一
「旦那 さん、旦那さん。」
目と鼻の前 に居ながら、大きな声で女中が呼ぶのに、つい箸 の手をとめた痩形 の、年配で――浴衣に貸広袖 を重ねたが――人品のいい客が、
「ああ、何だい。」
「どうだね、おいしいかね。」
と額で顔を見て、その女中はきょろりとしている。
客は余り唐突 なのに驚いたようだった。――少い経験にしろ、数の場合にしろ、旅籠 でも料理屋でも、給仕についたものから、こんな素朴な、実直な、しかも要するに猪突 な質問を受けた事はかつてない。
ところで決して不味 くはないから、
「ああ、おいしいよ。」
と言ってまた箸 を付けた。
「そりゃ可 い、北国 一だろ。」
と洒落 でもないようで、納まった真顔である。
「むむ、……まあ、そうでもないがね。」
と今度は客の方で顔を見た。目鼻立は十人並……と言うが人間並で、色が赤黒く、いかにも壮健 そうで、口許 のしまったは可 いが、その唇の少し尖 った処が、化損 った狐のようで、しかし不気味でなくて愛嬌 がある。手織縞 のごつごつした布子 に、よれよれの半襟で、唐縮緬 の帯を不状 に鳩胸に高くしめて、髪はつい通りの束髪に結っている。
これを更 めて見て客は気がついた。先刻 も一度その(北国一)を大声で称 えて、裾短 な脛 を太く、臀 を振って、ひょいと踊るように次の室 の入口を隔てた古い金屏風 の陰へ飛出して行ったのがこの女中らしい。
ところでその金屏風の絵が、極彩色の狩野 の何某 在銘で、玄宗皇帝が同じ榻子 に、楊貴妃 ともたれ合って、笛を吹いている処だから余程 可笑 しい。
それは次のような場合であった。
客が、加賀国山代 温泉のこの近江屋 へ着いたのは、当日午 少し下る頃だった。玄関へ立つと、面長で、柔和 かなちっとも気取 っけのない四十ぐらいな――後で聞くと主人だそうで――質素な男が出迎えて、揉手 をしながら、御逗留 か、それともちょっと御入浴で、と訊 いた時、客が、一晩お世話に、と言うのを、腰を屈 めつつ畏 って、どうぞこれへと、自分で荷物を捌 いて、案内をしたのがこの奥の上段の間で。次の室 が二つまで着いている。あいにく宅は普請中でございますので、何かと不行届 の儀は御容赦下さいまして、まず御緩 りと……と丁寧に挨拶 をして立つと、そこへ茶を運んで来たのが、いま思うとこの女中らしい。
実は小春日 の明 い街道から、衝 と入ったのでは、人顔も容子 も何も分らない。縁を広く、張出しを深く取った、古風で落着いただけに、十畳へ敷詰めた絨毯 の模様も、谷へ落葉を積んだように見えて薄暗い。大きな床の間の三幅対 も、濃い霧の中に、山が遥 に、船もあり、朦朧 として小さな仙人の影が映 すばかりで、何の景色だか、これは燈 が点 いても判然 分らなかったくらいである。が、庭は赤土に薄日がさして、塔形の高い石燈籠 に、苔 の真蒼 なさびがある。ここに一樹、思うままの松の枝ぶりが、飛石に影を沈めて、颯 と渡る風に静寂な水の響 を流す。庭の正面がすぐに切立 の崖で、ありのままの雑木林に萩つつじの株、もみじを交ぜて、片隅なる山笹の中を、細く蜿 り蜿り自然の大巌 を削った径 が通じて、高く梢 を上 った処に、建出しの二階、三階。はなれ家の座敷があって、廊下が桟 のように覗 かれる。そのあたりからもみじ葉越しに、駒鳥 の囀 るような、芸妓 らしい女の声がしたのであったが――
入交 って、歯を染めた、陰気な大年増が襖際 へ来て、瓶掛 に炭を継いで、茶道具を揃えて銀瓶を掛けた。そこが水屋のように出来ていて、それから大廊下へ出入口に立てたのが件 の金屏風。すなわち玄宗と楊貴妃で、銀瓶は可 いけれども。……次にまた浴衣に広袖 をかさねて持って出た婦 は、と見ると、赭 ら顔で、太々 とした乳母 どんで、大縞のねんね子半纏 で四つぐらいな男の児 を負 ったのが、どしりと絨毯に坊主枕ほどの膝をつくと、半纏の肩から小児 の顔を客の方へ揉出 して、それ、小父 さんに(今日は)をなさいと、顔と一所に引傾 げた。
学士が驚いた――客は京の某大学の仏語 の教授で、榊 三吉と云う学者なのだが、無心の小児に向っては、盗賊もあやすと言う……教授でも学者でも同じ事で、これには莞爾々々 として、はい、今日は、と言った。この調子で、薄暗い広間へ、思いのほかのものが顕 れるから女中も一々どれが何だか、一向にまとまりが着かなかったのである。
昼飯 の支度は、この乳母 どのに誂 えて、それから浴室へ下りて一浴 した。……成程、屋の内は大普請らしい。大工左官がそちこちを、真昼間 の夜討 のように働く。……ちょうな、鋸 、鉄鎚 の賑 かな音。――また遠く離れて、トントントントンと俎 を打つのが、ひっそりと聞えて谺 する……と御馳走 に鶫 をたたくな、とさもしい話だが、四高(金沢)にしばらく居たことがあって、土地の時のものに予備知識のある学者だから、内々御馳走を期待しながら、門から敷石を細長く引込んだもとの大玄関を横に抜けて、広廊下を渡ると、一段ぐっと高く上る。座敷の入口に、いかにも(上段の間)と札に記してある。で、金屏風の背後 から謹んで座敷へ帰ったが、上段の室 の客にはちと不釣合な形に、脇息 を横倒しに枕して、ごろんとながくなると、瓶掛の火が、もみじを焚 いたように赫 と赤く、銀瓶の湯気が、すらすらと楊貴妃を霞ませる。枕もとに松籟 をきいて、しばらく理窟も学問もなくなった。が、ふと、昼飯 の膳 に、一銚子 添えさせるのを言忘れたのに心づいて、そこで起上 った。
どこを探しても呼鈴 が見当らない。
二三度手を敲 いてみたが――これは初めから成算がなかった。勝手が大分 に遠い。座敷の口へ出て、敲いて、敲きながら廊下をまた一段下りた。
「これは驚いた。」
更に応ずるものがなかったのである。
一体、山代の温泉のこの近江屋は、大まかで、もの事おっとりして、いま式に余り商売にあせらない旅館だと聞いて、甚だ嬉しくて来たのであるが、これでは余り大まか過ぎる。
何か、茸 に酔った坊さんが、山奥から里へ迷出たといった形で、手をたたき、たたき、例の玄関の処へ出て、これなら聞えようと、また手を敲こうとする足許 へ、衝立 の陰から、ちょろりと出たのは、今しがた乳母どのにおぶわれていた男の児で、人なつッこく顔を見て莞爾々々 する。
どうも、この鼻尖 で、ポンポンは穏 でない。
仕方なしに、笑って見せて、悄々 と座敷へ戻って、
「あきらめろ。」
で、所在なさに、金屏風の前へ畏 って、吸子 に銀瓶の湯を注 いで、茶でも一杯と思った時、あの小児 にしてはと思う、大 な跫足 が響いたので、顔を出して、むこうを見ると、小児と一所に、玄関前で、ひょいひょい跳ねている女があった。
「おおい、姉さん、姉さん。」
どかどかどかと来て、
「旦那さんか、呼んだか。」
「ああ、呼んだよ。」
と息を吐 いて、
「どうにかしてくれ。――どこを探しても呼鈴はなし、手をたたいても聞えないし、――弱ったよ。」
「あれ。」
と首も肩も、客を圧して、突込むように入って来て、
「こんな大 い内で、手を敲いたって何が聞えるかね。電話があるでねえか、それでお帳場を呼びなさいよ。」
「どこにある。」
「そら、そこにあるがね、見えねえかね。」
と客の前から、いきなり座敷へ飛込んで、突立状 に指 したのは、床の間傍 の、□子 に据えた黒檀 の机の上の立派な卓上電話であった。
「ああ、それかい。」
「これだあね。」
「私はまたほんとうの電話かと思っていた。」
「おお。」
と目を円くして、きょろりと視 て、
「ほんとの電話ですがね。どこか間違ったとこでもあるのかよ。」
「いや、相済まん、……間違ったのは私の方だ。――成程これで呼ぶんだな。――分りました。」
「立派な仕掛 だろがねえ。」
「立派な仕掛だ。」
「北国一だろ。」
――それ、そこで言って、ひょいひょい浮足 で出て行 く処を、背後 から呼んで、一銚子を誂えた。
「可 いのを頼むよ。」
と追掛けに言うと、
「分った、分った。」
と振り向いて合点 々々をして、
「北国一。」
と屏風の陰で腰を振って、ひょいと出た。――その北国一を、ここでまた聞いたのであった。
二
「まあ、御飯をかえなさいよ。」
「ああ……御飯もいまかえようが……」
さて客は、いまので話の口が解 けたと思うらしい面色 して、中休みに猪口 の酒を一口した。……
「……姐 さん、ここの前を右へ出て、大 な絵はがき屋だの、小料理屋だの、賑 な処を通り抜けると、旧街道のようで、町家 の揃った処がある。あれはどこへ行 く道だね。」
「それはね、旦那さん、那谷 から片山津 の方へ行く道だよ。」
「そうか――そこの中ほどに、さきが古道具屋と、手前が桐油 菅笠屋 の間に、ちょっとした紙屋があるね。雑貨も商っている……あれは何と言う家 だい。」
「白粉 や香水も売っていて、鑵詰 だの、石鹸箱はぴかぴかするけど、じめじめとした、陰気な、あれかあね。」
「全くだ、陰気な内だ。」
と言って客は考えた。
「それは、旦那さん――あ、あ、あ、何屋とか言ったがね、忘れたよ。口まで出るけども。」
と給仕盆を鞠 のように、とんとんと膝を揺 って、
「治兵衛 坊主 の家ですだよ。」
