その一
三十七年如一瞬 。学医伝業薄才伸 。栄枯窮達任天命 。安楽換銭不患貧 。これは渋江抽斎 の述志の詩である。想 うに天保 十二年の暮に作ったものであろう。弘前 の城主津軽順承 の定府 の医官で、当時近習詰 になっていた。しかし隠居附 にせられて、主 に柳島 にあった信順 の館 へ出仕することになっていた。父允成 が致仕 して、家督相続をしてから十九年、母岩田氏 縫 を喪 ってから十二年、父を失ってから四年になっている。三度目の妻岡西氏 徳 と長男恒善 、長女純 、二男優善 とが家族で、五人暮しである。主人が三十七、妻が三十二、長男が十六、長女が十一、二男が七つである。邸 は神田 弁慶橋 にあった。知行 は三百石である。しかし抽斎は心を潜めて古代の医書を読むことが好 で、技 を售 ろうという念がないから、知行より外 の収入は殆 どなかっただろう。ただ津軽家の秘方 一粒金丹 というものを製して売ることを許されていたので、若干 の利益はあった。
抽斎は自 ら奉ずること極めて薄い人であった。酒は全く飲まなかったが、四年前に先代の藩主信順に扈随 して弘前に往 って、翌年まで寒国にいたので、晩酌をするようになった。煙草 は終生喫 まなかった。遊山 などもしない。時々採薬に小旅行をする位に過ぎない。ただ好劇家で劇場にはしばしば出入 したが、それも同好の人々と一しょに平土間 を買って行くことに極 めていた。この連中を周茂叔連 と称 えたのは、廉を愛するという意味であったそうである。
抽斎は金を何に費やしたか。恐らくは書を購 うと客 を養うとの二つの外に出 でなかっただろう。渋江家は代々学医であったから、父祖の手沢 を存じている書籍が少 くなかっただろうが、現に『経籍訪古志 』に載っている書目を見ても抽斎が書を買うために貲 を惜 まなかったことは想い遣 られる。
抽斎の家には食客 が絶えなかった。少いときは二、三人、多いときは十余人だったそうである。大抵諸生の中で、志 があり才があって自ら給せざるものを選んで、寄食を許していたのだろう。
抽斎は詩に貧を説いている。その貧がどんな程度のものであったかということは、ほぼ以上の事実から推測することが出来る。この詩を瞥見 すれば、抽斎はその貧に安んじて、自家 の材能 を父祖伝来の医業の上に施していたかとも思われよう。しかし私は抽斎の不平が二十八字の底に隠されてあるのを見ずにはいられない。試みに看 るが好 い。一瞬の如くに過ぎ去った四十年足らずの月日を顧みた第一の句は、第二の薄才伸 を以 て妥 に承 けられるはずがない。伸 るというのは反語でなくてはならない。老驥 櫪 に伏 すれども、志千里にありという意がこの中 に蔵せられている。第三もまた同じ事である。作者は天命に任せるとはいっているが、意を栄達に絶っているのではなさそうである。さて第四に至って、作者はその貧を患 えずに、安楽を得ているといっている。これも反語であろうか。いや。そうではない。久しく修養を積んで、内に恃 む所のある作者は、身を困苦の中 に屈していて、志はいまだ伸びないでもそこに安楽を得ていたのであろう。
その二
抽斎はこの詩を作ってから三年の後 、弘化 元年に躋寿館 の講師になった。躋寿館は明和 二年に多紀玉池 が佐久間町 の天文台址 に立てた医学校で、寛政 三年に幕府の管轄 に移されたものである。抽斎が講師になった時には、もう玉池が死に、子藍渓 、孫桂山 、曾孫柳□ が死に、玄孫暁湖 の代になっていた。抽斎と親しかった桂山の二男□庭 は、分家して館に勤めていたのである。今の制度に較 べて見れば、抽斎は帝国大学医科大学の教職に任ぜられたようなものである。これと同時に抽斎は式日 に登城 することになり、次いで嘉永 二年に将軍家慶 に謁見して、いわゆる目見 以上の身分になった。これは抽斎の四十五歳の時で、その才が伸びたということは、この時に至って始 て言うことが出来たであろう。しかし貧窮は旧に依 っていたらしい。幕府からは嘉永三年以後十五人扶持 出ることになり、安政 元年にまた職務俸の如き性質の五人扶持が給せられ、年末ごとに賞銀五両が渡されたが、新しい身分のために生ずる費用は、これを以 て償うことは出来なかった。謁見の年には、当時の抽斎の妻 山内氏 五百 が、衣類や装飾品を売って費用に充 てたそうである。五百は徳が亡くなった後 に抽斎の納 れた四人目の妻 である。
抽斎の述志の詩は、今わたくしが中村不折 さんに書いてもらって、居間に懸けている。わたくしはこの頃抽斎を敬慕する余りに、この幅 を作らせたのである。
抽斎は現に広く世間に知られている人物ではない。偶 少数の人が知っているのは、それは『経籍訪古志』の著者の一人 として知っているのである。多方面であった抽斎には、本業の医学に関するものを始 として、哲学に関するもの、芸術に関するもの等、許多 の著述がある。しかし安政五年に抽斎が五十四歳で亡くなるまでに、脱稿しなかったものもある。また既に成った書も、当時は書籍を刊行するということが容易でなかったので、世に公 にせられなかった。
抽斎の著 した書で、存命中に印行 せられたのは、ただ『護痘要法 』一部のみである。これは種痘術のまだ広く行われなかった当時、医中の先覚者がこの恐るべき伝染病のために作った数種の書の一つで、抽斎は術を池田京水 に受けて記述したのである。これを除いては、ここに数え挙げるのも可笑 しいほどの『四 つの海』という長唄 の本があるに過ぎない。但 しこれは当時作者が自家の体面 をいたわって、贔屓 にしている富士田千蔵 の名で公にしたのだが、今は憚 るには及ぶまい。『四つの海』は今なお杵屋 の一派では用いている謡物 の一つで、これも抽斎が多方面であったということを証するに足る作である。
然 らば世に多少知られている『経籍訪古志』はどうであるか。これは抽斎の考証学の方面を代表すべき著述で、森枳園 と分担して書いたものであるが、これを上梓 することは出来なかった。そのうち支那公使館にいた楊守敬 がその写本を手に入れ、それを姚子梁 が公使徐承祖 に見せたので、徐承祖が序文を書いて刊行させることになった。その時幸 に森がまだ生存していて、校正したのである。
世間に多少抽斎を知っている人のあるのは、この支那人の手で刊行せられた『経籍訪古志』があるからである。しかしわたくしはこれに依って抽斎を知ったのではない。
わたくしは少 い時から多読の癖があって、随分多く書を買う。わたくしの俸銭の大部分は内地の書肆 と、ベルリン、パリイの書估 との手に入 ってしまう。しかしわたくしはかつて珍本を求めたことがない。或 る時ドイツのバルテルスの『文学史』の序を読むと、バルテルスが多く書を読もうとして、廉価の本を渉猟 し、『文学史』に引用した諸家の書も、大抵レクラム版の書に過ぎないといってあった。わたくしはこれを読んで私 かに殊域同嗜 の人を獲 たと思った。それゆえわたくしは漢籍においても宋槧本 とか元槧本 とかいうものを顧みない。『経籍訪古志』は余りわたくしの用に立たない。わたくしはその著者が渋江と森とであったことをも忘れていたのである。
その三
わたくしの抽斎を知ったのは奇縁である。わたくしは医者になって大学を出た。そして官吏になった。然 るに少 い時から文を作ることを好んでいたので、いつの間にやら文士の列に加えられることになった。その文章の題材を、種々の周囲の状況のために、過去に求めるようになってから、わたくしは徳川時代の事蹟を捜 った。そこに「武鑑 」を検する必要が生じた。
「武鑑」は、わたくしの見る所によれば、徳川史を窮 むるに闕 くべからざる史料である。然るに公開せられている図書館では、年を逐 って発行せられた「武鑑」を集めていない。これは「武鑑」、殊 に寛文 頃より古い類書は、諸侯の事を記 するに誤謬 が多くて、信じがたいので、措 いて顧みないのかも知れない。しかし「武鑑」の成立 を考えて見れば、この誤謬の多いのは当然で、それはまた他書によって正 すことが容易である。さて誤謬は誤謬として、記載の全体を観察すれば、徳川時代の某年某月の現在人物等を断面的に知るには、これに優 る史料はない。そこでわたくしは自ら「武鑑」を蒐集 することに着手した。
この蒐集の間に、わたくしは「弘前医官渋江氏 蔵書記」という朱印のある本に度々 出逢 って、中には買い入れたのもある。わたくしはこれによって弘前の官医で渋江という人が、多く「武鑑」を蔵していたということを、先 ず知った。
そのうち「武鑑」というものは、いつから始まって、最も古いもので現存しているのはいつの本かという問題が生じた。それを決するには、どれだけの種類の書を「武鑑」の中 に数えるかという、「武鑑」のデフィニションを極 めて掛からなくてはならない。
それにはわたくしは『足利 武鑑』、『織田 武鑑』、『豊臣 武鑑』というような、後の人のレコンストリュクションによって作られた書を最初に除く。次に『群書類従 』にあるような分限帳 の類を除く。そうすると跡に、時代の古いものでは、「御馬印揃 」、「御紋尽 」、「御屋敷附 」の類が残って、それがやや形を整えた「江戸鑑 」となり、「江戸鑑」は直ちに後のいわゆる「武鑑」に接続するのである。
わたくしは現に蒐集中であるから、わたくしの「武鑑」に対する知識は日々 変って行く。しかし今知っている限 を言えば、馬印揃や紋尽は寛永 中からあったが、当時のものは今存 じていない。その存じているのは後に改板 したものである。ただ一つここに姑 く問題外として置きたいものがある。それは沼田頼輔 さんが最古の「武鑑」として報告した、鎌田氏 の『治代普顕記 』中の記載である。沼田さんは西洋で特殊な史料として研究せられているエラルヂックを、我国に興そうとしているものと見えて、紋章を研究している。そしてこの目的を以て「武鑑」をあさるうちに、土佐の鎌田氏が寛永十一年の一万石以上の諸侯を記載したのを発見した。即 ち『治代普顕記』の一節である。沼田さんは幸にわたくしに謄写 を許したから、わたくしは近いうちにこの記載を精検しようと思っている。
そんなら今に□ るまでに、わたくしの見た最古の「武鑑」乃至 その類書は何かというと、それは正保 二年に作った江戸の「屋敷附」である。これは殆 ど完全に保存せられた板本 で、末 に正保四年と刻してある。ただ題号を刻した紙が失われたので、恣 に命じた名が表紙に書いてある。この本が正保四年と刻してあっても、実は正保二年に作ったものだという証拠は、巻中に数カ条あるが、試みにその一つを言えば、正保二年十二月二日に歿 した細川三斎 が三斎老として挙げてあって、またその第 を諸邸宅のオリアンタションのために引合 に出してある事である。この本は東京帝国大学図書館にある。
その四
わたくしはこの正保二年に出来て、四年に上梓 せられた「屋敷附」より古い「武鑑」の類書を見たことがない。降 って慶安 中の「紋尽 」になると、現に上野の帝国図書館にも一冊ある。しかし可笑 しい事には、外題 に慶安としてあるものは、後に寛文 中に作ったもので、真に慶安中に作ったものは、内容を改めずに、後の年号を附して印行 したものである。それから明暦 中の本になると、世間にちらほら残っている。大学にある「紋尽」には、伴信友 の自筆の序がある。伴は文政 三年にこの本を獲 て、最古の「武鑑」として蔵していたのだそうである。それから寛文中の「江戸鑑 」になると、世間にやや多い。
これはわたくしが数年間「武鑑」を捜索して得た断案である。然 るにわたくしに先んじて、夙 く同じ断案を得た人がある。それは上野の図書館にある『江戸鑑図目録 』という写本を見て知ることが出来る。この書は古い「武鑑」類と江戸図との目録で、著者は自己の寓目 した本と、買い得て蔵していた本とを挙げている。この書に正保二年の「屋敷附」を以て当時存じていた最古の「武鑑」類書だとして、巻首に載せていて、二年の二の字の傍 に四と註 している。著者は四年と刻してあるこの書の内容が二年の事実だということにも心附いていたものと見える。著者はわたくしと同じような蒐集をして、同じ断案を得ていたと見える。ついでだから言うが、わたくしは古い江戸図をも集めている。
然るにこの目録には著者の名が署してない。ただ文中に所々 考証を記 すに当って抽斎云 としてあるだけである。そしてわたくしの度々見た「弘前医官渋江氏 蔵書記」の朱印がこの写本にもある。
わたくしはこれを見て、ふと渋江氏と抽斎とが同人ではないかと思った。そしてどうにかしてそれを確 めようと思い立った。
わたくしは友人、就中 東北地方から出た友人に逢 うごとに、渋江を知らぬか、抽斎を知らぬかと問うた。それから弘前の知人にも書状を遣 って問い合せた。
或る日長井金風 さんに会って問うと、長井さんがいった。「弘前の渋江なら蔵書家で『経籍訪古志』を書いた人だ」といった。しかし抽斎と号していたかどうだかは長井さんも知らなかった。『経籍訪古志』には抽斎の号は載せてないからである。
そのうち弘前に勤めている同僚の書状が数通 届いた。わたくしはそれによってこれだけの事を知った。渋江氏は元禄 の頃に津軽家に召し抱えられた医者の家で、代々勤めていた。しかし定府 であったので、弘前には深く交 った人が少く、また渋江氏の墓所もなければ子孫もない。今東京 にいる人で、渋江氏と交ったかと思われるのは、飯田巽 という人である。また郷土史家として渋江氏の事蹟を知っていようかと思われるのは、外崎覚 という人であるという事である。中にも外崎氏の名を指した人は、郷土の事に精 しい佐藤弥六 さんという老人で、当時大正 四年に七十四歳になるといってあった。
わたくしは直接に渋江氏と交ったらしいという飯田巽さんを、先ず訪ねようと思って、唐突 ではあったが、飯田さんの西江戸川町 の邸 へ往 った。飯田さんは素 と宮内省の官吏で、今某会社の監査役をしているのだそうである。西江戸川町の大きい邸はすぐに知れた。わたくしは誰 の紹介をも求めずに往ったのに、飯田さんは快 く引見 して、わたくしの問に答えた。飯田さんは渋江道純 を識 っていた。それは飯田さんの親戚 に医者があって、その人が何か医学上にむずかしい事があると、渋江に問いに往 くことになっていたからである。道純は本所 御台所町 に住んでいた。しかし子孫はどうなったか知らぬというのである。
その五
わたくしは飯田さんの口から始めて道純という名を聞いた。これは『経籍訪古志』の序に署してある名である。しかし道純が抽斎と号したかどうだか飯田さんは知らなかった。
切角 道純を識 っていた人に会ったのに、子孫のいるかいないかもわからず、墓所を問うたつきをも得ぬのを遺憾に思って、わたくしは暇乞 をしようとした。その時飯田さんが、「ちょいとお待 下さい、念のために妻 にきいて見ますから」といった。
細君 が席に呼び入れられた。そしてもし渋江道純の跡がどうなっているか知らぬかと問われて答えた。「道純さんの娘さんが本所松井町 の杵屋勝久 さんでございます。」
『経籍訪古志』の著者渋江道純の子が現存しているということを、わたくしはこの時始めて知った。しかし杵屋といえば長唄のお師匠さんであろう。それを本所に訪ねて、「お父 うさんに抽斎という別号がありましたか」とか、「お父うさんは「武鑑」を集めてお出 でしたか」とかいうのは、余りに唐突ではあるまいかと、わたくしは懸念した。
わたくしは杵屋さんに男の親戚がありはせぬか、問い合わせてもらうことを飯田さんに頼んだ。飯田さんはそれをも快く諾した。わたくしは探索の一歩を進めたのを喜んで、西江戸川町の邸を辞した。
二、三日立って飯田さんの手紙が来た。杵屋さんには渋江終吉 という甥 があって、下渋谷 に住んでいるというのである。杵屋さんの甥といえば、道純から見れば、孫でなくてはならない。そうして見れば、道純には娘があり孫があって現存しているのである。
わたくしは直 に終吉さんに手紙を出して、何時 何処 へ往ったら逢 われようかと問うた。返事は直に来た。今風邪 で寝ているが、なおったらこっちから往っても好 いというのである。手跡 はまだ少 い人らしい。
わたくしは曠 しく終吉さんの病 の癒 えるのを待たなくてはならぬことになった。探索はここに一頓挫 を来 さなくてはならない。わたくしはそれを遺憾に思って、この隙 に弘前から、歴史家として道純の事を知っていそうだと知らせて来た外崎覚 という人を訪ねることにした。
外崎さんは官吏で、籍が諸陵寮 にある。わたくしは宮内省へ往った。そして諸陵寮が宮城を離れた霞 が関 の三年坂上 にあることを教えられた。常に宮内省には往来 しても、諸陵寮がどこにあるということは知らなかったのである。
諸陵寮の小さい応接所 で、わたくしは初めて外崎さんに会った。飯田さんの先輩であったとは違って、この人はわたくしと齢 も相若 くという位で、しかも史学を以て仕えている人である。わたくしは傾蓋 故 きが如き念 をした。
初対面の挨拶 が済んで、わたくしは来意を陳 べた。「武鑑」を蒐集している事、「古 武鑑」に精通していた無名の人の著述が写本で伝わっている事、その無名の人は自ら抽斎と称している事、その写本に弘前の渋江という人の印がある事、抽斎と渋江とがもしや同人ではあるまいかと思っている事、これだけの事をわたくしは簡単に話して、外崎さんに解決を求めた。
その六
外崎 さんの答は極めて明快であった。「抽斎というのは『経籍訪古志』を書いた渋江道純の号ですよ。」
わたくしは釈然とした。
抽斎渋江道純は経史子集 や医籍を渉猟して考証の書を著 したばかりでなく、「古武鑑」や古江戸図をも蒐集して、その考証の迹 を手記して置いたのである。上野の図書館にある『江戸鑑図目録』は即 ち「古武鑑」古江戸図の訪古志である。惟 経史子集は世の重要視する所であるから、『経籍訪古志』は一の徐承祖 を得て公刊せられ、「古武鑑」や古江戸図は、わたくしどもの如き微力な好事家 が偶 一顧するに過ぎないから、その目録は僅 に存して人が識 らずにいるのである。わたくしどもはそれが帝国図書館の保護 を受けているのを、せめてもの僥倖 としなくてはならない。
わたくしはまたこういう事を思った。抽斎は医者であった。そして官吏であった。そして経書 や諸子のような哲学方面の書をも読み、歴史をも読み、詩文集のような文芸方面の書をも読んだ。その迹が頗 るわたくしと相似ている。ただその相殊 なる所は、古今時 を異 にして、生の相及ばざるのみである。いや。そうではない。今一つ大きい差別 がある。それは抽斎が哲学文芸において、考証家として樹立することを得るだけの地位に達していたのに、わたくしは雑駁 なるヂレッタンチスムの境界 を脱することが出来ない。わたくしは抽斎に視 て忸怩 たらざることを得ない。
抽斎はかつてわたくしと同じ道を歩いた人である。しかしその健脚はわたくしの比 ではなかった。迥 にわたくしに優 った済勝 の具を有していた。抽斎はわたくしのためには畏敬 すべき人である。
然 るに奇とすべきは、その人が康衢 通逵 をばかり歩いていずに、往々径 に由 って行くことをもしたという事である。抽斎は宋槧 の経子を討 めたばかりでなく、古い「武鑑」や江戸図をも翫 んだ。もし抽斎がわたくしのコンタンポランであったなら、二人の袖 は横町 の溝板 の上で摩 れ合ったはずである。ここにこの人とわたくしとの間に□ みが生ずる。わたくしは抽斎を親愛することが出来るのである。
わたくしはこう思う心の喜ばしさを外崎さんに告げた。そしてこれまで抽斎の何人 なるかを知らずに、漫然抽斎のマニュスクリイの蔵※者 [#「去/廾」、24-15]たる渋江氏の事蹟を訪ね、そこに先ず『経籍訪古志』を著 した渋江道純の名を知り、その道純を識っていた人に由って、道純の子孫の現存していることを聞き、ようよう今日 道純と抽斎とが同人であることを知ったという道行 を語った。
外崎さんも事の奇なるに驚いていった。「抽斎の子なら、わたくしは織っています。」
「そうですか。長唄のお師匠さんだそうですね。」
「いいえ。それは知りません。わたくしの知っているのは抽斎の跡を継いだ子で、保 という人です。」
「はあ。それでは渋江保という人が、抽斎の嗣子 であったのですか。今保さんは何処 に住んでいますか。」
「さあ。大 ぶ久しく逢いませんから、ちょっと住所がわかりかねます。しかし同郷人の中には知っているものがありましょうから、近日聞き合せて上げましょう。」
その七
わたくしは直 に保さんの住所を討 ねることを外崎さんに頼んだ。保という名は、わたくしは始めて聞いたのではない。これより先、弘前から来た書状の中 に、こういうことを報じて来たのがあった。津軽家に仕えた渋江氏の当主は渋江保である。保は広島の師範学校の教員になっているというのであった。わたくしは職員録を検した。しかし渋江保の名は見えない。それから広島高等師範学校長幣原坦 さんに書を遣 って問うた。しかし学校にはこの名の人はいない。またかつていたこともなかったらしい。わたくしは多くの人に渋江保の名を挙げて問うて見た。中には博文館 の発行した書籍に、この名の著者があったという人が二、三あった。しかし広島に踪跡 がなかったので、わたくしはこの報道を疑って追跡を中絶していたのである。
此 に至ってわたくしは抽斎の子が二人 と、孫が一人 と現存していることを知った。子の一人は女子で、本所にいる勝久さんである。今一人は住所の知れぬ保さんである。孫は下渋谷にいる終吉さんである。しかし保さんを識っている外崎さんは、勝久さんをも終吉さんをも識らなかった。
わたくしはなお外崎さんについて、抽斎の事蹟を詳 にしようとした。外崎さんは記憶している二、三の事を語った。渋江氏の祖先は津軽信政 に召し抱えられた。抽斎はその数世 の孫 で、文化 中に生れ、安政 中に歿 した。その徳川家慶 に謁したのは嘉永 中の事である。墓誌銘は友人海保漁村 が撰 んだ。外崎さんはおおよそこれだけの事を語って、追って手近 にある書籍の中から抽斎に関する記事を抄出して贈ろうと約した。わたくしは保さんの所在 を捜すことと、この抜萃 を作ることとを外崎さんに頼んで置いて、諸陵寮の応接所を出た。
外崎さんの書状は間もなく来た。それに『前田文正 筆記』、『津軽日記』、『喫茗雑話 』の三書から、抽斎に関する事蹟を抄出して添えてあった。中にも『喫茗雑話』から抄したものは、漁村の撰んだ抽斎の墓誌の略で、わたくしはその中 に「道純諱 全善、号抽斎、道純其 字 也 」という文のあるのを見出した。後に聞けば全善はかねよしと訓 ませたのだそうである。
これと殆 ど同時に、終吉さんのやや長い書状が来た。終吉さんは風邪 が急に癒 えぬので、わたくしと会見するに先 って、渋江氏に関する数件を書いて送るといって、祖父の墓の所在、現存している親戚交互の関係、家督相続をした叔父 の住所等を報じてくれた。墓は谷中 斎場の向いの横町を西へ入 って、北側の感応寺 にある。そこへ往 けば漁村の撰んだ墓誌銘の全文が見られるわけである。血族関係は杵屋勝久さんが姉で、保さんが弟である。この二人の同胞 の間に脩 という人があって、亡くなって、その子が終吉さんである。然るに勝久さんは長唄の師匠、保さんは著述家、終吉さんは図案を作ることを業とする画家であって、三軒の家は頗 る生計の方向を殊 にしている。そこで早く怙 を失った終吉さんは伯母 をたよって往来 をしていても、勝久さんと保さんとはいつとなく疎遠になって、勝久さんは久しく弟の住所をだに知らずにいたそうである。そのうち丁度わたくしが渋江氏の子孫を捜しはじめた頃、保さんの女 冬子 さんが病死した。それを保さんが姉に報じたので、勝久さんは弟の所在 を知った。終吉さんが住所を告げてくれた叔父というのが即ち保さんである。是 においてわたくしは、外崎さんの捜索を煩 すまでもなく、保さんの今の牛込 船河原町 の住所を知って、直 にそれを外崎さんに告げた。
その八
わたくしは谷中の感応寺に往って、抽斎の墓を訪ねた。墓は容易 く見附けられた。南向の本堂の西側に、西に面して立っている。「抽斎渋江君墓碣銘 」という篆額 も墓誌銘も、皆小島成斎 の書である。漁村の文は頗る長い。後に保さんに聞けば、これでも碑が余り大きくなるのを恐れて、割愛して刪除 したものだそうである。『喫茗雑話 』の載する所は三分の一にも足りない。わたくしはまた後に五弓雪窓 がこの文を『事実文編 』巻 の七十二に収めているのを知った。国書刊行会本を閲 するに、誤脱はないようである。ただ「撰経籍訪古志」に訓点を施して、経籍を撰び、古志を訪 うと訓 ませてあるのに慊 なかった。『経籍訪古志』の書名であることは論ずるまでもなく、あれは多紀□庭 の命じた名だということが、抽斎と森枳園 との作った序に見えており、訪古の字面 は、『宋史 』鄭樵 の伝に、名山 大川 に游 び、奇を捜し古 を訪い、書を蔵する家に遇 えば、必ず借留 し、読み尽して乃 ち去るとあるのに出たということが、枳園の書後に見えておる。
墓誌に三子ありとして、恒善、優善、成善の名が挙げてあり、また「一女平野氏 出 」としてある。恒善はつねよし、優善はやすよし、成善はしげよしで、成善が保さんの事だそうである。また平野氏 の生んだ女 というのは、比良野文蔵 の女 威能 が、抽斎の二人 目の妻 になって生んだ純 である。勝久さんや終吉さんの亡父脩 はこの文に載せてないのである。
抽斎の碑の西に渋江氏の墓が四基ある。その一には「性如院宗是日体信士、庚申 元文 五年閏七月十七日」と、向って右の傍 に彫 ってある。抽斎の高祖父輔之 である。中央に「得寿院量遠日妙信士、天保八酉年十月廿六日」と彫ってある。抽斎の父允成 である。その間と左とに高祖父と父との配偶、夭折 した允成の女 二人 の法諡 が彫ってある。「松峰院妙実日相信女、己丑 明和六年四月廿三日」とあるのは、輔之の妻、「源静院妙境信女、庚戌 寛政二年四月十三日」とあるのは、允成 の初 の妻田中氏 、「寿松院妙遠日量信女、文政十二己丑 六月十四日」とあるのは、抽斎の生母岩田氏 縫 、「妙稟童女、父名允成、母川崎氏、寛政六年甲寅 三月七日、三歳而夭、俗名逸」とあるのも、「曇華 水子 、文化八年辛未 閏 二月十四日」とあるのも、並 に皆允成の女 である。その二には「至善院格誠日在、寛保二年壬戌 七月二日」と一行に彫り、それと並べて「終事院菊晩日栄、嘉永七年甲寅 三月十日」と彫ってある。至善院は抽斎の曾祖父為隣 で、終事院は抽斎が五十歳の時父に先 って死んだ長男恒善 である。その三には五人の法諡が並べて刻してある。「医妙院道意日深信士、天明 四甲辰 二月二十九日」としてあるのは、抽斎の祖父本皓 である。「智照院妙道日修信女、寛政四壬子 八月二十八日」としてあるのは、本皓の妻登勢 である。「性蓮院妙相日縁信女、父本皓、母渋江氏、安永 六年丁酉 五月三日死 、享年十九、俗名千代、作臨終歌曰 」云々 としてあるのは、登勢の生んだ本皓の女 である。抽斎の高祖父輔之は男子がなくて歿したので、十歳になる女 登勢に壻 を取ったのが為隣である。為隣は登勢の人と成らぬうちに歿した。そこへ本皓が養子に来て、登勢の配偶になって、千代を生ませたのである。千代が十九歳で歿したので、渋江氏の血統は一たび絶えた。抽斎の父允成は本皓の養子である。次に某々孩子 と二行に刻してあるのは、並に皆保さんの子だそうである。その四には「渋江脩之墓」と刻してあって、これは石が新しい。終吉さんの父である。
後に聞けば墓は今一基あって、それには抽斎の六世 の祖辰勝 が「寂而院宗貞日岸居士」とし、その妻が「繋縁院妙念日潮大姉」とし、五世の祖辰盛 が「寂照院道陸玄沢日行居士」とし、その妻が「寂光院妙照日修大姉」とし、抽斎の妻比良野氏 が「□照院妙浄日法大姉」とし、同 岡西 氏が「法心院妙樹日昌大姉」としてあったが、その石の折れてしまった迹 に、今の終吉さんの父の墓が建てられたのだそうである。
わたくしは自己の敬愛している抽斎と、その尊卑二属とに、香華 を手向 けて置いて感応寺を出た。
尋 いでわたくしは保さんを訪 おうと思っていると、偶 女 杏奴 が病気になった。日々 官衙 には通 ったが、公退の時には家路を急いだ。それゆえ人を訪問することが出来ぬので、保、終吉の両渋江と外崎との三家へ、度々書状を遣った。
三家からはそれぞれ返信があって、中にも保さんの書状には、抽斎を知るために闕 くべからざる資料があった。それのみではない。終吉さんはその隙 に全快したので、保さんを訪ねてくれた。抽斎の事をわたくしに語ってもらいたいと頼んだのである。叔父 甥はここに十数年を隔てて相見たのだそうである。また外崎さんも一度わたくしに代って保さんをおとずれてくれたので、杏奴の病が癒えて、わたくしが船河原町 へ往 くに先だって、とうとう保さんが官衙に来てくれて、わたくしは抽斎の嗣子と相見ることを得た。
その九
気候は寒くても、まだ炉を焚 く季節に入 らぬので、火の気 のない官衙の一室で、卓を隔てて保さんとわたくしとは対坐した。そして抽斎の事を語って倦 むことを知らなかった。
今残っている勝久さんと保さんとの姉弟 、それから終吉さんの父脩 、この三人の子は一つ腹で、抽斎の四人目の妻、山内 氏五百 の生んだのである。勝久さんは名を陸 という。抽斎が四十三、五百が三十二になった弘化 四年に生れて、大正五年に七十歳になる。抽斎は嘉永四年に本所 へ移ったのだから、勝久さんはまだ神田で生れたのである。
終吉さんの父脩は安改元年に本所で生れた。中 三年置いて四年に、保さんは生れた。抽斎が五十三、五百が四十二の時の事で、勝久さんはもう十一、脩も四歳になっていたのである。
抽斎は安政五年に五十四歳で亡くなったから、保さんはその時まだ二歳であった。幸 に母五百は明治十七年までながらえていて、保さんは二十八歳で恃 を喪 ったのだから、二十六年の久しい間、慈母の口から先考 の平生 を聞くことを得たのである。
抽斎は保さんを学医にしようと思っていたと見える。亡くなる前にした遺言 によれば、経 を海保漁村 に、医を多紀安琢 に、書を小島成斎 に学ばせるようにいってある。それから洋学については、折を見て蘭語 を教えるが好 いといってある。抽斎は友人多紀□庭 などと同じように、頗 るオランダ嫌いであった。学殖の深かった抽斎が、新奇を趁 う世俗と趨舎 を同じくしなかったのは無理もない。劇を好んで俳優を品評した中に市川小団次 の芸を「西洋」だといってある。これは褒 めたのではない。然 るにその抽斎が晩年に至って、洋学の必要を感じて、子に蘭語を教えることを遺言したのは、安積艮斎 にその著述の写本を借りて読んだ時、翻然として悟ったからだそうである。想 うにその著述というのは『洋外紀略 』などであっただろう。保さんは後に蘭語を学ばずに英語を学ぶことになったが、それは時代の変遷のためである。
わたくしは保さんに、抽斎の事を探り始めた因縁を話した。そして意外にも、僅 に二歳であった保さんが、父に「武鑑」を貰 って翫 んだということを聞いた。それは出雲寺板 の「大名 武鑑」で、鹵簿 の道具類に彩色を施したものであったそうである。それのみではない。保さんは父が大きい本箱に「江戸鑑 」と貼札 をして、その中に一ぱい古い「武鑑」を収めていたことを記憶している。このコルレクションは保さんの五、六歳の時まで散佚 せずにいたそうである。「江戸鑑」の箱があったなら、江戸図の箱もあっただろう。わたくしはここに『江戸鑑図目録 』の作られた縁起 を知ることを得たのである。
わたくしは保さんに、父の事に関する記憶を、箇条書 にしてもらうことを頼んだ。保さんは快諾して、同時にこれまで『独立評論』に追憶談を載せているから、それを見せようと約した。
保さんと会見してから間もなく、わたくしは大礼 に参列するために京都へ立った。勤勉家の保さんは、まだわたくしが京都にいるうちに、書きものの出来たことを報じた。わたくしは京都から帰って、直 に保さんを牛込に訪ねて、書きものを受け取り、また『独立評論』をも借りた。ここにわたくしの説く所は主として保さんから獲 た材料に拠るのである。
その十
渋江氏の祖先は下野 の大田原 家の臣であった。抽斎六世の祖を小左衛門 辰勝 という。大田原政継 、政増 の二代に仕えて、正徳 元年七月二日に歿した。辰勝の嫡子重光 は家を継いで、大田原政増、清勝 に仕え、二男勝重 は去って肥前 の大村 家に仕え、三男辰盛 は奥州 の津軽家に仕え、四男勝郷 は兵学者となった。大村には勝重の往 く前に、源頼朝 時代から続いている渋江公業 の後裔 がある。それと下野から往った渋江氏との関係の有無 は、なお講窮すべきである。辰盛が抽斎五世の祖である。
渋江氏の仕えた大田原家というのは、恐らくは下野国那須郡 大田原の城主たる宗家 ではなく、その支封 であろう。宗家は渋江辰勝の仕えたという頃、清信 、扶清 、友清 などの世であったはずである。大田原家は素 一万二千四百石であったのに、寛文五年に備前守政清 が主膳高清 に宗家を襲 がせ、千石を割 いて末家 を立てた。渋江氏はこの支封の家に仕えたのであろう。今手許 に末家の系譜がないから検することが出来ない。
辰盛は通称を他人 といって、後小三郎 と改め、また喜六 と改めた。道陸 は剃髪 してからの称である。医を今大路 侍従道三 玄淵 に学び、元禄十七年三月十二日に江戸で津軽越中守 信政 に召し抱えられて、擬作金 三枚十人扶持を受けた。元禄十七年は宝永 と改元せられた年である。師道三は故土佐守信義 の五女を娶 って、信政の姉壻になっていたのである。辰盛は宝永三年に信政に随 って津軽に往き、四年正月二十八日に知行 二百石になり、宝永七年には二度日、正徳二年には三度目に入国して、正徳二年七月二十八日に禄を加増せられて三百石になり、外に十人扶持を給せられた。この時は信政が宝永七年に卒したので、津軽家は土佐守信寿 の世になっていた。辰盛は享保 十四年九月十九日に致仕して、十七年に歿した。出羽守 信著 の家を嗣 いだ翌年に歿したのである。辰盛の生年は寛文二年だから、年を享 くること七十一歳である。この人は三男で他家に仕えたのに、その父母は宗家から来て奉養を受けていたそうである。
辰盛は兄重光の二男輔之 を下野から迎え、養子として玄瑳 と称 えさせ、これに医学を授けた。即 ち抽斎の高祖父である。輔之は享保十四年九月十九日に家を継いで、直 に三百石を食 み、信寿に仕うること二年余の後、信著に仕え、改称して二世道陸となり、元文五年閏七月十七日に歿した。元禄七年の生 であるから、四十七歳で歿したのである。
輔之には登勢 という女 一人 しかなかった。そこで病 革 なるとき、信濃 の人某 の子を養って嗣 となし、これに登勢を配した。登勢はまだ十歳であったから、名のみの夫婦である。この女壻が為隣 で、抽斎の曾祖父である。為隣は寛保 元年正月十一日に家を継いで、二月十三日に通称の玄春 を二世玄瑳 と改め、翌寛保二年七月二日に歿し、跡には登勢が十二歳の未亡人 として遺 された。
寛保二年に十五歳で、この登勢に入贅 したのは、武蔵国 忍 の人竹内作左衛門 の子で、抽斎の祖父本皓 が即ちこれである。津軽家は越中守信寧 の世になっていた。宝暦 九年に登勢が二十九歳で女 千代 を生んだ。千代は絶えなんとする渋江氏の血統を僅に繋 ぐべき子で、あまつさえ聡慧 なので、父母はこれを一粒種 と称して鍾愛 していると、十九歳になった安永六年の五月三日に、辞世の歌を詠んで死んだ。本皓が五十歳、登勢が四十七歳の時である。本皓には庶子があって、名を令図 といったが、渋江氏を続 ぐには特に学芸に長じた人が欲しいというので、本皓は令図を同藩の医小野道秀 の許 へ養子に遣 って、別に継嗣 を求めた。
この時根津 に茗荷屋 という旅店 があった。その主人稲垣清蔵 は鳥羽 稲垣家の重臣で、君 を諌 めて旨 に忤 い、遁 れて商人となったのである。清蔵に明和元年五月十二日生れの嫡男専之助 というのがあって、六歳にして詩賦 を善くした。本皓がこれを聞いて養子に所望すると、清蔵は子を士籍に復せしむることを願っていたので、快 く許諾した。そこで下野の宗家を仮親 にして、大田原頼母 家来用人 八十石渋江官左衛門 次男という名義で引き取った。専之助名は允成 字 は子礼 、定所 と号し、おる所の室 を容安 といった。通称は初 玄庵 といったが、家督の年の十一月十五日に四世道陸と改めた。儒学は柴野栗山 、医術は依田松純 の門人で、著述には『容安室文稿 』、『定所詩集』、『定所雑録』等がある。これが抽斎の父である。
その十一
允成 は才子で美丈夫 であった。安永七年三月朔 に十五歳で渋江氏に養われて、当時儲君 であった、二つの年上の出羽守信明 に愛せられた。養父本皓 の五十八歳で亡くなったのが、天明四年二月二十九日で、信明の襲封 と同日である。信明はもう土佐守と称していた。主君が二十三歳、允成が二十一歳である。
寛政三年六月二十二日に信明は僅に三十歳で卒し、八月二十八日に和三郎 寧親 が支封から入 って宗家を継いだ。後に越中守と称した人である。寧親は時に二十七歳で、允成は一つ上の二十八歳である。允成は寧親にも親昵 して、殆 ど兄弟 の如くに遇せられた。平生 着丈 四尺の衣 を著 て、体重が二十貫目あったというから、その堂々たる相貌 が思い遣られる。
当時津軽家に静江 という女小姓 が勤めていた。それが年老いての後に剃髪して妙了尼 と号した。妙了尼が渋江家に寄寓 していた頃、可笑 しい話をした。それは允成が公退した跡になると、女中たちが争ってその茶碗 の底の余瀝 を指に承 けて舐 るので、自分も舐ったというのである。
しかし允成は謹厳な人で、女色 などは顧みなかった。最初の妻田中氏は寛政元年八月二十二日に娶 ったが、これには子がなくて、翌年四月十三日に亡くなった。次に寛政三年六月四日に、寄合 戸田政五郎 家来納戸役 金七両十二人扶持川崎丈助 の女 を迎えたが、これは四年二月に逸 という女 を生んで、逸が三歳で夭折 した翌年、七年二月十九日に離別せられた。最後に七年四月二十六日に允成の納 れた室 は、下総国 佐倉 の城主堀田 相模守 正順 の臣、岩田忠次 の妹縫 で、これが抽斎の母である。結婚した時允成が三十二歳、縫が二十一歳である。
縫は享和二年に始めて須磨 という女 を生んだ。これは後文政二牛に十八歳で、留守居 年寄 佐野 豊前守 政親 組飯田四郎左衛門 良清 に嫁し、九年に二十五歳で死んだ。次いで文化二年十一月八日に生れたのが抽斎である。允成四十二歳、縫三十一歳の時の子である。これから後 には文化八年閏 二月十四日に女 が生れたが、これは名を命ずるに及ばずして亡くなった。感応寺 の墓に曇華 水子 と刻してあるのがこの女 の法諡 である。
允成 は寧親の侍医で、津軽藩邸に催される月並 講釈の教官を兼ね、経学 と医学とを藩の子弟に授けていた。三百石十人扶持の世禄 の外に、寛政十二年から勤料 五人扶持を給せられ、文化四年に更に五人扶持を加え、八年にまた五人扶持を加えられて、とうとう三百石と二十五人扶持を受けることとなった。中 二年置いて文化十一年に一粒金丹 を調製することを許された。これは世に聞えた津軽家の秘方で、毎月 百両以上の所得になったのである。
允成は表向 侍医たり教官たるのみであったが、寧親の信任を蒙 ることが厚かったので、人の敢 て言わざる事をも言うようになっていて、数 諫 めて数 聴 かれた。寧親は文化元年五月連年蝦夷地 の防備に任じたという廉 を以て、四万八千石から一躍して七万石にせられた。いわゆる津軽家の御乗出 がこれである。五年十二月には南部 家と共に永く東西蝦夷地を警衛することを命ぜられて、十万石に進み、従 四位下 に叙せられた。この津軽家の政務発展の時に当って、允成が啓沃 の功も少くなかったらしい。
允成は文政五年八月朔 に、五十九歳で致仕した。抽斎が十八歳の時である。次いで寧親も八年四月に退隠して、詩歌俳諧 を銷遣 の具とし、歌会には成島司直 などを召し、詩会には允成を召すことになっていた。允成は天保 二年六月からは、出羽国亀田 の城主岩城 伊予守 隆喜 に嫁した信順 の姉もと姫に伺候し、同年八月からはまた信順の室欽姫附 を兼ねた。八月十五日に隠居料三人扶持を給せられることになったのは、これらのためであろう。中一年置いて四年四月朔に、隠居料二人扶持を増して、五人扶持にせられた。
允成は天保八年[#「八年」は底本では「八月」]十月二十六日に、七十四歳で歿した。寧親は四年前の天保四年六月十四日に、六十九歳で卒した。允成の妻縫 は、文政七年七月朔に剃髪して寿松 といい、十二年六月十四日に五十五歳で亡くなった。夫に先 つこと八年である。
その十二
抽斎は文化二年十一月八日に、神田弁慶橋に生れたと保 さんがいう。これは母五百 の話を記憶しているのであろう。父允成 は四十二歳、母縫 は三十一歳の時である。その生れた家はどの辺であるか。弁慶橋というのは橋の名ではなくて町名である。当時の江戸分間大絵図 というものを閲 するに、和泉橋 と新橋 との間の柳原通 の少し南に寄って、西から東へ、お玉 が池 、松枝町 、弁慶橋、元柳原町 、佐久間町 、四間町 、大和町 、豊島町 という順序に、町名が注してある。そして和泉橋を南へ渡って、少し東へ偏 って行く通が、東側は弁慶橋、西側は松枝町になっている。この通の東隣 の筋は、東側が元柳原町、西側が弁慶橋になっている。わたくしが富士川游 さんに借りた津軽家の医官の宿直日記によるに、允成 は天明六年八月十九日に豊島町通 横町 鎌倉 横町家主 伊右衛門店 を借りた。この鎌倉横町というのは、前いった図を見るに、元柳原町と佐久間町との間で、北 の方 河岸 に寄った所にある。允成がこの店 を借りたのは、その年正月二十二日に従来住んでいた家が焼けたので、暫 く多紀桂山 の許 に寄宿していて、八月に至って移転したのである。その従来住んでいた家も、余り隔たっていぬ和泉橋附近であったことは、日記の文から推することが出来る。次に文政八年三月晦 に、抽斎の元柳原六丁目の家が過半類焼したということが、日記に見えている。元柳原町は弁慶橋と同じ筋で、ただ東西両側 が名を異にしているに過ぎない。想 うに渋江氏 は久しく和泉橋附近に住んでいて、天明に借りた鎌倉横町から、文政八年に至るまでの間に元柳原町に移ったのであろう。この元柳原町六丁目の家は、拍斎の生れた弁慶橋の家と同じであるかも知れぬが、あるいは抽斎の生れた文化二年に西側の弁慶橋にいて、その後文政八年に至るまでの間に、向側 の元柳原町に移ったものと考えられぬでもない。
抽斎は小字 を恒吉 といった。故越中守信寧 の夫人真寿院 がこの子を愛して、当歳の時から五歳になった頃まで、殆 ど日ごとに召し寄せて、傍 で嬉戯 するのを見て楽 んだそうである。美丈夫允成に肖 た可憐児 であったものと想われる。
志摩 の稲垣氏の家世 は今詳 にすることが出来ない。しかし抽斎の祖父清蔵も恐らくは相貌 の立派な人で、それが父允成を経由して抽斎に遺伝したものであろう。この身的遺伝と並行して、心的遺伝が存じていなくてはならない。わたくしはここに清蔵が主を諫めて去った人だという事実に注目する。次に後 允成になった神童専之助を出 す清蔵の家庭が、尋常の家庭でないという推測を顧慮する。彼は意志の方面、此 は智能 の方面で、この両方面における遺伝的系統を繹 ぬるに、抽斎の前途は有望であったといっても好 かろう。
さてその抽斎が生れて来た境界 はどうであるか。允成の庭 の訓 が信頼するに足るものであったことは、言を須 たぬであろう。オロスコピイは人の生れた時の星象 を観測する。わたくしは当時の社会にどういう人物がいたかと問うて、ここに学問芸術界の列宿 を数えて見たい。しかし観察が徒 に汎 きに失せぬために、わたくしは他年抽斎が直接に交通すべき人物に限って観察することとしたい。即ち抽斎の師となり、また年上の友となる人物である。抽斎から見ての大己 である。
抽斎の経学の師には、先ず市野迷庵 がある。次は狩谷□斎 である。医学の師には伊沢蘭軒 がある。次は抽斎が特に痘科を学んだ池田京水 である。それから抽斎が交 った年長者は随分多い。儒者または国学者には安積艮斎 、小島成斎 、岡本况斎 、海保漁村 、医家には多紀 の本末 両家、就中 □庭 、伊沢蘭軒の長子榛軒 がいる。それから芸術家及 芸術批評家に谷文晁 、長島五郎作 、石塚重兵衛 がいる。これらの人は皆社会の諸方面にいて、抽斎の世に出 づるを待ち受けていたようなものである。
その十三
他年抽斎の師たり、年長の友たるべき人々の中 には、現に普 く世に知れわたっているものが少くない。それゆえわたくしはここに一々その伝記を挿 もうとは思わない。ただ抽斎の誕生を語るに当って、これをしてその天職を尽さしむるに与 って力ある長者のルヴュウをして見たいというに過ぎない。
市野迷庵、名を光彦 、字を俊卿 また子邦 といい、初め□窓 、後迷庵と号した。その他酔堂 、不忍池漁 等の別号がある。抽斎の父允成が酔堂説 を作ったのが、『容安室文稿 』に出ている。通称は三右衛門 である。六世 の祖重光 が伊勢国白子 から江戸に出て、神田佐久間町に質店 を開き、屋号を三河屋 といった。当時の店は弁慶橋であった。迷庵の父光紀 が、香月氏 を娶 って迷庵を生せたのは明和二年二月十日であるから、抽斎の生れた時、迷庵はもう四十一歳になっていた。
迷庵は考証学者である。即ち経籍の古版本 、古抄本を捜 り討 めて、そのテクストを閲 し、比較考勘する学派、クリチックをする学派である。この学は源を水戸 の吉田篁□ に発し、□斎がその後 を承 けて発展させた。篁□は抽斎の生れる七年前に歿している。迷庵が□斎らと共に研究した果実が、後に至って成熟して抽斎らの『訪古志 』となったのである。この人が晩年に『老子 』を好んだので、抽斎も同嗜 の人となった。
狩谷□斎、名は望之 、字 は卿雲 、□斎はその号である。通称を三右衛門 という。家は湯島 にあった。今の一丁目である。□斎の家は津軽の用達 で、津軽屋と称し、□斎は津軽家の禄千石を食 み、目見諸士 の末席 に列せられていた。先祖は参河国 苅屋 の人で、江戸に移ってから狩谷氏を称した。しかし□斎は狩谷保古 の代にこの家に養子に来たもので、実父は高橋高敏 、母は佐藤氏である。安永四年の生 で、抽斎の母縫 と同年であったらしい。果してそうなら、抽斎の生れた時は三十一歳で、迷庵よりは十 少 かったのだろう。抽斎の□斎に師事したのは二十余歳の時だというから、恐らくは迷庵を喪 って□斎に適 いたのであろう。迷庵の六十二歳で亡くなった文政九年八月十四日は、抽斎が二十二歳、□斎が五十二歳になっていた年である。迷庵も□斎も古書を集めたが、□斎は古銭をも集めた。漢代 の五物 を蔵して六漢道人 と号したので、人が一物 足らぬではないかと詰 った時、今一つは漢学だと答えたという話がある。抽斎も古書や「古武鑑」を蔵していたばかりでなく、やはり古銭癖 があったそうである。
迷庵と□斎とは、年歯 を以 て論ずれば、彼が兄、此 が弟であるが、考証学の学統から見ると、□斎が先で、迷庵が後 である。そしてこの二人の通称がどちらも三右衛門であった。世にこれを文政の六右衛門と称する。抽斎は六右衛門のどちらにも師事したわけである。
六右衛門の称は頗 る妙である。然 るに世の人は更に一人 の三右衛門を加えて、三三右衛門などともいう。この今一人の三右衛門は喜多氏 、名は慎言 、字は有和 、梅園 また静廬 と号し、居 る所を四当書屋 と名づけた。その氏の喜多を修して北 慎言とも署した。新橋 金春 屋敷に住んだ屋根葺 で、屋根屋三右衛門が通称である。本 は芝 の料理店鈴木 の倅 定次郎 で、屋根屋へは養子に来た。少 い時狂歌を作って網破損針金 といっていたのが、後博渉 を以て聞えた。嘉永元年三月二十五日に、八十三歳で亡くなったというから、抽斎の生れた時には、その師となるべき迷庵と同じく四十一歳になっていたはずである。この三右衛門が殆ど毎日往来した小山田与清 の『擁書楼 日記』を見れば、文化十二年に五十一歳だとしてあるから、この推算は誤っていないつもりである。しかしこの人を迷庵□斎と併 せ論ずるのは、少しく西人 のいわゆる髪を握 んで引き寄せた趣がある。屋根屋三右衛門と抽斎との間には、交際がなかったらしい。
その十四
後に抽斎に医学を授ける人は伊沢蘭軒である。名は信恬 、通称は辞安 という。伊沢氏 の宗家 は筑前国 福岡 の城主黒田家 の臣であるが、蘭軒はその分家で、備後国 福山の城主阿部伊勢守 正倫 の臣である。文政十二年三月十七日に歿して、享年五十三であったというから、抽斎の生れた時二十九歳で、本郷 真砂町 に住んでいた。阿部家は既に備中守 正精 の世になっていた。蘭軒が本郷丸山の阿部家の中屋敷に移ったのは後の事である。
阿部家は尋 で文政九年八月に代替 となって、伊予守正寧 が封 を襲 いだから、蘭軒は正寧の世になった後 、足掛 四年阿部家の館 に出入 した。その頃抽斎の四人目の妻五百 の姉が、正寧の室 鍋島氏 の女小姓を勤めて金吾 と呼ばれていた。この金吾の話に、蘭軒は蹇 であったので、館内 で輦 に乗ることを許されていた。さて輦から降りて、匍匐 して君側 に進むと、阿部家の奥女中が目を見合せて笑った。或日 正寧が偶 この事を聞き知って、「辞安は足はなくても、腹が二人前 あるぞ」といって、女中を戒めさせたということである。
次は抽斎の痘科 の師となるべき人である。池田氏、名は※ [#「大/淵」、48-5]、字 は河澄 、通称は瑞英 、京水 と号した。
原来 疱瘡 を治療する法は、久しく我国には行われずにいた。病が少しく重くなると、尋常の医家は手を束 ねて傍看 した。そこへ承応 二年に戴曼公 が支那から渡って来て、不治の病を治 し始めた。□廷賢 を宗 とする治法を施したのである。曼公、名は笠 、杭州 仁和県 の人で、曼公とはその字 である。明 の万暦 二十四年の生 であるから、長崎に来た時は五十八歳であった。曼公が周防国 岩国 に足を留めていた時、池田嵩山 というものが治痘の法を受けた。嵩山は吉川 家の医官で、名を正直 という。先祖 は蒲冠者 範頼 から出て、世々 出雲 におり、生田 氏を称した。正直の数世 の祖信重 が出雲から岩国に遷 って、始 て池田氏に更 めたのである。正直の子が信之 、信之の養子が正明 で、皆曼公の遺法を伝えていた。
然るに寛保二年に正明が病んでまさに歿せんとする時、その子独美 は僅 に九歳であった。正明は法を弟槙本坊詮応 に伝えて置いて瞑 した。そのうち独美は人と成って、詮応に学んで父祖の法を得た。宝暦十二年独美は母を奉じて安芸国 厳島 に遷った。厳島に疱瘡が盛 に流行したからである。安永二年に母が亡くなって、六年に独美は大阪に往 き、西堀江 隆平橋 の畔 に住んだ。この時独美は四十四歳であった。
独美は寛政四年に京都に出て、東洞院 に住んだ。この時五十九歳であった。八年に徳川家斉 に辟 されて、九年に江戸に入 り、駿河台 に住んだ。この年三月独美は躋寿館 で痘科を講ずることになって、二百俵を給せられた。六十四歳の時の事である。躋寿館には独美のために始て痘科の講座が置かれたのである。
抽斎の生れた文化二年には、独美がまだ生存して、駿河台に住んでいたはずである。年は七十二歳であった。独美は文化十三年九月六日に八十三歳で歿した。遺骸 は向島 小梅村 の嶺松寺 に葬られた。
独美、字は善卿 、通称は瑞仙 、錦橋 また蟾翁 と号した。その蟾翁と号したには面白い話がある。独美は或時大きい蝦蟇 を夢に見た。それから『抱朴子 』を読んで、その夢を祥瑞 だと思って、蝦蟇の画 をかき、蝦蟇の彫刻をして人に贈った。これが蟾翁の号の由来である。
その十五
池田独美には前後三人の妻があった。安永八年に歿した妙仙 、寛政二年に歿した寿慶 、それから嘉永元年まで生存していた芳松院 緑峰 である。緑峰は菱谷氏 、佐井 氏に養われて独美に嫁したのが、独美の京都にいた時の事である。三人とも子はなかったらしい。
独美が厳島から大阪に遷 った頃妾 があって、一男二女を生んだ。男 は名を善直 といったが、多病で業を継ぐことが出来なかったそうである。二女は長 を智秀 と諡 した。寛政二年に歿している。次は知瑞 と諡した。寛政九年に夭折している。この外に今一人独美の子があって、鹿児島に住んで、その子孫が現存しているらしいが、この家の事はまだこれを審 にすることが出来ない。
独美の家は門人の一人が養子になって嗣 いで、二世瑞仙と称した。これは上野国 桐生 の人村岡善左衛門 常信 の二男である。名は晋 、字 は柔行 、また直卿 、霧渓 と号した。躋寿館 の講座をもこの人が継承した。
初め独美は曼公 の遺法を尊重する余 に、これを一子相伝に止 め、他人に授くることを拒んだ。然るに大阪にいた時、人が諫 めていうには、一人 の能 く救う所には限 がある、良法があるのにこれを秘して伝えぬのは不仁であるといった。そこで独美は始て誓紙に血判をさせて弟子を取った。それから門人が次第に殖 えて、歿するまでには五百人を踰 えた。二世瑞仙はその中から簡抜せられて螟蛉子 となったのである。
