序文
長谷川時雨 は、生粋 の江戸ッ子ということが出来なければ、生 抜きの東京女だとは言えるであろう。彼女の明治初期の首都の中心日本橋油町 に法律家を父として生れて、最も東京風な家庭教育の下に育って来た女だ。彼女は寺小屋風が多分に遺 った小学校に学んだり、三味線、二絃琴 の師匠にも其処 で就いた。時雨は現在では、さまざまの思想と生活との推移から複雑な人になっているが、内心にはいつも過去の日本橋ッ子としての気魄 が残映して、微妙にその感情を操作しているように見える。
とにかく、この『旧聞日本橋』は、きわめて素直に、少女期以来彼女が見聞した、過ぎし日の現象に関する記録である。人文史的に見るも意義なしとせぬと思う。
三上於菟吉 [#改丁]
自序
ここにまとめた『日本橋』は、『女人芸術』に載せた分だけで、その書きはじめには、こんなことが記してあります。
編輯 の都合で伸縮自在のうきめにあったもので、そのために一層ありのままで文飾などありません。私の生れたうまや新道、または、小伝馬町 、大伝馬 町、馬喰 町、鞍掛橋 、旅籠 町などは、旧江戸宿 の伝馬 駅送に関係がある名です。文中にもある馬込 氏は、江戸宿の里長馬込勘解由 の家柄で、徳川氏が江戸に来たとき、駄馬人夫を率いて迎えた名望家で、下平河の宝田村――現在の丸の内――から土地替に伝馬町へ移され名主となった由緒があるのです。大伝馬町の大丸の下男が、旅籠町となったのをかなしんで、町札をはがしたことも書きましたが、旅籠町とはずっと昔にも一度つけてあった町名で、旅籠とは、馬の食を盛る籠 、馬飼 の籠から、旅人の食物を入れる器 となり、やがて旅人の食事まかないとなり、客舎となり、駅つぎの伝馬旅舎として縁のふかい名であり、うまや新道の名も、厩 も、小伝馬町大牢 の御用のようにばかり書きましたが、それも幼時の感じを申述 べただけです。
伝馬町大牢は明治八年まで在存し、牢屋の原の各寺院は、明治十五年ごろから出来たことを、文中には書洩 しましたからここに記入いたしおきます。
我見 『日本橋』は、まだもっと書きつづけるつもりでおりますが、この集には、近親のものが重に書かれたため、したがって挿入した写真など、親 に厚ききらいがありますが、これは当時の風俗を知るため、手許 にあって、年月に間違いのないものゆえに、私事を捨てて入れました。挿絵 は天保 十四年に生れた故父渓石深造 が六歳のころから明治四年までの見聞を「実見画録」として百五十図書残しおいてくれましたなかから、すこしばかり選び入れました。装幀 は烏丸光康卿 『後撰集 』表紙裏のうつし、見返しは朱が赤すぎましたが、古画中直垂紋 であります。
この書は書肆 の熱意にて、極めて速 に出来、ふりがなを一度失いしためにあるいは校正の麁洩 もあらんかとそれのみをおそれます。
長谷川
とにかく、この『旧聞日本橋』は、きわめて素直に、少女期以来彼女が見聞した、過ぎし日の現象に関する記録である。人文史的に見るも意義なしとせぬと思う。
昭和十年一月
自序
ここにまとめた『日本橋』は、『女人芸術』に載せた分だけで、その書きはじめには、こんなことが記してあります。
――事実談がはやるからの思いつきでもない。といって半自叙伝というものだとも思っていない。あまりに日本橋といえばいなせに、有福 に、立派な伝統を語られている。が、ものには裏がある。私の知る日本橋区内住居者は――いわゆる江戸ッ児は、美化されて伝わったそんな小意気 なものでもなければ、洗練された模範的都会人でもない。かなりみじめなプロレタリヤが多い。というよりも、ほろびゆく江戸の滓 でそれがあったのかも知れない。私はただ忠実に、私の幼少な眼にうつった町の人を記して見るにすぎない。もとより、その生活の内部を知っているものではないし、面白くもなんともないかもしれないが、信実に生 ていた一面で、決して作ったものではないというだけはいえる――
打明けていえば、『女人芸術』の頁数の都合で、いつも締切りすぎに短時間で書き、二枚五枚と工場へはこび、しかも伝馬町大牢は明治八年まで在存し、牢屋の原の各寺院は、明治十五年ごろから出来たことを、文中には
この書は
昭和十年一月十四日
時雨
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