一
片側は空も曇って、今にも一村雨 来そうに見える、日中 も薄暗い森続きに、畝 り畝り遥々 と黒い柵を繞 らした火薬庫の裏通 、寂しい処 をとぼとぼと一人通る。
「はあ、これなればこそ可 けれ、聞くも可恐 しげな煙硝庫 が、カラカラとして燥 いで、日が当っては大事じゃ。」
と世に疎 そうな独言 。
大分日焼けのした顔色で、帽子を被 らず、手拭 を畳んで頭に載 せ、半開きの白扇を額に翳 した……一方雑樹交りに干潟 のような広々とした畑 がある。瓜 は作らぬが近まわりに番小屋も見えず、稲が無ければ山田守 る僧都 もおわさぬ。
雲から投出したような遣放 しの空地に、西へ廻った日の赤々と射 す中に、大根の葉のかなたこなたに青々と伸びたを視 めて、
「さて世はめでたい、豊年の秋じゃ、つまみ菜もこれ太根 になったよ。」
と、一つ腰を伸 して、杖 がわりの繻子張 の蝙蝠傘 の柄に、何の禁厭 やら烏瓜 の真赤 な実、藍 、萌黄 とも五つばかり、蔓 ながらぶらりと提げて、コツンと支 いて、面長で、人柄な、頤 の細いのが、鼻の下をなお伸 して、もう一息、兀 の頂辺 へ扇子を翳 して、
「いや、見失ってはならぬぞ、あの、緑青色 した鳶 が目当じゃ。」
で、白足袋に穿込 んだ日和下駄 、コトコトと歩行 き出す。
年齢 六十に余る、鼠と黒の万筋の袷 に黒の三ツ紋の羽織、折目はきちんと正しいが、色のやや褪 せたを着、焦茶の織ものの帯を胴ぶくれに、懐大きく、腰下りに締めた、顔は瘠 せた、が、目じしの落ちない、鼻筋の通ったお爺 さん。
眼鏡 はありませんか。緑青色の鳶だと言う、それは聖心女子院とか称 うる女学校の屋根に立った避雷針の矢の根である。
もっとも鳥居数 は潜 っても、世智に長 けてはいそうにない。
ここに廻って来る途中、三光坂を上 った処で、こう云って路 を尋ねた……
「率爾 ながら、ちとものを、ちとものを。」
問われたのは、ふらんねるの茶色なのに、白縮緬 の兵児帯 を締めた髭 の有る人だから、事が手軽に行 かない。――但し大きな海軍帽を仰向 けに被 せた二歳ぐらいの男の児 を載せた乳母車を曳 いて、その坂路 を横押 に押してニタニタと笑いながら歩行 いていたから、親子の情愛は御存じであろうけれども、他人に路を訊 かれて喜んで教えるような江戸児 ではない。
黙然 で、眉と髭と、面中 の威厳を緊張せしめる。
老人もう一倍腰を屈 めて、
「えい、この辺に聖人と申す学校がござりまする筈 で。」
「知らん。」と、苦い顔で極附 けるように云った。
「はッ、これはこれは御無礼至極な儀を、実 に御歩 を留めました。」
がたがたと下りかかる大八車を、ひょいと避けて、挨拶 に外した手拭も被らず、そのまま、とぼんと行 く。頭 の法体 に対しても、余り冷淡だったのが気の毒になったのか。
「ああ聖心女学校ではないのかい、それなら有ッじゃね。」
「や、女子 の学校?」
「そうですッ。そして聖人ではない、聖心、心 ですが。」
「いかさま、そうもござりましょう。実はせんだって通掛 りに見ました。聖、何とやらある故に、聖人と覚えました。いや、老人粗忽 千万。」
と照れたようにその頭をびたり……といった爺様 なのである。
二
その女学校の門を通過ぎた処に、以前は草鞋 でも振 ら下げて売ったろう。葭簀張 ながら二坪ばかり囲 を取った茶店が一張 。片側に立樹の茂った空地の森を風情にして、如法 の婆さんが煮ばなを商う。これは無くてはなるまい。あの、火薬庫を前途 にして目黒へ通う赤い道は、かかる秋の日も見るからに暑くるしく、並木の松が欲しそうであるから。
老人は通りがかりにこれを見ると、きちんと畳んだ手拭で額の汗を拭 きながら、端の方の床几 に掛けた。
「御免なさいよ。」
「はいはい、結構なお日和 でございます。」
「されば……じゃが、歩行 くにはちと陽気過ぎますの。」
と今時、珍しいまで躾 の可 い扇子を抜く。
「いえ、御隠居様、こうして日蔭に居 りましても汗が出ますでございますよ。何ぞ、シトロンかサイダアでもめしあがりますか。」と商売は馴 れたもの。
「いやいや、老人 の冷水とやら申す、馴れた口です。お茶を下され。」
「はいはい。」
ちと横幅の広い、元気らしい婆さん。とぼけた手拭、片襷 で、古ぼけた塗盆へ、ぐいと一つ形容の拭巾 をくれつつ、
「おや、坊ちゃん、お嬢様。」と言う。
十一二の編 さげで、袖 の長いのが、後 について、七八ツのが森の下へ、兎 と色鳥ひらりと入った。葭簀越 に、老人はこれを透かして、
「ああ、その森の中は通抜けが出来ますかの。」
「これは、余所 のお邸 様の持地 でございまして、はい、いいえ、小児衆 は木の実を拾いに入りますのでございますよ。」
「出口に迷いはしませんかの、見受けた処、なかなかどうも、奥が深い。」
「もう口許 だけでございます。で、ございますから、榎 の実に団栗 ぐらい拾いますので、ずっと中へ入りますれば、栗も椎 もございますが、よくいたしたもので、そこまでは、可恐 がって、お幼 いのは、おいたが出来ないのでございます。」
「ははあいかにもの。」
と、飲んだ茶と一緒に、したたか感心して、
「これぞ、自然 なる要害、樹の根の乱杭 、枝葉 の逆茂木 とある……広大な空地じゃな。」
「隠居さん、一つお買いなすっちゃどうです。」
と唐突 に云った。土方体 の半纏着 が一人、床几は奥にも空いたのに、婆さんの居る腰掛を小楯 に踞 んで、梨の皮を剥 いていたのが、ぺろりと、白い横銜 えに声を掛ける。
真顔に、熟 と肩を細く、膝頭 に手を置いて、
「滅相もない事を。老人若い時に覚えがあります。今とてもじゃ、足腰が丈夫ならば、飛脚なと致いて通ってみたい。ああ、それもならず……」
と思入ったらしく歎息 したので、成程、服装 とても秋日和の遊びと見えぬ。この老人 の用ありそうな身過ぎのため、と見て取ると、半纏着は気を打って、悄気 た顔をして、剥いて落した梨の皮をくるくると指に巻いて、つまらなく笑いながら、
「ははは、野原や、山路 のような事を言ってなさらあ、ははは。」
「いやいや、まるで方角の知れぬ奥山へでも入ったようじゃ。昼日中提灯 でも松明 でも点 けたらばと思う気がします。」
がっくりと俯向 いて、
「頭 ばかりは光れども……」
つるりと撫 でた手、頸 の窪 。
「足許は暗 じゃが、のう。」と悄 れた肩して膝ばかり、きちんと正しい扇を笏 。
と、思わず釣込まれたようになって、二人とも何かそこへ落ちたように、きょろきょろと土間を□ す。葭簀 の屋根に二葉三葉。森の影は床几に迫って、雲の白い蒼空 から、木 の実が降って来たようであった。
三
半纏着は、急に日が蔭ったような足許 から、目を上げて、兀 げた老人 の頭 と、手に持った梨の実の白いのを見較べる。
婆さんが口を出して、
「御隠居様は御遠方でいらっしゃるのでございますか。」
「下谷 じゃ。」
「そいつあ遠いや、電車でも御大抵じゃねえ。へい、そしてどちらへお越しになるんで。」
「いささかこの辺 へ用事があっての。当年たった一度、極暑 の砌 参ったばかり、一向に覚束 ない。その節通りがかりに見ました、大 な学校を当 にいたした処、唯今 立寄って見れば門が違うた。」
腕を伸 して、来た方を指 すと共に、斉 く扇子を膝に支 いて身体 ごと向直る……それにさえ一息して、
「それは表門でござった……坂も広い。私が覚えたのは、もそっと道が狭うて、急な上坂 の中途の処、煉瓦塀 が火のように赤う見えた。片側は一面な野の草で、蒸 れの可恐 い処でありましたよ。」
「それは裏門でございますよ。道理こそ、この森を抜けられまいか、とお尋ねなさった、お目当は違いませぬ。森の中から背面 の大畠 が抜けられますと道は近うございますけれども、空地でもそれが出来ませんので、これから、ずっと煙硝庫 の黒塀について、上 ったり、下 ったり、大廻りをなさらなければなりませぬ。何でございますか、女学校に御用事はございませんか。それだと表門でも用は足りましょうでござりますよ。」と婆さんは一度掛けた腰掛をまた立って、森を覗 いたり、通 を視 たり。
「いやいや、そこを目当に、別に尋ねます処があります。」
「ちゃんとわかっているんですかい、おいでなさる先方 ってのは。こう寂しくって疎在 でね、家 の分りにくい処ですぜ。」と、煙草 盆は有るものを、口許で燐寸 を※ [#「火+發」、301-2]、と目を細うして仰向 いて、半分消しておいた煙草をつける。
「余り確かでもないのでの。また家は分るにしてもじゃ。」
と扇子を倒すのと、片膝力なく叩くのと、打傾くのがほとんど一緒で、
「仔細 なく当方の願が届くかどうかの、さて、」
と沈む……近頃見附けた縁類へ、無心合力にでも行 きそうに聞えて、
「何せい、煙硝庫と聞いたばかりでも、清水が湧 くようではない。ちと更 まっては出たれども、また一つ山を越すのじゃ、御免を被 る。一度羽織を脱いで参ろう。ああ、いやお婆さん、それには及ばぬ。」
紋着 の羽織を脱いだのを、本畳みに、スーッスーッと襟を伸 して、ひらりと焦茶の紐 を捌 いて、縺 れたように手を控え、
「扮装 ばかり凜々 しいが、足許はやっぱり暗夜 じゃの。」と裾 も暗いように、また陰気。
半纏着は腕組して、
「まったく、足許が悪いんですかい、負 って行 く事もならねえしと……隠居さん、提灯 でも上げてえようだ。」
「夜だとほんとうにお貸し申すんだがねえ。」
「どうですえ、その森ン中の暗い枝に、烏瓜ッてやつが点 っていまさあ。真紅 なのは提灯みたいだ。ねえ、持っておいでなさらねえか、何かの禁厭 になろうも知れませんや。」
「はあ、烏瓜の提灯か。」
目を瞑 って、
「それも一段の趣じゃが、まだ持って出たという験 を聞かぬ。」と羽織を脱いでなお痩 せた二の腕を扇子で擦 る。
