団欒 石段 菊の露 秀を忘れよ 東枕 誓
[#改ページ]
団欒
後 の日のまどいは楽しかりき。
「あの時は驚きましたっけねえ、新さん。」
とミリヤアドの顔嬉しげに打 まもりつつ、高津 は予を見向きていう。ミリヤアドの容体はおもいしより安らかにて、夏の半 一度 その健康を復せしなりき。
「高津さん、ありがとう。お庇 様で助かりました。上杉さん、あなたは酷 い、酷い、酷いもの飲ませたから。」
と優しき、されど邪慳 を装える色なりけり。心なき高津の何をか興ずる。
「ねえ、ミリヤアドさん、あんなものお飲ませだからですねえ。新さんが悪いんだよ。」
「困るねえ、何も。」と予は面 を背けぬ。ミリヤアドは笑止がり、
「それでも、私 は血を咯 きました、上杉さんの飲ませたもの、白い水です。」
「いいえ、いいえ、血じゃありませんよ。あなた血を咯いたんだと思って心配していらっしゃいますけれど血だもんですか。神経ですよ。あれはね、あなた、新さんの飲ませた水に着ていらっしゃった襦袢 のね、真紅 なのが映ったんですよ。」
「こじつけるねえ、酷いねえ。」
「何のこじつけなもんですか。ほんとうですわねえ。ミリヤアドさん。」
ミリヤアドは莞爾 として、
「どうですか。ほほほ。」
「あら、片贔屓 を遊ばしてからに。」
と高津はわざとらしく怨 じ顔なり。
「何だってそう僕をいじめるんだ。あの時だって散々 酷いめにあわせたじゃないか。乱暴なものを食べさせるんだもの、綿の餡 なんか食べさせられたのだから、それで煩うんだ。」
「おやおや飛んだ処でね、だってもう三月も過ぎましたじゃありませんか。疾 くにこなれてそうなものですね。」
「何、綿が消化 れるもんか。」
ミリヤアド傍 より、
「喧嘩 してはいけません。また動悸 を高くします。」
「ほんとに串戯 は止 して新さん、きづかうほどのことはないのでしょうね。」
「いいえ、わけやないんだそうだけれど、転地しなけりゃ不可 ッていうんです。何、症が知れてるの。転地さえすりゃ何でもないって。」
「そんならようござんすけれど、そして何時の汽車だッけね。」
「え、もうそろそろ。」
と予は椅子 を除 けてぞ立ちたる。
「ミリヤアド。」
ミリヤアドは頷 きぬ。
「高津さん。」
「はい、じゃ、まあいっていらっしゃいまし、もうねえ、こんなにおなんなすったんですから、ミリヤアドのことはおきづかいなさらないで、大丈夫でござんすから。」
「それでは。」
ミリヤアドは衝 と立ちあがり、床に二ツ三ツ足ぶみして、空ざまに手をあげしが、勇ましき面色 なりき。
「こんなに、よくなりました。上杉さん、大丈夫、駈 けてみましょう。門 まで、」
といいあえず、上着の片褄 掻取 りあげて小刻 に足はやく、颯 と芝生におり立ちぬ。高津は見るより、
「あら、まだそんなことをなすッちゃいけません。いけませんよ。」
と呼び懸けながら慌 しく追い行 きたる、あとよりして予は出でぬ。
木戸の際にて見たる時ミリヤアドは呼吸忙 しくたゆげなる片手をば、垂れて高津の肩に懸け、頭 を少し傾けいたりき。
石段
「いいめをみせたんですよ、だからいけなかったんです。あの当時しばらくはどういうものでしょう、それはね、ほんとに嘘のように元気がよくおなんなすッて、肺病なんてものは何でもないものだ。こんなわけのないものはないッてっちゃ、室 の中を駈 けてお歩行 きなさるじゃありませんか。そうしちゃあね、(高津さん、歌をうたッて聞かせよう)ッてあの(なざれの歌)をね、人の厭 がるものをつかまえてお唄いなさるの。唄っちゃ(ああ、こんなじゃ洋琴 も役に立たない、)ッて寂 しい笑顔をなさるとすぐ、呼吸 が苦しくなッて、顔へ血がのぼッて来るのだから、そんなことなすッちゃいけませんてッて、いつでも寝さしたんですよ。
