた。お勢は返答をせず、只何か口疾 に囁 いた様子で、忍音 に笑う声が漏れて聞えると、お鍋の調子外 の声で「ほんとに内海 ……」「しッ!……まだ其所 に」と小声ながら聞取れるほどに「居るんだよ」。お鍋も小声になりて「ほんとう?」「ほんとうだよ」
こう成 て見ると、もう潜 ているも何となく極 が悪くなって来たから、文三が素知らぬ顔をしてふッと奥座敷を出る、その顔をお鍋は不思議そうに眺 めながら、小腰を屈 めて「ちょいとお湯へ」と云ッてから、ふと何か思い出して、肝 を潰 した顔をして周章 て、「それから、あの、若し御新造 さまがお帰 なすって御膳 を召上 ると仰 ッたら、お膳立をしてあの戸棚 へ入れときましたから、どうぞ……お嬢さま、もう直 宜 うござんすか? それじゃア行ってまいります」。お勢は笑い出しそうな眼元でじろり文三の顔を掠 めながら、手ばしこく手で持っていた編物を奥座敷へ投入れ、何やらお鍋に云って笑いながら、面白そうに打連れて出て行った。主従とは云いながら、同程 の年頃ゆえ、双方とも心持は朋友 で、尤 もこれは近頃こうなッたので、以前はお勢の心が高ぶっていたから、下女などには容易に言葉をもかけなかった。
出て行くお勢の後姿を目送 って、文三は莞爾 した。どうしてこう様子が渝 ったのか、それを疑っているに遑 なく、ただ何となく心嬉しくなって、莞爾 した。それからは例の妄想 が勃然 と首を擡 げて抑えても抑え切れぬようになり、種々 の取留 も無い事が続々胸に浮んで、遂には総 てこの頃の事は皆文三の疑心から出た暗鬼で、実際はさして心配する程の事でも無かったかとまで思い込んだ。が、また心を取直して考えてみれば、故無くして文三を辱 めたといい、母親に忤 いながら、何時しかそのいうなりに成ったといい、それほどまで親かった昇と俄に疏々 しくなったといい、――どうも常事 でなくも思われる。と思えば、喜んで宜いものか、悲んで宜いものか、殆ど我にも胡乱 になって来たので、あたかも遠方から撩 る真似をされたように、思い切っては笑う事も出来ず、泣く事も出来ず、快と不快との間に心を迷せながら、暫く縁側を往きつ戻りつしていた。が、とにかく物を云ったら、聞いていそうゆえ、今にも帰ッて来たら、今一度運を試して聴かれたらその通り、若し聴かれん時にはその時こそ断然叔父の家を辞し去ろうと、遂にこう決心して、そして一 と先 二階へ戻った。
明治
二葉亭四迷
[#改ページ]浮雲第一篇序
古代の未 だ曾 て称揚せざる耳馴 れぬ文句を笑うべきものと思い又は大体を評し得ずして枝葉の瑕瑾 のみをあげつらうは批評家の学識の浅薄なるとその雅想なきを示すものなりと誰人にやありけん古人がいいぬ今や我国の文壇を見るに雅運日に月に進みたればにや評論家ここかしこに現われたれど多くは感情の奴隷にして我好む所を褒 め我嫌 うところを貶 すその評判の塩梅 たる上戸 の酒を称し下戸の牡丹餅 をもてはやすに異ならず淡味家はアライを可とし濃味家は口取を佳とす共に真味を知る者にあらず争 でか料理通の言なりというべき就中 小説の如 きは元来その種類さまざまありて辛酸甘苦いろいろなるを五味を愛憎する心をもて頭 くだしに評し去るは豈 に心なきの極ならずや我友二葉亭の大人 このたび思い寄る所ありて浮雲という小説を綴 りはじめて数ならぬ主人にも一臂 をかすべしとの頼みありき頼まれ甲斐 のあるべくもあらねど一言二言の忠告など思いつくままに申し述べてかくて後大人の縦横なる筆力もて全く綴られしを一閲するにその文章の巧 なる勿論 主人などの及ぶところにあらず小説文壇に新しき光彩を添なんものは蓋 しこの冊子にあるべけれと感じて甚 だ僭越 の振舞にはあれど只 所々片言隻句 の穩かならぬふしを刪正 して竟 に公にすることとなりぬ合作の名はあれどもその実四迷大人の筆に成りぬ文章の巧なる所趣向の面白き所は総 て四迷大人の骨折なり主人の負うところはひとり僭越の咎 のみ読人乞 うその心してみそなわせ序 ながら彼の八犬伝水滸伝 の如き規摸の目ざましきを喜べる目をもてこの小冊子を評したまう事のなからんには主人は兎 も角 も二葉亭の大人否小説の霊が喜ぶべしと云爾
第二十年夏
第二十年夏
春の屋主人
[#改ページ]第一編
第一回 アアラ怪しの人の
途上
「しかしネー、
「けれども山口を見給え、事務を取らせたらあの男程捗の往く者はあるまいけれども、やっぱり免を
「
「何故」
「何故と言って、彼奴は馬鹿だ、課長に向って
「あれは全体課長が悪いサ、自分が不条理な事を言付けながら、何にもあんなに頭ごなしにいうこともない」
「それは課長の方が或は不条理かも知れぬが、しかし
「イヤあれは指図じゃアない、注意サ」
「フム
高い男は中背の男の顔を
「ダガ君の免を
「何故」
「何故と言って、君、これからは朝から晩まで
「フフフン、馬鹿を言給うな」
ト高い男は顔に
高い男は玄関を通り抜けて縁側へ
「お
トいって、何故か
「叔母さんは」
「
「そう」
ト言捨てて高い男は縁側を
高い男は
「アノー
「ア、そう、何処から来たんだ」
ト郵便を手に取って見て、
「ウー、国からか」
「アノネ
と
「
ト
「お嬢さまはお化粧なんぞはしないと
ト
第二回 風変りな恋の
高い男と仮に名乗らせた男は、本名を
叔父は
お勢の
お勢の入塾した塾の塾頭をしている婦人は、新聞の受売からグット思い上りをした
既に記した如く、文三の出京した頃はお勢はまだ十二の蕾、幅の
お勢の落着たに引替え、文三は何かそわそわし出して、出勤して事務を執りながらもお勢の事を思い続けに思い、退省の時刻を
お勢の帰宅した初より、自分には気が付かぬでも文三の胸には虫が
第三回 余程
今年の仲の夏、或一
「
トいう。
「
ト返答をして文三は肩を
「オヤ誰方かと思ッたら文さん……
「エ
「何か御用が有るの」
「イヤ何も用はないが……」
「それじゃア
文三は
「お
「エ、エー……」
ト言ッたまま文三は
「
「デモ
「オヤマア貴君にも似合わない……アノ
ト
「そう言われちゃア一言もないが、しかし……」
「些とお遣いなさいまし」
トお勢は
「しかしどうしましたと」
「エ、ナニサ影口がどうも
「それはネ、どうせ些とは何とか言いますのサ。また何とか言ッたッて宜じゃア有りませんか、
「トハ思ッているようなものの、まさか影口が耳に入ると
「それはそうですヨネー。この間もネ貴君、鍋が生意気に
「アハハハ
「母ですか、母はどうせ下等の人物ですから始終可笑しな事を言ッちゃアからかいますのサ。それでもネ、そのたんびに私が
「ヘーからかう、どんな事を仰しゃッて」
「アノーなんですッて、そんなに親しくする位なら
ト聞くと等しく文三は
「ですがネ、教育のない者ばかりを責める訳にもいけませんヨネー。私の
文三はチョイと一礼して
「お世辞にもしろ
「アラお世辞じゃア有りませんよ、
「真実なら尚お嬉しいが、しかし私にゃア
「オヤ何故ですエ、何故親友の交際が出来ませんエ」
「何故といえば、私には貴嬢が解からず、また貴嬢には私が解からないから、どうも親友の交際は……」
「そうですか、それでも私には貴君はよく解ッている積りですよ。貴君の学識が有ッて、品行が方正で、親に孝行で……」
「だから貴嬢には私が解らないというのです。貴嬢は私を親に孝行だと仰しゃるけれども、孝行じゃア有りません。私には……親より……大切な者があります……」
ト
「親より大切な者……親より……大切な……者……親より大切な者は私にも有りますワ」
文三はうな垂れた
「エ、貴嬢にも有りますと」
「ハア有りますワ」
「
「人じゃアないの、アノ真理」
「真理」
ト文三は
「アア、貴嬢は清浄なものだ潔白なものだ……親より大切なものは真理……アア潔白なものだ……しかし感情という者は実に妙なものだナ、人を