四
「凍傷 の薬を売ってお歩行 きなさりはしまいし、人。」
と婆さんは、老いたる客の真面目なのを気の毒らしく、半纏着の背中を立身 で圧 えて、
「可 い加減な、前例 にも禁厭 にも、烏瓜の提灯 だなんぞと云って、狐が点 すようじゃないかね。」
「狐が点す……何。」
と顔を蔽 うた皺 を払って、雲の晴れた目を□ る、と水を切った光が添った。
「何、狐が点すか。面白い。」
扇子を颯 と胸に開くと、懐中 を広く身を正して、
「どれ、どこに……おお、あの葉がくれに点 れて紅 いわ。お職人、いい事を云って下さった。どれ一つぶら下げて参るとします。」
「ああ、隠居さん、気に入ったら私 が引 ちぎって持って来らあ。……串戯 にゃ言ったからって、お年寄 のために働くんだ。先祖代々、これにばかりは叱言 を言うめえ、どっこい。」と立つ。
老人 は肩を揉 んで、頭 を下げ、
「これは何ともお手を頂く。」
「何の、隠居さん、なあ、おっかあ、今日は父親 の命日よ。」
と、葭簀 を出る、と入違いに境界の柵の弛 んだ鋼線 を跨 ぐ時、莨 を勢 よく、ポンと投げて、裏つきの破 足袋、ずしッと草を踏んだ。
紅いその実は高かった。
音が、かさかさと此方 に響いて、樹を抱いた半纏は、梨子 を食った獣 のごとく、向顱巻 で葉を分ける。
「気を付きょうぞ。少 い人、落ちまい……」と伸上る。
「大丈夫でございますよ。電信柱の突尖 へ腰を掛ける人でございますからね。」
「むむ、侠勇 じゃな……杖とも柱とも思うぞ、老人、その狐の提灯で道を照 す……」
「可厭 ではございませんかね、この真昼間 。」
「そこが縁起じゃ、禁厭 とも言うのじゃよ、金烏玉兎 と聞くは――この赫々 とした日輪の中には三脚の鴉 が棲 むと言うげな、日中 の道を照す、老人が、暗い心の補助 に、烏瓜の灯 は天の与えと心得る。難有 い。」と掌 を額に翳 す。
婆さんは希有 な顔して、
「でも、狐火 か何ぞのようで、薄気味が悪いようでございますね。」
「成程、……狐火、……それは耳より。ふん……かほどの森じゃ、狐も居 ろうかの。」
「ええ、で、ございますのでね、……居りますよ。」
「見たか。」
「前 には、それは見たこともございますとも。」
老人これを聞くと腰を入れて、
「ああ、たのもしい。」
「ええ……」
と退 った、今のその……たのもしい老人の声の力に圧 されたのである。
「さて、鳴くか。」
「へい?……」
「やはりその、」
と張肱 になった呼吸 を胸に、下腹 を、ずん、と据えると、
「カーン! というて?」
どさりと樹から下りた音。瓜がぶらり、赤く宙に動いて、カラカラと森に響く。
婆さんの顔を見よ。
半纏着が飛んで帰って、同じくきょとつく目を合せた。
「驚いた……烏が一斉 に飛びやあがった。何だい、今の、あの声は。……烏瓜を□ っただけで下りりゃ可 いのに、何だかこう、樹の枝に、茸 があったもんだから。」
五
「これ、これ、いやさ、これ。」
「はあ、お呼びなされたは私 の事で。」
と、羽織の紐を、両手で結びながら答えたのは先刻 の老人。一方青煉瓦 の、それは女学校。片側波を打った[#「打った」は底本では「打つた」]亜鉛塀 に、ボヘミヤ人の数珠のごとく、烏瓜を引掛 けた、件 の繻子張 を凭 せながら、畳んで懐中 に入れていた、その羽織を引出して、今着直した処なのである。
また妙な処で御装束。
雷神山の急昇りな坂を上 って、一畝 り、町裏の路地の隅、およそ礫川 の工廠 ぐらいは空地 を取って、周囲 はまだも広かろう。町も世界も離れたような、一廓 の蒼空 に、老人がいわゆる緑青色の鳶 の舞う聖心女学院、西暦を算して紀元幾千年めかに相当する時、その一部分が武蔵野の丘に開いた新開の町の一部分に接触するのは、ただここばかりかも知れぬ。外廓 のその煉瓦と、角邸 の亜鉛塀とが向合って、道の幅がぎしりと狭い。
さて、その青鳶 も樹に留 った体 に、四階造 の窓硝子 の上から順々、日射 に晃々 と数えられて、仰ぐと避雷針が真上に見える。
この突当りの片隅が、学校の通用門で、それから、ものの半町程、両側の家邸。いずれも雑樹林や、畑 を抱く。この荒地 の、まばら垣と向合ったのが、火薬庫の長々とした塀になる。――人通りも何にも無い。地図の上へ鉛筆で楽書 したも同然な道である。
そこを――三光坂上の葭簀張 を出た――この老人はうら枯 を摘んだ籠 をただ一人で手に提げつつ、曠野 の路を辿 るがごとく、烏瓜のぽっちりと赤いのを、蝙蝠傘 に搦 めて支 いて、青い鳶を目的 に、扇で日を避け、日和下駄を踏んで、大廻りに、まずその寂しい町へ入って来たのであった。
いや、火薬庫の暗い森を背中から離すと、邸構えの寂しい町も、桜の落葉に日が燃えて、梅の枝にほんのりと薄綿の霧が薫る……百日紅 の枯れながら、二つ三つ咲残ったのも、何となく思出 の暑さを見せて、世はまださして秋の末でもなさそうに心強い。
そこをあちこち、覗 いたり、視 たり、立留 ったり、考えたり、庭前 、垣根、格子の中。
「はてな。」
屋の棟を仰いだり、後退 りをまたしてみたり。
「確 に……」
歩行 出して、
「いや、待てよ……」
と首を窘 めて、こそこそと立退 いたのは、日当りの可 い出窓の前で。
「違うかの。」と独言 。変に、跫音 を忍ぶ形で、そのまま通過ぎると、女学校のその通用門を正面 に見た。
「このあたり……ああ緑青色の鳶じゃ、待て、待て、念のためよ。」
あの、輝くのは目ではないか、もし、それだと、一伸 しに攫 って持って行 かれよう。金魚の木伊乃 に似たるもの、狐の提灯、烏瓜を、更 めて、蝙蝠傘の柄ぐるみ、ちょうと腕長に前へ突出し、
「迷うまいぞ、迷うな。」
と云い云い……(これ、これ、いやさ、これ。……)ここに言咎 められている処は、いましがた一度通ったのである。
そこを通って、両方の塀の間を、鈍い稲妻形に畝 って、狭い四角 から坂の上へ、にょい、と皺面 を出した……
坂下の下界の住人は驚いたろう。山の爺 が雲から覗 く。眼界濶然 として目黒に豁 け、大崎に伸び、伊皿子 かけて一渡り麻布 を望む。烏は鴎 が浮いたよう、遠近 の森は晴れた島、目近 き雷神の一本の大栂 の、旗のごとく、剣 のごとく聳 えたのは、巨船天を摩す柱に似て、屋根の浪の風なきに、泡の沫 か、白い小菊が、ちらちらと日に輝く。白金 の草は深けれども、君が住居 と思えばよしや、玉の台 は富士である。
六
「相違 ない、これじゃ。」
あの怪しげな烏瓜を、坂の上の藪 から提灯、逆上 せるほどな日向 に突出す、痩 せた頬の片靨 は気味が悪い。
そこで、坂を下りるのかと思うと、違った。……老人は、すぐに身体 ごと、ぐるりと下駄を返して、元の塀についてまた戻る……さては先日、極暑の折を上ったというこの坂で、心当りを確 めたものであろう。とすると、狙 をつけつつ、こそこそと退 いてござったあの町中 の出窓などが、老人の目的 ではないか。
裏 に、眉のあとの美しい、色白なのが居ようも知れぬ。
それ、うそうそとまた参った……一度屈腰 になって、静 と火薬庫の方へ通抜けて、隣邸の冠木門 を覗 く梅ヶ枝の影に縋 って留 ると、件 の出窓に、鼻の下を伸 して立ったが、眉をくしゃくしゃと目を瞑 って、首を振って、とぼとぼと引返して、さあらぬ垣越。百日紅 の燃残 りを、真向 に仰いで、日影を吸うと、出損なった嚔 をウッと吸って、扇子の隙なく袖を圧 える。
そのまま、立直って、徐々 と、も一度戻って、五段ばかり石を築 いた小高い格子戸の前を行過ぎた。が溝 はなしに柵を一小間 、ここに南天の実が赤く、根にさふらんの花が芬 と薫るのと並んで、その出窓があって、窓硝子 の上へ真白 に塗った鉄 の格子、まだ色づかない、蔦 の葉が桟に縋って廂 に這 う。
思わず、そこへ、日向にのぼせた赤い顔の皺面 で、鼻筋の通ったのを、まともに、伸 かかって、ハタと着 ける、と、颯 と映るは真紅の肱附 。牡丹 たちまち驚いて飜 れば、花弁 から、はっと分れて、向うへ飛んだは蝴蝶 のような白い顔、襟の浅葱 の洩 れたのも、空が映って美しい。
老人転倒せまい事か。――やあ、緑青色の夥間 に恥 じよ、染殿 の御后 を垣間 見た、天狗 が通力を失って、羽の折れた鵄 となって都大路にふたふたと羽搏 ったごとく……慌 しい遁 げ方して、通用門から、どたりと廻る。とやっとそこで、吻 と息。
ちょうどその時、通用門にひったりと附着 いて、後背 むきに立った男が二人居た。一人は、小倉 の袴 、絣 の衣服 、羽織を着ず。一人は霜降 の背広を着たのが、ふり向いて同じように、じろりと此方 を見たばかり。道端 の事、とあえて意 にも留めない様子で、同じように爪 さきを刻んでいると、空の鵄が暗号 でもしたらしい、一枚びらき馬蹄形 の重い扉 が、長閑 な小春に、ズンと響くと、がらがらぎいと鎖で開 いて、二人を、裡 へ吸って、ずーんと閉った。
保険か何ぞの勧誘員が、紹介人と一所に来たらしい風采 なのを、さも恋路ででもあるように、老人感に堪えた顔色 で、
「ああああ、うまうまと入ったわ――女の学校じゃと云うに。いや、この構えは、さながら二の丸の御守殿とあるものを、さりとては羨 しい。じゃが、女に逢うには服礼 が利益 かい。袴に、洋服よ。」
と気が付いた……ものらしい……で、懐中 へ顎 で見当をつけながら、まずその古めかしい洋傘 を向うの亜鉛塀 へ押 つけようとして、べたりと塗 くった楽書 を読む。
「何じゃ――(八百半 の料理はまずいまずい、)はあ、可厭 な事を云う、……まるで私 に面当 じゃ。」
ふと眉を顰 めた、口許が、きりりと緊 って、次なるを、も一つ読む。
「――(小森屋の酒は上等。)ふんふん、ああたのもしい。何じゃ、(但し半分は水。)……と、はてな……?