独美の初代瑞仙は素 源家 の名閥だとはいうが、周防 の岩国から起って幕臣になり、駿河台の池田氏の宗家となった。それに業を継ぐべき子がなかったので、門下の俊才が入 って後 を襲った。遽 に見れば、なんの怪 むべき所もない。
しかしここに問題の人物がある。それは抽斎の痘科の師となるべき池田京水 である。
京水は独美の子であったか、甥 であったか不明である。向島嶺松寺に立っていた墓に刻してあった誌銘には子としてあったらしい。然るに二世瑞仙晋 の子直温 の撰んだ過去帖 には、独美の弟玄俊 の子だとしてある。子にもせよ甥にもせよ、独美の血族たる京水は宗家を嗣 ぐことが出来ないで、自立して町医 になり、下谷 徒士町 に門戸 を張った。当時江戸には駿河台の官医二世瑞仙と、徒士町の町医京水とが両立していたのである。
種痘の術が普及して以来、世の人は疱瘡を恐るることを忘れている。しかし昔は人のこの病を恐るること、癆 を恐れ、癌 を恐れ、癩 を恐るるよりも甚だしく、その流行の盛 なるに当っては、社会は一種のパニックに襲われた。池田氏の治法が徳川政府からも全国の人民からも歓迎せられたのは当然の事である。そこで抽斎も、一般医学を蘭軒に受けた後 、特に痘科を京水に学ぶことになった。丁度近時の医が細菌学や原虫学や生物化学を特修すると同じ事である。
池田氏の曼公に受けた治痘法はどんなものであったか。従来痘は胎毒だとか、穢血 だとか、後天 の食毒 だとかいって、諸家は各 その見る所に従って、諸証を攻むるに一様の方を以てしたのに、池田氏は痘を一種の異毒異気だとして、いわゆる八証四節三項を分ち、偏僻 の治法を斥 けた。即ち対症療法の完全ならんことを期したのである。
その十六
わたくしは抽斎の師となるべき人物を数えて京水 に及ぶに当って、ここに京水の身上 に関する疑 を記 して、世の人の教 を受けたい。
わたくしは今これを筆に上 するに至るまでには、文書を捜り寺院を訪 い、また幾多の先輩知友を煩 わして解決を求めた。しかしそれは概 ね皆徒事 であった。就中 憾 とすべきは京水の墓の失踪 した事である。
最初にわたくしに京水の墓の事を語ったのは保 さんである。保さんは幼い時京水の墓に詣 でたことがある。しかし寺の名は記憶していない。ただ向島であったというだけである。そのうちわたくしは富士川游 さんに種々の事を問いに遣 った。富士川さんがこれに答えた中に、京水の墓は常泉寺の傍 にあるという事があった。
わたくしは幼い時向島 小梅村に住んでいた。初 の家は今須崎町 になり、後 の家は今小梅町になっている。その後 の家から土手へ往 くには、いつも常泉寺の裏から水戸邸 の北のはずれに出た。常泉寺はなじみのある寺である。
わたくしは常泉寺に往った。今は新小梅町の内になっている。枕橋 を北へ渡って、徳川家の邸の南側を行くと、同じ側に常泉寺の大きい門がある。わたくしは本堂の周囲にある墓をも、境内の末寺 の庭にある墓をも一つ一つ検した。日蓮宗 の事だから、江戸の市人 の墓が多い。知名の学者では、朝川善庵 の一家 の墓が、本堂の西にあるだけである。本堂の東南にある末寺に、池田氏の墓が一基あったが、これは例の市人らしく、しかも無縁同様のものと見えた。
そこで寺僧に請うて過去帖を見たが、帖は近頃作ったもので、いろは順に檀家 の氏 が列記してある。いの部には池田氏がない。末寺の墓地にある池田氏の墓は果して無縁であった。
わたくしは空 しく還 って、先ず郷人 宮崎幸麿 さんを介して、東京 の墓の事に精 しい武田信賢 さんに問うてもらったが、武田さんは知らなかった。
そのうちわたくしは『事実文編』四十五に霧渓 の撰んだ池田氏 行状のあるのを見出した。これは養父初代瑞仙の行状で、その墓が向島嶺松寺にあることを記 してある。素 嶺松寺には戴曼公 の表石 があって、瑞仙はその側 に葬られたというのである。向島にいたわたくしも嶺松寺という寺は知らなかった。しかし既に初代瑞仙が嶺松寺に葬られたなら、京水もあるいはそこに葬られたのではあるまいかと推量した。
わたくしは再び向島へ往った。そして新小梅町、小梅町、須崎町の間を徘徊 して捜索したが、嶺松寺という寺はない。わたくしは絶望して踵 を旋 したが、道のついでなので、須崎町弘福寺 にある先考の墓に詣でた。さて住職奥田墨汁 師を訪 って久闊 を叙 した。対談の間に、わたくしが嶺松寺と池田氏の墓との事を語ると、墨汁師は意外にも両 つながらこれを知っていた。
墨汁師はいった。嶺松寺は常泉寺の近傍にあった。その畛域 内に池田氏の墓が数基並んで立っていたことを記憶している。墓には多く誌銘が刻してあった。然るに近い頃に嶺松寺は廃寺になったというのである。わたくしはこれを聞いて、先ず池田氏の墓を目撃した人を二人 まで獲 たのを喜んだ。即ち保さんと墨汁師とである。
「廃寺になるときは、墓はどうなるものですか」と、わたくしは問うた。
「墓は檀家がそれぞれ引き取って、外の寺へ持って行きます。」
「檀家がなかったらどうなりますか。」
「無縁の墓は共同墓地へ遷 す例になっています。」
「すると池田家の墓は共同墓地へ遣られたかも知れませんな。池田家の後 は今どうなっているかわかりませんか。」こういってわたくしは憮然 とした。
その十七
わたくしは墨汁師にいった。池田瑞仙の一族は当年の名医である。その墓の行方 は探討したいものである。それに戴曼公 の表石というものも、もし存していたら、名蹟の一に算すべきものであろう。嶺松寺にあった無縁の墓は、どこの共同墓地へ遷 されたか知らぬが、もしそれがわかったなら、尋ねに往 きたいものであるといった。
墨汁師も首肯していった。戴氏独立 の表石の事は始 て聞いた。池田氏の上のみではない。自分も黄檗 の衣鉢 を伝えた身であって見れば、独立の遺蹟の存滅を意に介せずにはいられない。想うに独立は寛文中九州から師隠元 を黄檗山に省 しに上 る途中で寂 したらしいから、江戸には墓はなかっただろう。嶺松寺の表石とはどんな物であったか知らぬが、あるいは牙髪塔 の類 ででもあったか。それはともかくも、その石の行方も知りたい。心当りの向々 へ問い合せて見ようといった。
わたくしの再度の向島探討は大正四年の暮であったので、そのうちに五年の初 になった。墨汁師の新年の書信に問合せの結果が記 してあったが、それは頗 る覚束 ない口吻 であった。嶺松寺の廃せられた時、その事に与 った寺々に問うたが、池田氏の墓には檀家がなかったらしい。当時無縁の墓を遷した所は、染井 共同墓地であった。独立の表石というものは誰 も知らないというのである。
これでは捜索の前途には、殆ど毫 しの光明をも認めることが出来ない。しかしわたくしは念晴 しのために、染井へ尋ねに往 った。そして墓地の世話をしているという家を訪うた。
墓にまいる人に樒 や綫香 を売り、また足を休めさせて茶をも飲ませる家で、三十ばかりの怜悧 そうなお上 さんがいた。わたくしはこの女の口から絶望の答を聞いた。共同墓地と名にはいうが、その地面には井然 たる区画があって、毎区に所有主がある。それが墓の檀家である。そして現在の檀家の中 には池田という家はない。池田という檀家がないから、池田という人の墓のありようがないというのである。
「それでも新聞に、行倒 れがあったのを共同墓地に埋めたということがあるではありませんか。そうして見れば檀家のない仏の往 く所があるはずです。わたくしの尋ねるのは、行倒れではないが、前に埋めてあった寺が取払 になって、こっちへ持って来られた仏です。そういう時、石塔があれば石塔も運んで来るでしょう。それをわたくしは尋ねるのです。」こういってわたくしは女の毎区有主説に反駁 を試みた。
「ええ、それは行倒れを埋める所も一カ所ございます。ですけれど行倒れに石塔を建てて遣 る人はございません。それにお寺から石塔を運んで来たということは、聞いたこともございません。つまりそんな所には石塔なんぞは一つもないのでございます。」
「でもわたくしは切角 尋ねに来たものですから、そこへ往って見ましょう。」
「およしなさいまし。石塔のないことはわたくしがお受合 申しますから。」こういって女は笑った。
わたくしもげにもと思ったので、墓地には足を容 れずに引き返した。
女の言 には疑うべき余地はない。しかしわたくしは責任ある人の口から、同じ事をでも、今一度聞きたいような気がした。そこで帰途に町役場に立ち寄って問うた。町役場の人は、墓地の事は扱わぬから、本郷区役所へ往けといった。
町役場を出た時、もう冬の日が暮れ掛かっていた。そこでわたくしは思い直した。廃寺になった嶺松寺から染井共同墓地へ墓石の来なかったことは明白である。それを区役所に問うのは余りに痴 であろう。むしろ行政上無縁の墓の取締 があるか、もしあるなら、どう取り締まることになっているかということを問うに若 くはない。その上今から区役所に往った所で、当直の人に墓地の事を問うのは甲斐 のない事であろう。わたくしはこう考えて家に還 った。
その十八
わたくしは人に問うて、墓地を管轄するのが東京府庁で、墓所の移転を監視するのが警視庁だということを知った。そこで友人に託して、府庁では嶺松寺の廃絶に関してどれだけの事が知り得られるか、また警視庁は墓所の移転をどの位の程度に監視することになっているかということを問うてもらった。
府庁には明治十八年に作られた墓地の台帳ともいうべきものがある。しかし一応それを検した所では、嶺松寺という寺は載せてないらしかった。その廃絶に関しては、何事をも知ることが出来ぬのである。警視庁は廃寺等のために墓碣 を搬出するときには警官を立ち会わせる。しかしそれは有縁 のものに限るので、無縁のものはどこの共同墓地に改葬したということを届け出 でさせるに止 まるそうである。
そうして見れば、嶺松寺の廃せられた時、境内の無縁の墓が染井共同墓地に遷 されたというのは、遷したという一紙の届書 が官庁に呈せられたに過ぎぬかも知れない。所詮 今になって戴曼公 の表石や池田氏の墓碣の踪迹 を発見することは出来ぬであろう。わたくしは念を捜索に絶つより外あるまい。
とかくするうちに、わたくしが池田京水 の墓を捜し求めているということ、池田氏の墓のあった嶺松寺が廃絶したということなどが『東京朝日新聞』の雑報に出た。これはわたくしが先輩知友に書を寄せて問うたのを聞き知ったものであろう。雑報の掲げられた日の夕方、無名の人がわたくしに電話を掛けていった。自分はかつて府庁にいたものである。その頃無税地反別帳 という帳簿があった。もしそれがなお存しているなら、嶺松寺の事が載せてあるかも知れないというのである。わたくしは無名の人の言 に従って、人に託して府庁に質 してもらったが、そういう帳簿はないそうであった。
この事件に関してわたくしの往訪した人、書を寄せて教を乞 うた人は頗 る多い。初 にはわたくしは墓誌を読まんがために、墓の所在を問うたが、後にはせめて京水の歿した年齢だけなりとも知ろうとした。わたくしは抽斎の生れた年に、市野迷庵 が何歳、狩谷□斎 が何歳、伊沢蘭軒 が何歳ということを推算したと同じく、京水の年齢をも推算して見たく、もしまた数字を以て示すことが出来ぬなら、少くもアプロクシマチイフにそれを忖度 して見たかったのである。
諸家の中 でも、戸川残花 さんはわたくしのために武田信賢 さんに問うたり、南葵 文庫所蔵の書籍を検したりしてくれ、呉秀三 さんは医史の資料について捜索してくれ、大槻文彦 さんは如電 さんに問うてくれ、如電さんは向島へまで墓を探りに往ってくれた。如電さんの事は墨汁師の書状によって知ったが、恐らくは郷土史の嗜好 あるがために、踏査の労をさえ厭 わなかったのであろう。ただ憾 むらくもわたくしは徒 にこれらの諸家を煩わしたに過ぎなかった。
これに反してわたくしが多少積極的に得る所のあったのは、富士川游さんと墨汁師とのお蔭 である。わたくしは数度書状の往復をした末に、或日富士川さんの家を訪 うた。そしてこういうことを聞いた。富士川さんは昔年 日本医学史の資料を得ようとして、池田氏の墓に詣 でた。医学史の記載中脚註に墓誌と書してあるのは、当時墓について親しく抄記したものだというのである。惜 むらくは富士川さんは墓誌銘の全文を写して置かなかった。また嶺松寺という寺号をも忘れていた。それゆえわたくしに答えた書に常泉寺の傍 と記 したのである。是 においてかつて親しく嶺松寺中 の碑碣 を睹 た人が三人になった。保さんと游さんと墨汁師とである。そして游さんは湮滅 の期に薄 っていた墓誌銘の幾句を、図らずも救抜してくれたのである。
その十九
弘福寺 の現住墨汁師は大正五年に入 ってからも、捜索の手を停 めずにいた。そしてとうとう下目黒 村海福寺 所蔵の池田氏過去帖 というものを借り出して、わたくしに見せてくれた。帖は表紙を除いて十五枚のものである。表紙には生田氏 中興池田氏過去帖慶応紀元季秋の十七字が四行に書してある。跋文 を読むに、この書は二世瑞仙晋 の子直温 、字 は子徳 が、慶応元年九月六日に、初代瑞仙独美の五十年忌辰 に丁 って、新 に歴代の位牌 を作り、併 せてこれを纂記 して、嶺松寺に納めたもので、直温の自筆である。
この書には池田氏の一族百八人の男女を列記してあるが、その墓所はあるいは注してあり、あるいは注してない。分明 に嶺松寺に葬る、または嶺寺に葬ると注してあるのは初代瑞仙、その妻佐井氏 、二代瑞仙、その二男洪之助 、二代瑞仙の兄信一 の五人に過ぎない。しかし既に京水 の墓が同じ寺にあったとすると、徒士町 の池田氏の人々の墓もこの寺にあっただろう。要するに嶺松寺にあったという確証のある墓は、この書に注してある駿河台 の池田氏の墓五基と、京水の墓とで、合計六基である。
この書の記 する所は、わたくしのために創聞 に属するものが頗 る多い。就中 異 とすべきは、独美に玄俊 という弟があって、それが宇野氏を娶 って、二人の間に出来た子が京水だという一事 である。この書に拠 れば、独美は一旦 姪 京水を養って子として置きながら、それに家を嗣 がせず、更に門人村岡晋 を養って子とし、それに業を継がせたことになる。
然るに富士川さんの抄した墓誌には、京水は独美の子で廃せられたと書してあったらしい。しかもその廃せられた所以 を書して放縦不覊 にして人に容 れられず、遂 に多病を以て廃せらるといってあったらしい。
両説は必ずしも矛盾してはいない。独美は弟玄俊の子京水を養って子とした。京水が放蕩 であった。そこで京水を離縁して門人晋を養子に入れたとすれば、その説通ぜずというでもない。
しかし京水が後 能 く自ら樹立して、その文章事業が晋に比して毫 も遜色 のないのを見るに、この人の凡庸でなかったことは、推測するに難 くない。著述の考うべきものにも、『痘科挙要 』二巻、『痘科鍵会通 』一巻、『痘科鍵私衡 』五巻、抽斎をして筆授せしめた『護痘要法 』一巻がある。養父独美が視 ること尋常蕩子 の如くにして、これを逐 うことを惜 まなかったのは、恩少きに過ぐというものではあるまいか。
かつわたくしは京水の墓誌が何人 の撰文 に係るかを知らない。しかし京水が果して独美の姪 であったなら、縦 い独美が一時養って子となしたにもせよ、直 に瑞仙の子なりと書したのはいかがのものであろうか。富士川さんの如きも、『日本医学史』に、墓誌に拠って瑞仙の子なりと書しているのである。また放縦だとか廃嗣だとかいうことも、此 の如くに書したのが、墓誌として体 を得たものであろうか。わたくしは大いにこれを疑うのである。そして墓誌の全文を見ることを得ず、その撰者を審 にすることを得ざるのを憾 とする。
わたくしは独 撰者不詳の京水墓誌を疑うのみではない。また二世瑞仙晋の撰んだ池田氏 行状をも疑わざることを得ない。文は載せて『事実文編』四十五にある。
行状に拠るに、初代瑞仙独美は享保二十年乙卯 五月二十二日に生れ、文化十三年丙子 九月六日に歿した。然るに安永六年丁酉 に四十、寛政四年壬子 に五十五、同九年丁巳 に六十四、歿年に八十三と書してある。これは生年から順算すれば、四十三、五十八、六十三、八十二でなくてはならない。齢 を記 するごとに、殆 ど必ず差 っているのは何故 であろうか。因 にいうが過去帖にもまた齢八十三としてある。そこでわたくしはこの八十三より逆算することにした。
その二十
晋 の撰んだ池田氏行状には、初代瑞仙の庶子善直 というものを挙げて、「多病不能継業 」と書してある。その前に初代瑞仙が病中晋に告げた語を記して、八十四言 の多きに及んである。瑞仙は痘を治 することの難きを説いて、「数百之弟子 、無能熟得之者 」といい、晋を賞して、「而汝能継我業 」といっている。
わたくしはいまだ過去帖を獲ざる前にこれを読んで、善直は京水の初 の名であろうと思った。京水の墓誌に多病を以て嗣 を廃せらるというように書してあったというのと、符節は合 するようだからである。過去帖に従えば、庶子善直と姪 京水とは別人でなくてはならない。しかし善直と京水とが同人ではあるまいか、京水が玄俊の子でなくて、初代瑞仙の子ではあるまいかという疑 が、今に迄 るまでいまだ全くわたくしの懐 を去らない。特に彼 過去帖に遠近の親戚 百八人が挙げてあるのに、初代瑞仙のただ一人の実子善直というものが痕跡 をだに留 めずに消滅しているという一事は、この疑を助長する媒 となるのである。
そしてわたくしは撰者不詳の墓誌の残欠に、京水が刺 ってあるのを見ては、忌憚 なきの甚だしきだと感じ、晋が養父の賞美の語を記 して、一の抑損の句をも著 けぬのを見ては、簡傲 もまた甚だしいと感ずることを禁じ得ない。わたくしには初代瑞仙独美、二世瑞仙晋、京水の三人の間に或るドラアムが蔵せられているように思われてならない。わたくしの世の人に教を乞いたいというのはこれである。
わたくしは抽斎の誕生を語るに当って、後 にその師となるべき人々を数えた。それは抽斎の生れた時、四十一歳であった迷庵、三十一歳であった□斎 、二十九歳であった蘭軒の三人と、京水とであって、独り京水は過去帖を獲るまでその齢 を算することが出来なかった。なぜというに、京水の歿年が天保七年だということは、保さんが知っていたが、年歯 に至っては全く所見がなかったからである。
過去帖に拠れば京水の父玄俊は名を某、字 を信卿 といって寛政九年八月二日に、六十歳で歿し、母宇野氏は天明六年に三十六歳で歿した。そして京水は天保七年十一月十四日に、五十一歳で歿したのである。法諡 して宗経軒 京水瑞英居士 という。
これに由って観 れば、京水は天明六年の生 で、抽斎の生れた文化二年には二十歳になっていた。抽斎の四人の師の中 では最年少者であった。
後に抽斎と交 る人々の中、抽斎に先 って生れた学者は、安積艮斎 、小島成斎、岡本况斎 、海保漁村である。
安積艮斎は抽斎との交 が深くなかったらしいが、抽斎をして西学 を忌む念を翻 さしめたのはこの人の力である。艮斎、名は重信 、修して信 という。通称は祐助 である。奥州郡山 の八幡宮 の祠官 安藤筑前 親重 の子で、寛政二年に生れたらしい。十六歳の時、近村の里正 今泉氏 の壻になって、妻に嫌われ、翌年江戸に奔 った。しかし誰 にたよろうというあてもないので、うろうろしているのを、日蓮宗の僧日明 が見附けて、本所 番場町 の妙源寺 へ連れて帰って、数月 間留 めて置いた。そして世話をして佐藤一斎 の家の学僕にした。妙源寺は今艮斎の墓碑の立っている寺である。それから二十一歳にして林述斎 の門に入 った。駿河台に住んで塾を開いたのは二十四歳の時である。そうして見ると、抽斎の生れた文化二年は艮斎が江戸に入る前年で、十六歳であった。これは艮斎が万延 元年十一月二十二日に、七十一歳で歿したものとして推算したのである。
小島成斎名は知足 、字 は子節 、初め静斎と号した。通称は五一である。□斎の門下で善書を以て聞えた。海保漁村の墓表に文久 二年十月十八日に、六十七歳で歿したとしてあるから、抽斎の生れた文化二年には甫 めて十歳である。父親蔵 が福山侯阿部 備中守正精 に仕えていたので、成斎も江戸の藩邸に住んでいた。
その二十一
岡本况斎、名は保孝 、通称は初め勘右衛門 、後縫殿助 であった。拙誠堂 の別号がある。幕府の儒員に列せられた。『荀子 』、『韓非子 』、『淮南子 』等の考証を作り、旁 国典にも通じていた。明治十一年四月までながらえて、八十二歳で歿した。寛政九年の生 で、抽斎の生れた文化二年には僅 に九歳になっていたはずである。
海保漁村、名は元備 、字 は純卿 、また名は紀之 、字は春農 ともいった。通称は章之助 、伝経廬 の別号がある。寛政十年に上総国 武射郡 北清水村 に生れた。老年に及んで経 を躋寿館 に講ずることになった。慶応二年九月十八日に、六十九歳で歿した人である。抽斎の生れた文化二年には八歳だから、郷里にあって、父恭斎 に句読 を授けられていたのである。
即ち学者の先輩は艮斎が十六、成斎が十 、况斎が九つ、漁村が八つになった時、抽斎は生れたことになる。
次に医者の年長者には先ず多紀 の本家、末家 を数える。本家では桂山 、名は元簡 、字は廉夫 が、抽斎の生れた文化二年には五十一歳、その子柳□ 、名は胤 、字は奕禧 が十七歳、末家では□庭 、名は元堅 、字は亦柔 が十一歳になっていた。桂山は文化七年十二月二日に五十六歳で歿し、柳□は文政十年六月三日に三十九歳で歿し、□庭は安政四年二月十四日に六十三歳で歿したのである。
この中 抽斎の最も親しくなったのは□庭である。それから師伊沢蘭軒の長男榛軒 もほぼ同じ親しさの友となった。榛軒、通称は長安 、後一安 と改めた。文化元年に生れて、抽斎にはただ一つの年上である。榛軒は嘉永五年十一月十七日に、四十九歳で歿した。
年上の友となるべき医者は、抽斎の生れた時十一歳であった□庭と、二歳であった榛軒とであったといっても好 い。
次は芸術家及 芸術批評家である。芸術家としてここに挙ぐべきものは谷文晁 一人 に過ぎない。文晁、本 文朝に作る、通称は文五郎 、薙髪 して文阿弥 といった。写山楼 、画学斎 、その他の号は人の皆知る所である。初め狩野 派の加藤文麗 を師とし、後北山寒巌 に従学して別に機軸を出 した。天保十一年十二月十四日に、七十八歳で歿したのだから、抽斎の生れた文化二年には四十三歳になっていた。二人 年歯 の懸隔は、概 ね迷庵におけると同じく、抽斎は画 をも少しく学んだから、この人は抽斎の師の中 に列する方が妥当であったかも知れない。
わたくしはここに真志屋五郎作 と石塚重兵衛 とを数えんがために、芸術批評家の目 を立てた。二人は皆劇通であったから、此 の如くに名づけたのである。あるいはおもうに、批評家といわんよりは、むしろアマトヨオルというべきであったかも知れない。
抽斎が後 劇を愛するに至ったのは、当時の人の眼 より観 れば、一の癖好 であった。どうらくであった。啻 に当時において然 るのみではない。是 の如くに物を観る眼 は、今もなお教育家等の間に、前代の遺物として伝えられている。わたくしはかつて歴史の教科書に、近松 、竹田 の脚本、馬琴 、京伝 の小説が出て、風俗の頽敗 を致したと書いてあるのを見た。
しかし詩の変体としてこれを視 れば、脚本、小説の価値も認めずには置かれず、脚本に縁 って演じ出 す劇も、高級芸術として尊重しなくてはならなくなる。わたくしが抽斎の心胸を開発して、劇の趣味を解するに至らしめた人々に敬意を表して、これを学者、医者、画家の次に数えるのは、好む所に阿 るのではない。
その二十二
真志屋五郎作は神田新石町 の菓子商であった。水戸家 の賄方 を勤めた家で、或 時代から故 あって世禄 三百俵を給せられていた。巷説 には水戸侯と血縁があるなどといったそうであるが、どうしてそんな説が流布 せられたものか、今考えることが出来ない。わたくしはただ風采 が好 かったということを知っているのみである。保さんの母五百 の話に、五郎作は苦味走 った好 い男であったということであった。菓子商、用達 の外、この人は幕府の連歌師 の執筆をも勤めていた。
五郎作は実家が江間氏 で、一時長島 氏を冒 し、真志屋の西村氏を襲 ぐに至った。名は秋邦 、字 は得入 、空華 、月所 、如是縁庵 等と号した。平生 用いた華押 は邦の字であった。剃髪 して五郎作新発智東陽院寿阿弥陀仏曇□ と称した。曇□とは好劇家たる五郎作が、音 の似通 った劇場の緞帳 と、入宋 僧□然 の名などとを配合して作った戯号 ではなかろうか。
五郎作は劇神仙 の号を宝田寿来 に承 けて、後にこれを抽斎に伝えた人だそうである。
宝田寿来、通称は金之助 、一に閑雅 と号した。『作者店 おろし』という書に、宝田とはもと神田より出 でたる名と書いてあるのを見れば、真 の氏 ではなかったであろう。浄瑠璃 『関 の扉 』はこの人の作だそうである。寛政六年八月に、五十七歳で歿した。五郎作が二十六歳の時で、抽斎の生れる十一年前である。これが初代劇神仙である。
五郎作は歿年から推算するに、明和六年の生 で、抽斎の生れた文化二年には三十七歳になっていた。抽斎から見ての長幼の関係は、師迷庵や文晁におけると大差はない。嘉永元年八月二十九日に、八十歳で歿したのだから、抽斎がこの二世劇神仙の後 を襲 いで三世劇神仙となったのは、四十四歳の時である。初め五郎作は抽斎の父允成 と親しく交 っていたが、允成は五郎作に先 つこと十一年にして歿した。
五郎作は独り劇を看 ることを好んだばかりではなく、舞台のために製作をしたこともある。四世彦三郎 を贔屓 にして、所作事 を書いて遣ったと、自分でいっている。レシタションが上手 であったことは、同情のない喜多村□庭 が、台帳を読むのが寿阿弥の唯一の長技だといったのを見ても察せられる。
五郎作は奇行はあったが、生得 酒を嗜 まず、常に養性 に意を用いていた。文政十年七月の末 に、姪 の家の板の間 から墜 ちて怪我 をして、当時流行した接骨家元大坂町 の名倉弥次兵衛 に診察してもらうと、名倉がこういったそうである。お前さんは下戸 で、戒行 が堅固で、気が強い、それでこれほどの怪我をしたのに、目を廻 さずに済んだ。この三つが一つ闕 けていたら、目を廻しただろう。目を廻したのだと、療治に二百日余 掛かるが、これは百五、六十日でなおるだろうといったそうである。戒行とは剃髪 した後 だからいったものと見える。怪我は両臂 を傷めたので骨には障 らなかったが痛 が久しく息 まなかった。五郎作は十二月の末まで名倉へ通ったが、臂の□ だけは跡に貽 った。五十九歳の時の事である。
五郎作は文章を善くした。繊細の事を叙するに簡浄の筆を以てした。技倆 の上から言えば、必ずしも馬琴、京伝に譲らなかった。ただ小説を書かなかったので、世の人に知られぬのである。これはわたくし自身の判断である。わたくしは大正四年の十二月に、五郎作の長文の手紙が売 に出たと聞いて、大晦日 に築地 の弘文堂へ買いに往った。手紙は罫紙 十二枚に細字 で書いたものである。文政十一年二月十九日に書いたということが、記事に拠って明 かに考えられる。ここに書いた五郎作の性行も、半 は材料をこの簡牘 に取ったものである。宛名 の□堂 は桑原氏 、名は正瑞 、字 は公圭 、通称を古作 といった。駿河国島田駅の素封家で、詩及 書を善くした。玄孫喜代平 さんは島田駅の北半里ばかりの伝心寺 に住んでいる。五郎作の能文はこの手紙一つに徴して知ることが出来るのである。
その二十三
わたくしの獲 た五郎作の手紙の中に、整骨家名倉弥次兵衛の流行を詠んだ狂歌がある。臂 を傷めた時、親しく治療を受けて詠んだのである。「研 ぎ上ぐる刃物ならねどうちし身の名倉のいしにかゝらぬぞなき。」わたくしは余り狂歌を喜ばぬから、解事者を以て自らおるわけではないが、これを蜀山 らの作に比するに、遜色 あるを見ない。□庭 は五郎作に文筆の才がないと思ったらしく、歌など少しは詠みしかど、文を書くには漢文を読むようなる仮名書して終れりといっているが、此 の如きは決して公論ではない。□庭は素 漫罵 の癖 がある。五郎作と同年に歿した喜多静廬 を評して、性質風流なく、祭礼などの繁華なるを見ることを好めりといっている。風流をどんな事と心得ていたか。わたくしは強いて静廬を回護するに意があるのではないが、これを読んで、トルストイの芸術論に詩的という語の悪 解釈を挙げて、口を極めて嘲罵 しているのを想い起した。わたくしの敬愛する所の抽斎は、角兵衛獅子 を観 ることを好んで、奈何 なる用事をも擱 いて玄関へ見に出たそうである。これが風流である。詩的である。
五郎作は少 い時、山本北山 の奚疑塾 にいた。大窪天民 は同窓であったので後 に□ るまで親しく交った。上戸 の天民は小さい徳利を蔵 して持っていて酒を飲んだ。北山が塾を見廻ってそれを見附けて、徳利でも小さいのを愛すると、その人物が小さくおもわれるといった。天民がこれを聞いて大樽 を塾に持って来たことがあるそうである。下戸 の五郎作は定めて傍 から見て笑っていたことであろう。
五郎作はまた博渉家 の山崎美成 や、画家の喜多可庵 と往来していた。中にも抽斎より僅 に四つ上の山崎は、五郎作を先輩として、疑 を質 すことにしていた。五郎作も珍奇の物は山崎の許 へ持って往って見せた。
文政六年四月二十九日の事である。まだ下谷 長者町 で薬を売っていた山崎の家へ、五郎作はわざわざ八百屋 お七 のふくさというものを見せに往った。ふくさは数代前 に真志屋 へ嫁入した島 という女の遺物である。島の里方 を河内屋半兵衛 といって、真志屋と同じく水戸家の賄方 を勤め、三人扶持を給せられていた。お七の父八百屋市左衛門 はこの河内屋の地借 であった。島が屋敷奉公に出る時、穉 なじみのお七が七寸四方ばかりの緋縮緬 のふくさに、紅絹裏 を附けて縫ってくれた。間もなく本郷森川宿 のお七の家は天和 二年十二月二十八日の火事に類焼した。お七は避難の間に情人 と相識 になって、翌年の春家に帰った後 、再び情人と相見ようとして放火したのだそうである。お七は天和三年三月二十九日に、十六歳で刑せられた。島は記念 のふくさを愛蔵して、真志屋へ持って来た。そして祐天上人 から受けた名号 をそれに裹 んでいた。五郎作は新 にふくさの由来を白絹に書いて縫い附けさせたので、山崎に持って来て見せたのである。
五郎作と相似て、抽斎より長ずること僅に六歳であった好劇家は、石塚重兵衛である。寛政十一年の生 で、抽斎の生れた文化二年には七歳になっていた。歿したのは文久元年十二月十五日で、年を享 くること六十三であった。
その二十四
石塚重兵衛の祖先は相模国 鎌倉の人である。天明中に重兵衛の曾祖父が江戸へ来て、下谷 豊住町 に住んだ。世 粉商 をしているので、芥子屋 と人に呼ばれた。真 の屋号は鎌倉屋である。
重兵衛も自ら庭に降り立って、芥子の臼 を踏むことがあった。そこで豊住町の芥子屋という意 で、自ら豊芥子 と署した。そしてこれを以て世に行われた。その豊亭 と号するのも、豊住町に取ったのである。別に集古堂 という号がある。
重兵衛に女 が二人あって、長女に壻を迎えたが、壻は放蕩 をして離別せられた。しかし後に浅草 諏訪町 の西側の角に移ってから、またその壻を呼び返していたそうである。
重兵衛は文久元年に京都へ往 こうとして出たが、途中で病んで、十二月十五日に歿した。年は六十三であった。抽斎の生れた文化二年には、重兵衛は七歳の童 であったはずである。
重兵衛の子孫はどうなったかわからない。数年前に大槻如電 さんが浅草北清島町 報恩寺内専念寺にある重兵衛の墓に詣 でて、忌日 に墓に来るものは河竹新七 一人だということを寺僧に聞いた。河竹にその縁故を問うたら、自分が黙阿弥 の門人になったのは、豊芥子の紹介によったからだと答えたそうである。
以上抽斎の友で年長者であったものを数えると、学者に抽斎の生れた年に十六歳であった安積艮斎 、十歳であった小島成斎、九歳であった岡本况斎、八歳であった海保漁村がある。医者に当時十一歳であった多紀□庭 、二歳であった伊沢榛軒 がある。その他画家文晁は四十三歳、劇通寿阿弥は三十七歳、豊芥子は七歳であった。
抽斎が始 て市野迷庵の門に入 ったのは文化六年で、師は四十五歳、弟子 は五歳であった。次いで文化十一年に医学を修めんがために、伊沢蘭軒に師事した。師が三十八歳、弟子が十歳の時である。父允成 は経芸 文章を教えることにも、家業の医学を授けることにも、頗 る早く意を用いたのである。想うに後 に師とすべき狩谷□斎 とは、家庭でも会い、師迷庵の許 でも会って、幼い時から親しくなっていたであろう。また後に莫逆 の友となった小島成斎も、夙 く市野の家で抽斎と同門の好 を結んだことであろう。抽斎がいつ池田京水 の門を敲 いたかということは今考えることが出来ぬが、恐らくはこれより後 の事であろう。
文化十一年十二月二十八日、抽斎は始て藩主津軽寧親 に謁した。寧親は五十歳、抽斎の父允成は五十一歳、抽斎自己は十歳の時である。想うに謁見の場所は本所 二 つ目 の上屋敷であっただろう。謁見即ち目見 は抽斎が弘前の士人として受けた礼遇の始 で、これから月並 出仕 を命ぜられるまでには七年立ち、番入 を命ぜられ、家督相続をするまでには八年立っている。
抽斎が迷庵門人となってから八年目、文化十四年に記念すべき事があった。それは抽斎と森枳園 とが交 を訂した事である。枳園は後年これを弟子入 と称していた。文化四年十一月生 の枳園は十一歳になっていたから、十三歳の抽斎が十一歳の枳園を弟子に取ったことになる。
森枳園、名は立之 、字は立夫 、初め伊織 、中ごろ養真 、後養竹 と称した。維新後には立之を以て行われていた。父名は恭忠 、通称は同じく養竹であった。恭忠は備後国福山の城主阿部 伊勢守正倫 、同 備中守正精 の二代に仕えた。その男 枳園を挙げたのは、北八町堀 竹島町 に住んでいた時である。後 『経籍訪古志』に連署すべき二人 は、ここに始て手を握ったのである。因 にいうが、枳園は単独に弟子入をしたのではなくて、同じく十一歳であった、弘前の医官小野道瑛 の子道秀 も袂 を聯 ねて入門した。
その二十五
抽斎の家督相続は文政五年八月朔 を以て沙汰 せられた。これより先 き四年十月朔に、抽斎は月並 出仕 仰附 けられ、五年二月二十八日に、御番 見習 、表医者 仰附けられ、即日見習の席に着き、三月朔に本番に入 った。家督相続の年には、抽斎が十八歳で、隠居した父允成 が五十九歳であった。抽斎は相続後直 ちに一粒金丹 製法の伝授を受けた。これは八月十五日の日附 を以てせられた。
抽斎の相続したと同じ年同じ月の二十九日に、相馬大作 が江戸小塚原 で刑せられた。わたくしはこの偶然の符合のために、ここに相馬大作の事を説こうとするのではない。しかし事のついでに言って置きたい事がある。大作は津軽家の祖先が南部家の臣であったと思っていた。そこで文化二年以来津軽家の漸 く栄え行くのに平 ならず、寧親 の入国の時、途 に要撃しようとして、出羽国秋田領白沢宿 まで出向いた。然 るに寧親はこれを知って道を変えて帰った。大作は事露 れて捕 えられたということである。
津軽家の祖先が南部家の被官であったということは、内藤恥叟 も『徳川十五代史』に書いている。しかし郷土史に精 しい外崎覚 さんは、かつて内藤に書を寄せて、この説の誤 を匡 そうとした。
初め津軽家と南部家とは対等の家柄であった。然るに津軽家は秀信 の世に勢 を失って、南部家の後見 を受けることになり、後元信 、光信 父子は人質として南部家に往っていたことさえある。しかし津軽家が南部家に仕えたことはいまだかつて聞かない。光信は彼 の渋江辰盛 を召し抱えた信政 の六世の祖である。津軽家の隆興は南部家に怨 を結ぶはずがない。この雪冤 の文を作った外崎さんが、わたくしの渋江氏の子孫を捜し出す媒 をしたのだから、わたくしはただこれだけの事をここに記 して置く。
家督相続の翌年、文政六年十二月二十三日に、抽斎は十九歳で、始 て妻を娶 った。妻は下総国 佐倉の城主堀田 相模守正愛 家来大目附 百石岩田十大夫 女 百合 として願済 になったが、実は下野 国安蘇郡 佐野 の浪人尾島忠助 女 定 である。この人は抽斎の父允成が、子婦 には貧家に成長して辛酸を嘗 めた女を迎えたいといって選んだものだそうである。夫婦の齢 は抽斎が十九歳、定が十七歳であった。
この年に森枳園 は、これまで抽斎の弟子、即ち伊沢蘭軒の孫弟子であったのに、去って直ちに蘭軒に従学することになった。当時西語にいわゆるシニックで奇癖が多く、朝夕 好んで俳優の身振 声色 を使う枳園の同窓に、今一人塩田楊庵 という奇人があった。素 越後新潟の人で、抽斎と伊沢蘭軒との世話で、宗 対馬守 義質 の臣塩田氏の女壻 となった。塩田は散歩するに友を誘 わぬので、友が密 に跡に附いて行って見ると、竹の杖 を指の腹に立てて、本郷追分 の辺 を徘徊 していたそうである。伊沢の門下で枳園楊庵の二人は一双の奇癖家として遇せられていた。声色遣 も軽業師 も、共に十七歳の諸生であった。
抽斎の母縫 は、子婦 を迎えてから半年立って、文政七年七月朔に剃髪して寿松 と称した。
翌文政八年三月晦 には、当時抽斎の住んでいた元柳原町六丁目の家が半焼 になった。この年津軽家には代替 があった。寧親が致仕して、大隅守 信順 が封を襲 いだのである。時に信順は二十六歳、即ち抽斎より長ずること五歳であった。
次の文政九年は抽斎が種々の事に遭逢 した年である。先ず六月二十八日に姉須磨 が二十五歳で亡くなった。それから八月十四日に、師市野迷庵が六十二歳で歿した。最後に十二月五日に、嫡子恒善 が生れた。
須磨は前にいった通 、飯田良清 というものの妻 になっていたが、この良清は抽斎の父允成の実父稲垣清蔵 の孫である。清蔵の子が大矢清兵衛 、清兵衛の子が飯田良清である。須磨の夫が飯田氏を冒したのは、幕府の家人株 を買ったのであるから、夫の父が大矢氏を冒したのも、恐らくは株として買ったのであろう。
迷庵の死は抽斎をして狩谷□斎に師事せしむる動機をなしたらしいから、抽斎が□斎の門に入 ったのも、この頃の事であっただろう。迷庵の跡は子光寿 が襲 いだ。
その二十六
文政十二年もまた抽斎のために事多き年であった。三月十七日には師伊沢蘭軒が五十三歳で歿した。二十八日には抽斎が近習医者介 を仰附けられた。六月十四日には母寿松が五十五歳で亡くなった。十一月十一日には妻 定が離別せられた。十二月十五日には二人目 の妻同藩留守居役百石比良野文蔵 の女 威能 が二十四歳で来 り嫁した。抽斎はこの年二十五歳であった。
わたくしはここに抽斎の師伊沢氏の事、それから前後の配偶定と威能との事を附け加えたい。亡くなった母については別に言うべき事がない。
抽斎と伊沢氏との交 は、蘭軒の歿した後 も、少しも衰えなかった。蘭軒の嫡子榛軒 が抽斎の親しい友で、抽斎より長ずること一歳であったことは前に言った。榛軒の弟柏軒 、通称磐安 は文化七年に生れた。怙 を喪 った時、兄は二十六歳、弟は二十歳であった。抽斎は柏軒を愛して、己 の弟の如くに待遇した。柏軒は狩谷□斎の女 俊 を娶 った。その次男が磐 、三男が今の歯科医信平 さんである。
抽斎の最初の妻定が離別せられたのは何故 か詳 にすることが出来ない。しかし渋江の家で、貧家の女 なら、こういう性質を具えているだろうと予期していた性質を、定は不幸にして具えていなかったかも知れない。
定に代って渋江の家に来た抽斎の二人目の妻威能は、世 要職におる比良野氏の当主文蔵を父に持っていた。貧家の女 に懲りて迎えた子婦 であろう。そしてこの子婦は短命ではあったが、夫の家では人々に悦 ばれていたらしい。何故そういうかというに、後 威能が亡くなり、次の三人目の妻がまた亡くなって、四人目の妻が商家から迎えられる時、威能の父文蔵は喜んで仮親になったからである。渋江氏と比良野氏との交誼 が、後に至るまで此 の如くに久しく渝 らずにいたのを見ても、婦壻 の間にヂソナンスのなかったことが思い遣られる。
比良野氏は武士気質 の家であった。文蔵の父、威能の祖父であった助太郎 貞彦 は文事と武備とを併 せ有した豪傑の士である。外浜 また嶺雪 と号し、安永五年に江戸藩邸の教授に挙げられた。画 を善くして、「外浜画巻 」及「善知鳥 画軸」がある。剣術は群を抜いていた。壮年の頃村正 作の刀 を佩 びて、本所割下水 から大川端 辺 までの間を彷徨 して辻斬 をした。千人斬ろうと思い立ったのだそうである。抽斎はこの事を聞くに及んで、歎息して已 まなかった。そして自分は医薬を以て千人を救おうという願 を発 した。
天保二年、抽斎が二十七歳の時、八月六日に長女純 が生れ、十月二日に妻威能が歿した。年は二十六で、帰 いでから僅に三年目である。十二月四日に、備後国福山の城主阿部伊予守正寧 の医官岡西栄玄 の女 徳が抽斎に嫁した。この年八月十五日に、抽斎の父允成は隠居料三人扶持を賜わった。これは従来寧親 信順 二公にかわるがわる勤仕していたのに、六月からは兼 て岩城隆喜 の室 、信順の姉もと姫に、また八月からは信順の室欽姫 に伺候することになったからであろう。
この時抽斎の家族は父允成、妻岡西氏徳、尾島 氏出 の嫡子恒善 、比良野氏出 の長女純の四人となっていた。抽斎が三人目の妻徳を娶 るに至ったのは、徳の兄岡西玄亭 が抽斎と同じく蘭軒の門下におって、共に文字 の交 を訂していたからである。
天保四年四月六日に、抽斎は藩主信順に随 って江戸を発し、始めて弘前に往った。江戸に還 ったのは、翌五年十一月十五日である。この留守に前藩主寧親は六十九歳で卒した。抽斎の父允成が四月朔 に二人 扶持の加増を受けて、隠居料五人扶持にせられたのは、特に寧親に侍せしめられたためであろう。これは抽斎が二十九歳から三十歳に至る間の事である。
抽斎の友森枳園 が佐々木氏勝 を娶って、始めて家庭を作ったのも天保四年で、抽斎が弘前に往った時である。これより先枳園は文政四年に怙 を喪って、十五歳で形式的の家督相続をなした。蘭軒に従学する前二年の事である。
その二十七
天保六年閏 七月四日に、抽斎は師狩谷□斎 を喪なった。六十一歳で亡くなったのである。十一月五日に、次男優善 が生れた。後に名を優 と改めた人である。この年抽斎は三十一歳になった。
□斎の後 は懐之 、字 は少卿 、通称は三平 が嗣 いだ。抽斎の家族は父允成、妻徳、嫡男恒善 、長女純 、次男優善の五人になった。
同じ年に森枳園 の家でも嫡子養真 が生れた。
天保七年三月二十一日に、抽斎は近習詰 に進んだ。これまでは近習格であったのである。十一月十四日に、師池田京水 が五十一歳で歿した。この年抽斎は三十二歳になった。
京水には二人の男子 があった。長を瑞長 といって、これが家業を襲 いだ。次を全安 といって、伊沢家の女壻になった。榛軒の女 かえに配せられたのである。後に全安は自立して本郷弓町 に住んだ。
天保八年正月十五日に、抽斎の長子恒善が始て藩主信順 に謁した。年甫 て十二である。七月十二日に、抽斎は信順に随って弘前に往った。十月二十六日に、父允成が七十四歳で歿した。この年抽斎は三十三歳になった。
初め抽斎は酒を飲まなかった。然るにこの年藩主がいわゆる詰越 をすることになった。例に依 って翌年江戸に帰らずに、二冬 を弘前で過すことになったのである。そこで冬になる前に、種々の防寒法を工夫して、豕 の子を取り寄せて飼養しなどした。そのうち冬が来て、江戸で父の病むのを聞いても、帰省することが出来ぬので、抽斎は酒を飲んで悶 を遣 った。抽斎が酒を飲み、獣肉を□ うようになったのはこの時が始である。
しかし抽斎は生涯煙草 だけは喫 まずにしまった。允成の直系卑属は、今の保さんなどに至るまで、一人も煙草を喫まぬのだそうである。但し抽斎の次男優善は破格であった。
抽斎のまだ江戸を発せぬ前の事である。徒士町 の池田の家で、当主瑞長 が父京水の例に倣 って、春の初 に発会式 ということをした。京水は毎年 これを催して、門人を集 えたのであった。然るに今年 抽斎が往って見ると、名は発会式と称しながら、趣は全く前日に異 っていて、京水時代の静粛は痕 だに留 めなかった。芸者が来て酌 をしている。森枳園が声色を使っている。抽斎は暫 く黙して一座の光景を視 ていたが、遂に容 を改めて主客の非礼を責めた。瑞長は大いに羞 じて、すぐに芸者に暇 を遣ったそうである。
引き続いて二月に、森枳園の家に奇怪な事件が生じた。枳園は阿部家を逐 われて、祖母、母、妻勝 、生れて三歳の倅 養真の四人を伴って夜逃 をしたのである。後に枳園の自ら選んだ寿蔵碑 には「有故失禄」と書してあるが、その故は何かというと、実に悲惨でもあり、また滑稽 でもあった。
枳園は好劇家であった。単に好劇というだけなら、抽斎も同じ事である。しかし抽斎は俳優の技 を、観棚 から望み見て楽 むに過ぎない。枳園は自らその科白 を学んだ。科白を学んで足らず、遂に舞台に登って※子 [#「木+邦」、87-8]を撃った。後にはいわゆる相中 の間 に混じて、並大名 などに扮 し、また注進などの役をも勤めた。
或日阿部家の女中が宿に下 って芝居を看 に往 くと、ふと登場している俳優の一人が養竹 さんに似ているのに気が附いた。そう思って、と見 こう見するうちに、女中はそれが養竹さんに相違ないと極 めた。そして邸 に帰ってから、これを傍輩 に語った。固 より一の可笑 しい事として語ったので、初より枳園に危害を及ぼそうとは思わなかったのである。
さてこの奇談が阿部邸の奥表 に伝播 して見ると、上役 はこれを棄 て置かれぬ事と認めた。そこでいよいよ君侯に稟 して禄を褫 うということになってしまった。
その二十八
枳園 は俳優に伍 して登場した罪によって、阿部家の禄を失って、永 の暇 になった。後に抽斎の四人目の妻となるべき山内氏五百 の姉は、阿部家の奥に仕えて、名を金吾 と呼ばれ、枳園をも識 っていたが、事件の起 る三、四年前 に暇を取ったので、当時の阿部家における細かい事情を知らなかった。
永の暇になるまでには、相応に評議もあったことであろう。友人の中には、枳園を救おうとした人もあったことであろう。しかし枳園は平生細節 に拘 らぬ人なので、諸方面に対して、世にいう不義理が重なっていた。中にも一、二件の筆紙に上 すべからざるものもある。救おうとした人も、これらの障礙 のために、その志を遂げることが出来なかったらしい。
枳園は江戸で暫 く浪人生活をしていたが、とうとう負債のために、家族を引き連れて夜逃 をした。恐らくはこの最後の策に出 づることをば、抽斎にも打明けなかっただろう。それは面目 がなかったからである。□矩 の道を紳 に書していた抽斎をさえ、度々忍びがたき目に逢 わせていたからである。
枳園は相模国をさして逃げた。これは当時三十一歳であった枳園には、もう幾人 かの門人があって、その中 に相模の人がいたのをたよって逃げたのである。この落魄 中の精 しい経歴は、わたくしにはわからない。『桂川 詩集』、『遊相医話 』などという、当時の著述を見たらわかるかも知れぬが、わたくしはまだ見るに及ばない。寿蔵碑 には、浦賀 、大磯 、大山 、日向 、津久井 県の地名が挙げてある。大山は今の大山町 、日向は今の高部屋 村で、どちらも大磯と同じ中郡 である。津久井県は今の津久井郡で相模川がこれを貫流している。桂川 はこの川の上流である。
後に枳園の語った所によると、江戸を立つ時、懐中には僅に八百文の銭があったのだそうである。この銭は箱根の湯本 に着くと、もう遣 い尽していた。そこで枳園はとりあえず按摩 をした。上下 十六文の□銭 を獲 るも、なお已 むにまさったのである。啻 に按摩のみではない。枳園は手当り次第になんでもした。「無論内外二科 、或為収生 、或為整骨 、至于牛馬□狗之疾 、来乞治者 、莫不施術 」と、自記の文にいってある。収生 はとりあげである。整骨は骨つぎである。獣医の縄張内 にも立ち入った。医者の歯を治療するのをだに拒もうとする今の人には、想像することも出来ぬ事である。
老いたる祖母は浦賀で困厄 の間に歿した。それでも跡に母と妻と子とがある。自己を併 せて四人の口を、此 の如き手段で糊 しなくてはならなかった。しかし枳園の性格から推せば、この間に処して意気沮喪 することもなく、なお幾分のボンヌ・ユミヨオルを保有していたであろう。
枳園はようよう大磯に落ち着いた。門人が名主 をしていて、枳園を江戸の大先生として吹聴 し、ここに開業の運 に至ったのである。幾ばくもなくして病家の数 が殖 えた。金帛 を以て謝することの出来ぬものも、米穀菜蔬 を輸 って庖厨 を賑 した。後には遠方から轎 を以て迎えられることもある。馬を以て請 ぜられることもある。枳園は大磯を根拠地として、中 、三浦 両郡の間を往来し、ここに足掛十二年の月日を過すこととなった。
抽斎は天保九年の春を弘前に迎えた。例の宿直日記に、正月十三日忌明 と書してある。父の喪が果てたのである。続いて第二の冬をも弘前で過して、翌天保十年に、抽斎は藩主信順 に随 って江戸に帰った。三十五歳になった年である。
この年五月十五日に、津軽家に代替 があった。信順は四十歳で致仕して柳島の下屋敷に遷 り、同じ齢 の順承 が小津軽 から入 って封を襲 いだ。信順は頗 る華美を好み、動 もすれば夜宴を催しなどして、財政の窮迫を馴致 し、遂に引退したのだそうである。
抽斎はこれから隠居信順附 にせられて、平日は柳島の館 に勤仕し、ただ折々上屋敷に伺候した。
その二十九
天保十一年は十二月十四日に谷文晁の歿した年である。文晁は抽斎が師友を以て遇していた年長者で、抽斎は平素画 を鑑賞することについては、なにくれとなく教 を乞い、また古器物 や本艸 の参考に供すべき動植物を図 するために、筆の使方 、顔料 の解方 などを指図してもらった。それが前年に七十七の賀宴を両国 の万八楼 で催したのを名残 にして、今年亡人 の数に入 ったのである。跡は文化九年生 で二十九歳になる文二 が嗣 いだ。文二の外に六人の子を生んだ文晁の後妻阿佐 は、もう五年前に夫に先 って死んでいたのである。この年抽斎は三十六歳であった。
天保十二年には、岡西氏徳 が二女 好 を生んだが、好は早世した。閏 正月二十六日に生れ、二月三日に死んだのである。翌十三年には、三男八三郎 が生れたが、これも夭折 した。八月三日に生れ、十一月九日に死んだのである。抽斎が三十七歳から三十八歳になるまでの事である。わたくしは抽斎の事を叙する初 において、天保十二年の暮の作と認むべき抽斎の述志の詩を挙げて、当時の渋江氏の家族を数えたが、□ ち来り□ち去った女 好の名は見 わすことが出来なかった。
天保十四年六月十五日に、抽斎は近習に進められた。三十九歳の時である。
この年に躋寿館 で書を講じて、陪臣町医 に来聴せしむる例が開かれた。それが十月で、翌十一月に始て新 に講師が任用せられた。初 館には都講 、教授があって、生徒に授業していたに過ぎない。一時多紀藍渓 時代に百日課 の制を布 いて、医学も経学 も科を分って、百日を限って講じたことがある。今いうクルズスである。しかしそれも生徒に聴 かせたのである。百日課は四年間で罷 んだ。講師を置いて、陪臣町医の来聴を許すことになったのは、この時が始である。五カ月の後、幕府が抽斎を起 たしむることとなったのは、この制度あるがためである。
弘化元年は抽斎のために、一大転機を齎 した。社会においては幕府の直参 になり、家庭においては岡西氏徳のみまかった跡へ、始て才色兼ね備わった妻が迎えられたのである。
この一年間の出来事を順次に数えると、先ず二月二十一日に妻徳が亡くなった。三月十二日に老中 土井 大炊頭 利位 を以て、抽斎に躋寿館講師を命ぜられた。四月二十九日に定期登城 を命ぜられた。年始、八朔 、五節句、月並 の礼に江戸城に往 くことになったのである。十一月六日に神田紺屋町 鉄物問屋 山内忠兵衛妹五百 が来り嫁した。表向 は弘前藩目附役百石比良野助太郎妹翳 として届けられた。十二月十日に幕府から白銀 五枚を賜わった。これは以下恒例になっているから必ずしも書かない。同月二十六日に長女純 が幕臣馬場玄玖 に嫁した。時に年十六である。
抽斎の岡西氏徳を娶 ったのは、その兄玄亭が相貌 も才学も人に優れているのを見て、この人の妹ならと思ったからである。然るに伉儷 をなしてから見ると、才貌共に予期したようではなかった。それだけならばまだ好 かったが、徳は兄には似ないで、かえって父栄玄の褊狭 な気質を受け継いでいた。そしてこれが抽斎にアンチパチイを起させた。