ト
「ダガ思い切れない……どう有ッても思い切れない……お勢さん、貴嬢は御自分が潔白だからこんな事を言ッてもお解りがないかも知れんが、私には真理よりか……真理よりか大切な者があります。去年の暮から
ト些し声をかすませて、
「なまじい力におもうの親友だのといわれて見れば私は……どうも……どう有ッても思い……」
「アラ月が……まるで竹の中から出るようですよ、ちょっと御覧なさいヨ」
庭の
「アア
トいって
「お勢さん」
「ハイ」
但し小声で。
「お勢さん、
トいいさして文三は顔に手を
翌朝に至りて
「アノー
返答なし。
「何だか私が残酷だッて大変
ト
「大抵察していながらそんな事を」
「アラそれでも私にゃ何だか解りませんものヲ」
「解らなければ解らないでよう御座んす」
「オヤ可笑しな」
それから後は文三と差向いになる毎に、お勢は例の事を種にして
アア
文三の某省へ奉職したは
トいう
第四回 言うに言われぬ胸の
さてその日も
心ない身も秋の夕暮には
「それはそうとどうしようかしらん、到底言わずには置けん
ト、ブルブルと
奥坐舗の長手の
「ハイ
「全体
「今日はネ、
「
「それそれその親睦会が有るから一所に往こうッてネお浜さんが勧めきるんサ。私は
「ハアそうですか、それでは
お勢と顔を見合わせると文三は不思議にもガラリ気が変ッて、
「
「アイヨ」
トいってお政は
「オヤオヤ茶碗が
ト呼ばれて出て来た者を見れば例の日の丸の紋を染抜いた首の持主で、
「母親さんは自分が清元が出来るもんだからそんな事をお言いだけれども、長唄の方が
「長唄も
ト中音で口癖の清元を
「いいワ」
「その通り品格がないから
「また始まッた、ヘン
「だッて人間は品格が第一ですワ」
「ヘンそんなにお
「オヤ何時私がそんな事を言ました」
「ハイ
「
トハ言ッたが
「アノ今日出懸けに母親さんの
「ア
「ハアそうですか、それは。それでも母親さんは
「ハイ、お
「それはマア何よりの
「ハイ、指ばかり
「そうだろうてネ、
トお勢を
「それからアノー例の事ネ、あの事をまた何とか言ッてお
「ハイ、また言ッてよこしました」
「なんッてネ」
「ソノー気心が解らんから厭だというなら、エー今年の暮帰省した時に、逢ッてよく気心を
「なに、母親さん」
「エ、ナニサ、アノ、ソラお前にもこの間話したアネ、文さんの……」
お勢は独り
「ヘーそんな事を言ッておよこしなすッたかい、ヘーそうかい……それに附けても早く内で帰ッて来れば
ト些し考えて
「何時返事をお出しだ」
「返事はもう出しました」
「エ、モー出したの、今日」
「ハイ」
「オヤマア文さんでもない、私になんとか
「デスガ……」
「それはマアともかくも、何と言ッてお上げだ」
「エー今は仲々婚姻どころじゃアないから……」
「アラそんな事を言ッてお上げじゃア母親さんが
「イエまだお咄し申さぬから何ですが……」
「マアサ私の
「
「マアサ有ッても無くッても、そう言ッてお上げだと母親さんが安心なさらアネ……イエネ、親の身に成ッて見なくッちゃア解らぬ
これは
ト言ッたのが
「トいうが
「また
トお勢は顔を
「オホオホオホほんとにサ、仲々
「だから母親さんは厭ヨ、
「ヘーヘー恐れ
「エヘヘヘヘ」
「イエネこの通り親を馬鹿にしていて、何を言ッてもとても私共の
トお政は又もお勢を尻目に懸ける。折しも
「あんな帯留め……どめ……を……」
「オヤもう十一時になるヨ、鍋の寐言を言うのも無理はない、サアサア寝ましょう寝ましょう、あんまり夜深しをするとまた
「ハイ私も……私も是非お咄し申さなければならん事が有りますが、いずれまた
ト
「文さん、
「ハイ有ります」
「もうお読みなすッたの」
「読みました」
「それじゃア拝借」
トお勢は文三の跡に
「文さん」
「エ」
返答はせずしてお勢は
「何です」
「
「
「それでもお
ト笑いながら逃ぐるが如く二階を駆下りる。そのお勢の後姿を見送ッて文三は
「ますます
一時間程を経て文三は
「
第五回
文三が食事を済まして縁側を廻わり
「文さんどうかお
「イエどうも為ませぬが……」
「それじゃア
「エーまだお話し……申しませんでしたが……実は、ス、さくじつ……め……め……」
「ム、めん職になりました」
ト一思いに言放ッて、ハッと
「エ御免にお成りだとエ……オヤマどうしてマア」
「ど、ど、どうしてだか……
「オーヤオーヤ仕様がないネー、マア御免になってサ。ほんとに仕様がないネー」
ト落胆した
「マアそれはそうと、これからはどうして
「どうも仕様が有りませんから、
「官員の口てッたッてチョックラチョイと有りゃアよし、無かろうもんならまた
「まさかそういう訳でもありますまいが……」
「イイエ
「イエ何にも悪い事をした覚えは有りませんが……」
「ソレ御覧なネ」
両人とも暫らく無言。
「アノ本田さんは(この男の事は第六回にくわしく)どうだッたエ」
「かの男はよう御座んした」
「オヤ善かッたかい、そうかい、運の
「それはそうかも知れませんが、しかし
「出来ないとお言いのか……フン
母親と聞いて文三の
「イエサ母親さんがお
ト
「アアアア母親さんもあんなに今年の暮を楽しみにしてお出でなさるとこだから、
「実に
「
ト、ツンと済まして
「ヘヘヘヘ面目は御座んせんが、しかし……出……出来た事なら……仕様が有りません」
「何だとエ」
トいいながら
「イエサ何とお言いだ。出来た事なら仕様が有りませんと……誰れが
「イヤ決してそう言う訳じゃア有りませんが、御存知の通り口不調法なので、心には存じながらツイ……」
「イイエそんな言訳は聞きません。なんでも
ト厭味文句を並べて始終肝癪の
「それもそうだが、全躰その位なら
「ハイ」
「文さんのお弁当は
お鍋
「アノネ、内の文さんは
「ヘーそれは」
「どうしても働のある
ト
と言ッて出て
「オヤ大変片付たこと」
「余りヒッ散らかっていたから」
ト我知らず言ッて文三は我を怪んだ。何故
「アノ今母親さんがお
「
ト文三も今朝とはうって
「実に面目は有りませんが、しかし
トいって歯を
「そうでしたとネー、だけれども……」
「二十三にも成ッて親一人楽に過す事の出来ない意久地なし、と言わないばかりに
「そうでしたとネー、だけれども……」
「成程私は意久地なしだ、意久地なしに違いないが、しかしなんぼ叔母甥の
「だけれどもあれは母親さんの方が不条理ですワ。今もネ母親さんが得意になってお話しだったから、私が議論したのですよ。議論したけれども母親さんには私の
ト極り文句。文三は垂れていた
「エ、母親さんと議論を
「ハア」
「僕の為めに」
「ハア、君の為めに弁護したの」
「アア」
ト言ッて文三は差俯向いてしまう。
「どうかしたの、文さん」
トいわれて文三は漸く
「どうもしないが……実に……実に嬉れしい……母親さんの仰しゃる通り、二十三にも成ッてお袋一人さえ過しかねるそんな
「条理を説ても解らない癖に腹ばかり立てているから仕様がないの」
ト少し得意の
「アアそれ程までに
「下宿を」
「サ
「
「イヤそうでない、それでは済まない、是非お詫を申そう。がしかしお勢さん、お志は嬉しいが、もう母親さんと議論をすることは
「お勢」
ト下坐舗の方でお政の呼ぶ声がする。
「アラ母親さんが呼んでお出でなさる」
「ナアニ用も何にも有るんじゃアないの」
「お勢」
「マア返事を
「お勢お勢」
「ハアイ……チョッ
ト
「今話した事は
ト文三が
先程より
「お……お……お勢、あれ程呼ぶのがお前には聞えなかッたかエ、
ト
「
「用がないのに何故お出でだ。
「今までは二階へ往ッても善くッてこれからは悪いなんぞッて、そんな不条理な」
「チョッ解らないネー、今までの文三と文三が違います。お前にゃア免職になった事が解らないかエ」