しかしね、こんな塩梅 ならば、まあ結構だと思って、新さん、あなたの処へおたよりをするのにも、段々快 い方ですからお案じなさらないように、そういってあげましたっけ。
そうすると、つい先月のはじめにねえ、少しいつもより容子 が悪くおなんなすったから、急いで医者に診せましたの。はじめて行った時は、何でもなかったんですが、二度目ですよ。二度目にね、新さん、一所にお医者様の処へ連れて行ってあげた時、まあ、どうでしょう。」
高津はじっと予を見たり。膝にのせたる掌 の指のさきを動かしつつ、
「あすこの、あればかりの石壇にお弱んなすッて、上の壇が一段、どうしてもあがり切れずに呼吸 をついていらっしゃるのを、抱いて上げた時は、私も胸を打たれたんですよ。
まあ可 い、可い! ここを的に取って看病しよう。こん度来るまでにはきっと独 でお上 んなさるようにして見せよう。そうすりゃ素人目にも快 くおなんなすった解 りが早くッて、結句張合 があると思ったんですが、もうお医者様へいらっしゃることが出来たのはその日ッきり。新さん、やっぱりいけなかったの。
お医者様はとてもいけないって云いました、新さん、私ゃじっと堪 えていたけれどね、傍 に居た老年 の婦人 の方が深切に、(お気の毒様ですねえ。)
といってくれた時は、もうとても我慢が出来なくなって泣きましたよ。薬を取って溜 へ行ッちゃ、笑って見せていたけれど、どんなに情 なかったでしょう。
様子に見せまいと思っても、ツイ胸が迫って来るもんですから、合乗 で帰る道で私の顔を御覧なすって、
(何だねえ、どうしたの、妙な顔をして。)
と笑いながらいって、憎らしいほどちゃんと澄 していらっしゃるんだもの。気分は確 だし、何にも知らないで、と思うとかわいそうで、私ゃかわいそうで。
今更じゃないけれど、こんな気立 の可い、優しい、うつくしい方がもう亡くなるのかと思ったら、ねえ、新さん、いつもより百倍も千倍も、優しい、美しい、立派な方に見えたろうじゃありませんか。誂 えて拵 えたような、こういう方がまたあろうか、と可惜 もので。可惜もので。大事な姉さんを一人、もう、どうしようと、我慢が出来なくなってね、車が石の上へ乗った時、私ゃソッと抱いてみたわ。」とぞ微笑 たる、目には涙を宿したり。
「僕は何だか夢のようだ。」
「私だってほんとうにゃなりません位ひどくおやつれなすったから、ま、今に覧 てあげて下さいな。
電報でもかけようか、と思ったのに。よく早く出京 て来てね。始終上杉さん、上杉さんッていっていらっしゃるから、どんなにか喜ぶでしょう。しかしね、急にまたお逢いなすっちゃ激するから、そッとして、いまに目をおさましなすッてから私がよくそういって、落着かしてからお逢いなさいましよ。腕車 やら、汽車やらで、新さん、あなたもお疲れだろうに、すぐこんなことを聞かせまして、もう私ゃ申訳がございません。折角お着き申していながら、どうしたら可 いでしょう、堪忍なさいよ。」
菊の露
「もうもう思入 ここで泣いて、ミリヤアドの前じゃ、かなしい顔をしちゃいけません。そっとしておいてあげないと、お医師 が見えて、私が立廻ってさえ、早や何か御自分の身体 に異 ったことがあるのかと思って、直 に熱が高くなりますからね。
それでなくッてさえ熱がね、新さん四十 度の上あるんです。少し下るのは午前のうちだけで、もうおひるすぎや、夜なんざ、夢中なの。お薬を頂いて、それでまあ熱を取るんですが、日に四度 ぐらいずつ手巾 を絞るんですよ。酷 いじゃありませんか。それでいて痰 がこう咽喉 へからみついてて、呼吸 を塞 ぐんですから、今じゃ、ものもよくは言えないんでね、私に話をして聞かしてと始終そういっちゃあね、詰 らないことを喜んで聞いていらっしゃるの。