最初の妻定 は貧家の女 の具えていそうな美徳を具えていなかったらしく、抽斎の父允成 が或時、己 の考が悪かったといって歎息したこともあるそうだが、抽斎はそれほど厭 とは思わなかった。二人 目の妻威能 は怜悧 で、人を使う才があった。とにかく抽斎に始てアンチパチイを起させたのは、三人目の徳であった。
その三十
克己を忘れたことのない抽斎は、徳を叱 り懲らすことはなかった。それのみではない。あらわに不快の色を見せもしなかった。しかし結婚してから一年半ばかりの間、これに親近せずにいた。そして弘前へ立った。初度の旅行の時の事である。
さて抽斎が弘前にいる間、江戸の便 があるごとに、必ず長文の手紙が徳から来た。留守中の出来事を、殆 ど日記のように悉 く書いたのである。抽斎は初め数行 を読んで、直 ちにこの書信が徳の自力によって成ったものでないことを知った。文章の背面に父允成の気質が歴々として見えていたからである。
允成は抽斎の徳に親 まぬのを見て、前途のために危 んでいたので、抽斎が旅に立つと、すぐに徳に日課を授けはじめた。手本を与えて手習 をさせる。日記を附けさせる。そしてそれに本 づいて文案を作って、徳に筆を把 らせ、家内 の事は細大となく夫に報ぜさせることにしたのである。
抽斎は江戸の手紙を得るごとに泣いた。妻のために泣いたのではない。父のために泣いたのである。
二年近い旅から帰って、抽斎は勉 めて徳に親んで、父の心を安 ぜようとした。それから二年立って優善 が生れた。
尋 いで抽斎は再び弘前へ往って、足掛三年淹留 した。留守に父の亡くなった旅である。それから江戸に帰って、中一年置いて好 が生れ、その翌年また八三郎が生れた。徳は八三郎を生んで一年半立って亡くなった。
そして徳の亡くなった跡へ山内氏五百 が来ることになった。抽斎の身分は徳が往 き、五百が来 る間に変って、幕府の直参 になった。交際は広くなる。費用は多くなる。五百は卒 にその中 に身を投じて、難局に当らなくてはならなかった。五百があたかも好 しその適材であったのは、抽斎の幸 である。
五百の父山内忠兵衛は名を豊覚 といった。神田紺屋町に鉄物問屋 を出して、屋号を日野屋といい、商標には井桁 の中に喜の字を用いた。忠兵衛は詩文書画を善くして、多く文人墨客 に交 り、財を捐 ててこれが保護者となった。
忠兵衛に三人の子があった。長男栄次郎、長女安 、二女五百である。忠兵衛は允成の友で、嫡子栄次郎の教育をば、久しく抽斎に託していた。文政七、八年の頃、允成が日野屋をおとずれて、芝居の話をすると、九つか十であった五百と、一つ年上の安とが面白がって傍聴していたそうである。安は即ち後に阿部家に仕えた金吾 である。
五百は文化十三年に生れた。兄栄次郎が五歳、姉安が二歳になっていた時である。忠兵衛は三人の子の次第に長ずるに至って、嫡子には士人たるに足る教育を施し、二人の女 にも尋常女子の学ぶことになっている読み書き諸芸の外、武芸をしこんで、まだ小さい時から武家奉公に出した。中にも五百には、経学 などをさえ、殆ど男子に授けると同じように授けたのである。
忠兵衛が此 の如くに子を育てたには来歴がある。忠兵衛の祖先は山内但馬守 盛豊 の子、対馬守 一豊 の弟から出たのだそうで、江戸の商人になってからも、三葉柏 の紋を附け、名のりに豊 の字を用いることになっている。今わたくしの手近 にある系図には、一豊の弟は織田信長 に仕えた修理亮 康豊 と、武田信玄 に仕えた法眼 日泰 との二人しか載せてない。忠兵衛の家は、この二人の内いずれかの裔 であるか、それとも外に一豊の弟があったか、ここに遽 に定 めることが出来ない。
その三十一
五百 は十一、二歳の時、本丸に奉公したそうである。年代を推せば、文政九年か十年かでなくてはならない。徳川家斉 が五十四、五歳になった時である。御台所 は近衛経煕 の養女茂姫 である。
五百は姉小路 という奥女中の部屋子 であったという。姉小路というからには、上臈 であっただろう。然 らば長局 の南一の側 に、五百はいたはずである。五百らが夕方 になると、長い廊下を通って締めに往 かなくてはならぬ窓があった。その廊下には鬼が出るという噂 があった。鬼とはどんな物で、それが出て何をするかというに、誰 も好 くは見ぬが、男の衣 を着ていて、額に角 が生 えている。それが礫 を投げ掛けたり、灰を蒔 き掛けたりするというのである。そこでどの部屋子も窓を締めに往くことを嫌って、互 に譲り合った。五百は穉 くても胆力があり、武芸の稽古 をもしたことがあるので、自ら望んで窓を締めに往 った。
暗い廊下を進んで行くと、果してちょろちょろと走り出たものがある。おやと思う間もなく、五百は片頬 に灰を被 った。五百には咄嗟 の間 に、その物の姿が好くは見えなかったが、どうも少年の悪作劇 らしく感ぜられたので、五百は飛び附いて掴 まえた。
「許せ/\」と鬼は叫んで身をもがいた。五百はすこしも手を弛 めなかった。そのうちに外の女子 たちが馳 せ附けた。
鬼は降伏して被っていた鬼面 を脱いだ。銀之助 様と称 えていた若者で、穉くて美作国 西北条郡 津山 の城主松平家 へ壻入 した人であったそうである。
津山の城主松平越後守斉孝 の次女徒 の方 の許 へ壻入したのは、家斉の三十四人目の子で、十四男参河守 斉民 である。
斉民は小字 を銀之助という。文化十一年七月二十九日に生れた。母はお八重 の方 である。十四年七月二十二日に、御台所 の養子にせられ、九月十八日に津山の松平家に壻入し、十二月三日に松平邸に往 た。四歳の壻君 である。文政二年正月二十八日には新居落成してそれに移った。七年三月二十八日には十一歳で元服して、従 四位上 侍従参河守斉民となった。九年十二月には十三歳で少将にせられた。人と成って後確堂公 と呼ばれたのはこの人で、成島柳北 の碑の篆額 はその筆 である。そうして見ると、この人が鬼になって五百に捉 えられたのは、従四位上侍従になってから後 で、ただ少将であったか、なかったかが疑問である。津山邸に館 はあっても、本丸に寝泊 して、小字 の銀之助を呼ばれていたものと見える。年は五百より二つ上である。
五百の本丸を下 ったのは何時 だかわからぬが、十五歳の時にはもう藤堂家 に奉公していた。五百が十五歳になったのは、天保元年である。もし十四歳で本丸を下ったとすると、文政十二年に下ったことになる。
五百は藤堂家に奉公するまでには、二十幾家という大名の屋敷を目見 をして廻 ったそうである。その頃も女中の目見は、君 臣 を択 ばず、臣君を択ぶというようになっていたと見えて、五百が此 の如くに諸家の奥へ覗 きに往ったのは、到処 で斥 けられたのではなく、自分が仕うることを肯 ぜなかったのだそうである。
しかし二十余家を経廻 るうちに、ただ一カ所だけ、五百が仕えようと思った家があった。それが偶然にも土佐国高知の城主松平土佐守豊資 の家であった。即ち五百と祖先を同じうする山内家である。
五百が鍛冶橋内 の上屋敷へ連れられて行くと、外の家と同じような考試に逢った。それは手跡、和歌、音曲 の嗜 を験 されるのである。試官は老女である。先ず硯箱 と色紙とを持ち出して、老女が「これに一つお染 を」という。五百は自作の歌を書いたので、同時に和歌の吟味も済んだ。それから常磐津 を一曲語らせられた。これらの事は他家と何の殊 なることもなかったが、女中が悉 く綿服 であったのが、五百の目に留まった。二十四万二千石の大名の奥の質素なのを、五百は喜んだ。そしてすぐにこの家に奉公したいと決心した。奥方は松平上総介 斉政 の女 である。
この時老女がふと五百 の衣類に三葉柏 の紋の附いているのを見附けた。
その三十二
山内家の老女は五百に、どうして御当家の紋と同じ紋を、衣類に附けているかと問うた。
五百は自分の家が山内氏で、昔から三葉柏 の紋を附けていると答えた。
老女は暫 く案じてからいった。御用に立ちそうな人と思われるから、お召抱 になるように申し立てようと思う。しかしその紋は当分御遠慮申すが好かろう。由緒 のあることであろうから、追ってお許 を願うことも出来ようといった。
五百は家に帰って、父に当分紋を隠して奉公することの可否を相談した。しかし父忠兵衛は即座に反対した。姓名だの紋章だのは、先祖 から承 けて子孫に伝える大切なものである。濫 に匿 したり更 めたりすべきものではない。そんな事をしなくては出来ぬ奉公なら、せぬが好 いといったのである。
五百が山内家をことわって、次に目見 に往ったのが、向柳原 の藤堂家の上屋敷であった。例の考試は首尾好く済んだ。別格を以て重く用いても好いといって、懇望せられたので、諸家を廻 り草臥 れた五百は、この家に仕えることに極 めた。
五百はすぐに中臈 にせられて、殿様附 と定 まり、同時に奥方祐筆 を兼ねた。殿様は伊勢国安濃郡 津の城主、三十二万三千九百五十石の藤堂和泉守 高猷 である。官位は従 四位侍従になっていた。奥方は藤堂主殿頭 高□ の女 である。
この時五百はまだ十五歳であったから、尋常ならば女小姓 に取らるべきであった。それが一躍して中臈を贏 ち得たのは破格である。女小姓は茶、烟草 、手水 などの用を弁ずるもので、今いう小間使 である。中臈は奥方附であると、奥方の身辺に奉仕して、種々の用事を弁ずるものである。幕府の慣例ではそれが転じて将軍附となると、妾 になったと見ても好 い。しかし大名の家では奥方に仕えずに殿様に仕えるというに過ぎない。祐筆は日記を附けたり、手紙を書いたりする役である。
五百は呼名は挿頭 と附けられた。後に抽斎に嫁することに極まって、比良野氏の娘分にせられた時、翳 の名を以て届けられたのは、これを襲用したのである。さて暫く勤めているうちに、武芸の嗜 のあることを人に知られて、男之助 という綽名 が附いた。
藤堂家でも他家と同じように、中臈は三室 位に分たれた部屋に住んで、女二人 を使った。食事は自弁であった。それに他家では年給三十両内外であるのに、藤堂家では九両であった。当時の武家奉公をする女は、多く俸銭を得ようと思っていたのではない。今の女が女学校に往 くように、修行をしに往くのである。風儀の好さそうな家を択んで仕えようとした五百 なぞには、給料の多寡は初 より問う所でなかった。
修行は金を使ってする業 で、金を取る道は修行ではない。五百なぞも屋敷住いをして、役人に物を献じ、傍輩 に饗応 し、衣服調度を調 え、下女 を使って暮すには、父忠兵衛は年 に四百両を費したそうである。給料は三十両貰 っても九両貰っても、格別の利害を感ぜなかったはずである。
五百は藤堂家で信任せられた。勤仕いまだ一年に満たぬのに、天保二年の元日には中臈頭 に進められた。中臈頭はただ一人しか置かれぬ役で、通例二十四、五歳の女が勤める。それを五百は十六歳で勤めることになった。
その三十三
五百 は藤堂家に十年間奉公した。そして天保十年に二十四歳で、父忠兵衛の病気のために暇 を取った。後に夫となるべき抽斎は五百が本丸にいた間、尾島氏定 を妻とし、藤堂家にいた間、比良野氏威能 、岡西氏徳 を相踵 いで妻としていたのである。
五百の藤堂家を辞した年は、父忠兵衛の歿した年である。しかし奉公を罷 めた頃は、忠兵衛はまだ女 を呼び寄せるほどの病気をしてはいなかった。暇 を取ったのは、忠兵衛が女を旅に出すことを好まなかったためである。この年に藤堂高猷 夫妻は伊勢参宮をすることになっていて、五百は供の中 に加えられていた。忠兵衛は高猷の江戸を立つに先 って、五百を家に還 らしめたのである。
五百の帰った紺屋町の家には、父忠兵衛の外、当時五十歳の忠兵衛妾 牧 、二十八歳の兄栄次郎がいた。二十五歳の姉安 は四年前に阿部家を辞して、横山町 の塗物問屋 長尾宗右衛門 に嫁していた。宗右衛門は安がためには、ただ一つ年上の夫であった。
忠兵衛の子がまだ皆幼 く、栄次郎六歳、安三蔵、五百 二歳の時、麹町 の紙問屋山一 の女で松平摂津守 義建 の屋敷に奉公したことのある忠兵衛の妻は亡くなったので、跡には享和三年に十四歳で日野屋へ奉公に来た牧が、妾になっていたのである。
忠兵衛は晩年に、気が弱くなっていた。牧は人の上 に立って指図をするような女ではなかった。然るに五百が藤堂家から帰った時、日野屋では困難な問題が生じて全家 が頭 を悩ませていた。それは五百の兄栄次郎の身の上である。
栄次郎は初め抽斎に学んでいたが、尋 いで昌平黌 に通うことになった。安の夫になった宗右衛門は、同じ学校の諸生仲間で、しかもこの二人 だけが許多 の士人の間に介 まっていた商家の子であった。譬 えていって見れば、今の人が華族でなくて学習院に入 っているようなものである。
五百 が藤堂家に仕えていた間に、栄次郎は学校生活に平 ならずして、吉原通 をしはじめた。相方 は山口巴 の司 という女であった。五百が屋敷から下 る二年前に、栄次郎は深入 をして、とうとう司の身受 をするということになったことがある。忠兵衛はこれを聞き知って、勘当しようとした。しかし救解 のために五百が屋敷から来たので、沙汰罷 になった。
然るに五百が藤堂家を辞して帰った時、この問題が再燃していた。
栄次郎は妹の力に憑 って勘当を免れ、暫く謹慎して大門を潜 らずにいた。その隙 に司を田舎大尽 が受け出した。栄次郎は鬱症 になった。忠兵衛は心弱くも、人に栄次郎を吉原へ連れて往 かせた。この時司の禿 であった娘が、浜照 という名で、来月突出 になることになっていた。栄次郎は浜照の客になって、前よりも盛 な遊 をしはじめた。忠兵衛はまた勘当すると言い出したが、これと同時に病気になった。栄次郎もさすがに驚いて、暫く吉原へ往かずにいた。これが五百の帰った時の現状である。
この時に当って、まさに覆 らんとする日野屋の世帯 を支持して行こうというものが、新 に屋敷奉公を棄 てて帰った五百の外になかったことは、想像するに難くはあるまい。姉安は柔和に過ぎて決断なく、その夫宗右衛門は早世した兄の家業を襲 いでから、酒を飲んで遊んでいて、自分の産を治 することをさえ忘れていたのである。
その三十四
五百 は父忠兵衛をいたわり慰め、兄栄次郎を諌 め励まして、風浪に弄 ばれている日野屋という船の柁 を取った。そして忠兵衛の異母兄で十人衆を勤めた大孫 某 を証人に立てて、兄をして廃嫡を免れしめた。
忠兵衛は十二月七日に歿した。日野屋の財産は一旦 忠兵衛の意志に依 って五百の名に書き更 えられたが、五百は直ちにこれを兄に返した。
五百は男子と同じような教育を受けていた。藤堂家で武芸のために男之助と呼ばれた反面には、世間で文学のために新少納言 と呼ばれたという一面がある。同じ頃狩谷□斎 の女 俊 に少納言の称があったので、五百はこれに対 えてかく呼ばれたのである。
五百の師として事 えた人には、経学に佐藤一斎、筆札 に生方鼎斎 、絵画に谷文晁、和歌に前田夏蔭 があるそうである。十一、二歳の時夙 く奉公に出たのであるから、教を受けるには、宿に下る度ごとに講釈を聴 くとか、手本を貰って習って清書を見せに往くとか、兼題の歌を詠んで直してもらうとかいう稽古 の為方 であっただろう。
師匠の中 で最も老年であったのは文晁、次は一斎、次は夏蔭、最も少壮であったのが鼎斎である。年齢を推算するに、五百の生れた文化十三年には、文晁が五十四、一斎が四十五、夏蔭が二十四、鼎斎が十八になっていた。
文晁は前にいったとおり、天保十一年に七十八で歿した。五百が二十五の時である。一斎は安政六年九月二十四日に八十八で歿した。五百が四十四の時である。夏蔭は元治 元年八月二十六日に七十二で歿した。五百が四十九の時である。鼎斎は安政三年正月七日に五十八で歿した。五百が四十一の時である。鼎斎は画家福田半香 の村松町 の家へ年始の礼に往って酒に酔 い、水戸の剣客某と口論をし出して、其の門人に斬られたのである。
五百は鼎斎を師とした外に、近衛予楽院 と橘千蔭 との筆跡を臨模 したことがあるそうである。予楽院家煕 は元文 元年に薨 じた。五百の生れる前八十年である。芳宜園千蔭 は身分が町奉行与力 で、加藤又左衛門 と称し、文化五年に歿した。五百の生れる前八年である。
五百は藤堂家を下ってから五年目に渋江氏に嫁した。穉 い時から親しい人を夫にするのではあるが、五百の身に取っては、自分が抽斎に嫁し得るというポッシビリテエの生じたのは、二月に岡西氏徳 が亡くなってから後 の事である。常に往来していた渋江の家であるから、五百は徳の亡くなった二月から、自分の嫁して来る十一月までの間にも、抽斎を訪 うたことがある。未婚男女の交際とか自由結婚とかいう問題は、当時の人は夢にだに知らなかった。立派な教育のある二人 が、男は四十歳、女は二十九歳で、多く年を閲 した友人関係を棄てて、遽 に夫婦関係に入 ったのである。当時においては、醒覚 せる二人 の間に、此 の如く婚約が整ったということは、絶 てなくして僅 にあるものといって好かろう。
わたくしは鰥夫 になった抽斎の許 へ、五百の訪 い来た時の緊張したシチュアションを想像する。そして保 さんの語った豊芥子 の逸事を憶 い起して可笑 しく思う。五百の渋江へ嫁入する前であった。或日五百が来て抽斎と話をしていると、そこへ豊芥子が竹の皮包 を持って来合せた。そして包を開いて抽斎に鮓 を薦 め、自分も食い、五百に是非食えといった。後に五百は、あの時ほど困ったことはないといったそうである。
その三十五
五百 は抽斎に嫁するに当って、比良野文蔵の養女になった。文蔵の子で目附役 になっていた貞固 は文化九年生 で、五百の兄栄次郎と同年であったから、五百はその妹になったのである。然るに貞固は姉威能 の跡に直る五百だからというので、五百を姉と呼ぶことにした。貞固の通称は祖父と同じ助太郎である。
文蔵は仮親 になるからは、真 の親と余り違わぬ情誼 がありたいといって、渋江氏へ往く三カ月ばかり前に、五百を我家 に引き取った。そして自分の身辺におらせて、煙草を填 めさせ、茶を立てさせ、酒の酌をさせなどした。
助太郎は武張 った男で、髪を糸鬢 に結い、黒紬 の紋附を着ていた。そしてもう藍原氏 かなという嫁があった。初め助太郎とかなとは、まだかなが藍原右衛門 の女 であった時、穴隙 を鑽 って相見 えたために、二人は親々 の勘当を受けて、裏店 の世帯を持った。しかしどちらも可哀 い子であったので、間もなくわびが□ って助太郎は表立ってかなを妻に迎えたのである。
五百が抽斎に帰 いだ時の支度は立派であった。日野屋の資産は兄栄次郎の遊蕩 によって傾 き掛かってはいたが、先代忠兵衛が五百に武家奉公をさせるために為向 けて置いた首飾 、衣服、調度だけでも、人の目を驚かすに足るものがあった。今の世の人も奉公上りには支度があるという。しかしそれは賜物 をいうのである。当時の女子 はこれに反して、主 に親の為向けた物を持っていたのである。五年の後に夫が将軍に謁した時、五百はこの支度の一部を沽 って、夫の急を救うことを得た。またこれに先 つこと一年に、森枳園 が江戸に帰った時も、五百はこの支度の他の一部を贈って、枳園の妻をして面目を保たしめた。枳園の妻は後々 までも、衣服を欲するごとに五百に請うので、お勝 さんはわたしの支度を無尽蔵だと思っているらしいといって、五百が歎息したことがある。
五百の来り嫁した時、抽斎の家族は主人夫婦、長男恒善 、長女純 、次男優善 の五人であったが、間もなく純は出 でて馬場氏の婦 となった。
弘化二年から嘉水元年までの間、抽斎が四十一歳から四十四歳までの間には、渋江氏の家庭に特筆すべき事が少 かった。五百の生んだ子には、弘化二年十一月二十六日生 の三女棠 、同三年十月十九日生れの四男幻香 、同四年十月八日生れの四女陸 がある。四男は死んで生れたので、幻香水子 はその法諡 である。陸は今の杵屋勝久 さんである。嘉永元年十二月二十八日には、長男恒善 が二十三歳で月並 出仕を命ぜられた。
五百 の里方 では、先代忠兵衛が歿してから三年ほど、栄次郎の忠兵衛は謹慎していたが、天保十三年に三十一歳になった頃から、また吉原へ通いはじめた。相方 は前の浜照 であった。そして忠兵衛は遂に浜照を落籍させて妻 にした。尋 いで弘化三年十一月二十二日に至って、忠兵衛は隠居して、日野屋の家督を僅 に二歳になった抽斎の三女棠 に相続させ、自分は金座 の役人の株を買って、広瀬栄次郎と名告 った。
五百の姉安を娶 った長尾宗右衛門は、兄の歿した跡を襲 いでから、終日手杯 を釈 かず、塗物問屋 の帳場は番頭に任せて顧みなかった。それを温和に過ぐる性質の安は諌 めようともしないので、五百は姉を訪うてこの様子を見る度にもどかしく思ったが為方 がなかった。そういう時宗右衛門は五百を相手にして、『資治通鑑 』の中の人物を評しなどして、容易に帰ることを許さない。五百が強いて帰ろうとすると、宗右衛門は安の生んだお敬 お銓 の二人の女 に、おばさんを留めいという。二人の女は泣いて留める。これはおばの帰った跡で家が寂しくなるのと、父が不機嫌になるのとを憂えて泣くのである。そこで五百はとうとう帰る機会を失うのである。五百がこの有様を夫に話すと、抽斎は栄次郎の同窓で、妻の姉壻たる宗右衛門の身の上を気遣 って、わざわざ横山町へ諭 しに往った。宗右衛門は大いに慙 じて、やや産業に意を用いるようになった。
その三十六
森枳園 は大磯で医業が流行するようになって、生活に余裕も出来たので、時々江戸へ出た。そしてその度ごとに一週間位は渋江の家に舎 ることになっていた。枳園の形装 は決してかつて夜逃 をした土地へ、忍びやかに立ち入る人とは見えなかった。保 さんの記憶している五百 の話によるに、枳園はお召縮緬 の衣 を着て、海老鞘 の脇指 を差し、歩くに褄 を取って、剥身絞 の褌 を見せていた。もし人がその七代目団十郎 を贔屓 にするのを知っていて、成田屋 と声を掛けると、枳園は立ち止まって見えをしたそうである。そして当時の枳園はもう四十男であった。尤 もお召縮緬を着たのは、強 ち奢侈 と見るべきではあるまい。一反 二分 一朱か二分二朱であったというから、着ようと思えば着られたのであろうと、保さんがいう。
枳園の来て舎 る頃に、抽斎の許 にろくという女中がいた。ろくは五百が藤堂家にいた時から使ったもので、抽斎に嫁するに及んで、それを連れて来たのである。枳園は来り舎るごとに、この女を追い廻していたが、とうとう或日逃げる女を捉えようとして大行燈 を覆し、畳を油だらけにした。五百は戯 に絶交の詩を作って枳園に贈った。当時ろくを揶揄 うものは枳園のみでなく、豊芥子 も訪ねて来るごとにこれに戯れた。しかしろくは間もなく渋江氏の世話で人に嫁した。
枳園はまた当時纔 に二十歳を踰 えた抽斎の長男恒善 の、いわゆるおとなし過ぎるのを見て、度々 吉原へ連れて往 こうとした。しかし恒善は聴 かなかった。枳園は意を五百に明かし、母の黙許というを以て恒善を動 そうとした。しかし五百は夫が吉原に往くことを罪悪としているのを知っていて、恒善を放ち遣 ることが出来ない。そこで五百は幾たびか枳園と論争したそうである。
枳園が此 の如くにしてしばしば江戸に出たのは、遊びに出たのではなかった。故主 の許 に帰参しようとも思い、また才学を負うた人であるから、首尾好 くは幕府の直参 にでもなろうと思って、機会を窺 っていたのである。そして渋江の家はその策源地であった。
卒 に見れば、枳園が阿部家の古巣に帰るのは易 く、新に幕府に登庸せられるのは難いようである。しかし実況にはこれに反するものがあった。枳園は既に学術を以て名を世間に馳 せていた。就中 本草 に精 しいということは人が皆認めていた。阿部伊勢守正弘はこれを知らぬではない。しかしその才学のある枳園の軽佻 を忌む心が頗 る牢 かった。多紀一家 殊に□庭 はややこれと趣を殊にしていて、ほぼこの人の短を護 して、その長を用いようとする抽斎の意に賛同していた。
枳園を帰参させようとして、最も尽力したのは伊沢榛軒 、柏軒の兄弟であるが、抽斎もまた福山の公用人服部九十郎 、勘定奉行小此木伴七 、大田 、宇川 等に内談し、また小島成斎等をして説かしむること数度であった。しかしいつも藩主の反感に阻 げられて事が行われなかった。そこで伊沢兄弟と抽斎とは先ず□庭の同情に愬 えて幕府の用を勤めさせ、それを規模にして阿部家を説き動 そうと決心した。そして終 にこの手段を以て成功した。
この期間の末 の一年、嘉永元年に至って枳園は躋寿館 の一事業たる『千金方 』校刻 を手伝うべき内命を贏 ち得た。そして五月には阿部正弘が枳園の帰藩を許した。
その三十七
阿部家への帰参が□ って、枳園が家族を纏 めて江戸へ来ることになったので、抽斎はお玉が池の住宅の近所に貸家 のあったのを借りて、敷金を出し家賃を払い、応急の器什 を買い集めてこれを迎えた。枳園だけは病家へ往 かなくてはならぬ職業なので、衣類も一通 持っていたが、家族は身に着けたものしか持っていなかった。枳園の妻勝 の事を、五百 があれでは素裸 といっても好 いといった位である。五百は髪飾から足袋 下駄 まで、一切揃 えて贈った。それでも当分のうちは、何かないものがあると、蔵から物を出すように、勝は五百の所へ貰 いに来た。或日これで白縮緬の湯具 を六本遣 ることになると、五百がいったことがある。五百がどの位親切に世話をしたか、勝がどの位恬然 として世話をさせたかということが、これによって想像することが出来る。また枳園に幾多の悪 性癖があるにかかわらず、抽斎がどの位、その才学を尊重していたかということも、これによって想像することが出来る。
枳園が医書彫刻取扱手伝 という名義を以て、躋寿館に召し出されたのは、嘉永元年十月十六日である。
当時躋寿館で校刻に従事していたのは、『備急 千金要方』三十巻三十二冊の宋槧本 であった。これより先 き多紀氏は同じ孫思□ の『千金翼方 』三十巻十二冊を校刻した。これは元 の成宗 の大徳 十一年梅渓 書院の刊本を以て底本としたものである。尋 いで手に入 ったのが『千金要方』の宋版である。これは毎巻金沢文庫 の印があって、北条顕時 の旧蔵本である。米沢 の城主上杉 弾正大弼 斉憲 がこれを幕府に献じた。細 に検すれば南宋『乾道淳煕 』中の補刻数葉が交っているが、大体は北宋の旧面目 を存している。多紀氏はこれをも私費を以て刻せようとした。然るに幕府はこれを聞いて、官刻を命ずることになった。そこで影写校勘の任に当らしむるために、三人の手伝が出来た。阿部伊勢守正弘の家来伊沢磐安 、黒田 豊前守 直静 の家来堀川舟庵 、それから多紀楽真院 門人森養竹 である。磐安は即ち柏軒で、舟庵は『経籍訪古志』の跋 に見えている堀川済 である。舟庵の主 黒田直静は上総国久留利 の城主で、上屋敷は下谷広小路 にあった。
任命は若年寄 大岡主膳正 忠固 の差図を以て、館主多紀安良 が申し渡し、世話役小島春庵 、世話役手伝勝本理庵 、熊谷 弁庵 が列座した。安良は即ち暁湖 である。
何故 に枳園が□庭 の門人として召し出されたかは知らぬが、阿部家への帰参は当時内約のみであって、まだ表向 になっていなかったのでもあろうか。枳園は四十二歳になっていた。
この年八月二十九日に、真志屋 五郎作 が八十歳で歿した。抽斎はこの時三世劇神仙 になったわけである。
嘉永二年三月七日に、抽斎は召されて登城 した。躑躅 の間 において、老中 牧野備前守忠雅 の口達 があった。年来学業出精に付 、ついでの節目見 仰附けらるというのである。この月十五日に謁見は済んだ。始て「武鑑」に載せられる身分になったのである。
わたくしの蔵している嘉永二年の「武鑑」には、目見医師の部に渋江道純の名が載せてあって、屋敷の所が彫刻せずにある。三年の「武鑑」にはそこに紺屋町一丁目と刻してある。これはお玉が池の家が手狭 なために、五百の里方山内の家を渋江邸として届け出 でたものである。
その三十八
抽斎の将軍家慶 に謁見したのは、世の異数となす所であった。素 より躋寿館に勤仕する医者には、当時奥医師になっていた建部 内匠頭 政醇 家来辻元□庵 の如く目見 の栄に浴する前例はあったが、抽斎に先 って伊沢榛軒 が目見をした時には、藩主阿部正弘が老中 になっているので、薦達 の早きを致したのだとさえ言われた。抽斎と同日に目見をした人には、五年前 に共に講師に任ぜられた町医坂上玄丈 があった。しかし抽斎は玄丈よりも広く世に知られていたので、人がその殊遇 を美 めて三年前に目見をした松浦 壱岐守 慮 の臣朝川善庵 と並称した。善庵は抽斎の謁見に先 つこと一月 、嘉永二年二月七日に、六十九歳で歿したが、抽斎とも親しく交 って、渋江の家の発会 には必ず来る老人株の一人であった。善庵、名は鼎 、字は五鼎、実は江戸の儒家片山兼山 の子である。兼山の歿した後 、妻 原氏 が江戸の町医朝川黙翁 に再嫁した。善庵の姉寿美 と兄道昌 とは当時の連子 で、善庵はまだ母の胎内にいた。黙翁は老いて病 に至って、福山氏に嫁した寿美を以て、善庵に実 を告げさせ、本姓に復することを勧めた。しかし善庵は黙翁の撫育 の恩に感じて肯 わず、黙翁もまた強いて言わなかった。善庵は次男格 をして片山氏を嗣 がしめたが、格は早世した。長男正準 は出 でて相田 氏を冒 したので、善庵の跡は次女の壻横山氏※ [#「鹿/辰」、117-6]が襲 いだ。
弘前藩では必ずしも士人を幕府に出すことを喜ばなかった。抽斎が目見をした時も、同僚にして来り賀するものは一人 もなかった。しかし当時世間一般には目見以上ということが、頗 る重きをなしていたのである。伊沢榛軒は少しく抽斎に先んじて目見をしたが、阿部家のこれに対する処置には榛軒自己をして喫驚 せしむるものがあった。榛軒は目見の日に本郷丸山の中屋敷から登城した。さて目見を畢 って帰って、常の如く通用門を入 らんとすると、門番が忽 ち本門の側 に下座した。榛軒は誰 を迎えるのかと疑って、四辺 を顧 たが、別に人影は見えなかった。そこで始て自分に礼を行うのだと知った。次いで常の如く中の口から進もうとすると、玄関の左右に詰衆 が平伏しているのに気が附いた。榛軒はまた驚いた。間もなく阿部家では、榛軒を大目附格に進ましめた。
目見は此 の如く世の人に重視せられる習 であったから、この栄を荷 うものは多くの費用を弁ぜなくてはならなかった。津軽家では一カ年間に返済すべしという条件を附して、金三両を貸したが、抽斎は主家の好意を喜びつつも、殆 どこれを何の費 に充 てようかと思い惑った。
目見をしたものは、先ず盛宴を開くのが例になっていた。そしてこれに招くべき賓客 の数 もほぼ定まっていた。然るに抽斎の居宅には多く客 を延 くべき広間がないので、新築しなくてはならなかった。五百 の兄忠兵衛が来て、三十両の見積 を以て建築に着手した。抽斎は銭穀 の事に疎 いことを自知していたので、商人たる忠兵衛の言うがままに、これに経営を一任した。しかし忠兵衛は大家 の若檀那 上 りで、金を擲 つことにこそ長じていたが、□ んでこれを使うことを解せなかった。工事いまだ半 ならざるに、費す所は既に百数十両に及んだ。
平生 金銭に無頓着 であった抽斎も、これには頗る当惑して、鋸 の音槌 の響のする中で、顔色 は次第に蒼 くなるばかりであった。五百は初 から兄の指図を危 みつつ見ていたが、この時夫に向っていった。
「わたくしがこう申すと、ひどく出過ぎた口をきくようではございますが、御 一代に幾度 というおめでたい事のある中で、金銭の事位で御心配なさるのを、黙って見ていることは出来ませぬ。どうぞ費用の事はわたくしにお任せなすって下さいまし。」
抽斎は目を□ った。「お前そんな事を言うが、何百両という金は容易に調達 せられるものではない。お前は何か当 があってそういうのか。」
五百はにっこり笑った。「はい。幾らわたくしが痴 でも、当なしには申しませぬ。」
その三十九
五百 は女中に書状を持たせて、ほど近い質屋へ遣 った。即ち市野迷庵の跡の家である。彼 の今に至るまで石に彫 られずにある松崎慊堂 の文にいう如く、迷庵は柳原の店で亡くなった。その跡を襲 いだのは松太郎光寿 で、それが三右衛門 の称をも継承した。迷庵の弟光忠 は別に外神田 に店を出した。これより後 内神田の市野屋と、外神田の市野屋とが対立していて、彼は世 三右衛門を称し、此 は世 市三郎を称した。五百が書状を遣った市野屋は当時弁慶橋にあって、早くも光寿の子光徳 の代になっていた。光寿は迷庵の歿後僅 に五年にして、天保三年に光徳を家督させた。光徳は小字 を徳治郎 といったが、この時更 めて三右衛門を名告 った。外神田の店はこの頃まだ迷庵の姪 光長 の代であった。
ほどなく光徳の店の手代 が来た。五百 は箪笥 長持 から二百数十枚の衣類寝具を出して見せて、金を借らんことを求めた。手代は一枚一両の平均を以て貸そうといった。しかし五百は抗争した末に、遂に三百両を借 ることが出来た。
三百両は建築の費 を弁ずるには余 ある金であった。しかし目見 に伴う飲□贈遺 一切の費は莫大 であったので、五百は終 に豊芥子 に託して、主 なる首飾 類を売ってこれに充 てた。その状当 に行うべき所を行う如くであったので、抽斎はとかくの意見をその間に挟 むことを得なかった。しかし中心には深くこれを徳とした。
抽斎の目見をした年の閏 四月十五日に、長男恒善 は二十四歳で始て勤仕した。八月二十八日に五女癸巳 が生れた。当時の家族は主人四十五歳、妻 五百 三十四歳、長男恒善二十四歳、次男優善 十五歳、四女陸 三歳、五女癸巳一歳の六人であった。長女純 は馬場氏に嫁し、三女棠 は山内氏を襲 ぎ、次女よし、三男八三郎、四男幻香 は亡くなっていたのである。
嘉永三年には、抽斎が三月十一日に幕府から十五人扶持を受くることとなった。藩禄等は凡 て旧に依 るのである。八月晦 に、馬場氏に嫁していた純が二十歳で歿した。この年抽斎は四十六歳になった。
五百の仮親比良野文蔵の歿したのも、同じ年の四月二十四日である。次いで嗣子貞固 が目附から留守居に進んだ。津軽家の当時の職制より見れば、いわゆる独礼 の班 に加わったのである。独礼とは式日 に藩主に謁するに当って、単独に進むものをいう。これより下 は二人立 、三人立等となり、遂に馬廻 以下の一統礼に至るのである。
当時江戸に集っていた列藩の留守居は、宛然 たるコオル・ヂプロマチックを形 っていて、その生活は頗 る特色のあるものであった。そして貞固の如きは、その光明面を体現していた人物といっても好かろう。
衣類を黒紋附 に限っていた糸鬢奴 の貞固は、素 より読書の人ではなかった。しかし書巻を尊崇 して、提挈 をその中 に求めていたことを思えば、留守居中稀有 の人物であったのを知ることが出来る。貞固は留守居に任ぜられた日に、家に帰るとすぐに、折簡 して抽斎を請 じた。そして容 を改めていった。
「わたくしは今日 父の跡を襲いで、留守居役を仰付 けられました。今までとは違った心掛 がなくてはならぬ役目と存ぜられます。実はそれに用立 つお講釈が承わりたさに、御足労を願いました。あの四方に使 して君命を辱 めずということがございましたね。あれを一つお講じ下さいますまいか。」
「先ず何よりもおよろこびを言わんではなるまい。さて講釈の事だが、これはまた至極のお思附 だ。委細承知しました」と抽斎は快 く諾した。
その四十
抽斎は有合せの道春点 の『論語』を取り出させて、巻 七を開いた。そして「子貢問曰 、何如斯可謂之土矣 」という所から講じ始めた。固 より朱註をば顧みない。都 て古義に従って縦説横説した。抽斎は師迷庵の校刻した六朝本 の如きは、何時 でも毎葉 毎行 の文字の配置に至るまで、空 に憑 って思い浮べることが出来たのである。
貞固 は謹んで聴 いていた。そして抽斎が「子曰 、噫斗□之人 、何足算也 」に説き到 ったとき、貞固の目はかがやいた。
講じ畢 った後 、貞固は暫 く瞑目 沈思していたが、徐 に起 って仏壇の前に往って、祖先の位牌の前にぬかずいた。そしてはっきりした声でいった。「わたくしは今日 から一命を賭 して職務のために尽します。」貞固の目には涙が湛 えられていた。
抽斎はこの日に比良野の家から帰って、五百 に「比良野は実に立派な侍 だ」といったそうである。その声は震 を帯びていたと、後に五百が話した。
留守居になってからの貞固は、毎朝 日の出 ると共に起きた。そして先ず厩 を見廻った。そこには愛馬浜風 が繋 いであった。友達がなぜそんなに馬を気に掛けるかというと、馬は生死 を共にするものだからと、貞固は答えた。厩から帰ると、盥嗽 して仏壇の前に坐した。そして木魚 を敲 いて誦経 した。この間は家人を戒めて何の用事をも取り次がしめなかった。来客もそのまま待たせられることになっていた。誦経が畢 って、髪を結わせた。それから朝餉 の饌 に向った。饌には必ず酒を設けさせた。朝といえども省かない。□ には選嫌 をしなかったが、のだ平 の蒲鉾 を嗜 んで、闕 かさずに出させた。これは贅沢品 で、鰻 の丼 が二百文、天麩羅蕎麦 が三十二文、盛掛 が十六文するとき、一板 二分二朱であった。
朝餉 の畢 る比 には、藩邸で巳 の刻の大鼓 が鳴る。名高い津軽屋敷の櫓 大鼓である。かつて江戸町奉行がこれを撃つことを禁ぜようとしたが、津軽家が聴 ずに、とうとう上屋敷を隅田川 の東に徙 されたのだと、巷説 に言い伝えられている。津軽家の上屋敷が神田小川町 から本所に徙されたのは、元禄元年で、信政の時代である。貞固は巳の刻の大鼓を聞くと、津軽家の留守居役所に出勤して事務を処理する。次いで登城して諸家 の留守居に会う。従者は自ら豢 っている若党草履取 の外に、主家 から附けられるのである。
留守居には集会日というものがある。その日には城から会場へ往 く。八百善 、平清 、川長 、青柳 等の料理屋である。また吉原に会することもある。集会には煩瑣 な作法があった。これを礼儀といわんは美に過ぎよう。譬 えば筵席 の觴政 の如く、また西洋学生団のコンマンの如しともいうべきであろうか。しかし集会に列するものは、これがために命の取遣 をもしなくてはならなかった。就中 厳しく守られていたのは新参 故参 の序次で、故参は新参のために座より起つことなく、新参は必ず故参の前に進んで挨拶 しなくてはならなかった。
津軽家では留守居の年俸を三百石とし、別に一カ月の交際費十八両を給した。比良野は百石取ゆえ、これに二百石を補足せられたのである。五百 の覚書 に拠 るに、三百石十人扶持の渋江の月割が五両一分、二百石八人扶持の矢島の月割が三両三分であった。矢島とは後に抽斎の二子優善 が養子に往った家の名である。これに由 って観 れば、貞固の月収は五両一分に十八両を加えた二十三両一分と見て大いなる差違はなかろう。然るに貞固は少くも月に交際費百両を要した。しかもそれは平常の費 である。吉原に火災があると、貞固は妓楼 佐野槌 へ、百両に熨斗 を附けて持たせて遣らなくてはならなかった。また相方黛 のむしんをも、折々は聴いて遣らなくてはならなかった。或る年の暮に、貞固が五百に私語したことがある。「姉 えさん、察して下さい。正月が来るのに、わたしは実は褌 一本買う銭もない。」
その四十一
均 しくこれ津軽家の藩士で、柳島附の目附から、少しく貞固 に遅れて留守居に転じたものがある。平井氏 、名は俊章 、字 は伯民 、小字 は清太郎 、通称は修理 で、東堂 と号した。文化十一年生 で貞固よりは二つの年下である。平井の家は世禄 二百石八人扶持なので、留守居になってから百石の補足を受けた。
貞固は好丈夫 で威貌 があった。東堂もまた風□ 人に優れて、しかも温容親 むべきものがあった。そこで世の人は津軽家の留守居は双壁 だと称したそうである。
当時の留守居役所には、この二人 の下に留守居下役 杉浦多吉 、留守居物書 藤田徳太郎 などがいた。杉浦は後喜左衛門 といった人で、事務に諳錬 した六十余の老人であった。藤田は維新後に潜 と称した人で、当時まだ青年であった。
或日東堂が役所で公用の書状を発せようとして、藤田に稿を属 せしめた。藤田は案を具 して呈した。
「藤田。まずい文章だな。それにこの書様 はどうだ。もう一遍書き直して見い。」東堂の顔は頗 る不機嫌に見えた。
原来 平井氏は善書 の家である。祖父峩斎 はかつて筆札 を高頤斎 に受けて、その書が一時に行われたこともある。峩斎、通称は仙右衛門 、その子を仙蔵 という。後 父の称を襲 ぐ。この仙蔵の子が東堂である。東堂も沢田東里 の門人で書名があり、かつ詩文の才をさえ有していた。それに藤田は文においても書においても、専門の素養がない。稿を更 めて再び呈したが、それが東堂を満足せしめるはずがない。
「どうもまずいな。こんな物しか出来ないのかい。一体これでは御用が勤まらないといっても好 い。」こういって案を藤田に還 した。
藤田は股栗 した。一身の恥辱、家族の悲歎が、頭 を低 れている青年の想像に浮かんで、目には涙が涌 いて来た。
この時貞固が役所に来た。そして東堂に問うて事の顛末 を知った。
貞固は藤田の手に持っている案を取って読んだ。
「うん。一通 わからぬこともないが、これでは平井の気には入るまい。足下 は気が利 かないのだ。」
こういって置いて、貞固は殆 ど同じような文句を巻紙 に書いた。そしてそれを東堂の手にわたした。
「どうだ。これで好 いかな。」
東堂は毫 も敬服しなかった。しかし故参の文案に批評を加えることは出来ないので、色を和 げていった。
「いや、結構です。どうもお手を煩わして済みません。」
貞固は案を東堂の手から取って、藤田にわたしていった。
「さあ。これを清書しなさい。文案はこれからはこんな工合に遣 るが好い。」
藤田は「はい」といって案を受けて退いたが、心中には貞固に対して再造の恩を感じたそうである。想 うに東堂は外 柔にして内 険、貞固は外 猛にして内 寛であったと見える。
わたくしは前に貞固が要職の体面 をいたわるがために窮乏して、古褌 を着けて年を迎えたことを記 した。この窮乏は東堂といえどもこれを免るることを得なかったらしい。ここに中井敬所 が大槻如電 さんに語ったという一の事実があって、これが証に充 つるに足るのである。
この事は前 の日わたくしが池田京水 の墓と年齢とを文彦さんに問いに遣 った時、如電さんがかつて手記して置いたものを抄写して、文彦さんに送り、文彦さんがそれをわたくしに示した。わたくしは池田氏の事を問うたのに、何故 に如電さんは平井氏の事を以て答えたか。それには理由がある。平井東堂の置いた質 が流れて、それを買ったのが、池田京水の子瑞長 であったからである。
その四十二
東堂が質に入れたのは、銅仏一躯 と六方印 一顆 とであった。銅仏は印度 で鋳造した薬師如来 で、戴曼公 の遺品である。六方印は六面に彫刻した遊印 である。
質流 になった時、この仏像を池田瑞長が買った。然 るに東堂は後 金が出来たので、瑞長に交渉して、価 を倍して購 い戻そうとした。瑞長は応ぜなかった。それは平井氏も、池田氏も、戴曼公の遺品を愛惜 する縁故があるからである。
戴曼公は書法を高天□ に授けた。天□、名は玄岱 、初 の名は立泰 、字 は子新 、一の字 は斗胆 、通称は深見新左衛門 で、帰化明人 の裔 である。祖父高寿覚 は長崎に来て終った。父大誦 は訳官になって深見氏を称した。深見は渤海 である。高氏は渤海より出 でたからこの氏を称したのである。天□は書を以て鳴ったもので、浅草寺 の施無畏 の□額 の如きは、人の皆知る所である。享保七年八月八日に、七十四歳で歿した。その曼公に書を学んだのは、十余歳の時であっただろう。天□の子が頤斎 である。頤斎の弟子 が峩斎 である。峩斎の孫が東堂である。これが平井氏の戴師持念仏に恋々たる所以 である。
戴曼公はまた痘科を池田嵩山 に授けた。嵩山の曾孫が錦橋 、錦橋の姪 が京水、京水の子が瑞長である。これが池田氏の偶 獲た曼公の遺品を愛重 して措 かなかった所以である。
この薬師如来は明治の代 となってから守田宝丹 が護持していたそうである。また六方印は中井敬所の有に帰していたそうである。
貞固と東堂とは、共に留守居の物頭 を兼ねていた。物頭は詳しくは初手 足軽頭 といって、藩の諸兵の首領である。留守居も物頭も独礼 の格式である。平時は中下 屋敷附近に火災の起 るごとに、火事装束 を着けて馬に騎 り、足軽数十人を随 えて臨検した。貞固はその帰途には、殆ど必ず渋江の家に立ち寄った。実に威風堂々たるものであったそうである。
貞固も東堂も、当時諸藩の留守居中有数の人物であったらしい。帆足万里 はかつて留守居を罵 って、国財を靡 し私腹を肥やすものとした。この職におるものは、あるいは多く私財を蓄えたかも知れない。しかし保 さんは少時帆足の文を読むごとに心平 かなることを得なかったという。それは貞固の人 と為 りを愛していたからである。
嘉永四年には、二月四日に抽斎の三女で山内氏を冒していた棠子 が、痘を病んで死んだ。尋 いで十五日に、五女癸巳 が感染して死んだ。彼は七歳、此 は三歳である。重症で曼公の遺法も功を奏せなかったと見える。三月二十八日に、長子恒善 が二十六歳で、柳島に隠居していた信順 の近習 にせられた。六月十二日に、二子優善 が十七歳で、二百石八人扶持の矢島玄碩 の末期養子 になった。この年渋江氏は本所台所町 に移って、神田の家を別邸とした。抽斎が四十七歳、五百が三十六歳の時である。
優善は渋江一族の例を破って、少 うして烟草 を喫 み、好んで紛華奢靡 の地に足を容 れ、とかく市井のいきな事、しゃれた事に傾 きやすく、当時早く既に前途のために憂うべきものがあった。
本所で渋江氏のいた台所町は今の小泉町 で、屋敷は当時の切絵図 に載せてある。
その四十三
嘉永五年には四月二十九日に、抽斎の長子恒善が二十七歳で、二の丸火の番六十俵田口儀三郎 の養女糸 を娶 った。五月十八日に、恒善に勤料 三人扶持を給せられた。抽斎が四十人歳、五百が三十七歳の時である。
伊沢氏ではこの年十一月十七日に、榛軒が四十九歳で歿した。榛軒は抽斎より一つの年上で、二人の交 は頗 る親しかった。楷書 に片仮名を交 ぜた榛軒の尺牘 には、宛名 が抽斎賢弟としてあった。しかし抽斎は小島成斎におけるが如く心を傾けてはいなかったらしい。
榛軒は本郷丸山の阿部家の中屋敷に住んでいた。父蘭軒の時からの居宅で、頗る広大な構 であった。庭には吉野桜 八株 を栽 え、花の頃には親戚 知友を招いてこれを賞した。その日には榛軒の妻 飯田氏しほと女 かえとが許多 の女子 を役 して、客に田楽 豆腐などを供せしめた。パアル・アンチシパションに園遊会を催したのである。歳 の初 の発会式 も、他家に較 ぶれば華やかであった。しほの母は素 京都諏訪 神社の禰宜 飯田氏の女 で、典薬頭 某の家に仕えているうちに、その嗣子と私 してしほを生んだ。しほは落魄 して江戸に来て、木挽町 の芸者になり、些 の財を得て業を罷 め、新堀 に住んでいたそうである。榛軒が娶ったのはこの時の事である。しほは識 らぬ父の記念 の印籠 一つを、母から承 け伝えて持っていた。榛軒がしほに生ませた女 かえは、一時池田京水の次男全安 を迎えて夫としていたが、全安が広く内科を究めずに、痘科と唖 科とに偏するというを以て、榛軒が全安を京水の許 に還したそうである。
榛軒は辺幅 を脩 めなかった。渋江の家を訪 うに、踊りつつ玄関から入 って、居間の戸の外から声を掛けた。自ら鰻 を誂 えて置いて来て、粥 を所望 することもあった。そして抽斎に、「どうぞ己 に構ってくれるな、己には御新造 が合口 だ」といって、書斎に退かしめ、五百と語りつつ飲食 するを例としたそうである。
榛軒が歿してから一月 の後 、十二月十六日に弟柏軒が躋寿館 の講師にせられた。森枳園 らと共に『千金方』校刻の命を受けてから四年の後で、柏軒は四十三歳になっていた。
この年に五百の姉壻長尾宗右衛門が商業の革新を謀 って、横山町 の家を漆器店 のみとし、別に本町 二丁目に居宅を置くことにした。この計画のために、抽斎は二階の四室を明けて、宗右衛門夫妻、敬 、銓 の二女、女中一人 、丁稚 一人を棲 まわせた。
嘉永六年正月十九日に、抽斎の六女水木 が生れた。家族は主人夫婦、恒善夫婦、陸 、水木の六人で、優善 は矢島氏の主人になっていた。抽斎四十九歳、五百 三十八歳の時である。
この年二月二十六日に、堀川舟庵 が躋寿館の講師にせられて、『千金方』校刻の事に任じた三人の中 森枳園が一人残された。
安政元年はやや事多き年であった。二月十四日に五男専六 が生れた。後に脩 と名告 った人である。三月十日に長子恒善が病んで歿した。抽斎は子婦 糸の父田口儀三郎の窮を憫 んで、百両余の金を餽 り、糸をば有馬宗智 というものに再嫁せしめた。十二月二十六日に、抽斎は躋寿館の講師たる故を以て、年 に五人扶持を給せられることになった。今の勤務加俸の如きものである。二十九日に更に躋寿館医書彫刻手伝 を仰附けられた。今度校刻すべき書は、円融 天皇の天元 五年に、丹波康頼 が撰んだという『医心方 』である。
保さんの所蔵の「抽斎手記」に、『医心方』の出現という語がある。昔から厳 に秘せられていた書が、忽 ち目前に出て来た状 が、この語で好く表 されている。「秘玉突然開□出 。瑩光明徹点瑕無 。金龍山畔波濤起 。龍口初探是此珠 。」これは抽斎の亡妻の兄岡西玄亭が、当時喜 を記した詩である。龍口 といったのは、『医心方』が若年寄 遠藤但馬守胤統 の手から躋寿館に交付せられたからであろう。遠藤の上屋敷は辰口 の北角 であった。
その四十四
日本の古医書は『続群書類従 』に収めてある和気広世 の『薬経太素 』、丹波康頼 の『康頼本草 』、釈蓮基 の『長生 療養方』、次に多紀家で校刻した深根輔仁 の『本草和名 』、丹波雅忠 の『医略抄』、宝永中に印行 せられた具平親王 の『弘決外典抄 』の数種を存するに過ぎない。具平親王の書は本 字類に属して、此 に算すべきではないが、医事に関する記載が多いから列記した。これに反して、彼 の出雲広貞 らの上 った『大同類聚方 』の如きは、散佚 して世に伝わらない。
それゆえ天元五年に成って、永観 二年に上 られた『医心方』が、殆 ど九百年の後の世に出 でたのを見て、学者が血を涌 き立たせたのも怪 むに足らない。
『医心方』は禁闕 の秘本であった。それを正親町 天皇が出 して典薬頭 半井 通仙院 瑞策 に賜わった。それからは世 半井氏が護持していた。徳川幕府では、寛政の初 に、仁和寺 文庫本を謄写せしめて、これを躋寿館に蔵せしめたが、この本は脱簡が極 て多かった。そこで半井氏の本を獲ようとしてしばしば命を伝えたらしい。然るに当時半井大和守成美 は献ずることを肯 ぜず、その子修理大夫 清雅 もまた献ぜず、遂 に清雅の子出雲守広明 に至った。
半井氏が初め何 の辞 を以て命を拒んだかは、これを詳 にすることが出来ない。しかし後には天明八年の火事に、京都において焼失したといった。天明八年の火事とは、正月晦 に洛東団栗辻 から起って、全都を灰燼 に化せしめたものをいうのである。幕府はこの答に満足せずに、似寄 の品でも好 いから出せと誅求 した。恐 くは情を知って強要したのであろう。
半井広明はやむことをえず、こういう口上 を以て『医心方』を出した。外題 は同じであるが、筆者区々 になっていて、誤脱多く、甚 だ疑わしき□巻 である。とても御用には立つまいが、所望に任せて内覧に供するというのである。書籍は広明の手から六郷 筑前守政殷 の手にわたって、政殷はこれを老中阿部伊勢守正弘の役宅に持って往った。正弘は公用人 渡辺三太平 を以てこれを幕府に呈した。十月十三日の事である。
越えて十月十五日に、『医心方』は若年寄遠藤但馬守胤統 を以て躋寿館に交付せられた。この書が御用に立つものならば、書写彫刻を命ぜられるであろう。もし彫刻を命ぜられることになったら、費用は金蔵 から渡されるであろう。書籍は篤 と取調べ、かつ刻本売下 代金を以て費用を返納すべき積年賦 をも取調べるようにということであった。
半井 広明の呈した本は三十巻三十一冊で、巻 二十五に上下がある。細 に検するに期待に負 かぬ善本であった。素 『医心方』は巣元方 の『病源候論 』を経 とし、隋唐 の方書百余家を緯 として作ったもので、その引用する所にして、支那において佚亡 したものが少くない。躋寿館の人々が驚き喜んだのもことわりである。
幕府は館員の進言に従って、直ちに校刻を命じた。そしてこれと同時に、総裁二人 、校正十三人、監理四人、写生十六人が任命せられた。総裁は多紀楽真院法印、多紀安良 法眼 である。楽真院は□庭 、安良は暁湖 で、並 に二百俵の奥医師であるが、彼は法印、此 は法眼になっていて、当時矢 の倉 の分家が向柳原 の宗家の右におったのである。校正十三人の中には伊沢柏軒、森枳園、堀川舟庵と抽斎とが加わっていた。