「串戯 ではない。紙屋で治兵衛は洒落ではないのか。」
「何、人が皆そう言うでね。本当の名だか何だか知らないけど、治兵衛坊主で直 きと分るよ。旦那さん、知っていなさるのかね、あの家を。」
客は、これより前 、ちょっと買ものに出たのであった。――実は旅の事欠けに、半紙に不自由をしたので、帳場へ通じて取寄せようか、買いに遣 ろうかとも思ったが、式 のごとき大まかさの、のんびりさの旅館であるから、北国一の電話で、呼寄せていいつけて、買いに遣って取寄せる隙 に、自分で買って来る方が手取早 い。……膳の来るにも間があろう。そう思ったので帽子も被 らないで、黙 りで、ふいと出た。
直き町の角の煙草屋 も見たし、絵葉がき屋も覗 いたが、どうもその類のものが見当らない。小半町行 き、一町行き……山の温泉 の町がかりの珍しさに、古道具屋の前に立ったり、松茸の香を聞いたり、やがて一軒見附けたのが、その陰気な雑貨店であった。浅い店で、横口の奥が山のかぶさったように暗い。並べた巻紙の上包 の色も褪 せたが、ともしく重ねた半紙は戸棚の中に白かった。「御免なさいよ、今日は、」と二三度声を掛けたが返事をしない。しかしこんな事は、金沢の目貫 の町の商店でも、経験のある人だから、気短 にそのままにしないで、「誰か居ませんか、」と、もう一度呼ぶと、「はい、」とその時、媚 かしい優しい声がして、「はい、」と、すぐに重ね返事が、どうやら勢 がなく、弱々しく聞えたと思うと、挙動 は早く褄 を軽く急いだが、裾 をはらりと、長襦袢 の艶 なのが、すらすらと横歩きして、半襟も、色白な横顔も、少し俯向 けるように、納戸から出て来たのが、ぱっと明るみへ立つと、肩から袖が悄 れて見えて、温室のそれとは違って、冷い穴蔵から引出しでもしたようだった、その顔を背けたまま、「はい、何を差上げます。」と言う声が沈んで、泣いていたらしい片一方の目を、俯向けに、紅入 友染 の裏が浅葱 の袖口で、ひったり圧 えた。
中脊で、もの柔かな女の、房 り結った島田が縺 れて、おっとりした下ぶくれの頬にかかったのも、もの可哀 で気の毒であった。が、用を言うと、「はい、」と背後 むきに、戸棚へ立った時は、目を圧えた手を離して、すらりとなったが、半紙を抽出 して、立返る頭髪 も量 そうに褄さきの運びとともに、またうなだれて、堪兼ねた涙が、白く咲いた山茶花 に霜の白粉 の溶けるばかり、はらはらと落つるのを、うっかり紙にうけて、……はっと思ったらしい。……その拍子に、顔をかくすと、なお濡れた。
うっかり渡そうとして、「まあ、」と気づいたらしく、「あれ、取換えますから、」――「いや、宜 しい。……」
懐中 へ取って、ずっと出た。が、店を立離れてから、思うと、あの、しおらしい女の涙ならば、この袂 に受けよう。口紅の色は残らぬが、瞳の影とともに玉を包んだ半紙はここにある。――ちょっとは返事をしなかったのもそのせいだろう。不思議な処へ行合せた、と思ううちに、いや、しかし、白い山茶花のその花片 に、日の片あたりが淡くさすように、目が腫 ぼったく、殊に圧えた方の瞼 の赤かったのは、煩らっているのかも知れない。あるいは急に埃 などが飛込んだ場合で、その痛みに泣いていたのかも分らない。――そうでなくて、いかに悲痛な折からでも、若い女が商いに出てまで、客の前で紙を絞るほど涙を流すのはちと情に過ぎる。大方は目の煩いだろう。
トラホームなぞだと困る、と、その涙をとにかく内側へ深く折込んだ、が。――やがて近江屋へ帰って、敷石を奥へ入ると、酒の空樽 、漬もの桶 などがはみ出した、物置の戸口に、石屋が居て、コトコトと石を切る音が、先刻期待した小鳥の骨を敲 くのと同一であった。
「――涙もこれだ。」
と教授は思わず苦笑して、
「しかし、その方が僥倖 だ。……」
今度は座敷に入って、まだ坐るか坐らないに、金屏風の上から、ひょいと顔が出て、「腹 が空いたろがね。」と言うと、つかつかと、入って来たのが、ここに居るこの女中で。小脇に威勢よく引抱 えた黒塗 の飯櫃 を、客の膝の前へストンと置くと、一歩 すさったままで、突立 って、熟 と顔を瞰下 すから、この時も吃驚 した目を遣ると、両手を引込めた布子の袖を、上下に、ひょこひょことゆさぶりながら、「給仕をするかね、」と言ったのである。
教授はあきらめて落着いて、
「おいおいどうしてくれるんだ――給仕にも何にもまだ膳が来ないではないか。」
「あッそうだ。」
と慌てて片足を挙げたと思うと、下して片足をまた上げたり、下げたり。
「腹が空いたろで、早くお飯 を食わせようと思うたでね。急 いたわいな、旦那さん。」
と、そのまま跳廻 ったかと思うと。
「北国一だ。」
と投げるように駈 け出した。
酒は手酌が習慣 だと言って、やっと御免を蒙 ったが、はじめて落着いて、酒量の少い人物の、一銚子を、静 に、やがて傾けた頃、屏風の陰から、うかがいうかがい、今度は妙に、おっかなびっくりといった形で入って来て、あらためてまた給仕についたのであった。
話は前後したが、涙の半紙はここにあった。客は何となく折を見て聞いたのである。
「いましがたちょっと買ものをして来たんだが、」
と言継いで、
「彼家 に、嫁さんか、娘さんか、きれいな女が居るだろう。」
「北国一だ。あはははは。」
と、大声でいきなり笑った。
「まあまあ、北国一としておいて、何だい、娘かい、嫁さんかい。」
また大声で、
「押惚 れたか。旦那さん。」
「驚かしなさんな。」
「吃驚 しただろ、あの、別嬪 に。……それだよ、それが小春 さんだ。この土地の芸妓 でね、それだで、雑貨店の若旦那を、治兵衛坊主と言うだてば。」
「成程、紙屋――あの雑貨店の亭主だな。」
「若い人だ、活 きるわ、死ぬるわという評判ものだよ。」
「それで治兵衛……は分ったが、坊主とはどうした訳かね。」
「何、旦那さん、癇癪持 の、嫉妬 やきで、ほうずもねえ逆気性 でね、おまけに、しつこい、いんしん不通だ。」
「何?……」
「隠元豆、田螺 さあね。」
「分らない。」
「あれ、ははは、いんきん、たむしだてば。」
「乱暴だなあ。」
「この山代の湯ぐらいでは埒 あかねえさ。脚気 山中 、かさ粟津 の湯へ、七日湯治をしねえ事には半月十日寝られねえで、身体 中掻毟 って、目が引釣 り上る若旦那でね。おまけに、それが小春さんに、金子 も、店も田地までも打込 んでね。一時 は、三月ばかりも、家へ入れて、かみさんにしておいた事もあったがね。」
――初女房 、花嫁ぶりの商いはこれで分った――
「ちゃんと金子を突いたでねえから、抱えぬしの方で承知しねえだよ。摺 った揉 んだの挙句が、小春さんはまた褄 を取っているだがね、一度女房にした女が、客商売で出るもんだで、夜 がふけてでも見なさいよ、いらいらして、逆気上 って、痛痒 い処を引掻 いたくらいでは埒あかねえで、田にしも隠元豆も地だんだを蹈 んで喰噛 るだよ。血は上ずっても、性 は陰気で、ちり蓮華 の長い顔が蒼 しょびれて、しゃくれてさ、それで負けじ魂で、張立てる治兵衛だから、人にものさ言う時は、頭も唇も横町へつん曲るだ。のぼせて、頭ばっかり赫々 と、するもんだで、小春さんのいい人で、色男がるくせに、頭髪 さ、すべりと一分刈にしている処で、治兵衛坊主、坊主治兵衛だ、なあ、旦那。」
かくと聞けば、トラホーム、目の煩いと思ったは恥かしい。袂 に包んだ半紙の雫 は、まさに山茶花 の露である。
「旦那さん、何を考えていなさるだね。」
三
「そうか――先刻 、買ものに寄った時、その芸妓 は泣いていたよ。」
「あれ、小春さんが坊主の店に居ただかね。すいても嫌うても、気立 の優しいお妓 だから、内証 で逢いに行っただろさ。――ほんに、もうお十夜だ――気むずかしい治兵衛の媼 も、やかましい芸妓屋の親方たちも、ここ一日 二日 は講中 で出入りがやがやしておるで、その隙 に密 と逢いに行ったでしょ。」
「お安くないのだな。」
「何、いとしゅうて泣いてるだか、しつこくて泣かされるだか、知れたものではないのだよ。」
「同じ事を……いとしい方にしておくがいい。」
と客は、しめやかに言った。
「厭 な事だ。」
「大層嫌うな。……その執拗 い、嫉妬 深 いのに、口説 かれたらお前はどうする。」
「横びんた撲 りこくるだ。」
「これは驚いた。」
「北国一だ。山代の巴 板額 だよ。四斗八升の米俵、両手で二俵提げるだよ。」
「偉い!……その勢 で、小春の味方をしておやり。」
「ああ、すべいよ、旦那さんが言わっしゃるなら。……」
「わざと……いささかだけれど御祝儀だ。」
肩を振って、拗 ねたように、
「要らねえよ。――私 こんなもの。……旦那さん。――旅行 さきで無駄な銭を遣わねえがいいだ。そして……」
と顔を向け直すと、ちょっと上まぶたで客を視 て、
「旦那さん、いつ帰るかね。」
「いや、深切 は難有 いが、いま来たばかりのものに、いつ出程 かは少し酷 かろう。」
「それでも、先刻 来た時に、一晩泊 だと言ったでねえかね。」
「まったくだ、明日は山中 へ行くつもりだ。忙しい観光団さ。」
「緩 り居なされば可 いに――では、またじきに来なさいよ。」