どんなにか心細いでしょう。寝たっきりで、先月の二十日時分から寝返りさえ容易じゃなくッて、片寝でねえ。耳にまで床ずれがしてますもの。夜 が永いのに眠られないで悩むのですから、どんなに辛いか分りません。話といったってねえ、新さん、酷く神経が鋭くなってて、もう何ですよ、新聞の雑報を聞かしてあげても泣くんですもの。何かねえ、小鳥の事か、木の実の話でもッておっしゃるけれど、どういっていいのか分らず、栗がおッこちるたって、私ゃ縁起が悪いもの。いいようがありません。それでなければ、治ってから片瀬の海浜にでも遊びにゆく時の景色なんぞ、月が出ていて、山が見えて、海が凪 ぎて、みさごが飛んで、そうして、ああするとか、こうするとかいって、聞かせて、といいますけれど、ね、新さん、あなたなら、あなたならば男だからいえるでしょう。いまにあなた章魚 に灸 を据えるとか、蟹 に握飯をたべさすとかいう話でもしてあげて下さいまし。私にゃ、私にゃ、どうしてもあの病人をつかまえて、治ってどうしようなんていうことは、情 なくッて言えません。」
という声もうるみにき。
「え、新さん、はなせますか、あなただって困るでしょう。耳が遠くおなんなすったくらい、茫 としていらっしゃるのに、悪いことだと小さな声でいうのが遠くに居てよく聞えますもの。
せいせいッてね、痰が咽 にからんでますのが、いかにもお苦しそうだから、早く出なくなりますようにと、私も思いますし、病人も痰を咯 くのを楽 みにしていらっしゃいますがね、果敢 ないじゃありませんか、それが、血を咯くより、なお、酷く悪いんですとさ。
それでいてあがるものはというと、牛乳 を少しと、鶏卵ばかり。熱が酷うござんすから舌が乾くッて、とおし、水で濡 しているんですよ。もうほんとうにあわれなくらいおやせなすって、菊の露でも吸わせてあげたいほど、小さく美しくおなりだけれど、ねえ、新さん、そうしたら身体 が消えておしまいなさろうかと思って。」
といいかけて咽泣 き、懐より桃色の絹の手巾 をば取り出でつつ目を拭 いしを膝にのして、怨 めしげに瞻 りぬ。
「新さん、手巾 でね、汗を取ってあげるんですがね、そんなに弱々しくおなんなすった、身体から絞るようじゃありませんか。ほんとに冷々 するんですよ。拭 くたびにだんだんお顔がねえ、小さくなって、頸 ン処が細くなってしまうんですもの、ひどいねえ、私ゃお医者様が、口惜 くッてなりません。
だって、はじめッから入院さしたッて、どうしたッて、いけないッて見離しているんですもの。今ン処じゃただもう強いお薬のせいで、ようよう持っていますんですとね、ね、十滴ずつ。段々多くするんですッて。」
青き小 き瓶あり。取りて持返して透 したれば、流動体の平面斜めになりぬ。何ならむ、この薬、予が手に重くこたえたり。
じっとみまもれば心も消々 になりぬ。
その口の方 早や少しく減じたる。それをば命とや。あまり果敢 なさに予は思わず呟 きぬ。
「たッたこれだけ、百滴吸ったらなくなるでしょう。」
「いえ、また取りに参ります……」
といいかけて顔を見合せつつ、高津はハッと泣き伏しぬ。ああ、悪きことをいいたり。
秀を忘れよ
「あんまり何だものだから、僕はつい、高津さん気にかけちゃ不可 い。」
「いいえ、何にもそんなことを気にかけるような、新さん、容体ならいいけれど。」
「どうすりゃ可 いのかなあ。」
ただといきのみつかれたる、高津はしばしものいわざりしが、
「どうしようにも、しようがないの。ただねえ、せめて安心をさしてあげられりゃ、ちっとは、新さん何だけれど。」
と予が顔を打 まもれり。
「それがどうすりゃいいんだか。」
「さあ、母様 のことも大抵いい出しはなさらないし、他 に、別に、こうといって、お心懸 りもおあんなさらないようですがね、ただね、始終心配していらっしゃるのは、新さん、あなたの事ですよ。」
「僕を。」