躋寿館では『医心方』影写程式 というものが出来た。写生は毎朝辰刻 に登館して、一人一日 三頁 を影模する。三頁を模し畢 れば、任意に退出することを許す。三頁を模すること能 わざるものは、二頁を模し畢って退出しても好い。六頁を模したるものは翌日休むことを許す。影写は十一月朔 に起って、二十日に終る。日に二頁を模するものは晦 に至る。この間は三八の休課を停止する。これが程式の大要である。
その四十五
半井 本の『医心方』を校刻するに当って、仁和寺本を写した躋寿館の旧蔵本が参考せられたことは、問うことを須 たぬであろう。然るに別に一の善本があった。それは京都加茂 の医家岡本由顕 の家から出た『医心方』巻 二十二である。
正親町 天皇の時、従 五位上 岡本保晃 というものがあった。保晃は半井瑞策に『医心方』一巻を借りて写した。そして何故 か原本を半井氏に返すに及ばずして歿した。保晃は由顕の曾祖父である。
由顕の言う所はこうである。『医心方』は徳川家光 が半井瑞策に授けた書である。保晃は江戸において瑞策に師事した。瑞策の女 が産後に病んで死に瀕 した。保晃が薬を投じて救った。瑞策がこれに報いんがために、『医心方』一巻を贈ったというのである。
『医心方』を瑞策に授けたのは、家光ではない。瑞策は京都にいた人で、江戸に下ったことはあるまい。瑞策が報恩のために物を贈ろうとしたにしても、よもや帝室から賜った『医心方』三十巻の中 から、一巻を割 いて贈りはしなかっただろう。凡 そこれらの事は、前人が皆かつてこれを論弁している。
既にして岡本氏の家衰えて、畑成文 に託してこの巻 を沽 ろうとした。成文は錦小路 中務権少輔 頼易 に勧めて元本を買わしめ、副本はこれを己 が家に留 めた。錦小路は京都における丹波氏の裔 である。
岡本氏の『医心方』一巻は、此 の如くにして伝わっていた。そして校刻の時に至って対照の用に供せられたようである。
この年正月二十五日に、森枳園が躋寿館講師に任ぜられて、二月二日から登館した。『医心方』校刻の事の起ったのは、枳園が教職に就 いてから十カ月の後 である。
抽斎の家族はこの年主人五十歳、五百 三十九歳、陸 八歳、水木 二歳、専六生れて一歳の五人であった。矢島氏を冒した優善 は二十歳になっていた。二年前 から寄寓 していた長尾氏の家族は、本町二丁目の新宅に移った。
安政二年が来た。抽斎の家の記録は先ず小さき、徒 なる喜 を誌 さなくてはならなかった。それは三月十九日に、六男翠暫 が生れたことである。後十一歳にして夭札 した子である。この年は人の皆知る地震の年である。しかし当時抽斎を揺り撼 して起 たしめたものは、独 地震のみではなかった。
学問はこれを身に体し、これを事に措 いて、始 て用をなすものである。否 るものは死学問である。これは世間普通の見解である。しかし学芸を研鑽 して造詣 の深きを致さんとするものは、必ずしも直ちにこれを身に体せようとはしない。必ずしも径 ちにこれを事に措こうとはしない。その□々 として年 を閲 する間には、心頭姑 く用と無用とを度外に置いている。大いなる功績は此 の如くにして始て贏 ち得らるるものである。
この用無用を問わざる期間は、啻 に年 を閲するのみではない。あるいは生を終るに至るかも知れない。あるいは世を累 ぬるに至るかも知れない。そしてこの期間においては、学問の生活と時務の要求とが截然 として二をなしている。もし時務の要求が漸 く増長し来 って、強いて学者の身に薄 ったなら、学者がその学問生活を抛 って起 つこともあろう。しかしその背面には学問のための損失がある。研鑽はここに停止してしまうからである。
わたくしは安政二年に抽斎が喙 を時事に容 るるに至ったのを見て、是 の如き観をなすのである。
その四十六
米艦が浦賀 に入 ったのは、二年前 の嘉永六年六月三日である。翌安政元年には正月に艦 が再び浦賀に来て、六月に下田 を去るまで、江戸の騒擾 は名状すべからざるものがあった。幕府は五月九日を以て、万石以下の士に甲冑 の準備を令した。動員の備 のない軍隊の腑甲斐 なさが覗 われる。新将軍家定 の下 にあって、この難局に当ったのは、柏軒、枳園らの主侯阿部正弘である。
今年 に入 ってから、幕府は講武所を設立することを令した。次いで京都から、寺院の梵鐘 を以て大砲小銃を鋳造すべしという詔 が発せられた。多年古書を校勘して寝食を忘れていた抽斎も、ここに至って□ 風潮の化誘 する所となった。それには当時産蓐 にいた女丈夫 五百 の啓沃 も与 って力があったであろう。抽斎は遂に進んで津軽士人のために画策するに至った。
津軽順承 は一の進言に接した。これを上 ったものは用人 加藤清兵衛 、側用人 兼松伴大夫 、目附兼松三郎である。幕府は甲冑を準備することを令した。然るに藩の士人の能 くこれを遵行 するものは少い。概 ね皆衣食だに給せざるを以て、これに及ぶに遑 あらざるのである。宜 く現に甲冑を有せざるものには、金十八両を貸与してこれが貲 に充 てしめ、年賦に依って還納せしむべきである。かつ今より後毎年一度甲冑改 を行い、手入 を怠らしめざるようにせられたいというのである。順承はこれを可とした。
この進言が抽斎の意より出 で、兼松三郎がこれを承 けて案を具し、両用人の賛同を得て呈せられたということは、闔藩 皆これを知っていた。三郎は石居 と号した。その隆準 なるを以ての故に、抽斎は天狗 と呼んでいた。佐藤一斎、古賀□庵 の門人で、学殖儕輩 を超 え、かつて昌平黌 の舎長となったこともある。当時弘前吏胥 中の識者として聞えていた。
抽斎は天下多事の日に際会して、言 偶 政事に及び、武備に及んだが、此 の如きは固 よりその本色 ではなかった。抽斎の旦暮 力を用いる所は、古書を講窮し、古義を闡明 するにあった。彼は弘前藩士たる抽斎が、外来の事物に応じて動作した一時のレアクションである。此 は学者たる抽斎が、終生従事していた不朽の労作である。
抽斎の校勘の業はこの頃着々進陟 していたらしい。森枳園が明治十八年に書いた『経籍訪古志』の跋 に、緑汀会 の事を記 して、三十年前だといってある。緑汀とは多紀□庭 が本所緑町の別荘である。□庭は毎月 一、二次、抽斎、枳園、柏軒、舟庵、海保漁村らを此 に集 えた。諸子は環坐して古本 を披閲し、これが論定をなした。会の後 には宴を開いた。さて二州橋上酔 に乗じて月を踏み、詩を詠じて帰ったというのである。同じ書に、□庭がこの年安政二年より一年の後に書いた跋があって、諸子□録 惟 れ勤め、各部頓 に成るといってあるのを見れば、論定に継ぐに編述を以てしたのも、また当時の事であったと見える。
わたくしはこの年の地震の事を語るに先 って、台所町の渋江の家に座敷牢 があったということに説き及ぼすのを悲 む。これは二階の一室 を繞 すに四目格子 を以てしたもので、地震の日には工事既に竣 って、その中はなお空虚であった。もし人がその中にいたならば、渋江の家は死者を出 さざることを得なかったであろう。
座敷牢は抽斎が忍びがたきを忍んで、次男優善 がために設けたものであった。
その四十七
抽斎が岡西氏徳 に生 せた三人の子の中 、ただ一人 生き残った次男優善は、少時 放恣 佚楽 のために、頗 る渋江一家 を困 めたものである。優善には塩田良三 という遊蕩 夥伴 があった。良三はかの蘭軒門下で、指の腹に杖 を立てて歩いたという楊庵 が、家附 の女 に生せた嫡子である。
わたくしは前に優善が父兄と嗜 を異にして、煙草を喫 んだということを言った。しかし酒はこの人の好む所でなかった。優善も良三も、共に涓滴 の量なくして、あらゆる遊戯に耽 ったのである。
抽斎が座敷牢を造った時、天保六年生 の優善は二十一歳になっていた。そしてその密友たる良三は天保八年生で、十八歳になっていた。二人は影の形に従う如く、須臾 も相離るることがなかった。
或時優善は松川飛蝶 と名告 って、寄席 に看板を懸けたことがある。良三は松川酔蝶 と名告って、共に高座に登った。鳴物入 で俳優の身振 声色 を使ったのである。しかも優善はいわゆる心打 で、良三はその前席を勤めたそうである。また夏になると、二人は舟を藉 りて墨田川 を上下 して、影芝居 を興行した。一人は津軽家の医官矢島氏の当主、一人は宗家の医官塩田氏の若檀那 である。中にも良三の父は神田松枝町 に開業して、市人に頓才 のある、見立 の上手な医者と称せられ、その肥胖 のために瞽者 と看錯 らるる面 をば汎 く識 られて、家は富み栄えていた。それでいて二人共に、高座 に顔を□ すことを憚 らなかったのである。
二人は酒量なきにかかわらず、町々の料理屋に出入 し、またしばしば吉原に遊んだ。そして借財が出来ると、親戚 故旧をして償 わしめ、度重 って償う道が塞 がると、跡を晦 ましてしまう。抽斎が優善のために座敷牢を作らせたのは、そういう失踪 の間の事で、その早晩還 り来 るを候 ってこの中 に投ぜようとしたのである。
十月二日は地震の日である。空は陰 って雨が降ったり歇 んだりしていた。抽斎はこの日観劇に往った。周茂叔連 にも逐次に人の交迭 があって、豊芥子 や抽斎が今は最年長者として推されていたことであろう。抽斎は早く帰って、晩酌をして寝た。地震は亥 の刻に起った。今の午後十時である。二つの強い衝突を以て始まって、震動が漸 く勢 を増した。寝間 にどてらを著 て臥 していた抽斎は、撥 ね起きて枕元 の両刀を把 った。そして表座敷へ出ようとした。
寝間と表座敷との途中に講義室があって、壁に沿うて本箱が堆 く積み上げてあった。抽斎がそこへ来掛かると、本箱が崩れ墜 ちた。抽斎はその間に介 まって動くことが出来なくなった。
五百 は起きて夫の後 に続こうとしたが、これはまだ講義室に足を投ぜぬうちに倒れた。
暫くして若党仲間 が来て、夫妻を扶 け出した。抽斎は衣服の腰から下が裂け破れたが、手は両刀を放たなかった。
抽斎は衣服を取り繕う暇 もなく、馳 せて隠居信順 を柳島の下屋敷に慰問し、次いで本所二つ目の上屋敷に往った。信順は柳島の第宅 が破損したので、後に浜町 の中屋敷に移った。当主順承 は弘前にいて、上屋敷には家族のみが残っていたのである。
抽斎は留守居比良野貞固 に会って、救恤 の事を議した。貞固は君侯在国の故を以て、旨 を承 くるに遑 あらず、直ちに廩米 二万五千俵を発して、本所の窮民を賑 すことを令した。勘定奉行平川半治 はこの議に与 らなかった。平川は後に藩士が悉 く津軽に遷 るに及んで、独り永 の暇 を願って、深川 に米店 を開いた人である。
その四十八
抽斎が本所二つ目の津軽家上屋敷から、台所町に引き返して見ると、住宅は悉く傾 き倒れていた。二階の座敷牢は粉韲 せられて迹 だに留 めなかった。対門 の小姓組番頭 土屋 佐渡守邦直 の屋敷は火を失していた。
地震はその夜 歇 んでは起り、起っては歇 んだ。町筋ごとに損害の程度は相殊 っていたが、江戸の全市に家屋土蔵の無瑕 なものは少かった。上野の大仏は首が砕け、谷中 天王寺 の塔は九輪 が落ち、浅草寺の塔は九輪が傾 いた。数十カ所から起った火は、三日の朝辰の刻に至って始て消された。公 に届けられた変死者が四千三百人であった。
三日以後にも昼夜数度の震動があるので、第宅 のあるものは庭に小屋掛 をして住み、市民にも露宿するものが多かった。将軍家定は二日の夜 吹上 の庭にある滝見茶屋 に避難したが、本丸の破損が少かったので翌朝帰った。
幕府の設けた救小屋 は、幸橋 外に一カ所、上野に二カ所、浅草に一カ所、深川に二カ所であった。
この年抽斎は五十一歳、五百 は四十歳になって、子供には陸 、水木 、専六、翠暫 の四人がいた。矢島優善 の事は前に言った。五百の兄広瀬栄次郎がこの年四月十八日に病死して、その父の妾 牧は抽斎の許 に寄寓 した。
牧は寛政二年生 で、初 五百の祖母が小間使 に雇った女である。それが享和三年に十四歳で五百の父忠兵衛の妾になった。忠兵衛が文化七年に紙問屋 山一 の女くみを娶 った時、牧は二十一歳になっていた。そこへ十八歳ばかりのくみは来たのである。くみは富家 の懐子 で、性質が温和であった。後に五百と安とを生んでから、気象の勝った五百よりは、内気な安の方が、母の性質を承 け継いでいると人に言われたのに徴しても、くみがどんな女であったかと言うことは想い遣られる。牧は特に悍 と称すべき女でもなかったらしいが、とにかく三つの年上であって、世故 にさえ通じていたから、くみが啻 にこれを制することが難かったばかりでなく、動 もすればこれに制せられようとしたのも、固 より怪 むに足らない。
既にしてくみは栄次郎を生み、安を生み、五百を生んだが、次 で文化十四年に次男某を生むに当って病に罹 り、生れた子と倶 に世を去った。この最後の産の前後の事である。くみは血行の変動のためであったか、重聴 になった。その時牧がくみの事を度々 聾者 と呼んだのを、六歳になった栄次郎が聞き咎 めて、後 までも忘れずにいた。
五百は六、七歳になってから、兄栄次郎にこの事を聞いて、ひどく憤 った。そして兄にいった。「そうして見ると、わたしたちには親の敵 がありますね。いつか兄 いさんと一しょに敵 を討とうではありませんか」といった。その後 五百は折々箒 に塵払 を結び附けて、双手 の如くにし、これに衣服を纏 って壁に立て掛け、さてこれを斫 る勢 をなして、「おのれ、母の敵 、思い知ったか」などと叫ぶことがあった。父忠兵衛も牧も、少女の意の斥 す所を暁 っていたが、父は憚 って肯 て制せず、牧は懾 れて咎めることが出来なかった。
牧は奈何 にもして五百の感情を和 げようと思って、甘言を以てこれを誘 おうとしたが、五百は応ぜなかった。牧はまた忠兵衛に請うて、五百に己 を母と呼ばせようとしたが、これは忠兵衛が禁じた。忠兵衛は五百の気象を知っていて、此 の如き手段のかえってその反抗心を激成するに至らんことを恐れたのである。
五百が早く本丸に入 り、また藤堂家に投じて、始終家に遠 かっているようになったのは、父の希望があり母の遺志があって出来た事ではあるが、一面には五百自身が牧と倶 に起臥 することを快 からず思って、余所 へ出て行くことを喜んだためもある。
こういう関係のある牧が、今寄辺 を失って、五百の前に首 を屈し、渋江氏の世話を受けることになったのである。五百は怨 に報ゆるに恩を以てして、牧の老 を養うことを許した。
その四十九
安政三年になって、抽斎は再び藩の政事に喙 を容 れた。抽斎の議の大要はこうである。弘前藩は須 く当主順承 と要路の有力者数人とを江戸に留 め、隠居信順 以下の家族及家臣の大半を挙げて帰国せしむべしというのである。その理由の第一は、時勢既に変じて多人数 の江戸詰 はその必要を認めないからである。何故 というに、原 諸侯の参勤、及これに伴う家族の江戸における居住は、徳川家に人質を提供したものである。今将軍は外交の難局に当って、旧慣を棄 て、冗費を節することを謀 っている。諸侯に土木の手伝 を命ずることを罷 め、府内を行くに家に窓蓋 を設 ることを止 めたのを見ても、その意向を窺 うに足る。縦令 諸侯が家族を引き上げたからといって、幕府は最早 これを抑留することはなかろう。理由の第二は、今の多事の時に方 って、二、三の有力者に託するに藩の大事を以てし、これに掣肘 を加うることなく、当主を輔佐して臨機の処置に出 でしむるを有利とするからである。由来弘前藩には悪習慣がある。それは事あるごとに、藩論が在府党と在国党とに岐 れて、荏苒 決せざることである。甚だしきに至っては、在府党は郷国の士を罵 って国猿 といい、その主張する所は利害を問わずして排斥する。此 の如きは今の多事の時に処する所以 の道でないというのである。
この議は同時に二、三主張するものがあって、是非の論が盛 に起った。しかし後にはこれに左袒 するものも多くなって、順承が聴納 しようとした。浜町の隠居信順がこれを見て大いに怒 った。信順は平素国猿を憎悪することの尤 も甚 しい一人 であった。
この議に反対したものは、独 浜町の隠居のみではなかった。当時江戸にいた藩士の殆 ど全体は弘前に往 くことを喜ばなかった。中にも抽斎と親善 であった比良野貞固 は、抽斎のこの議を唱うるを聞いて、馳 せ来 って論難した。議善 からざるにあらずといえども、江戸に生れ江戸に長じたる士人とその家族とをさえ、悉 く窮北の地に遷 そうとするは、忍べるの甚しきだというのである。抽斎は貞固の説を以て、情に偏し義に失するものとなして聴かなかった。貞固はこれがために一時抽斎と交 を絶つに至った。
この頃国勝手 の議に同意していた人々の中 、津軽家の継嗣問題のために罪を獲たものがあって、彼 議を唱えた抽斎らは肩身の狭い念 をした。継嗣問題とは当主順承 が肥後国熊本の城主細川越中守斉護 の子寛五郎 承昭 を養おうとするに起った。順承は女 玉姫 を愛して、これに壻を取って家を護ろうとしていると、津軽家下屋敷の一つなる本所大川端 邸が細川邸と隣接しているために、斉護と親しくなり、遂に寛五郎を養子に貰 い受けようとするに至った。罪を獲た数人は、血統を重んずる説を持して、この養子を迎うることを拒もうとし、順承はこれを迎うるに決したからである。即ち側用人 加藤清兵衛、用人兼松伴大夫 は帰国の上 隠居謹慎、兼松三郎は帰国の上永 の蟄居 を命ぜられた。
石居 即ち兼松三郎は後に夢醒 と題して七古 を作った。中 に「又憶世子即世後 、継嗣未定物議伝 、不顧身分有所建 、因冒譴責坐北遷 」の句がある。その咎 を受けて江戸を発する時、抽斎は四言十二句を書して贈った。中に「菅公遇譖 、屈原独清 、」という語があった。
この年抽斎の次男矢島優善 は、遂に素行修まらざるがために、表医者 を貶 して小普請 医者とせられ、抽斎もまたこれに連繋 して閉門三日 に処せられた。
その五十
優善の夥伴 になっていた塩田良三 は、父の勘当を蒙 って、抽斎の家の食客 となった。我子の乱行 のために譴 を受けた抽斎が、その乱行を助長した良三の身の上を引き受けて、家におらせたのは、余りに寛大に過ぎるようであるが、これは才を愛する情が深いからの事であったらしい。抽斎は人の寸長 をも見□ さずに、これに保護 を加えて、幾 どその瑕疵 を忘れたるが如くであった。年来森枳園 を扶掖 しているのもこれがためである。今良三を家に置くに至ったのも、良三に幾分の才気のあるのを認めたからであろう。固 より抽斎の許 には、常に数人の諸生が養われていたのだから、良三はただこの群 に新 に来 り加わったに過ぎない。
数月 の後 に、抽斎は良三を安積艮斎 の塾に住み込ませた。これより先艮斎は天保十三年に故郷に帰って、二本松 にある藩学の教授になったが、弘化元年に再び江戸に来て、嘉永二年以来昌平黌 の教授になっていた。抽斎は彼 の終始濂渓 の学を奉じていた艮斎とは深く交らなかったのに、これに良三を託したのは、良三の吏材 たるべきを知って、これを培養することを謀 ったのであろう。
抽斎の先妻徳の里方 岡西氏では、この年七月二日に徳の父栄玄が歿し、次いで十一月十一日に徳の兄玄亭が歿した。
栄玄は医を以て阿部家に仕えた。長子玄亭が蘭軒門下の俊才であったので、抽斎はこれと交 を訂し、遂にその妹徳を娶 るに至ったのである。徳の亡くなった後 も、次男優善がその出 であるので、抽斎一家 は岡西氏と常に往来していた。
栄玄は樸直 な人であったが、往々性癖のために言行の規矩 を踰 ゆるを見た。かつて八文の煮豆を買って鼠不入 の中に蔵し、しばしばその存否を検したことがある。また或日海□ 一尾を携え来って、抽斎に遺 り、帰途に再び訪 わんことを約して去った。五百はために酒饌 を設けようとして頗 る苦心した。それは栄玄が饌 に対して奢侈 を戒めたことが数次であったからである。抽斎は遺られた所の海□を饗 することを命じた。栄玄は来て饗を受けたが、色 悦ばざるものの如く、遂に「客にこんな馳走 をすることは、わたしの内 ではない」といった。五百が「これはお持たせでございます」といったが、栄玄は聞えぬふりをしていた。調理法が好過 ぎたのであろう。
尤 も抽斎をして不平に堪えざらしめたのは、栄玄が庶子苫 を遇することの甚だ薄かったことである。苫は栄玄が厨下 の婢 に生せた女 である。栄玄はこれを認めて子としたのに、「あんなきたない子は畳の上には置かれない」といって、板の間 に蓙 を敷いて寝させた。当時栄玄の妻は既に歿していたから、これは河東 の獅子吼 を恐れたのではなく、全く主人の性癖のためであった。抽斎は五百に議 って苫を貰い受け、後下総 の農家に嫁せしめた。
栄玄の子で、父に遅るること僅 に四月 にして歿した玄亭は、名を徳瑛 、字 を魯直 といった。抽斎の友である。玄亭には二男一女があった。長男は玄庵、次男は養玄である。女 は名を初 といった。
この年抽斎は五十二歳、五百は四十一歳であった。抽斎が平生 の学術上研鑽 の外に最も多く思 を労したのは何事かと問うたなら、恐らくはその五十二歳にして提起した国勝手 の議だといわなくてはなるまい。この議のまさに及ぼすべき影響の大きさと、この議の打ち克 たなくてはならぬ抗抵の強さとは、抽斎の十分に意識していた所であろう。抽斎はまた自己がその位 にあらずして言うことの不利なるをも知らなかったのではあるまい。然るに抽斎のこれを敢 てしたのは、必ず内にやむことをえざるものがあって敢てしたのであろう。憾 むらくは要路に取ってこれを用いる手腕のある人がなかったために、弘前は遂に東北諸藩の間において一頭地を抜いて起 つことが出来なかった。また遂に勤王の旗幟 を明 にする時期の早きを致すことが出来なかった。
その五十一
安政四年には抽斎の七男成善 が七月二十六日を以て生れた。小字 は三吉 、通称は道陸 である。即ち今の保 さんで、父は五十三歳、母は四十二歳の時の子である。
成善の生れた時、岡西玄庵が胞衣 を乞いに来た。玄庵は父玄亭に似て夙慧 であったが、嘉永三、四年の頃癲癇 を病んで、低能の人と化していた。天保六年の生 であったから、病を発したのが十六、七歳の時で、今は二十三歳になっている。胞衣を乞うのは、癲癇の薬方 として用いんがためであった。
抽斎夫婦は喜んでこれに応じたので、玄庵は成善の胞衣を持って帰った。この時これを惜んで一夜 を泣き明したのは、昔抽斎の父允成 の茶碗の余瀝 を舐 ったという老尼妙了 である。妙了は年久しく渋江の家に寄寓していて、毎 に小児 の世話をしていたが、中にも抽斎の三女棠 を愛し、今また成善の生れたのを見て、大いにこれを愛していた。それゆえ胞衣を玄庵に与えることを嫌った。俗説に胞衣を人に奪われた子は育たぬというからである。
この年前 に貶黜 せられた抽斎の次男矢島優善 は、纔 に表医者 介 を命ぜられて、半 その位地を回復した。優善の友塩田良三 は安積艮斎 の塾に入れられていたが、或日師の金百両を懐 にして長崎に奔 った。父楊庵は金を安積氏に還 し、人を九州に遣 って子を連れ戻した。良三はまだ残 の金を持っていたので、迎えに来た男を随 えて東上するのに、駅々で人に傲 ること貴公子の如くであった。この時肥後国熊本の城主細川越中守斉護 の四子寛五郎 は、津軽順承 の女壻 にせられて東上するので、途中良三と旅宿を同じうすることがあった。斉護は子をして下情 に通ぜしめんことを欲し、特に微行を命じたので、寛五郎と従者とは始終質素を旨としていた。驕子 良三は往々五十四万石の細川家から、十万石の津軽家に壻入する若殿を凌 いで、旅中下風 に立っている少年の誰 なるかを知らずにいた。寛五郎は今の津軽伯で、当時裁 に十七歳であった。
小野氏ではこの年令図 が致仕して、子富穀 が家督した。令図は小字 を慶次郎 という。抽斎の祖父本皓 の庶子で、母を横田氏よのという。よのは武蔵国川越 の人某の女 である。令図は出 でて同藩の医官二百石小野道秀 の末期 養子となり、有尚 と称し、後 また道瑛 と称し、累進して近習医者に至った。天明三年十一月二十六日生 で、致仕の時七十五歳になっていた。令図に一男一女があって、男 を富穀 といい、女 を秀 といった。
富穀、通称は祖父と同じく道秀といった。文化四年の生 である。十一歳にして、森枳園 と共に抽斎の弟子 となった。家督の時は表医者であった。令図、富穀の父子は共に貨殖に長じて、弘前藩定府 中の富人 であった。妹秀は長谷川町 の外科医鴨池道碩 に嫁した。
多紀氏ではこの年二月十四日に、矢の倉の末家 の□庭 が六十三歳で歿し、十一月に向 柳原 の本家の暁湖が五十二歳で歿した。わたくしの所蔵の安政四年「武鑑」は、□庭が既に逝 いて、暁湖がなお存していた時に成ったもので、□庭の子安琢 が多紀安琢二百俵、父楽春院 として載せてあり、暁湖は旧に依 って多紀安良 法眼 二百俵、父安元 として載せてある。□庭の楽真院を、「武鑑」には前から楽春院に作ってある。その何 の故なるを詳 にしない。
その五十二
□庭 、名は元堅 、字 は亦柔 、一に三松 と号す。通称は安叔 、後 楽真院また楽春院という。寛政七年に桂山 の次男に生れた。幼時犬を闘 わしむることを好んで、学業を事としなかったが、人が父兄に若 かずというを以て責めると、「今に見ろ、立派な医者になって見せるから」といっていた。幾 もなくして節を折って書を読み、精力衆 に踰 え、識見人 を驚かした。分家した初 は本石町 に住していたが、後に矢の倉に移った。侍医に任じ、法眼に叙せられ、次で法印に進んだ。秩禄 は宗家 と同じく二百俵三十人扶持である。
□庭は治を請うものがあるときは、貧家といえども必ず応じた。そして単に薬餌 を給するのみでなく、夏は蚊□ を貽 り、冬は布団 を遣 った。また三両から五両までの金を、貧窶 の度に従って与えたこともある。
□庭は抽斎の最も親しい友の一人 で、二家 の往来は頻繁 であった。しかし当時法印の位は太 だ貴 いもので、□庭が渋江の家に来ると、茶は台のあり蓋 のある茶碗に注 ぎ、菓子は高坏 に盛って出した。この器 は大名と多紀法印とに茶菓 を呈する時に限って用いたそうである。□庭の後 は安琢 が嗣 いだ。
暁湖、名は元□、字は兆寿 、通称は安良 であった。桂山の孫、柳□ の子である。文化三年に生れ、文政十年六月三日に父を喪 って、八月四日に宗家を継承した。暁湖の後 を襲 いだのは養子元佶 で、実は季 の弟である。
安政五年には二月二十八日に、抽斎の七男成善 が藩主津軽順承 に謁した。年甫 て二歳、今の齢 を算する法に従えば、生れて七カ月であるから、人に懐 かれて謁した。しかし謁見は八歳以上と定められていたので、この日だけは八歳と披露したのだそうである。
五月十七日には七女幸 が生れた。幸は越えて七月六日に早世した。
この年には七月から九月に至るまで虎列拉 が流行した。徳川家定は八月二日に、「少々御勝不被遊 」ということであったが、八日には忽 ち薨去 の公報が発せられ、家斉 の孫紀伊宰相慶福 が十三歳で嗣立 した。家定の病は虎列拉であったそうである。
この頃抽斎は五百 にこういう話をした。「己 は公儀へ召されることになるそうだ。それが近い事で公方様 の喪が済み次第仰付 けられるだろうということだ。しかしそれをお請 をするには、どうしても津軽家の方を辞せんではいられない。己は元禄以来重恩の主家 を棄 てて栄達を謀 る気にはなられぬから、公儀の方を辞するつもりだ。それには病気を申立てる。そうすると、津軽家の方で勤めていることも出来ない。己は隠居することに極 めた。父は五十九歳で隠居して七十四歳で亡くなったから、己も兼 て五十九歳になったら隠居しようと思っていた。それがただ少しばかり早くなったのだ。もし父と同じように、七十四歳まで生きていられるものとすると、これから先まだ二十年ほどの月日がある。これからが己の世の中だ。己は著述をする。先ず『老子 』の註を始 として、迷庵□斎 に誓った為事 を果して、それから自分の為事に掛かるのだ」といった。公儀へ召されるといったのは、奥医師などに召し出されることで、抽斎はその内命を受けていたのであろう。然るに運命は抽斎をしてこのヂレンマの前に立たしむるに至らなかった。また抽斎をして力を述作に肆 にせしむるに至らなかった。
その五十三
八月二十二日に抽斎は常の如く晩餐 の饌 に向った。しかし五百が酒を侑 めた時、抽斎は下物 の魚膾 に箸 を下 さなかった。「なぜ上 らないのです」と問うと、「少し腹工合が悪いからよそう」といった。翌二十三日は浜町中屋敷の当直の日であったのを、所労を以て辞した。この日に始て嘔吐 があった。それから二十七日に至るまで、諸証は次第に険悪になるばかりであった。
多紀安琢 、同 元佶 、伊沢柏軒、山田椿庭 らが病牀 に侍して治療の手段を尽したが、功を奏せなかった。椿庭、名は業広 、通称は昌栄 である。抽斎の父允成 の門人で、允成の歿後抽斎に従学した。上野国 高崎の城主松平右京亮 輝聡 の家来で、本郷弓町 に住んでいた。
抽斎は時々 譫語 した。これを聞くに、夢寐 の間 に『医心方』を校合 しているものの如くであった。
抽斎の病況は二十八日に小康を得た。遺言 の中 に、兼て嗣子と定めてあった成善 を教育する方法があった。経書 を海保漁村に、筆札 を小島成斎に、『素問 』を多紀安琢に受けしめ、機を看 て蘭語 を学ばしめるようにというのである。
二十八日の夜丑 の刻に、抽斎は遂に絶息した。即ち二十九日午前二時である。年は五十四歳であった。遺骸 は谷中 感応寺に葬られた。
抽斎の歿した跡には、四十三歳の未亡人 五百を始として、岡西氏の出 次男矢島優善 二十四歳、四女陸 十二歳、六女水木 六歳、五男専六 五歳、六男翠暫 四歳、七男成善 二歳の四子二女が残った。優善を除く外は皆山内氏五百の出 である。
抽斎の子にして父に先 って死んだものは、尾島氏の出 長男恒善 、比良野氏の出馬場玄玖 妻長女純 、岡西氏の出二女好 、三男八三郎、山内氏の出三女山内棠 、四男幻香、五女癸巳 、七女幸 の三子五女である。
矢島優善はこの年二月二十八日に津軽家の表医者にせられた。初 の地位に復したのである。
五百の姉壻長尾宗右衛門は、抽斎に先 つこと一月 、七月二十日に同じ病を得て歿した。次で十一月十五日の火災に、横山町の店も本町の宅も皆焼けたので、塗物問屋 の業はここに廃絶した。跡に遣 ったのは未亡人安四十四歳、長女敬 二十一歳、次女銓 十九歳の三人である。五百は台所町の邸 の空地 に小さい家を建ててこれを迎え入れた。五百は敬に壻を取って長尾氏の祀 を奉ぜしめようとして、安に説き勧めたが、安は猶予して決することが出来なかった。
比良野貞固 は抽斎の歿した直後から、連 に五百に説いて、渋江氏の家を挙げて比良野邸に寄寓せしめようとした。貞固はこういった。自分は一年前 に抽斎と藩政上の意見を異にして、一時絶交の姿になっていた。しかし抽斎との情誼 を忘るることなく、早晩疇昔 の親 みを回復しようと思っているうちに、図らずも抽斎に死なれた。自分はどうにかして旧恩に報いなくてはならない。自分の邸宅には空室 が多い。どうぞそこへ移って来て、我家 に住む如くに住んでもらいたい。自分は貧 いが、日々 の生計には余裕がある。決して衣食の価 は申し受けない。そうすれば渋江一家 は寡婦孤児として受くべき侮 を防ぎ、無用の費 を節し、安んじて子女の成長するのを待つことが出来ようといったのである。
その五十四
比良野貞固は抽斎の遺族を自邸に迎えようとして、五百に説いた。しかしそれは五百を識 らぬのであった。五百は人の廡下 に倚 ることを甘んずる女ではなかった。渋江一家の生計は縮小しなくてはならぬこと勿論 である。夫の存命していた時のように、多くの奴婢 を使い、食客 を居 くことは出来ない。しかし譜代の若党や老婦にして放ち遣るに忍びざるものもある。寄食者の中 には去らしめようにも往 いて投ずべき家のないものもある。長尾氏の遺族の如きも、もし独立せしめようとしたら、定めて心細く思うことであろう。五百は己 が人に倚 らんよりは、人をして己に倚らしめなくてはならなかった。そして内に恃 む所があって、敢 て自らこの衝 に当ろうとした。貞固の勧誘の功を奏せなかった所以 である。
森枳園 はこの年十二月五日に徳川家茂 に謁した。寿蔵碑には「安政五年戊午 十二月五日、初謁見将軍徳川家定公」と書してあるが、この年月日 は家定が薨 じてから四月 の後 である。その枳園自撰の文なるを思えば、頗 る怪 むべきである。枳園が謁したはずの家茂は十三歳の少年でなくてはならない。家定はこれに反して、薨ずる時三十五歳であった。
この年の虎列拉 は江戸市中において二万八千人の犠牲を求めたのだそうである。当時の聞人 でこれに死したものには、岩瀬京山 、安藤広重 、抱一 門の鈴木必庵 等がある。市河米庵 も八十歳の高齢ではあったが、同じ病であったかも知れない。渋江氏とその姻戚 とは抽斎、宗右衛門の二人 を喪 って、五百、安の姉妹が同時に未亡人となったのである。
抽斎の著 す所の書には、先ず『経籍訪古志』と『留真譜 』とがあって、相踵 いで支那人の手に由 って刊行せられた。これは抽斎とその師、その友との講窮し得たる果実で、森枳園が記述に与 ったことは既にいえるが如くである。抽斎の考証学の一面はこの二書が代表している。徐承祖 が『訪古志』に序して、「大抵論繕写刊刻之工 、拙於考証 、不甚留意 」といっているのは、我国において初 て手を校讐 の事に下 した抽斎らに対して、備わるを求むることの太 だ過ぎたるものではなかろうか。
我国における考証学の系統は、海保漁村に従えば、吉田篁□ が首唱し、狩谷□斎 がこれに継いで起り、以て抽斎と枳園とに及んだものである。そして篁□の傍系には多紀桂山があり、□斎の傍系には市野迷庵、多紀□庭 、伊沢蘭軒、小島宝素 があり、抽斎と枳園との傍系には多紀暁湖、伊沢柏軒、小島抱沖 、堀川舟庵と漁村自己とがあるというのである。宝素は元表医師百五十俵三十人扶持小島春庵で、和泉橋通 に住していた。名は尚質 、一字 は学古 である。抱沖はその子春沂 で、百俵寄合 医師から出て父の職を襲 ぎ、家は初め下谷 二長町 、後日本橋 榑正町 にあった。名は尚真 である。春沂の後 は春澳 、名は尚絅 が嗣 いだ。春澳の子は現に北海道室蘭 にいる杲一 さんである。陸実 が新聞『日本』に抽斎の略伝を載せた時、誤って宝素を小島成斎とし、抱沖を成斎の子としたが、今に□ るまで誰 もこれを匡 さずにいる。またこの学統について、長井金風 さんは篁□の前に井上蘭台 と井上金峨 とを加えなくてはならぬといっている。要するにこれらの諸家が新に考証学の領域を開拓して、抽斎が枳園と共に、まさに纔 に全著を成就するに至ったのである。
わたくしは『訪古志』と『留真譜』との二書は、今少し重く評価して可なるものであろうと思う。そして頃日 国書刊行会が『訪古志』を『解題叢書』中に収めて縮刷し、その伝を弘むるに至ったのを喜ぶのである。
その五十五
抽斎の医学上の著述には、『素問識小 』、『素問校異』、『霊枢 講義』がある。就中 『素問』は抽斎の精を殫 して研窮した所である。海保漁村撰の墓誌に、抽斎が『説文 』を引いて『素問』の陰陽結斜は結糾 の訛 なりと説いたことが載せてある。また七損八益を説くに、『玉房秘訣 』を引いて説いたことが載せてある。『霊枢』の如きも「不精則不正当人言亦人人異 」の文中、抽斎が正当を連文 となしたのを賞してある。抽斎の説には発明極 て多く、此 の如き類はその一斑 に過ぎない。
抽斎遺す所の手沢本 には、往々欄外書のあるものを見る。此の如き本には『老子』がある。『難経 』がある。
抽斎の詩はその余事に過ぎぬが、なお『抽斎吟稿』一巻が存している。以上は漢文である。
『護痘要法』は抽斎か池田京水 の説を筆受 したもので、抽斎の著述中江戸時代に刊行せられた唯一の書である。
雑著には『晏子 春秋筆録』、『劇神仙話』、『高尾考 』がある。『劇神仙話』は長島五郎作の言 を録したものである。『高尾考』は惜 むらくは完書をなしていない。
『※語 [#「衞/心」、165-14]』は抽斎が国文を以て学問の法程を記 して、及門 の子弟に示す小冊子に命じた名であろう。この文の末尾に「天保辛卯 季秋 抽斎酔睡 中に※言 [#「衞/心」、165-15]す」と書してある。辛卯は天保二年で、抽斎が二十七歳の時である。しかし現存している一巻には、この国文八枚が紅色 の半紙に写してあって、その前に白紙に写した漢文の草稿二十九枚が合綴 してある。その目 を挙ぐれば、煩悶異文弁 、仏説阿弥陀経碑 、春秋外伝国語跋 、荘子注疏 跋、儀礼跋、八分書孝経 跋、橘録 跋、沖虚至徳真経釈文 跋、青帰 書目蔵書目録跋、活字板左伝 跋、宋本校正病源候論跋、元板 再校千金方 跋、書医心方後 、知久吉正翁墓碣 、駱駝考 、□□ 、論語義疏跋、告蘭軒先生之霊 の十八篇である。この一冊は表紙に「※[#「衞/心」、166-6]語、抽斎述」の五字が篆文 で題してあって、首尾渾 て抽斎の自筆である。徳富蘇峰 さんの蔵本になっているのを、わたくしは借覧した。
抽斎随筆、雑録、日記、備忘録の諸冊中には、今已 に佚亡 したものもある。就中 日記は文政五年から安政五年に至るまでの三十七年間にわたる記載であって、□然 たる大冊数十巻をなしていた。これは上 直 ちに天明四年から天保八年に至るまでの五十四年間の允成 の日記に接して、その中間の文政五年から天保八年に至るまでの十六年間は父子の記載が並存していたのである。この一大記録は明治八年二月に至るまで、保 さんが蔵していた。然るに保さんは東京 から浜松県に赴任するに臨んで、これを両掛 に納めて、親戚の家に託した。親戚はその貴重品たるを知らざるがために、これに十分の保護 を加うることを怠った。そして悉 くこれを失ってしまった。両掛の中にはなお前記の抽斎随筆等十余冊があり、また允成の著 す所の『定所 雑録』等約三十冊があった。想 うにこの諸冊は既に屏風 襖 葛籠 等の下貼 の料となったであろうか。それとも何人 かの手に帰して、何処 かに埋没しているであろうか。これを捜討 せんと欲するに、由るべき道がない。保さんは今に□るまで歎惜して已 まぬのである。
『直舎 伝記抄』八冊は今富士川游君が蔵している。中に題号を闕 いたものが三冊交っているが、主に弘前医官の宿直部屋の日記を抄写したものである。上 は宝永元年から下 は天保九年に至る。所々 に善 云 と低書 した註がある。宝永元年から天明五年に至る最古の一冊は題号がなく、引用書として『津軽一統志』、『津軽軍記』、『津陽 開記』、『御系図 三通』、『歴年亀鑑 』、『孝公行実 』、『常福寺由緒書 』、『津梁 院過去帳抄』、『伝聞 雑録』、『東藩 名数』、『高岡霊験記 』、『諸書案文 』、『藩翰譜 』が挙げてある。これは諸書について、主に弘前医官に関する事を抄出したものであろう。
『四 つの海』は抽斎の作った謡物 の長唄 である。これは書と称すべきものではないが、前に挙げた『護痘要法』と倶 に、江戸時代に刊行せられた二、三葉の綴文 である。
『仮面の由来』、これもまた片々 たる小冊子である。
その五十六
『呂后千夫 』は抽斎の作った小説である。庚寅 の元旦に書いたという自序があったそうであるから、その前年に成ったもので、即ち文政十二年二十五歳の時の作であろう。この小説は五百 が来り嫁した頃には、まだ渋江の家にあって、五百は数遍 読過したそうである。或時それを筑山左衛門 というものが借りて往った。筑山は下野国 足利 の名主だということであった。そして終 に還 さずにしまった。以上は国文で書いたものである。
この著述の中 刊行せられたものは『経籍訪古志』、『留真譜』、『護痘要法』、『四つの海』の四種に過ぎない。その他は皆写本で、徳富蘇峰さんの所蔵の『※語 [#「衞/心」、168-8]』、富士川游さんの所蔵の『直舎 伝記抄』及 已 に散佚 した諸書を除く外は、皆保 さんが蔵している。
抽斎の著述は概 ね是 の如きに過ぎない。致仕した後 に、力を述作に肆 にしようと期していたのに、不幸にして疫癘 のために命 を隕 し、かつて内に蓄うる所のものが、遂に外 に顕 るるに及ばずして已 んだのである。
わたくしは此 に抽斎の修養について、少しく記述して置きたい。考証家の立脚地から観 れば、経籍は批評の対象である。在来の文を取って渾侖 に承認すべきものではない。是 において考証家の末輩 には、破壊を以て校勘の目的となし、毫 もピエテエの迹 を存せざるに至るものもある。支那における考証学亡国論の如きは、固 より人文 進化の道を蔽塞 すべき陋見 であるが、考証学者中に往々修養のない人物を出 だしたという暗黒面は、その存在を否定すべきものではあるまい。
しかし真の学者は考証のために修養を廃するような事はしない。ただ修養の全 からんことを欲するには、考証を闕 くことは出来ぬと信じている。何故 というに、修養には六経 を窮めなくてはならない。これを窮むるには必ず考証に須 つことがあるというのである。
抽斎はその『※語 [#「衞/心」、169-9]』中にこういっている。「凡 そ学問の道は、六経 を治め聖人 の道を身に行ふを主とする事は勿論 なり。扨 其 六経を読み明 めむとするには必ず其一言 一句をも審 に研究せざるべからず。一言一句を研究するには、文字 の音義を詳 にすること肝要なり。文字の音義を詳にするには、先 づ善本を多く求めて、異同を比讐 し、謬誤 を校正し、其字句を定めて後 に、小学に熟練して、義理始て明了なることを得 。譬 へば高きに登るに、卑 きよりし、遠きに至るに近きよりするが如く、小学を治め字句を校讐するは、細砕 の末業 に似たれども、必ずこれをなさざれば、聖人の大道微意を明むること能 はず。(中略)故に百家の書読まざるべきものなく、さすれば人間一生の内になし得がたき大業 に似たれども、其内主 とする所の書を専 ら読むを緊務とす。それはいづれにも師とする所の人に随 ひて教 を受くべき所なり。さて斯 の如く小学に熟練して後に、六経を窮めたらむには、聖人の大道微意に通達すること必ず成就すべし」といっている。
これは抽斎の本領を道破したもので、考証なしには六経に通ずることが出来ず、六経に通ずることが出来なくては、何に縁 って修養して好 いか分からぬことになるというのである。さて抽斎の此 の如き見解は、全く師市野迷庵の教 に本づいている。
その五十七
迷庵の考証学が奈何 なるものかということは、『読書指南』について見るべきである。しかしその要旨は自序一篇に尽されている。迷庵はこういった。「孔子 は堯舜 三代の道を述べて、其 流義を立て給 へり。堯舜より以下を取れるは、其事の明 に伝はれる所なればなり。されども春秋の比 にいたりて、世変り時遷 りて、其道一向に用ゐられず。孔子も遣 つては見給へども、遂に行かず。終 に魯 に還 り、六経を修めて後世に伝へらる。これその堯舜三代の道を認めたまふゆゑなり。儒者は孔子をまもりて其経を修むるものなり。故に儒者の道を学ばむと思はゞ、先づ文字を精出 して覚ゆるがよし。次に九経 をよく読むべし。漢儒の注解はみな古 より伝受あり。自分の臆説 をまじへず。故に伝来を守るが儒者第一の仕事なり。(中略)宋の時程頤 、朱熹 等 己 が学を建てしより、近来伊藤源佐 、荻生惣右衛門 などと云 ふやから、みな己 の学を学とし、是非を争ひてやまず。世の儒者みな真闇 になりてわからず。余も亦 少 かりしより此 事を学びしが、迷ひてわからざりし。ふと解する所あり。学令の旨 にしたがひて、それ/″\の古書をよむがよしと思へり」といった。
要するに迷庵も抽斎も、道に至るには考証に由 って至るより外ないと信じたのである。固 よりこれは捷径 ではない。迷庵が精出して文字を覚えるといい、抽斎が小学に熟練するといっているこの事業は、これがために一人 の生涯を費 すかも知れない。幾多のジェネラションのこの間に生じ来り滅し去ることを要するかも知れない。しかし外に手段の由るべきものがないとすると、学者は此 に従事せずにはいられぬのである。
然らば学者は考証中に没頭して、修養に遑 がなくなりはせぬか。いや。そうではない。考証は考証である。修養は修養である。学者は考証の長途を歩みつつ、不断の修養をなすことが出来る。
抽斎はそれをこう考えている。百家の書に読まないで好 いものはない。十三経 といい、九経といい、六経という。列 べ方はどうでも好いが、秦火 に焚 かれた楽経 は除くとして、これだけは読破しなくてはならない。しかしこれを読破した上は、大いに功を省くことが出来る。「聖人の道と事々 しく云 へども、前に云へる如く、六経を読破したる上にては、論語、老子の二書にて事足るなり。其中にも過猶不及 を身行 の要とし、無為不言 を心術の掟 となす。此二書をさへ能 く守ればすむ事なり」というのである。
抽斎は百尺竿頭 更に一歩を進めてこういっている。「但 論語の内には取捨すべき所あり。王充 書 の問孔篇 及迷庵師の論語数条を論じたる書あり。皆参考すべし」といっている。王充のいわゆる「夫聖賢下筆造文 、用意詳審 、尚未可謂尽得実 、況倉卒吐言 、安能皆是 」という見識である。
抽斎が『老子』を以て『論語』と並称するのも、師迷庵の説に本づいている。「天は蒼々 として上 にあり。人は両間 に生れて性皆相近し。習 相遠きなり。世の始より性なきの人なし。習なきの俗なし。世界万国皆其国々の習ありて同じからず。其習は本性の如く人にしみ附きて離れず。老子は自然と説く。其 れ是 歟 。孔子曰 。述而不作 。信而好古 。窃比我於老彭 。かく宣給 ふときは、孔子の意も亦 自然に相近し」といったのが即ちこれである。
その五十八
抽斎は『老子』を尊崇 せんがために、先ずこれをヂスクレヂイに陥 いれた仙術を、道教の畛域 外に逐 うことを謀 った。これは早く清 の方維甸 が嘉慶板 の『抱朴子 』に序して弁じた所である。さてこの洗冤 を行 った後 にこういっている。「老子の道は孔子と異なるに似たれども、その帰する所は一意なり。不患人不己知 及曾子 の有若無 実若虚 などと云 へる、皆老子の意に近し。且 自然と云ふこと、万事にわたりて然らざることを得ず。(中略)又仏家 に漠然 に帰すると云ふことあり。是 れ空 に体する大乗の教 なり。自然と云ふより一層あとなき言 なり。その小乗の教は一切の事皆式に依りて行へとなり。孔子の道も孝悌 仁義 より初めて諸礼法は仏家の小乗なり。その一以貫之 は此教を一にして執中 に至り初て仏家大乗の一場 に至る。執中以上を語れば、孔子釈子同じ事なり」といっている。
抽斎は終 に儒、道、釈の三教の帰一に到着した。もしこの人が旧新約書を読んだなら、あるいはその中 にも契合点 を見出だして、彼 の安井息軒 の『弁妄 』などと全く趣を殊 にした書を著 したかも知れない。
以上は抽斎の手記した文について、その心術身行 の由 って来 る所を求めたものである。この外、わたくしの手元には一種の語録がある。これは五百 が抽斎に聞き、保さんが五百に聞いた所を、頃日 保さんがわたくしのために筆に上 せたのである。わたくしは今漫 に潤削を施すことなしに、これを此 に収めようと思う。
抽斎は日常宋儒のいわゆる虞廷 の十六字を口にしていた。彼 の「人心惟危 、道心惟微 、惟精惟一 、允執厥中 」の文である。上 の三教帰一の教は即ちこれである。抽斎は古文尚書の伝来を信じた人ではないから、これを以て堯の舜に告げた言 となしたのでないことは勿論である。そのこれを尊重したのは、古言 古義として尊重したのであろう。そして惟精惟一 の解釈は王陽明 に従うべきだといっていたそうである。
抽斎は『礼 』の「清明在躬 、志気如神 」の句と、『素問 』の上古天真論 の「恬□虚無 、真気従之 、精神内守 、病安従来 」の句とを誦 して、修養して心身の康寧 を致すことが出来るものと信じていた。抽斎は眼疾を知らない。歯痛を知らない。腹痛は幼い時にあったが、壮年に及んでからは絶 てなかった。しかし虎列拉 の如き細菌の伝染をば奈何 ともすることを得なかった。
抽斎は自ら戒め人を戒むるに、しばしば沢山咸 の「九四爻 」を引いていった。学者は仔細 に「憧憧往来 、朋従爾思 」という文を味 うべきである。即ち「君子素其位而行 、不願乎其外 」の義である。人はその地位に安んじていなくてはならない。父允成 がおる所の室 を容安室 と名づけたのは、これがためである。医にして儒を羨 み、商にして士を羨むのは惑えるものである。「天下何思何慮 、天下同帰而殊塗 、一致而百慮 」といい、「日往則月来 、月往則日来 、日月相推而明生焉 、寒往則暑来 、暑往則寒来 、寒暑相推而歳成焉 」というが如く、人の運命にもまた自然の消長がある。須 く自重して時の到 るを待つべきである。
「尺蠖之屈 、以求信也 、龍蛇之蟄 、以存身也 」とはこれの謂 であるといった。五百の兄広瀬栄次郎が已 に町人を罷 めて金座 の役人となり、その後 久しく金 の吹替 がないのを見て、また業を更 めようとした時も、抽斎はこの爻 を引いて諭 した。
その五十九
抽斎はしばしば地雷復 の初九爻 を引いて人を諭した。「不遠復无祗悔 」の爻である。過 を知って能 く改むる義で、顔淵 の亜聖たる所以 は此 に存するというのである。抽斎はいつもその跡で言い足した。しかし顔淵の好処 は啻 にこれのみではない。「回之為人也 、択乎中庸 、得一善 、則拳拳服膺 、而弗失之矣 」というのがこれである。孔子が子貢 にいった語に、顔淵を賞して、「吾与汝 、弗如也 」といったのも、これがためであるといった。
抽斎はかつていった。「為政以徳 、譬如北辰 、居其所 、而衆星共之 」というのは、独 君道を然 りとなすのみではない。人は皆奈何 したら衆星が己 に共 うだろうかと工夫しなくてはならない。能 くこれを致すものは即ち「□矩之道 」である。韓退之 は「其責己也重以周 、其待人也軽以約 」といった。人と交 るには、その長を取って、その短を咎 めぬが好 い。「無求備於一人 」といい、「及其使人也器之 」というは即ちこれである。これを推し広めて言えば、『老子』の「治大国 、若烹小鮮 」という意に帰著 する。「大道廃有仁義 」といい、「聖人不死 、大盗不止 」というのも、その反面を指 して言ったのである。己 も往事を顧 れば、動 もすれば□矩 の道において闕 くる所があった。妻 岡西氏徳 を疎 んじたなどもこれがためである。幸 に父に匡救 せられて悔い改むることを得た。平井東堂 は学あり識ある傑物である。然るにその父は用人たることを得て、己 は用人たることを得ない。己 はその何故 なるを知らぬが、修養の足らざるのもまた一因をなしているだろう。比良野助太郎は才に短であるが、人はかえってこれに服する。賦性が自 ら□矩の道に□ っているのであるといった。
抽斎はまたいった。『孟子 』の好処は尽心 の章にある。「君子有三楽 、而王天下 、不与存焉 、父母倶存 、兄弟無故 、一楽也 、仰不愧於天 、俯不□於人 、二楽也 、得天下英才 、而教育之 、三楽也 」というのがこれである。『韓非子 』は主道、揚権 、解老 、喩老 の諸篇が好 いといった。
これらの言 を聞いた後 に、抽斎の生涯を回顧すれば、誰人 もその言行一致を認めずにはいられまい。抽斎は内 徳義を蓄え、外 誘惑を却 け、恒 に己 の地位に安んじて、時の到るを待っていた。我らは抽斎の一たび徴 されて起 ったのを見た。その躋寿館 の講師となった時である。我らは抽斎のまさに再び徴 されて辞せんとするのを見た。恐らくはそのまさに奥医師たるべき時であっただろう。進むべくして進み、辞すべくして辞する、その事に処するに、綽々 として余裕があった。抽斎の咸 の九四 を説いたのは虚言ではない。
抽斎の森枳園 における、塩田良三 における、妻岡西氏における、その人を待つこと寛宏 なるを見るに足る。抽斎は□矩の道において得る所があったのである。
抽斎の性行とその由って来 る所とは、ほぼ上述の如くである。しかしここにただ一つ剰 す所の問題がある。嘉永安政の時代は天下の士人をして悉 く岐路に立たしめた。勤王に之 かんか、佐幕に之かんか。時代はその中間において鼠 いろの生を偸 むことを容 さなかった。抽斎はいかにこれに処したか。
この間題は抽斎をして思慮を費 さしむることを要せなかった。何故 というに、渋江氏の勤王は既に久しく定まっていたからである。
その六十
渋江氏の勤王はその源委 を詳 にしない。しかし抽斎の父允成に至って、師柴野栗山 に啓発せられたことは疑を容 れない。允成が栗山に従学した年月は明 でないが、栗山が五十三歳で幕府の召 に応じて江戸に入 った天明八年には、允成が丁度二十五歳になっていた。家督してから四年の後 である。允成が栗山の門に入ったのは、恐らくはその後 久しきを経ざる間の事であっただろう。これは栗山が文化四年十二月朔 に七十二歳で歿したとして推算したものである。
允成の友にして抽斎の師たりし市野迷庵が勤王家であったことは、その詠史の諸作に徴して知ることが出来る。この詩は維新後森枳園 が刊行した。抽斎は啻 に家庭において王室を尊崇 する心を養成せられたのみでなく、また迷庵の説を聞いて感奮したらしい。