「オヤ免職に成ッてどうしたの、文さんが人を見ると
「な、な、な、なんだと、何とお言いだ……コレお勢、それはお前あんまりと言うもんだ、
「ば、ば、ば、馬鹿にはしません。ヘー私は条理のある所を主張するので御座います」
ト唇を反らしていうを聞くや
「エーくやしい」
ト歯を
しかしながらこれを親子
その夜文三は
「アアアア
第六回 どちら
秋の日影も
「
ト
「オヤ
「イヤ結構……結構も
「ハア居ますヨ」
「それじゃちょいと
「
「違いない」
ト何か
帰ッて来ぬ
昇は
昇はまた頗る
とはいうものの昇は才子で、能く課長殿に
ともかくも昇は才子で、毎日怠らず出勤する。事務に懸けては頗る
下宿が眼と鼻の間の
「トキニ内海はどうも飛だ事で、実に気の毒な、今も
「
「そう言えばそんなような者だが、しかし何しろ気の毒だ。こういう事になろうと
「何とか言ッてましたろうネ」
「何を」
「私の事をサ」
「イヤ何とも」
「フム
「
「そう」
ト
「どうしたんです、
「
「それはまたどうした
「マア本田さん、聞ておくんなさい、こうなんですヨ」
ト
「トいう訳でツイそれなり
「それは勿論内海が悪い」
「そのまた
「アラ喰ッて懸りはしませんワ」
「喰ッて懸らなくッてサ……私はもうもう腹が立て腹が立て
「アラあんな
「虚言じゃないワ
「人が黙ッていれば
「アアモウ解ッた解ッた、何にも
ト昇は
「しかし叔母さん、
ト相手のない高笑い。お勢は
「それは
「なにが上出来なもんですか……」
「イヤ上出来サ。上出来でないと思うなら、まず世間の
「『ナショナル』の『フォース』に
「フウ、『ナショナル』の『フォース』、『ナショナル』の『フォース』と言えば、なかなか
「ナニ
ト眼を細くして娘の方を
「喜び
「エ」
トお政は
「御結構が有ッたの……ヘエエー……それはマア何してもお
ト
「ヘー御結構が有ッたの……」
お勢もまた昇が「御結構が有ッた」と聞くと等しく吃驚した
「一等お
「
「オヤ五円違いだッて結構ですワ。こうッ今までが三十円だッたから五円殖えて……」
「何ですネー
「マアサ五円殖えて三十五円、結構ですワ、結構でなくッてサ。
「
「艶じゃア無い、
「アハハハハ、貧乏人の
「それはそうと、
「
「オヤそれは
トまた口を
「それは
「菊見、さようさネ、菊見にも依りけりサ。
「其処にはまた
「
「まさか」
「
「お出でなさいお出でなさい」
「お勢、お前もお出ででないか」
「菊見に」
「アア」
お勢は生得の
「
「だけれども本田さんは学問は出来ないようだワ」
「フム学問々々とお言いだけれども、立身出世すればこそ学問だ。
「それは不運だから仕様がないワ」
トいう娘の顔をお政は
「お勢、
「またあんな事を言ッて……
「チョッ、また始まッた。覚えが無いなら無いで好やアネ、何にもそんなに熱くならなくッたッて」
「だッて人をお
暫らく
「
「何なりとも」
「エート、下着は
「もう一ツのお召
「デモあれは品が悪いものヲ」
「
「アアこんな時にア洋服が有ると好のだけれどもナ……」
「働き
トいう母親の顔をお勢はジット
[#改丁]
第二編
第七回
日曜日は近頃に無い天下晴れ、風も穏かで
園田
文三は
ヤ面白からぬ。文三には昨日お勢が「
「シカシこりゃア
と不図何か
行くも
落着かれぬままに文三がチト読書でもしたら紛れようかと、
「モシ罷めになッたら……」
ト
シカシ
「どうした、
「
「そうか、
チョイと云う事からしてまず
「どうだ、どうしても
「まずよそう」
「剛情だな……ゴジョウだからお
「本田さん」
「何です」
「アノ車が参りましたから、よろしくば」
「出懸けましょう」
「それではお早く」
「チョイとお勢さん」
「ハイ」
「
返答は無く、
「アハハハ、何にも言わずに逃出すなぞは
ト言ったのが文三への挨拶で、昇はそのまま
「馬鹿
ト言ったその声が未だ
「馬鹿奴」
これは
午後はチト風が出たがますます上天気、
さてまた団子坂の景況は、例の
一体全体菊というものは、
閑話
昇の
お政は
お勢は黄八丈の一ツ小袖に
シカシ
「色だ、ナニ夫婦サ」と
お勢も今日は取分け気の晴れた
お政は菊細工には
昇等三人の者は最後に坂下の植木屋へ立寄ッて、次第々々に見物して、とある
漸くの事で笑いを
と見れば
紳士の
暫らく
お勢は紳士にも貴婦人にも眼を
その内に紳士の一行がドロドロと
「本田さん、此処だよ」
ト云うお政の声を聞付けて、昇は
「ヤ
「今の方は」
「アレガ課長です」
ト云ってどうした
「今日来る
「アノ丸髷に
「そうです」
「束髪の方は」
「アレですか、ありゃ……」
ト言かけて後を振返って見て、
「妻君の妹です……内で見たよりか
「別嬪も別嬪だけれども、好いお
「ナニ今日はあんなお嬢様然とした風をしているけれども、
「学問は出来ますか」
ト突然お勢が尋ねたので、昇は愕然として、
「エ学問……出来るという
ト聞くとお勢は忽ち眼元に冷笑の気を含ませて、振反って、今
車に乗ッてからお政がお勢に向い、
「お勢、お前も今のお
「
「オヤ
「だッて厭味ッたらしいもの」
「ナニお前十代の内なら
「フフンそんなに宜きゃア
「好と思ッたから唯好じゃ無いかと云ッたばかしだアネ、それをそんな事いうッて
お勢はもはや弁難攻撃は不必要と認めたと見えて、何とも言わずに黙してしまッた。それからと云うものは、
上野公園の秋景色、
お勢が散歩したいと云い出したので、三人の者は教育博物館の前で車を降りて、ブラブラ行きながら、石橋を渡りて動物園の前へ
折しも其処の裏門より
「ダガ何か
「食たくなった」
「食たくなってもか……」
ト愚痴ッぽく言懸けて、フトお政と顔を視合わせ、
「ヤ……」
「オヤ
ト云う間もなく少年は
「
「何を
「
「お前、モウ試験は済んだのかえ」
「ア済んだ」
「どうだッたえ」
「そんな事よりか、
ト
「用が有るなら
少年は横目で昇の顔をジロリと視て、
「チョイと
「フンお前の用なら大抵知れたもんだ、また『小遣いが無い』だろう」
「ナニそんな
ト云ッてまた昇の顔を横眼で視て、サッと赤面して、調子外れな高笑いをして、無理矢理に母親を引張ッて、
昇とお勢はブラブラと歩き出して、来るともなく
お勢は
「
「エ、先刻の方とは」
「ソラ、課長さんの令妹とか
「ウー誰の事かと思ッたら……そうですネ、随分別嬪ですネ」
「そして家で視たよりか美しくッてネ。それだもんだから……ネ……
ト眼元と口元に一杯笑いを
「アッ
「それにあの
「トたたみかけて
「だッて実際の事ですもの」
「シカシあの娘が
「アラ、よう御座んすよ」
「だッて実際の事ですもの」
「オホホホ直ぐ
「
ト言懸ける折しも、官員風の男が
「戯談は除けて、幾程美しいと云ッたッてあんな娘にゃア、
「気が無いから横目なんぞ遣いはなさらなかッたのネー」
「マアサお聞きなさい。あの娘ばかりには限らない、どんな美しいのを視たッても気移りはしない。我輩には『アイドル』(本尊)が一人有るから」
「オヤそう、それはお芽出度う」
「ところが一向お芽出度く無い事サ、
トあじな眼付をしてお勢の貌をジッと
「厭な『アイドル』ですネ、オホホホ」
「シカシ考えて見れば
「モウ何時でしょう」
「それに
「オヤ厭だ……モウ
「
「慈母さんと云えば何を
ト
「
ト愚痴ッぽくいッた。
「厭ですよ、そんな戯談を仰しゃッちゃ」
ト云ッてお勢が
「戯談と聞かれちゃ
ト昇は歎息した。お勢は
「こう言出したと云ッて、何にも
お勢は尚お黙然としていて返答をしない。
「お勢さん」
ト云いながら昇が
「
ト云ッて全く
「アハハハハハ」
ト
「オヤ厭だ……アラ厭だ……憎らしい本田さんだネー、真面目くさッて人を
ト云ッて悔しそうにでもなく恨めしそうにでもなく、
「お
ト云う声が