と、真顔で言った。
客はその言 に感じたように、
「勿論来ようが、その時、姐さんは居なかろう。」
「あれ、何でえ?……」
「お嫁に行くから。」
したたか頭 を掉 って、
「ううむ、行かねえ。」
「治兵衛坊主が、たって欲しいと言うそうだ。」
「馬鹿を言うもんでねえ。――治兵衛だろうが、忠兵衛だろうが、……一生嫁に行かねえで待ってるだよ。」
「じゃあ、いっそ、どこへも行かないで、いつまでもここに居ようか。私をお婿 さんにしてくれれば。……」
「するともさ。」
「私は働きがないのだから、婿も養子だ。お前さん養ってくれるかい。」
「ああ、養うよ。朝から晩まですきな時に湯に入れて、御飯 を食べさして、遊ばしておけばそれでよかろうがね。」
「勿体 ないくらい、結構だな。」
「そのくらいなら……私が働く給金でして進ぜるだ。」
「ほんとかい。」
「それだがね、旦那さん。」
「御覧、それ、すぐに変替 だ。」
「ううむ、ほんとうだ、が、こんな上段の室 では遣切 れねえだ。――裏座敷の四畳半か六畳で、ふしょうして下さんせ、お膳の御馳走も、こんなにはつかねえが、私が内証 でどうともするだよ。」
客は赤黒く、口の尖 った、にきびで肥 った顔を見つつ、
「姐さん、名は何と言う。」
と笑って聞いた。
「ふ、ふ、ふ。」と首を振っている。
「何と言うよ。」
「措 きなさい、そんな事。」
と耳朶 まで真赤 にした。
「よ、ほんとに何と言うよ。」
「お光だ。」
と、飯櫃 に太い両手を突張 って、ぴょいと尻を持立 てる。遁構 でいるのである。
「お光さんか、年紀 は。」
「知らない。」
「まあ、幾歳 だい。」
「顔だ。」
「何、」
「私の顔だよ、猿だてば。」
「すると、幾歳だっけな。」
「桃栗三年、三歳 だよ、ははは。」
と笑いながら駈出 した。この顔が――くどいようだが――楊貴妃の上へ押並んで振向いて、
「二十 だ……鼬 だ……べべべべ、べい――」
四
ここに、第九師団衛戍 病院の白い分院がある。――薬師寺、万松園 、春日山 などと共に、療養院は、山代の名勝に入っている。絵はがきがある。御覧なさい。
病院にして名勝の絵になったのは、全国ここばかりであろうも知れない。
この日当りで暖かそうなが、青白い建ものの、門の前は、枯葉半ば、色づいた桜の木が七八株、一列に植えたのを境に、もう温泉 の町も場末のはずれで、道が一坂小だかくなって、三方は見通しの原で、東に一帯の薬師山の下が、幅の広い畷 になる。桂谷 と言うのへ通ずる街道である。病院の背後を劃 って、蜿々 と続いた松まじりの雑木山は、畠を隔てたばかり目の前 に近いから、遠い山も、嶮 しい嶺 も遮られる。ために景色が穏かで、空も優しい。真綿のように処々白い雲を刷 いたおっとりとした青空で、やや斜 な陽が、どことなく立渡る初冬の霧に包まれて、ほんのりと輝いて、光は弱いが、まともに照らされては、のぼせるほどの暖かさ。が、陰の袖は、そぞろに冷い。
その近山 の裾 は半ば陰ったが、病院とは向う合せに、この畷から少し低く、下 りめになって、陽の一杯に当る枯草の路 が、ちょろちょろとついて、その径 と、畷の交叉点 がゆるく三角になって、十坪ばかりの畑が一枚。見霽 の野山の中に一つある。一方が広々とした刈田 との境に、垣根もあったらしいが、竹も塀もこわれごわれで、朽ちた杭 ばかり一本、せめて案山子 にでも化けたそうに灰色に残って、尾花が、ぼうと消えそうに、しかし陽を満々と吸って、あ、あ、長閑 な欠伸 でも出そうに、その杭に凭 れている。藁 が散り、木の葉が乱れた畑には、ここらあたり盛 に植える、杓子菜 と云って、株の白い処が似ているから、蓮華菜 とも言うのを、もう散々に引棄てたあとへ、陽気が暖 だから、乾いた土の、ほかほかともりあがった処へ、細く青く芽をふいた。
畑の裾は、町裏の、ごみごみした町家 、農家が入乱れて、樹立 がくれに、小流 を包んで、ずっと遠く続いたのは、山中道 で、そこは雲の加減で、陽が薄赤く颯 と射 す。
色も空も一淀 みする、この日溜 りの三角畑の上ばかり、雲の瀬に紅 の葉が柵 むように、夥多 しく赤蜻蛉 が群れていた。――出会ったり、別れたり、上下 にスッと飛んだり。あの、紅また薄紅、うつくしい小さな天女の、水晶の翼は、きらきらと輝くのだけれど、もう冬で……遊びも闌 に、恍惚 したらしく、夢を□□ うように、ふわふわと浮きつ、沈みつ、漾 いつ。で、時々目がさめたように、パッと羽を光らせるが、またぼうとなって、暖かに霞んで飛交う。
日南 の虹 の姫たちである。
風情に見愡 れて、近江屋の客はただ一人、三角畑の角に立って、山を背に繞 らしつつ彳 んでいるのであった。
四辺 の長閑 かさ。しかし静 な事は――昼飯を済 せてから――買ものに出た時とは反対の方に――そぞろ歩行 でぶらりと出て、温泉 の廓 を一巡り、店さきのきらびやかな九谷焼、奥深く彩った漆器店。両側の商店が、やがて片側になって、媚 かしい、紅 がら格子 を五六軒見たあとは、細流 が流れて、薬師山を一方に、呉羽神社 の大鳥居前を過ぎたあたりから、往来 う人も、来る人も、なくなって、古ぼけた酒店 の杉葉の下 に、茶と黒と、鞠 の伸びたほどの小犬が、上になり下になり、おっとりと耳を噛 んだり、ちょいと鼻づらを引 かき合ったり。……これを見ると、羨 ましいか、桶 の蔭から、むくと起きて、脚をひろげて、もう一匹よちよちと、同じような小狗 は出て来ても、村の閑寂間 か、棒切 持った小児 も居ない。
で、ここへ来た時……前途 山の下から、頬被 りした脊の高い草鞋 ばきの親仁 が、柄の長い鎌を片手に、水だか酒だか、縄からげの一升罎 をぶら下げたのが、てくりてくりと、畷を伝い、松茸の香を芬 とさせて、蛇の茣蓙 と称 うる、裏白の葉を堆 く装 った大籠 を背負 ったのを、一ツゆすって通過ぎた。うしろ形 も、罎と鎌で調子を取って、大手を振った、おのずから意気の揚々とした処は、山の幸を得た誇 を示す。……籠に、あの、ばさばさ群った葉の中に、鯰 のような、小鮒 のような、頭の大 な茸 がびちびち跳ねていそうなのが、温泉 の町の方へずッと入った。しばらく、人に逢ったのはそればかりであった。
客は、陽 の赤蜻蛉に見愡 れた瞳を、ふと、畑際 の尾花に映すと、蔭の片袖が悚然 とした。一度、しかとしめて拱 いた腕を解 いて、やや震える手さきを、小鬢 に密 と触れると、喟然 として面 を暗うしたのであった。
日南 に霜が散ったように、鬢にちらちらと白毛 が見える。その時、赤蜻蛉の色の真紅 なのが忘れたようにスッと下りて、尾花の下 に、杭の尖 に留 った。……一度伏せた羽を、衝 と張った、きらりと輝かした時、あの緑の目を、ちょっと此方 へ振動かした。
小狗の戯 にも可懐 んだ。幼心 に返ったのである。
教授は、ほとびるがごとき笑顔になった。が、きりりと唇をしめると、真黒 な厚い大 な外套 の、背腰を屁びりに屈 めて、及腰 に右の片手を伸 しつつ、密 と狙 って寄った。が、どうしてどうして、小児 のように軽く行かない。ぎくり、しゃくり、いまが大切、……よちりと飛附く。……南無三宝 、赤蜻蛉は颯 と外 れた。
はっと思った時である。
「おほほほほ。ははははは。」
花々しく調子高に、若い女の笑声が響いた。
向うに狗児 の形 も、早や見えぬ。四辺 に誰も居ないのを、一息の下 に見渡して、我を笑うと心着いた時、咄嗟 に渋面を造って、身を捻 じるように振向くと……
この三角畑の裾の樹立 から、広野 の中に、もう一条 、畷 と傾斜面の広き刈田を隔てて、突当りの山裾へ畦道 があるのが屏風のごとく連 った、長く、丈 の高い掛稲 のずらりと続いたのに蔽 われて、半ばで消えるので気がつかなかった。掛稲のきれ目を見ると、遠山の雪の頂が青空にほとばしって、白い兎が月に駈 けるようである。下も水のごとく、尾花の波が白く敷く。刈残した粟 の穂の黄色なのと段々になって、立蔽う青い霧に浮いていた。
と見向いた時、畦の嫁菜を褄 にして、その掛稲の此方 に、目も遥 な野原刈田を背にして間 が離れて確 とは見えぬが、薄藍 の浅葱 の襟して、髪の艶 かな、色の白い女が居て、いま見合せた顔を、急に背けるや否や、たたきつけるように片袖を口に当てたが、声は高々と、澄切った空を、野に響いた。
「おほほほほほ、おほほほ、おほほほほほ。」
おや、顔に何かついている?……すべりを扱 いて、思わず撫 でると、これがまた化かされものが狐に対する眉毛に唾 と見えたろう。
金切声で、「ほほほほほほ。」
十歩ばかり先に立って、一人男の連 が居た。縞 がらは分らないが、くすんだ装 で、青磁色の中折帽 を前のめりにした小造 な、痩 せた、形の粘々 とした男であった。これが、その晴やかな大笑 の笑声に驚いたように立留って、廂 睨 みに、女を見ている。