抽斎の王室における、常に耿々 の心を懐 いていた。そしてかつて一たびこれがために身命を危 くしたことがある。保さんはこれを母五百に聞いたが、憾 むらくはその月日を詳にしない。しかし本所においての出来事で、多分安政三年の頃であったらしいということである。
或日手島良助 というものが抽斎に一の秘事を語った。それは江戸にある某貴人 の窮迫の事であった。貴人は八百両の金がないために、まさに苦境に陥らんとしておられる。手島はこれを調達せんと欲して奔走しているが、これを獲 る道がないというのであった。抽斎はこれを聞いて慨然として献金を思い立った。抽斎は自家の窮乏を口実として、八百両を先取 することの出来る無尽講 を催した。そして親戚故旧を会して金を醵出 せしめた。
無尽講の夜 、客が已 に散じた後 、五百は沐浴 していた。明朝 金を貴人の許 に齎 さんがためである。この金を上 る日は予 め手島をして貴人に稟 さしめて置いたのである。
抽斎は忽 ち剥啄 の声を聞いた。仲間 が誰何 すると、某貴人の使 だといった。抽斎は引見した。来たのは三人の侍 である。内密に旨 を伝えたいから、人払 をしてもらいたいという。抽斎は三人を奥の四畳半に延 いた。三人の言う所によれば、貴人は明朝を待たずして金を獲ようとして、この使を発したということである。
抽斎は応ぜなかった。この秘事に与 っている手島は、貴人の許 にあって職を奉じている。金は手島を介して上 ることを約してある。面 を識 らざる三人に交付することは出来ぬというのである。三人は手島の来ぬ事故 を語った。抽斎は信ぜないといった。
三人は互 に目語 して身を起し、刀の□ に手を掛けて抽斎を囲んだ。そしていった。我らの言 を信ぜぬというは無礼である。かつ重要の御使 を承わってこれを果さずに還 っては面目 が立たない。主人はどうしても金をわたさぬか。すぐに返事をせよといった。
抽斎は坐したままで暫 く口を噤 んでいた。三人が偽 の使だということは既に明 である。しかしこれと格闘することは、自分の欲せざる所で、また能 わざる所である。家には若党がおり諸生がおる。抽斎はこれを呼ぼうか、呼ぶまいかと思って、三人の気色 を覗 っていた。
この時廊下に足音がせずに、障子 がすうっと開 いた。主客は斉 く愕 き□ た。
その六十一
刀の□ に手を掛けて立ち上った三人の客を前に控えて、四畳半の端 近く坐していた抽斎は、客から目を放さずに、障子の開いた口を斜 に見遣 った。そして妻五百の異様な姿に驚いた。
五百は僅 に腰巻 一つ身に著 けたばかりの裸体であった。口には懐剣を銜 えていた。そして閾際 に身を屈 めて、縁側に置いた小桶 二つを両手に取り上げるところであった。小桶からは湯気 が立ち升 っている。縁側 を戸口まで忍び寄って障子を開く時、持って来た小桶を下に置いたのであろう。
五百は小桶を持ったまま、つと一間 に進み入って、夫を背にして立った。そして沸き返るあがり湯を盛った小桶を、右左の二人の客に投げ附け、銜えていた懐剣を把 って鞘 を払った。そして床 の間 を背にして立った一人の客を睨 んで、「どろぼう」と一声叫んだ。
熱湯を浴びた二人 が先に、□ に手を掛けた刀をも抜かずに、座敷から縁側へ、縁側から庭へ逃げた。跡の一人も続いて逃げた。
五百は仲間や諸生の名を呼んで、「どろぼう/\」という声をその間に挟んだ。しかし家に居合せた男らの馳 せ集るまでには、三人の客は皆逃げてしまった。この時の事は後々 まで渋江の家の一つ話になっていたが、五百は人のその功を称するごとに、慙 じて席を遁 れたそうである。五百は幼くて武家奉公をしはじめた時から、匕首 一口 だけは身を放さずに持っていたので、湯殿 に脱ぎ棄てた衣類の傍 から、それを取り上げることは出来たが、衣類を身に纏 う遑 はなかったのである。
翌朝 五百は金を貴人の許 に持って往った。手島の言 によれば、これは献金としては受けられぬ、唯借上 になるのであるから、十カ年賦で返済するということであった。しかし手島が渋江氏を訪 うて、お手元 不如意 のために、今年 は返金せられぬということが数度あって、維新の年に至るまでに、還された金は些 ばかりであった。保さんが金を受け取りに往ったこともあるそうである。
この一条は保さんもこれを語ることを躊躇 し、わたくしもこれを書くことを躊躇した。しかし抽斎の誠心 をも、五百の勇気をも、かくまで明 に見ることの出来る事実を湮滅 せしむるには忍びない。ましてや貴人は今は世に亡き御方 である。あからさまにその人を斥 さずに、ほぼその事を記 すのは、あるいは妨 がなかろうか。わたくしはこう思惟 して、抽斎の勤王を説くに当って、遂にこの事に言い及んだ。
抽斎は勤王家ではあったが、攘夷家ではなかった。初め抽斎は西洋嫌 で、攘夷に耳を傾 けかねぬ人であったが、前にいったとおりに、安積艮斎 の書を読んで悟る所があった。そして窃 に漢訳の博物窮理の書を閲 し、ますます洋学の廃すべからざることを知った。当時の洋学は主に蘭学であった。嗣子の保さんに蘭語を学ばせることを遺言したのはこれがためである。
抽斎は漢法医で、丁度蘭法医の幕府に公認せられると同時に世を去ったのである。この公認を贏 ち得るまでには、蘭法医は社会において奮闘した。そして彼らの攻撃の衝に当ったものは漢法医である。その応戦の跡は『漢蘭酒話』、『一夕 医話』等の如き書に徴して知ることが出来る。抽斎は敢 て言 をその間に挟 まなかったが、心中これがために憂え悶 えたことは、想像するに難からぬのである。
その六十二
わたくしは幕府が蘭法医を公認すると同時に抽斎が歿したといった。この公認は安政五年七月初 の事で、抽斎は翌八月の末 に歿した。
これより先幕府は安政三年二月に、蕃書調所 を九段 坂下 元小姓組番頭格 竹本主水正 正懋 の屋敷跡に創設したが、これは今の外務省の一部に外国語学校を兼 たようなもので、医術の事には関せなかった。越えて安政五年に至って、七月三日に松平薩摩守 斉彬 家来戸塚静海 、松平肥前守斉正 家来伊東玄朴 、松平三河守慶倫 家来遠田澄庵 、松平駿河守勝道 家来青木春岱 に奥医師を命じ、二百俵三人扶持を給した。これが幕府が蘭法医を任用した権輿 で、抽斎の歿した八月二十八日に先 つこと、僅に五十四日である。次いで同じ月の六日に、幕府は御 医師即ち官医中有志のものは「阿蘭 医術兼学致 候とも不苦 候」と令した。翌日また有馬左兵衛佐 道純 家来竹内玄同 、徳川賢吉 家来伊東貫斎 が奥医師を命ぜられた。この二人 もまた蘭法医である。
抽斎がもし生きながらえていて、幕府の聘 を受けることを肯 じたら、これらの蘭法医と肩を比 べて仕えなくてはならなかったであろう。そうなったら旧思想を代表すべき抽斎は、新思想を齎 し来 った蘭法医との間に、厭 うべき葛藤 を生ずることを免れなかったかも知れぬが、あるいはまた彼 の多紀□庭 の手に出 でたという無名氏の『漢蘭酒話』、平野革谿 の『一夕医話』等と趣を殊 にした、真面目 な漢蘭医法比較研究の端緒が此 に開かれたかも知れない。
抽斎の日常生活に人に殊なる所のあったことは、前にも折に触れて言ったが、今遺 れるを拾って二、三の事を挙げようと思う。抽斎は病を以て防ぎ得べきものとした人で、常に摂生に心を用いた。飯は朝午 各 三椀 、夕二椀半と極 めていた。しかもその椀の大きさとこれに飯を盛る量とが厳重に定めてあった。殊に晩年になっては、嘉永二年に津軽信順 が抽斎のこの習慣を聞き知って、長尾宗右衛門に命じて造らせて賜わった椀のみを用いた。その形は常の椀よりやや大きかった。そしてこれに飯を盛るに、婢 をして盛らしむるときは、過不及 を免れぬといって、飯を小さい櫃 に取り分けさせ、櫃から椀に盛ることを、五百の役目にしていた。朝の未醤汁 も必ず二椀に限っていた。
菜蔬 は最も莱□ を好んだ。生で食うときは大根 おろしにし、烹 て食うときはふろふきにした。大根おろしは汁を棄てず、醤油 などを掛けなかった。
浜名納豆 は絶やさずに蓄えて置いて食べた。
魚類 では方頭魚 の未醤漬 を嗜 んだ。畳鰯 も喜んで食べた。鰻 は時々食べた。
間食は殆 ど全く禁じていた。しかし稀 に飴 と上等の煎餅 とを食べることがあった。
抽斎が少壮時代に毫 も酒を飲まなかったのに、天保八年に三十三歳で弘前に往ってから、防寒のために飲みはじめたことは、前にいったとおりである。さて一時は晩酌の量がやや多かった。その後 安政元年に五十歳になってから、猪口 に三つを踰 えぬことにした。猪口は山内忠兵衛の贈った品で、宴に赴くにはそれを懐 にして家を出た。
抽斎は決して冷酒 を飲まなかった。然 るに安政二年に地震に逢 って、ふと冷酒を飲んだ。その後 は偶 飲むことがあったが、これも三杯の量を過さなかった。
その六十三
鰻を嗜 んだ抽斎は、酒を飲むようになってから、しばしば鰻酒ということをした。茶碗に鰻の蒲焼 を入れ、些 しのたれを注ぎ、熱酒 を湛 えて蓋 を覆 って置き、少選 してから飲むのである。抽斎は五百 を娶 ってから、五百が少しの酒に堪えるので、勧めてこれを飲ませた。五百はこれを旨 がって、兄栄次郎と妹壻長尾宗右衛門とに侑 め、また比良野貞固 に飲ませた。これらの人々は後に皆鰻酒を飲むことになった。
飲食を除いて、抽斎の好む所は何かと問えば、読書といわなくてはならない。古刊本、古抄本を講窮することは抽斎終生の事業であるから、ここに算せない。医書中で『素問 』を愛して、身辺を離さなかったこともまた同じである。次は『説文 』である。晩年には毎月 説文会を催して、小島成斎、森枳園 、平井東堂、海保竹逕 、喜多村栲窓 、栗本鋤雲 等を集 えた。竹逕は名を元起 、通称を弁之助 といった。本 稲村 氏で漁村の門人となり、後に養われて子となったのである。文政七年の生 で、抽斎の歿した時、三十五歳になっていた。栲窓は名を直寛 、字 を士栗 という。通称は安斎 、後 父の称安政 を襲 いだ。香城 はその晩年の号である。経 を安積艮斎 に受け、医を躋寿館 に学び、父槐園 の後 を承 けて幕府の医官となり、天保十二年には三十八歳で躋寿館の教諭になっていた。栗本鋤雲は栲窓の弟である。通称は哲三 、栗本氏に養わるるに及んで、瀬兵衛 と改め、また瑞見 といった。嘉永三年に二十九歳で奥医師になっていた。
説文会には島田篁村 も時々列席した。篁村は武蔵国大崎 の名主 島田重規 の子である。名は重礼 、字は敬甫 、通称は源六郎 といった。艮斎、漁村の二家に従学していた。天保九年生であるから、嘉永、安政の交 にはなお十代の青年であった。抽斎の歿した時、豊村は丁度二十一になっていたのである。
抽斎の好んで読んだ小説は、赤本 、菎蒻本 、黄表紙 の類 であった。想 うにその自ら作った『呂后千夫 』は黄表紙の体 に倣 ったものであっただろう。
抽斎がいかに劇を好んだかは、劇神仙の号を襲 いだというを以て、想見することが出来る。父允成 がしばしば戯場 に出入 したそうであるから、殆ど遺伝といっても好 かろう。然るに嘉永二年に将軍に謁見した時、要路の人が抽斎に忠告した。それは目見 以上の身分になったからは、今より後 市中の湯屋に往 くことと、芝居小屋に立ち入ることとは遠慮するが宜 しいというのであった。渋江の家には浴室の設 があったから、湯屋に往くことは禁ぜられても差支 がなかった。しかし観劇を停 められるのは、抽斎の苦痛とする所であった。抽斎は隠忍して姑 く忠告に従っていた。安政二年の地震の日に観劇したのは、足掛七年ぶりであったということである。
抽斎は森枳園と同じく、七代目市川団十郎を贔屓 にしていた。家に伝わった俳名三升 、白猿 の外に、夜雨庵 、二九亭、寿海老人と号した人で、葺屋町 の芝居茶屋丸屋 三右衛門 の子、五世団十郎の孫である。抽斎より長ずること十四年であったが、抽斎に一年遅れて、安政六年三月二十三日に六十九歳で歿した。
次に贔屓にしたのは五代目沢村宗十郎 である。源平 、源之助、訥升 、宗十郎、長十郎、高助 、高賀 と改称した人で、享和二年に生れ、嘉永六年十一月十五日に五十二歳で歿した。抽斎より長ずること三年であった。四世宗十郎の子、脱疽 のために脚を截 った三世田之助 の父である。
その六十四
劇を好む抽斎はまた照葉狂言 をも好んだそうである。わたくしは照葉狂言というものを知らぬので、青々園 伊原 さんに問いに遣った。伊原さんは喜多川季荘 の『近世風俗志』に、この演戯の起原沿革の載せてあることを報じてくれた。
照葉狂言は嘉永の頃大阪の蕩子 四、五人が創意したものである。大抵能楽の間 の狂言を模し、衣裳 は素襖 、上下 、熨斗目 を用い、科白 には歌舞伎 狂言、俄 、踊等の状 をも交え取った。安政中江戸に行われて、寄場 はこれがために雑沓 した。照葉とは天爾波 俄 の訛略 だというのである。
伊原さんはこの照葉の語原は覚束 ないといっているが、いかにも輒 ち信じがたいようである。
能楽は抽斎の楽 み看 る所で、少 い頃謡曲を学んだこともある。偶 弘前の人村井宗興 と相逢うことがあると、抽斎は共に一曲を温習した。技の妙が人の意表に出たそうである。
俗曲は少しく長唄を学んでいたが、これは謡曲の妙に及ばざること遠かった。
抽斎は鑑賞家として古画を翫 んだが、多く買い集むることをばしなかった。谷文晁 の教 を受けて、実用の図を作る外に、往々自ら人物山水をも画 いた。
「古武鑑」、古江戸図、古銭は抽斎の聚珍家 として蒐集 した所である。わたくしが初め「古武鑑」に媒介せられて抽斎を識 ったことは、前にいったとおりである。
抽斎は碁を善くした。しかし局に対することが少 であった。これは自ら□ めて耽 らざらんことを欲したのである。
抽斎は大名の行列を観 ることを喜んだ。そして家々の鹵簿 を記憶して忘れなかった。「新武鑑」を買って、その図に着色して自ら娯 んだのも、これがためである。この嗜好 は喜多静廬 の祭礼を看ることを喜んだのと頗 る相類 している。
角兵衛獅子 が門に至れば、抽斎が必ず出て看たことは、既に言った。
庭園は抽斎の愛する所で、自ら剪刀 を把 って植木の苅込 をした。木の中では御柳 を好んだ。即ち『爾雅 』に載せてある□ である。雨師 、三春柳 などともいう。これは早く父允成の愛していた木で、抽斎は居を移すにも、遺愛の御柳だけは常におる室 に近い地に栽 え替えさせた。おる所を観柳書屋 と名づけた柳字も、楊柳 ではない、□柳である。これに反して柳原 書屋の名は、お玉が池の家が柳原 に近かったから命じたのであろう。
抽斎は晩年に最も雷 を嫌った。これは二度まで落雷に遭 ったからであろう。一度は新 に娶 った五百と道を行く時の事であった。陰 った日の空が二人 の頭上において裂け、そこから一道 の火が地上に降 ったと思うと、忽 ち耳を貫く音がして、二人は地に僵 れた。一度は躋寿館 の講師の詰所 に休んでいる時の事であった。詰所に近い厠 の前の庭へ落雷した。この時厠に立って小便をしていた伊沢柏軒は、前へ倒れて、門歯二枚を朝顔 に打ち附けて折った。此 の如くに反覆して雷火に脅 されたので、抽斎は雷声を悪 むに至ったのであろう。雷が鳴り出すと、蚊□ の中 に坐して酒を呼ぶことにしていたそうである。
抽斎のこの弱点は偶 森枳園がこれを同じうしていた。枳園の寿蔵碑の後 に門人青山 道醇 らの書した文に、「夏月畏雷震 、発声之前必先知之 」といってある。枳園には今一つ厭 なものがあった。それは蛞蝓 であった。夜 行くのに、道に蛞蝓がいると、闇中 においてこれを知った。門人の随 い行くものが、燈火 を以て照し見て驚くことがあったそうである。これも同じ文に見えている。
その六十五
抽斎は平姓 で、小字 を恒吉 といった。人と成った後 の名は全善 、字 は道純 、また子良 である。そして道純を以て通称とした。その号抽斎の抽字は、本 ※ [#「竹かんむり/(てへん+(澑-さんずい))」、192-1]に作った。※ [#「竹かんむり/(てへん+(澑-さんずい))」、192-1]、※[#「てへん+(澑-さんずい)」、192-1]、抽の三字は皆相通ずるのである。抽斎の手沢本 には※[#「竹かんむり/(てへん+(澑-さんずい))」、192-2]斎校正の篆印 が殆 ど必ず捺 してある。
別号には観柳書屋、柳原 書屋、三亦堂 、目耕肘 書斎、今未是翁 、不求甚解 翁等がある。その三世劇神仙 と称したことは、既にいったとおりである。
抽斎はかつて自ら法諡 を撰んだ。容安院 不求甚解居士 というのである。この字面 は妙ならずとはいいがたいが、余りに抽象的である。これに反して抽斎が妻五百 のために撰んだ法諡は妙極 まっている。半千院 出藍終葛大姉 というのである。半千は五百、出藍は紺屋町 に生れたこと、終葛は葛飾郡 で死ぬることである。しかし世事 の転変は逆覩 すべからざるもので、五百は本所 で死ぬることを得なかった。
この二つの法諡はいずれも石に彫 られなかった。抽斎の墓には海保漁村の文を刻した碑が立てられ、また五百の遺骸は抽斎の墓穴 に合葬せられたからである。
大抵伝記はその人の死を以て終るを例とする。しかし古人を景仰 するものは、その苗裔 がどうなったかということを問わずにはいられない。そこでわたくしは既に抽斎の生涯を記 し畢 ったが、なお筆を投ずるに忍びない。わたくしは抽斎の子孫、親戚、師友等のなりゆきを、これより下 に書き附けて置こうと思う。
わたくしはこの記事を作るに許多 の障礙 のあることを自覚する。それは現存の人に言い及ぼすことが漸 く多くなるに従って、忌諱 すべき事に撞着 することもまた漸く頻 なることを免れぬからである。この障礙は上 に抽斎の経歴を叙して、その安政中の末路に近づいた時、早く既に頭 を擡 げて来た。これから後 は、これが弥 筆端に纏繞 して、厭 うべき拘束を加えようとするであろう。しかしわたくしはよしや多少の困難があるにしても、書かんと欲する事だけは書いて、この稿を完 うするつもりである。
渋江の家には抽斎の歿後に、既にいうように、未亡人五百、陸 、水木 、専六、翠暫 、嗣子成善 と矢島氏を冒した優善 とが遺っていた。十月朔 に才 に二歳で家督相続をした成善と、他の五人の子との世話をして、一家 の生計を立てて行かなくてはならぬのは、四十三歳の五百であった。
遺子六人の中で差当り問題になっていたのは、矢島優善の身の上である。優善は不行跡 のために、二年前 に表医者から小普請医者に貶 せられ、一年前 に表医者介 に復し、父を喪う年の二月に纔 に故 の表医者に復することが出来たのである。
しかし当時の優善の態度には、まだ真に改悛 したものとは看做 しにくい所があった。そこで五百 は旦暮 周密にその挙動を監視しなくてはならなかった。
残る五人の子の中 で、十二歳の陸、六歳の水木、五歳の専六はもう読書、習字を始めていた。陸や水木には、五百が自ら句読 を授け、手跡 は手を把 って書かせた。専六は近隣の杉四郎 という学究の許 へ通っていたが、これも五百が復習させることに骨を折った。また専六の手本は平井東堂が書いたが、これも五百が臨書だけは手を把って書かせた。午餐後 日の暮れかかるまでは、五百は子供の背後 に立って手習 の世話をしたのである。
その六十六
邸内に棲 わせてある長尾の一家 にも、折々多少の風波 が起る。そうすると必ず五百 が調停に往 かなくてはならなかった。その争 は五百が商業を再興させようとして勧めるのに、安 が躊躇 して決せないために起るのである。宗右衛門 の長女敬 はもう二十一歳になっていて、生得 やや勝気なので、母をして五百の言 に従わしめようとする。母はこれを拒みはせぬが、さればとて実行の方へは、一歩も踏み出そうとはしない。ここに争は生ずるのであった。
さてこれが鎮撫 に当るものが五百でなくてはならぬのは、長尾の家でまだ宗右衛門が生きていた時からの習慣である。五百の言 には宗右衛門が服していたので、その妻や子もこれに抗することをば敢 てせぬのである。
宗右衛門が妻 の妹の五百を、啻 抽斎の配偶として尊敬するのみでなく、かくまでに信任したには、別に来歴がある。それは或時宗右衛門が家庭のチランとして大いに安を虐待して、五百の厳 い忠告を受け、涙を流して罪を謝したことがあって、それから後 は五百の前に項 を屈したのである。
宗右衛門は性質亮直 に過ぐるともいうべき人であったが、癇癪持 であった。今から十二年前 の事である。宗右衛門はまだ七歳の銓 に読書を授け、この子が大きくなったなら士 の女房 にするといっていた。銓は記性 があって、書を善く読んだ。こういう時に、宗右衛門が酒気を帯びていると、銓を側に引き附けて置いて、忍耐を教えるといって、戯 のように煙管 で頭を打つことがある。銓は初め忍んで黙っているが、後 には「お父 っさん、厭 だ」といって、手を挙げて打つ真似 をする。宗右衛門は怒 って「親に手向 をするか」といいつつ、銓を拳 で乱打する。或日こういう場合に、安が停 めようとすると、宗右衛門はこれをも髪を攫 んで拉 き倒して乱打し、「出て往 け」と叫んだ。
安は本 宗右衛門の恋女房である。天保五年三月に、当時阿部家に仕えて金吾 と呼ばれていた、まだ二十歳の安が、宿に下 って堺町 の中村座へ芝居を看 に往った。この時宗右衛門は安を見初 めて、芝居がはねてから追尾 して行って、紺屋町の日野屋に入るのを見極めた。同窓の山内栄次郎の家である。さては栄次郎の妹であったかというので、直ちに人を遣 って縁談を申し込んだのである。
こうしたわけで貰 われた安も、拳の下 に崩れた丸髷 を整える遑 もなく、山内へ逃げ帰る。栄次郎の忠兵衛は広瀬を名告 る前の頃で、会津屋 へ調停に往くことを面倒がる。妻はおいらん浜照 がなれの果で何の用にも立たない。そこで偶 渋江の家から来合せていた五百に、「どうかして遣ってくれ」という。五百は姉を宥 め賺 して、横山町へ連れて往った。
会津屋に往って見れば、敬はうろうろ立ち廻っている。銓はまだ泣いている。妻 の出た跡で、更に酒を呼んだ宗右衛門は、気味の悪い笑顔 をして五百を迎える。五百は徐 に詫言 を言う。主人はなかなか聴 かない。暫 く語を交えている間に、主人は次第に饒舌 になって、光□万丈 当るべからざるに至った。宗右衛門は好んで故事を引く。偽書 『孔叢子 』の孔氏三世妻を出 したという説が出る。祭仲 の女 雍姫 が出る。斎藤太郎左衛門 の女 が出る。五百はこれを聞きつつ思案した。これは負けていては際限がない。例 を引いて論ずることなら、こっちにも言分 がないことはない。そこで五百も論陣を張って、旗鼓 相当 った。公父 文伯 の母季敬姜 を引く。顔之推 の母を引く。終 に「大雅思斉 」の章の「刑干寡妻 、至干兄弟 、以御干家邦 」を引いて、宗右衛門が□々 の和を破るのを責め、声色 共に□ しかった。宗右衛門は屈服して、「なぜあなたは男に生れなかったのです」といった。
長尾の家に争が起るごとに、五百が来なくてはならぬということになるには、こういう来歴があったのである。
その六十七
抽斎の歿した翌年安政六年には、十一月二十八日に矢島優善 が浜町中屋敷詰の奥通 にせられた。表医者の名を以て信順 の側 に侍することになったのである。今なお信頼しがたい優善が、責任ある職に就 いたのは、五百のために心労を増す種であった。
抽斎の姉須磨 の生んだ長女延 の亡くなったのは、多分この年の事であっただろう。允成 の実父稲垣清蔵の養子が大矢清兵衛 で、清兵衛の子が飯田良清 で、良清の女 がこの延である。容貌 の美しい女で、小舟町 の鰹節問屋 新井屋半七 というものに嫁していた。良清の長男直之助 は早世して、跡には養子孫三郎 と、延の妹路 とが残った。孫三郎の事は後に見えている。
抽斎歿後の第二年は万延 元年である。成善 はまだ四歳であったが、夙 くも浜町中屋敷の津軽信順 に近習として仕えることになった。勿論 時々機嫌を伺いに出るに止 まっていたであろう。この時新に中小姓になって中屋敷に勤める矢川文一郎 というものがあって、穉 い成善の世話をしてくれた。
矢川には本末 両家がある。本家は長足流 の馬術を伝えていて、世文内 と称した。先代文内の嫡男与四郎 は、当時順承 の側用人になって、父の称を襲 いでいた。妻児玉 氏は越前国敦賀 の城主酒井 右京亮 忠□ の家来某の女 であった。二百石八人扶持の家である。与四郎の文内に弟があり、妹があって、彼を宗兵衛 といい、此 を岡野 といった。宗兵衛は分家して、近習小姓倉田小十郎 の女 みつを娶 った。岡野は順承附の中臈 になった。実は妾 である。
文一郎はこの宗兵衛の長子である。その母の姉妹には林有的 の妻、佐竹永海 の妻などがある。佐竹は初め山内氏五百を娶らんとして成らず、遂に矢川氏を納 れた。某 の年の元日に佐竹は山内へ廻礼に来て、庭に立っていた五百の手を※ [#「てへん+參」、198-15]ろうとすると、五百はその手を強く引いて放した。佐竹は庭の池に墜 ちた。山内では佐竹に栄次郎の衣服を著 せて帰した。五百は後に抽斎に嫁してから、両国中村楼の書画会に往って、佐竹と邂逅 した。そして佐竹の数人の芸妓 に囲まれているのを見て、「佐竹さん、相変らず英雄色 を好むとやらですね」といった。佐竹は頭を掻 いて苦笑したそうである。
文一郎の父は早く世を去って、母みつは再嫁した。そこで文一郎は津軽家に縁故のある浅草常福寺 にあずけられた。これは嘉永四年の事で、天保十二年生 の文一郎は十一歳になっていた。
文一郎は寺で人と成って、渋江家で抽斎の亡くなった頃、本家の文内の許 に引き取られた。そして成善が近習小姓を仰付けられる少し前に、二十歳で信順の中小姓になったのである。
文一郎は頗 る姿貌 があって、心自 らこれを恃 んでいた。当時吉原 の狎妓 の許に足繁 く通って、遂に夫婦の誓 をした。或夜文一郎はふと醒 めて、傍 に臥 している女を見ると、一眼 を大きく□開 いて眠っている。常に美しいとばかり思っていた面貌の異様に変じたのに驚いて、肌 に粟 を生じたが、忽 また魘夢 に脅 されているのではないかと疑って、急に身を起した。女が醒めてどうしたのかと問うた。文一郎が答はいまだ半 ならざるに、女は満臉 に紅 を潮 して、偏盲 のために義眼を装っていることを告げた。そして涙を流しつつ、旧盟を破らずにいてくれと頼んだ。文一郎は陽にこれを諾して帰って、それきりこの女と絶ったそうである。
その六十八
わたくしは少時の文一郎を伝うるに、辞 を費すことやや多きに至った。これは単に文一郎が穉 い成善 を扶掖 したからではない。文一郎と渋江氏との関係は、後に漸 く緊密になったからである。文一郎は成善の姉壻になったからである。文一郎さんは赤坂台町 に現存している人ではあるが、恐 くは自ら往事を談ずることを喜ばぬであろう。その少時の事蹟には二つの活 きた典拠がある。一つは矢川文内の二女お鶴 さんの話で、一つは保さんの話である。文内には三子二女があった。長男俊平 は宗家を嗣 いで、その子蕃平 さんが今浅草向柳原町 に住しているそうである。俊平の弟は鈕平 、録平 である。女子は長を鉞 といい、次 を鑑 という。鑑は後に名を鶴と更 めた。中村勇左衛門即ち今弘前桶屋町 にいる範一 さんの妻で、その子の範 さんとわたくしとは書信の交通をしているのである。
成善はこの年十月朔 に海保漁村と小島成斎との門に入 った。海保の塾は下谷 練塀小路 にあった。いわゆる伝経廬 である。下谷は卑※ [#「さんずい+(一/(幺+幺)/土)」、201-2]の地なるにもかかわらず、庭には梧桐 が栽 えてあった。これは漁村がその師大田錦城 の風 を慕って栽えさせたのである。当時漁村は六十二歳で、躋寿館 の講師となっていた。また陸奥国 八戸 の城主南部 遠江守 信順 と越前国鯖江 の城主間部 下総守詮勝 とから五人扶持ずつの俸を受けていた。しかし躋寿館においても、家塾においても、大抵養子竹逕 が代講をしていたのである。
小島成斎は藩主阿部正寧 の世には、辰 の口 の老中屋敷にいて、安政四年に家督相続をした賢之助 正教 の世になってから、昌平橋内 の上屋敷にいた。今の神田淡路町 である。手習に来る児童の数は頗 る多く、二階の三室に机を並べて習うのであった。成善が相識の兄弟子には、嘉永二年生 で十二歳になる伊沢鉄三郎 がいた。柏軒の子で、後に徳安 と称し、維新後に磐 と更 めた人である。成斎は手に鞭 を執って、正面に坐していて、筆法を誤ると、鞭の尖 で指 し示した。そして児童を倦 ましめざらんがためであろうか、諧謔 を交えた話をした。その相手は多く鉄三郎であった。成善はまだ幼いので、海保へ往くにも、小島へ往くにも若党に連れられて行った。鉄三郎にも若党が附いて来たが、これは父が奥詰 医師になっているので、従者らしく附いて来たのである。
抽斎の墓碑が立てられたのもこの年である。海保漁村の墓誌はその文が頗る長かったのを、豊碑 を築き起して世に傲 るが如き状 をなすは、主家に対して憚 があるといって、文字 を識 る四、五人の故旧が来て、胥議 して斧鉞 を加えた。その文の事を伝えて完 からず、また間 実に惇 るものさえあるのは、この筆削のためである。
建碑の事が畢 ってから、渋江氏は台所町の邸を引き払って亀沢町 に移った。これは淀川過書船支配 角倉与一 の別邸を買ったのである。角倉の本邸は飯田町 黐木坂下 にあって、主人は京都で勤めていた。亀沢町の邸には庭があり池があって、そこに稲荷 と和合神 との祠 があった。稲荷は亀沢稲荷といって、初午 の日には参詣人 が多く、縁日商人 が二十余 の浮舗 を門前に出すことになっていた。そこで角倉は邸を売るに、初午の祭をさせるという条件を附けて売った。今相生 小学校になっている地所である。
これまで渋江の家に同居していた矢島優善が、新に本所緑町に一戸を構えて分立したのは、亀沢町の家に渋江氏の移るのと同時であった。
その六十九
矢島優善をして別に一家 をなして自立せしめようということは、前年即ち安政六年の末 から、中丸昌庵 が主として勧説した所である。昌庵は抽斎の門人で、多才能弁を以て儕輩 に推されていた。文政元年生 であるから、当時四十三歳になって、食禄二百石八人扶持、近習医者の首位におった。昌庵はこういった。「優善さんは一時の心得違 から貶黜 を受けた。しかし幸 に過 を改めたので、一昨年故 の地位に複 り、昨年は奥通 をさえ許された。今は抽斎先生が亡くなられてから、もう二年立って、優善さんは二十六歳になっている。わたくしは去年からそう思っているが、優善さんの奮って自ら新 にすべき時は今である。それには一家を構えて、責 を負って事に当らなくてはならない」といった。既にして二、三のこれに同意を表するものも出来たので、五百 は危 みつつこの議を納 れたのである。比良野貞固 は初め昌庵に反対していたが、五百が意を決したので、復 争わなくなった。
優善の移った緑町の家は、渾名 を鳩 医者と呼ばれた町医佐久間 某の故宅である。優善は妻鉄 を家に迎え取り、下女 一人 を雇って三人暮しになった。
鉄は優善の養父矢島玄碩 の二女である。玄碩、名を優□ といった。本 抽斎の優善に命じた名は允善 であったのを、矢島氏を冒すに及んで、養父の優字を襲用したのである。玄碩の初 の妻 某氏には子がなかった。後妻 寿美 は亀高村喜左衛門 というものの妹で、仮親 は上総国 一宮 の城主加納 遠江守久徴 の医官原芸庵 である。寿美が二女を生んだ。長を環 といい、次を鉄という。嘉永四年正月二十三日に寿美が死し、五月二十四日に九歳の環が死し、六月十六日に玄碩が死し、跡には僅 に六歳の鉄が遺 った。
優善はこの時矢島氏に入 って末期養子 となったのである。そしてその媒介者は中丸昌庵であった。
中丸は当時その師抽斎に説くに、頗る多言を費 し、矢島氏の祀 を絶つに忍びぬというを以て、抽斎の情誼 に愬 えた。なぜというに、抽斎が次男優善をして矢島氏の女壻たらしむるのは大いなる犠牲であったからである。玄碩の遺した女 鉄は重い痘瘡 を患 えて、瘢痕 満面、人の見るを厭 う醜貌であった。
抽斎は中丸の言 に動 されて、美貌の子優善を鉄に与えた。五百 は情として忍びがたくはあったが、事が夫の義気に出 でているので、強いて争うことも出来なかった。
この事のあった年、五百は二月四日に七歳の棠 を失い、十五日に三歳の癸巳 を失っていた。当時五歳の陸 は、小柳町 の大工の棟梁 新八が許 に里に遣られていたので、それを喚 び帰そうと思っていると、そこへ鉄が来て抱かれて寝ることになり、陸は翌年まで里親の許に置かれた。
棠は美しい子で、抽斎の女 の中 では純 と棠との容姿が最も人に褒 められていた。五百の兄栄次郎は棠の踊を看 る度に、「食い附きたいような子だ」といった。五百も余り棠の美しさを云々 するので、陸は「お母 あ様の姉 えさんを褒めるのを聞いていると、わたしなんぞはお化 のような顔をしているとしか思われない」といい、また棠の死んだ時、「大方お母あ様はわたしを代 に死なせたかったのだろう」とさえいった。
その七十
女 棠 が死んでから半年 の間、五百 は少しく精神の均衡を失して、夕暮になると、窓を開けて庭の闇 を凝視していることがしばしばあった。これは何故 ともなしに、闇の裏 に棠の姿が見えはせぬかと待たれたのだそうである。抽斎は気遣 って、「五百、お前にも似ないじゃないか、少ししっかりしないか」と飭 めた。
そこへ矢島玄碩の二女、優善 の未来の妻たる鉄が来て、五百に抱かれて寝ることになった、□□ の母は情を矯 めて、□ のない人の子を賺 しはぐくまなくてはならなかったのである。さて眠っているうちに、五百はいつか懐 にいる子が棠だと思って、夢現 の境にその体を撫 でていた。忽 ち一種の恐怖に襲われて目を開 くと、痘痕 のまだ新しい、赤く引き弔 った鉄の顔が、触れ合うほど近い所にある。五百は覚えず咽 び泣いた。そして意識の明 になると共に、「ほんに優善は可哀 そうだ」とつぶやくのであった。
緑町の家へ、優善がこの鉄を連れてはいった時は、鉄はもう十五歳になっていた。しかし世馴 れた優善は鉄を子供扱 にして、詞 をやさしくして宥 めていたので、二人の間には何の衝突も起らずにいた。
これに反して五百の監視の下 を離れた優善は、門を出 でては昔の放恣 なる生活に立ち帰った。長崎から帰った塩田良三 との間にも、定めて聯絡 が附いていたことであろう。この人たちは啻 に酒家妓楼 に出入 するのみではなく、常に無頼 の徒と会して袁耽 の技を闘わした。良三の如きは頭を一つ竈 にしてどてらを被 て街上 を闊歩 したことがあるそうである。優善の背後には、もうネメシスの神が逼 り近づいていた。
渋江氏が亀沢町に来る時、五百はまた長尾一族のために、本 の小家 を新しい邸に徙 して、そこへ一族を棲 わせた。年月 は詳 にせぬが、長尾氏の二女の人に嫁したのは、亀沢町に来てからの事である。初め長女敬が母と共に坐食するに忍びぬといって、媒 するもののあるに任せて、猿若町 三丁目守田座附 の茶屋三河屋力蔵 に嫁し、次で次女銓 も浅草須賀町 の呉服商桝屋儀兵衛 に嫁した。未亡人は筆算が出来るので、敬の夫力蔵に重宝 がられて、茶屋の帳場にすわることになった。
抽斎の蔵書は兼て三万五千部あるといわれていたが、この年亀沢町に徙 って検すると、既に一万部に満たなかった。矢島優善が台所町の土蔵から書籍を搬出するのを、当時まだ生きていた兄恒善 が見附けて、奪い還 したことがある。しかし人目に触れずに、どれだけ出して売ったかわからない。或時は二階から本を索 に繋 いで卸すと、街上に友人が待ち受けていて持ち去ったそうである。安政三年以後、抽斎の時々 病臥 することがあって、その間には書籍の散佚 することが殊 に多かった。また人に貸して失った書も少くない。就中 森枳園 とその子養真とに貸した書は多く還らなかった。成善 が海保の塾に入 った後には、海保竹逕 が数 渋江氏に警告して、「大分御 蔵書印のある本が市中に見えるようでございますから、御注意なさいまし」といった。
抽斎の心に懸けて死んだ躋寿館校刻の『医心方』は、この年完成して、森枳園らは白銀若干を賞賜せられた。
抽斎に洋学の必要を悟らせた安積艮斎 は、この年十一月二十二日に七十一歳で歿した。艮斎の歿した時の齢 は諸書に異同があって、中に七十一としたものと七十六としたものとが多い。鈴木春浦 さんに頼んで、妙源寺の墓石と過去帖とを検してもらったが、並 に皆これを記していない。しかし文集を閲 するに、故郷の安達太郎山 に登った記に、干支と年齢のおおよそとが書してあって、万延元年に七十六に満たぬことは明白である。子文九郎重允 が家を嗣いだ。少 い時疥癬 のために衰弱したのを、父が温泉に連れて往って治 したことが、文集に見えている。抽斎は艮斎のワシントンの論讃を読んで、喜んで反復したそうである。恐 くは『洋外紀略』の「嗚呼 話聖東 、雖生於戎羯 、其為人 、有足多者 」云々の一節であっただろう。
その七十一
抽斎歿後第三年は文久元年である。年の初 に五百 は大きい本箱三つを成善 の部屋に運ばせて、戸棚の中に入れた。そしてこういった。
「これは日本に僅 三部しかない善 い版の『十三経註疏 』だが、お父 う様がお前のだと仰 った。今年はもう三回忌の来る年だから、今からお前の傍 に置くよ」といった。
数日の後に矢島優善 が、活花 の友達を集めて会をしたいが、緑町の家には丁度好 い座敷がないから、成善の部屋を借りたいといった。成善は部屋を明け渡した。
さて友達という数人が来て、汁粉 などを食って帰った跡で、戸棚の本箱を見ると、その中は空虚であった。
三月六日に優善は「身持 不行跡不埒 」の廉 を以て隠居を命ぜられ、同時に「御憐憫 を以て名跡 御立被下置 」ということになって、養子を入れることを許された。
優善のまさに養うべき子を選ぶことをば、中丸昌庵が引き受けた。然るに中丸の歓心を得ている近習詰百五十石六人扶持の医者に、上原元永 というものがあって、この上原が町医伊達周禎 を推薦した。
周禎は同じ年の八月四日を以て家督相続をして、矢島氏の禄二百石八人扶持を受けることになった。養父優善は二十七歳、養子周禎は文化十四年生 で四十五歳になっていた。
周禎の妻を高 といって、已 に四子を生んでいた。長男周碩 、次男周策、三男三蔵、四男玄四郎が即ちこれである。周禎が矢島氏を冒した時、長男周碩は生得 不調法 にして仕宦 に適せぬと称して廃嫡を請い、小田原 に往って町医となった。そこで弘化二年生の次男周策が嗣子に定まった。当時十七歳である。
これより先 優善が隠居の沙汰 を蒙 った時、これがために最も憂えたものは五百で、最も憤 ったものは比良野貞固 である。貞固は優善を面責 して、いかにしてこの辱 を雪 ぐかと問うた。優善は山田昌栄の塾に入 って勉学したいと答えた。
貞固は先ず優善が改悛 の状を見届けて、然 る後 に入塾せしめるといって、優善と妻鉄 とを自邸に引き取り、二階に住 わせた。
さて十月になってから、貞固は五百 を招いて、倶 に優善を山田の塾に連れて往った。塾は本郷弓町にあった。
この塾の月俸は三分二朱であった。貞固のいうには、これは聊 の金ではあるが、矢島氏の禄を受くる周禎が当然支出すべきもので、また優善の修行中その妻鉄をも周禎があずかるが好 いといった。そしてこの二件を周禎に交渉した。周禎はひどく迷惑らしい答をしたが、後に渋りながらも承諾した。想うに上原は周禎を矢島氏の嗣となすに当って、株の売渡 のような形式を用いたのであろう。上原は渋江氏に対して余り同情を有せぬ人で、優善には屁 の糟 という渾名 をさえ附けていたそうである。
山田の塾には当時門人十九人が寄宿していたが、いまだ幾 もあらぬに梅林松弥 というものと優善とが塾頭にせられた。梅林は初め抽斎に学び、後 此 に来たもので、維新後名を潔 と改め、明治二十一年一月十四日に陸軍一等軍医を以て終った。
比良野氏ではこの年同藩の物頭 二百石稲葉丹下 の次男房之助 を迎えて養子とした。これは貞固が既に五十歳になったのに、妻かなが子を生まぬからであった。房之助は嘉永四年八月二日生 で、当時十一歳になっていて、学問よりは武芸が好 であった。
その七十二
矢川氏ではこの年文一郎が二十一歳で、本所二つ目の鉄物問屋 平野屋の女 柳 を娶 った。
石塚重兵衛の豊芥子 は、この年十二月十五日に六十三歳で歿した。豊芥子が渋江氏の扶助を仰ぐことは、殆 ど恒例の如くになっていた。五百 は石塚氏にわたす金を記 す帳簿を持っていたそうである。しかし抽斎はこの人の文字 を識 って、広く市井の事に通じ、また劇の沿革を審 にしているのを愛して、来 り訪 うごとに歓び迎えた。今抽斎に遅るること三年で世を去ったのである。
人の死を説いて、直ちにその非を挙げんは、後言 めく嫌 はあるが、抽斎の蔵書をして散佚 せしめた顛末 を尋ぬるときは、豊芥子もまた幾分の責 を分たなくてはならない。その持ち去ったのは主に歌舞音曲 の書、随筆小説の類である。その他書画骨董 にも、この人の手から商估 の手にわたったものがある。ここに保さんの記憶している一例を挙げよう。抽斎の遺物に円山応挙 の画 百枚があった。題材は彼 の名高い七難七福の図に似たもので、わたくしはその名を保さんに聞いて記憶しているが、少しくこれを筆にすることを憚 る。装□ 頗る美にして桐の箱入になっていた。この画と木彫 の人形数箇とを、豊芥子は某会に出陳するといって借りて帰った。人形は六歌仙と若衆 とで、寛永時代の物だとかいうことであった。これは抽斎が「三坊 には雛 人形を遣らぬ代 にこれを遣る」といったのだそうである。三坊とは成善 の小字 三吉 である。五百は度々清助 という若党を、浅草諏訪町 の鎌倉屋へ遣って、催促して還 させようとしたが、豊芥子は言 を左右に託して、遂にこれを還さなかった。清助は本 京都の両替店 銭屋 の息子 で、遊蕩 のために親に勘当せられ、江戸に来て渋江氏へ若党に住み込んだ。手跡がなかなか好 いので、豊芥子の筆耕に傭 われることになっていた。それゆえ鎌倉屋への使に立ったのである。
森枳園 が小野富穀 と口論をしたという話があって、その年月を詳 にせぬが、わたくしは多分この年の頃であろうと思う。場所は山城河岸 の津藤 の家であった。例の如く文人、画師 、力士、俳優、幇間 、芸妓 等の大一座で、酒酣 なる比 になった。その中に枳園、富穀、矢島優善 、伊沢徳安 などが居合せた。初め枳園と富穀とは何事をか論じていたが、万事を茶にして世を渡る枳園が、どうしたわけか大いに怒 って、七代目賽 のたんかを切り、胖大漢 の富穀をして色を失って席を遁 れしめたそうである。富穀もまた滑稽 趣味においては枳園に劣らぬ人物で、臍 で烟草 を喫 むという隠芸 を有していた。枳園とこの人とがかくまで激烈に衝突しようとは、誰 も思い掛 けぬので、優善、徳安の二人は永くこの喧嘩 を忘れずにいた。想うに貨殖 に長じた富穀と、人の物と我物との別に重きを置かぬ、無頓着 な枳園とは、その性格に相容 れざる所があったであろう。津藤 即ち摂津国屋 藤次郎 は、名は鱗 、字は冷和 、香以 、鯉角 、梅阿弥 等と号した。その豪遊を肆 にして家産を蕩尽 したのは、世の知る所である。文政五年生 で、当時四十歳である。
この年の抽斎が忌日 の頃であった。小島成斎は五百に勧めて、なお存している蔵書の大半を、中橋埋地 の柏軒が家にあずけた。柏軒は翌年お玉が池に第宅 を移す時も、家財と共にこれを新居に搬 び入れて、一年間位鄭重 に保護 していた。
その七十三
抽斎歿後の第四年は文久二年である。抽斎は世にある日、藩主に活版薄葉刷 の『医方類聚 』を献ずることにしていた。書は喜多村栲窓 の校刻する所で、月ごとに発行せられるのを、抽斎は生を終るまで次を逐 って上 った。成善 は父の歿後相継いで納本していたが、この年に至って全部を献じ畢 った。八月十五日順承 は重臣を以て成善に「御召御紋御羽織並御酒御吸物」を賞賜した。
成善は二年前 から海保竹逕 に学んで、この年十二月二十八日に、六歳にして藩主順承 から奨学金二百匹を受けた。主 なる経史 の素読 を畢 ったためである。母五百 は子女に読書習字を授けて半日を費 すを常としていたが、毫 も成善の学業に干渉しなかった。そして「あれは書物が御飯より好 だから、構わなくても好 い」といった。成善はまた善く母に事 うるというを以て、賞を受くること両度に及んだ。
この年十月十八日に成善が筆札 の師小島成斎が六十七歳で歿した。成斎は朝生徒に習字を教えて、次 で阿部家の館 に出仕し、午時 公退して酒を飲み劇を談ずることを例としていた。阿部家では抽斎の歿するに先だつこと一年、安政四年六月十七日に老中 の職におった伊勢守正弘が世を去って、越えて八月に伊予守正教 が家督相続をした。成善が従学してからは、成斎は始終正教に侍していたのである。後に至って成善は朝の課業の喧擾 を避け、午後に訪 うて単独に教 を受けた。そこで成斎の観劇談を聴くことしばしばであった。成斎は卒中 で死んだ。正弘の老中たりし時、成斎は用人格 に擢 でられ、公用人服部 九十郎と名を斉 うしていたが、二人 皆同病によって命を隕 した。成斎には二子三女があって、長男生輒 は早世し、次男信之 が家を継いだ。通称は俊治 である。俊治の子は鎰之助 、鎰之助の養嗣子は、今本郷区駒込 動坂町 にいる昌吉 さんである。高足 の一人小此木辰太郎 は、明治九年に工務省雇 になり、十人年内閣属に転じ、十九年十二月一日から二十七年三月二十九日まで職を学習院に奉じて、生徒に筆札を授けていたが、明治二十八年一月に歿した。
成善がこの頃母五百と倶 に浅草永住町 の覚音寺 に詣 でたことがある。覚音寺は五百の里方山内氏の菩提所 である。帰途二人 は蔵前通 を歩いて桃太郎団子の店の前に来ると、五百の相識の女に邂逅 した。これは五百と同じく藤堂家に仕えて、中老になっていた人である。五百は久しく消息の絶えていたこの女と話がしたいといって、ほど近い横町 にある料理屋誰袖 に案内した。成善も跡に附いて往った。誰袖は当時川長 、青柳 、大七 などと並称せられた家である。
三人の通った座敷の隣に大一座 の客があるらしかった。しかし声高 く語り合うこともなく、矧 てや絃歌 の響などは起らなかった。暫 くあってその座敷が遽 に騒がしく、多人数 の足音がして、跡はまたひっそりとした。
給仕 に来た女中に五百が問うと、女中はいった。「あれは札差 の檀那衆 が悪作劇 をしてお出 なすったところへ、お辰 さんが飛び込んでお出なすったのでございます。蒔 き散らしてあったお金をそのままにして置いて、檀那衆がお逃 なさると、お辰さんはそれを持ってお帰 なさいました」といった。お辰というのは、後 盗 をして捕えられた旗本青木弥太郎 の妾 である。
女中の語り畢 る時、両刀を帯びた異様の男が五百らの座敷に闖入 して「手前 たちも博奕 の仲間だろう、金を持っているなら、そこへ出してしまえ」といいつつ、刀 を抜いて威嚇した。
「なに、この騙 り奴 が」と五百は叫んで、懐剣を抜いて起 った。男は初 の勢にも似ず、身を翻 して逃げ去った。この年五百はもう四十七歳になっていた。
その七十四
矢島優善 は山田の塾に入 って、塾頭に推されてから、やや自重するものの如く、病家にも信頼せられて、旗下 の家庭にして、特に矢島の名を斥 して招請するものさえあった。五百も比良野貞固 もこれがために頗 る心を安んじた。
既にしてこの年二月の初午 の日となった。渋江氏では亀沢稲荷の祭を行うといって、親戚故旧を集 えた。優善も来て宴に列し、清元 を語ったり茶番を演じたりした。五百はこれを見て苦々 しくは思ったが、酒を飲まぬ優善であるから、よしや少しく興に乗じたからといって、後 に累 を胎 すような事はあるまいと気に掛けずにいた。
優善が渋江の家に来て、その夕方に帰ってから、二、三日立った頃の事である。師山田椿庭 が本郷弓町から尋ねて来て、「矢島さんはこちらですか、余り久しく御滞留になりますから、どうなされたかと存じて伺いました」といった。
「優善は初午の日にまいりましたきりで、あの日には晩の四つ頃に帰りましたが」と、五百は訝 かしげに答えた。
「はてな。あれから塾へは帰られませんが。」椿庭はこういって眉 を蹙 めた。
五百は即時に人を諸方に馳 せて捜索せしめた。優善の所在はすぐに知れた。初午の夜 に無銭で吉原に往 き、翌日から田町 の引手茶屋 に潜伏していたのである。
五百は金を償って優善を帰らせた。さて比良野貞固、小野富穀 の二人 を呼んで、いかにこれに処すべきかを議した。幼い成善も、戸主だというので、その席に列 った。
貞固は暫く黙していたが、容 を改めてこういった。「この度の処分はただ一つしかないとわたくしは思う。玄碩 さんはわたくしの宅で詰腹 を切らせます。小野さんも、お姉 えさんも、三坊も御苦労ながらお立会 下さい。」言い畢 って貞固は緊 しく口を結んで一座を見廻した。優善は矢島氏を冒してから、養父の称を襲 いで玄碩といっていた。三坊は成善の小字 三吉である。
富穀 は面色 土の如くになって、一語を発することも得なかった。
五百 は貞固の詞 を予期していたように、徐 に答えた。「比良野様の御意見は御尤 と存じます。度々の不始末で、もうこの上何と申し聞けようもございません。いずれ篤 と考えました上で、改めてこちらから申し上げましょう」といった。
これで相談は果てた。貞固は何事もないような顔をして、席を起 って帰った。富穀は跡に残って、どうか比良野を勘弁させるように話をしてくれと、繰り返して五百に頼んで置いて、すごすご帰った。五百は優善 を呼んで厳 に会議の始末を言い渡した。成善はどうなる事かと胸を痛めていた。
翌朝五百は貞固を訪 うて懇談した。大要はこうである。昨日 の仰 は尤至極である。自分は同意せずにはいられない。これまでの行掛 りを思えば、優善にこの上どうして罪を贖 わせようという道はない。自分も一死がその分であるとは信じている。しかし晴がましく死なせることは、家門のためにも、君侯のためにも望ましくない。それゆえ切腹に代えて、金毘羅 に起請文 を納めさせたい。悔い改める望 のない男であるから、必ず冥々 の裏 に神罰を蒙 るであろうというのである。
貞固はつくづく聞いて答えた。それは好 いお思附 である。この度の事については、命乞 の仲裁なら決して聴くまいと決心していたが、晴がましい死様 をさせるには及ばぬというお考は道理至極である。然らばその起請文を書いて金毘羅に納めることは、姉上にお任せするといった。
その七十五
五百 は矢島優善 に起請文を書かせた。そしてそれを持って虎 の門 の金毘羅へ納めに往った。しかし起請文は納めずに、優善が行末 の事を祈念して帰った。
小野氏ではこの年十二月十二日に、隠居令図 が八十歳で歿した。五年前 に致仕して富穀 に家を継がせていたのである。小野氏の財産は令図の貯 えたのが一万両を超えていたそうである。
伊沢柏軒はこの年三月に二百俵三十人扶持の奥医師にせられて、中橋埋地からお玉が池に居を移した。この時新宅の祝宴に招かれた保さんが種々の事を記憶している。柏軒の四女やすは保さんの姉水木 と長唄の「老松 」を歌った。柴田常庵 という肥え太った医師は、越中褌 一つを身に着けたばかりで、「棚の達磨 」を踊った。そして宴が散じて帰る途中で、保さんは陣幕久五郎 が小柳平助 に負けた話を聞いた。
やすは柏軒の庶出 の女 である。柏軒の正妻狩谷 氏俊 の生んだ子は、幼くて死した長男棠助 、十八、九歳になって麻疹 で亡くなった長女洲 、狩谷□斎 の養孫、懐之 の養子三右衛門 に嫁した次女国 の三人だけで、その他の子は皆妾 春の腹 である。その順序を言えば、長男棠助、長女洲、次女国、三女北 、次男磐 、四女やす、五女こと、三男信平 、四男孫助 である。おやすさんは人と成って後田舎 に嫁したが、今は麻布 鳥居坂町 の信平さんの許 にいるそうである。
柴田常庵は幕府医官の一人 であったそうである。しかしわたくしの蔵している「武鑑」には載せてない。万延元年の「武鑑」は、わたくしの蔵本に正月、三月、七月の三種がある。柏軒は正月のにはまだ奥詰の部に出ていて、三月以下のには奥医師の部に出ている。柴田は三書共にこれを載せない。維新後にこの人は狂言作者になって竹柴寿作 と称し、五世坂東彦三郎 と親しかったということである。なお尋ねて見たいものである。
陣幕久五郎の負 は当時人の意料 の外 に出た出来事である。抽斎は角觝 を好まなかった。然るに保さんは穉 い時からこれを看 ることを喜んで、この年の春場所をも、初日から五日目まで一日も闕 かさずに見舞った。さてその六日目が伊沢の祝宴であった。子 の刻を過ぎてから、保さんは母と姉とに連れられて伊沢の家を出て帰り掛かった。途中で若党清助が迎えて、保さんに「陣幕が負けました」と耳語 した。