「
「大きにお待ち遠うさま」
ト云ッてお勢の顔を視て、
「お前、どうしたんだえ、顔を真赤にして」
ト
「オヤそう、歩いたら
「マア本田さん聞ておくんなさい、
「あんな事を云ッて
ト無理に押出したような高笑をした。
「黙ッてお出で、お前の知ッた
「オホホホ」
この
「運動会」
「そのうんどうかいとか
「慈母さん、書生の運動会なら会費と云ッても高が十銭か二十銭位なもんですよ」
「エ、十銭か二十銭……オヤそれじゃ三十銭足駄を履かれたんだよ……」
ト云ッて昇の顔を
「オホホホ」
「アハハハ」
第八回 団子坂の観菊 下
お勢
どうも気に懸る、お勢の事が気に懸る。こんな区々たる事は苦に病むだけが損だ損だと思いながら、ツイどうも気に懸ってならぬ。
どうも気が知れぬ、文三には平気で澄ましているお勢の心意気が
若し
「イヤ
「解らないナ、どうしても解らん」
解らぬままに文三が、想像弁別の両刀を執ッて、
文三ホッと精を尽かした。今はもう進んで穿鑿する気力も
「もしや本田に……」
ト言い懸けて敢て言い詰めず、
それにしてもこの疑念は
とは云うものの心持は
「シテ見れば大丈夫かしら……ガ……」
トまた引懸りが有る、まだ
然り畏ろしい。この「ガ」の先にはどんな
国
「お勢を疑うなんぞと云ッて
この最後の大笑で
ハッと気を取直おして文三が
こう申せばそなたはお笑い被成候 かは存じ不申 候えども、手紙の着きし当日より一日も早く旧 のようにお成り被成 候ように○○ のお祖師さまへ茶断 して願掛け致しおり候まま、そなたもその積りにて油断なく御奉公口をお尋ね被成度 念じ※ [#「参らせ候」のくずし字、103-14]。
文三は手紙を下に叔母ですら
「畜生、
ト
「これから往って頼んで来よう」
ト口に言って、「お勢の帰って来ない内に」ト内心で言足しをして、
知己と云うは石田
この男は曾て英国に留学した事が有るとかで英語は一通り出来る。当人の
英国の学者社会に
ともかくもさすがは留学しただけ有りて、英国の事情、
日本の事情は皆無解らないが当人は一向苦にしない。
まだ中年の癖に、この男はあだかも老人の如くに過去の追想
知己の者はこの男の事を
「シカシ、毒が無くッて
尋ねて見ると幸い在宿、
「これが英国だと君一人位どうでもなるんだが、日本だからいかん。我輩こう見えても英国にいた頃は随分知己が有ったものだ。まず『タイムス』新聞の社員で
ト記憶に存した知己の名を一々言い立てての噺、
「新聞の翻訳物が有るから周旋しよう。
トいうから文三は喜びを述べた。
「フン新聞か……日本の新聞は英国の新聞から見りゃ
文三は
早くお勢に逢いたい、早くつまらぬ心配をした事を咄してしまいたい、早く心の清い所を見せてやりたい、ト一心に思詰めながら文三がいそいそ帰宅して見るとお勢はいない。お鍋に聞けば、
居間へ戻ッて燈火を点じ、
「お
「非常に
ト言いながら
「アアせつない、
「
ト文三が尋ねた、お勢が何を言ッたのだかトント解らないようで。
「お湯から買物に回ッて……そしてネ
ト聞いて文三は満面の笑を
「それからネ、私共を家へ送込んでから、仕様が無いんですものヲ、
ト思出し笑をして、
「
文三は全く笑を引込ませてしまッて腹立しそうに、
「そりゃさぞ面白かッたでしょう」
ト云ッて顔を
「真個に失敬な人だよ」
つまらぬ心配をした事を
「何をそんなに
「何も塞いじゃいません」
「そう、私はまたお
文三は愕然としてお勢の貌を暫らく
「オホホホ溜息をして。やっぱり当ッたんでしょう、ネそうでしょう、オホホホ。当ッたもんだから黙ッてしまッて」
「そんな気楽じゃ有りません。今日母の所から郵便が来たから
「茶断して、慈母さんが、オホホホ。慈母さんもまだ旧弊だ事ネー」
文三はジロリとお勢を
「
「また何とか云いましたか」
「イヤ何とも
「
「ともかくも一日も早く身を
ト
「そうですネー」
ト今まで
「アア
ト
「アそうだッけ……文さん、貴君はアノー課長さんの
「知りません」
「そう、今日ネ、団子坂でお眼に懸ッたの。
ト再び会釈してお勢は二階を降りてしまッた。
縁側で唯今帰ッたばかりの母親に出逢ッた。
「お勢」
「エ」
「エじゃないよ、またお前二階へ上ッてたネ」
また始まッたと云ッたような
さて子舎へ這入ッてからお勢は
「
ト口へ出して考えて、フト
第九回 すわらぬ
今日は十一月四日、打続いての快晴で空は
一時頃に
「勇」
「だから
「勇と云えば。お前の耳は木くらげかい」
「だから何だと云ッてるじゃ無いか」
「
勇はシャツを脱ぎながら、
「『クラッス』の順番で
「さッさとお脱ぎで無いかネー、人が待ているじゃ無いか」
「そんなに急がなくッたッて
「
「そんな事云うなら
「チョイとお黙り……」
ト口早に制して、お勢が耳を
「
ト言いながら
「オイオイ姉さん、シャツを持ッてッとくれッてば……オイ……ヤ失敬な、モウ
「アハハハハ」
ト今まで黙想していた文三が突然無茶苦茶に高笑を
「お勢ッ子で沢山だ、婦人の癖にいかん、生意気で」
ト云いながら得々として二階を降りて往た。跡で文三は
奥の間の障子を開けて見ると、果して昇が
文三の顔を
「
ト云いながら、首を傾げてチョイと昇の顔を
「真個さ」
「
アノ筋の解らない他人の
「チョイと番町まで」ト文三が叔母に
「オイ内海、
「
「
文三はグット視下ろす、昇は視上げる、眼と眼を
「他の事でも無いんだが」
ト昇がイヤに冷笑しながら咄し出した。スルトお政はフト針仕事の手を
「今日役所での評判に、この間免職に成た者の
ト云懸けてお勢を
「お勢さんも非常に心配してお
「それは御信切……
ト言懸けて文三は黙してしまった。迷惑は
「
文三は血相を変えた……
「そんな事
トお政が横合から
「内の文さんはグッと気位が立上ってお出でだから、そんな
「ハハアそうかネ、それは至極お立派な
ト聞くと等しく文三は
「エヘヘヘヘ」
何となく席がしらけた。誰も口をきかない。勇がふかし
「お勢が顔を視ている……このままで
「モウそ……それッきりかネ」
ト覚えず取外して云って、我ながら我音声の変ッているのに
「何が」
またやられた。
「用事は……」
「ナニ用事……ウー用事か、用事と云うから
モウ席にも堪えかねる。黙礼するや
が文三無念で残念で口惜しくて、堪え切れぬ憤怒の気がカッとばかりに
無念々々、文三は
復職する者が有ると云う役所の評判も、課長の言葉に思当る事が有ると云うも、昇の云う事なら
仮りに一歩を譲ッて、全く
それも宜しいが、課長は昇の為めに課長なら、文三の為めにもまた課長だ。それを昇は、あだかも
疑いも無く昇は、課長の信用、三文不通の信用、主人が
面と向ッて
痩我慢々々々、誰が痩我慢していると云ッた、また何を痩我慢していると云ッた。
俗務をおッつくねて、課長の顔色を
「痩我慢なら大抵にしろ」
口惜しい、腹が立つ。
「しかも辱められるままに辱められていて、
ト何処でか
「手出がならなかッたのだ、手出がなっても
ト文三
「
トは知らずしてお勢が、
「ト云うも昇、貴様から起ッた事だぞ、ウヌどうするか見やがれ」
ト
「シカシ考えて見ればお勢も恨みだ」
ト文三が
「現在自分の……
「しかも立際に一所に成ッて高笑いをした」ト無慈悲な記臆が用捨なく
「そうだ高笑いをした……シテ見れば
ト思いながら文三が力無さそうに、とある桜の樹の
「ヒョットしたらお勢に
ト云ッて文三は血相を変えて
がどうしたもので有ろう。
何かコウ非常な手段を用いて、非常な豪胆を示して、「文三は男児だ、虫も胆気もこの通り有る、今まで何と言われても笑ッて済ましていたのはな、全く
思うさま言ッて言ッて言いまくッて、そして断然絶交する……イヤイヤ昇も仲々
「ハテどうしてくれよう」
ト
「オイ内海君」
ト云う声が