勘助のがんもどきは割にうまいぞ――むむむむ割にうまいか、これは大沼勘六が事じゃ。」と云った。
ここに老人が呟 いた、大沼勘六、その名を聞け、彼は名取 の狂言師、鷺流 当代の家元である。
七
「料理が、まずくて、雁 もどきがうまい、……と云うか。人も違うて、芸にこそよれ、じゃが、成程まずいか、ははっ。」
溜息を深うして、
「ややまた、べらぼうとある……はあ、いかさま、この(――)長いのが、べら棒と云うものか。」
あたかも、差置いた洋傘 の柄につながった、消炭 で描 いた棒を視 めて、虚気 に、きょとんとする処へ、坂の上なる小藪 の前へ、きりきりと舞って出て、老人の姿を見ると、ドンと下りざまに大 な破靴 ぐるみ自転車をずるずると曳 いて寄ったは、横びしゃげて色の青い、猿眼 の中小僧。
「やい!」と唐突 に怒鳴付 けた。
と、ひょろりとする老人の鼻の先へ、泥を掴 んだような握拳 を、ぬっと出して、
「こン爺 い、汝 だな、楽書をしやがるのは、八百半の料理がまずいとは何だ、やい。」
「これは早や思いも寄りませぬ。が、何かの、この八百半と云うのは、お身の身内かの。」
「そうよ、まずい八百半の番頭だい、こン爺い。」
と評判の悪垂 が、いいざまに、ひょいと歯を剥 いて唾 を吐くと、べッとりと袖へ。これが熨斗目 ともありそうな、柔和な人品穏かに、
「私 は楽書はせぬけれどの、まずいと云うのを決して怒るな、これ、まずければ、私と親類じゃでのう。」
「何だ、まずいのが親類だ――ええ、畜生!」と云った。が、老人の事ではない。前生 の仇 が犬になって、あとをつけて追って来た、面 の長い白斑 で、やにわに胴を地に摺 って、尻尾を巻いて吠 えかかる。
「畜生、叱 ……畜生。」と拳 を揮廻 すのが棄鞭 で、把手 にしがみついて、さすがの悪垂真俯向 けになって邸町へ敗走に及ぶのを、斑犬 は波を打って颯 と追った。
老人は、手拭で引摺って袖を拭きつつ、見送って、
「……緑樹影沈んでは魚 樹に上る景色あり、月海上に浮 んでは兎も波を走るか、……いやいや、面白い事はない。」
で、羽織を出して着たのであった。
頸窪 に胡摩塩斑 で、赤禿 げに額の抜けた、面 に、てらてらと沢 があって、でっぷりと肥った、が、小鼻の皺 のだらりと深い。引捻 れた唇の、五十余りの大柄な漢 が、酒焼 の胸を露出 に、べろりと兵児帯 。琉球擬 いの羽織を被 たが、引 かけざまに出て来たか、羽織のその襟が折れず、肩をだらしなく両方を懐手 で、ぎくり、と曲角から睨 んで出た、(これこれ、いやさ、これ。)が、これなのである。
「何ぞ、老人に用の儀でも。」
と慇懃 に会釈する。
赭顔 は、でっぷりとした頬を張って、
「いやさ、用とはこっちから云う事じゃろうが、うう御老人。」と重く云う。
「貴方 は?」
「いやさ、名を聞くなら其許 からと云う処だが、何も面倒だ。俺は小室 と云う、むむ小室と云う、この辺 の家主なり、差配なりだ。それがどうしたと言いたい。
ねえ、老人。
いやさ、貴公、貴公先刻 から、この町内を北から南へ行ったり来たり、のそのそ歩行 いたり、窺 ったり、何ぞ、用かと云うのだ。な、それだに因ってだ。」
もの云う頬がだぶだぶとする。
「されば……」
「いやさ、さればじゃなかろう。裏へ入れば、こまごまとした貸家もある、それはある。が、表のこの町内は、俺 が許 と、あと二三軒、しかも大々とした邸だ。一遍通り門札 を見ても分る。いやさ、猫でも、犬でも分る。
一体、何家 を捜す? いやさ捜さずともだが、仮にだ。いやさ、七 くどう云う事はない、何で俺が門を窺 うた。唐突 に窓を覗 いたんだい。」
すっと出て、
「さては……」
「何が(さては。)だい。」
と噛 んでいた小楊枝 を、そッぽう向いて、フッと地へ吐く。
八
老人は膝に扇子 、恭 しく腰を屈 め、
「これは御大人 、お初に御意を得ます、……何とも何とも、御無礼の段は改めて御詫 をします。
さて、つかん事を伺いまするが、さて、貴方 に、お一方、お娘御がおいでなさりはせまいか。」
と、思込んだ状 して言った。
「娘……ああ、女のかね。」
唐突 に他 の家 の秘蔵を聞くは、此奴 怪 しからずの口吻 、半ば嘲 けって、はぐらかす。
いよいよ真顔で、
「されば、おあねえ様であらっしゃります。」
「姉だか、妹だか、一人居ます。一人娘だよ。いやさ、大事な娘だよ。」
「ははっ、御道理 千万な儀で。」
「それが、どうしたと云うんですえ。」と、余り老人の慇懃さに、膨れた頬を手で圧 えた。
「私 、取って六十七歳、ええ、この年故に、この年なれば御免を蒙 る。が、それにしても汗が出ます。」
と額を拭 って、咳 をした……
「何とぞいたして御大人、貴方の思召 をもちまして、お娘御、おあねえ様に、でござる、ちょっと、御意を得ますわけには相成りませぬか。」
「ふん、娘にかい。」
「何とも。」
「変だねえ、娘に用があるなら俺に言え、と云うのだが、それは別だ。いやあえて怪しい御仁とも見受けはせんが、まあね、この陽気だから落着くが可 うござす。一体、何の用なんだい。」
「いや、それに就いて罷出 ました……無面目に、お家を窺 い、御叱 を蒙ったで、恐縮いたすにつけても、前後申後 れましてござるが、老人は下谷御徒士町 に借宅します、萩原与五郎と申して未熟な狂言師でござる。」と名告 る。
「ははあ、茶番かね。」と言った。
しかり、茶番である。が、ここに名告るは惜 かりし。与五郎老人は、野雪 と号して、鷺流名誉の耆宿 なのである。
「おお、父上 、こんな処に。」
「お町か、何だ。」
と赭 ら顔の家主が云った。
小春の雲の、あの青鳶 も、この人のために方角 を替えよ。姿も風采 も鶴に似て、清楚 と、端正を兼備えた。襟の浅葱 と、薄紅梅。瞼 もほんのりと日南 の面影。
手にした帽子の中山高 を、家主の袖に差寄せながら、
「帽子をお被 んなさいましッて、お母さんが。……裏へ見廻りにいらしったかと思ったんです。」
と、見迎えて一足退 いて、亜鉛塀 に背の附くまで、ほとんど固くなった与五郎は、たちまち得も言われない嬉しげな、まぶしらしい、そして懐しそうな顔をして、
「や、や、や、貴女 、貴女じゃった、貴女。」と袖を開き、胸を曳 いて、縋 りもつかんず、しかも押戴 かんず風情である。
疑 と、驚きに、浅葱が細 く、揺るるがごとく、父の家主の袖を覗いて、□ った瞳は玲瓏 として清 しい。
家主は、かたいやつを、誇らしげにスポンと被 って、腕組をずばりとしながら、
「何かい、……この老人 を、お町、お前知っとるかい。」
「はい。」
と云うのが含み声、優しく爽 に聞えたが、ちと覚束 なさそうな響 が籠 った。
「ああ、しばらく、一旦の御見、路傍 の老耄 です。令嬢 、お見忘れは道理 じゃ。もし、これ、この夏、八月の下旬、彼これ八ツ下り四時頃と覚えます。この邸町、御宅の処で、迷いに迷いました、路を尋ねて、お優しく御懇 に、貴女にお導きを頂いた老耄でござるわよ。」
と、家主の前も忘れたか、気味の悪いほど莞爾々々 する。
「の、令嬢 。」
「ああ、存じております。」
鶴は裾 まで、素足の白さ、水のような青い端緒 。
九
「貴女はその時、お隣家 か、その先か、門に梅の樹の有る館 の前に、彼家 の乳母 と見えました、円髷 に結うた婦 の、嬰坊 を抱いたと一所に、垣根に立ってござって……」
と老人は手真似して、
「ちょうちちょうちあわわ、と云うてな、その児 をあやして、お色の白い、手を敲 いておいでなさる。処へ、空車 を曳 かせて老人、車夫めに、何と、ぶつぶつ小言を云われながら迷うて参った。
尋ねる家 が、余り知れないで、既に車夫にも見離されました。足を曳いて、雷神坂と承る、あれなる坂をば喘 ぎましてな。
一旦、この辺 も捜したなれども、かつて知れず、早や目もくらみ、心も弱果 てました。処へ、煙硝庫 の上と思うに、夕立模様の雲は出ます。東西も弁 えぬこの荒野 とも存ずる空に、また、あの怪鳥 の鳶の無気味さ。早や、既に立窘 みにもなりましょうず処――令嬢 お姿を見掛けましたわ。
さて、地獄で天女とも思いながら、年は取っても見ず知らぬ御婦人には左右 のうはものを申し難 い。なれども、いたいけに児 をあやしてござる。お優しさにつけ、ずかずかと立寄りまして、慮外ながら伺いましたじゃ。
が、御存じない。いやこれは然 もそう、深窓に姫御前 とあろうお人の、他所 の番地をずがずがお弁別 のないはその筈 よ。
硫黄 が島の僧都 一人、縋 る纜 切れまして、胸も苦しゅうなりましたに、貴女 、その時、フトお思いつきなされまして、いやとよ、一段の事とて、のう。
御妙齢 なが見得もなし。世帯崩しに、はらはらとお急ぎなされ、それ、御家の格子をすっと入って、その時じゃ――その時覚えました、あれなる出窓じゃ――