何を笑う、教授はまた……これはこの陽気に外套を着たのが可笑 いのであろうと思った……言うまでもない。――途中でな、誰を見ても、若いものにも、老人 にも、外套を着たものは一人もなかった。湯の廓は皆柳の中を広袖 で出歩行 く。勢 なのは浴衣一枚、裸体 も見えた。もっとも宿を出る時、外套はと気がさしたが、借りて着込んだ浴衣の糊 が硬々 と突張 って、広袖の膚 につかないのが、悪く風を通して、ぞくぞくするために、すっぽりと着込んでいるのである。成程、ただ一人、帽子も外套も真黒 に、畑に、つッくりと立った処は、影法師に狐が憑 いたようで、褌 をぶら下げて裸で陸 に立ったより、わかい女には可笑 しかろう……
いや、蜻蛉釣 だ。
ああ、それだ。
小鬢 に霜のわれらがと、たちまち心着いて、思わず、禁ぜざる苦笑を洩 すと、その顔がまた合った。
「ぷッ、」と噴出すように更に笑った女が、堪 らぬといった体 に、裾をぱッぱッと、もとの方 へ、五歩 六歩 駈戻 って、捻 じたように胸を折って、
「おほほほほ。」
胸を反 して、仰向 けに、
「あはははは。」
たちまちくるりとうしろ向きに、何か、もみじの散りかかる小紋の羽織の背筋を見せて、向うむきに、雪の遠山へ、やたらに叩頭 をする姿で、うつむいて、
「おほほ、あはは、あははははは。あははははは。」
やがて、朱鷺色 の手巾 で口を蔽うて、肩で呼吸 して、向直って、ツンと澄 して横顔で歩行 こうとした。が、何と、自 から目がこっちに向くではないか。二つ三つ手巾に、すぶりをくれて、たたきつけて、また笑った。
「おほほほほ、あははは、あははははは。」
八口 を洩 る紅 に、腕の白さのちらめくのを、振って揉 んで身悶 する。
きょろんと立った連 の男が、一歩 返して、圧 えるごとくに、握拳 をぬっと突出すと、今度はその顔を屈 み腰に仰向いて見て、それにも、したたかに笑ったが、またもや目を教授に向けた。
教授も堪 えず、ひとり寂しくニヤニヤとしながら、半ば茫然として立っていたが、余りの事に、そこで、うっかり、べかッこを遣ったと思え。
「きゃっ、ひいッ。」と逆に半身を折って、前へ折曲げて、脾腹 を腕で圧えたが追着 かない。身を悶え、肩を揉み揉みへとへとになったらしい。……畦の端の草もみじに、だらしなく膝をついた。半襟の藍に嫁菜が咲いて、
「おほほほほほほ、あはははは、おほほほほほ。」
そこを両脇、乳も、胸も、もぞもぞと尾花が擽 る! はだかる襟の白さを合すと、合す隙に、しどけない膝小僧の雪を敷く。島田髷 も、切れ、はらはらとなって、
「堪忍してよう、おほほほほ、あははははは。」
と、手をふるはずみに、鳴子縄 に、くいつくばかり、ひしと縋 ると、刈田の鳴子が、山に響いてからからから、からからからから。
「あはははははは。おほほほほほ。」
勃然 とした体 で、島田の上で、握拳の両手を、一度打擲 をするごとくふって見せて、むっとして男が行くので、はあはあ膝を摺 らし、腰を引いて、背には波を打たしながら、身を蜿 らせて、やっと立って、女は褄を引合せざまに振向くと、ちょっと小腰を屈めながら、教授に会釈をするが疾 いか。
「きゃあ――」と笑って、衝 と駈 けざまに、男のあとを掛稲の背後 へ隠れた。
その掛稲は、一杯の陽の光と、溢 れるばかり雀を吸って、むくむくとして、音のするほど膨れ上って、なお堪 えず、おほほほほ、笑声を吸込んで、遣切 れなくなって、はち切れた。稲穂がゆさゆさと一斉に揺れたと思うと、女の顔がぼっと出て、髪を黒く、唇を紅 く、
「おほほほほほほほ、あはははははは。」
「白痴奴 、汝 !」
ねつい、怒 った声が響くと同時に、ハッとして、旧 の路へ遁 げ出した女の背に、つかみかかる男の手が、伸びつつ届くを、躱 そうとしたのが、真横にばったり。
伸 しかかると、二ツ三ツ、ものをも言わずに、頬とも言わず、肩とも言わず、男の拳が、尾花の穂がへし折れるように見えて打擲した。
顔も、髪も、土 まみれに、真白 な手を袖口から、ひしと合せて、おがんで縋って、起きようとする、腕を払って、男が足を上げて一つ蹴た。
瞬くばかりの間である。
「何をする、何をする。」
たかが山家 の恋である。男女の痴話の傍杖 より、今は、高き天 、広き世を持つ、学士榊三吉も、むかし、一高で骨を鍛えた向陵の健児の意気は衰えず、
「何をする、何をするんだ。」
草の径 ももどかしい。畦 ともいわず、刈田と言わず、真直 に突切 って、颯 と寄った。
この勢いに、男は桂谷の山手の方へ、掛稲を縫って、烏とともに飛んで遁 げた。
「おお。」
「あ、あれ、先刻 の旦那さん。」
遁げた男は治兵衛坊主で――お光に聞いた――小春であった。
「外套を被 って、帽子をめして、……見違えて、おほほほほ、失礼な、どうしましょう。」
と小春は襟も帯も乱れた胸を、かよわく手でおさえて、片手で外套の袖に縋りながら、蒼白 な顔をして、涙の目でなお笑った。
「おほほほほほ、堪忍、御免なすって、あははははは。」
妙齢 だ。この箸がころんでも笑うものを、と憮然 としつつ、駒下駄が飛んで、はだしの清い、肩も膝も紅 の乱れた婦 の、半ば起きた肩を抱いた。
「御免なすって、旦那さん、赤蜻蛉をつかまえようと遊ばした、貴方 の、貴方の形が、余り……余り……おほほほほ。」
「いや、我ながら、思えば可笑 しい。笑うのは当り前だ。が、気の毒だ。連 の男は何という乱暴だ。」
「ええ、家 ではかえって人目に立つッて、あの、おほほ、心中 の相談をしに来た処だものですから、あはははは。」
ひたと胸に、顔をうずめて、泣きながら、
「おほほほほほほ。」
五
「旦那さん、そんなら、あの、私、……死なずと大事ございませんか……」
「――言うだけの事はないよ、――まるッきり、お前さんが慾 ばかりでだましたのでみた処で……こっちは芸妓 だ。罪も報 もあるものか。それに聞けば、今までに出来るだけは、人情も義理も、苦労をし抜いて尽しているんだ。……勝手な極道 とか、遊蕩 とかで行留りになった男の、名は体 のいい心中だが、死んで行 く道連れにされて堪 るものではない。――その上、一人身ではないそうだ。――ここへ来る途中で俄盲目 の爺 さんに逢って、おなじような目の悪い父親があると言って泣いたじゃないか。」――
掛稲 、嫁菜の、畦 に倒れて、この五尺の松に縋 って立った、山代の小春を、近江屋へ連戻った事は、すぐに頷 かれよう。芸妓 である。そのまま伴って来るのに、何の仔細 もなかったこともまた断るに及ぶまい。
なお聞けば、心中は、単に相談ばかりではない。こうした場所と、身の上では、夜中よりも人目に立たない、静 な日南 の隙を計って、岐路 をあれからすぐ、桂谷へ行くと、浄行寺 と云う門徒宗が男の寺。……そこで宵の間 に死ぬつもりで、対手 の袂 には、商 ものの、(何とか入らず)と、懐中には小刀 さえ用意していたと言うのである。
上前 の摺下 る……腰帯の弛 んだのを、気にしいしい、片手でほつれ毛を掻きながら、少しあとへ退 ってついて来る小春の姿は、道行 から遁 げたとよりは、山奥の人身御供 から助出 されたもののようであった。
左山中道 、右桂谷道、と道程標 の立った追分 へ来ると、――その山中道の方から、脊のひょろひょろとした、頤 の尖 った、痩 せこけた爺 さんの、菅 の一もんじ笠を真直 に首に据えて、腰に風呂敷包をぐらつかせたのが、すあしに破脚絆 、草鞋穿 で、とぼとぼと竹の杖 に曳 かれて来たのがあった。
この竹の杖を宙に取って、さきを握って、前へも立たず横添 に導きつつ、くたびれ脚を引摺ったのは、目も耳もかくれるような大 な鳥打帽の古いのをかぶった、八つぐらいの男の児 で。これも風呂敷包を中結 えして西行背負 に背負っていたが、道中 へ、弱々と出て来たので、横に引張合 った杖が、一方通せん坊になって、道程標 の辻の処で、教授は足を留めて前へ通した。が、細流 は、これから流れ、鳥居は、これから見え、町もこれから賑 かだけれど、俄めくらと見えて、突立 った足を、こぶらに力を入れて、あげたり、すぼめたりするように、片手を差出して、手探りで、巾着 ほどな小児 に杖を曳かれて辿 る状 。いま生命 びろいをした女でないと、あの手を曳いて、と小春に言ってみたいほど、山家の冬は、この影よりして、町も、軒も、水も、鳥居も暗く黄昏 れた。
駒下駄のちょこちょこあるきに、石段下、その呉羽の神の鳥居の蔭から、桃割 ぬれた結立 で、緋鹿子 の角絞 り。簪 をまだささず、黒繻子 の襟の白粉垢 の冷たそうな、かすりの不断着をあわれに着て、……前垂 と帯の間へ、古風に手拭 を細 く挟んだ雛妓 が、殊勝にも、お参詣 の戻 らしい……急足 に、つつッと出た。が、盲目 の爺 さんとすれ違って前へ出たと思うと、空から抱留められたように、ひたりと立留って振向いた。
「や、姉ちゃん。」――と小児 が飛着く。
見る見るうちに、雛妓の、水晶のような□ った目は、一杯の涙である。
小春は密 と寄添うた。
「姉ちゃん、お父ちゃんが、お父ちゃんが、目が見えなくなるから、……ちょっと姉ちゃんを見てえってなあ。……」
西行背負の風呂敷づつみを、肩の方から、いじけたように見せながら、
「姉ちゃん、大すきな豆の餅 を持って来た。」
ものも言い得ず、姉さんは、弟のその頭 を撫 でると、仰いで笠の裡 を熟 と視 た。その笠を被 って立てる状 は、かかる苦界にある娘に、あわれな、みじめな、見すぼらしい俄盲目には見えないで、しなびた地蔵菩薩 のようであった。