「ヤ誰かと思ッたら一別以来だネ」
「ハハハ一別以来か」
「大分
「然り御機嫌だ。シカシ酒でも飲まんじゃー
ト云ッてその証拠立の為めにか、胸で妙な間投詞を発して聞かせた。
「
「Despair じゃー無いが、シカシ君面白く無いじゃーないか。何等の不都合が有ッて我々共を追出したんだろう、また何等の取得が有ッてあんな
ト真黒に成ッてまくし立てた。その貌を見て、
「君もそうだが、僕だッても事務にかけちゃー……」
「些し小いさな声で
ト気を附けられて
「事務に懸けちゃこう云やア
「そうとも」
「そうだろう」
ト
「然るに
「面白く無いけれども、シカシ
「仕様が無いけれども面白く無いじゃないか」
「トキニ、本田の云事だから宛にはならんが、復職する者が二三人出来るだろうと云う事だが、君はそんな評判を聞いたか」
「イヤ聞かない。ヘー復職する者が二三人」
「二三人」
山口は俄に口を
「復職する者が有ッても僕じゃ無い、僕はいかん、課長に憎まれているからもう駄目だ」
ト云ッてまた暫らく黙考して、
「本田は一等上ッたと云うじゃないか」
「そうだそうだ」
「どうしても事務外の事務の
「誰にも出来ない」
「奴の事だからさぞ得意でいるだろうネ」
「得意も宜いけれども、人に
ト云ッてしまッてからアア悪い事を云ッたと気が附いたが、モウ取返しは附かない。
「エ失敬な事を、どんな事をどんな事を」
「エ、ナニ些し……」
「どんな事を」
「ナニネ、本田が今日僕に或人の所へ往ッてお
「それで君、黙ッていたか」
ト山口は憤然として
「
「そ、そ、それだから
ト苦々しそうに
「僕なら直ぐその場でブン
「
「疎暴だッて
文三は黙してしまッてもはや
「トキニ君は、何だと云ッて
山口は俄かに何か思い出したような
「アそうだッけ……一番町に親類が有るから、この勢でこれから其処へ往ッて金を借りて来ようと云うのだ。それじゃこれで別れよう、
ト
「
第十回 負るが勝
知己を番町の家に訪えば
この牛店は開店してまだ間もないと見えて見掛けは至極よかッたが、
両側の
宿所へ来た。何心なく文三が
奥坐舗を窺いて見ると、
(昇)「オヤこんな
(勢)「アラ私じゃ有りませんよ、アラ鍋ですよ、オホホホホ」
(鍋)「アラお嬢さまですよ、オホホホホ」
(昇)「誰も彼も無い、二人共
(鍋)「アラ
ト大声を揚げさせての騒動、ドタバタと云う足音も聞えた、オホホホと云う笑声も聞えた、お勢の
「オー危ない……誰だネーこんな
「ヤ、コリャ失敬……文三です……
お政は何とも言わずにツイと奥坐舗へ這入りて跡ピッシャリ。恨めしそうに跡を
「実に
トまでは調子に連れて黙想したが、ここに至ッてフト今の我身を省みてグンニャリと
The ever difficult task of defining the distinctive characters and aims of English political parties threatens to become more formidable with the increasing influence of what has hitherto been called the Radical party. For over fifty years the party……
ドッと下坐舗でする高笑いの声に流読の腰を折られて、文三はフト口を「チョッ失敬極まる。
ハッと
The ever difficult task of defining the distinctive characters and aims of English political……
フト格子戸の開く音がして笑い声がピッタリ止ッた。文三は耳を高笑いの声がする内は何をしている位は大抵想像が附たからまず宜かッたが、こう
キット思付いた、イヤ
台所へ来て見ると、
「チョイと
ト云うは
「厭サ、あんな事をなさるから」
「モウ
「厭」
「ヨーシ厭と云ッたネ」
「
ト、チョイと首を
「ア、お出で、サア……サア……」
「
「コイツメ」
ト確に
オホホホと笑いを
「オヤ誰……文さん……
文三は何にも言わず、ツンとして二階へ上ッてしまッた。
その
「本田さんが
ト鼻を鳴らした。
文三は恐ろしい
「これだもの……大切なお客様を置去りにしておいて」
「だッて
「どんな事を」
ト言いながら昇は坐ッた。
「どんな事ッて、あんな事を」
「ハハハ、
「そんなら云ッてもよう御座んすか」
「宜しいとも」
「ヨーシ宜しいと
ト言懸けて昇の顔を
「オホホホ、マアかにして上げましょう」
「ハハハ言えないのか、それじゃー我輩が代ッて
「本田さん」
「私の……」
「アラ本田さん、仰しゃりゃー承知しないから宜い」
「ハハハ、自分から言出して置きながら、そうも亭主と云うものは
「恐かア無いけれども私の不名誉になりますもの」
「
「何故と云ッて、貴君に
「ヤこれは飛でも無いことを云いなさる、唯チョイと……」
「チョイとチョイと本田さん、敢て一問を呈す、オホホホ。貴方は何ですネ、口には同権論者だ同権論者だと仰しゃるけれども、
「同権論者でなければ何だと云うんでゲス」
「非同権論者でしょう」
「非同権論者なら」
「絶交してしまいます」
「エ、絶交してしまう、アラ恐ろしの決心じゃなアじゃないか、アハハハ。どうしてどうして我輩程熱心な同権論者は恐らくは有るまいと思う」
「
「これは
「どう云うッてアノー、僕の好きな同権論者はネ、アノー……」
ト横眼で天井を
昇が小声で、
「文さんのような」
お勢も小声で、
「
ト
「イヨー
「オホホホホそんな事仰しゃるけれども、文さんのような同権論者が好きと云ッたばかりで、文さんが好きと云わないから宜いじゃ有りませんか」
「その
「オホホホホそんならばネ……アこうですこうです。私はネ文さんが好きだけれども、文さんは私が嫌いだから
「ヘン嫌いどころか好きも好き、
文三はムッとしていて
「あんまり貴君が
「ナニまさか
「オホホホ」
ト笑いながらお勢はまた文三の貌を横眼で視た。
「シカシそうは云うものの内海は果報者だよ。まずお勢さんのようなこんな」
ト、チョイとお勢の
「
「オホホホ」
「オイ好男子、そう苦虫を
「オホホホホ」
トお勢はまた作笑いをして、また横眼でムッとしている文三の貌を視て、
「アー可笑しいこと。
「マアもう些と御亭主さんの
「
「茶を入れて持て来る実が有るなら
「水を、お砂糖入れて」
「イヤ砂糖の無い方が宜い」
「そんならレモン入れて来ましょうか」
「レモンが
「何だネーいろんな事云ッて」
ト云いながらお勢は
「本田」
「エ」
「君は酒に酔ッているか」
「イイヤ」
「それじゃア
「何だ、可笑しな事を言出したな。さよう、尊敬していなければ出来ない」
「それじゃア……」
ト云懸けて黙していたが、思切ッて些し声を震わせて、
「君とは暫らく交際していたが、モウ今夜ぎりで……絶交して貰いたい」
「ナニ絶交して貰いたいと……何だ、唐突千万な。何だと云ッて絶交しようと云うんだ」
「その理由は君の胸に聞て貰おう」
「可笑しく云うな、我輩少しも絶交しられる覚えは無い」
「フン覚えは無い、あれ程人を侮辱して置きながら」
「人を侮辱して置きながら。誰が、何時、何と云ッて」
「フフン仕様が無いな」
「君がか」
文三は
「何にもそうとぼけなくッたッて宜いじゃ無いか。君みたようなものでも人間と思うからして、
「オイオイオイ、人に物を云うならモウ
「それじゃ何故
「それがそんなに気に障ッたのか」
「
「アハハハ
「事に大小は有ッても理に
「それから」
「
ト云ッて文三冷笑した。
「
ト云ッてまた冷笑した。
「僕の関係した事でないから、僕は何とも云うまい。だから君もそう落胆イヤ
「フフウ