「虚言 を衝 け」と、保さんは叱 した。取組は前から知っていて、小柳 が陣幕の敵でないことを固く信じていたのである。
「いいえ、本当です」と、清助はいった。清助の言 は事実であった。陣幕は小柳に負けた。そして小柳はこの勝の故を以て人に殺された。その殺されたのが九つ半頃であったというから、丁度保さんと清助とがこの応答をしていた時である。
陣幕の事を言ったから、因 に小錦 の事をも言って置こう。伊沢のおかえさんに附けられていた松という少女があった。松は魚屋与助 の女 で、菊、京の二人 の妹があった。この京が岩木川 の種を宿して生んだのが小錦八十吉 である。
保さんは今一つ、柏軒の奥医師になった時の事を記憶している。それは手習の師小島成斎が、この時柏軒の子鉄三郎に対する待遇を一変した事である。福山侯の家来成斎が、いかに幕府の奥医師の子を尊敬しなくてはならなかったかという、当年の階級制度の画図 が、明 に穉 い成善の目前に展開せられたのである。
その七十六
小島成斎が神田の阿部家の屋敷に住んで、二階を教場 にして、弟子に手習をさせた頃、大勢の児童が机を並べている前に、手に鞭 を執って坐し、筆法を正 すに鞭の尖 を以て指 し示し、その間には諧謔 を交えた話をしたことは、前に書いた。成斎は話をするに、多く伊沢柏軒の子鉄三郎を相手にして、鉄坊々々と呼んだが、それが意あってか、どうか知らぬが、鉄砲々々と聞えた。弟子らもまた鉄三郎を鉄砲さんと呼んだ。
成斎が鉄砲さんを揶揄 えば、鉄砲さんも必ずしも師を敬ってばかりはいない。往々戯言 を吐いて尊厳を冒すことがある。成斎は「おのれ鉄砲奴 」と叫びつつ、鞭を揮 って打とうとする。鉄砲は笑って逃 る。成斎は追い附いて、鞭で頭を打つ。「ああ、痛い、先生ひどいじゃありませんか」と、鉄砲はつぶやく。弟子らは面白がって笑った。こういう事は殆 ど毎日あった。
然るにこの年の三月になって、鉄砲さんの父柏軒が奥医師になった。翌日から成斎ははっきりと伊沢の子に対する待遇を改めた。例之 ば筆法を正すにも「徳安 さん、その点はこうお打 なさいまし」という。鉄三郎はよほど前に小字 を棄 てて徳安と称していたのである。この新 な待遇は、不思議にも、これを受ける伊沢の嫡男をして忽 ち態度を改めしめた。鉄三郎の徳安は甚だしく大人 しくなって、殆どはにかむように見えた。
この年の九月に柏軒はあずかっていた抽斎の蔵書を還 した。それは九月の九日に将軍家茂 が明年二月を以て上洛 するという令を発して、柏軒はこれに随行する準備をしたからである。渋江氏は比良野貞固 に諮 って、伊沢氏から還された書籍の主なものを津軽家の倉庫にあずけた。そして毎年二度ずつ虫干 をすることに定めた。当時作った目録によれば、その部数は三千五百余に過ぎなかった。
書籍が伊沢氏から還されて、まだ津軽家にあずけられぬほどの事であった。森枳園 が来て『論語』と『史記』とを借りて帰った。『論語』は乎古止点 を施した古写本で、松永久秀 の印記があった。『史記』は朝鮮板 であった。後 明治二十三年に保さんは島田篁村 を訪 うて、再びこの『論語』を見た。篁村はこれを細川十洲 さんに借りて閲 していたのである。
津軽家ではこの年十月十四日に、信順 が浜町中屋敷において、六十三歳で卒した。保さんの成善 は枕辺 に侍していた。
この年十二月二十一日の夜 、塙次郎 が三番町 で刺客 の刃 に命を隕 した。抽斎は常にこの人と岡本况斎 とに、国典の事を詢 うことにしていたそうである。次郎は温古堂 と号した。保己一 の男 、四谷 寺町 に住む忠雄 さんの祖父である。当時の流言に、次郎が安藤対馬守信睦 のために廃立の先例を取り調べたという事が伝えられたのが、この横禍 の因をなしたのである。遺骸の傍 に、大逆 のために天罰を加うという捨札 があった。次郎は文化十一年生 で、殺された時が四十九歳、抽斎より少 きこと九年であった。
この年六月中旬から八月下旬まで麻疹 が流行して、渋江氏の亀沢町の家へ、御柳 の葉と貝多羅葉 とを貰 いに来る人が踵 を接した。二樹 の葉が当時民間薬として用いられていたからである。五百は終日応接して、諸人 の望に負 かざらんことを努めた。
その七十七
抽斎歿後の第五年は文久三年である。成善 は七歳で、始 て矢の倉の多紀安琢 の許 に通って、『素問 』の講義を聞いた。
伊沢柏軒はこの年五十四歳で歿した。徳川家茂 に随 って京都に上り、病を得て客死 したのである。嗣子鉄三郎の徳安 がお玉が池の伊沢氏の主人となった。
この年七月二十日に山崎美成 が歿した。抽斎は美成と甚だ親しかったのではあるまい。しかし二家 書庫の蔵する所は、互 に出 だし借すことを吝 まなかったらしい。頃日 珍書刊行会が『後昔物語 』を刊したのを見るに、抽斎の奥書 がある。「右喜三二 随筆後昔物語一巻。借好間堂蔵本 。友人平伯民為予謄写 。庚子孟冬 一校。抽斎。」庚子 は天保十一年で、抽斎が弘前から江戸に帰った翌年である。平伯民 は平井東堂だそうである。
美成、字は久卿 、北峰 、好問堂 等の号がある。通称は新兵衛 、後 久作と改めた。下谷 二長町 に薬店を開いていて、屋号を長崎屋といった。晩年には飯田町 の鍋島 というものの邸内にいたそうである。黐木坂下 に鍋島穎之助 という五千石の寄合 が住んでいたから、定めてその邸であろう。
美成の歿した時の齢 を六十七歳とすると、抽斎より長ずること八歳であっただろう。しかし諸書の記載が区々 になっていて、確 には定めがたい。
抽斎歿後の第六年は元治 元年である。森枳園が躋寿館 の講師たるを以て、幕府の月俸を受けることになった。
第七年は慶応元年である。渋江氏では六月二十日に翠暫 が十一歳で夭札 した。
比良野貞固 はこの年四月二十七日に妻かなの喪に遭 った。かなは文化十四年の生 で四十九歳になっていた。内に倹素を忍んで、外 に声望を張ろうとする貞固が留守居の生活は、かなの内助を待って始 て保続せられたのである。かなの死後に、親戚僚属は頻 に再び娶 らんことを勧めたが、貞固は「五十を踰 えた花壻になりたくない」といって、久しくこれに応ぜずにいた。
第八年は慶応二年である。海保漁村が九年前 に病に罹 り、この年八月その再発に逢 い、九月十八日に六十九歳で歿したので、十歳の成善は改めてその子竹逕 の門人になった。しかしこれは殆ど名義のみの変更に過ぎなかった。何故 というに、晩年の漁村が弟子 のために書を講じたのは、四九の日の午後のみで、その他授業は竹逕が悉 くこれに当っていたからである。漁村の書を講ずる声は咳嗄 れているのに、竹逕は音吐 晴朗で、しかも能弁であった。後年に至って島田篁村の如きも、講壇に立つときは、人をして竹逕の口吻 態度を学んでいはせぬかと疑わしめた。竹逕の養父に代って講説することは、啻 に伝経廬 におけるのみではなかった。竹逕は弊衣 を著 て塾を出 で、漁村に代って躋寿館に往 き、間部家 に往き、南部家に往いた。勢 此 の如くであったので、漁村歿後に至っても、練塀小路 の伝経廬は旧に依 って繁栄した。
多年渋江氏に寄食していた山内豊覚 の妾 牧 は、この年七十七歳を以て、五百の介抱を受けて死んだ。
その七十八
抽斎の姉須磨 が飯田良清 に嫁して生んだ女 二人 の中で、長女延 は小舟町 の新井屋半七 が妻となって死に、次女路 が残っていた。路は痘瘡 のために貌 を傷 られていたのを、多分この年の頃であっただろう、三百石の旗本で戸田某という老人が後妻に迎えた。戸田氏は旗本中に頗 る多いので、今考えることが出来にくい。良清の家は、須磨の生んだ長男直之助 が夭折した跡へ、孫三郎という養子が来て継いでから、もう久しうなっていた。飯田孫三郎は十年前 の安政三年から、「武鑑」の徒目附 の部に載せられている。住所は初め湯島 天沢寺前 としてあって、後には湯島天神裏門前としてある。保さんの記憶している家は麟祥院前 の猿飴 の横町であったそうである。孫三郎は維新後静岡県の官吏になって、良政 と称し、後また東京に入 って、下谷 車坂町 で終ったそうである。
比良野貞固 は妻かなが歿した後 、稲葉氏から来た養子房之助 と二人で、鰥暮 しをしていたが、無妻で留守居を勤めることは出来ぬと説くものが多いので、貞固の心がやや動いた。この年の頃になって、媒人 が表坊主 大須 というものの女 照 を娶 れと勧めた。「武鑑」を検するに、慶応二年に勤めていたこの氏の表坊主父子がある。父は玄喜 、子は玄悦 で、麹町 三軒家 の同じ家に住んでいた。照は玄喜の女 で、玄悦の妹ではあるまいか。
貞固は津軽家の留守居役所で使っている下役 杉浦喜左衛門 を遣 って、照を見させた。杉浦は老実な人物で、貞固が信任していたからである。照に逢って来た杉浦は、盛んに照の美を賞して、その言語 その挙止さえいかにもしとやかだといった。
結納 は取換 された。婚礼の当日に、五百 は比良野の家に往って新婦を待ち受けることになった。貞固と五百とが窓の下 に対坐していると、新婦の轎 は門内に舁 き入れられた。五百は轎を出る女を見て驚いた。身の丈 極 て小さく、色は黒く鼻は低い。その上口が尖 って歯が出ている。五百は貞固を顧みた。貞固は苦笑 をして、「お姉 えさん、あれが花よめ御 ですぜ」といった。
新婦が来てから杯 をするまでには時が立った。五百は杉浦のおらぬのを怪 んで問うと、よめの来たのを迎えてすぐに、比良野の馬を借りて、どこかへ乗って往ったということであった。
暫らくして杉浦は五百と貞固との前へ出て、□ の汗を拭 いつついった。「実に分疏 がございません。わたくしはお照殿にお近づきになりたいと、先方へ申し込んで、先方からも委細承知したという返事があって参ったのでございます。その席へ立派にお化粧をして茶を運んで出て、暫時わたくしの前にすわっていて、時候の挨拶 をいたしたのは、兼 て申し上げたとおりの美しい女でございました。今日 参ったよめ御 は、その日に菓子鉢か何か持って出て、閾 の内までちょっとはいったきりで、すぐに引き取りました。わたくしはよもやあれがお照殿であろうとは存じませなんだ。余りの間違でございますので、お馬を借用して、大須家へ駆け付けて尋ねましたところが、御挨拶をさせた女は照のお引合せをいたさせた倅 のよめでございますという返答でございます。全くわたくしの粗忽 で」といって、杉浦はまた□の汗を拭った。
その七十九
五百 は杉浦喜左衛門の話を聞いて色を変じた。そして貞固に「どうなさいますか」と問うた。
杉浦は傍 からいった。「御破談になさるより外ございますまい。わたくしがあの日に、あなたがお照様でございますねと、一言 念を押して置けば宜 しかったのでございます。全くわたくしの粗忽で」という、目には涙を浮べていた。
貞固は叉 いていた手をほどいていった。「お姉 えさん御心配をなさいますな。杉浦も悔まぬが好 い。わたしはこの婚礼をすることに決心しました。お坊主を恐れるのではないが、喧嘩 を始めるのは面白くない。それにわたしはもう五十を越している。器量好みをする年でもない」といった。
貞固は遂 に照と杯 をした。照は天保六年生 で、嫁した時三十二歳になっていた。醜いので縁遠かったのであろう。貞固は妻 の里方と交 るに、多く形式の外に出 でなかったが、照と結婚した後 間もなくその弟玄琢 を愛するようになった。大須 玄琢は学才があるのに、父兄はこれに助力せぬので、貞固は書籍を買って与えた。中には八尾板 の『史記』などのような大部のものがあった。
この年弘前藩では江戸定府 を引き上げて、郷国に帰らしむることに決した。抽斎らの国勝手 の議が、この時に及んで纔 に行われたのである。しかし渋江氏とその親戚とは先ず江戸を発する群 には入 らなかった。
抽斎歿後の第九年は慶応三年である。矢島優善 は本所緑町の家を引き払って、武蔵国北足立郡 川口 に移り住んだ。知人 があって、この土地で医業を営むのが有望だと勧めたからである。しかし優善が川口にいて医を業としたのは、僅 の間 である。「どうも独身で田舎にいて見ると、土臭い女がたかって来て、うるさくてならない」といって、亀沢町の渋江の家に帰って同居した。当時優善は三十三歳であった。
比良野貞固の家では、この年後妻 照が柳 という女 を生んだ。
第十年は明治元年である。伏見 、鳥羽 の戦 を以て始まり、東北地方に押し詰められた佐幕の余力 が、春より秋に至る間に漸 く衰滅に帰した年である。最後の将軍徳川慶喜 が上野寛永寺に入 った後 に、江戸を引き上げた弘前藩の定府 の幾組かがあった。そしてその中に渋江氏がいた。
渋江氏では三千坪の亀沢町の地所と邸宅とを四十五両に売った。畳一枚の価 は二十四文であった。庭に定所 、抽斎父子の遺愛の木たる□柳 がある。神田の火に逢って、幹の二大枝 に岐 れているその一つが枯れている。神田から台所町へ、台所町から亀沢町へ徙 されて、幸 に凋 れなかった木である。また山内豊覚が遺言 して五百に贈った石燈籠 がある。五百も成善 も、これらの物を棄てて去るに忍びなかったが、さればとて木石を百八十二里の遠きに致さんことは、王侯富豪も難 んずる所である。ましてや一身の安きをだに期しがたい乱世の旅である。母子はこれを奈何 ともすることが出来なかった。
食客は江戸若 くはその界隈 に寄るべき親族を求めて去った。奴婢 は、弘前に随 い行 くべき若党二人を除く外、悉 く暇 を取った。こういう時に、年老いたる男女の往 いて投ずべき家のないものは、愍 むべきである。山内氏から来た牧は二年前 に死んだが、跡にまだ妙了尼 がいた。
妙了尼の親戚は江戸に多かったが、この時になって誰 一人引き取ろうというものがなかった。五百 は一時当惑した。
その八十
渋江氏が本所亀沢町の家を立ち退 こうとして、最も処置に因 んだのは妙了尼の身の上であった。この老尼は天明元年に生れて、已 に八十八歳になっている。津軽家に奉公したことはあっても、生れてから江戸の土地を離れたことのない女である。それを弘前へ伴うことは、五百がためにも望ましくない。また老いさらぼいたる本人のためにも、長途の旅をして知人 のない遠国 に往くのはつらいのである。
本 妙了は特に渋江氏に縁故のある女ではない。神田豊島町 の古着屋の女 に生れて、真寿院 の女小姓 を勤めた。さて暇 を取ってから人に嫁し、夫を喪 って剃髪 した。夫の弟が家を嗣 ぐに及んで、初め恋愛していたために今憎悪する戸主に虐遇せられ、それを耐え忍んで年を経た。亡夫の弟の子の代になって、虐遇は前に倍し、あまつさえ眼病を憂えた。これが弘化二年で、妙了が六十五歳になった時である。
妙了は眼病の治療を請いに抽斎の許 へ来た。前年に来 り嫁した五百 が、老尼の物語を聞いて気の毒がって、遂に食客にした。それからは渋江の家にいて子供の世話をし、中にも棠 と成善 とを愛した。
妙了の最も近い親戚は、本所相生町 に石灰屋 をしている弟である。しかし弟は渋江氏の江戸を去るに当って、姉を引き取ることを拒んだ。その外今川橋 の飴屋 、石原 の釘屋 、箱崎 の呉服屋、豊島町の足袋屋 なども、皆縁類でありながら、一人として老尼の世話をしようというものはなかった。
幸に妙了の女姪 が一人富田十兵衛 というものの妻 になっていて、夫に小母 の事を話すと、十兵衛は快く妙了を引き取ることを諾した。十兵衛は伊豆国 韮山 の某寺に寺男 をしているので、妙了は韮山へ往った。
四月朔 に渋江氏は亀沢町の邸宅を立ち退 いて、本所横川 の津軽家の中屋敷に徙 った。次で十一日に江戸を発した。この日は官軍が江戸城を収めた日である。
一行 は戸主成善十二歳、母五百 五十三歳、陸 二十二歳、水木 十六歳、専六 十五歳、矢島優善 三十四歳の六人と若党二人 とである。若党の一人 は岩崎駒五郎 という弘前のもので、今一人は中条勝次郎 という常陸国 土浦 のものである。
同行者は矢川文一郎 と浅越一家 とである。文一郎は七年前 の文久元年に二十一歳で、本所二つ目の鉄物問屋 平野屋の女 柳を娶 って、男子 を一人もうけていたが、弘前行 の事が極 まると、柳は江戸を離れることを欲せぬので、子を連れて里方へ帰った。文一郎は江戸を立った時二十八歳である。
浅越一家は主人夫婦と女 とで、若党一人を連れていた。主人は通称を玄隆 といって、百八十石六人扶持の表医者である。玄隆は少 い時不行迹 のために父永寿に勘当せられていたが、永寿の歿するに及んで末期 養子として後 を承 け、次で抽斎の門人となり、また抽斎に紹介せられて海保漁村の塾に入 った。天保九年の生れで、抽斎に従学した安政四年には二十歳であった。その後渋江氏と親 んでいて、共に江戸を立った時は三十一歳である。玄隆の妻よしは二十四歳、女 ふくは当歳である。
ここにこの一行に加わろうとして許されなかったものがある。わたくしはこれを記 するに当って、当時の社会が今と殊 なることの甚だしきを感ずる。奉公人が臣僕の関係になっていたことは勿論 であるが、出入 の職人商人 もまた情誼 が頗 る厚かった。渋江の家に出入 する中で、職人には飾屋長八 というものがあり、商人には鮓屋久次郎 というものがあった。長八は渋江氏の江戸を去る時墓木 拱 していたが、久次郎は六十六歳の翁 になって生存 えていたのである。
その八十一
飾屋長八は単に渋江氏の出入 だというのみではなかった。天保十年に抽斎が弘前から帰った時、長八は病んで治療を請うた。その時抽斎は長八が病のために業を罷 めて、妻と三人の子とを養うことの出来ぬのを見て、長屋に住 わせて衣食を給した。それゆえ長八は病が癒 えて業に就 いた後 、長く渋江氏の恩を忘れなかった。安政五年に抽斎の歿した時、長八は葬式の世話をして家に帰り、例に依 って晩酌の一合を傾けた。そして「あの檀那 様がお亡くなりなすって見れば、己 もお供をしても好 いな」といった。それから二階に上がって寝たが、翌朝起きて来ぬので女房が往って見ると、長八は死んでいたそうである。
鮓屋久次郎は本 ぼて振 の肴屋 であったのを、五百 の兄栄次郎が贔屓 にして資本を与えて料理店を出させた。幸に鮓久 の庖丁 は評判が好 かったので、十ばかり年の少 い妻を迎えて、天保六年に倅 豊吉 をもうけた。享和三年生 の久次郎は当時三十三歳であった。後 九年にして五百が抽斎に嫁したので、久次郎は渋江氏にも出入 することになって、次第に親しくなっていた。
渋江氏が弘前に徙 る時、久次郎は切に供をして往 くことを願った。三十四歳になった豊吉に、母の世話をさせることにして置いて、自分は単身渋江氏の供に立とうとしたのである。この望を起すには、弘前で料理店を出そうという企業心も少し手伝っていたらしいが、六十六歳の翁 が二百里足らずの遠路を供に立って行こうとしたのは、主 に五百を尊崇 する念から出たのである。渋江氏では故 なく久次郎の願 を却 けることが出来ぬので、藩の当事者に伺ったが、当事者はこれを許すことを好まなかった。五百は用人河野六郎 の内意を承 けて、久次郎の随行を謝絶した。久次郎はひどく落胆したが、翌年病に罹 って死んだ。
渋江氏の一行は本所二つ目橋の畔 から高瀬舟 に乗って、竪川 を漕 がせ、中川 より利根川 に出 で、流山 、柴又 等を経て小山 に著 いた。江戸を距 ること僅 に二十一里の路に五日を費 した。近衛家 に縁故のある津軽家は、西館孤清 の斡旋 に依って、既に官軍に加わっていたので、路の行手 の東北地方は、秋田の一藩を除く外、悉 く敵地である。一行の渋江、矢川 、浅越 の三氏の中では、渋江氏は人数 も多く、老人があり少年少女がある。そこで最も身軽な矢川文一郎と、乳飲子 を抱いた妻という累 を有するに過ぎぬ浅越玄隆とをば先に立たせて、渋江一家が跡に残った。
五百らの乗った五挺 の駕籠 を矢島優善 が宰領して、若党二人を連れて、石橋 駅に掛かると、仙台藩の哨兵線 に出合った。銃を擬した兵卒が左右二十人ずつ轎 を挟 んで、一つ一つ戸を開けさせて誰何 する。女の轎は仔細 なく通過させたが、成善の轎に至って、審問に時を費した。この晩に宿に著いて、五百は成善に女装させた。
出羽 の山形は江戸から九十里で、弘前に至る行程の半 である。常の旅には此 に来ると祝う習 であったが、五百らはわざと旅店を避けて鰻屋 に宿を求めた。
その八十二
山形から弘前に往く順路は、小坂峠 を踰 えて仙台に入 るのである。五百らの一行は仙台を避けて、板谷峠 を踰えて米沢 に入 ることになった。しかしこの道筋も安全ではなかった。上山 まで往くと、形勢が甚だ不穏なので、数日間淹留 した。
五百らは路用の金が竭 きた。江戸を発する時、多く金を携えて行くのは危険だといって、金銭を長持 五十荷 余りの底に布 かせて舟廻 しにしたからである。五百らは上山で、ようよう陸を運んで来た些 の荷物の過半を売った。これは金を得ようとしたばかりではない。間道 を進むことに決したので、嵩高 になる荷は持っていられぬからである。荷を売った銭は固 より路用の不足を補う額には上 らなかった。幸に弘前藩の会計方に落ち合って、五百らは少しの金を借ることが出来た。
上山を発してからは人烟 稀 なる山谷 の間を過ぎた。縄梯子 に縋 って断崖 を上下 したこともある。夜 の宿は旅人 に餅 を売って茶を供する休息所の類 が多かった。宿で物を盗まれることも数度に及んだ。
院内峠 を踰えて秋田領に入 った時、五百らは少しく心を安んずることを得た。領主佐竹右京大夫義堯 は、弘前の津軽承昭 と共に官軍方 になっていたからである。秋田領は無事に過ぎた。
さて矢立峠 を踰え、四十八川を渡って、弘前へは往くのである。矢立峠の分水線が佐竹、津軽両家の領地界 である。そこを少し下 ると、碇関 という関があって番人が置いてある。番人は鑑札を検してから、始 て慇懃 な詞 を使うのである。人が雲表 に聳 ゆる岩木山 を指 して、あれが津軽富士で、あの麓 が弘前の城下だと教えた時、五百らは覚えず涙を翻 して喜んだそうである。
弘前に入 ってから、五百らは土手町 の古着商伊勢屋の家に、藩から一人 一日 金一分 の為向 を受けて、下宿することになり、そこに半年余りいた。船廻しにした荷物は、ほど経て後 に着いた。下宿屋から街 に出 づれば、土地の人が江戸子 々々々と呼びつつ跡に附いて来る。当時髻 を麻糸で結 い、地織木綿 の衣服を著 た弘前の人々の中へ、江戸育 の五百らが交 ったのだから、物珍らしく思われたのも怪 むに足りない。殊 に成善 が江戸でもまだ少かった蝙蝠傘 を差して出ると、看 るものが堵 の如くであった。成善は蝙蝠傘と、懐中時計とを持っていた。時計は識 らぬ人さえ紹介を求めて見に来るので、数日のうちに弄 り毀 されてしまった。
成善は近習小姓の職があるので、毎日登城 することになった。宿直は二カ月に三度位であった。
成善は経史 を兼松石居 に学んだ。江戸で海保竹逕 の塾を辞して、弘前で石居の門を敲 いたのである。石居は当時既に蟄居 を免 されていた。医学は江戸で多紀安琢 の教 を受けた後 、弘前では別に人に師事せずにいた。
戦争は既に所々 に起って、飛脚が日ごとに情報を齎 した。共に弘前へ来た矢川文一郎は、二十八歳で従軍して北海道に向うことになった。また浅越玄隆は南部方面に派遣せられた。この時浅越の下に附属せられたのが、新 に町医者から五人扶持の小普請医者に抱えられた蘭法医小山内元洋 である。弘前ではこれより先藩学稽古館 に蘭学堂を設けて、官医と町医との子弟を教育していた。これを主宰していたのは江戸の杉田成卿 の門人佐々木元俊 である。元洋もまた杉田門から出た人で、後建 と称して、明治十八年二月十四日に中佐 相当陸軍一等軍医正 を以て広島に終った。今の文学士小山内薫 さんと画家岡田三郎助 さんの妻八千代 さんとは建の遺子である。矢島優善 は弘前に留 まっていて、戦地から後送 せられて来る負傷者を治療した。
その八十三
渋江氏の若党の一人中条勝次郎は、弘前に来てから思いも掛けぬ事に遭遇した。
一行が土手町に下宿した後二 、三月 にして暴風雨があった。弘前の人は暴風雨を岩木山の神が崇 を作 すのだと信じている。神は他郷の人が来て土着するのを悪 んで、暴風雨を起すというのである。この故に弘前の人は他郷の人を排斥する。就中 丹後 の人と南部の人とを嫌う。なぜ丹後の人を嫌うかというに、岩木山の神は古伝説の安寿姫 で、己 を虐使した山椒大夫 の郷人を嫌うのだそうである。また南部の人を嫌うのは、神も津軽人のパルチキュラリスムに感化せられているのかも知れない。
暴風雨の後 数日にして、新に江戸から徙 った家々に沙汰 があった。もし丹後、南部等の生 のものが紛 れ入 っているなら、厳重に取り糺 して国境の外に逐 えというのである。渋江氏の一行では中条が他郷のものとして目指 された。中条は常陸 生だといって申し解 いたが、役人は生国 不明と認めて、それに立退 を諭 した。五百はやむことをえず、中条に路用の金を与えて江戸へ還らせた。
冬になってから渋江氏は富田新町 の家に遷 ることになった。そして知行 は当分の内六分引 を以て給するという達しがあって、実は宿料食料の外 何の給与もなかった。これが後 二年にして秩禄 に大削減を加えられる発端 であった。二年前 から逐次に江戸を引き上げて来た定府 の人たちは、富田新町、新寺町 新割町 、上白銀町 、下 白銀町、塩分町 、茶畑町 の六カ所に分れ住んだ。富田新町には江戸子町 、新寺町新割町には大矢場 、上白銀町には新屋敷の異名がある。富田新町には渋江氏の外、矢川文一郎、浅越玄隆らがおり、新寺町新割町には比良野貞固 、中村勇左衛門らがおり、下白銀町には矢川文内らがおり、塩分町には平井東堂らがおった。
この頃五百は専六が就学 問題のために思 を労した。専六の性質は成善とは違う。成善は書を読むに人の催促を須 たない。そしてその読む所の書は自ら択ぶに任せることが出来る。それゆえ五百は彼が兼松石居に従って経史を攻 めるのを見て、毫 も容喙 せずにいた。成善が儒となるもまた可、医となるもまた不可なるなしとおもったのである。これに反して専六は多く書を読むことを好まない。書に対すれば、先ず有用無用の詮議 をする。五百はこの子には儒となるべき素質がないと信じた。そこで意を決して剃髪せしめた。
五百は弘前の城下について、専六が師となすべき医家を物色した。そして親方町 に住んでいる近習医者小野元秀 を獲 た。
その八十四
小野元秀は弘前藩士対馬幾次郎 の次男で、小字 を常吉 といった。十六、七歳の時、父幾次郎が急に病を発した。常吉は半夜馳 せて医師某の許 に往った。某は家にいたのに、来 り診することを肯 ぜなかった。常吉はこの時父のために憂え、某のために惜 んで、心にこれを牢記 していた。後に医となってから、人の病あるを聞くごとに、家の貧富を問わず、地の遠近を論ぜず、食 うときには箸 を投じ、臥 したるときには被 を蹴 て起 ち、径 ちに往 いて診したのは、少時の苦 き経験を忘れなかったためだそうである。元秀は二十六歳にして同藩の小野秀徳 の養子となり、その長女そのに配せられた。
元秀は忠誠にして廉潔であった。近習医に任ぜられてからは、詰所 に出入 するに、朝 には人に先んじて往 き、夕 には人に後れて反 った。そして公退後には士庶の病人に接して、絶 て倦 む色がなかった。
稽古館教授にして、五十石町 に私塾を開いていた工藤他山 は、元秀と親善であった。これは他山がいまだ仕途に就 かなかった時、元秀がその貧を知って、□ を受けずして懇 に治療した時からの交 である。他山の子外崎 さんも元秀を識 っていたが、これを評して温潤良玉の如き人であったといっている。五百が専六をして元秀に従学せしめたのは、実にその人を獲たものというべきである。
元秀の養子完造 は本 山崎氏で、蘭法医伊東玄朴の門人である。完造の養子芳甫 さんは本 鳴海 氏で、今弘前の北川端町 に住んでいる。元秀の実家の裔 は弘前の徒町 川端町の対馬※蔵 [#「金+公」、243-12]さんである。
専六は元秀の如き良師を得たが、憾 むらくは心、医となることを欲せなかった。弘前の人は毎 に、円頂 の専六が筒袖 の衣 を著 、短袴 を穿 き、赤毛布 を纏 って銃を負い、山野を跋渉 するのを見た。これは当時の兵士の服装である。
専六は兵士の間に交 を求めた。兵士らは呼ぶに医者銃隊の名を以てして、頗 るこれを愛好した。
時に弘前に徙 った定府 中に、山澄吉蔵 というものがあった。名を直清 といって、津軽藩が文久三年に江戸に遣 った海軍修行生徒七人の中 で、中小姓を勤めていた。築地 海軍操練所で算数の学を修め、次で塾の教員の列に加わった。弘前に徙って間もなく、山澄は熕隊 司令官にせられた。兵士中身 を立てんと欲するものは、多くこの山澄を師として洋算 を学んだ。専六もまた藤田潜 、柏原櫟蔵 らと共に山澄の門に入 って、洋算簿記を学ぶこととなり、いつとなく元秀の講筵 には臨まなくなった。後 山澄は海軍大尉を以て終り、柏原は海軍少将を以て終った。藤田さんは今攻玉 社長 をしている。攻玉社は後に近藤真琴 の塾に命ぜられた名である。初め麹町 八丁目の鳥羽 藩主稲垣対馬守長和 の邸内にあったのが、中ごろ築地海軍操練所内に移るに及んで、始めて攻玉塾と称し、次で芝 神明町 の商船黌 と、芝 新銭座 の陸地測量習練所とに分離し、二者の総称が攻玉社となり、明治十九年に至るまで、近藤自らこれを経営していたのである。
その八十五
小野富穀 とその子道悦 とが江戸を引き上げたのは、この年二月二十三日で、道中に二十五日を費 し、三月十八日に弘前に著 いた。渋江氏の弘前に入 るに先 つこと二カ月足らずである。
矢島優善 が隠居させられた時、跡を襲 いだ周禎 の一家 も、この年に弘前へ徙 ったが、その江戸を発する時、三男三蔵 は江戸に留 まった。前に小田原 へ往った長男周碩 と、この三蔵とは、後にカトリック教の宣教師になったそうである。弘前へ往った周禎は表医者奥通 に進み、その次男で嗣子にせられた周策 もまた目見 の後 表医者を命ぜられた。
袖斎の姉須磨の夫飯田良清 の養子孫三郎は、この年江戸が東京と改称した後 、静岡藩に赴いて官吏になった。
森枳園 はこの年七月に東京から福山に遷 った。当時の藩主は文久元年に伊予守正教 の後 を承 けた阿部 主計頭 正方 であった。
優善の友塩田良三 はこの年浦和 県の官吏になった。これより先良三は、優善が山田椿庭 の塾に入 ったのと殆 ど同時に、伊沢柏軒の塾に入 って、柏軒にその才の雋鋭 なるを認められ、節 を折って書を読んだ。文久三年に柏軒が歿してからは家に帰っていて、今仕宦 したのである。
この年箱館 に拠 っている榎本武揚 を攻めんがために、官軍が発向する中に、福山藩の兵が参加していた。伊沢榛軒の嗣子棠軒 はこれに従って北に赴いた。そして渋江氏を富田新町に訪 うた。棠軒は福山藩から一粒金丹 を買うことを託せられていたので、この任を果たす傍 、故旧の安否を問うたのである。棠軒、名は信淳 、通称は春安 、池田全安 が離別せられた後 に、榛軒の女 かえの壻となったのである。かえは後に名をそのと更 めた。おそのさんは現存者で、市谷 富久町 の伊沢徳 さんの許 にいる。徳さんは棠軒の嫡子である。
抽斎歿後の第十一年は明治二年である。抽斎の四女陸 が矢川文一郎に嫁したのは、この年九月十五日である。
陸が生れた弘化四年には、三女棠 がまだ三歳で、母の懐 を離れなかったので、陸は生れ降 ちるとすぐに、小柳町 の大工の棟梁 新八というものの家へ里子 に遣 られた。さて嘉永四年に棠が七歳で亡くなったので、母五百が五歳の陸を呼び返そうとすると、偶 矢島氏鉄が来たのを抱いて寝なくてはならなくなって、陸を還すことを見あわせた。翌五年にようよう還った陸は、色の白い、愛らしい六歳の少女であった。しかし五百の胸をば棠を惜 む情が全く占めていたので、陸は十分に母の愛に浴することが出来ずに、母に対しては頗 る自ら抑遜 していなくてはならなかった。
これに反して抽斎は陸を愛撫 して、身辺におらせて使役しつつ、或時五百にこういった。「己 はこんなに丈夫だから、どうもお前よりは長く生きていそうだ。それだから今の内に、こうして陸を為込 んで置いて、お前に先へ死なれた時、この子を女房代りにするつもりだ。」
陸はまた兄矢島優善にも愛せられた。塩田良三もまた陸を愛する一人 で、陸が手習をする時、手を把 って書かせなどした。抽斎が或日陸の清書を見て、「良三さんのお清書が旨 く出来たな」といって揶揄 ったことがある。
陸は小さい時から長歌 が好 で、寒夜に裏庭の築山 の上に登って、独り寒声 の修行をした。
その八十六
抽斎の四女陸はこの家庭に生長して、当時なおその境遇に甘んじ、毫 も婚嫁を急ぐ念がなかった。それゆえかつて一たび飯田寅之丞 に嫁せんことを勧めたものもあったが、事が調 わなかった。寅之丞は当時近習小姓であった。天保十三年壬寅 に生れたからの名である。即ち今の飯田巽 さんで、巽の字は明治二年己巳 に二十八になったという意味で選んだのだそうである。陸との縁談は媒 が先方に告げずに渋江氏に勧めたのではなかろうが、余り古い事なので巽さんは已 に忘れているらしい。然るにこの度は陸が遂に文一郎の聘 を却 くることが出来なくなった。
文一郎は最初の妻柳 が江戸を去ることを欲せぬので、一人の子を附けて里方へ還して置いて弘前へ立った。弘前に来た直後に、文一郎は二度目の妻を娶 ったが、いまだ幾 ならぬにこれを去った。この女は西村与三郎の女 作であった。次で箱館から帰った頃からであろう、陸を娶ろうと思い立って、人を遣 して請うこと数度に及んだ。しかし渋江氏では輒 ち動かなかった。陸には旧に依 って婚嫁を急ぐ念がない。五百は文一郎の好人物なることを熟知していたが、これを壻にすることをば望まなかった。こういう事情の下 に、両家の間にはやや久しく緊張した関係が続いていた。
文一郎は壮年の時パッションの強い性質を有していた。その陸に対する要望はこれがために頗る熱烈であった。渋江氏では、もしその請 を納 れなかったら、あるいは両家の間に事端 を生じはすまいかと慮 った。陸が遂に文一郎に嫁したのは、この疑懼 の犠牲になったようなものである。
この結婚は、名義からいえば、陸が矢川氏に嫁したのであるが、形迹 から見れば、文一郎が壻入をしたようであった。式を行 った翌日から、夫婦は終日渋江の家にいて、夜更 けて矢川の家へ寝に帰った。この時文一郎は新 に馬廻 になった年で二十九歳、陸は二十三歳であった。
矢島優善 は、陸が文一郎の妻 になった翌月、即ち十月に、土手町に家を持って、周禎の許 にいた鉄を迎え入れた。これは行懸 りの上から当然の事で、五百は傍 から世話を焼いたのである。しかし二十三歳になった鉄は、もう昔日の如く夫の甘言に賺 されてはおらぬので、この土手町の住いは優善が身上 のクリジスを起す場所となった。
優善と鉄との間に、夫婦の愛情の生ぜぬことは、固 より予期すべきであった。しかし啻 に愛情が生ぜざるのみではなく、二人は忽 ち讐敵 となった。そしてその争うには、鉄がいつも攻勢を取り、物質上の利害問題を提 げて夫に当るのであった。「あなたがいくじがないばかりに、あの周禎のような男に矢島の家を取られたのです。」この句が幾度 となく反復せられる鉄が論難の主眼であった。優善がこれに答えると、鉄は冷笑する、舌打をする。
この争 は週を累 ね月を累ねて歇 まなかった。五百らは百方調停を試みたが何の功をも奏せなかった。
五百はやむことをえぬので、周禎に交渉して再び鉄を引き取ってもらおうとした。しかし周禎は容易に応ぜなかった。渋江氏と周禎が方 との間に、幾度となく交換せられた要求と拒絶とは、押問答 の姿になった。
この往反 の最中に忽ち優善が失踪 した。十二月二十八日に土手町の家を出て、それきり帰って来ぬのである。渋江氏では、優善が悶 を排せんがために酒色の境に遁 れたのだろうと思って、手分 をして料理屋と妓楼 とを捜索させた。しかし優善のありかはどうしても知れなかった。
その八十七
比良野貞固 は江戸を引き上げる定府 の最後の一組三十戸ばかりの家族と共に、前年五、六月の交 安済丸 という新造帆船 に乗った。然 るに安済丸は海に泛 んで間もなく、柁機 を損じて進退の自由を失った。乗組員は某地より上陸して、許多 の辛苦を甞 め、この年五月にようよう東京に帰った。
さて更に米艦スルタン号に乗って、この度は無事に青森に著 した。佐藤弥六 さんは当時の同乗者の一人 だそうである。
弘前にある渋江氏は、貞固が東京を発したことを聞いていたのに、いつまでも到著 せぬので、どうした事かと案じていた。殊に比良野助太郎と書した荷札が青森の港に流れ寄ったという流言などがあって、いよいよ心を悩まする媒 となった。そのうちこの年十二月十日頃に青森から発した貞固の手書 が来た。その中 には安済丸の故障のために一たび去った東京に引き返し、再び米艦に乗って来たことを言って、さて金を持って迎えに来てくれといってあった。一年余の間無益な往反をして、貞固の盤纏 は僅 に一分銀 一つを剰 していたのである。
弘前に来てから現金の給与を受けたことのない渋江氏では、この書を得て途方に暮れたが、船廻 しにした荷の中 に、刀剣のあったのを三十五振 質に入れて、金二十五両を借り、それを持って往って貞固を弘前へ案内した。
貞固の養子房之助はこの年に手廻 を命ぜられたが、藩制が改まったので、久しくこの職におることが出来なかった。
抽斎歿後の第十二年は明治三年である。六月十八日に弘前藩士の秩禄 は大削減を加えられ、更に医者の降等 が令せられた。禄高 は十五俵より十九俵までを十五俵に、二十俵より二十九俵までを二十俵に、三十俵より四十九俵までを三十俵に、五十俵より六十九俵までを四十俵に、七十俵より九十九俵までを六十俵に、百俵より二百四十九俵までを八十俵に、二百五十俵より四百九十九俵までを百俵に、五百俵より七百九十九俵までを百五十俵に、八百俵以上を二百俵に減ぜられたのである。そして従来石高 を以て給せられていたものは、そのまま俵と看做 して同一の削減を行われた。そして士分を上士 、中士、下士に班 って、各班に大少を置いた。二十俵を少下士 、三十俵を大下士、四十俵を少中土、八十俵を大中士、百五十俵を少上土、二百俵を大上土とするというのである。
渋江氏は原禄三百石であるから、中の上に位するはずで、小禄の家に比ぶれば、受くる所の損失が頗る大きい。それでも渋江氏はこれを得て満足するつもりでいた。
然るに医者の降等の令が出て、それが渋江氏に適用せられることになった。本 成善 は医者の子として近習小姓に任ぜられているには違 ない。しかしいまだかつて医として仕えたことはない。しかのみならず令の出 づるに先だって、十四歳を以て藩学の助教にせられ、生徒に経書 を授けている。これは師たる兼松石居が已 に屏居 を免 されて藩の督学を拝したので、その門人もまた挙用せられたのである。かつ先例を按 ずるに、歯科医佐藤春益 の子は、単に幼くして家督したために、平士 にせられている。いわんや成善は分明 に儒職にさえ就いているのである。成善がこの令を己 に適用せられようと思わなかったのも無理はない。
しかし成善は念のために大参事西館孤清 、少参事兼大隊長加藤武彦 の二人 を見て意見を叩 いた。二人皆成善は医として視 るべきものでないといった。武彦は前 の側用人 兼用人清兵衛 の子である。何ぞ料 らん、成善は医者と看做 されて降等に逢い、三十俵の禄を受くることとなり、あまつさえ士籍の外 にありなどとさえいわれたのである。成善は抗告を試みたが、何の功をも奏せなかった。
その八十八
何故 に儒を以て仕えている成善に、医者降等の令を適用したかというに、それは想像するに難くはない。渋江氏は世 儒を兼ねて、命を受けて経 を講じてはいたが、家は本 医道の家である。成善に至っても、幼い時から多紀安琢の門に入 っていた。また已 に弘前に来た後 も、医官北岡太淳 、手塚元瑞 、今春碩 らは成善に兼て医を以て仕えんことを勧め、こういう事を言った。「弘前には少壮者中に中村春台 、三上道春 、北岡有格 、小野圭庵 の如きものがある。その他小山内元洋 のように新 に召し抱えられたものもある。しかし江戸定府 出身の少 い医者がない。ちと医業の方をも出精 してはどうだ」といった。かつ令の発せられる少し前の出来事で、成善が津軽承昭 に医として遇せられていた証拠がある。六月十三日に、藩知事承昭は戦 を大星場 に習わせた。承昭は五月二十六日に知事になっていたのである。銃声の盛んに起った時、第五大隊の医官小野道秀が病を発した。承昭は傍 に侍した成善をして小野に代らしめた。此 の如く渋江氏の子が医を善くすることは、上下 皆信じていたと見える。しかしこれがために、現に儒を以て仕えているものを不幸に陥いれたのは、同情が闕 けていたといっても好 かろう。
矢島優善 は前年の暮に失踪 して、渋江氏では疑懼 の間に年を送った。この年一月 二日の午後に、石川駅の人が二通の手紙を持って来た。優善が家を出た日に書いたもので、一は五百 に宛 て、一は成善に宛ててある。並 に訣別 の書で、所々 涙痕 を印 している。石川は弘前を距 ること一里半を過ぎぬ駅であるが、使のものは命ぜられたとおりに、優善が駅を去った後 に手紙を届けたのである。
五百と成善とは、優善が雪中に行き悩みはせぬか、病み臥 しはせぬかと気遣 って、再び人を傭 って捜索させた。成善は自ら雪を冒して、石川、大鰐 、倉立 、碇関 等を隈 なく尋ねた。しかし蹤跡 は絶 て知れなかった。
優善は東京をさして石川駅を発し、この年一月二十一日に吉原の引手茶屋湊屋 に著 いた。湊屋の上 さんは大分年を取った女で、常に優善を「蝶 さん」と呼んで親 んでいた。優善はこの女をたよって往ったのである。
湊屋に皆 という娘がいた。このみいちゃんは美しいので、茶屋の呼物 になっていた。みいちゃんは津藤 に縁故があるとかいう河野 某を檀那 に取っていたが、河野は遂にみいちゃんを娶 って、優善が東京に著いた時には、今戸橋 の畔 に芸者屋を出していた。屋号は同じ湊屋である。
優善は吉原の湊屋の世話で、山谷堀 の箱屋になり、主 に今戸橋の湊屋で抱えている芸者らの供をした。
四カ月半ばかりの後、或人の世話で、優善は本所緑町の安田という骨董店 に入贅 した。安田の家では主人礼助 が死んで、未亡人 政 が寡居していたのである。しかし優善の骨董商時代は箱屋時代より短かった。それは政が優善の妻になって間もなくみまかったからである。
この頃前 に浦和県の官吏となった塩田良三 が、権大属 に陞 って聴訟係 をしていたが、優善を県令に薦 めた。優善は八月十八日を以て浦和県出仕を命ぜられ、典獄になった。時に年三十六であった。
その八十九
専六は兵士との交 が漸 く深くなって、この年五月にはとうとう「於軍務局楽手稽古被仰付 」という沙汰書 を受けた。さて楽手の修行をしているうちに、十二月二十九日に山田源吾 の養子になった。源吾は天保中津軽信順 がいまだ致仕せざる時、側用人を勤めていたが、旨 に忤 って永 の暇 になった。しかし他家に仕えようという念もなく、商估 の業 をも好まぬので、家の菩提所 なる本所中 の郷 の普賢寺 の一房に□居 し、日ごとに街 に出 でて謡を歌って銭を乞 うた。
この純然たる浪人生活が三十年ばかり続いたのに、源吾は刀剣、紋附 の衣類、上下 等を葛籠 一つに収めて持っていた。
承昭 はこの年源吾を召し還 して、二十俵を給し、目見 以下の士に列せしめ、本所横川邸の番人を命じた。然るに源吾は年老い身病んで久しく職におりがたいのを慮 って、養子を求めた。
この時源吾の親戚 に戸沢惟清 というものがあって、専六をその養子に世話をした。戸沢は五百 に説くに、山田の家世 の本 卑 くなかったのと、東京勤 の身を立つるに便なるとを以てし、またこういった。「それに専六さんが東京にいると、後 に弟御 さんが上京することになっても御都合が宜 しいでしょう」といった。成善 は等を降 され禄を減ぜられた後、東京に往って恥を雪 ごうと思っていたからである。
戸沢がこういって勧めた時、五百は容易にこれに耳を傾 けた。五百は戸沢の人 と為 りを喜んでいたからである。戸沢惟清、通称は八十吉 、信順 在世の日の側役 であった。才幹あり気概ある人で、恭謙にして抑損し、些 の学問さえあった。然るに酒を被 るときは剛愎 にして人を凌 いだ。信順は平素命じて酒を絶たしめ、用帑 匱 しきに至るごとに、これに酒を飲ましめ、命を当局に伝えさせた。戸沢は当局の一諾を得ないでは帰らなかったそうである。
或時戸沢は公事を以て旅行した。物書 松本甲子蔵 がこれに随 っていた。駕籠 の中 に坐した戸沢が、ふと側 を歩く松本を見ると、草鞋 の緒が足背 を破って、鮮血が流れていた。戸沢は急に一行を止 まらせて、大声に「甲子蔵」と呼んだ。「はっ」といって松本は轎扉 に近づいた。戸沢は「ちと内用 があるから遠慮いたせ」といって、供のものを遠 け、松本に草鞋 を脱がせて、強いて轎中に坐せしめ、自ら松本の草鞋を著 け、さて轎丁を呼んで舁 いて行かせたそうである。これは松本が保さんに話した事で、保さんはまた戸沢とその弟星野伝六郎とをも識 っていた。戸沢の子米太郎 、星野の子金蔵 の二人はかつて保さんの教 を受けたことがある。
戸沢の勧誘には、この年弘前に著 した比良野貞固 も同意したので、五百は遂にこれに従って、専六が山田氏に養わるることを諾した。その事の決したのが十二月二十九日で、専六が船の青森を発したのが翌三十日である。この年専六は十七歳になっていた。然るに東京にある養父源吾は、専六がなお舟中 にある間に病歿した。
矢川文一郎に嫁した陸 は、この年長男万吉 を生んだが、万吉は夭折して弘前新寺町 の報恩寺なる文内 が母の墓の傍 に葬られた。
抽斎の六女水木 はこの年馬役村田小吉 の子広太郎 に嫁した。時に年十八であった。既にして矢島周禎が琴瑟 調わざることを五百に告げた。五百はやむをえずして水木を取り戻した。
小野氏ではこの年富穀 が六十四歳で致仕し、子道悦が家督相続をした。道悦は天保七年生 で、三十五歳になっていた。
中丸昌庵はこの年六月二十八日に歿した。文政元年生の人だから、五十三歳を以て終ったのである。
弘前の城はこの年五月二十六日に藩庁となったので、知事津軽承昭 は三之内 に遷 った。
その九十
抽斎歿後の第十三年は明治四年である。成善 は母を弘前に遺 して、単身東京に往 くことに決心した。その東京に往こうとするのは、一には降等に遭 って不平に堪えなかったからである。二には減禄の後 は旧に依 って生計を立てて行くことが出来ぬからである。その母を弘前に遺すのは、脱藩の疑 を避けんがためである。
弘前藩は必ずしも官費を以て少壮者を東京に遣ることを嫌わなかった。これに反して私費を以て東京に往こうとするものがあると、藩は已 にその人の脱藩を疑った。いわんや家族をさえ伴おうとすると、この疑は益 深くなるのであった。
成善が東京に往こうと思っているのは久しい事で、しばしばこれを師兼松石居 に謀 った。石居は機を見て成善を官費生たらしめようと誓った。しかし成善は今は徐 にこれを待つことが出来なくなったのである。
さて成善は私費を以て往くことを敢 てするのであるが、なお母だけは遺して置くことにした。これはやむことをえぬからである。何故 というに、もし成善が母と倶 に往こうといったなら、藩は放ち遣ることを聴 さなかったであろう。
成善は母に約するに、他日東京に迎え取るべきことを以てした。しかし藩の必ずこれを阻格 すべきことは、母子皆これを知っていた。約 めて言えば、弘前を去る成善には母を質 とするに似た恨 があった。
藩が脱籍者の輩出せんことを恐るるに至ったのは、二、三の忌むべき実例があったからである。その首 におるものは、彼 の勘定奉行を罷 めて米穀商となった平川半治である。当時此 の如く財利のために士籍を遁 れようとする気風があったことは、渋江氏もまた親しくこれを験することを得た。或人は五百 に説いて、東京両国の中村楼を買わせようとした。今千両の金を投じて買って置いたなら、他日鉅万 の富 を致すことが出来ようといったのである。或人は東京神田須田町 の某売薬株を買わせようとした。この株は今廉価を以て贖 うことが出来て、即日から月収三百両乃至 五百両の利があるといったのである。五百のこれに耳を仮 さなかったことは固 よりである。
当時藩職におって、津軽家をして士を失わざらしめんと欲し、極力脱籍を防いだのは、大参事西館孤清 である。成善は西館を訪 うて、東京に往くことを告げた。西館はおおよそこういった。東京に往くは好 い。学業成就して弘前に帰るなら、我らはこれを任用することを吝 まぬであろう。しかし半途にして母を迎え取らんとするが如きことがあったなら、それは郷土のために謀って忠ならざることを証するものである。我藩はこれを許さぬであろうといった。成善は悲痛の情を抑えて西館の許 を辞した。
成善は家禄を割 いて、その五人扶持を東京に送致してもらうことを、当路の人に請うて允 された。それから長持一棹 の錦絵を書画兼骨董商近竹 に売った。これは浅草蔵前 の兎桂 等で、二十枚百文位で買った絵であるが、当時三枚二百文乃至 一枚百文で売ることが出来た。成善はこの金を得て、半 は留 めて母に餽 り、半はこれを旅費と学資とに充 てた。
成善が弘前で暇乞 に廻った家々の中で、最も別 を惜 んだのは兼松石居と平井東堂とであった。東堂は左□下 に瘤 を生じたので、自ら瘤翁 と号していたが、別に臨んで、もう再会は覚束 ないといって落涙した。成善の去った翌年、明治五年九月十六日に東堂は塩分町 の家に歿した。年五十九である。四女とめが家を継いだ。今東京神田裏神保町 に住んで、琴の師匠をしている平井松野 さんがこのとめである。
その九十一
成善 は藩学の職を辞して、この年三月二十一日に、母五百 と水杯 を酌 み交して別れ、駕籠 に乗って家を出た。水杯を酌んだのは、当時の状況より推して、再会の期しがたきを思ったからである。成善は十五歳、五百は五十六歳になっていた。抽斎の歿した時は、成善はまだ少年であったので、この時始 て親子の別 の悲しさを知って、轎中 で声を発して泣きたくなるのを、ようよう堪え忍んだそうである。
同行者は松本甲子蔵 であった。甲子蔵は後に忠章 と改称した。父を庄兵衛 といって、素 比良野貞固 の父文蔵の若党であった。文蔵はその樸直 なのを愛して、津軽家に薦 めて足軽 にしてもらった。その子甲子蔵は才学があるので、藩の公用局の史生 に任用せられていたのである。
弘前から旅立つものは、石川駅まで駕籠で来て、ここで親戚故旧と酒を酌 んで別れる習 であった。成善を送るものは、句読 を授けられた少年らの外、矢川文一郎、比良野房之助、服部善吉 、菱川太郎 などであった。後に服部は東京で時計職工になり、菱川は辻新次さんの家の学僕になったが、二人 共に已 に世を去った。
成善は四月七日に東京に着いた。行李 を卸したのは本所二つ目の藩邸である。これより先成善の兄専六は、山田源吾の養子になって、東京に来て、まだ父子の対面をせぬ間 に死んだ源吾の家に住んでいた。源吾は津軽承昭 の本所横川に設けた邸をあずかっていて、住宅は本所割下水 にあったのである。その外東京には五百の姉安が両国薬研堀 に住んでいた。安の女 二人 のうち、敬 は猿若町三丁目の芝居茶屋三河屋に、銓 は蔵前須賀町の呉服屋桝屋 儀兵衛の許 にいた。また専六と成善との兄優善 は、ほど遠からぬ浦和にいた。
成善の旧師には多紀安琢 が矢の倉におり、海保竹逕 がお玉が池にいた。維新の初 に官吏になって、この邸を伊沢鉄三郎の徳安が手から買い受けて、練塀小路 の湿地にあった、床 の低い、畳の腐った家から移り住んだ。独 家宅が改まったのみではない。常に弊衣を著 ていた竹逕が、その頃から絹布 を被 るようになった。しかし幾 もなく、当時の有力者山内豊信 等の斥 くる所となって官を罷 めた。成善は四月二十二日に再び竹逕の門に入 ったが、竹逕は前年に会陰 に膿瘍 を発したために、やや衰弱していた。成善は久しぶりにその『易 』や『毛詩 』を講ずるのを聴 いた。多紀安琢は維新後困窮して、竹逕の扶養を蒙 っていた。成善はしばしばその安否を問うたが、再び『素問』を学ぼうとはしなかった。
成善は英語を学ばんがために、五月十一日に本所相生町 の共立学舎に通いはじめた。父抽斎は遺言 して蘭語を学ばしめようとしたのに、時代の変遷は学ぶべき外国語を易 うるに至らしめたのである。共立学舎は尺振八 の経営する所である。振八、初 の名を仁寿 という。下総国高岡の城主井上 筑後守正滝 の家来鈴木伯寿 の子である。天保十年に江戸佐久間町に生れ、安政の末年 に尺氏を冒した。田辺太一 に啓発せられて英学に志し、中浜万次郎、西吉十郎 等を師とし、次で英米人に親炙 し、文久中仏米二国に遊んだ。成善が従学した時は三十三歳になっていた。