何と、その出窓の下に……令嬢 、お机などござって、傍 の本箱、お手文庫の中などより、お持出でと存じられます。寺、社 に丹 を塗り、番地に数の字を記 いた、これが白金 の地図でと、おおせで、老人の前でお手に取って展 いて下され、尋ねます家 を、あれか、これかと、いやこの目の疎 いを思遣 って、御自分に御精魂な、須弥磐石 のたとえに申す、芥子粒 ほどな黒い字を、爪紅 の先にお拾い下され、その清らかな目にお読みなさって……その……解りました時の嬉しさ。
御心の優しさ、御教えの尊さ、お智慧 の見事さ、お姿の□ たい事。
二度目には雷神坂を、しゃ、雲に乗って飛ぶように、車の上から、見晴しの景色を視 めながら、口の裡 に小唄謡うて、高砂 で下りました、ははっ。」
と、踞 むと、扇子を前半 に帯にさして、両手を膝へ、土下座もしたそうに腰を折って、
「さて、その時の御深切、老人心魂に徹しまして、寝食ともに忘れませぬ。千万忝 う存じまするぞ。」
「まあ。」
と娘は、またたきもしなかった目を、まつげ深く衝 と見伏せる。
この狂人 は、突飛ばされず、打てもせず、あしらいかねた顔色 で、家主は不承々々に中山高の庇 を、堅いから、こつんこつんこつんと弾 く。
「解りました、何、そのくらいな事を。いやさ、しかし、早い話が、お前さん、ああ、何とか云った、与五郎さんかね。その狂言師のお前さんが、内の娘に三光町の地図で道を教えてもらったとこう云うのだ。」
「で、その道を教えて下さったに……就きまして、」
「まあさ、……いやさ、分ったよ。早い話が、その礼を言いに来たんだ、礼を。……何さ、それにも及ぶまいに、下谷御徒士町、遠方だ、御苦労です。早い話が、わざわざおいでなすったんで、茶でも進ぜたい、進ぜたい、が、早い話が、家内に取込みがある、妻 が煩うとる。」
「いや、まことに、それは……」
「まあさ、余りお饒舌 なさらんが可 い。ね、だによって、お構いも申されぬ。で、お引取なさい、これで失礼しよう。」
「あ、もし。さて、また。」
「何だ、また(さて。)さて、(また。)かい。」
十
与五郎は、早や懐手をぶりりと揺 って行こうとする、家主に、縋 るがごとく手を指して、
「さて……や、これはまたお耳障り。いや就きまして……令嬢 に折入ってお願いの儀が有りまして、幾重にも御遠慮は申しながら、辛抱に堪えかねて罷出 ました。
次第 と申すは、余の事、別儀でもござりませぬ。
老人、あの当時、……されば後月 、九月の上旬。上野辺のある舞台において、初番に間狂言 、那須 の語 。本役には釣狐 のシテ、白蔵主 を致しまする筈 。……で、これは、当流においても許しもの、易からぬ重い芸でありましての、われら同志においても、一代の間に指を折るほども相勤めませぬ。
近頃、お能の方は旭影 、輝く勢 。情 なや残念なこの狂言は、役人 も白日の星でござって、やがて日も入り暗夜 の始末。しかるに思召しの深い方がござって、一 舞台、われらのためにお世話なさって、別しては老人にその釣狐仕 れの御意じゃ。仕るは狐の化 、なれども日頃の鬱懐 を開いて、思うままに舞台に立ちます、熊が穴を出ました意気込、雲雀 ではなけれども虹 を取って引く勢 での……」
と口とは反対 、悄 れた顔して、娘の方に目を遣 って、
「貴女 に道を尋ねました、あの日も、実は、そのお肝入り下さるお邸へ、打合せ申したい事があって罷出る処でござったよ。
時に、後月 のその舞台は、ちょっと清書にいたし、方々 の御内見に入れますので、世間晴れての勤めは、更 めて来 霜月の初旬 、さるその日本の舞台に立つ筈 でござる。が、剣 も玉も下磨きこそ大事、やがては一拭いかけまするだけの事。先月の勤めに一方ならず苦労いたし、外を歩行 くも、から脛 を踏んでとぼつきます……と申すが、早や三十年近う過ぎました、老人が四十代、ただ一度、芝の舞台で、この釣狐の一役を、その時は家元、先代の名人がアドの猟人 をば附合うてくれられた。それより中絶をしていますに因って、手馴 れねば覚束 ない、……この与五郎が、さて覚束のうては、余はいずれも若い人 、まだ小児 でござる。
折からにつけ忘れませぬは、亡き師匠、かつは昔勤めました舞台の可懐 さに、あの日、その邸の用も首尾すまいて、芝の公園に参って、もみじ山のあたりを俳徊 いたし、何とも涙に暮れました。帰りがけに、大門前の蕎麦屋 で一酌傾け、思いの外の酔心 に、フト思出しましたは、老人一人 の姪 がござる。
これが海軍の軍人に縁付いて、近頃相州の逗子 に居 ります。至って心の優しい婦人で、鮮 しい刺身を進じょう、海の月を見に来い、と音信 のたびに云うてくれます。この時と、一段思付いて、遠くもござらぬ、新橋駅から乗りました。が、夏の夜 は短うて、最早や十時。この汽車は大船が乗換えでありましての、もっとも両三度は存じております。鎌倉、横須賀は、勤めにも参った事です――
時に、乗込みましたのが、二等と云う縹色 の濁った天鵝絨 仕立、ずっと奥深い長い部屋で、何とやら陰気での、人も沢山 は見えませいで、この方、乗りました砌 には、早や新聞を顔に乗せて、長々と寝た人も見えました。
入口の片隅に、フト燈 の暗い影に、背屈 まった和尚がござる! 鼠色の長頭巾 、ト二尺ばかり頭 を長う、肩にすんなりと垂 を捌 いて、墨染の法衣 の袖を胸で捲 いて、寂寞 として踞 った姿を見ました……
何心もありませぬ。老人、その前を通って、ずっとの片端、和尚どのと同じ側の向うの隅で、腰を落しつけて、何か、のかぬ中の老和尚、死なば後前 、冥土 の路の松並木では、遠い処に、影も、顔も見合おうず、と振向いて見まするとの……」
娘は浅葱 の清らかな襟を合す。
父爺 の家主は、棄てた楊枝 を惜しそうに、チョッと歯ぜせりをしながら、あとを探して、時々唾 吐く。
十一
「早や遠い彼方 に、右の和尚どの、形朦朧 として、灰をば束 ねたように見えました処、汽車が、ぐらぐらと揺れ出すにつけて、吹散った体 になって消えました、と申すが、怪しいでは決してござらぬ。居所が離れ陰気な部屋の深いせいで、また寂 い汽車でござったのでの。
さて、品川も大森も、海も畠 も佳 い月夜じゃ。ざんざと鳴るわの。蘆 の葉のよい女郎 、口吟 む心持、一段のうちに、風はそよそよと吹く……老人、昼間息せいて、もっての外草臥 れた処へ酔がとろりと出ました。寝るともなしに、うとうととしたと思えば、さて早や、ぐっすりと寝込んだて。
大船、おおふなと申す……驚破 や乗越す、京へ上るわ、と慌 しゅう帯を直し、棚の包を引抱 いて、洋傘 取るが据眼 、きょろついて戸を出ました。月は晃々 と露もある、停車場のたたきを歩行 くのが、人におくれて我一人……
ひとつ映りまする我が影を、や、これ狐にもなれ、と思う心に連立って、あの、屋根のある階子 を上る、中空 に架 けた高い空橋 を渡り掛ける、とな、令嬢 、さて、ここじゃ。
橋がかりを、四五間 がほど前へ立って、コトコトと行 くのが、以前の和尚。痩 せに痩せた干瓢 、ひょろりとある、脊丈のまた高いのが、かの墨染の法衣 の裳 を長く、しょびしょびとうしろに曳 いて、前かがみの、すぼけた肩、長頭巾 を重げに、まるで影法師のように、ふわりふわりと見えます。」
と云うとふとそこへ、語るものが口から吐いた、鉄拐 のごとき魍魎 が土塀に映った、……それは老人の影であった。
「や、これはそも、老人 の魂 の抜出した形かと思うたです、――誰も居ませぬ、中有 の橋でな。
しかる処、前途 の段をば、ぼくぼくと靴穿 で上 って来た駅夫どのが一人あります。それが、この方へ向って、その和尚と摺違 うた時じゃが、の。」
与五郎は呼吸 を吐 いて、
「和尚が長い頭巾の頭 を、木菟 むくりと擡 ると、片足を膝頭 へ巻いて上げ、一本の脛 をつッかえ棒に、黒い尻をはっと振ると、組違えに、トンと廻って、両の拳 を、はったりと杖に支 いて、
(横須賀行はこちらかや。)
追掛 けに、また一遍、片足を膝頭へ巻いて上げ、一本の脛を突支棒 に、黒い尻をはっと揺 ると、組違えにトンと廻って、
(横須賀行はこちらかや。)
と、早や此方 ざまに参った駅夫どのに、くるりと肩ぐるみに振向いた。二度見ました。痩 和尚の黄色がかった青い長面 。で、てらてらと仇光 る……姿こそ枯れたれ、石も点頭 くばかり、行 澄 いた和尚と見えて、童顔、鶴齢 と世に申す、七十にも余ったに、七八歳と思う、軽いキャキャとした小児 の声。
で、またとぼとぼと杖に縋 って、向う下 りに、この姿が、階子段に隠れましたを、熟 と視 ると、老人思わず知らず、べたりと坐った。
あれよあれよ、古狐が、坊主に化けた白蔵主 。したり、あの凄 さ。寂 さ。我は化けんと思えども、人はいかに見るやらん。尻尾を案じた後姿、振返り、見返る処の、科 、趣 。八幡 、これに極 った、と鬼神が教 を給 うた存念。且つはまた、老人が、工夫、辛労 、日頃の思 が、影となって顕 れた、これでこそと、なあ。」
与五郎、がっくりと胸を縮めて、
「ああ、業 は誇るまいものでござる。