親仁 は抱しめもしたそうに、手探りに出した手を、火傷 したかと慌てて引いて、その手を片手おがみに、あたりを拝んで、誰ともなしに叩頭 をして、
「御免下され、御免下され。」
と言った。
「正念寺様におまいりをして、それから木賃へ行 くそうです。いま参りましたのは、あの妓 がちょっと……やかたへ連れて行きましたの。」
突当 らしいが、横町を、その三人が曲りしなに、小春が行きすがりに、雛妓 と囁 いて「のちにえ。」と言って別れに、さて教授にそう言った。
――来た途中の俄盲目は、これである――
やがて、近江屋の座敷では、小春を客分に扱って、膳を並べて、教授が懇 に説いたのであった。
「……ほんとに私、死なないでも大事ございませんわね。」
「死んで堪 るものか、死ぬ方が間違ってるんだ。」
「でも、旦那さん、……義理も、人情も知らない女だ、薄情だと、言われようかと、そればかりが苦になりました。もう人が何と言いましょうと、旦那さんのお言 ばかりで、どんなに、あの人から責められましても私はきっぱりと、心中なんか厭 だと言います。お庇 さまで助りました。またこれで親兄弟のいとしい顔も見られます。もう、この一年ばかりこのかたと言いますもの、朝に晩に泣いてばかり、生きた瀬はなかったのです。――その苦 みも抜けました。貴方は神様です。仏様です。」
「いや、これが神様や仏様だと、赤蜻蛉の形をしているのだ。」
「おほほ。」
「ああ、ほんとに笑ったな――もう可 し、決して死ぬんじゃないよ。」
「たとい間違っておりましても、貴方のお言 ばかりで活 きます。女の道に欠けたと言われ、薄情だ、売女 だと言う人がありましても、……口に出しては言いませんけれど、心では、貴方のお言葉ゆえと、安心をいたします。」
「あえて構わない。この俺が、私と言うものが、死ぬなと言ったから死なないと、構わず言え。――言ったって決して構わん。」
「いいえ、勿体ない、お名ふだもおねだり申して頂きました。人には言いはしませんが、まあ、嬉しい。……嬉しゅうございますわ。――旦那さん。」
「…………」
「あの、それですけれど……安心をしましたせいですか、落胆 して、力が抜けて。何ですか、余り身体 にたわいがなくって、心細くなりました。おそばへ寄せて下さいまし……こんな時でございませんと、思い切って、お顔が見られないのでございますけど、それでも、やっぱり、暗くて見えはしませんわ。」
と、膝に密 と手を置いて、振仰いだらしい顔がほの白い。艶 濃 き髪の薫 より、眉がほんのりと香 いそうに、近々とありながら、上段の間は、いまほとんど真暗 である。
六
実は、さきに小春を連れて、この旅館へ帰った頃に、廊下を歩行 き馴 れたこの女が、手を取ったほど早や暗くて、座敷も辛 じて黒白 の分るくらいであった。金屏風 とむきあった、客の脱すてを掛けた衣桁 の下 に、何をしていたか、つぐんでいて、道陸神 のような影を、ふらふらと動かして、ぬいと出たものがあった。あれと言った小春と、ぎょっとした教授に「北国一。」と浴 せ掛けて、またたく間に廊下をすっ飛んで行ったのは、あのお光であったが。
直 に小春が、客の意を得て、例の卓上電話で、二人の膳を帳場に通すと、今度註文をうけに出たのは、以前の、歯を染めた寂しい婦 で、しょんぼりと起居 をするのが、何だか、産女鳥 のように見えたほど、――時間はさまでにもなかったが、わけてこの座敷は陰気だった。
頼もしいほど、陽気に賑 かなのは、廂 はずれに欄干の見える、崖の上の張出しの座敷で、客も大勢らしい、四五人の、芸妓の、いろいろな声に、客のがまじって、唄う、弾く、踊っていた。
船の舳 の出たように、もう一座敷重 って、そこにも三味線 の音がしたが、時々哄 と笑う声は、天狗 が谺 を返すように、崖下の庭は暮れるものを、いつまでも電燈がつかない。
小春の藍 の淡い襟、冷い島田が、幾度 も、縁を覗 いて、ともに燈 を待ちもした。
この縁の突当りに、上敷 を板に敷込んだ、後架 があって、機械口の水も爽 だったのに、その暗紛れに、教授が入った時は一滴の手水 も出なかったので、小春に言うと、電話までもなく、帳場へ急いで、しばらくして、真鍮 の水さしを持って来て言うのには、手水は発動機で汲上 げている処、発電池に故障があって、電燈もそのために後 れると、帳場で言っているそうで。そこで中縁 の土間の大 な石の手水鉢、ただし落葉が二三枚、不思議に燈籠に火を点 したように見えて、からからに乾いて水はない。そこへ誘って、つき膝で、艶 になまめかしく颯 と流してくれて、
「あれ、はんけちを田圃道 で落して来て、……」
「それも死神の風呂敷だったよ。」
「可恐 いわ、旦那さん。」
その水さしが、さて……いまやっぱり、手水鉢の端 に据 っているのが幽 に見える。夕暮の鷺 が長い嘴 で留ったようで、何となく、水の音も、ひたひたとするようだったが、この時、木菟 のようになって、とっぷりと暮れて真暗 だった。
「どうした、どうした。……おお、泣いているのか。――私は……」
「ああれ、旦那さん。」
と、厠 の板戸を、内から細目に、小春の姿が消えそうに、
「私、つい、つい、うっかりして、あのお恥かしくって泣くんですわ……ここには水がありません。」
「そうか。」
と教授が我が手で、その戸を開けてやりつつ、
「こっちへお出で、かけてやろう。さ。」
「は。」
「可 いか、十分に……」
「あれ、どうしましょう、勿体ない、私は罰が当ります。」
懐紙に二階の影が散る。……高い廊下をちらちらと燭台 の火が、その高楼 の欄干 を流れた。
「罰の当ったはこの方だ。――しかし、婦人 の手に水をかけたのは生れてからはじめてだ。赤ん坊になったから、見ておくれ。お庇 で白髪が皆消えて、真黒 になったろう。」
まことに髪が黒かった。教授の顔の明るさ。
「この手水鉢は、実盛 の首洗 の池も同じだね。」
「ええ、縁起でもない、旦那さん。」
「ま、姦通 め。ううむ、おどれ等。」
「北国一だ。……危 えよ。」
殺した声と、呻 く声で、どたばた、どしんと音がすると、万歳と、向 二階で喝采 、ともろ声に喚 いたのとほとんど一所に、赤い電燈が、蒟蒻 のようにぶるぶると震えて点 いた。
七
小春の身を、背に庇 って立った教授が、見ると、繻子 の黒足袋の鼻緒ずれに破れた奴 を、ばたばたと空に撥 ねる、治兵衛坊主を真俯向 けに、押伏せて、お光が赤蕪 のような膝をはだけて、のしかかっているのである。
「危い――刃ものを持ってるぞ。」
絨毯 を縫いながら、治兵衛の手の大小刀 が、しかし赤黒い電燈に、錆蜈蚣 のように蠢 くのを、事ともしないで、
「何が、犬にも牙 がありゃ、牛にも角があるだあね。こんな人間の刃ものなんぞ、どうするかね。この馬鹿野郎。それでも私が来ねえと、大事なお客さんに怪我をさせる処だっけ。飛んでもねえ嫉妬野郎 だ。大 い声を出してお帳場を呼ぼうかね、旦那さん、どうするね。私が一つ横ずっぽう撲 りこくってやろうかね。」
「ああ、静 に――乱暴をしちゃ不可 い。」
教授は敷居へ、内へ向けて引きながら、縁側の籐椅子 に掛けた。
「君は、誰を斬るつもりかね。」
「うむ、汝 から先に……当前 じゃい。うむ、放せ、口惜 いわい。」
「迷惑をするじゃあないか。旅の客が湯治場の芸妓 を呼んで遊んだが、それがどうした。」
「汝 、俺の店まで、呼出しに、汝、逢曳 にうせおって、姦通 め。」
「血迷うな、誤解はどうでも構わないが、君は卑劣だよ。……使った金子 に世の中が行詰 って、自分で死ぬのは、間違いにしろ、勝手だが、死ぬのに一人死ねないで、未練にも相手の女を道づれにしようとして附絡 うのは卑劣じゃあないか。――投出す生命 に女の連 を拵 えようとするしみったれさはどうだ。出した祝儀に、利息を取るよりけちな男だ。君、可愛い女と一所に居る時は、蚤 が一つ余計に女にたかっても、ああ、おれの身をかわりに吸え、可哀想だと思うが情だ。涼しい時に虫が鳴いても、かぜを引くなよ、寝冷 をするなと念じてやるのが男じゃないか。――自分で死ぬほど、要らぬ生命 を持っているなら、おなじ苦労をした女の、寿命のさきへ、鼻毛をよって、継足 をしてやるが可 い。このうつくしい、優しい女を殺そうとは何事だ。これ聞け。俺も、こんな口を利いたって、ちっとも偉い男ではない。お互に人間の中の虫だ。――虫だが、書物ばかり食っている、しみのような虫だから、失礼ながら君よりは、清潔 だよ。それさえ……それでさえ、聞けよ。――心中の相談をしている時に、おやじが蜻蛉 釣る形の可笑 さに、道端へ笑い倒れる妙齢 の気の若さ……今もだ……うっかり手水 に行って、手を洗う水がないと言って、戸を開け得ない、きれいな女と感じた時は、娘のような可愛さに、唇の触ったばかりでも。」
「ううむ、ううむ。」と呻 った。
「申訳のなさに五体が震える。何だ、その女に対して、隠元、田螺 の分際で、薄汚い。いろも、亭主も、心中も、殺すも、活 すもあるものか。――静 にここを引揚げて、早く粟津の湯へ入れ――自分にも二つはあるまい、生命 の養生をするが可 い。」