その九十二
成善は四月に海保の伝経廬 に入 り、五月に尺 の共立学舎に入ったが、六月から更に大学南校 にも籍を置き、日課を分割して三校に往来し、なお放課後にはフルベックの許 を訪うて教を受けた。フルベックは本 和蘭 人で亜米利加 合衆国に民籍を有していた。日本の教育界を開拓した一人 である。
学資は弘前藩から送って来る五人扶持の中 三人扶持を売って弁ずることが出来た。当時の相場 で一カ月金二両三分二朱と四百六十七文であった。書籍は英文のものは初より新 に買うことを期していたが、漢書は弘前から抽斎の手沢本 を送ってもらうことにした。然るにこの書籍を積んだ舟が、航海中七月九日に暴風に遭って覆って、抽斎のかつて蒐集 した古刊本等の大部分が海若 の有 に帰 した。
八月二十八日に弘前県の幹督が成善に命ずるに神社調掛 を以てし、金三両二分二朱と二匁二分五厘の手当を給した。この命は成善が共立学舎に入 ることを届けて置いたので、同時に「欠席聞届 の委頼 」という形式を以て学舎に伝えられた。これより先七月十四日の詔 を以て廃藩置県の制が布 かれたので、弘前県が成立していたのである。
矢島優善は浦和県の典獄になっていて、この年一月七日に唐津 藩士大沢正 の女 蝶 を娶 った。嘉永二年生 で二十三歳である。これより先前妻鉄は幾多の葛藤 を経た後 に離別せられていた。
優善は七月十七日に庶務局詰に転じ十月十七日に判任史生にせられた。次で十一月十三日に浦和県が廃せられて、その事務は埼玉県に移管せられたので、優善は十二月四日を以て更に埼玉県十四等出仕を命ぜられた。
成善と倶 に東京に来た松本甲子蔵 は、優善に薦められて、同時に十五等出仕を命ぜられたが、後 兵事課長に進み、明治三十二年三月二十八日に歿した。弘化二年生であるから、五十五歳になったのである。
当時県吏の権勢は盛 なものであった。成善が東京に入 った直後に、まだ浦和県出仕の典獄であった優善を訪うと、優善は等外一等出仕宮本半蔵に駕龍 一挺を宰領させて成善を県の界 に迎えた。成善がその駕籠に乗って、戸田の渡しに掛かると、渡船場 の役人が土下座をした。
優善が庶務局詰になった頃の事である。或日優善は宴会を催して、前年に自分が供をした今戸橋の湊屋 の抱 芸者を始 とし、山谷堀で顔を識 った芸者を漏 なく招いた。そして酒闌 なる時「己 はお前方 の供をして、大ぶ世話になったことがあるが、今日は己もお客だぞ」といった。大丈夫 志を得たという概があったそうである。
県吏の間には当時飲宴がしばしば行われた。浦和県知事間島冬道 の催した懇親会では、塩田良三 が野呂松 狂言を演じ、優善が莫大小 の襦袢 袴下 を著 て夜這 の真似 をしたことがある。間島は通称万次郎、尾張 の藩士である。明治二年四月九日に刑法官判事から大宮 県知事に転じた。大宮県が浦和県と改称せられたのは、その年九月二十九日の事である。
この年の暮、優善が埼玉県出仕になってからの事である。某村の戸長 は野菜一車 を優善に献じたいといって持って来た。優善は「己 は賄賂 は取らぬぞ」といって却 けた。
戸長は当惑顔をしていった。「どうもこの野菜をこのまま持って帰っては、村の人民どもに対して、わたくしの面目 が立ちませぬ。」
「そんなら買って遣ろう」と、優善がいった。
戸長はようよう天保銭一枚を受け取って、野菜を車から卸させて帰った。
優善は廉 い野菜を買ったからといって、県令以下の職員に分配した。
県令は野村盛秀 であったが、野菜を貰 うと同時にこの顛末 を聞いて、「矢島さんの流義は面白い」といって褒 めたそうである。野村は初め宗七 と称した。薩摩の士で、浦和県が埼玉県となった時、日田 県知事から転じて埼玉県知事に任ぜられた。間島冬道は去って名古屋県に赴いて、参事の職に就いたが、後明治二十三年九月三十日に御歌所寄人 を以て終った。また野村は後 明治六年五月二十一日にこの職にいて歿したので、長門 の士参事白根多助 が一時県務を摂行 した。
その九十三
山田源吾の養子になった専六は、まだ面会もせぬ養父を喪 って、その遺跡を守っていたが、五月一日に至って藩知事津軽承昭 の命を拝した。「親源吾給禄二十俵無相違被遣 」というのである。さて源吾は謁見を許されぬ職を以て終ったが、六月二十日に専六は承昭に謁することを得た。これは成善 が内意を承 けて願書を呈したためである。
専六は成善に紹介せられて、先ず海保の伝経廬 に入 り、次で八月九日に共立学舎に入り、十二月三日に梅浦精一 に従学した。
この年六月七日に成善は名を保 と改めた。これは母を懐 うが故に改めたので、母は五百 の字面 の雅 ならざるがために、常に伊保と署していたのだそうである。矢島優善 の名を優 と改めたのもこの年である。山田専六の名を脩 と改めたのは、別に記載の徴すべきものはないが、やや後の事であったらしい。
この年十二月三日に保と脩とが同時に斬髪 した。優は何時 斬髪したか知らぬが、多分同じ頃であっただろう。優は少し早く東京に入り、ほどなく東京を距 ること遠からぬ浦和に往って官吏をしていたが、必ずしも二弟に先だって斬髪したともいいがたい。紫の紐 を以て髻 を結 うのが、当時の官吏の頭飾 で、優が何時までその髻を愛惜 したかわからない。人はあるいは抽斎の子供が何時斬髪したかを問うことを須 いぬというかも知れない。しかし明治の初 に男子が髪を斬ったのは、独逸 十八世紀のツォップフが前に断たれ、清朝 の辮髪 が後 に断たれたと同じく、風俗の大変遷である。然るに後の史家はその年月を知るに苦 むかも知れない。わたくしの如きは自己の髪を斬った年を記 していない。保さんの日記の一条を此 に採録する所以 である。
この年十二月二十二日に、本所二つ目の弘前藩邸が廃せられたために、保は兄山田脩が本所割下水 の家に同居した。
海保竹逕 の妻、漁村の女 がこの年十月二十五日に歿した。
抽斎歿後の第十四年は明治五年である。一月 に保が山田脩の家から本所横網町 の鈴木きよ方の二階へ徙 った。鈴木は初め船宿 であったが、主人が死んでから、未亡人きよが席貸 をすることになった。きよは天保元年生 で、この年四十三歳になっていた。当時善く保を遇したので、保は後年に至るまで音信 を断たなかった。これより先 保は弘前にある母を呼び迎えようとして、藩の当路者に諮 ること数次であった。しかし津軽承昭 の知事たる間は、西館らが前説を固守して許さなかった。前年廃藩の詔 が出て、承昭は東京におることになり、県政もまた頗 る革 まったので、保はまた当路者に諮 った。当路者は復 五百の東京に入 ることを阻止しようとはしなかった。唯 保が一諸生を以て母を養わんとするのが怪 むべきだといった。それゆえ保は矢島優に願書を作らせて呈した。県庁はこれを可とした。五百 はようよう弘前から東京に来ることになった。
保が東京に遊学した後 の五百が寂しい生活には、特に記すべき事はない。ただ前年廃藩前 に、弘前俎林 の山林地が渋江氏に割与せられたのみである。これは士分のものに授産の目的を以て割与した土地に剰余があったので、当路者が士分として扱われざる医者にも恩恵を施したのだそうである。この地面の授受は浅越玄隆 が五百の委託によって処理した。
五百が弘前を去る時、村田広太郎の許 から帰った水木 を伴わなくてはならぬことは勿論 であった。その外陸 もまた夫矢川文一郎と倶 に五百に附いて東京へ往くことになった。
文一郎は弘前を発する前に、津軽家の用達 商人工藤忠五郎蕃寛 の次男蕃徳 を養子にして弘前に遺 した。蕃寛には二子二女があった。長男可次 は森甚平 の士籍、また次男蕃徳は文一郎の士籍を譲り受けた。長女お連 さんは蕃寛の後 を継いで、現に弘前の下白銀町 に矢川写真館を開いている。次女おみきさんは岩川 氏友弥 さんを壻に取って、本町一丁目角にエム矢川写真所を開いている。蕃徳は郵便技手になって、明治三十七年十月二十八日に歿し、養子文平 さんがその後 を襲 いだ。
その九十四
五百 は五月二十日に東京に着いた。そして矢川文一郎、陸 の夫妻並 に村田氏から帰った水木 の三人と倶 に、本所横網町の鈴木方に行李 を卸した。弘前からの同行者は武田代次郎 というものであった。代次郎は勘定奉行武田準左衛門 の孫である。準左衛門は天保四年十二月二十日に斬罪に処せられた。津軽信順 の下 で笠原近江 が政 を擅 にした時の事である。
五百と保とは十六カ月を隔てて再会した。母は五十七歳、子は十六歳である。脩は割下水から、優 は浦和から母に逢いに来た。
三人の子の中で、最も生計に余裕があったのは優である。優はこの年四月十二日に権少属 になって、月給僅 に二十五円である。これに当時の潤沢なる巡回旅費を加えても、なお七十円ばかりに過ぎない。しかしその意気は今の勅任官に匹敵していた。優の家には二人 の食客があった。一人 は妻 蝶の弟大沢正 である。今一人は生母徳 の兄岡西玄亭の次男養玄である。玄亭の長男玄庵はかつて保の胞衣 を服用したという癲癇 病者で、維新後間もなく世を去った。次男がこの養玄で、当時氏名を更 めて岡寛斎 といっていた。優が登庁すると、その使役する給仕 は故旧中田 某の子敬三郎 である。優が推薦した所の県吏には、十五等出仕松本甲子蔵 がある。また敬三郎の父中田某、脩の親戚山田健三 、かつて渋江氏の若党たりし中条勝次郎 、川口に開業していた時の相識宮本半蔵がある。中田以下は皆月給十円の等外一等出仕である。その他今の清浦子 が県下の小学教員となり、県庁の学務課員となるにも、優の推薦が与 って力があったとかで、「矢島先生奎吾 」と書した尺牘 数通 が遺 っている。一時優の救援に藉 って衣食するもの数十人の衆 きに至ったそうである。
保は下宿屋住いの諸生、脩は廃藩と同時に横川邸の番人を罷 められて、これも一戸を構えているというだけでやはり諸生であるのに、独り優が官吏であって、しかも此 の如く応分の権勢をさえ有している。そこで優は母に勧めて、浦和の家に迎えようとした。
「保が卒業して渋江の家を立てるまで、せめて四、五年の間、わたくしの所に来ていて下さい」といったのである。
しかし五百は応ぜなかった。「わたしも年は寄ったが、幸に無病だから、浦和に往って楽をしなくても好 い。それよりは学校に通う保の留守居でもしましょう」といったのである。
優はなお勧めて已 まなかった。そこへ一粒金丹 のやや大きい注文が来た。福山、久留米 の二カ所から来たのである。金丹を調製することは、始終五百が自らこれに任じていたので、この度もまた直 に調合に着手した。優は一旦 浦和へ帰った。
八月十九日に優は再び浦和から出て来た。そして母に言うには、必ずしも浦和へ移らなくても好 いから、とにかく見物がてら泊りに来てもらいたいというのであった。そこで二十日に五百は水木 と保とを連れて浦和へ往った。
これより先 保は高等師範学校に入 ることを願って置いたが、その採用試験が二十二日から始まるので、独り先に東京に帰った。
その九十五
保が師範学校に入ることを願ったのは、大学の業を卒 うるに至るまでの資金を有せぬがためであった。師範学校はこの年始て設けられて、文部省は上等生に十円、下等生に八円を給した。保はこの給費を仰がんと欲したのである。
然るに此 に一つの障礙 があった。それは師範学校の生徒は二十歳以上に限られているのに、保はまだ十六歳だからである。そこで保は森枳園 に相談した。
枳園はこの年二月に福山を去って諸国を漫遊し、五月に東京に来て湯島切通 しの借家 に住み、同じ月の二十七日に文部省十等出仕になった。時に年六十六である。
枳園はよほど保を愛していたものと見え、東京に入った第三日に横網町の下宿を訪うて、切通しの家へ来いといった。保が二、三日往かずにいると、枳園はまた来て、なぜ来ぬかと問うた。保が尋ねて行って見ると、切通しの家は店造 で、店と次の間 と台所とがあるのみで、枳園はその店先に机を据えて書を読んでいた。保が覚えず、「売卜者 のようじゃありませんか」というと、枳園は面白げに笑った。それからは湯島と本所との間に、往来 が絶えなかった。枳園はしばしば保を山下 の雁鍋 、駒形 の川桝 などに連れて往って、酒を被 って世を罵 った。
文部省は当時頗 る多く名流を羅致 していた。岡本況斎、榊原琴洲 、前田元温 等の諸家が皆九等乃至 十等出仕を拝して月に四、五十円を給せられていたのである。
保が枳園を訪うて、師範生徒の年齢の事を言うと、枳園は笑って、「なに年の足りない位の事は、己 がどうにか話を附けて遣 る」といった。保は枳園に託して願書を呈した。
師範学校の採用試験は八月二十二日に始まって、三十日に終った。保は合格して九月五日に入学することになった。五百は入学の期日に先だって、浦和から帰って来た。
保の同級には今の末松子 の外、加治義方 、古渡資秀 などがいた。加治は後に渡辺氏を冒し、小説家の群 に投じ、『絵入自由新聞』に続物 を出したことがある。作者名 は花笠文京 である。古渡は風采 揚 らず、挙止迂拙 であったので、これと交 るものは殆 ど保一人 のみであった。本 常陸国 の農家の子で、地方に初生児を窒息させて殺す陋習 があったために、まさに害せられんとして僅に免れたのだそうである。東京に来て桑田衡平 の家の学僕になっていて、それからこの学校に入 った。齢 は保より長ずること七、八歳であるのに、級の席次は迥 に下 にいた。しかし保はその人 と為 りの沈著 なのを喜んで厚くこれを遇した。この人は卒業後に佐賀県師範学校に赴任し、暫 くして罷 め、慶応義塾の別科を修め、明治十二年に『新潟新聞』の主筆になって、一時東北政論家の間に重 ぜられたが、その年八月十二日に虎列拉 を病んで歿した。その後 を襲 いだのが尾崎愕堂 さんだそうである。
この頃矢島優は暇を得るごとに、浦和から母の安否を問いに出て来た。そして土曜日には母を連れて浦和へ帰り、日曜日に車で送り還 した。土曜日に自身で来られぬときは、迎 の車をおこすのであった。
鈴木の女主人 は次第に優に親 んで、立派な、気さくな檀那 だといって褒めた。当時の優は黒い鬚髯 を蓄えていた。かつて黒田伯清隆 に謁した時、座に少女があって、良 久しく優の顔を見ていたが、「あの小父 さんの顔は倒 に附いています」といったそうである。鬢毛 が薄くて髯 が濃いので、少女は顋 を頭と視 たのである。優はこの容貌で洋服を著 け、時計の金鎖 を胸前 に垂れていた。女主人が立派だといったはずである。
或土曜日に優が夕食頃に来たので、女主人が「浦和の檀那、御飯を差し上げましょうか」といった。
「いや。ありがたいがもう済まして来ましたよ。今浅草見附 の所を遣 って来ると、旨 そうな茶飯餡掛 を食べさせる店が出来ていました。そこに腰を掛けて、茶飯を二杯、餡掛を二杯食べました。どっちも五十文ずつで、丁度二百文でした。廉 いじゃありませんか」と、優はいった。女主人が気さくだと称するのは、この調子を斥 して言ったのである。
その九十六
この年には弘前から東京に出て来るものが多かった。比良野貞固 もその一人 で、或日突然保 が横網町の下宿に来て、「今著 いた」といった。貞固は妻照 と六歳になる女 柳 とを連れて来て、百本杙 の側に繋 がせた舟の中に遺 して置いて、独り上陸したのである。さて差当り保と同居するつもりだといった。
保は即座に承引して、「御遠慮なく奥さんやお嬢さんをお連 下さい、追附 母も弘前から参るはずになっていますから」といった。しかし保は窃 に心を苦 めた。なぜというに、保は鈴木の女主人 に月二両の下宿代を払う約束をしていながら、学資の方が足らぬがちなので、まだ一度も払わずにいた。そこへ遽 に三人の客を迎えなくてはならなくなった。それが余 の人ならば、宿料 を取ることも出来よう。貞固は己 が主人となっては、人に銭を使わせたことがないのである。保はどうしても四人前の費用を弁ぜなくてはならない。これが苦労の一つである。またこの界隈 ではまだ糸鬢奴 のお留守居 を見識 っている人が多い。それを横網町の下宿に舎 らせるのが気の毒でならない。これが保の苦労の二つである。
保はこれを忍んで数カ月間三人を□待 した。そして殆ど日々 貞固を横山町の尾張屋に連れて往って馳走 した。貞固は養子房之助の弘前から来るまで、保の下宿にいて、房之助が著いた時、一しょに本所緑町に家を借りて移った。丁度保が母親を故郷から迎える頃の事である。
矢川文内もこの年に東京に来た。浅越玄隆も来た。矢川は質店 を開いたが成功しなかった。浅越は名を隆 と更 めて、あるいは東京府の吏となり、あるいは本所区役所の書記となり、あるいは本所銀行の事務員となりなどした。浅越の子は四人あった。江戸生 の長女ふくは中沢彦吾 の弟彦七の妻になり、男子二人 の中 、兄は洋画家となり、弟は電信技手となった。
五百と一しょに東京に来た陸 が、夫矢川文一郎の名を以て、本所緑町に砂糖店 を開いたのもこの年の事である。長尾の女 敬の夫三河屋力蔵の開いていた猿若町 の引手茶屋 は、この年十月に新富町 に徙 った。守田勘弥 の守田座が二月に府庁の許可を得て、十月に開演することになったからである。
この年六月に海保竹逕 が歿した。文政七年生 であるから、四十九歳を以て終ったのである。前年来復 弁之助と称せずして、名の元起 を以て行われていた。竹逕の歿した時、家に遺ったのは養父漁村の妾 某氏と竹逕の子女各 一人 とである。嗣子繁松 は文久二年生で、家を継いだ時七歳になっていた。竹逕が歿してからは、保は島田篁村 を漢学の師と仰いだ。天保九年に生れた篁村は三十五歳になっていたのである。
抽斎歿彼の第十五年は明治六年である。二月十日に渋江氏は当時の第六大区 六小区本所相生町 四丁目に□居 した。五百が五十八歳、保が十七歳の時である。家族は初め母子の外に水木 がいたばかりであるが、後 には山田脩が来て同居した。脩はこの頃喘息 に悩んでいたので、割下水の家を畳んで、母の世話になりに来たのである。
五百は東京に来てから早く一戸を構えたいと思っていたが、現金の貯 は殆ど尽きていたので、奈何 ともすることが出来なかった。既にして保が師範学校から月額十円の支給を受けることになり、五百は世話をするものがあって、不本意ながらも芸者屋のために裁縫をして、多少の賃銀を得ることになった。相生町の家は此 に至って始 て借りられたのである。
その九十七
保は前年来本所相生町の家から師範学校に通っていたが、この年五月九日に学校長が生徒一同に寄宿を命じた。これは工事中であった寄宿舎が落成したためである。しかもこの命令には期限が附してあって、来六月六日に必ず舎内に徙 れということであった。
然 るに保は入舎を欲せないので、「母病気に付 当分の内 通学御 許可相成度 」云々という願書を呈して、旧に依 って本所から通っていた。母の病気というのは虚言 ではなかった。五百は当時眼病に罹 って苦 んでいた。しかし保は単に五百の目疾 の故を以て入舎の期を延ばしたのではない。
保は師範学校の授くる所の学術が、自己の攻 めんと欲する所のものと相反しているのを見て、窃 に退学を企てていた。それゆえ舎外生から舎内生に転じて、学校と自己との関係の一段の緊密を加うることを嫌うのであった。
学校は米人スコットというものを雇い来 って、小学の教授法を生徒に伝えさせた。主として練習させるのは子母韻の発声である。発声の正しいものは上席におらせる。訛 っているものは下席におらせる。それゆえ東京人、中国人などは材能 がなくても重んぜられ、九州人、東北人などは材能があっても軽 んぜられる。生徒は多く不平に堪えなかった。中にも東京人某は、己 が上位に置かれているにもかかわらず、「この教授法では延寿太夫が最優等生になる」と罵 った。
保は英語を操 い英文を読むことを志しているのに、学校の現状を見れば、所望に□ う科目は絶 てなかった。また縦 い未来において英文の科が設けられるにしても、共に入学した五十四人の過半は純乎 たる漢学諸生だから、スペルリングや第一リイダアから始められなくてはならない。保はこれらの人々と歩調を同じうして行くのを堪えがたく思った。
保はどうにかして退学したいと思った。退学してどうするかというと、相識のフルベックに請うて食客にしてもらっても好 い。また誰 かのボオイになって海外へ連れて行ってもらっても好い。モオレエ夫婦などの如く、現に自分を愛しているものもある。頼みさえしたら、ボオイに使ってくれぬこともあるまい。こんな夢を保は見ていた。
保は此 の如くに思惟 して、校長、教師に敬意を表せず、校則、課業を遵奉 することをも怠り、早晩退学処分の我頭上 に落ち来 らんことを期していた。校長諸葛信澄 の家に刺 を通ぜない。その家が何町 にあるかをだに知らずにいる。教師に遅れて教場に入る。数学を除く外、一切の科目を温習せずに、ただ英文のみを読んでいる。
入舎の命令をばこの状況の下 に接受した。そして保はこう思った。もし入舎せずにいたら、必ず退学処分が降 るだろう。そうなったら、再び頂天立地 の自由の身となって、随意に英学を研究しよう。勿論折角贏 ち得た官費は絶えてしまう。しかし書肆 万巻楼 の主人が相識で、翻訳書を出してくれようといっている。早速翻訳に着手しようというのである。万巻楼の主人は大伝馬町 の袋屋亀次郎 で、これより先 保の初 て訳したカッケンボスの『米国史』を引き受けて、前年これを発行したことがある。
保はこの計画を母に語って同意を得た。しかし矢島優 と比良野貞固 とが反対した。その主 なる理由は、もし退学処分を受けて、氏名を文部省雑誌に載せられたら、拭 うべからざる汚点を履歴の上に印するだろうというにあった。
十月十九日に保は隠忍して師範学校の寄宿舎に入 った。
その九十八
矢島優 はこの年八月二十七日に少属 に陞 ったが、次で十二月二十七日には同官等を以て工部省に転じ、鉱山に関する事務を取り扱うことになり、芝琴平町 に来 り住した。優の家にいた岡寛斎も、優に推挙せられて工部省の雇員になった。寛斎は後 明治十七年十月十九日に歿した。天保十年生 であるから、四十六歳を以て終ったのである。寛斎は生れて姿貌 があったが、痘を病んで容 を毀 られた。医学館に学び、また抽斎、枳園 の門下におった。寛斎は枳園が寿蔵碑の後 に書して、「余少時曾在先生之門 、能知其為人 、且学之広博 、因窃録先生之言行及字学医学之諸説 、別為小冊子 」といっている。わたくしはその書の存否を審 にしない。寛斎は初め伊沢氏かえの生んだ池田全安の女 梅を娶 ったが、後これを離別して、陸奥国 磐城平 の城主安藤家の臣後藤氏の女 いつを後妻に納 れた。いつは二子を生んだ。長男俊太郎 さんは、今本郷西片町 に住んで、陸軍省人事局補任課に奉職している。次男篤次郎 さんは風間 氏を冒して、小石川宮下町 に住んでいる。篤次郎さんは海軍機関大佐である。
陸 はこの年矢川文一郎と分離して、砂糖店 を閉じた。生計意の如くならざるがためであっただろう。文一郎が三十三歳、陸が二十七歳の時である。
次で陸は本所 亀沢町 に看板を懸けて杵屋勝久 と称し、長唄 の師匠をすることになった。
矢島周禎の一族もまたこの年に東京に遷 った。周禎は霊岸島 に住んで医を業とし、優の前妻鉄は本所相生町 二つ目橋通 に玩具店 を開いた。周禎は素 眼科なので、五百は目の治療をこの人に頼んだ。
或日周禎は嗣子周策を連れて渋江氏を訪 い、束脩 を納めて周策を保の門人とせんことを請うた。周策は已 に二十九歳、保は僅 に十七歳である。保はその意を解せなかったが、これを問えば周策をして師範学校に入 らしむる準備をなさんがためであった。保は喜び諾して、周策をして試験諸科を温習せしめかつこれに漢文を授けた。周策は後 生徒の第二次募集に応じて合格し、明治十年に卒業して山梨県に赴任したが、幾 もなく精神病に罹って罷 められた。
緑町の比良野氏では房之助 が、実父稲葉一夢斎 と共に骨董店を開いた。一夢斎は丹下 が老後の名である。貞固 は月に数度浅草黒船町 正覚寺 の先塋 に詣 でて、帰途には必ず渋江氏を訪い、五百と昔を談じた。
抽斎歿後の第十六年は明治七年である。五百の眼病が荏苒 として治 せぬので、矢島周禎の外に安藤某を延 いて療せしめ、数月 にして治することを得た。
水木 はこの年深川佐賀町 の洋品商兵庫屋藤次郎 に再嫁した。二十二歳の時である。
妙了尼はこの年九十四歳を以て韮山 に歿した。
渋江氏ではこの年感応寺 において抽斎のために法要を営んだ。五百、保、矢島優 、陸 、水木、比良野貞固 、飯田良政 らが来会した。
渋江氏の秩禄公債証書はこの年に交付せられたが、削減を経た禄を一石九十五銭の割を以て換算した金高 は、固 より言うに足らぬ小額であった。
抽斎歿後の第十七年は明治八年である。一月 二十九日に保は十九歳で師範学校の業を卒 え、二月六日に文部省の命を受けて浜松県に赴くこととなり、母を奉じて東京を発した。
五百、保の母子が立った後 、山田脩は亀沢町の陸の許 に移った。水木はなお深川佐賀町にいた。矢島優 はこの頃家を畳んで三池 に出張していた。
その九十九
保は母五百を奉じて浜松に著 いて、初め暫 くのほどは旅店にいた。次で母子の下宿料月額六円を払って、下垂町 の郷宿 山田屋和三郎 方にいることになった。郷宿とは藩政時代に訴訟などのために村民が城下に出た時舎 る家をいうのである。また諸国を遊歴する書画家等の滞留するものも、大抵この郷宿にいた。山田屋は大きい家で、庭に肉桂 の大木がある。今もなお儼存 しているそうである。
山田屋の向いに山喜 という居酒屋がある。保は山田屋に移った初 に、山喜の店に大皿 に蒲焼 の盛ってあるのを見て五百に「あれを買って見ましょうか」といった。
「贅沢 をお言いでない。鰻 はこの土地でも高かろう」といって、五百は止めようとした。
「まあ、聞いて見ましょう」といって、保は出て行った。価 を問えば、一銭に五串 であった。当時浜松辺で暮しの立ちやすかったことは、これに由 って想見することが出来る。
保は初め文部省の辞令を持って県庁に往った。浜松県の官吏は過半旧幕人で、薩長政府の文部省に対する反感があって、学務課長大江孝文 の如きも、頗 る保を冷遇した。しかし良 久しく話しているうちに、保が津軽人だと聞いて、少しく面 を和 げた。大江の母は津軽家の用人栂野求馬 の妹であった。後 大江は県令林厚徳 に稟 して、師範学校を設けることにして、保を教頭に任用した。学校の落成したのは六月である。
数月の後、保は高町 の坂下、紺屋町西端の雑貨商江州屋 速見平吉 の離座敷 を借りて遷 った。この江州屋も今なお存しているそうである。
矢島優はこの年十月十八日に工部少属 を罷 めて、新聞記者になり、『魁 新聞』、『真砂 新聞』等のために、主として演劇欄に筆を執った。『魁新聞』には山田脩が倶 に入社し、『真砂新聞』には森枳園 が共に加盟した。枳園は文部省の官吏として、医学校、工学寮等に通勤しつつ、旁 ら新聞社に寄稿したのである。
抽斎歿後の第十八年は明治九年である。十月十日に浜松師範学校が静岡師範学校浜松支部と改称せられた。これより先八月二十一日に浜松県を廃して静岡県に併 せられたのである。しかし保の職は故 の如くであった。
この年四月に保は五百の還暦の賀延 を催して県令以下の祝 を受けた。
五百の姉長尾氏安 はこの年新富座附 の茶屋三河屋 で歿した。年は六十二であった。この茶屋の株は後 敬の夫力蔵 が死ぬるに及んで、他人の手に渡った。
比良野貞固もまたこの年本所緑町の家で歿した。文化九年生 であるから、六十五歳を以て終ったのである。その後 を襲 いだ房之助さんは現に緑町一丁目に住んでいる。
小野富穀 もまたこの年七月十七日に歿した。年は七十であった。子道悦 が家督相続をした。
多紀安琢 もまたこの年一月四日に五十三歳で歿した。名は元□ 、号は雲従 であった。その後を襲いだのが上総国 夷隅郡 総元村 に現存している次男晴之助 さんである。
喜多村栲窓 もまたこの年十一月九日に歿した。栲窓は抽斎の歿した頃奥医師を罷めて大塚村 に住んでいたが、明治七年十二月に卒中し、右半身 不随になり、此 に□ って終った。享年七十三である。
抽斎歿後の第十九年は明治十年である。保は浜松表早馬町 四十番地に一戸を構え、後また幾 ならずして元城内 五十七番地に移った。浜松城は本 井上 河内守 正直 の城である。明治元年に徳川家が新 にこの地に封 ぜられたので、正直は翌年上総国市原郡 鶴舞 に徙 った。城内の家屋は皆井上家時代の重臣の第宅 で、大手の左右に列 っていた。保はその一つに母をおらせることが出来たのである。
この年七月四日に保の奉職している静岡師範学校浜松支部は変則中学校と改称せられた。
兼松石居 はこの年十二月十二日に歿した。年六十八である。絶筆の五絶と和歌とがある。「今日吾知免 。亦将騎鶴遊 。上帝賚殊命 。使爾永相休 。」「年浪 のたち騒ぎつる世をうみの岸を離れて舟漕 ぎ出 でむ。」石居は酒井 石見守 忠方 の家来屋代 某の女 を娶 って、三子二女を生ませた。長子艮 、字 は止所 が家を嗣いだ。号は厚朴軒 である。艮の子成器 は陸軍砲兵大尉である。成器さんは下総国市川町 に住んでいて、厚朴軒さんもその家にいる。
その百
抽斎歿後の第二十年は明治十一年である。一月 二十五日津軽承昭 は藩士の伝記を編輯 せしめんがために、下沢保躬 をして渋江氏について抽斎の行状を徴 さしめた。保は直ちに録呈した。いわゆる伝記は今存ずる所の『津軽藩旧記伝類』ではあるまいか。わたくしはいまだその書を見ざるが故に、抽斎の行状が采択 せられしや否やを審 にしない。
保の奉職している浜松変則中学枚はこの年二月二十三日に中学校と改称せられた。
山田脩はこの年九月二日に、母五百に招致せられて浜松に来た。これより先五百は脩の喘息 を気遣 っていたが、脩が矢島優 と共に『魁 新聞』の記者となるに及んで、その保に寄する書に卯飲 の語あるを見て、大いにその健康を害せんを惧 れ、急に命じて浜松に来 らしめた。しかし五百は独り脩の身体 のためにのみ憂えたのではない。その新聞記者の悪徳に化せられんことをも慮 ったのである。
この年四月に岡本況斎が八十二歳で歿した。
抽斎歿後の第二十一年は明治十二年である。十月十五日保は学問修行のため職を辞し、二十八日に聴許 せられた。これは慶応義塾に入 って英語を学ばんがためである。
これより先保は深く英語を窮めんと欲して、いまだその志を遂げずにいた。師範学校に入ったのも、その業を卒 えて教員となったのも、皆学資給せざるがために、やむことをえずして為 したのである。既にして保は慶応義塾の学風を仄聞 し、頗 る福沢諭吉 に傾倒した。明治九年に国学者阿波 の人某が、福沢の著 す所の『学問のすゝめ』を駁 して、書中の「日本 は□爾 たる小国である」の句を以て祖国を辱 むるものとなすを見るに及んで、福沢に代って一文を草し、『民間雑誌』に投じた。『民間雑誌』は福沢の経営する所の日刊新聞で、今の『時事新報』の前身である。福沢は保の文を采録し、手書 して保に謝した。保はこれより福沢に識 られて、これに適従 せんと欲する念がいよいよ切になったのである。
保は職を辞する前に、山田脩をして居宅を索 めしめた。脩は九月二十八日に先ず浜松を発して東京に至り、芝区松本町 十二番地の家を借りて、母と弟とを迎えた。
五百、保の母子は十月三十一日に浜松を発し、十一月三日に松本町の家に著 いた。この時保と脩とは再び東京にあって母の膝下 に侍することを得たが、独り矢島優 のみは母の到著するを待つことが出来ずに北海道へ旅立った。十月八日に開拓使御用掛 を拝命して、札幌に在勤することとなったからである。
陸 は母と保との浜松へ往った後 も、亀沢町の家で長唄の師匠をしていた。この家には兵庫屋から帰った水木 が同居していた。勝久は水木の夫であった畑中藤次郎 を頼もしくないと見定めて、まだ脩が浜松に往かぬ先に相談して、水木を手元へ連れ戻したのである。
保らは浜松から東京に来た時、二人の同行者があった。一人は山田要蔵、一人は中西常武 である。
山田は遠江国 敷智郡 都築 の人である。父を喜平といって、畳問屋 である。その三男要蔵は元治 元年生 の青年で、渋江の家から浜松中学校に通い、卒業して東京に来たのである。時に年十六であった。中西は伊勢国度会郡 山田岩淵町 の人中西用亮 の弟である。愛知師範学校に学んで卒業し、浜松中学校の教員になっていた。これは職を罷 めて東京に来た時二十七、八歳であった。山田も中西も、保と同じく慶応義塾に入 らんと欲して、共に入京したのである。
その百一
保は東京に著 いた翌日、十一月四日に慶応義塾に往って、本科第三等に編入せられた。
同行者の山田は、保と同じく本科に、中西は別科に入 った。後 山田は明治十四年に優等を以て卒業して、一時義塾の教員となり、既にして伊東氏を冒し、衆議院議員に選ばれ、今は某銀行、某会社の重役をしている。中西は別科を修めた後に郷に帰った。
保は慶応義塾の生徒となってから三日目に、万来舎 において福沢諭吉を見た。万来舎は義塾に附属したクラブ様のもので、福沢は毎日午後に来て文明論を講じていた。保が名を告げた時、福沢は昔年の事を語り出 でてこれを善遇した。
当時慶応義塾は年を三期に分ち、一月から四月までを第一期といい、五月から七月までを第二期といい、九月から十二月までを第三期といった。保がこの年第三期に編入せられた第三等はなお第三級といわんがごとくである。月の末には小試験があり、期の終にはまた大試験があった。
森枳園 はこの年十二月一日に大蔵省印刷局の編修になった。身分は准判任御用掛で、月給四十円であった。局長得能良介 は初め八十円を給せようといったが、枳園は辞していった。多く給せられて早く罷 められんよりは、少 く給せられて久しく勤めたい。四十円で十分だといった。局長はこれに従って、特に耆宿 として枳園を優遇し、土蔵の内に畳を敷いて事務を執らせた。この土蔵の鍵 は枳園が自ら保管していて、自由にこれに出入 した。寿蔵碑に「日々入局 、不知老之将至 、殆為金馬門之想云 」と記 してある。
抽斎歿後の第二十二年は明治十三年である。保は四月に第二等に進み、七月に破格を以て第一等に進み、遂に十二月に全科の業を終えた。下等の同学生には渡辺修、平賀敏 があり、また同じ青森県人に芹川得一 、工藤儀助 があった。上等の同学生には犬養毅 さんの外、矢田績 、安場 男爵があり、また同県人に坂井次永 、神尾金弥 があった。後 の二人は旧会津藩士である。
万来舎では今の金子 子爵、その他相馬永胤 、目賀田 男爵、鳩山和夫 等が法律を講ずるので、保も聴いた。
山田脩はこの年電信学校に入 って、松本町の家から通った。陸 の勝久が長唄を人に教うる旁 、音楽取調所の生徒となったのもまたこの年である。音楽取調所は当時創立せられたもので、後の東京音楽学校の萌芽 である。この頃水木 は勝久の許 を去って母の家に来た。
この年また藤村義苗 さんが浜松から来て渋江氏に寓 した。藤村は旧幕臣で、浜松中学校の業を卒 え、遠江国中泉 で小学校訓導をしていたが、外国語学校で露語生徒の入学を許し、官費を給すると聞いて、その試験を受けに来たのである。藤村は幸に合格したが、後に露語科が廃せられてから、東京高等商業学校に入 ってその業を卒え、現に某々会社の重役になっている。
松本町の家には五百、保、水木の三人がいて、諸生には山田要蔵とこの藤村とが置いてあったのである。
抽斎歿後の第二十三年は明治十四年である。当時慶応義塾の卒業生は世人の争って聘 せんと欲する所で、その世話をする人は主 に小幡篤次郎 であった。保はなお進んで英語を窮めたい志を有していたが、浜松にあった日に衣食を節して貯えた金がまた□ きたので、遂に給を俸銭に仰がざることを得なくなった。
この年もまた卒業生の決口 は頗 る多かった。保の如きも第一に『三重 日報』の主筆に擬せられて、これを辞した。これは藤田茂吉 に三重県庁が金を出していることを聞いたからである。第二に広島某新聞の主筆は、保が初めその任に当ろうとしていたが、次で出来た学校の地位に心を傾 けたために、半途にして交渉を絶った。
学校の地位というのは、愛知中学校長である。招聘の事は阿部泰蔵 と会談して定まり、保は八月三日に母と水木とを伴って東京を発した。諸生山田要蔵はこの時慶応義塾に寄宿した。
その百二
保は三河国宝飯郡 国府町 に著 いて、長泉寺 の隠居所を借りて住んだ。そして九月三十日に愛知県中学校長に任ずという辞令を受けた。
保が学校に往って見ると、二つの急を要する問題が前に横 わっていた。教則を作ることと罰則を作ることとである。教則は案を具して文部省に呈し、その認可を受けなくてはならない。罰則は学校長が自ら作り自ら施すことを得るのである。教則の案は直ちに作って呈し、罰則は不文律となして、生徒に自力の徳教を誨 えた。教則は文部省が輒 く認可せぬので、往復数十回を累 ね、とうとう保の在職中には制定せられずにしまった。罰則は果して必要でなかった。一人 の※違者 [#「言+圭」、295-5]をも出 さなかったからである。
長泉寺の隠居所は次第に賑 しくなった。初め保は母と水木 との二人の家族があったのみで、寂しい家庭をなしていたが、寄寓 を請う諸生を、一人 容 れ、二人容れて、幾 もあらぬに六人の多きに達した。八田郁太郎 、稲垣親康 、島田寿一 、大矢尋三郎 、菅沼岩蔵 、溝部惟幾 の人々である。中にも八田は後に海軍少将に至った。菅沼は諸方の中学校に奉職して、今は浜松にいる。最も奇とすべきは溝部で、或日偶然来て泊り込み、それなりに淹留 した。夏日 袷 に袷羽織 を著 て恬 として恥じず、また苦熱の態 をも見せない。人皆その長門 の人なるを知っているが、かつて自ら年歯 を語ったことがないので、その幾歳なるかを知るものがない。打ち見る所は保と同年位であった。溝部は後 農商務省の雇員となり、地方官に転じ、栃木県知事に至った。
当時保は一人の友を得た。武田氏名は準平 で、保が国府 の学校に聘せられた時、中に立って斡旋 した阿部泰蔵の兄である。準平は国府 に住んで医を業としていたが、医家を以て著 れずに、かえって政客 を以て聞えていた。
準平はこれより先 愛知県会の議長となったことがある。某年に県会が畢 って、県吏と議員とが懇親の宴を開いた。準平は平素県令国貞廉平 の施設に慊 なかったが、宴闌 なる時、国貞の前に進んで杯 を献じ、さて「お□ は」と呼びつつ、国貞に背 いて立ち、衣 を搴 げて尻 を露 したそうである。
保は国府 に来てから、この準平と相識になった。既にして準平が兄弟 になろうと勧めた。保は謙 って父子になる方が適当であろうといった。遂に父子と称して杯を交した。準平は四十四歳、保は二十五歳の時である。
この時東京には政党が争い起 った。改進党が成り、自由党が成り、また帝政党が成って、新聞紙は早晩これらの結党式の挙行せらるべきことを伝えた。準平と保とは国府 にあってこういった。「東京の政界は華々しい。我ら田舎に住んでいるものは、淵 に臨んで魚 を羨 むの情に堪えない。しかし大 なるものは成るに難く、小なるものは成るに易 い。我らも甲らに似せて穴を掘り、一の小政社を結んで、東京の諸先輩に先んじて式を挙げようではないか」といった。この政社の雛形 は進取社と名づけられて、保は社長、準平は副社長であった。
その百三
抽斎歿後の第二十四年は明治十五年である。一月 二日に保の友武田準平が刺客 に殺された。準平の家には母と妻と女 一人 とがいた。女の壻秀三 は東京帝国大学医科大学の別科生になっていて、家にいなかった。常は諸生がおり、僕がおったが、皆新年に暇 を乞 うて帰った。この日家人が寝 に就 いた後 、浴室から火が起った。唯 一人暇を取らずにいた女中が驚き醒 めて、烟 の厨 を罩 むるを見、引窓 を開きつつ人を呼んだ。浴室は庖厨 の外に接していたのである。準平は女中の声を聞いて、「なんだ、なんだ」といいつつ、手に行燈 を提 げて厨に出て来た。この時一人の引廻 がっぱを被 た男が暗中より起 って、準平に近づいた。準平は行燈を措 いて奥に入 った。引廻の男は尾 いて入った。準平は奥の廊下から、雨戸を蹴脱 して庭に出た。引廻の男はまた尾いて出た。準平は身に十四カ所の創 を負って、庭の檜 の下に殪 れた。檜は老木であったが、前年の暮、十二月二十八日の夜 、風のないに折れた。準平はそれを見て、新年を過してから薪 に挽 かせようといっていたのである。家人は檜が讖 をなしたなどといった。引廻の男は誰 であったか、また何故 に準平を殺したか、終 に知ることが出来なかった。
保は報を得て、馳 せて武田の家に往った。警察署長佐藤某がいる。郡長竹本元※[#「にんべん+暴」、298-2]がいる。巡査数人がいる。佐藤はこういうのである。「武田さんは進取社の事のために殺されなすったかと思われます。渋江さんも御用心なさるが好い。当分の内 巡査を二人 だけ附けて上げましょう」というのである。
保は彼 の小結社の故を以て、刺客が手を動 したものとは信ぜなかった。しかし暫 くは人の勧 に従って巡査の護衛を受けていた。五百は例の懐剣を放さずに持っていて、保にも弾を填 めた拳銃を備えさせた。進取社は準平が死んでから、何の活動をもなさずに分散した。
保は『横浜毎日新聞』の寄書家になった。『毎日』は島田三郎さんが主筆で、『東京日々 新聞』の福地桜痴 と論争していたので、保は島田を助けて戦った。主なる論題は主権論、普通選挙論等であった。
普通選挙論では外山正一 が福地に応援して、「毎日記者は盲目 蛇 におじざるものだ」といった。これは島田のベンサムを普通選挙論者となしたるは無学のためで、ベンサムは実は制限選挙論者だというのであった。そこで保はベンサムの憲法論について、普通選挙を可とする章句を鈔出 し、「外山先生は盲目蛇におじざるものだ」という鸚鵡返 の報復をした。
これらの論戦の後 、保は島田三郎、沼間守一 、肥塚龍 らに識 られた。後に横浜毎日社員になったのは、この縁故があったからである。
保は十二月九日学校の休暇を以て東京に入 った。実は国府 を去らんとする意があったのである。
この年矢島優 は札幌にあって、九月十五日に渋江氏に復籍した。十月二十三日にその妻蝶が歿した。年三十四であった。
山田脩 はこの年一月 工部技手に任ぜられ、日本橋電信局、東京府庁電信局等に勤務した。
その百四
抽斎歿後の第二十五年は明治十六年である。保は前年の暮に東京に入 って、仮に芝田町 一丁目十二番地に住んだ。そして一面愛知県庁に辞表を呈し、一面府下に職業を求めた。保は先ず職業を得て、次で免罷 の報に接した。一月十一日には攻玉社 の教師となり、二十五日には慶応義塾の教師となって、午前に慶応義塾に往 き、午後に攻玉社に往くことにした。攻玉社は社長が近藤真琴 、幹事が藤田潜 で、生徒中には後 に海軍少将に至った秀島 某、海軍大佐に至った笠間直 等があった。慶応義塾は社頭が福沢諭吉、副社頭が小幡篤次郎 、校長が浜野定四郎 で、教師中に門野幾之進 、鎌田栄吉 等があり、生徒中に池辺吉太郎 、門野重九郎 、和田豊治 、日比翁助 、伊吹雷太 等があった。愛知県中学校長を免ずる辞令は二月十四日を以て発せられた。保は芝 烏森町 一番地に家を借りて、四月五日に国府 から還 った母と水木 とを迎えた。
勝久は相生町 の家で長唄を教えていて、山田脩はその家から府庁電信局に通勤していた。そこへ優 が開拓使の職を辞して札幌から帰ったのが八月十日である。優は無妻になっているので、勝久に説いて師匠を罷 めさせ、専 ら家政を掌 らせた。
八月中の事であった。保は客 を避けて『横浜毎日新聞』に寄する文を草せんがために、一週日 ほどの間柳島の帆足謙三 というものの家に起臥 していた。烏森町の家には水木を遺 して母に侍せしめ、かつ優、脩、勝久の三人をして交る交るその安否を問わしめた。然るに或夜水木が帆足の家に来て、母が病気と見えて何も食わなくなったと告げた。
保が家に帰って見ると、五百は床を敷かせて寝ていた。「只今 帰りました」と、保はいった。
「お帰 かえ」といって、五百は微笑した。
「おっ母 様、あなたは何も上らないそうですね。わたくしは暑くてたまりませんから、氷を食べます。」
「そんならついでにわたしのも取っておくれ。」五百は氷を食べた。
翌朝保が「わたくしは今朝 は生卵にします」といった。
「そうかい、そんならわたしも食べて見よう。」五百は生卵を食べた。
午 になって保はいった。「きょうは久しぶりで、洗いに水貝 を取って、少し酒を飲んで、それから飯にします。」
「そんならわたしも少し飲もう。」五百は洗いで酒を飲んだ。その時はもう平日の如く起きて坐っていた。
晩になって保はいった。「どうも夕方になってこんなに風がちっともなくては凌 ぎ切れません。これから汐湯 に這入 って、湖月 に寄って涼んで来ます。」
「そんならわたしも往 くよ。」五百は遂に汐湯に入 って、湖月で飲食 した。
五百は保が久しく帰らぬがために物を食わなくなったのである。五百は女子中では棠 を愛し、男子中では保を愛した。さきに弘前に留守をしていて、保を東京に遣 ったのは、意を決した上の事である。それゆえ能 く年余 の久しきに堪えた。これに反して帰るべくして帰らざる保を日ごとに待つことは、五百の難 んずる所であった。この時五百は六十八歳、保は二十七歳であった。
その百五
この年十二月二日に優 が本所相生町の家に歿した。優は職を罷 める時から心臓に故障があって、東京に還って清川玄道 の治療を受けていたが、屋内に静坐していれば別に苦悩もなかった。歿する日には朝から物を書いていて、午頃 「ああ草臥 れた」といって仰臥 したが、それきり起 たなかった。岡西氏徳 の生んだ、抽斎の次男は此 の如くにして世を去ったのである。優は四十九歳になっていた。子はない。遺骸は感応寺に葬られた。
優は蕩子 であった。しかし後 に身を吏籍に置いてからは、微官におったにもかかわらず、頗 る材能 を見 した。優は情誼 に厚かった。親戚 朋友 のその恩恵を被ったことは甚だ多い。優は筆札 を善くした。その書には小島成斎の風があった。その他演劇の事はこの人の最も精通する所であった。新聞紙の劇評の如きは、森枳園 と優とを開拓者の中 に算すべきであろう。大正五年に珍書刊行会で公にした『劇界珍話』は飛蝶 の名が署してあるが、優の未定稿である。
抽斎歿後の第二十六年は明治十七年である。二月十四日に五百が烏森の家に歿した。年六十九であった。
五百は平生 病むことが少 かった。抽斎歿後に一たび眼病に罹 り、時々 疝痛 を患 えた位のものである。特に明治九年還暦の後 は、殆 ど無病の人となっていた。然るに前年の八月中、保が家に帰らぬを患 えて絶食した頃から、やや心身違和の徴があった。保らはこれがために憂慮した。さて新年に入 って見ると、五百の健康状態は好 くなった。保は二月九日の夜 母が天麩羅蕎麦 を食べて炬燵 に当り、史を談じて更 の闌 なるに至ったことを記憶している。また翌十日にも午食 に蕎麦を食べたことを記憶している。午後三時頃五百は煙草を買いに出た。二、三年前 からは子らの諌 を納 れて、単身戸外に出ぬことにしていたが、当時の家から煙草店 へ往く道は、烏森神社の境内であって車も通らぬゆえ、煙草を買いにだけは単身で往った。保は自分の部屋で書を読んで、これを知らずにいた。暫 くして五百は烟草を買って帰って、保の背後 に立って話をし出した。保はかつ読みかつ答えた。初 てドイツ語を学ぶ頃で、読んでいる書はシェッフェルの文典であった。保は母の気息の促迫しているのに気が附いて、「おっ母 様、大そうせかせかしますね」といった。
「ああ年のせいだろう、少し歩くと息が切れるのだよ。」五百はこういったが、やはり話を罷 めずにいた。
少し立って五百は突然黙った。
「おっ母様、どうかなすったのですか。」保はこういって背後 を顧みた。
五百は火鉢の前に坐って、やや首を傾 けていたが、保はその姿勢の常に異なるのに気が附いて、急に起 って傍 に往き顔を覗 いた。
五百の目は直視し、口角 からは涎 が流れていた。
保は「おっ母様、おっ母様」と呼んだ。
五百は「ああ」と一声答えたが、人事を省 せざるものの如くであった。
保は床を敷いて母を寝させ、自ら医師の許 へ走った。
その百六
渋江氏の住んでいた烏森の家からは、存生堂 という松山棟庵 の出張所が最も近かった。出張所には片倉 某という医師が住んでいた。保は存生堂に駆け附けて、片倉を連れて家に帰った。存生堂からは松山の出張をも請いに遣った。
片倉が一応の手当をした所へ、松山が来た。松山は一診していった。「これは脳卒中で右半身不随 になっています。出血の部位が重要部で、その血量も多いから、回復の望 はありません」といった。
しかし保はその言 を信じたくなかった。一時空 を視 ていた母が今は人の面 に注目する。人が去れば目送する。枕辺 に置いてあるハンカチイフを左手 に把 って畳む。保が傍 に寄るごとに、左手で保の胸を撫 でさえした。
保は更に印東玄得 をも呼んで見せた。しかし所見は松山と同じで、この上手当のしようはないといった。
五百は遂に十四日の午前七時に絶息した。
五百の晩年の生活は日々 印刷したように同じであった。祁寒 の時を除く外は、朝五時に起きて掃除をし、手水 を使い、仏壇を拝し、六時に朝食をする。次で新聞を読み、暫く読書する。それから午餐 の支度をして、正午に午餐する。午後には裁縫し、四時に至って女中を連れて家を出る。散歩がてら買物をするのである。魚菜をも大抵この時買う。夕餉 は七時である。これを終れば、日記を附ける。次でまた読書する。倦 めば保を呼んで棋 を囲みなどすることもある。寝 に就くのは十時である。
隔日に入浴し、毎月曜日に髪を洗った。寺には毎月一度詣 で、親と夫との忌日 には別に詣でた。会計は抽斎の世にあった時から自らこれに当っていて、死に□ るまで廃せなかった。そしてその節倹の用意には驚くべきものがあった。
五百の晩年に読んだ書には、新刊の歴史地理の類が多かった。『兵要 日本地理小志』はその文が簡潔で好 いといって、傍 に置いていた。
奇とすべきは、五百が六十歳を踰 えてから英文を読みはじめた事である。五百は頗る早く西洋の学術に注意した。その時期を考うるに、抽斎が安積艮斎 の書を読んで西洋の事を知ったよりも早かった。五百はまだ里方 にいた時、或日兄栄次郎が鮓久 に奇な事を言うのを聞いた。「人間は夜 逆 さになっている」云々といったのである。五百は怪 んで、鮓久が去った後 に兄に問うて、始 て地動説の講釈を聞いた。その後 兄の机の上に『気海観瀾 』と『地理全志』とのあるのを見て、取って読んだ。
抽斎に嫁した後、或日抽斎が「どうも天井に蝿 が糞 をして困る」といった。五百はこれを聞いていった。「でも人間も夜は蝿が天井に止まったようになっているのだと申しますね」といった。抽斎は妻 が地動説を知っているのに驚いたそうである。
五百は漢訳和訳の洋説を読んで慊 ぬので、とうとう保にスペルリングを教えてもらい、ほどなくウィルソンの読本 に移り、一年ばかり立つうちに、パアレエの『万国史』、カッケンボスの『米国史』、ホオセット夫人の『経済論』等をぽつぽつ読むようになった。
五百の抽斎に嫁した時、婚を求めたのは抽斎であるが、この間に或秘密が包蔵せられていたそうである。それは抽斎をして婚を求むるに至らしめたのは、阿部家の医師石川貞白 が勧めたので、石川貞白をして勧めしめたのは、五百自己であったというのである。
その百七
石川貞白は初 の名を磯野勝五郎 といった。何時 の事であったか、阿部家の武具係を勤めていた勝五郎の父は、同僚が主家 の具足を質に入れたために、永 の暇 になった。その時勝五郎は兼て医術を伊沢榛軒 に学んでいたので、直 に氏名を改めて剃髪 し、医業を以て身を立てた。
貞白は渋江氏にも山内氏にも往来して、抽斎を識 り五百を識っていた。弘化元年には五百の兄栄次郎が吉原の娼妓 浜照の許 に通って、遂にこれを娶 るに至った。その時貞白は浜照が身受 の相談相手となり、その仮親 となることをさえ諾したのである。当時兄の措置 を喜ばなかった五百が、平生青眼 を以て貞白を見なかったことは、想像するに余 がある。
或日五百は使を遣 って貞白を招いた。貞白はおそるおそる日野屋の閾 を跨 いだ。兄の非行を幇 けているので、妹に譴 められはせぬかと懼 れたのである。
然るに貞白を迎えた五百にはいつもの元気がなかった。「貞白さん、きょうはお頼 申したい事があって、あなたをお招 いたしました」という、態度が例になく慇懃 であった。
何事かと問えば、渋江さんの奥さんの亡くなった跡へ、自分を世話をしてはくれまいかという。貞白は事の意表に出 でたのに驚いた。
これより先 日野屋では五百に壻を取ろうという議があって、貞白はこれを与 り知っていた。壻に擬せられていたのは、上野広小路の呉服店伊藤松坂屋 の通番頭 で、年は三十二、三であった。栄次郎は妹が自分たち夫婦に慊 ぬのを見て、妹に壻を取って日野屋の店を譲り、自分は浜照を連れて隠居しようとしたのである。