「ですからどうにかして気の休まるようにしてあげて下さいな。心配をかけるのは、新さんあなたが、悪いんですよ。」
「え。」
「あのね、始終そういっていらっしゃるの。(私が居る内は可 いけれど、居なくなると、上杉さんがどんなことをしようも知れない)ッて。」
「何を僕が。」
予は顔の色かわらずやと危ぶみしばかりなりき。背 はひたと汗になりぬ。
「いいえ、ほんとうでしょう、ほんとうに違いませんよ。それに違いないお顔ですもの。私が見ましてさえ、何ですか、いつも、もの思 をして、うつらうつらとしていらっしゃるようじゃありませんか。誠にお可哀相 な様 ですよ。ミリヤアドもそういいましたっけ。(私が慰めてやらなければ、あの児 はどうするだろう)ッて。何もね、秘密なことを私が聞こうじゃありませんけれど、なりますことなら、ミリヤアドに安心をさしてあげて下さいな。え、新さん、(私が居さえすりゃ、大丈夫だけれど、どうも案じられて。)とおっしゃるんですから、何とかしておあげなさいな。あなたにゃその工夫があるでしょう、上杉さん。」
名を揚げよというなり。家を起せというなり。富の市を憎みて殺さむと思うことなかれというなり。ともすれば自殺せむと思うことなかれというなり。詮ずれば秀 を忘れよというなり。その事をば、母上の御名 にかけて誓えよと、常にミリヤアドのいえるなりき。
予は黙してうつむきぬ。
「何もね、いまといっていま、あなたに迫るんじゃありません。どうぞ悪く思わないで下さいまし、しかしお考えなすッてね。」
また顔見たり。
折から咳入 る声聞ゆ。高津は目くばせして奥にゆきぬ。
ややありて、
「じゃ、お逢い遊ばせ、上杉さんですよ、可 うござんすか。」
という声しき。
「新さん。」
と聞えたれば馳 せゆきぬ。と見れば次の室 は片付きて、畳に塵 なく、床花瓶 に菊一輪、いつさしすてしか凋 れたり。
東枕
襖 左右に開きたれば、厚衾 重ねたる見ゆ。東に向けて臥床 設けし、枕頭 なる皿のなかに、蜜柑 と熟したる葡萄 と装 りたり。枕をば高くしつ。病める人は頭 埋 めて、小 やかにぞ臥したりける。
思いしよりなお瘠 せたり。頬のあたり太 く細りぬ。真白うて玉なす顔、両の瞼 に血の色染めて、うつくしさ、気高さは見まさりたれど、あまりおもかげのかわりたれば、予は坐 りもやらで、襖の此方 に彳 みつつ、みまもりてそれをミリヤアドと思う胸はまずふたがりぬ。
「さ、」
と座蒲団 差 よせたれば、高津とならびて、しおしおと座につきぬ。
顔見ば語らむ、わが名呼ばれむ、と思い設けしはあだなりき。
寝返ることだに得 せぬ人の、片手の指のさきのみ、少しく衾 の外に出 したる、その手の動かむともせず。
瞳キト据 りたれば、わが顔見られむと堪 えずうつむきぬ。ミリヤアドとばかりもわが口には得 出ででなむ、強いて微笑 みしが我ながら寂しかりき。
高津の手なる桃色の絹の手巾 は、はらりと掌 に広がりて、軽 くミリヤアドの目のあたり拭 いたり。
「汗ですよ、熱がひどうござんすから。」
頬のあたりをまた拭いぬ。
「分りましたか、上杉さん、ね、ミリヤアド。」
「上杉さん。」
極めて低けれど忘れぬ声なり。
「こんなになりました。」
とややありて切なげにいいし一句にさえ、呼吸 は三たびぞ途絶えたる。昼中の日影さして、障子にすきて見ゆるまで、空蒼 く晴れたればこそかくてあれ、暗くならば影となりて消えや失 せむと、見る目も危うく窶 れしかな。
「切のうござんすか。」
ミリヤアドは夢見る顔なり。
「耳が少し遠くなっていらっしゃいますから、そのおつもりで、新さん。」
「切のうござんすか。」
頷 く状 なりき。
「まだ可いんですよ。晩方になって寒くなると、あわれにおなんなさいます。それに熱が高くなりますからまるで、現 。」
と低声 にいう。かかるものをいかなる言 もて慰むべき。果 は怨 めしくもなるに、心激して、