「モウこれより外に言う事も無い。また君も何にも言う必要も有るまいから、このまま下へ降りて貰いたい」
「イヤ言う必要が有る。
「親友の間にも礼義は有る。
「何が無礼だ。『痩我慢なら大抵にしろ』と云ッたッけか、『大抵にした方がよかろうぜ』と云ッたッけか、
「忠告なら僕は
「何故」
「若し忠告なら何故人のいる前で言ッた」
「叔母さんやお勢さんは内輪の人じゃないか」
「そりゃ内輪の者サ……内輪の者サ……けれども……しかしながら……」
文三は狼狽した。昇はその
「内輪な者だけれども、シカシ何にもアア口汚く言わなくッても好じゃないか」
「どうも種々に
「
「Manner が気に喰わないのなら改めてお断り申そう。君には侮辱と聞えたかも知れんが我輩は忠告の積りで言ッたのだ、それで宜かろう。それならモウ絶交する必要も有るまい、アハハハ」
文三は何と
お勢が
「ハイ本田さん」
「これはお待遠うさま」
「何ですと」
「エ」
「アノとぼけた顔」
「アハハハハ、シカシ余り遅かッたじゃないか」
「だッて用が有ッたんですもの」
「浮気でもしていやアしなかッたか」
「
「我輩がそんなに浮気に見えるかネ……ドッコイ『課長さんの令妹』と云いたそうな口付をする。云えば
「厭な人だネー、人が何にも言わないのに邪推を廻わして」
「邪推を廻わしてと云えば」
ト文三の方を向いて、
「どうだ隊長、まだ胸に落んか」
「君の云う事は皆
「何故」
「そりゃ説明するに及ばん、
「アハハハ、とうとう Self-evident truth にまで達したか」
「どうしたの」
「マア聞いて御覧なさい、余程面白い議論が有るから」
ト云ッてまた文三の方を向いて、
「それじゃその方の口はまず片が附たと。それからしてもう一口の方は何だッけ……そうそう丹治丹治、アハハハ何故丹治と云ッたのが侮辱になるネ、それもやはり Self-evident truth かネ」
「どうしたの」
「ナニネ、
「本田」
昇は飲かけた「コップ」を下に置いて、
「何でゲス」
「人を侮辱して置きながら、
「まだそんな事を云ッてるのか、ヤどうも君も驚く
「何だと」
「負惜しみじゃないか、君にももう自分の悪かッた事は解ッているだろう」
「失敬な事を云うな、降りろと云ッたら降りたが宜じゃないか」
「モウお
「ハハハお勢さんが心配し出した。シカシ
文三は黙ッている。
「不承知か、困ッたもんだネ。それじゃ宜ろしい、こうしよう、我輩が謝まろう。全くそうした深い
文三はモウ堪え切れない
「降りろと云ッたら降りないか」
「それでもまだ承知が出来ないのか。それじゃ仕様がない、降りよう。今何を言ッても解らない、
「何だと」
「イヤ此方の事だ。ドレ」
ト
「馬鹿」
昇も些しムッとした趣きで、立止ッて暫らく文三を
「フフン、前後忘却の
ト云いながら二階を降りてしまッた。お勢も続いて起上ッて、不思議そうに文三の
跡で文三は悔しそうに歯を
「畜生ッ」
第十一回 取付く島
翌朝朝飯の時、家内の者が顔を合わせた。お政は始終顔を
食事が済む。お勢がまず
益々顔を皺めながら文三が続いて起上ろうとして、叔母に呼留められて又
人を呼留めながら叔母は
「他の事でも有りませんがネ、
「イヤ何にも
「ヘー、見当も有りもしないのに
「目的なしに断わると云ッては
縁側を通る人の
「確にそうとも……」
「それじゃ何ですか、
「イヤそんな、布告なんぞになる気遣いは有りませんが」
「それじゃマア人の
「デスガ、それはそうですが、シカシ……本田なぞの言事は……」
「宛にならない」
「イヤそ、そ、そう云う訳でも有りませんが……ウー……シカシ……
「何ですとえ、
トお政が
「そ、そ、そればかりじゃ有りません……
「官員はモウ思切る、フン何が何だか
「イヤ親の口が干上ッても関わないと云う訳じゃ有りませんが、シカシ官員ばかりが職業でも有りませんから、教師に成ッても親一人位は養えますから……」
「だから誰もそうはならないとは申しませんよ。そりゃお前さんの勝手だから、教師になと
「デスガそう御立腹なすッちゃ
「誰が腹を
両人共
「鍋」
「ハイ」
トお鍋が
「まだ
「ハイ、まだ」
「それじゃ仕舞ッてからで
「ハイ、それでは
ト云ッてお鍋が襖を
「段々と承ッて見ますと、叔母さんの
「今一応も二応も無いじゃ有りませんか、お前さんがモウ官員にゃならないと決めてお出でなさるんだから」
「そ、それはそうですが、シカシ……事に寄ッたら……思い直おすかも知れませんから……」
お政は冷笑しながら、
「そんならマア考えて御覧なさい。だがナニモ何ですよ、お前さんが官員に成ッておくんなさらなきゃア私どもが立往かないと云うんじゃ無いから、無理に何ですよ、勧めはしませんよ」
「ハイ」
「それから
「ハイ」
トは云ッたが、文三実は叔母が何を言ッたのだかよくは解らなかッた、
「そりゃアア云う胸の
ト自家
「ハイ」
「イエネ、またの事にしましょう、と云う事サ」
「ハイ」
何だかトンチンカンで。
叔母に一礼して文三が起上ッて、そこそこに部屋へ戻ッて、
「どうしたものだろう」
ト云ッて、
先頃免職が種で油を取られた時は、文三は
成程叔母は賢婦でも無い、烈女でもない、文三の感情、思想を
こうした疑念が起ッたので、文三がまた叔母の言草、悔しそうな言様、ジレッタそうな顔色を一々漏らさず
叔母の心事を察するに、叔母はお勢の身の固まるのを楽みにしていたに相違ない。来年の春を心待に待ていたに相違ない。アノ帯をアアしてコノ衣服をこうしてと
こう気が
文三は篤実温厚な男、
「が
シカシまだまだこれしきの事なら忍んで忍ばれぬ事も無いが、
こう云う
「どうしたものだろう」
ト文三再び我と我に相談を懸けた。
「
が猛然として省思すれば、叔母の意見に就こうとすれば厭でも昇に親まなければならぬ。昇とあのままにして置いて独り課長に
ト決心して見れば叔母の意見に
「ハテどうしたものだろう」
物皆終あれば
蓋し文三が叔母の意見に負きたくないと思うも、叔母の心を汲分けて見れば
そうだそうだ、文三の病原はお勢の心に在る。お勢の心一ツで進退去就を決しさえすればイサクサは無い。何故最初から其処に心附かなかッたか、今と成ッて考えて見ると文三我ながら我が怪しまれる。
お勢に相談する、極めて上策。恐らくはこれに越す思案も有るまい。若しお勢が、小挫折に逢ッたと云ッてその節を移さずして、尚お
「そうだ、それが宜い」
ト云ッて文三
「がこの頃の
ト思いながら二階を降りた。
が此処が妙で、
第十二回 いすかの
文三が二階を降りて、ソットお勢の部屋の障子を開けるその
「お邪魔じゃ有りませんか」
「イイエ」
「それじゃア」
ト云いながら文三は部屋へ
「
「
「実に面目が無い、
「そう、オホホホ」
ト無理に押出したような笑い。何となく
「トキニ些し貴嬢に御相談が有る。他の事でも無いが、今朝慈母さんの
「イイエ」
「成程そうだ、御存知ない
「出来なければそれまでじゃ有りませんか」
「サ
「母が悪い顔をしたッてそんな事は何だけれども……」
「エ、
ト文三はニコニコと笑いながら問懸けた。
「だッてそうじゃ有りません。
文三は笑いを
「デスガ
ト云懸けて黙してしまッたが、やがて聞えるか聞えぬ程の小声で、
「心一ツに在る事だけれども……」
ト云ッて
「私にはまだ貴君の仰しゃる事がよく解りませんよ。
「イヤ違います」
ト云ッて文三は首を振揚げた。
「非常な差が有る、石田は私を知ているけれど課長は私を知らないから……」
「そりゃどうだか解りゃしませんやアネ、往て見ない内は」
「イヤそりゃ今までの経験で解ります、そりゃ
「宜いじゃ有りませんか、本田さんに依頼したッて」
「エ、本田に依頼をしろと」
ト云ッた時は文三はモウ今までの文三でない、
「命令するのじゃ有りませんがネ、唯依頼したッて宜いじゃ有りませんか、と云うの」