舞台の当日、流儀の晴業 、一世の面目 、近頃衰えた当流にただ一人、(古沼の星)と呼ばれて、白昼にも頭が光る、と人も言い、我も許した、この野雪与五郎。装束澄 いて床几 を離れ、揚幕を切って!……出る! 月の荒野 に渺々 として化法師の狐ひとつ、風を吹かして通ると思 せ。いかなこと土間も桟敷 も正面も、ワイワイがやがやと云う……縁日同然。」
十二
「立って歩行 く、雑談 は始まる、茶をくれい、と呼ぶもあれば、鰻飯 を誂 えたにこの弁当は違う、と喚 く。下足の札をカチカチ敲 く。中には、前番 のお能のロンギを、野声を放って習うもござる。
が、おのれ見よ。与五郎、鬼神相伝の秘術を見しょう。と思うのが汽車の和尚じゃ。この心を見物衆の重石 に置いて、呼吸 を練り、気を鍛え、やがて、件 の白蔵主。
那須野ヶ原の古樹の杭 に腰を掛け、三国伝来の妖狐 を放って、殺生石の毒を浴 せ、当番のワキ猟師、大沼善八を折伏 して、さて、ここでこそと、横須賀行の和尚の姿を、それ、髣髴 して、舞台に顕 す……しゃ、習 よ、芸よ、術よとて、胡麻 の油で揚げすまいた鼠の罠 に狂いかかると、わっと云うのが可笑 しさを囃 すので、小児 は一同、声を上げて哄 と笑う。華族の後室が抱いてござった狆 が吠 えないばかりですわ。
何と、それ狂言は、おかしいものには作したれども、この釣狐に限っては、人に笑わるべきものでない。
凄 う、寂しゅう、可恐 しげはさてないまでも、不気味でなければなりませぬ。何と!」
とせき込んで言ったと思うと、野雪老人は、がっくりと下駄を、腰に支 いて、路傍 へ膝を立てた。
「さればこそ、先 、師匠をはじめ、前々に、故人がこの狂言をいたした時は、土間は野となり、一二の松は遠方 の森となり、橋がかりは細流 となり、見ぶつの男女は、草となり、木 の葉となり、石となって、舞台ただ充満 の古狐、もっとも奇特 は、鼠の油のそれよりも、狐のにおいが芬 といたいた……ものでござって、上手が占めた鼓に劣らず、声が、タンタンと響きました。
何事ぞ、この未熟、蒙昧 、愚癡 、無知のから白癡 、二十五座の狐を見ても、小児たちは笑いませぬに。なあ、――
最早、生効 も無いと存じながら、死んだ女房の遺言でも止 められぬ河豚 を食べても死ねませぬは、更に一度、来月はじめの舞台が有って、おのれ、この度こそ、と思う、未練ばかりの故でござる。
寝食も忘れまして……気落ちいたし、心萎 え、身体 は疲れ衰えながら、執着 の一念ばかりは呪詛 の弓に毒の矢を番 えましても、目が晦 んで、的が見えず、芸道の暗 となって、老人、今は弱果 てました。
時に蒼空 の澄渡 った、」
と心激しくみひらけば、大なる瞳、屹 と仰ぎ、
「秋の雲、靉靆 と、あの鵄 たちまち孔雀 となって、その翼に召したりとも思うお姿、さながら夢枕にお立ちあるように思出しましたは、貴女 、令嬢様 、貴女の事じゃ。」
お町は謹 で袖を合せた。玉あたたかき顔 の優 い眉の曇ったのは、その黒髪の影である。
「老人、唯今の心地を申さば、炎天に頭 を曝 し、可恐 い雲を一方の空に視 て、果てしもない、この野原を、足を焦 し、手を焼いて、徘徊 い歩行 くと同然でござる。時に道を教えて下された、ああ、尊さ、嬉 さ、おん可懐 さを存ずるにつけて……夜汽車の和尚の、室 をぐるりと廻った姿も、同じ日の事なれば、令嬢 の、袖口から、いや、その……あの、絵図面の中から、抜出 しましたもののように思われてなりませぬ。
さように思えば、ここに、絵図面をお展 き下されて、貴女と二人立って見ましたは、およそ天 ヶ下の芸道の、秘密の巻もの、奥許しの折紙を、お授け下されたおもい致す!
姫、神とも存ずる、令嬢 。
分別の尽き、工夫に詰 って、情 なくも教 を頂く師には先立たれましたる老耄 。他 に縋 ろうようがない。ただ、偏 に、令嬢様 と思詰 めて、とぼとぼと夢見たように参りました。
が、但し、土地の、あの図に、何と秘密が有ろうとは存じませぬ。貴女の、お胸、お心に、お袖の裏 に、何となく教 が籠 る、と心得まする。
何とぞ、貴女の、御身 からいたいて、人に囃 され、小児 たちに笑われませぬ、白蔵王 の法衣 のこなし、古狐の尾の真実の化方を御 教えに預りたい……」
「これ、これ、いやさ、これ。」
「しばらく! さりとても、令嬢様 、御年紀 、またお髪 の様子。」
娘は髪に手を当てた、が、容 づくるとは見えず、袖口の微 な紅 、腕 も端麗なものであった。
「舞、手踊、振、所作のおたしなみは格別、当世西洋の学問をこそ遊ばせ、能楽の間 の狂言のお心得あろうとはかつて存ぜぬ。
あるいは、何かの因縁で、斯道 なにがしの名人のこぼれ種、不思議に咲いた花ならば、われらのためには優曇華 なれども、ちとそれは考え過ぎます。
それとも当時、新しいお学問の力をもってお導き下さりょうか。
さりとて痩 せたれども与五郎、科 や、振 は習いませぬぞよ。師は心にある。目にある、胸にある……
近々とお姿を見、影を去って、跪 いて工夫がしたい! 折入ってお願いは、相叶 うことならば、お台所の隅、お玄関の端になりとも、一七日 、二七日 、お差置きを願いたい。」
「本気か、これ、おい。」と家主が怒鳴った。
胸を打って、
「血判でござる。成らずば、御門、溝石の上になりとも、老人、腰掛に弁当を持参いたす。平に、この儀お聞済 が願いたい。
口惜 や、われら、上根 ならば、この、これなる烏瓜一顆 、ここに一目、令嬢 を見ただけにて、秘事の悟 も開けましょうに、無念やな、老 の眼 の涙に曇るばかりにて、心の霧が晴れませぬ。
や、令嬢 、お聞済。この通りでござる。」
とて、開いた扇子に手を支 いた。埃 は颯 と、名家の紋の橘 の左右に散った。
思わず、ハッと吐息 して、羽織の袖を、斉 く清く土に敷く、お町の小腕 、むずと取って、引立てて、
「馬鹿、狂人 だ。此奴 あ。おい、そんな事を取上げた日には、これ、この頃の画工 に頼まれたら、大切な娘の衣服 を脱いで、いやさ、素裸体 にして見せねばならんわ。色情狂 の、爺 の癖に。」
十三
「生蕎麦 、もりかけ二銭とある……場末の町じゃな。ははあ煮たて豌豆 、古道具、古着の類 。何じゃ、片仮名をもってキミョウニナオル丸 、疝気寸白虫根切 、となのった、……むむむむ疝気寸白は厭 わぬが、愚鈍を根切りの薬はないか。
ここに、牛豚開店と見ゆる。見世 ものではない。こりゃ牛鋪 じゃ。が、店を開くは、さてめでたいぞ。
ほう、按腹鍼療 、蒲生 鉄斎、蒲生鉄斎、はて達人ともある姓名じゃ。ああ、羨 しい。おお、琴曲 教授。や、この町にいたいて、村雨松風の調べ。さて奥床 い事のう。――べ、べ、べ、べッかッこ。」
と、ちょろりと舌を出して横舐 を、遣 ったのは、魚勘 の小僧で、赤八、と云うが青い顔色 、岡持を振 ら下げたなりで道草を食散らす。
三光町の裏小路、ごまごまとした中を、同じ場末の、麻布田島町へ続く、炭団 を干した薪屋 の露地で、下駄の歯入れがコツコツと行 るのを見ながら、二三人共同栓に集 った、かみさん一人、これを聞いて、
「何だい、その言種 は、活動写真のかい、おい。」
「違わあ。へッ、違いますでござんやすだ。こりゃあ、雷神坂上の富士見の台の差配のお嬢さんに惚 れやあがってね。」
「ああ、あの別嬪 さんの。」
「そうよ、でね、其奴 が、よぼよぼの爺 でね。」
「おや、へい。」
「色情狂 で、おまけに狐憑 と来ていら。毎日のように、差配の家 の前をうろついて附纏 うんだ。昨日もね、門口の段に腰を掛けている処を、大 な旦那が襟首を持って引摺 出した。お嬢さんが縋 りついて留めてたがね。へッ被成 もんだ、あの爺を庇 う位なら、俺 の頬辺 ぐらい指で突 いてくれるが可 い、と其奴が癪 に障ったからよ。自転車を下りて見ていたんだが、爺の背中へ、足蹴 に砂を打 っかけて遁 げて来たんだ。
それ、そりゃ昨日の事だがね。串戯 じゃねえや。お嬢さんを張りに来るのに弁当を持ってやあがる、握飯の。」
「成程、変だ。」……歯入屋が言った。
「そうよ、其奴を、旦 が踏潰 して怒ってると、そら、俺 を追掛 けやがる斑犬 が、ぱくぱく食 やがった、おかしかったい、それが昨日さ。」
「分ったよ、昨日は。」
「その前 もね、毎日だ。どこかで見掛ける。いつも雷神坂を下りて、この町内をとぼくさとぼくさ。その癖のん気よ。角の蕎麦屋から一軒々々、きょろりと見ちゃ、毎日おなじような独語 を言わあ。」
「其奴が、(もりかけ二銭とある)だな、生意気だな、狂人 の癖にしやあがって、(場末)だなんて吐 しやがって。」と歯入屋が、おはむきの世辞を云って、女房 達をじろりと見る奴 。
「それからキミョウニナオル丸、牛豚開店までやりやがって、按摩 ン許 が蒲生鉄斎、たつじんだ、土瓶だとよ、薬罐 めえ、笑 かしやがら。何か悪戯 をしてやろうと思って、うしろへ附いちゃあ歩行 くから、大概口上を覚えたぜ。今もね、そこへ来たんぜ。」
「来るえ。」と、一所に云う。
「見ねえ、一番、尻尾を出させる考えを着けたから、駈抜 けて先へ来たんだ。――そら、そら、来たい、あの爺だ――ね。」