「どうするんです、ミリヤアド、もうそんなでいてどうするの。」
声高にいいしを傍 より目もて叱られて、急に、
「何ともありませんよ、何、もう、いまによくなります。」
いいなおしたる接穂 なさ。面 を背けて、
「治らないことはありません。治るよ、高津さん。」
高津は勢 よく、
「はい、それはあなた、神様がいらっしゃいます。」
予はまた言わざりき。
誓
月凍 てたり。大路 の人の跫音 冴えし、それも時過ぎぬ。坂下に犬の吠 ゆるもやみたり。一 しきり、一しきり、檐 に、棟に、背戸の方 に、颯 と来て、さらさらさらさらと鳴る風の音。この凩 ! 病む人の身をいかんする。ミリヤアドは衣 深く引被 ぐ。かくは予と高津とに寝よとてこそするなりけれ。
かかる夜 を伽 する身の、何とて二人の眠らるべき。此方 もただ眠りたるまねするを、今は心安しとてやミリヤアドのやや時すぐれば、ソト顔を出だして、あたりをば見まわしつつ、いねがてに明 を待つ優しき心づかい知りたれば、その夜もわざと眠るまねして、予は机にうつぶしぬ。
掻巻 をば羽織らせ、毛布 引 かつぎて、高津は予が裾 に背 向けて、正しゅう坐るよう膝をまげて、横にまくらつけしが、二ツ三ツものいえりし間 に、これは疲れて転寝 せり。
何なりけむ。ものともなく膚 あわだつに、ふと顔をあげたれば、ありあけ暗き室のなかにミリヤアドの双の眼 、はきとあきて、わが方 を見詰めいたり。
予が見て取りしを彼方 にもしかと見き。ものいうごとき瞳の動き、引寄するように思われたれば、掻巻刎 ねのけて立ちて、進み寄りぬ。
近よれという色見ゆ。
やがてその前に予は手をつきぬ。あまり気高かりし状 に恐しき感ありき。
「高津さん。」
「少し休みましたようです。」
「そう。」
とばかりいきをつきぬ。やや久しゅうして、
「上杉さん、あなたどうします。」
予は思わずわななきぬ。
「何を、ミリヤアド。」
「私 なくなりますと、あなたどうします。」
涙ながら、
「そんなことおっしゃるもんじゃありません。」
「いいえ、どうします。」と強くいえり。
「そんなことを、僕は知りません。」
「知らない、いけません、みんな知っている。かわいそうで、眠られません。眠られません。上杉さん、私 、頼みます、秀、秀。」
予は頭 より氷を浴ぶる心地したりき。折から風の音だもあらず、有明の燈影 いと幽 に、ミリヤアドが目に光さしたり。
「秀さんのこと思わないで、勉強して、ね、上杉さん。」
予は伏沈 みぬ。
「かわいそう、かわいそうですけれども、私 、こんな、こんな、病気になりました。仕方がない、あなたどうします。かわいそうで、安心して死なれません。苦しい、苦しい、かわいそうと思いませんか。私、あなたをかわいがりました。私を、私を、かわいそうとは思いませんか。」
一しきり、また凩 の戸にさわりて、ミリヤアドの顔蒼 ざめぬ。その眉顰 み、唇ふるいて、苦痛を忍び瞼 を閉じしが、十分 時 過ぎつと思うに、ふとまた明らかに□ けり。
「肯 きませんか。あなた、私 を何と思います。」
と切なる声に怒 を帯びたる、りりしき眼の色恐しく、射竦 めらるる思 あり。
枕に沈める横顔の、あわれに、貴く、うつくしく、気だかく、清き芙蓉 の花片 、香 の煙に消ゆよとばかり、亡き母上のおもかげをば、まのあたり見る心地しつ。いまはハヤ何をかいわむ。
「母上 。」
と、ミリヤアドの枕の許 に僵 れふして、胸に縋 りてワッと泣きぬ。
誓えとならば誓うべし。
「どうぞ、早く、よくなって、何にも、ほかに申しません。」
ミリヤアドは目を塞 ぎぬ。また一しきり、また一しきり、刻むがごとき戸外 の風。
予はあわただしく高津を呼びぬ。二人が掌 左右より、ミリヤアドの胸おさえたり。また一しきり、また一しきり大空をめぐる風の音。
「ミリヤアド。」