「本田に」
ト文三はあたかも我耳を信じないように再び尋ねた。
「ハア」
「あんな卑屈な奴に……課長の
「そんな……」
「奴隷と云われても耻とも思わんような、犬……犬……犬猫同前な奴に手を
ト云ッてジッとお勢の顔を
「
「フフン卑屈でない、本田を卑屈でない」
ト云ッてさも苦々しそうに
「
「そりゃあの時には厭な感じも起ッたけれども、
文三は
「
「
「またあんな事を云ッて……そりゃ文さん、貴君が悪いよ。あれ程貴君に
ト些し顔を
「それでは何ですか、本田は貴嬢の気に入ッたと云うんですか」
「気に入るも入らないも無いけれども、貴君の云うようなそんな破廉耻な人じゃ有りませんワ……それを古狸なんぞッて無暗に人を罵詈して……」
「イヤ、まず私の聞く事に返答して下さい。
言様が些し
「そんな事を聞いて何になさる。本田さんが私の気に入ろうと入るまいと、貴君の関係した事は無いじゃ有りませんか」
「有るから聞くのです」
「そんならどんな関係が有ります」
「どんな関係でもよろしい、それを今説明する必要は無い」
「そんなら私も貴君の問に答える必要は有りません」
「それじゃア宜ろしい、聞かなくッても」
ト云ッて文三はまた顔を背けて、さも苦々しそうに
「人に問詰められて逃るなんぞと云ッて、実にひ、ひ、卑劣極まる」
「何ですと、卑劣極まると……宜う御座んす、そんな事お言いなさるなら
ト云ッてスコシ胸を
「ハイ本田さんは私の気に入りました……それがどうしました」
ト聞くと文三は
「それじゃ……それじゃこうしましょう、今までの事は
言切れない、胸が一杯に成て。暫らく
「水に流してしまいましょう……」
「何です、今までの事とは」
「この場に成てそうとぼけなくッても宜いじゃ有りませんか。
「誰がとぼけています、誰が誰に別れようと云うのです」
文三はムラムラとした。些し
「とぼけるのも好加減になさい、誰が誰に別れるのだとは何の事です。今までさんざ人の感情を
「何ですと、人の感情を弄んで置きながら……誰が人の感情を弄びました……誰が人の感情を弄びましたよ」
ト云った時はお勢もうるみ眼に成っていた。文三はグッとお勢の顔を
「
トまだ言終らぬ内に文三はスックと
「モウ言う事も無い聞く事も無い。モウこれが口のきき納めだからそう思ってお
「そう思いますとも」
「沢山……浮気をなさい」
「何ですと」
ト云った時にはモウ文三は部屋には居なかった。
「畜生……馬鹿……口なんぞ聞いてくれなくッたッて
ト跡でお勢が
「どうしたんだえ」
「畜生……」
「どうしたんだと云えば」
「文三と
「どうして」
「
「コレサ、静かにお言い」
「慈母さんの言た通りに云て勧めたら腹を立てやアがッて、人の事をいろんな事を云ッて」
ト手短かに勿論自分に不利な所はしッかい取除いて次第を
「慈母さん、私ア
ト云ッて
「フウそうかえ、そんな事を云ッたかえ。それじゃもうそれまでの事だ。あんな
ト云ッて些し考えていたが、やがてまた娘の方を向いて一段声を低めて、
「実はネ、お前にはまだ内々でいたけれども、
「厭サ厭サ、誰があんな奴に……」
「
「誰があんな
「その
「慈母さん、今日から私を下宿さしておくんなさいな」
「なんだネこの
「だッて私ア、モウ文さんの顔を見るのも厭だもの」
「そんな事言ッたッて仕様が無いやアネ。マアもう些と辛抱してお出で、その内にゃ慈母さんが宜いようにして上るから」
この時はお勢は黙していた、何か考えているようで。
「これからは
「誰が聞てやるもんか」
「文三ばかりじゃ無い、本田さんにだッてもそうだよ。あんなに
「慈母さんまでそんな事を云ッて……そんならモウこれから本田さんが来たッて口もきかないから宜い」
「口を聞くなじゃ無いが、唯
「イイエイイエ、モウ口も聞かない聞かない」
「そうじゃ無いと云えばネ」
「イイエ、モウ口も聞かない聞かない」
ト
「
ト云い捨てて
[#改丁]
第三編
浮雲第三篇ハ都合に依ッて此雜誌へ載せる事にしました。
固 と此小説ハつまらぬ事を種に作ッたものゆえ、人物も事実も皆つまらぬもののみでしょうが、それは作者も承知の事です。
只々 作者にハつまらぬ事にハつまらぬという面白味が有るように思われたからそれで筆を執ッてみた計りです。
第十三回
心理の上から
前回参看※[#白ゴマ点、169-10]文三は既にお勢に
腹の立つまま、
そこで宿所を出た。同じ下宿するなら、遠方がよいというので、本郷辺へ
「お勢と
今更心が動く、どうしてよいか訳がわからない。時計を見れば、まだ
折善くもう学校から帰ッていたので、すぐ面会した。が、授業の模様、旧生徒の
出た時の
「御膳も碌に?……」
「御膳も碌に召しやがらずに」
確められて文三急に
おかしな事をいうとは思ッたが、使に出ていて今朝の騒動を知らないから、お鍋はそのまま降りてしまう。
と、独りになる。「ヘ、ヘ、ヘ」とまた思出して
第十四回
「気の毒気の毒」と思い
朝寐が持前のお勢、まだ
早く顔が
三十分たち、一時間たつ。今に起きて来るか、と思えば、
「
が、それだけで十分。そのじろりと視た眼付が眼の底に
お勢は気分の悪いを
心苦しいその日も暮れてやや雨はあがる。昇が遊びに来たか、門口で華やかな声。お鍋のけたたましく笑う声が聞える。お勢はその時奥坐舗に居たが、それを聞くと、
何も知らぬから、昇、例の如く、好もしそうな眼付をしてお勢の顔を視て、
「
けれども、聞えませんから返答を致しませんと云わぬばかりで、お勢は坐舗を出てしまッた。
部屋は真の
「お呼びなさいましたか?」
「知らないよ……そんな……呼んでも呼んでも、返答もしないンだものを」
「だッてお奥で御用をしていたンですものを」
「用をしていると返答は出来なくッて?」
「御免遊ばせ……何か御用?」
「用が無くッて呼びはしないよ……そンな……人を……くらみ(暗黒)でるのがわかッ(分ら)なッかえッ?」
二三度聞直して漸く分ッて
「ばか」
顔に似合わぬ悪体を
「お勢」と小声ながらに
「何だと云ッて、あんなおかしな処置振りをお
と
「よ、お出でと云ッたら、お出でよ」
「その位ならあんな事云わないがいい……」
と
「ま
とは云ッたが、又折れて、
「世話ア焼かせずと、お出でよ」
返答なし。
「ええ、も、じれッたい! 勝手にするがいい!」
そのまま母親は奥坐舗へ
これで坐舗へ還る綱も
表紙が大方真青になッたころ、ふと縁側に足音……耳を
すらりと障子が
と云わして置いて、お勢は漸く重そうに首を
「あの失礼ですが、まだ
けれども、
「
と昇はお勢の
「本統にまだ……」
「何をそう
と首を
「あ、ああわかッた。
と妙な身振りをして、
「それなら、実は
と白らけた声を出して、手を出しながら、
「明日の支度が……」
とお勢は泣声を出して身を縮ませた。
「ほい間違ッたか。失敗、々々」
何を云ッても
文三は昇が来たから安心を
「
第十五回
その声を聞くと
跳ね返ッた障子を文三は恨めしそうに
「お勢さん」
と
「お勢さん」
また返答をしない。
この分なら、と文三は取越して安心をして、
「少しお
この時になッてお勢は初めて、首の筋でも
今打とうと振上げた
「この間は誠にどう……」
もと云い切らぬうち、つと起き上ッたお勢の体が……不意を打たれて、ぎょッとする、女帯が、
「何をなさるンです?」
と
「少しお噺し……お……」
「今用が有ります」
その跡を
「
千悔、万悔、
寿命を縮めながら、食事をしていた。
「そらそら、気をお付けなね。小供じゃア有るまいし」
ふと
気を附けられたからと云うえこじな顔をして、お勢は澄ましている。
もはやこう成ッては
するとお勢は
「どうせ私は意久地が有りませんのさ」とお勢はじぶくりだした、誰に向ッて云うともなく。
「笑いたきゃア
「何だよ、やかましい!