「餓鬼めが、畜生!」
「おっと、どっこい。」
「うむ、放せ。」
「姐 さん、放しておやり。」
「危 え、旦那さん。」
「いや、私はまだその人に、殺されも、斬られもしそうな気はしない。お放し。」
「おお、もっともな、私がこの手を押えているで、どうする事も出来はしねえだ。」
「さあ、胸を出せ、袖を開けろ。私は指一つ圧 えていない。婦人 が起 ってそこへ縋 れば、話は別だ。桂清水 とか言うので顔を洗って私も出直す――それ、それ、見たが可 い。婦人 は、どうだ、椅子の陰へ小さく隠れて、身を震わしているじゃあないか。――帰りたまえ。」
また電燈が、滅びるように、呼吸 をひいて、すっと消えた。
「二人とも覚えてけつかれ。」
「この野郎、どこから入った。ああ、――そうか。三畳の窓を潜 って、小 こい、庭境 の隣家 の塀から入ったな。争われぬもんだってば。……入った処から出て行くだからな。壁を摺 って、窓を這 って、あれ板塀にひッついた、とかげ野郎。」
小春は花のいきするように、ただ教授の背後 から、帯に縋って、さめざめと泣いていた。
八
ここの湯の廓 は柳がいい。分けて今宵は月夜である。五株、六株、七株、すらすらと立ち長く靡 いて、しっとりと、見附 を繞 って向合う湯宿が、皆この葉越 に窺 われる。どれも赤い柱、白い壁が、十五間 間口、十間間口、八間間口、大きな(舎)という字をさながらに、湯煙 の薄い胡粉 でぼかして、月影に浮いていて、甍 の露も紫に凝るばかり、中空に冴 えた月ながら、気の暖かさに朧 である。そして裏に立つ山に湧 き、処々に透く細い町に霧が流れて、電燈の蒼 い砂子 を鏤 めた景色は、広重 がピラミッドの夢を描いたようである。
柳のもとには、二つ三つ用心水 の、石で亀甲 に囲った水溜 の池がある。が、涸 れて、寂しく、雲も星も宿らないで、一面に散込んだ柳の葉に、山谷の落葉を誘って、塚を築いたように見える。とすれば月が覗 く。……覗くと、光がちらちらとさすので、水があるのを知って、影が光る、柳も化粧をするのである。分けて今年は暖 さに枝垂 れた黒髪はなお濃 かで、中にも真中 に、月光を浴びて漆のように高く立った火の見階子 に、袖を掛けた柳の一本 は瑠璃天井 の階子段に、遊女の凭 れた風情がある。
このあたりを、ちらほらと、そぞろ歩行 の人通り。見附正面の総湯の門には、浅葱 に、紺に、茶の旗が、納手拭 のように立って、湯の中は祭礼 かと思う人声の、女まじりの賑かさ。――だぶだぶと湯の動く音。軒前 には、駄菓子店 、甘酒の店、飴 の湯、水菓子の夜店が並んで、客も集れば、湯女 も掛ける。髯 が啜 る甘酒に、歌の心は見えないが、白い手にむく柿の皮は、染めたささ蟹 の糸である。
みな立つ湯気につつまれて、布子も浴衣の色に見えた。
人の出入り一盛り。仕出しの提灯 二つ三つ。紅 いは、おでん、白いは、蕎麦 。横路地を衝 と出て、やや門 とざす湯宿の軒を伝う頃、一しきり静 になった。が、十夜をあての夜興行の小芝居もどりにまた冴える。女房、娘、若衆 たち、とある横町の土塀の小路 から、ぞろぞろと湧いて出た。が、陸軍病院の慰安のための見物がえりの、四五十人の一行が、白い装 でよぎったが、霜の使者 が通るようで、宵過ぎのうそ寒さの再び春に返ったのも、更に寂然 としたのであった。
月夜鴉 が低く飛んで、水を潜 るように、柳から柳へ流れた。
「うざくらし、厭 な――お兄 さん……」
芝居がえりの過ぎたあと、土塀際の引込んだ軒下に、潜戸 を細目に背にした門口 に、月に青い袖、帯黒く、客を呼ぶのか、招くのか、人待顔に袖を合せて、肩つき寒く佇 んだ、影のような婦 がある。と、裏の小路からふらりと出て、横合からむずと寄って肩を抱いた。その押つぶしたような帽子の中の男の顔を、熟 とすかして――そう言った。
「お門 が違うやろね、早う小春さんのとこへ行く事や。」と、格子の方へくるりと背く。
紙屋は黙って、ふいと離れて、すぐ軒ならびの隣家 の柱へ、腕で目をおさえるように、帽子ぐるみ附着 いた。
何の真似やら、おなじような、あたまから羽織を引 かぶった若い衆 が、溝を伝うて、二人、三人、胡乱々々 する。
この時であった。
夜 も既に、十一時すぎ、子 の刻か。――柳を中に真向いなる、門 も鎖 し、戸を閉めて、屋根も、軒も、霧の上に、苫掛 けた大船のごとく静まって、梟 が演戯をする、板歌舞伎の趣した、近江屋の台所口の板戸が、からからからと響いて、軽く辷 ると、帳場が見えて、勝手は明 い――そこへ、真黒 な外套 があらわれた。
背後 について、長襦袢 するすると、伊達巻 ばかりに羽織という、しどけない寝乱れ姿で、しかも湯上りの化粧の香が、月に脈うって、ぽっと霧へ移る。……と送って出しなの、肩を叩こうとして、のびた腰に、ポンと土間に反った新しい仕込みの鯔 と、比目魚 のあるのを、うっかり跨 いで、怯 えたような脛 白く、莞爾 とした女が見える。
「くそったれめ。」
見え透いた。が、外套が外へ出た、あとを、しめざまに細 りと見送る処を、外套が振返って、頬ずりをしようとすると、あれ人が見る、島田を揺 って、おくれ毛とともに背いたけれども、弱々となって顔を寄せた。
これを見た治兵衛はどうする。血は火のごとく鱗 を立てて、逆 に尖 って燃えた。
途端に小春の姿はかくれた。
あとの大戸を、金の額ぶちのように背負 って、揚々として大得意の体 で、紅閨 のあとを一散歩、贅 を遣 る黒外套が、悠然と、柳を眺め、池を覗 き、火の見を仰いで、移香 を惜気 なく、酔 ざましに、月の景色を見る状 の、その行く処には、返咲 の、桜が咲き、柑子 も色づく。……他 の旅館の庭の前、垣根などをぶらつきつつ、やがて総湯の前に近づいて、いま店をひらきかけて、屋台に鍋 をかけようとする、夜 なしの饂飩屋 の前に来た。
獺橋 の婆さんと土地で呼ぶ、――この婆さんが店を出すのでは……もう、十二時を過ぎたのである。
犬ほどの蜥蜴 が、修羅を燃 して、煙のように颯 と襲った。
「おどれめ。」
と呻 くが疾 いか、治兵衛坊主が、その外套の背後 から、ナイフを鋭く、つかをせめてグサと刺した。
「うーむ。」と言うと、ドンと倒れる。
獺橋の婆さんが、まだ火のない屋台から、顔を出してニヤリとした。串戯 だと思ったろう。
「北国一だ――」
と高く叫ぶと、その外套の袖が煽 って、紅 い裾が、はらはらと乱れたのである。
九
――「小春さん、先刻 の、あの可愛い雛妓 と、盲目 の爺 さんたちをここへお呼び。で、お前さんが主人になって、皆 で湯へ入って、御馳走を食べて、互に慰めもし、また、慰められもするが可 い。
治兵衛坊主は、お前さんの親たち、弟に逢った事はないか。――なければそれもなお好都合。あの人たちに訳を話すと、おなじ境界 にある夥間 だ、よくのみ込むであろうから、爺さんをお前さんの父親、小児 を弟に、不意に尋ねて来た分に、治兵衛の方へ構えるが可 い。場合によれば、表向き、治兵衛をここへ呼んで逢わせるも可 かろう。あの盲 いた人、あの、いたいけな児 、鬼も見れば角がなごむ。――心配はあるまいものの、また間違 がないとも限らぬ。その後難 の憂慮 のないように、治兵衛の気を萎 し、心を鎮めさせるのに何よりである。
私は直ぐに立って、山中へ行く。
わざとらしいようでもあるから、別室へと思わぬでもなけれど、さてそうして、お前は爺さんたちと、ここに一所に。……決して私に構うなと言った処で、人情としてそうは行くまい、顔の前に埃 が立つ。構わないにしても気が散ろう。
泣きも笑いもするがいいが、どっちも胸をいためぬまで、よく楽 み、よくお遊び。」――
あの陰気な女中を呼ぶと、沈んで落着いただけに、よく分って、のみ込んだ。この趣を心得て、もの優しい宿の主人も、更 めて挨拶に来たので、大勢送出す中を、学士の近江屋を発程 ったのは、同じ夜 の、実は、八時頃であった。
勿論、小春が送ろうと言ったが、さっきの今で、治兵衛坊主に対しても穏 でない、と留めて、人目があるから、石屋が石を切った処、と心づもりの納屋の前を通る時、袂 を振切る。……
お光が中くらいな鞄 を提げて、肩をいからすように、大跨 に歩行 いて、電車の出発点まで真直 ぐに送って来た。
道は近い、またすぐに出る処であった。
「旦那さん、蚤 にくわれても、女 ッ子は可哀相だと言ったが、ほんとかね。」
停車場 の人ごみの中で、だしぬけに大声でぶッつけられたので、学士はその時少なからず逡巡しつつ、黙って二つばかり点頭 いた。
「旦那さん、お願だから、私に、旦那さんの身についたものを一品 下んせね。鼻紙でも、手巾 でも、よ。」
教授は外套を、すっと脱いだ。脱ぎはなしを、そのままお光の肩に掛けた。
このおもみに、トンと圧 されたように、鞄を下へ置いたなりで、停車場を、ひょいと出た。まさか持ったなりでは行くまいと、半ば串戯 だったのに――しかし、停車場を出ると、見通しの細い道を、いま教授がのせたなりに、ただ袖に手を掛けたばかり、長い外套の裾をずるずると地に曳摺 るのを、そのままで、不思議に、しょんぼりと帰って行くのを見て、おしげなくほろりとして手を組んだ。