「ミリヤアド。」
目はあきらかにひらかれたり。また一しきり、また一しきり、夜 深くなりゆく凩の風。
神よ、めぐませたまえ、憐みたまえ、亡き母上。
[#改ページ]
団欒
「あの時は驚きましたっけねえ、新さん。」
とミリヤアドの顔嬉しげに
「高津さん、ありがとう。お
と優しき、されど
「ねえ、ミリヤアドさん、あんなものお飲ませだからですねえ。新さんが悪いんだよ。」
「困るねえ、何も。」と予は
「それでも、
「いいえ、いいえ、血じゃありませんよ。あなた血を咯いたんだと思って心配していらっしゃいますけれど血だもんですか。神経ですよ。あれはね、あなた、新さんの飲ませた水に着ていらっしゃった
「こじつけるねえ、酷いねえ。」
「何のこじつけなもんですか。ほんとうですわねえ。ミリヤアドさん。」
ミリヤアドは
「どうですか。ほほほ。」
「あら、
と高津はわざとらしく
「何だってそう僕をいじめるんだ。あの時だって
「おやおや飛んだ処でね、だってもう三月も過ぎましたじゃありませんか。
「何、綿が
ミリヤアド
「
「ほんとに
「いいえ、わけやないんだそうだけれど、転地しなけりゃ
「そんならようござんすけれど、そして何時の汽車だッけね。」
「え、もうそろそろ。」
と予は
「ミリヤアド。」
ミリヤアドは
「高津さん。」
「はい、じゃ、まあいっていらっしゃいまし、もうねえ、こんなにおなんなすったんですから、ミリヤアドのことはおきづかいなさらないで、大丈夫でござんすから。」
「それでは。」
ミリヤアドは
「こんなに、よくなりました。上杉さん、大丈夫、
といいあえず、上着の
「あら、まだそんなことをなすッちゃいけません。いけませんよ。」
と呼び懸けながら
木戸の際にて見たる時ミリヤアドは
石段
「いいめをみせたんですよ、だからいけなかったんです。あの当時しばらくはどういうものでしょう、それはね、ほんとに嘘のように元気がよくおなんなすッて、肺病なんてものは何でもないものだ。こんなわけのないものはないッてっちゃ、
しかしね、こんな
そうすると、つい先月のはじめにねえ、少しいつもより
高津はじっと予を見たり。膝にのせたる
「あすこの、あればかりの石壇にお弱んなすッて、上の壇が一段、どうしてもあがり切れずに
まあ
お医者様はとてもいけないって云いました、新さん、私ゃじっと
といってくれた時は、もうとても我慢が出来なくなって泣きましたよ。薬を取って
様子に見せまいと思っても、ツイ胸が迫って来るもんですから、
(何だねえ、どうしたの、妙な顔をして。)
と笑いながらいって、憎らしいほどちゃんと
今更じゃないけれど、こんな
「僕は何だか夢のようだ。」
「私だってほんとうにゃなりません位ひどくおやつれなすったから、ま、今に
電報でもかけようか、と思ったのに。よく早く
菊の露
「もうもう
それでなくッてさえ熱がね、新さん
どんなにか心細いでしょう。寝たっきりで、先月の二十日時分から寝返りさえ容易じゃなくッて、片寝でねえ。耳にまで床ずれがしてますもの。
という声もうるみにき。
「え、新さん、はなせますか、あなただって困るでしょう。耳が遠くおなんなすったくらい、
せいせいッてね、痰が
それでいてあがるものはというと、
といいかけて
「新さん、
だって、はじめッから入院さしたッて、どうしたッて、いけないッて見離しているんですもの。今ン処じゃただもう強いお薬のせいで、ようよう持っていますんですとね、ね、十滴ずつ。段々多くするんですッて。」
青き
じっとみまもれば心も
その口の
「たッたこれだけ、百滴吸ったらなくなるでしょう。」
「いえ、また取りに参ります……」
といいかけて顔を見合せつつ、高津はハッと泣き伏しぬ。ああ、悪きことをいいたり。
秀を忘れよ
「あんまり何だものだから、僕はつい、高津さん気にかけちゃ