と、琴曲の看板を見て、例のごとく、帽子も被 らず、洋傘 を支 いて、据腰 に与五郎老人、うかうかと通りかかる。
「あれ! 何をする。」
と言う間も無かった。……おしめも褌 も一所に掛けた、路地の物干棹 を引 ぱずすと、途端 の与五郎の裾 を狙 って、青小僧、蹈出 す足と支 く足の真中 へスッと差した。はずみにかかって、あわれ与五郎、でんぐりかえしを打った時、
「や、」と倒れながら、激しい矢声 を、掛けるが響くと、宙で撓 めて、とんぼを切って、ひらりと翻 った。古今の手練、透かさぬ早業 、頭 を倒 に、地には着かぬ、が、無慚 な老体、蹌踉 となって倒れる背を、側の向うの電信柱にはたとつける、と摺抜 けに支えもあえず、ぼったら焼の鍋 を敷いた、駄菓子屋の小店の前なる、縁台に□ と落つ。
走り寄ったは婦 ども。ばらばらと来たのは小児 で。
鷺 の森の稲荷 の前から、と、見て、手に薬瓶の紫を提げた、美しい若い娘が、袖の縞 を乱して駈寄 る。
「怪我 は。」
「吉祥院前の接骨医 へ早く……」
「お怪我は?」
与五郎野雪老人は、品ある顔をけろりとして、
「やあ、小児 たち、笑わぬか、笑え、あはは、と笑え。爺 が釣狐の舞台もの、ここへ運べば楽なものじゃ――我は化けたと思えども、人はいかに見るやらん。」
と半眼に、従容 として口誦 して、
「あれ、あの意気が大事じゃよ。」
と、頭 を垂れて、ハッと云って、俯向 く背 を、人目も恥じず、衝 と抱いて、手巾 も取りあえず、袖にはらはらと落涙したのは、世にも端麗 なお町である。
「お手を取ります、お爺様 、さ、私と一所に。」
十四
円 に桔梗 の紋を染めた、厳 めしい馬乗提灯 が、暗夜 にほのかに浮くと、これを捧げた手は、灯よりも白く、黒髪が艶々 と映って、ほんのりと明 い顔は、お町である。
と、眉に翳 すようにして、雪の頸 を、やや打傾けて優しく見込む。提灯の前にすくすくと並んだのは、順に数の重なった朱塗 の鳥居で、優しい姿を迎えたれば、あたかも紅 の色を染めた錦木 の風情である。
一方は灰汁 のような卵塔場、他は漆 のごとき崖である。
富士見の台なる、茶枳尼天 の広前で、いまお町が立った背後 に、
此 の一廓 、富士見稲荷鎮守の地につき、家々の畜犬堅く無用たるべきもの也 。地主。
と記した制札が見えよう。それからは家続きで、ちょうどお町の、あの家 の背後 に当る、が、その間に寺院 のその墓地がある。突切 れば近いが、避 けて来れば雷神坂の上まで、土塀を一廻りして、藪畳 の前を抜ける事になる。
お町は片手に、盆の上に白い切 を掛けたのを、しなやかな羽織の袖に捧げていた。暗い中に、向うに、もう一つぼうと白いのは涎掛 で、その中から目の釣った、尖 った真蒼 な顔の見えるのは、青石の御前立 、この狐が昼も凄い。
見込んで提灯が低くなって、裾が鳥居を潜 ると、一体、聖心女学院の生徒で、昼は袴 を穿 く深い裾も――風情は萩の花で、鳥居もとに彼方 、此方 、露ながら明 く映って、友染 を捌 くのが、内端 な中に媚 かしい。
狐の顔が明先 にスッと来て近 くと、その背後 へ、真黒 な格子が出て、下の石段に踞 った法然 あたまは与五郎である。
老人は、石の壇に、用意の毛布 を引束 ねて敷いて、寂寞 として腰を据えつつ、両手を膝に端坐した。
「お爺様。」
と云う、提灯の柄が賽銭箱 について、件 の青狐の像と、しなった背中合せにお町は老人の右へ行 く。
「やあ、」
もっての外元気の可 い声を掛けたが、それまで目を瞑 っていたらしい、夢から覚めた面色 で、
「またしてもお見舞……令嬢 、早や、それでは痛入 る。――老人にお教へ下さると云うではなけれど、絵図面が事の起因 ゆえ、土地に縁があろうと思えば、もしや、この明神に念願を掛けたらば――と貴女 がお心付け下された。暗夜 に燈火 、大智識のお言葉じゃ。
何か、わざと仔細 らしく、夜中にこれへ出ませいでもの事なれども、朝、昼、晩、日のあるうちは、令嬢 のお目に留 って、易からぬお心遣い、お見舞を受けまする。かつは親御様の前、別して御尊父に忍んで遊ばす姫御前 の御身 に対し、別事あってならぬと存じ、御遠慮を申すによって、わざと夜陰を選んで参りますものを、何としてこの暗いに。これでは老人、身の置きどころを覚えませぬ。第一唯今 も申す親御様に、」
「いえ、母は、よく初手からの事を存じております。煩っておりませんと、もっと以前にどうにもしたいのでございますッて。ほんとうにお爺様、貴老 の御心労をお察し申して、母は蔭ながら泣いております。」
「ああ、勿体至極 もござらん。その儀もかねてうけたまわり、老人心魂に徹しております。」
「私も一所に泣くんですわ。ほんとうに私の身体 で出来ます事でしたら、どうにもしてお上げ申したいんでございますよ。それこそね、あの、貴老 が遊ばす、お狂言の罠 にかかるために、私の身体 を油でいためてでも差上げたいくらいに思うんですが……それはお察しなさいましよ。」
「言語道断」と与五郎は石段をずるりと辷 った。
十五
「そして、別にお触 りはございませんの。おとしよりが、こんなに、まあ、御苦労を遊ばして。」
「いや、老人、胸が、むず痒 うて、ただ身体 の震えまする外、ここに参ってからはまた格別一段の元気じゃ、身体 は決してお案じ下さりょう事はない。かえって何かの悟 を得ようと心嬉しいばかりでござる。が、御母堂様は。」
「母はね、お爺様、寝ましたきり、食が細って困るんです。」
「南無三宝 。」
「今夜は、ちと更けましてから、それでも蕎麦 かきをして食べてみよう、とそう言いましてね、ちょうど父の在所から届きました新蕎麦の粉がありましたものですから、私が枕頭 で拵 えました。父は、あの一晩泊りにその在へ参って留守なのです。母とまた、お爺様、貴老 の事をそう申して……きっとお社 においでなさるに違いない、内へお迎えをしたいんですけれど、ああ云った父の手前、留守ではなおさら不可 ません。」
「おおおお、いかにも。」
「蕎麦かきは暖 ると申します。差上げたらば、と母と二人でそう申しましてね、あの、ここへ持って参りました。おかわりを添えてございますわ。お可厭 でなくば召上って下さいましな。」
「や、蕎麦掻 を……されば匂う。来世は雁 に生 りょうとも、新蕎麦と河豚 は老人、生命 に掛けて好きでござる。そればかりは決して御辞儀申さぬぞ。林間に酒こそ暖めませぬが、大宮人 の風流。」
と露店でも開くがごとく、与五郎一廻りして毛布 を拡げて、石段の前の敷石に、しゃんと坐る、と居直った声が曇った。
また魅せられたような、お町も、その端へ腰を下して、世帯ぶった手捌 きで、白いを取ったは布巾である。
与五郎、盆を前に両手を支 き、
「ああ、今夜唯今、与五郎芸人の身の冥加 を覚えました。……ついては、新蕎麦の御祝儀に、爺 が貴女に御伽 を話 す。……われら覚えました狂言の中に、鬼瓦 と申すがあっての、至極初心なものなれども、これがなかなかの習事 じゃ。――まず都へ上って年を経て、やがて国許 へ立帰る侍が、大路の棟の鬼瓦を視 めて、故郷 に残いて、月日を過ごいた、女房の顔を思出 で、絶 て久しい可懐 さに、あの鬼瓦がその顔に瓜二つじゃと申しての、声を放って泣くという――人は何とも思わねども、学問遊ばし利発な貴女じゃ、言わいでも分りましょう。絵なり、像 なり、天女、美女、よしや傾城 の肖顔 にせい、美しい容色 が肖 たと云うて、涙を流すならば仔細 ない。誰も泣きます。鬼瓦さながらでは、ソッとも、嘘にも泣けませぬ。
泣け! 泣かぬか! 泣け、と云うて、先師匠が、老人を、月夜七晩、雨戸の外に夜あかしに立たせまして、その家の、棟の瓦を睨 ませて、動くことさえさせませなんだ。
十六夜 の夜半でござった。師匠の御新造の思召 とて、師匠の娘御が、ソッと忍んで、蕎麦、蕎麦かきを……」
と言 が途絶え、膝に、しかと拳 を当て、
「袖にかくして持ってござった。それを柿の樹の大 な葉の桐のような影で食べました。鬼瓦ではなけれども、その時に涙を流いて、やがて、立って、月を見れば、棟を見れば、鬼瓦を見れば、ほろほろと泣けました。
さて、その娘が縁あって、われら宿の妻に罷成 る、老人三十二歳の時。――あれは一昨年 果てました。老 の身の杖柱、やがては家の芸のただ一人 の話対手 、舞台で分別に及ばぬ時は、師の記念 とも存じ、心腹を語ったに――いまは惜 からぬ生命 と思い、世に亡い女房が遺言で、止 めい、と申す河豚を食べても、まだ死ねませぬは因果でござるよ。
この度の釣狐も、首尾よく化澄 まし、師匠の外聞、女房の追善とも思詰 めたに、式 のごとき恥辱を取る。
さて、申すまじき事なれども、せんだって計らずもおがみました、貴方 のお姿、お顔だちが、さてさて申すまじき事なれども、過去りました、あの、そのものに、いやいや貴女 、令嬢 、貴女とは申すまい、親御でおわす母君が。いやいや……恐 多い申すまい。……この蕎麦掻が、よう似ました。……