発車した。
――お光は、夜 の隙 のあいてから、これを着て、嬉しがって戸外 へ出たのである。……はじめは上段の間へ出向いて、
「北国一。」
と、まだ寝ないで、そこに、羽二重の厚衾 、枕を四つ、頭あわせに、身のうき事を問い、とわれ、睦言 のように語り合う、小春と、雛妓 、爺さん、小児 たちに見せびらかした。が、出る時、小春が羽織を上に引っかけたばかりのなりで、台所まで手を曳いた。――ああ、その時お光のかぶったのは、小児の鳥打帽であったのに――
黒い外套を来た湯女 が、総湯の前で、殺された、刺された風説 は、山中、片山津、粟津、大聖寺 まで、電車で人とともに飛んでたちまち響いた。
けたたましい、廊下の話声を聞くと、山中温泉の旅館に、既に就寝中だった学士が、白いシイツを刎 ねて起きた。
寝床から自動車を呼んで、山代へ引返して、病院へ移ったという……お光の病室の床に、胸をしめて立った時、
「旦那さん、――お光さんが貴方 の、お身代り。……私はおくれました。」
と言って、小春がおもはゆげに泣いて縋 った。
「お光さん、私だ、榊だ、分りますか。」
「旦那さんか、旦那さんか。」
と突拍子な高調子で、譫言 のように言ったが、
「ようこそなあ――こんなものに……面 も、からだも、山猿に火熨斗 を掛けた女だと言われたが、髪の毛ばかり皆 が賞 めた。もう要らん。小春さん。あんた、油くさくて気の毒やが、これを切って、旦那さんに上げて下さんせ。」
立会った医師が二人まで、目を瞬 いて、学士に会釈しつつ、うなずいた。もはや臨終だそうである。
「頂戴しました。――貰ったぞ。」
「旦那さん、顔が見たいが、もう見えんわ。」
「さ、さ、さ、これに縋らっしゃれ。」
と、ありなしの縁 に曳かれて、雛妓の小 とみ、弟が、かわいい名の小次郎、ともに、杖まで戸惑いしてついて来て、泣いていた、盲目 の爺さんが、竹の杖を、お光の手に、手さぐりで握らせるようにして、
「持たっしゃれ、縋らっしゃれ。ありがたい仏様が見えるぞい。」
「ああい、見えなくなった目でも、死ねば仏様が見られるかね。」
「おお、見られるとも、のう。ありがたや阿弥陀 様。おありがたや親鸞 様も、おありがたや蓮如 様も、それ、この杖に蓮華の花が咲いたように、光って輝いて並んでじゃ。さあ、見さっしゃれ、拝まっさしゃれ。なま、なま、なま、なま、なま。」
「そんなものは見とうない。」
と、ツト杖を向うへ刎 ねた。
「私は死んでも、旦那さんの傍 に居て、旦那さんの顔を見るんだよ。」
「勿体ないぞ。」
と口のうちで呟 いて、爺 が、黒い幽霊のように首を伸 して、杖に縋って伸上って、見えぬ目を上 ねむりに見据えたが、
「うんにゃ、道理 じゃ。俺 も阿弥陀仏より、御開山より、娘の顔が見たいぞいの。」
と言うと、持った杖をハタと擲 げた。その風采 や、さながら一山 の大導師、一体の聖者のごとく見えたのであった。
「
目と鼻の
「ああ、何だい。」
「どうだね、おいしいかね。」
と額で顔を見て、その女中はきょろりとしている。
客は余り
ところで決して
「ああ、おいしいよ。」
と言ってまた
「そりゃ
と
「むむ、……まあ、そうでもないがね。」
と今度は客の方で顔を見た。目鼻立は十人並……と言うが人間並で、色が赤黒く、いかにも
これを
ところでその金屏風の絵が、極彩色の
それは次のような場合であった。
客が、加賀国
実は
学士が驚いた――客は京の某大学の
どこを探しても
二三度手を
「これは驚いた。」
更に応ずるものがなかったのである。
一体、山代の温泉のこの近江屋は、大まかで、もの事おっとりして、いま式に余り商売にあせらない旅館だと聞いて、甚だ嬉しくて来たのであるが、これでは余り大まか過ぎる。
何か、
どうも、この
仕方なしに、笑って見せて、
「あきらめろ。」
で、所在なさに、金屏風の前へ
「おおい、姉さん、姉さん。」
どかどかどかと来て、
「旦那さんか、呼んだか。」
「ああ、呼んだよ。」
と息を
「どうにかしてくれ。――どこを探しても呼鈴はなし、手をたたいても聞えないし、――弱ったよ。」
「あれ。」
と首も肩も、客を圧して、突込むように入って来て、
「こんな
「どこにある。」
「そら、そこにあるがね、見えねえかね。」
と客の前から、いきなり座敷へ飛込んで、
「ああ、それかい。」
「これだあね。」
「私はまたほんとうの電話かと思っていた。」
「おお。」
と目を円くして、きょろりと
「ほんとの電話ですがね。どこか間違ったとこでもあるのかよ。」
「いや、相済まん、……間違ったのは私の方だ。――成程これで呼ぶんだな。――分りました。」
「立派な
「立派な仕掛だ。」
「北国一だろ。」
――それ、そこで言って、ひょいひょい
「
と追掛けに言うと、
「分った、分った。」
と振り向いて
「北国一。」
と屏風の陰で腰を振って、ひょいと出た。――その北国一を、ここでまた聞いたのであった。
二
「まあ、御飯をかえなさいよ。」
「ああ……御飯もいまかえようが……」
さて客は、いまので話の口が
「……
「それはね、旦那さん、
「そうか――そこの中ほどに、さきが古道具屋と、手前が
「
「全くだ、陰気な内だ。」
と言って客は考えた。
「それは、旦那さん――あ、あ、あ、何屋とか言ったがね、忘れたよ。口まで出るけども。」
と給仕盆を
「
「
「何、人が皆そう言うでね。本当の名だか何だか知らないけど、治兵衛坊主で
客は、これより
直き町の角の
中脊で、もの柔かな女の、
うっかり渡そうとして、「まあ、」と気づいたらしく、「あれ、取換えますから、」――「いや、
トラホームなぞだと困る、と、その涙をとにかく内側へ深く折込んだ、が。――やがて近江屋へ帰って、敷石を奥へ入ると、酒の
「――涙もこれだ。」
と教授は思わず苦笑して、
「しかし、その方が
今度は座敷に入って、まだ坐るか坐らないに、金屏風の上から、ひょいと顔が出て、「
教授はあきらめて落着いて、
「おいおいどうしてくれるんだ――給仕にも何にもまだ膳が来ないではないか。」
「あッそうだ。」
と慌てて片足を挙げたと思うと、下して片足をまた上げたり、下げたり。
「腹が空いたろで、早くお
と、そのまま
「北国一だ。」
と投げるように
酒は手酌が
話は前後したが、涙の半紙はここにあった。客は何となく折を見て聞いたのである。
「いましがたちょっと買ものをして来たんだが、」
と言継いで、
「
「北国一だ。あはははは。」
と、大声でいきなり笑った。
「まあまあ、北国一としておいて、何だい、娘かい、嫁さんかい。」
また大声で、
「
「驚かしなさんな。」
「
「成程、紙屋――あの雑貨店の亭主だな。」
「若い人だ、
「それで治兵衛……は分ったが、坊主とはどうした訳かね。」
「何、旦那さん、
「何?……」
「隠元豆、
「分らない。」
「あれ、ははは、いんきん、たむしだてば。」
「乱暴だなあ。」
「この山代の湯ぐらいでは
――
「ちゃんと金子を突いたでねえから、抱えぬしの方で承知しねえだよ。
かくと聞けば、トラホーム、目の煩いと思ったは恥かしい。
「旦那さん、何を考えていなさるだね。」
三
「そうか――
「あれ、小春さんが坊主の店に居ただかね。すいても嫌うても、
「お安くないのだな。」
「何、いとしゅうて泣いてるだか、しつこくて泣かされるだか、知れたものではないのだよ。」
「同じ事を……いとしい方にしておくがいい。」
と客は、しめやかに言った。
「
「大層嫌うな。……その
「横びんた
「これは驚いた。」
「北国一だ。山代の
「偉い!……その
「ああ、すべいよ、旦那さんが言わっしゃるなら。……」
「わざと……いささかだけれど御祝儀だ。」
肩を振って、
「要らねえよ。――
と顔を向け直すと、ちょっと上まぶたで客を
「旦那さん、いつ帰るかね。」
「いや、
「それでも、
「まったくだ、明日は
「
と、真顔で言った。
客はその
「勿論来ようが、その時、姐さんは居なかろう。」
「あれ、何でえ?……」
「お嫁に行くから。」
したたか
「ううむ、行かねえ。」
「治兵衛坊主が、たって欲しいと言うそうだ。」
「馬鹿を言うもんでねえ。――治兵衛だろうが、忠兵衛だろうが、……一生嫁に行かねえで待ってるだよ。」
「じゃあ、いっそ、どこへも行かないで、いつまでもここに居ようか。私をお
「するともさ。」
「私は働きがないのだから、婿も養子だ。お前さん養ってくれるかい。」
「ああ、養うよ。朝から晩まですきな時に湯に入れて、
「
「そのくらいなら……私が働く給金でして進ぜるだ。」
「ほんとかい。」
「それだがね、旦那さん。」
「御覧、それ、すぐに
「ううむ、ほんとうだ、が、こんな上段の
客は赤黒く、口の
「姐さん、名は何と言う。」
と笑って聞いた。
「ふ、ふ、ふ。」と首を振っている。
「何と言うよ。」
「
と
「よ、ほんとに何と言うよ。」
「お光だ。」
と、
「お光さんか、
「知らない。」
「まあ、
「顔だ。」
「何、」
「私の顔だよ、猿だてば。」
「すると、幾歳だっけな。」
「桃栗三年、
と笑いながら
「
四