「いいえ、何にもそんなことを気にかけるような、新さん、容体ならいいけれど。」
「どうすりゃ
ただといきのみつかれたる、高津はしばしものいわざりしが、
「どうしようにも、しようがないの。ただねえ、せめて安心をさしてあげられりゃ、ちっとは、新さん何だけれど。」
と予が顔を
「それがどうすりゃいいんだか。」
「さあ、
「僕を。」
「ですからどうにかして気の休まるようにしてあげて下さいな。心配をかけるのは、新さんあなたが、悪いんですよ。」
「え。」
「あのね、始終そういっていらっしゃるの。(私が居る内は
「何を僕が。」
予は顔の色かわらずやと危ぶみしばかりなりき。
「いいえ、ほんとうでしょう、ほんとうに違いませんよ。それに違いないお顔ですもの。私が見ましてさえ、何ですか、いつも、もの
名を揚げよというなり。家を起せというなり。富の市を憎みて殺さむと思うことなかれというなり。ともすれば自殺せむと思うことなかれというなり。詮ずれば
予は黙してうつむきぬ。
「何もね、いまといっていま、あなたに迫るんじゃありません。どうぞ悪く思わないで下さいまし、しかしお考えなすッてね。」
また顔見たり。
折から
ややありて、
「じゃ、お逢い遊ばせ、上杉さんですよ、
という声しき。
「新さん。」
と聞えたれば
東枕
思いしよりなお
「さ、」
と
顔見ば語らむ、わが名呼ばれむ、と思い設けしはあだなりき。
寝返ることだに
瞳キト
高津の手なる桃色の絹の
「汗ですよ、熱がひどうござんすから。」
頬のあたりをまた拭いぬ。
「分りましたか、上杉さん、ね、ミリヤアド。」
「上杉さん。」
極めて低けれど忘れぬ声なり。
「こんなになりました。」
とややありて切なげにいいし一句にさえ、
「切のうござんすか。」
ミリヤアドは夢見る顔なり。
「耳が少し遠くなっていらっしゃいますから、そのおつもりで、新さん。」
「切のうござんすか。」
「まだ可いんですよ。晩方になって寒くなると、あわれにおなんなさいます。それに熱が高くなりますからまるで、
と
「どうするんです、ミリヤアド、もうそんなでいてどうするの。」
声高にいいしを
「何ともありませんよ、何、もう、いまによくなります。」
いいなおしたる
「治らないことはありません。治るよ、高津さん。」
高津は
「はい、それはあなた、神様がいらっしゃいます。」
予はまた言わざりき。
誓
月
かかる
何なりけむ。ものともなく
予が見て取りしを
近よれという色見ゆ。
やがてその前に予は手をつきぬ。あまり気高かりし
「高津さん。」
「少し休みましたようです。」
「そう。」
とばかりいきをつきぬ。やや久しゅうして、
「上杉さん、あなたどうします。」
予は思わずわななきぬ。
「何を、ミリヤアド。」
「
涙ながら、
「そんなことおっしゃるもんじゃありません。」
「いいえ、どうします。」と強くいえり。
「そんなことを、僕は知りません。」
「知らない、いけません、みんな知っている。かわいそうで、眠られません。眠られません。上杉さん、
予は
「秀さんのこと思わないで、勉強して、ね、上杉さん。」
予は
「かわいそう、かわいそうですけれども、
一しきり、また
「
と切なる声に
枕に沈める横顔の、あわれに、貴く、うつくしく、気だかく、清き
「
と、ミリヤアドの枕の
誓えとならば誓うべし。
「どうぞ、早く、よくなって、何にも、ほかに申しません。」
ミリヤアドは目を
予はあわただしく高津を呼びぬ。二人が
「ミリヤアド。」
「ミリヤアド。」
目はあきらかにひらかれたり。また一しきり、また一しきり、
神よ、めぐませたまえ、憐みたまえ、亡き母上。
明治三十(一八九七)年一月
声明:本文内容均来自青空文库,仅供学习使用。"沪江网"高度重视知识产权保护。当如发现本网站发布的信息包含有侵犯其著作权的内容时,请联系我们,我们将依法采取措施移除相关内容或屏蔽相关链接。