やあ、雁 が鳴きます。」
「おお、……雁 が鳴く。」
与五郎は、肩をせめて胸をわななかして、はらはらと落涙した。
「お爺様、さ、そして、懐炉 をお入れなさいまし、懐中 に私 が暖めて参りました。母も胸へ着けましたよ。」
「ええ!」と思わず、皺手 をかけたは、真綿のようなお町の手。
「親御様へお心遣い……あまつさえ外道 のような老人へ御気扱 、前 お見上げ申したより、玉を削って、お顔にやつれが見えます。のう……これは何をお泣きなさる。」
「胸がせまって、ただ胸がせまって――お爺様、貴老 がおいとしゅうてなりません。しっかり抱いて上げたいわねえ。」と夜半 に莟 む、この一輪の赤い花、露を傷 んで萎 れたのである。
人は知るまい。世に不思議な、この二人の、毛布 にひしと寄添 ったを、あの青い石の狐が、顔をぐるりと向けて、鼻で覗 いた……
「これは……」
老人は懐炉を取って頂く時、お町が襟を開くのに搦 んで落ちた、折本らしいものを見た。
「……町は基督 教の学校へ行 くんですが、お導き申したというお社だし、はじめがこの絵図から起ったのですから、これをしるしにお納め申して、同 じに願掛 をしてお上げなさいと、あの母がそう申します。……私もその心で、今夜持って参りましたよ。」
与五郎野雪、これを聞くと、拳 を握って、舞の構えに、正しく屹 と膝を立てて、
「むむ、いや、かさねがさね……たといキリシタンバテレンとは云え、お宗旨までは尋常事 ではない。この事、その事。新蕎麦に月は射 さぬが、暗 は、ものじゃ、冥土の女房に逢う思 。この燈火 は貴女の導き。やあ、絵図面をお展 き下され、老人思う所存が出来た!」
と熟 と□ った、目の冴 は、勇士が剣 を撓 むるがごとく、袖を抱いてすッくと立つ、姿を絞って、じりじりと、絵図の面 に――捻向 く血相、暗い影が颯 と射 して、線を描いた紙の上を、フッと抜け出した足が宙へ。
「カーン。」と一喝。百にもあまる朱の鳥居を一飛びにスーッと抜ける、と影は燈 に、空 を飛んで、梢 を伝う姿が消える、と谺 か、非 ずや、雷神坂の途 半ばのあたりに、暗 を裂く声、
「カーン。」と響いた。
「あれえ。」
「いや、怪 いものではありません。」
「老人の夥間 ですよ。」
社 の裏を連立って、眉目俊秀 な青年 二人、姿も対に、暗中 から出たのであった。
「では、やっぱりお狂言の?……」
「いや、能楽 の方です。――大師匠方に内弟子の私たち。」
「老人の、あの苦心に見倣 え、と先生の命令 で出向いています。」
と、斉 しく深くした帽子を脱いで、お町に礼して、見た顔の、蝋燭 の灯 に二人の瞼 が露に濡れていた。
「若先生。」
「おお大沼さん。」
「貴方 もかい。」
大沼善八は、靴を穿 いた、裾からげで、正宗の四合壜 を紐からげにして提げていた。
「対手 が、あの意気込じゃあ、安閑としていられません。寒い!(がたがたと震えて、)いつでもお爺さんに河豚鍋のおつきあいで嘲笑 われる腹癒 せに、内証 で、……おお、寒! ちびちびと敵 を取ろうと思ったが、恐入って飲めんのでした。――お嬢さん、貴女は、氏神でおいでなさる。」
片側は空も曇って、今にも
「はあ、これなればこそ
と世に
大分日焼けのした顔色で、帽子を
雲から投出したような
「さて世はめでたい、豊年の秋じゃ、つまみ菜もこれ
と、一つ腰を
「いや、見失ってはならぬぞ、あの、
で、白足袋に
もっとも鳥居
ここに廻って来る途中、三光坂を
「
問われたのは、ふらんねるの茶色なのに、
老人もう一倍腰を
「えい、この辺に聖人と申す学校がござりまする
「知らん。」と、苦い顔で
「はッ、これはこれは御無礼至極な儀を、
がたがたと下りかかる大八車を、ひょいと避けて、
「ああ聖心女学校ではないのかい、それなら有ッじゃね。」
「や、
「そうですッ。そして聖人ではない、聖心、
「いかさま、そうもござりましょう。実はせんだって
と照れたようにその頭をびたり……といった
二
その女学校の門を通過ぎた処に、以前は
老人は通りがかりにこれを見ると、きちんと畳んだ手拭で額の汗を
「御免なさいよ。」
「はいはい、結構なお
「されば……じゃが、
と今時、珍しいまで
「いえ、御隠居様、こうして日蔭に
「いやいや、
「はいはい。」
ちと横幅の広い、元気らしい婆さん。とぼけた手拭、
「おや、坊ちゃん、お嬢様。」と言う。
十一二の
「ああ、その森の中は通抜けが出来ますかの。」
「これは、
「出口に迷いはしませんかの、見受けた処、なかなかどうも、奥が深い。」
「もう
「ははあいかにもの。」
と、飲んだ茶と一緒に、したたか感心して、
「これぞ、
「隠居さん、一つお買いなすっちゃどうです。」
と
真顔に、
「滅相もない事を。老人若い時に覚えがあります。今とてもじゃ、足腰が丈夫ならば、飛脚なと致いて通ってみたい。ああ、それもならず……」
と思入ったらしく
「ははは、野原や、
「いやいや、まるで方角の知れぬ奥山へでも入ったようじゃ。昼日中
がっくりと
「
つるりと
「足許は
と、思わず釣込まれたようになって、二人とも何かそこへ落ちたように、きょろきょろと土間を
三
半纏着は、急に日が蔭ったような
婆さんが口を出して、
「御隠居様は御遠方でいらっしゃるのでございますか。」
「
「そいつあ遠いや、電車でも御大抵じゃねえ。へい、そしてどちらへお越しになるんで。」
「いささかこの
腕を
「それは表門でござった……坂も広い。私が覚えたのは、もそっと道が狭うて、急な
「それは裏門でございますよ。道理こそ、この森を抜けられまいか、とお尋ねなさった、お目当は違いませぬ。森の中から
「いやいや、そこを目当に、別に尋ねます処があります。」
「ちゃんとわかっているんですかい、おいでなさる
「余り確かでもないのでの。また家は分るにしてもじゃ。」
と扇子を倒すのと、片膝力なく叩くのと、打傾くのがほとんど一緒で、
「
と沈む……近頃見附けた縁類へ、無心合力にでも
「何せい、煙硝庫と聞いたばかりでも、清水が
「
半纏着は腕組して、
「まったく、足許が悪いんですかい、
「夜だとほんとうにお貸し申すんだがねえ。」
「どうですえ、その森ン中の暗い枝に、烏瓜ッてやつが
「はあ、烏瓜の提灯か。」
目を
「それも一段の趣じゃが、まだ持って出たという
四
「
と婆さんは、老いたる客の真面目なのを気の毒らしく、半纏着の背中を
「
「狐が点す……何。」
と顔を
「何、狐が点すか。面白い。」
扇子を
「どれ、どこに……おお、あの葉がくれに
「ああ、隠居さん、気に入ったら
「これは何ともお手を頂く。」
「何の、隠居さん、なあ、おっかあ、今日は
と、
紅いその実は高かった。
音が、かさかさと
「気を付きょうぞ。
「大丈夫でございますよ。電信柱の
「むむ、
「
「そこが縁起じゃ、
婆さんは
「でも、
「成程、……狐火、……それは耳より。ふん……かほどの森じゃ、狐も
「ええ、で、ございますのでね、……居りますよ。」
「見たか。」
「
老人これを聞くと腰を入れて、
「ああ、たのもしい。」
「ええ……」
と
「さて、鳴くか。」
「へい?……」
「やはりその、」
と
「カーン! というて?」
どさりと樹から下りた音。瓜がぶらり、赤く宙に動いて、カラカラと森に響く。
婆さんの顔を見よ。
半纏着が飛んで帰って、同じくきょとつく目を合せた。
「驚いた……烏が
五
「これ、これ、いやさ、これ。」
「はあ、お呼びなされたは
と、羽織の紐を、両手で結びながら答えたのは
また妙な処で御装束。
雷神山の急昇りな坂を
さて、その
この突当りの片隅が、学校の通用門で、それから、ものの半町程、両側の家邸。いずれも雑樹林や、
そこを――三光坂上の
いや、火薬庫の暗い森を背中から離すと、邸構えの寂しい町も、桜の落葉に日が燃えて、梅の枝にほんのりと薄綿の霧が薫る……
そこをあちこち、
「はてな。」
屋の棟を仰いだり、
「
「いや、待てよ……」
と首を
「違うかの。」と
「このあたり……ああ緑青色の鳶じゃ、待て、待て、念のためよ。」
あの、輝くのは目ではないか、もし、それだと、
「迷うまいぞ、迷うな。」
と云い云い……(これ、これ、いやさ、これ。……)ここに
そこを通って、両方の塀の間を、鈍い稲妻形に
坂下の下界の住人は驚いたろう。山の
六
「
あの怪しげな烏瓜を、坂の上の
そこで、坂を下りるのかと思うと、違った。……老人は、すぐに
それ、うそうそとまた参った……一度
そのまま、立直って、
思わず、そこへ、日向にのぼせた赤い顔の
老人転倒せまい事か。――やあ、緑青色の
ちょうどその時、通用門にひったりと
保険か何ぞの勧誘員が、紹介人と一所に来たらしい
「ああああ、うまうまと入ったわ――女の学校じゃと云うに。いや、この構えは、さながら二の丸の御守殿とあるものを、さりとては
と気が付いた……ものらしい……で、
「何じゃ――(
ふと眉を
「――(小森屋の酒は上等。)ふんふん、ああたのもしい。何じゃ、(但し半分は水。)……と、はてな……?