ここに、第九師団
病院にして名勝の絵になったのは、全国ここばかりであろうも知れない。
この日当りで暖かそうなが、青白い建ものの、門の前は、枯葉半ば、色づいた桜の木が七八株、一列に植えたのを境に、もう
その
畑の裾は、町裏の、ごみごみした
色も空も
風情に
で、ここへ来た時……
客は、
小狗の
教授は、ほとびるがごとき笑顔になった。が、きりりと唇をしめると、
はっと思った時である。
「おほほほほ。ははははは。」
花々しく調子高に、若い女の笑声が響いた。
向うに
この三角畑の裾の
と見向いた時、畦の嫁菜を
「おほほほほほ、おほほほ、おほほほほほ。」
おや、顔に何かついている?……すべりを
金切声で、「ほほほほほほ。」
十歩ばかり先に立って、一人男の
何を笑う、教授はまた……これはこの陽気に外套を着たのが
いや、
ああ、それだ。
「ぷッ、」と噴出すように更に笑った女が、
「おほほほほ。」
胸を
「あはははは。」
たちまちくるりとうしろ向きに、何か、もみじの散りかかる小紋の羽織の背筋を見せて、向うむきに、雪の遠山へ、やたらに
「おほほ、あはは、あははははは。あははははは。」
やがて、
「おほほほほ、あははは、あははははは。」
きょろんと立った
教授も
「きゃっ、ひいッ。」と逆に半身を折って、前へ折曲げて、
「おほほほほほほ、あはははは、おほほほほほ。」
そこを両脇、乳も、胸も、もぞもぞと尾花が
「堪忍してよう、おほほほほ、あははははは。」
と、手をふるはずみに、
「あはははははは。おほほほほほ。」
「きゃあ――」と笑って、
その掛稲は、一杯の陽の光と、
「おほほほほほほほ、あはははははは。」
「
ねつい、
顔も、髪も、
瞬くばかりの間である。
「何をする、何をする。」
たかが
「何をする、何をするんだ。」
草の
この勢いに、男は桂谷の山手の方へ、掛稲を縫って、烏とともに飛んで
「おお。」
「あ、あれ、
遁げた男は治兵衛坊主で――お光に聞いた――小春であった。
「外套を
と小春は襟も帯も乱れた胸を、かよわく手でおさえて、片手で外套の袖に縋りながら、
「おほほほほほ、堪忍、御免なすって、あははははは。」
「御免なすって、旦那さん、赤蜻蛉をつかまえようと遊ばした、
「いや、我ながら、思えば
「ええ、
ひたと胸に、顔をうずめて、泣きながら、
「おほほほほほほ。」
五
「旦那さん、そんなら、あの、私、……死なずと大事ございませんか……」
「――言うだけの事はないよ、――まるッきり、お前さんが
なお聞けば、心中は、単に相談ばかりではない。こうした場所と、身の上では、夜中よりも人目に立たない、
左山中
この竹の杖を宙に取って、さきを握って、前へも立たず
駒下駄のちょこちょこあるきに、石段下、その呉羽の神の鳥居の蔭から、
「や、姉ちゃん。」――と
見る見るうちに、雛妓の、水晶のような
小春は
「姉ちゃん、お父ちゃんが、お父ちゃんが、目が見えなくなるから、……ちょっと姉ちゃんを見てえってなあ。……」
西行背負の風呂敷づつみを、肩の方から、いじけたように見せながら、
「姉ちゃん、大すきな豆の
ものも言い得ず、姉さんは、弟のその
「御免下され、御免下され。」
と言った。
「正念寺様におまいりをして、それから木賃へ
――来た途中の俄盲目は、これである――
やがて、近江屋の座敷では、小春を客分に扱って、膳を並べて、教授が
「……ほんとに私、死なないでも大事ございませんわね。」
「死んで
「でも、旦那さん、……義理も、人情も知らない女だ、薄情だと、言われようかと、そればかりが苦になりました。もう人が何と言いましょうと、旦那さんのお
「いや、これが神様や仏様だと、赤蜻蛉の形をしているのだ。」
「おほほ。」
「ああ、ほんとに笑ったな――もう
「たとい間違っておりましても、貴方のお
「あえて構わない。この俺が、私と言うものが、死ぬなと言ったから死なないと、構わず言え。――言ったって決して構わん。」
「いいえ、勿体ない、お名ふだもおねだり申して頂きました。人には言いはしませんが、まあ、嬉しい。……嬉しゅうございますわ。――旦那さん。」
「…………」
「あの、それですけれど……安心をしましたせいですか、
と、膝に
六
実は、さきに小春を連れて、この旅館へ帰った頃に、廊下を
頼もしいほど、陽気に
船の
小春の
この縁の突当りに、
「あれ、はんけちを
「それも死神の風呂敷だったよ。」
「
その水さしが、さて……いまやっぱり、手水鉢の
「どうした、どうした。……おお、泣いているのか。――私は……」
「ああれ、旦那さん。」
と、
「私、つい、つい、うっかりして、あのお恥かしくって泣くんですわ……ここには水がありません。」
「そうか。」
と教授が我が手で、その戸を開けてやりつつ、
「こっちへお出で、かけてやろう。さ。」
「は。」
「
「あれ、どうしましょう、勿体ない、私は罰が当ります。」
懐紙に二階の影が散る。……高い廊下をちらちらと
「罰の当ったはこの方だ。――しかし、
まことに髪が黒かった。教授の顔の明るさ。
「この手水鉢は、
「ええ、縁起でもない、旦那さん。」
「ま、
「北国一だ。……
殺した声と、
七
小春の身を、背に
「危い――刃ものを持ってるぞ。」
「何が、犬にも
「ああ、
教授は敷居へ、内へ向けて引きながら、縁側の
「君は、誰を斬るつもりかね。」
「うむ、
「迷惑をするじゃあないか。旅の客が湯治場の
「
「血迷うな、誤解はどうでも構わないが、君は卑劣だよ。……使った
「ううむ、ううむ。」と
「申訳のなさに五体が震える。何だ、その女に対して、隠元、
「餓鬼めが、畜生!」
「おっと、どっこい。」
「うむ、放せ。」
「
「
「いや、私はまだその人に、殺されも、斬られもしそうな気はしない。お放し。」
「おお、もっともな、私がこの手を押えているで、どうする事も出来はしねえだ。」
「さあ、胸を出せ、袖を開けろ。私は指一つ
また電燈が、滅びるように、
「二人とも覚えてけつかれ。」
「この野郎、どこから入った。ああ、――そうか。三畳の窓を
小春は花のいきするように、ただ教授の
八
ここの湯の
柳のもとには、二つ三つ用心
このあたりを、ちらほらと、そぞろ
みな立つ湯気につつまれて、布子も浴衣の色に見えた。
人の出入り一盛り。仕出しの
「うざくらし、
芝居がえりの過ぎたあと、土塀際の引込んだ軒下に、
「お
紙屋は黙って、ふいと離れて、すぐ軒ならびの
何の真似やら、おなじような、あたまから羽織を
この時であった。
「くそったれめ。」
見え透いた。が、外套が外へ出た、あとを、しめざまに
これを見た治兵衛はどうする。血は火のごとく
途端に小春の姿はかくれた。
あとの大戸を、金の額ぶちのように
犬ほどの
「おどれめ。」
と
「うーむ。」と言うと、ドンと倒れる。
獺橋の婆さんが、まだ火のない屋台から、顔を出してニヤリとした。
「北国一だ――」
と高く叫ぶと、その外套の袖が
九
――「小春さん、
治兵衛坊主は、お前さんの親たち、弟に逢った事はないか。――なければそれもなお好都合。あの人たちに訳を話すと、おなじ
私は直ぐに立って、山中へ行く。
わざとらしいようでもあるから、別室へと思わぬでもなけれど、さてそうして、お前は爺さんたちと、ここに一所に。……決して私に構うなと言った処で、人情としてそうは行くまい、顔の前に
泣きも笑いもするがいいが、どっちも胸をいためぬまで、よく
あの陰気な女中を呼ぶと、沈んで落着いただけに、よく分って、のみ込んだ。この趣を心得て、もの優しい宿の主人も、
勿論、小春が送ろうと言ったが、さっきの今で、治兵衛坊主に対しても
お光が中くらいな
道は近い、またすぐに出る処であった。
「旦那さん、
停車
「旦那さん、お願だから、私に、旦那さんの身についたものを
教授は外套を、すっと脱いだ。脱ぎはなしを、そのままお光の肩に掛けた。
このおもみに、トンと
発車した。
――お光は、
「北国一。」
と、まだ寝ないで、そこに、羽二重の
黒い外套を来た
けたたましい、廊下の話声を聞くと、山中温泉の旅館に、既に就寝中だった学士が、白いシイツを
寝床から自動車を呼んで、山代へ引返して、病院へ移ったという……お光の病室の床に、胸をしめて立った時、
「旦那さん、――お光さんが
と言って、小春がおもはゆげに泣いて
「お光さん、私だ、榊だ、分りますか。」
「旦那さんか、旦那さんか。」
と突拍子な高調子で、
「ようこそなあ――こんなものに……
立会った医師が二人まで、目を
「頂戴しました。――貰ったぞ。」
「旦那さん、顔が見たいが、もう見えんわ。」
「さ、さ、さ、これに縋らっしゃれ。」
と、ありなしの
「持たっしゃれ、縋らっしゃれ。ありがたい仏様が見えるぞい。」
「ああい、見えなくなった目でも、死ねば仏様が見られるかね。」
「おお、見られるとも、のう。ありがたや
「そんなものは見とうない。」
と、ツト杖を向うへ
「私は死んでも、旦那さんの
「勿体ないぞ。」
と口のうちで
「うんにゃ、
と言うと、持った杖をハタと
大正十二(一九二三)年一月
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