と母親は火鉢の
「意久地がなくッたッて、まだ自分が云ッたことを忘れるほど
「お勢!」
と一句に力を
「まだ三日も
「これ、どうしたもンだ」
「だッて私ア腹が立つものを。人の事を
留めれば留めるほど、
「いいえ、
けれども、お鍋の腕力には
となッて、文三始めて人心地が付いた。
いずれ
「実に……どうもす、す、済まんことをしました……まだお咄はいたしませんでしたが……一昨日
と云いかねる。
「その事なら、ちらと聞きました」と叔母が受取ッてくれた。「それはああした我儘者ですから、定めしお気に障るような事もいいましたろうから……」
「いや、決してお勢さんが……」
「それゃアもう」と
「いや、私は決して……そんな……」
「だからさ、お云いなすッたとは云わないけれども、これからも有る
ぴッたり
「子を持ッてみなければ、分らない
もウ文三
「す、す、それじゃ何ですか……私が……私がお勢さんを踏付たと仰ッしゃるンですかッ?」
「
と
「ああわるう御座ンした……」と文三は
「そうお云いなさると、さも私が難題でもいいだしたように聞こゆるけれども、なにもそう
「私がわるう御座ンした……」と差俯向いたままで重ねて
こう云われては、さすがのお政ももう
「ああ厭だ厭だ」と顔を
お政は坐舗を出てしまッた。
お政が坐舗を出るや
「私ゃアもう
第十六回
あれほどまでにお勢
けれど、こう静まッているは
眼を改めてみれば、今まで
お政の浮薄、今更いうまでも無い。が、
我に心を動かしていると思ッたがあれが
感受の力の勝つ者は誰しも同じ事ながら、お勢は眼前に移り行く事や物やのうち少しでも新奇な物が有れば、眼早くそれを視て取ッて、直ちに心に思い
かつお勢は
お勢は実に
して見ると、文三は、ああ、まだ苦しみが
第十七回
お勢のあくたれた時、お政は娘の部屋で、
昇はその後ふッつり遊びに来ない。顔を
「ああ
新聞を
「
「
「済ましッちまッたッて」
お政は
「
「何故だか」
「
「そうかも知れない」
何を云ッても取合わぬゆえ、お勢も仕方なく口を
「何だよ?」と
「
「何を?」
「何をッて」と少し気を得て、「そら、この間来た時、私が構わなかったから……」
と母の顔を凝視た。
「なに
「あら、そうじゃ無いンだけれどもさ……」
と
おほんという罪を作ッているとは知らぬから、昇が、例の通り、平気な顔をしてふいと遣ッて来た。
「おや、ま、
「今夜は大分御機嫌だが」と昇も心附いたか、お勢を
「だッて、気分が悪かッたンですものを」と
「何が何だか、訳が解りゃアしません」
少ししらけた席の穴を
と聞いて、お政にも似合わぬ、正直な、まうけに受けて、その不心得を
お勢は昇が課長の所へ英語を教えに往くと聞くより、どうしたものか、俄かに
「花とか耳とか云ッたッけ」
「余程出来るの?」
「英語かね? なアに、から駄目だ。
お勢は冷笑の気味で、「それじゃアア……」
「ときに、これは」と昇はお政の方を向いて親指を出してみせて、「どうしました、その後?」
「居ますよまだ」とお政は思い切りて顔を
「ずうずうしいと思ッてねえ!」
「それも
「お勢さんに?」
「はア」
「どんな事を?」
おッとまかせと
「なにそン時こそ
「そうしてね、まだ私の事を浮気者だなンぞッて」
「ほんとにそんな事も云たそうですがね、なにも、そんなに腹がたつなら、
昇は苦笑いをしていた。
「ほんとに困ッちまいますよ」
困ッている所へ勝手口で、「梅本でござい」。梅本というは近処の料理屋。「おや
「それだからこの息子は
あいのおさえのという
刺身は
と
「これアおかしい。何がくすくすだろう?」
「何でも無いの」
「のぼる源氏のお顔を拝んで嬉しいか?」
「
「何だと?」
「
昇は例の黙ッてお勢を
「綺麗なお顔だというンだから、ほほほ」と用心しながら
ツと寄ッた昇がお勢の
「これがどうしたの?」と平気な顔。
「どうもしないが、こうまず
「あちちち」と顔を
「ちッとは痛いのさ」
「放して
「喰付たいほど思えども……」と平気で鼻歌。
お勢はおそろしく顔を
「お立てなさいとも」
と云われて一段声を低めて、「あら引[#「引」は小書き右寄せ]本田さんが引[#「引」は小書き右寄せ]手なんぞ握ッて引[#「引」は小書き右寄せ]ほほほ、いけません、ほほほ」
「それはさぞ引[#「引」は小書き右寄せ]お困りで御座いましょう引[#「引」は小書き右寄せ]」
「本統に放して頂戴よ」
「
「なにあんな奴に知れたッて……」
「じゃ、ちッとこうしてい
するとお勢は、どうしてか、急に心から真面目になッて、「あたしゃア知らないからいい……
昇は面白そうにお勢の真面目くさッた顔を
「
一生懸命に振放そうとする、放させまいとする、暫時争ッていると、縁側に足音がする、それを聞くと、昇は我からお勢の手を
ずッとお政が入ッて来た。
「叔母さん叔母さん、お勢さんを
「あらあらあんな
昇は天井を仰向いて、「はッ、はッ、はッ」
第十八回
一週間と
けれど、その親しみ方が、文三の時とは、大きに違う。かの時は
こうお勢に
お勢はこの事を不平に思ッて、或は口を聞かぬと云い、或は絶交すると云ッて、
母親は見ぬ
けれど、母親が気を
この物語の
客は一日打くつろいで話して
部屋へ戻ッても、尚お気が確かにならず、何心なく
この
けれど、母親には大層やさしくなッて、騒いで叱られたとて、
そのうちにお勢が編物の
編物の稽古は、英語よりも、面白いとみえて、隔晩の稽古を楽しみにして通う。お勢は、全体、本化粧が嫌いで、これまで、
お政はそわそわして出て行く娘の後姿を何時も
昇は何時からともなく足を遠くしてしまッた。
第十九回
お勢は
心を
今の家内の有様を見れば、もはや以前のような和いだ所も無ければ、
お政は、いうまでもなく、
お勢は今
このままにしては置けん。早く、手遅れにならんうちに、お勢の
見渡したところ、孫兵衛は留守、
と、こうお勢を
歎息のみしているので、何故なればお勢を救おうという志は有っても、その道を求めかねるから。「どうしたものだろう?」という問は日に
しかし、始終空想ばかりに
人の心というものは同一の事を間断なく思ッていると、遂に考え
こう心の乱れるまでに心配するが、しかし只心配するばかりで、事実には少しも益が無いから、自然は
が、その内にふと嬉しく思い惑う事に
編物を始めた四五日後の事で有った、或日の夕暮、何か用事が有って文三は奥座敷へ
こう
出て行くお勢の後姿を
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