勘助のがんもどきは割にうまいぞ――むむむむ割にうまいか、これは大沼勘六が事じゃ。」と云った。
ここに老人が
七
「料理が、まずくて、
溜息を深うして、
「ややまた、べらぼうとある……はあ、いかさま、この(――)長いのが、べら棒と云うものか。」
あたかも、差置いた
「やい!」と
と、ひょろりとする老人の鼻の先へ、泥を
「こン
「これは早や思いも寄りませぬ。が、何かの、この八百半と云うのは、お身の身内かの。」
「そうよ、まずい八百半の番頭だい、こン爺い。」
と評判の
「
「何だ、まずいのが親類だ――ええ、畜生!」と云った。が、老人の事ではない。
「畜生、
老人は、手拭で引摺って袖を拭きつつ、見送って、
「……緑樹影沈んでは
で、羽織を出して着たのであった。
「何ぞ、老人に用の儀でも。」
と
「いやさ、用とはこっちから云う事じゃろうが、うう御老人。」と重く云う。
「
「いやさ、名を聞くなら
ねえ、老人。
いやさ、貴公、貴公
もの云う頬がだぶだぶとする。
「されば……」
「いやさ、さればじゃなかろう。裏へ入れば、こまごまとした貸家もある、それはある。が、表のこの町内は、
一体、
すっと出て、
「さては……」
「何が(さては。)だい。」
と
八
老人は膝に
「これは
さて、つかん事を伺いまするが、さて、
と、思込んだ
「娘……ああ、女のかね。」
いよいよ真顔で、
「されば、おあねえ様であらっしゃります。」
「姉だか、妹だか、一人居ます。一人娘だよ。いやさ、大事な娘だよ。」
「ははっ、
「それが、どうしたと云うんですえ。」と、余り老人の慇懃さに、膨れた頬を手で
「
と額を
「何とぞいたして御大人、貴方の
「ふん、娘にかい。」
「何とも。」
「変だねえ、娘に用があるなら俺に言え、と云うのだが、それは別だ。いやあえて怪しい御仁とも見受けはせんが、まあね、この陽気だから落着くが
「いや、それに就いて
「ははあ、茶番かね。」と言った。
しかり、茶番である。が、ここに名告るは
「おお、
「お町か、何だ。」
と
小春の雲の、あの
手にした帽子の
「帽子をお
と、見迎えて一足
「や、や、や、
家主は、かたいやつを、誇らしげにスポンと
「何かい、……この
「はい。」
と云うのが含み声、優しく
「ああ、しばらく、一旦の御見、
と、家主の前も忘れたか、気味の悪いほど
「の、
「ああ、存じております。」
鶴は
九
「貴女はその時、お
と老人は手真似して、
「ちょうちちょうちあわわ、と云うてな、その
尋ねる
一旦、この
さて、地獄で天女とも思いながら、年は取っても見ず知らぬ御婦人には
が、御存じない。いやこれは
御
何と、その出窓の下に……
御心の優しさ、御教えの尊さ、お
二度目には雷神坂を、しゃ、雲に乗って飛ぶように、車の上から、見晴しの景色を
と、
「さて、その時の御深切、老人心魂に徹しまして、寝食ともに忘れませぬ。千万
「まあ。」
と娘は、またたきもしなかった目を、まつげ深く
この
「解りました、何、そのくらいな事を。いやさ、しかし、早い話が、お前さん、ああ、何とか云った、与五郎さんかね。その狂言師のお前さんが、内の娘に三光町の地図で道を教えてもらったとこう云うのだ。」
「で、その道を教えて下さったに……就きまして、」
「まあさ、……いやさ、分ったよ。早い話が、その礼を言いに来たんだ、礼を。……何さ、それにも及ぶまいに、下谷御徒士町、遠方だ、御苦労です。早い話が、わざわざおいでなすったんで、茶でも進ぜたい、進ぜたい、が、早い話が、家内に取込みがある、
「いや、まことに、それは……」
「まあさ、余りお
「あ、もし。さて、また。」
「何だ、また(さて。)さて、(また。)かい。」
十
与五郎は、早や懐手をぶりりと
「さて……や、これはまたお耳障り。いや就きまして……
老人、あの当時、……されば
近頃、お能の方は
と口とは
「
時に、
折からにつけ忘れませぬは、亡き師匠、かつは昔勤めました舞台の
これが海軍の軍人に縁付いて、近頃相州の
時に、乗込みましたのが、二等と云う
入口の片隅に、フト
何心もありませぬ。老人、その前を通って、ずっとの片端、和尚どのと同じ側の向うの隅で、腰を落しつけて、何か、のかぬ中の老和尚、死なば
娘は
十一
「早や遠い
さて、品川も大森も、海も
大船、おおふなと申す……
ひとつ映りまする我が影を、や、これ狐にもなれ、と思う心に連立って、あの、屋根のある
橋がかりを、四五
と云うとふとそこへ、語るものが口から吐いた、
「や、これはそも、
しかる処、
与五郎は
「和尚が長い頭巾の
(横須賀行はこちらかや。)
(横須賀行はこちらかや。)
と、早や
で、またとぼとぼと杖に
あれよあれよ、古狐が、坊主に化けた
与五郎、がっくりと胸を縮めて、
「ああ、
舞台の当日、流儀の
十二
「立って
が、おのれ見よ。与五郎、鬼神相伝の秘術を見しょう。と思うのが汽車の和尚じゃ。この心を見物衆の
那須野ヶ原の古樹の
何と、それ狂言は、おかしいものには作したれども、この釣狐に限っては、人に笑わるべきものでない。
とせき込んで言ったと思うと、野雪老人は、がっくりと下駄を、腰に
「さればこそ、
何事ぞ、この未熟、
最早、
寝食も忘れまして……気落ちいたし、心
時に
と心激しくみひらけば、大なる瞳、
「秋の雲、
お町は
「老人、唯今の心地を申さば、炎天に
さように思えば、ここに、絵図面をお
姫、神とも存ずる、
分別の尽き、工夫に
が、但し、土地の、あの図に、何と秘密が有ろうとは存じませぬ。貴女の、お胸、お心に、お袖の
何とぞ、貴女の、
「これ、これ、いやさ、これ。」
「しばらく! さりとても、
娘は髪に手を当てた、が、
「舞、手踊、振、所作のおたしなみは格別、当世西洋の学問をこそ遊ばせ、能楽の
あるいは、何かの因縁で、
それとも当時、新しいお学問の力をもってお導き下さりょうか。
さりとて
近々とお姿を見、影を去って、
「本気か、これ、おい。」と家主が怒鳴った。
胸を打って、
「血判でござる。成らずば、御門、溝石の上になりとも、老人、腰掛に弁当を持参いたす。平に、この儀お
や、
とて、開いた扇子に手を
思わず、ハッと
「馬鹿、
十三
「
ここに、牛豚開店と見ゆる。
ほう、
と、ちょろりと舌を出して
三光町の裏小路、ごまごまとした中を、同じ場末の、麻布田島町へ続く、
「何だい、その
「違わあ。へッ、違いますでござんやすだ。こりゃあ、雷神坂上の富士見の台の差配のお嬢さんに
「ああ、あの
「そうよ、でね、
「おや、へい。」
「
それ、そりゃ昨日の事だがね。
「成程、変だ。」……歯入屋が言った。
「そうよ、其奴を、
「分ったよ、昨日は。」
「その
「其奴が、(もりかけ二銭とある)だな、生意気だな、
「それからキミョウニナオル丸、牛豚開店までやりやがって、
「来るえ。」と、一所に云う。
「見ねえ、一番、尻尾を出させる考えを着けたから、
と、琴曲の看板を見て、例のごとく、帽子も
「あれ! 何をする。」
と言う間も無かった。……おしめも
「や、」と倒れながら、激しい
走り寄ったは
「
「吉祥院前の
「お怪我は?」
与五郎野雪老人は、品ある顔をけろりとして、
「やあ、
と半眼に、
「あれ、あの意気が大事じゃよ。」
と、
「お手を取ります、お
十四
と、眉に
一方は
富士見の台なる、
と記した制札が見えよう。それからは家続きで、ちょうどお町の、あの
お町は片手に、盆の上に白い
見込んで提灯が低くなって、裾が鳥居を
狐の顔が
老人は、石の壇に、用意の
「お爺様。」
と云う、提灯の柄が
「やあ、」
もっての外元気の
「またしてもお見舞……
何か、わざと
「いえ、母は、よく初手からの事を存じております。煩っておりませんと、もっと以前にどうにもしたいのでございますッて。ほんとうにお爺様、
「ああ、
「私も一所に泣くんですわ。ほんとうに私の
「言語道断」と与五郎は石段をずるりと
十五
「そして、別にお
「いや、老人、胸が、むず
「母はね、お爺様、寝ましたきり、食が細って困るんです。」
「
「今夜は、ちと更けましてから、それでも
「おおおお、いかにも。」
「蕎麦かきは
「や、蕎麦
と露店でも開くがごとく、与五郎一廻りして
また魅せられたような、お町も、その端へ腰を下して、世帯ぶった
与五郎、盆を前に両手を
「ああ、今夜唯今、与五郎芸人の身の
泣け! 泣かぬか! 泣け、と云うて、先師匠が、老人を、月夜七晩、雨戸の外に夜あかしに立たせまして、その家の、棟の瓦を
と
「袖にかくして持ってござった。それを柿の樹の
さて、その娘が縁あって、われら宿の妻に
この度の釣狐も、首尾よく
さて、申すまじき事なれども、せんだって計らずもおがみました、
やあ、
「おお、……
与五郎は、肩をせめて胸をわななかして、はらはらと落涙した。
「お爺様、さ、そして、
「ええ!」と思わず、
「親御様へお心遣い……あまつさえ
「胸がせまって、ただ胸がせまって――お爺様、
人は知るまい。世に不思議な、この二人の、
「これは……」
老人は懐炉を取って頂く時、お町が襟を開くのに
「……町は
与五郎野雪、これを聞くと、
「むむ、いや、かさねがさね……たといキリシタンバテレンとは云え、お宗旨までは
と
「カーン。」と一喝。百にもあまる朱の鳥居を一飛びにスーッと抜ける、と影は
「カーン。」と響いた。
「あれえ。」
「いや、
「老人の
「では、やっぱりお狂言の?……」
「いや、
「老人の、あの苦心に
と、
「若先生。」
「おお大沼さん。」
「
大沼善八は、靴を
「
大正五(一九一六)年一月
声明:本文内容均来自青空文库,仅供学习使用。"沪江网"高度重视知识产权保护。当如发现本网站发布的信息包含有侵犯其著作权的内容时,请联系我们,我们将依法采取措施移除相关内容或屏蔽相关链接。