壻に擬せられている番頭某と五百となら、旁 から見ても好配偶である。五百は二十九歳であるが、打見 には二十四、五にしか見えなかった。それに抽斎はもう四十歳に満ちている。貞白は五百の意のある所を解するに苦 んだ。
そこで五百に問い質 すと、五百はただ学問のある夫が持ちたいと答えた。その詞 には道理がある。しかし貞白はまだ五百の意中を読み尽すことが出来なかった。
五百は貞白の気色 を見て、こう言い足した。「わたくしは壻を取ってこの世帯 を譲ってもらいたくはありません。それよりか渋江さんの所へ往って、あの方 に日野屋の後見 をして戴 きたいと思います。」
貞白は膝 を拍 った。「なるほど/\。そういうお考えですか。宜 しい。一切わたくしが引き受けましょう。」
貞白は実に五百の深慮遠謀に驚いた。五百の兄栄次郎も、姉安 の夫宗右衛門も、聖堂に学んだ男である。もし五百が尋常の商人を夫としたら、五百の意志は山内氏にも長尾氏にも軽 んぜられるであろう。これに反して五百が抽斎の妻となると栄次郎も宗右衛門も五百の前に項 を屈せなくてはならない。五百は里方のために謀 って、労少くして功多きことを得るであろう。かつ兄の当然持っておるべき身代 を、妹として譲り受けるということは望ましい事ではない。そうして置いては、兄の隠居が何事をしようと、これに喙 を容 れることが出来ぬであろう。永久に兄を徳として、その為 すがままに任せていなくてはなるまい。五百は此 の如き地位に身を置くことを欲せぬのである。五百は潔くこの家を去って渋江氏に適 き、しかもその渋江氏の力を藉 りて、この家の上に監督を加えようとするのである。
貞白は直 に抽斎を訪 うて五百の願 を告げ、自分も詞 を添えて抽斎を説き動 した。五百の婚嫁は此 の如くにして成就したのである。
その百八
保はこの年六月に『横浜毎日新聞』の編輯員 になった。これまではその社とただ寄稿者としての連繋のみを有していたのであった。当時の社長は沼間守一 、主筆は島田三郎、会計係は波多野伝三郎 という顔触 で、編輯員には肥塚龍 、青木匡 、丸山名政 、荒井泰治 の人々がいた。また矢野次郎、角田真平 、高梨哲四郎 、大岡育造 の人々は社友であった。次で八月に保は攻玉社の教員を罷 めた。九月一日には家を芝桜川町 十八番地に移した。
脩はこの年十二月に工部技手を罷めた。
水木 はこの年山内氏を冒して芝新銭座町 に一戸を構えた。
抽斎歿後の第二十七年は明治十八年である。保は新聞社の種々の用務を弁ずるために、しばしば旅行した。十月十日に旅から帰って見ると、森枳園 の五日に寄せた書が机上にあった。面談したい事があるが、何時 往ったら逢 われようかというのである。保は十一日の朝枳園を訪うた。枳園は当時京橋区水谷町 九番地に住んでいて、家族は子婦 大槻 氏よう、孫女 こうの二人 であった。嗣子養真は父に先 って歿し、こうの妹りゅうは既に人に嫁していたのである。
枳園は『横浜毎日新聞』の演劇欄を担任しようと思って、保に紹介を求めた。これより先狩谷□斎 の『倭名鈔箋註 』が印刷局において刻せられ、また『経籍訪古志』が清国使館 において刻せられて、これらの事業は枳園がこれに当っていたから、その家は昔の如く貧しくはなかった。しかしこの年一月に大蔵省の職を罷めて、今は月給を受けぬことになっているので、再び記者たらんと欲するのであった。
保は枳園の求 に応じて、新聞社に紹介し、二、三篇の文章を社に交付して置いて、十二日にまた社用を帯びて遠江国浜松に往った。然るに用事は一カ所において果すことが出来なかったので、犬居 に往 き、掛塚 から汽船豊川丸 に乗って帰京の途に就 いた。そして航海中暴風に遭 って、下田 に淹留 し、十二月十六日にようよう家に帰った。
机上にはまた森氏の書信があった。しかしこれは枳園の手書 ではなくて、その訃音 であった。
枳園は十二月六日に水谷町の家に歿した。年は七十九であった。枳園の終焉 に当って、伊沢徳 さんは枕辺 に侍していたそうである。印刷局は前年の功労を忘れず、葬送の途次柩 を官衙 の前に駐 めしめ、局員皆出 でて礼拝した。枳園は音羽 洞雲寺 の先塋 に葬られたが、この寺は大正二年八月に巣鴨村 池袋 丸山 千六百五番地に徙 された。池袋停車場の西十町ばかりで、府立師範学校の西北、祥雲寺 の隣である。わたくしは洞雲寺の移転地を尋ねて得ず、これを大槻文彦 さんに問うて始 て知った。この寺には枳園六世の祖からの墓が並んでいる。わたくしの参詣した時には、おこうさんと大槻文彦さんとの名を記 した新しい卒堵婆 が立ててあった。
枳園の後 はその子養真の長女おこうさんが襲 いだ。おこうさんは女流画家で、浅草永住町 の上田政次郎 という人の許 に現存している。おこうさんの妹おりゅうさんはかつて剞□氏 某に嫁し、後 未亡人となって、浅草聖天 横町の基督 教会堂のコンシェルジェになっていた。基督教徒である。
保は枳園の訃 を得た後 、病のために新聞記者の業を罷め、遠江国周智郡 犬居村 百四十九番地に転籍した。保は病のために時々 卒倒することがあったので、松山棟庵 が勧めて都会の地を去らしめたのである。
その百九
抽斎歿後の第二十八年は明治十九年である。保は静岡安西 一丁目南裏町 十五番地に移り住んだ。私立静岡英学校の教頭になったからである。校主は藤波甚助 という人で、雇 外国人にはカッシデエ夫妻、カッキング夫人等がいた。当時の生徒で、今名を知られているものは山路愛山 さんである。通称は弥吉 、浅草堀田原 、後には鳥越 に住んだ幕府の天文方 山路氏の裔 で、元治 元年に生れた。この年二十三歳であった。
十月十五日に保は旧幕臣静岡県士族佐野常三郎 の女 松を娶 った。戸籍名は一 である。保は三十歳、松は明治二年正月十六日生 であるから十八歳であった。
小野富穀 の子道悦が、この年八月に虎列拉 を病んで歿した。道悦は天保七年八月朔 に生れた。経書 を萩原楽亭 に、筆札を平井東堂に、医術を多紀□庭 と伊沢柏軒とに学んだ。父と共に仕えて表医者奥通 に至り、明治三年に弘前において藩学の小学教授に任ぜられ、同じ年に家督相続をした。小学教授とは素読 の師をいうのである。しかし保が助教授になっていたのは藩学の儒学部で、道悦が小学教授になっていたのはその医学部である。道悦も父祖に似て貨殖に長じていたが、終生主 に守成 を事としていた。然るに明治十一、二年の交 、道悦が松田道夫 の下 にあって、金沢裁判所の書記をしていると、その留守に妻 が東京にあって投機のために多く金を失った。その後 道悦は保が重野 成斎に紹介して、修史局の雇員にしてもらうことが出来た。子道太郎は時事新報社の文選をしていたが、父に先 って死んだ。
尺振八 もまたこの年十一月二十八日に歿した。年は四十八であった。
抽斎歿後の第二十九年は明治二十年である。保は一月二十七日に静岡で発行している『東海暁鐘 新報』の主筆になった。英学校の職は故 の如くである。『暁鐘新報』は自由党の機関で、前島豊太郎 という人を社主としていた。五年前 に禁獄三年、罰金九百円に処せられて、世の耳目 を驚 した人で、天保六年の生 であるから、五十三歳になっていた。次で保は七月一日に静岡高等英華 学校に聘 せられ、九月十五日にまた静岡文武館の嘱託 を受けて、英語を生徒に授けた。
抽斎歿後の第三十年は明治二十一年である。一月に『東海暁鐘新報』は改題して東海の二字を除いた。同じ月に中江兆民 が静岡を過ぎて保を訪 うた。兆民は前年の暮に保安条例に依 って東京を逐 われ、大阪東雲 新聞社の聘に応じて西下する途次、静岡には来たのである。六月三十日に保の長男三吉 が生れた。八月十日に私立渋江塾を鷹匠町 二丁目に設くることを認可せられた。
脩 は七月に東京から保の家に来て、静岡警察署内巡査講習所の英語教師を嘱託せられ、次で保と共に渋江塾を創設した。これより先 脩は渋江氏に復籍していた。
脩は渋江塾の設けられた時妻さだを娶った。静岡の人福島竹次郎の長女で、県下駿河国 安倍郡 豊田村 曲金 の素封家海野寿作 の娘分 である。脩は三十五歳、さだは明治二年八月九日生であるから二十歳であった。
この年九月十五日に、保の許 に匿名の書が届いた。日を期して決闘を求むる書である。その文体書風が悪作劇 とも見えぬので、保は多少の心構 をしてその日を待った。静岡の市中ではこの事を聞き伝えて種々の噂 が立った。さてその日になると、早朝に前田五門 が保の家に来て助力 をしようと申し込んだ。五門は本 五左衛門 と称して、世禄 五百七十二石を食 み、下谷 新橋脇 に住んでいた旧幕臣である。明治十五年に保が三河国国府 を去って入京しようとした時、五門は懇親会において保と相識になった。初め函右日報 社主で、今『大務 新聞』顧問になっている。保は五門と倶 に終日匿名の敵を待ったが、敵は遂に来なかった。五門は後明治三十八年二月二十三日に歿した。天保六年の生であるから、年を享 くること七十一であった。
その百十
抽斎歿後の第三十一年は明治二十二年である。一月八日に保は東京博文館の求 に応じて履歴書、写真並に文稿を寄示した。これが保のこの書肆 のために書を著 すに至った端緒 である。交渉は漸 く歩を進めて、保は次第に暁鐘新報社に遠 かり、博文館に近 いた。そして十二月二十七日に新報社に告ぐるに、年末を待って主筆を辞することを以てした。然るに新報社は保に退社後なお社説を草 せんことを請うた。
脩の嫡男終吉 がこの年十二月一日に鷹匠町二丁目の渋江塾に生れた。即ち今の図案家の渋江終吉さんである。
抽斎歿後の第三十二年は明治二十三年である。保は三月三日に静岡から入京して、麹町有楽町 二丁目二番地竹 の舎 に寄寓 した。静岡を去るに臨んで、渋江塾を閉じ、英学校、英華 学校、文武館三校の教職を辞した。ただ『暁鐘新報』の社説は東京において草することを約した。入京後三月二十六日から博文館のためにする著作翻訳の稿を起した。七月十八日に保は神田 仲猿楽町 五番地豊田春賀 の許 に転寓した。
保の家には長女福が一月三十日に生れ、二月十七日に夭 した。また七月十一日に長男三吉が三歳にして歿した。感応寺の墓に刻してある智運童子 はこの三吉である。
脩はこの年五月二十九日に単身入京して、六月に飯田町 補習学会及 神田猿楽町有終 学校の英語教師となった。妻子は七月に至って入京した。十二月に脩は鉄道庁第二部傭員となって、遠江国磐田郡 袋井 駅に勤務することとなり、また家を挙げて京を去った。
明治二十四年には保は新居を神田仲猿楽町五番地に卜 して、七月十七日に起工し、十月一日にこれを落 した。脩は駿河国駿東郡 佐野 駅の駅長助役に転じた。抽斎歿後の第三十三年である。
二十五年には保の次男繁次 が二月十八日に生れ、九月二十三日に夭した。感応寺の墓に示教 童子と刻してある。脩は七月に鉄道庁に解傭 を請うて入京し、芝愛宕下町 に住んで、京橋西紺屋町 秀英舎の漢字校正係になった。脩の次男行晴 が生れた。この年は抽斎歿後の第三十四年である。
二十六年には保の次女冬が十二月二十一日に生れた。脩がこの年から俳句を作ることを始めた。「皮足袋 の四十に足を踏込みぬ」の句がある。二十七年には脩の次男行晴 が四月十三日に三歳にして歿した。陸 が十二月に本所松井町 三丁目四番地福島某の地所に新築した。即ち今の居宅 である。長唄の師匠としてのこの人の経歴は、一たび優 のために頓挫 したが、その後 は継続して今日 に至っている。なお下方に詳記するであろう。二十八年には保の三男純吉が七月十三日に生れた。二十九年には脩が一月に秀英舎市 が谷 工場の欧文校正係に転じて、牛込 二十騎町 に移った。この月十二日に脩の三男忠三さんが生れた。三十年には保が九月に根本羽嶽 の門に入 って易を問うことを始めた。長井金風 さんの言 に拠 るに、羽嶽の師は野上陳令 、陳令の師は山本北山 だそうである。栗本鋤雲 が三月六日に七十六歳で歿した。海保漁村の妾 が歿した。三十一年には保が八月三十日に羽嶽の義道館の講師になり、十二月十七日にその評議員になった。脩の長女花が十二月に生れた。島田篁村 が八月二十七日に六十一歳で歿した。抽斎歿後の第三十五年乃至 第四十年である。
その百十一
わたくしは此 に前記を続 いで抽斎歿後第四十一年以下の事を挙げる。明治三十三年には五月二日に保の三女乙女 さんが生れた。三十四年には脩が吟月 と号した。俳諧 の師二世桂 の本 琴糸女 の授くる所の号である。山内水木 が一月二十六日に歿した。年四十九であった。福沢諭吉が二月三日に六十八歳で歿した。博文館主大橋佐平 が十一月三日に六十七歳で歿した。三十五年には脩が十月に秀英舎を退いて京橋宗十郎町 の国文社に入 り、校正係になった。修の四男末男 さんが十二月五日に生れた。三十六年には脩が九月に静岡に往って、安西 一丁目南裏 に渋江塾を再興した。県立静岡中学校長川田正澂 の勧 に従って、中学生のために温習の便宜を謀 ったのである。脩の長女花が三月十五日に六歳で歿した。三十七年には保が五月十五日に神田三崎町 一番地に移った。三十八年には保が七月十三日に荏原郡 品川町 南品川百五十九番地に移った。脩が十二月に静岡の渋江塾を閉じた。川田が宮城県第一中学校長に転じて、静岡中学校の規則が変更せられ、渋江塾は存立 の必要なきに至ったのである。伊沢柏軒の嗣子磐 が十一月二十四日に歿した。鉄三郎が徳安 と改め、維新後にまた磐と改めたのである。磐の嗣子信治 さんは今赤坂 氷川町 の姉壻清水夏雲 さんの許 にいる。三十九年には脩が入京して小石川 久堅町 博文館印刷所の校正係になった。根本羽嶽が十月三日に八十五歳で歿した。四十年には保の四女紅葉 が十月二十二日に生れて、二十八日に夭した。これが抽斎歿後の第四十八年に至るまでの事略である。
抽斎歿後の第四十九年は明治四十一年である。四月十二日午後十時に脩が歿した。脩はこの月四日降雪の日に感冒した。しかし五日までは博文館印刷所の業を廃せなかった。六日に至って咳嗽 甚しく、発熱して就蓐 し、終 に加答児 性肺炎のために命を隕 した。嗣子終吉さんは今の下渋谷 の家に移った。
わたくしは脩の句稿を左に鈔出 する。類句を避けて精選するが如きは、その道に専 ならざるわたくしの能 くする所ではない。読者の指□ を得ば幸 であろう。
山畑 や霞 の上の鍬 づかひ
塵塚 に菜の花咲ける弥生 哉
海苔 の香 や麦藁 染むる縁の先
切凧 のつひに流るゝ小川 かな
陽炎 と共にちらつく小鮎 哉
いつ見ても初物らしき白魚 哉
牡丹 切 て心さびしき夕 かな
大西瓜 真つ二つにぞ切 れける
山寺は星より高き燈籠 かな
稲妻の跡に手ぬるき星の飛ぶ
秋は皆物の淡きに唐芥子
手も出さで机に向ふ寒さ哉
物売 の皆頭巾 着て出る夜 哉
凩 や土器 乾く石燈籠
雪の日や鶏 の出て来る炭俵
明治四十四年には保の三男純吉が十七歳で八月十一日に死んだ。大正二年には保が七月十二日に麻布 西町 十五番地に、八月二十八日に同区本村町 八番地に移った。三年には九月九日に今の牛込船河原町 の家に移った。四年には保の次女冬が十月十三日に二十三歳で歿した。これが抽斎歿後の第五十二年から第五十六年に至る事略である。
その百十二
抽斎の後裔 にして今に存じているものは、上記の如く、先ず指を牛込の渋江氏に屈せなくてはならない。主人の保さんは抽斎の第七子で、継嗣となったものである。経 を漁村、竹逕 の海保氏父子、島田篁村 、兼松石居 、根本羽嶽に、漢医方を多紀雲従 に受け、師範学校において、教育家として養成せられ、共立学舎、慶応義塾において英語を研究し、浜松、静岡にあっては、あるいは校長となり、あるいは教頭となり、旁 新聞記者として、政治を論じた。しかし最も大いに精力を費 したものは、書肆 博文館のためにする著作翻訳で、その刊行する所の書が、通計約百五十部の多きに至っている。その書は随時世人 を啓発した功はあるにしても、概 皆時尚 を追う書估 の誅求 に応じて筆を走らせたものである。保さんの精力は徒費せられたといわざることを得ない。そして保さんは自らこれを知っている。畢竟 文士と書估との関係はミュチュアリスムであるべきのに、実はパラジチスムになっている。保さんは生物学上の亭主役をしたのである。
保さんの作らんと欲する書は、今なお計画として保さんの意中にある。曰 く本私刑史、曰く支那刑法史、曰く経子 一家言、曰く周易一家言、曰く読書五十年、この五部の書が即ちこれである。就中 読書五十年の如きは、啻 に計画として存在するのみではない、その藁本 が既に堆 を成している。これは一種のビブリオグラフィイで、保さんの博渉の一面を窺 うに足るものである。著者の志す所は厳君 の『経籍訪古志』を廓大 して、古 より今に及ぼし、東より西に及ぼすにあるといっても、あるいは不可なることがなかろう。保さんは果して能 くその志を成すであろうか。世間は果して能く保さんをしてその志を成さしむるであろうか。
保さんは今年 大正五年に六十歳、妻佐野氏お松さんは四十八歳、女 乙女さんは十七歳である。乙女さんは明治四十一年以降鏑木清方 に就 いて画 を学び、また大正三年以還 跡見 女学校の生徒になっている。
第二には本所の渋江氏がある。女主人 は抽斎の四女陸 で、長唄の師匠杵屋勝久 さんがこれである。既に記 したる如く、大正五年には七十歳になった。
陸が始 て長唄の手ほどきをしてもらった師匠は日本橋馬喰町 の二世杵屋勝三郎で、馬場 の鬼勝 と称せられた名人である。これは嘉永三年陸が僅 に四歳になった時だというから、まだ小柳町の大工の棟梁 新八の家へ里子に遣られていて、そこから稽古 に通ったことであろう。
母五百も声が好 かったが、陸はそれに似た美声だといって、勝三郎が褒 めた。節も好く記 えた。三味線 は「宵 は待ち」を弾 く時、早く既に自ら調子を合せることが出来、めりやす「黒髪」位に至ると、師匠に連れられて、所々 の大浚 に往った。
勝三郎は陸を教えるに、特別に骨を折った。月六斎 と日を期して、勝三郎が喜代蔵 、辰蔵 二人の弟子 を伴って、お玉が池の渋江の邸 に出向くと、その日には陸 も里親の許 から帰って待ち受けていた。陸の浚 が畢 ると、二番位演奏があって、その上で酒飯 が出た。料理は必ず青柳 から為出 した。嘉永四年に渋江氏が本所台所町に移ってからも、この出稽古は継続せられた。
その百十三
渋江氏が一旦 弘前に徙 って、その後 東京と改まった江戸に再び還 った時、陸 は本所緑町に砂糖店 を開いた。これは初め商売を始めようと思って土著 したのではなく、唯稲葉 という家の門の片隅に空地 があったので、そこへ小家 を建てて住んだのであった。さてこの家に住んでから、稲葉氏と親しく交わることになり、その勧奨に由 って砂糖店をば開いたのである。また砂糖店を閉じた後 に、長唄の師匠として自立するに至ったのも、同じ稲葉氏が援助したのである。
本所には三百石取 以上の旗本で、稲葉氏を称したものが四軒ばかりあったから、親しくその子孫について質 さなくては、どの家かわからぬが、陸を庇護 した稲葉氏には、当時四十何歳の未亡人の下 に、一旦人に嫁して帰った家附 の女 で四十歳位のが一人、松さん、駒 さんの兄弟があった。この松さんは今千秋 と号して書家になっているそうである。
陸が小家に移った当座、稲葉氏の母と娘とは、湯屋に往くにも陸をさそって往き、母が背中を洗って遣 れば、娘が手を洗って遣るというようにした。髪をも二人で毎日種々の髷 に結 って遣った。
さて稲葉の未亡人のいうには、若いものが坐食していては悪い、心安い砂糖問屋 があるから、砂糖店を出したが好かろう、医者の家に生れて、陸は秤目 を知っているから丁度好いということであった。砂糖店は開かれた。そして繁昌 した。品 も好く、秤 も好いと評判せられて、客は遠方から来た。汁粉屋が買いに来る。煮締屋 が買いに来る。小松川 あたりからわざわざ来るものさえあった。
或日貴婦人が女中大勢を連れて店に来た。そして氷砂糖、金米糠 などを買って、陸に言った。「士族の女 で健気 にも商売を始めたものがあるという噂 を聞いて、わたしはわざわざ買いに来ました。どうぞ中途で罷 めないで、辛棒 をし徹 して、人の手本になって下さい」といった。後に聞けば、藤堂家の夫人だそうであった。藤堂家の下屋敷は両国橋詰にあって、当時の主人は高猷 、夫人は一族高□ の女 であったはずである。
或日また五百 と保とが寄席 に往った。心打 は円朝 であったが、話の本題に入 る前に、こういう事を言った。「この頃緑町では、御大家 のお嬢様がお砂糖屋をお始 になって、殊 の外 御繁昌だと申すことでございます。時節柄結構なお思い立 で、誰 もそうありたい事と存じます」といった。話の中 にいわゆる心学 を説いた円朝の面目 が窺 われる。五百は聴 いて感慨に堪えなかったそうである。
この砂糖店は幸か不幸か、繁昌の最中 に閉じられて、陸は世間の同情に酬 いることを得なかった。家族関係の上に除きがたい障礙 が生じたためである。
商業を廃して間暇 を得た陸の許 へ、稲葉の未亡人は遊びに来て、談は偶 長唄の事に及んだ。長唄は未亡人がかつて稽古したことがある。陸には飯よりも好 な道である。一しょに浚 って見ようではないかということになった。いまだ一段を終らぬに、世話好の未亡人は驚歎しつつこういった。「あなたは素人 じゃないではありませんか。是非師匠におなりなさい。わたしが一番に弟子入をします。」
その百十四
稲葉の未亡人の詞 を聞いて、陸の意はやや動いた。芸人になるということを憚 ってはいるが、どうにかして生計を営むものとすると、自分の好む芸を以てしたいのであった。陸は母五百の許 に往って相談した。五百は思 の外 容易 く許した。
陸は師匠杵屋勝三郎の勝の字を請い受けて勝久と称し、公 に稟 して鑑札を下付せられた。その時本所亀沢町左官庄兵衛の店 に、似合わしい一戸が明いていたので、勝久はそれを借りて看板を懸けた。二十七歳になった明治六年の事である。
この亀沢町の家の隣には、吉野 という象牙 職の老夫婦が住んでいた。主人 は町内の若 い衆頭 で、世馴 れた、侠気 のある人であったから、女房と共に勝久の身の上を引き受けて世話をした。「まだ町住いの事は御存じないのだから、失礼ながらわたしたち夫婦でお指図 をいたして上げます」といったのである。夫婦は朝表口の揚戸 を上げてくれる。晩にまた卸してくれる。何から何まで面倒を見てくれたのである。
吉野の家には二人の女 があって、姉をふくといい、妹をかねといった。老夫婦は即時にこの姉妹を入門させた。おかねさんは今日本橋大坂町 十三番地に住む水野某の妻で、子供をも勝久の弟子にしている。
吉野は勝久の事を町住いに馴れぬといった。勝久はかつて砂糖店を出していたことはあっても、今いわゆる愛敬 商売の師匠となって見ると、自分の物馴れぬことの甚しさに気附かずにはいられなかった。これまで自分を「お陸さん」と呼んだ人が、忽 ち「お師匠さん」と呼ぶ。それを聞くごとにぎくりとして、理性は呼ぶ人の詞 の妥当なるを認めながら、感情はその人を意地悪のように思う。砂糖屋でいた頃も、八百屋 、肴屋 にお前と呼ぶことを遠慮したが、当時はまだその辞 を紆曲 にして直 に相手を斥 して呼ぶことを避けていた。今はあらゆる職業の人に交わって、誰をも檀那 といい、お上 さんといわなくてはならない。それがどうも口に出憎 いのであった。或時吉野の主人が「好く気を附けて、人に高ぶるなんぞといわれないようになさいよ」と忠告すると、勝久は急所を刺されたように感じたそうである。
しかし勝久の業は予期したよりも繁昌した。いまだ幾ばくもあらぬに、弟子の数 は八十人を踰 えた。それに上流の家々に招かれることが漸 く多く、後には殆 ど毎日のように、昼の稽古を終ってから、諸方の邸へ車を馳 せることになった。
最も数 往ったのはほど近い藤堂家である。この邸では家族の人々の誕生日、その外種々の祝日 に、必ず勝久を呼ぶことになっている。
藤堂家に次いでは、細川、津軽、稲葉、前田、伊達、牧野、小笠原、黒田、本多の諸家で、勝久は贔屓 になっている。
その百十五
細川家に勝久の招かれたのは、相弟子 勝秀 が紹介したのである。勝秀はかつて肥後国熊本までもこの家の人々に伴われて往ったことがあるそうである。勝久の初 て招かれたのは今戸 の別邸で、当日は立三味線 が勝秀、外に脇二人 、立唄 が勝久、外に脇唄二人、その他鳴物 連中で、悉 く女芸人であった。番組は「勧進帳 」、「吉原雀 」、「英執着獅子 」で、末 に好 として「石橋 」を演じた。
細川家の当主は慶順 であっただろう。勝久が部屋へ下 っていると、そこへ津軽侯が来て、「渋江の女 の陸 がいるということだから逢いに来たよ」といった。連 の女らは皆驚いた。津軽承昭 は主人慶順の弟であるから、その日の客になって、来ていたのであろう。
長唄が畢 ってから、主客打交っての能があって、女芸人らは陪観を許された。津軽侯は「船弁慶 」を舞った。勝久を細川家に介致 した勝秀は、今は亡人 である。
津軽家へは細川別邸で主公に謁見したのが縁となって、渋江陸としてしばしば召されることになった。いつも独 往って弾きもし歌いもすることになっている。老女歌野 、お部屋おたつの人々が馴染 になって、陸を引き廻してくれるのである。
稲葉家へは師匠勝三郎が存命中に初て連れて往った。その邸は青山だというから、豊後国 臼杵 の稲葉家で、当時の主公久通 に麻布土器町 の下屋敷へ招かれたのであろう。連中は男女交りであった。立三味線は勝三郎、脇勝秀、立唄 は坂田仙八 、脇勝久で、皆稲葉家の名指 であった。仙人は亡人 で、今の勝五郎、前名勝四郎の父である。番組は「鶴亀 」、「初時雨 」、「喜撰 」で、末に好 として勝三郎と仙八とが「狸囃 」を演じた。
演奏が畢 ってから、勝三郎らは花園を観 ることを許された。園 は太 だ広く、珍奇な花卉 が多かった。園を過ぎて菜圃 に入 ると、その傍 に竹藪 があって、筍 が叢 り生じていた。主公が芸人らに、「お前たちが自分で抜いただけは、何本でも持って帰って好 いから勝手に抜け」といった。男女の芸人が争って抜いた。中には筍が抽 けると共に、尻餅 を擣 くものもあった。主公はこれを見て興に入 った。筍の周囲の土は、予 め掘り起して、鬆 めた後 にまた掻 き寄せてあったそうである。それでも芸人らは容易 く抜くことを得なかった。家苞 には筍を多く賜わった。抜かぬ人もその数には洩 れなかった。
前田家、伊達家、牧野家、小笠原家、黒田家、本多家へも次第に呼ばれることになった。初て往った頃は、前田家が宰相慶寧 、伊達家が亀三郎、牧野家が金丸 、小笠原家が豊千代丸 、黒田家が少将慶賛 、本多家が主膳正 康穣 の時であっただろう。しかしわたくしは維新後における華冑 家世 の事に精 しくないから、もし誤謬 があったら正してもらいたい。
勝久は看板を懸けてから四年目、明治十年四月三日に、両国中村楼で名弘 めの大浚 を催した。浚場 の間口 の天幕は深川の五本松門弟中 、後幕 は魚河岸問屋 今和 と緑町門弟中、水引 は牧野家であった。その外家元門弟中より紅白縮緬 の天幕、杵勝名取 男女中より縹色絹 の後幕、勝久門下名取女中 より中形 縮緬の大額 、親密連 女名取より茶緞子 丸帯の掛地 、木場贔屓 中より白縮緬の水引が贈られた。役者はおもいおもいの意匠を凝 したびらを寄せた。縁故のある華族の諸家 は皆金品を遺 って、中には老女を遣 したものもあった。勝久が三十一歳の時の事である。
その百十六
勝久が本所松井町福島某の地所に、今の居宅を構えた時に、師匠勝三郎は喜んで、歌を詠じて自ら書し、表装して貽 った。勝久はこの歌に本づいて歌曲「松 の栄 」を作り、両国井生村楼 で新曲開きをした。勝三郎を始として、杵屋一派の名流が集まった。曲は奉書摺 の本に為立 てて客 に頒 たれた。緒余 に『四つの海』を著した抽斎が好尚の一面は、図らずもその女 陸 に藉 って此 の如き発展を遂げたのである。これは明治二十七年十二月で、勝久が四十八歳の時であった。
勝三郎は尋 で明治二十九年二月五日に歿した。年は七十七であった。法諡 を花菱院照誉東成信士 という。東成はその諱 である。墓は浅草蔵前 西福寺 内真行院 にある。原 ぬるに長唄杵屋の一派は俳優中村勘五郎から出て、その宗家は世 喜三郎また六左衛門と称し現に日本橋坂本町 十八番地にあって名跡 を伝えている。いわゆる植木店 の家元 である。三世喜三郎の三男杵屋六三郎が分派をなし、その門に初代佐吉があり、初代佐吉の門に和吉 があり、和吉の後 を初代勝五郎が襲 ぎ、初代勝五郎の後を初代勝三郎が襲いだ。この勝三郎は終生名を更 めずにいて、勝五郎の称は門人をして襲がしめた。次が二世勝三郎東成で、小字 を小三郎 といった。即ち勝久の師匠である。
二世勝三郎には子女各 一人 があって、姉をふさといい、弟を金次郎 といった。金次郎は「己 は芸人なんぞにはならない」といって、学校にばかり通っていた。二世勝三郎は終 に臨んで子らに遺言 し、勝久を小母 と呼んで、後事 を相談するが好 いといったそうである。
二世勝三郎の馬喰町の家は、長女ふさに壻を迎えて継がせることになった。壻は新宿 の岩松 というもので、養父の小字 小三郎を襲ぎ、中村楼で名弘 の会を催した。いまだ幾 くならぬに、小三郎は養父の小字を名告 ることを屑 しとせず、三世勝三郎たらんことを欲した。しかし先代勝三郎の門人は杵勝同窓会を組織していて、技芸の小三郎より優れているものが多い。それゆえ襲名の事は輒 く認容せられなかった。小三郎は遂に葛藤 を生じて離縁せられた。
是 において二世勝三郎の長男金次郎は、父の遺業を継がなくてはならぬことになった。金次郎は親戚 と父の門人らとに強要せられて退学し、好まぬ三味線を手に取って、杵勝分派諸老輩の鞭策 の下に、いやいやながら腕を磨 いた。
金次郎は遂に三世勝三郎となった。初めこの勝三郎は学校教育が累 をなし、目に丁字 なき儕輩 の忌む所となって、杵勝同窓会幹事の一人 たる勝久の如きは、前途のために手に汗を握ること数 であったが、固 より些 の学問が技芸を妨げるはずはないので、次第に家元たる声価も定まり、羽翼も成った。
明治三十六年勝久が五十七歳になった時の事である。三世勝三郎が鎌倉に病臥 しているので、勝久は勝秀、勝きみと共に、二月二十五日に見舞いに往った。□居 は海光山 長谷寺 の座敷である。勝三郎は病がとかく佳候 を呈せなかったが、当時なお杖に扶 けられて寺門 を出 で、勝久らに近傍の故蹟を見せることが出来た。勝久は遊覧の記を作って、病牀 の慰草 にもといって遣 った。雑誌『道楽世界』に、杵屋勝久は学者だと書いたのは、この頃の事である。三月三日に勝三郎は病のいまだ□ えざるに東京に還った。
その百十七
三世勝三郎の病は東京に還ってからも癒えなかった。当時勝三郎は東京座頭取 であったので、高足弟子 たる浅草森田町 の勝四郎をして主としてその事に当らしめた。勝四郎は即ち今の勝五郎である。然るに勝三郎は東京座における勝四郎の勤 ぶりに慊 なかった。そして病のために気短 になっている勝三郎と勝四郎との間に、次第に繕いがたい釁隙 を生じた。
五月に至って勝三郎は房州へ転地することを思い立ったが、出発に臨んで自分の去った後 における杵勝分派の前途を気遣った。そして分派の永続を保証すべき男女名取の盟約書を作らせようとした。勝久の世話をしている女名取の間には、これを作るに何の故障もなかった。しかし勝四郎を領袖 としている男名取らは、先ず師匠の怒 が解けて、師匠と勝四郎との交 が昔の如き和熟を見るに至るまでは、盟約書に調印することは出来ぬといった。この時勝久は病める師匠の心を安 んずるには、男女名取総員の盟約を完成するに若 くはないと思って、師家と男名取らとの間に往来して調停に努力した。
しかし勝三郎は遂に釈然たるに至らなかった。六月十六日に勝久が馬喰町の家元を訪 うて、重ねて勝四郎のために請う所があったとき、勝三郎は涙を流して怒 り、「小母 さんはどこまでこの病人に忤 う気ですか」といった。勝久は此 に至って復 奈何 ともすることが出来なかった。
六月二十五日の朝、勝三郎は霊岸島 から舟に乗って房州へ立った。妻みつが同行した。即ち杵勝分派のものが女師匠と呼んでいる人である。見送の人々は勝三郎の姉ふさ、いそ、てる、勝久、勝ふみ、藤二郎 、それに師匠の家にいる兼 さんという男、上総屋 の親方、以上八人であった。勝三郎の姉ふさは後に、日本橋浜町一丁目に二世勝三郎の建てた隠居所に住んで、独身で暮しているので、杵勝分派に浜町の師匠と呼ばれている人である。
この桟橋の別 には何となく落寞 の感があった。病み衰えた勝三郎は終 に男名取総員の和熟を見るに及ばずして東京を去った。そしてそれが再び帰らぬ旅路であった。
勝久は家元を送って四日の後に病に臥 した。七月八日には女師匠が房州から帰って、勝久の病を問うた。十二日に勝久は馬喰町と浜町とへ留守見舞の使を遣 って、勝三郎の房州から鎌倉へ遷 ったことを聞いた。
九月十一日は小雨 の降る日であった。鎌倉から勝三郎の病が革 だと報じて来た。勝久は腰部の拘攣 のために、寝がえりだに出来ず、便所に往くにも、人に抱かれて往っていた。そこへこの報が来たので、勝久はしばらく戦慄 して已 まなかった。しかし勝久は自ら励まして常に親しくしている勝ふみを呼びに遣った。介抱かたがた同行することを求めたのであった。二人は新橋から汽車に乗って、鎌倉へ往った。勝三郎はこの夕 に世を去った。年は三十八であった。法諡 を蓮生院薫誉智才信士 という。
その百十八
九月十二日に勝久は三世勝二郎の柩 を荼□所 まで見送って、そこから車を停車場へ駆り、夜東京に還った。勝三郎が歿した後 に、杵勝分派の団結を維持して行くには、一刻も早く除かなくてはならぬ障礙 がある。それは勝三郎の生前 に、勝久らが百方調停したにもかかわらず、宥 されずにしまった高足弟子 勝四郎の勘気である。勝久は鎌倉にある間も、東京へ帰る途上でも、須臾 もこれを忘れることが出来なかった。
十三日の昧爽 に、勝久は森田町の勝四郎が家へ手紙を遣った。「定めし御聞込 の事とは存じ候 へども、杵屋御 家元様は御 死去被遊候 。夫 に付 私共は今日 午後四時御 同所に相寄候事 に御坐候。此 際御 前様御心底は奈何 に候哉 。私存じ候には、同刻御自身の思召 にて馬喰町へ御出被成候方宜敷 候様存じ候。田原町 へ一寸 御立寄被成候 て御出被成度 存じ候。さ候はゞ及ばずながら奈何様 にも御 都合宜敷様可致候 。先 は右申入 候。」田原町とは勝四郎に亜 ぐ二番弟子勝治郎の家をいったのである。勝治郎は昨今病のために引き籠 って、杵勝同窓会をも脱 けている。
勝四郎の返事には、好意はありがたいが、何分これまでの行懸 上単身では出向かれぬといって来た。そこで十造、勝助の二人 が森田町へ迎えに往 くことになった。
馬喰町の家では、この日通夜 のために、亡人 の親戚を始 として、男女の名取が皆集まっていた。勝久は浜町の師匠と女師匠とに請うに、亡人に代って勝四郎を免 すことを以てした。浜町の師匠は亡人の姉ふさ、女師匠は三十六歳で未亡人となった亡人の妻みつである。二人の女は許諾した。そこへ勝四郎は出向いて来て、勝三郎の木位 を拝し、綫香 を手向 けた。勝四郎は木位の前を退いて男女の名取に挨拶 した。葛藤は此 に全く解けた。これが明治三十六年勝久が五十七歳の時の事で、勝久は始終病を力 めてこの調停の衝に当ったのである。勝久が病の本復したのはこの年の十二月である。
杵勝同窓会はこれより後□乖 の根を絶って、男名取中からは名を勝五郎と更 めた勝四郎が推されて幹事となり、女名取中からは勝久が推されて同じく幹事となっている。勝四郎の名は今飯田町住の五番弟子が襲 いでいる。一番弟子勝四郎改 勝五郎、二番勝治郎、三番勝松 改勝右衛門、四番勝吉 改勝太郎、五番勝四郎、六番勝之助改和吉である。
二世勝三郎の花菱院 が三年忌には、男女名取が梵鐘 一箇を西福寺に寄附した。七年忌には金百円、幕一帳 男女名取中、葡萄鼠縮緬幕 女名取中、大額並 黒絽夢想袷羽織 勝久門弟中、十三年忌が三世の七年忌を繰り上げて併 せ修せられたときには、木魚 一対 墓前花立 並綫香立男女名取中、十七年忌には蓮華形皿 十三枚男女名取中の寄附があった。また三世勝三郎の蓮生院 が三年忌には経箱 六個経本入 男女名取中、十三年忌には袈裟 一領家元、天蓋 一箇男女名取中の寄附があった。これらの文字は、人があるいはわたくしの何故 にこれを条記して煩を厭 わざるかを怪 むであろう。しかしわたくしは勝久の手記を閲 して、いわゆる芸人の師に事 うることの厚きに驚いた。そしてこの善行を埋没するに忍びなかった。もしわたくしが虚礼に瞞過 せられたという人があったら、わたくしは敢 て問いたい。そういう人は果して一切の善行の動機を看破することを得るだろうかと。
その百十九
勝久の人に長唄を教うること、今に□ るまで四十四年である。この間に勝久は名取の弟子僅 に七人を得ている。明治三十二年には倉田 ふでが杵屋勝久羅 となった。三十四年には遠藤さとが杵屋勝久美 となった。四十三年には福原さくが杵屋勝久女 となり、山口はるが杵屋勝久利 となった。大正二年には加藤たつが杵屋勝久満 となった。三年には細井のりが杵屋勝久代 となった。五年には伊藤あいが杵屋勝久纓 となった。この外に大正四年に名取になった山田政次郎 の杵屋勝丸 もある。しかしこれは男の事ゆえ、勝久の弟子ではあるが、名は家元から取らせた。今の教育は都 て官公私立の学校において行うことになっていて、勢 集団教育の法に従わざることを得ない。そしてその弊を拯 うには、ただ個人教育の法を参取する一途があるのみである。是 において世には往々昔の儒者の家塾を夢みるものがある。然るにいわゆる芸人に名取の制があって、今なお牢守 せられていることには想い及ぶものが鮮 い。尋常許取 の濫 は、芸人があるいは人の誚 を辞することを得ざる所であろう。しかし夫 の名取に至っては、その肯 て軽々 しく仮借せざる所であるらしい。もしそうでないものなら、四十四年の久しい間に、質 を勝久に委 ねた幾百人の中で、能 く名取の班に列するものが独り七、八人のみではなかったであろう。
勝久の陸 は啻 に長唄を稽古 したばかりではなく、幼 くして琴を山勢 氏に学び、踊を藤間 ふじに学んだ。陸の踊に使う衣裳 小道具は、渋江の家では十二分に取り揃 えてあったので、陸と共に踊る子が手廻 り兼ねる家の子であると、渋江氏の方でその相手の子の支度をもして遣って踊らせた。陸は善く踊ったが、その嗜好 が長唄に傾 いていたので、踊は中途で罷 められた。
陸は遠州流の活花 をも学んだ。碁 象棋 をも母五百 に学んだ。五百の碁は二段であった。五百はかつて薙刀 をさえ陸に教えたことがある。
陸の読書筆札の事は既に記したが、やや長ずるに及んでは、五百が近衛予楽院 の手本を授けて臨書せしめたそうである。
陸の裁縫は五百が教えた。陸が人と成ってから後 は、渋江の家では重ねものから不断著 まで殆 ど外へ出して裁縫させたことがない。五百は常に、「為立 は陸に限る、為立屋の為事 は悪い」といっていた。張物 も五百が尺 を手にして指図し、布目 の毫 も歪 まぬように陸に張らせた。「善く張った切 は新しい反物 を裁ったようでなくてはならない」とは、五百の恒 の詞 であった。
髪を剃 り髪を結 うことにも、陸は早く熟錬した。剃ることには、尼妙了 が「お陸様が剃 って下さるなら、頭が罅欠 だらけになっても好 い」といって、頭を委 せていたので馴 れた。結うことはお牧 婆 あやの髪を、前髪に張 のない、小さい祖母子 に結ったのが手始 で、後には母の髪、妹の髪、女中たちの髪までも結い、我髪は固 より自ら結った。唯余所行 の我髪だけ母の手を煩わした。弘前に徙 った時、浅越 玄隆、前田善二郎の妻、松本甲子蔵 の妹などは菓子折を持って来て、陸に髪を結ってもらった。陸は礼物 を却 けて結って遣り、流行 の飾をさえ贈った。
陸は生得 おとなしい子で、泣かず怒 らず、饒舌 することもなかった。しかし言動が快活なので、剽軽者 として家人にも他人にも喜ばれたそうである。その人と成った後に、志操が堅固で、義務心に富んでいることは、長唄の師匠としての経歴に徴して知ることが出来る。
牛込 の保さんの家と、その保さんを、父抽斎の継嗣たる故を以て、始終「兄 いさん」と呼んでいる本所の勝久さんの家との外に、現に東京には第三の渋江氏がある。即ち下渋谷の渋江氏である。
下渋谷の家は脩の子終吉さんを当主としている。終吉は図案家で、大正三年に津田青楓 さんの門人になった。大正五年に二十八歳である。終吉には二人 の弟がある。前年に明治薬学校の業を終えた忠三さんが二十一歳、末男さんが十五歳である。この三人の生母福島氏おさださんは静岡にいる。牛込のお松さんと同齢で、四十八歳である。
抽斎は
抽斎は金を何に費やしたか。恐らくは書を
抽斎の家には
抽斎は詩に貧を説いている。その貧がどんな程度のものであったかということは、ほぼ以上の事実から推測することが出来る。この詩を
その二
抽斎はこの詩を作ってから三年の
抽斎の述志の詩は、今わたくしが
抽斎は現に広く世間に知られている人物ではない。
抽斎の
世間に多少抽斎を知っている人のあるのは、この支那人の手で刊行せられた『経籍訪古志』があるからである。しかしわたくしはこれに依って抽斎を知ったのではない。
わたくしは
その三
わたくしの抽斎を知ったのは奇縁である。わたくしは医者になって大学を出た。そして官吏になった。
「武鑑」は、わたくしの見る所によれば、徳川史を
この蒐集の間に、わたくしは「弘前医官渋江
そのうち「武鑑」というものは、いつから始まって、最も古いもので現存しているのはいつの本かという問題が生じた。それを決するには、どれだけの種類の書を「武鑑」の
それにはわたくしは『
わたくしは現に蒐集中であるから、わたくしの「武鑑」に対する知識は
そんなら今に
その四
わたくしはこの正保二年に出来て、四年に
これはわたくしが数年間「武鑑」を捜索して得た断案である。
然るにこの目録には著者の名が署してない。ただ文中に
わたくしはこれを見て、ふと渋江氏と抽斎とが同人ではないかと思った。そしてどうにかしてそれを
わたくしは友人、
或る日
そのうち弘前に勤めている同僚の書状が
わたくしは直接に渋江氏と交ったらしいという飯田巽さんを、先ず訪ねようと思って、
その五
わたくしは飯田さんの口から始めて道純という名を聞いた。これは『経籍訪古志』の序に署してある名である。しかし道純が抽斎と号したかどうだか飯田さんは知らなかった。
『経籍訪古志』の著者渋江道純の子が現存しているということを、わたくしはこの時始めて知った。しかし杵屋といえば長唄のお師匠さんであろう。それを本所に訪ねて、「お
わたくしは杵屋さんに男の親戚がありはせぬか、問い合わせてもらうことを飯田さんに頼んだ。飯田さんはそれをも快く諾した。わたくしは探索の一歩を進めたのを喜んで、西江戸川町の邸を辞した。
二、三日立って飯田さんの手紙が来た。杵屋さんには渋江
わたくしは
わたくしは
外崎さんは官吏で、籍が
諸陵寮の小さい
初対面の
その六
わたくしは釈然とした。
抽斎渋江道純は
わたくしはまたこういう事を思った。抽斎は医者であった。そして官吏であった。そして
抽斎はかつてわたくしと同じ道を歩いた人である。しかしその健脚はわたくしの
わたくしはこう思う心の喜ばしさを外崎さんに告げた。そしてこれまで抽斎の
外崎さんも事の奇なるに驚いていった。「抽斎の子なら、わたくしは織っています。」
「そうですか。長唄のお師匠さんだそうですね。」
「いいえ。それは知りません。わたくしの知っているのは抽斎の跡を継いだ子で、
「はあ。それでは渋江保という人が、抽斎の
「さあ。
その七
わたくしは
わたくしはなお外崎さんについて、抽斎の事蹟を
外崎さんの書状は間もなく来た。それに『
これと
その八
わたくしは谷中の感応寺に往って、抽斎の墓を訪ねた。墓は
墓誌に三子ありとして、恒善、優善、成善の名が挙げてあり、また「一女
抽斎の碑の西に渋江氏の墓が四基ある。その一には「性如院宗是日体信士、
後に聞けば墓は今一基あって、それには抽斎の六
わたくしは自己の敬愛している抽斎と、その尊卑二属とに、
三家からはそれぞれ返信があって、中にも保さんの書状には、抽斎を知るために
その九
気候は寒くても、まだ炉を
今残っている勝久さんと保さんとの
終吉さんの父脩は安改元年に本所で生れた。
抽斎は安政五年に五十四歳で亡くなったから、保さんはその時まだ二歳であった。
抽斎は保さんを学医にしようと思っていたと見える。亡くなる前にした
わたくしは保さんに、抽斎の事を探り始めた因縁を話した。そして意外にも、
わたくしは保さんに、父の事に関する記憶を、
保さんと会見してから間もなく、わたくしは
その十
渋江氏の祖先は
渋江氏の仕えた大田原家というのは、恐らくは下野国
辰盛は通称を
辰盛は兄重光の二男
輔之には
寛保二年に十五歳で、この登勢に
この時
その十一
寛政三年六月二十二日に信明は僅に三十歳で卒し、八月二十八日に
当時津軽家に
しかし允成は謹厳な人で、
縫は享和二年に始めて
允成は
允成は文政五年八月
允成は天保八年[#「八年」は底本では「八月」]十月二十六日に、七十四歳で歿した。寧親は四年前の天保四年六月十四日に、六十九歳で卒した。允成の妻
その十二
抽斎は文化二年十一月八日に、神田弁慶橋に生れたと
抽斎は
さてその抽斎が生れて来た
抽斎の経学の師には、先ず
その十三
他年抽斎の師たり、年長の友たるべき人々の
市野迷庵、名を
迷庵は考証学者である。即ち経籍の
狩谷□斎、名は
迷庵と□斎とは、
六右衛門の称は
その十四
後に抽斎に医学を授ける人は伊沢蘭軒である。名は
阿部家は
次は抽斎の
然るに寛保二年に正明が病んでまさに歿せんとする時、その子
独美は寛政四年に京都に出て、
抽斎の生れた文化二年には、独美がまだ生存して、駿河台に住んでいたはずである。年は七十二歳であった。独美は文化十三年九月六日に八十三歳で歿した。
独美、字は
その十五
池田独美には前後三人の妻があった。安永八年に歿した
独美が厳島から大阪に
独美の家は門人の一人が養子になって
初め独美は
独美の初代瑞仙は
しかしここに問題の人物がある。それは抽斎の痘科の師となるべき池田
京水は独美の子であったか、
種痘の術が普及して以来、世の人は疱瘡を恐るることを忘れている。しかし昔は人のこの病を恐るること、
池田氏の曼公に受けた治痘法はどんなものであったか。従来痘は胎毒だとか、
その十六
わたくしは抽斎の師となるべき人物を数えて
わたくしは今これを筆に
最初にわたくしに京水の墓の事を語ったのは
わたくしは幼い時
わたくしは常泉寺に往った。今は新小梅町の内になっている。
そこで寺僧に請うて過去帖を見たが、帖は近頃作ったもので、いろは順に
わたくしは
そのうちわたくしは『事実文編』四十五に
わたくしは再び向島へ往った。そして新小梅町、小梅町、須崎町の間を
墨汁師はいった。嶺松寺は常泉寺の近傍にあった。その
「廃寺になるときは、墓はどうなるものですか」と、わたくしは問うた。
「墓は檀家がそれぞれ引き取って、外の寺へ持って行きます。」
「檀家がなかったらどうなりますか。」
「無縁の墓は共同墓地へ
「すると池田家の墓は共同墓地へ遣られたかも知れませんな。池田家の
その十七
わたくしは墨汁師にいった。池田瑞仙の一族は当年の名医である。その墓の
墨汁師も首肯していった。戴氏
わたくしの再度の向島探討は大正四年の暮であったので、そのうちに五年の
これでは捜索の前途には、殆ど
墓にまいる人に
「それでも新聞に、
「ええ、それは行倒れを埋める所も一カ所ございます。ですけれど行倒れに石塔を建てて
「でもわたくしは
「およしなさいまし。石塔のないことはわたくしがお
わたくしもげにもと思ったので、墓地には足を
女の
町役場を出た時、もう冬の日が暮れ掛かっていた。そこでわたくしは思い直した。廃寺になった嶺松寺から染井共同墓地へ墓石の来なかったことは明白である。それを区役所に問うのは余りに
その十八
わたくしは人に問うて、墓地を管轄するのが東京府庁で、墓所の移転を監視するのが警視庁だということを知った。そこで友人に託して、府庁では嶺松寺の廃絶に関してどれだけの事が知り得られるか、また警視庁は墓所の移転をどの位の程度に監視することになっているかということを問うてもらった。
府庁には明治十八年に作られた墓地の台帳ともいうべきものがある。しかし一応それを検した所では、嶺松寺という寺は載せてないらしかった。その廃絶に関しては、何事をも知ることが出来ぬのである。警視庁は廃寺等のために
そうして見れば、嶺松寺の廃せられた時、境内の無縁の墓が染井共同墓地に
とかくするうちに、わたくしが池田
この事件に関してわたくしの往訪した人、書を寄せて教を
諸家の
これに反してわたくしが多少積極的に得る所のあったのは、富士川游さんと墨汁師とのお
その十九
この書には池田氏の一族百八人の男女を列記してあるが、その墓所はあるいは注してあり、あるいは注してない。
この書の
然るに富士川さんの抄した墓誌には、京水は独美の子で廃せられたと書してあったらしい。しかもその廃せられた
両説は必ずしも矛盾してはいない。独美は弟玄俊の子京水を養って子とした。京水が
しかし京水が
かつわたくしは京水の墓誌が
わたくしは
行状に拠るに、初代瑞仙独美は享保二十年
その二十
わたくしはいまだ過去帖を獲ざる前にこれを読んで、善直は京水の
そしてわたくしは撰者不詳の墓誌の残欠に、京水が
わたくしは抽斎の誕生を語るに当って、
過去帖に拠れば京水の父玄俊は名を某、
これに由って
後に抽斎と
安積艮斎は抽斎との
小島成斎名は
その二十一
岡本况斎、名は
海保漁村、名は
即ち学者の先輩は艮斎が十六、成斎が
次に医者の年長者には先ず
この
年上の友となるべき医者は、抽斎の生れた時十一歳であった□庭と、二歳であった榛軒とであったといっても
次は芸術家
わたくしはここに
抽斎が
しかし詩の変体としてこれを
その二十二
真志屋五郎作は神田
五郎作は実家が
五郎作は
宝田寿来、通称は
五郎作は歿年から推算するに、明和六年の
五郎作は独り劇を
五郎作は奇行はあったが、
五郎作は文章を善くした。繊細の事を叙するに簡浄の筆を以てした。
その二十三
わたくしの
五郎作は
五郎作はまた
文政六年四月二十九日の事である。まだ
五郎作と相似て、抽斎より長ずること僅に六歳であった好劇家は、石塚重兵衛である。寛政十一年の
その二十四
石塚重兵衛の祖先は
重兵衛も自ら庭に降り立って、芥子の
重兵衛に
重兵衛は文久元年に京都へ
重兵衛の子孫はどうなったかわからない。数年前に
以上抽斎の友で年長者であったものを数えると、学者に抽斎の生れた年に十六歳であった
抽斎が
文化十一年十二月二十八日、抽斎は始て藩主津軽
抽斎が迷庵門人となってから八年目、文化十四年に記念すべき事があった。それは抽斎と
森枳園、名は
その二十五
抽斎の家督相続は文政五年八月
抽斎の相続したと同じ年同じ月の二十九日に、
津軽家の祖先が南部家の被官であったということは、
初め津軽家と南部家とは対等の家柄であった。然るに津軽家は
家督相続の翌年、文政六年十二月二十三日に、抽斎は十九歳で、
この年に森
抽斎の母
翌文政八年三月
次の文政九年は抽斎が種々の事に
須磨は前にいった
迷庵の死は抽斎をして狩谷□斎に師事せしむる動機をなしたらしいから、抽斎が□斎の門に
その二十六
文政十二年もまた抽斎のために事多き年であった。三月十七日には師伊沢蘭軒が五十三歳で歿した。二十八日には抽斎が
わたくしはここに抽斎の師伊沢氏の事、それから前後の配偶定と威能との事を附け加えたい。亡くなった母については別に言うべき事がない。
抽斎と伊沢氏との
抽斎の最初の妻定が離別せられたのは
定に代って渋江の家に来た抽斎の二人目の妻威能は、
比良野氏は武士
天保二年、抽斎が二十七歳の時、八月六日に長女
この時抽斎の家族は父允成、妻岡西氏徳、
天保四年四月六日に、抽斎は藩主信順に
抽斎の友森
その二十七
天保六年
□斎の
同じ年に森
天保七年三月二十一日に、抽斎は
京水には二人の
天保八年正月十五日に、抽斎の長子恒善が始て藩主
初め抽斎は酒を飲まなかった。然るにこの年藩主がいわゆる
しかし抽斎は生涯
抽斎のまだ江戸を発せぬ前の事である。
引き続いて二月に、森枳園の家に奇怪な事件が生じた。枳園は阿部家を
枳園は好劇家であった。単に好劇というだけなら、抽斎も同じ事である。しかし抽斎は俳優の
或日阿部家の女中が宿に
さてこの奇談が阿部邸の
その二十八
永の暇になるまでには、相応に評議もあったことであろう。友人の中には、枳園を救おうとした人もあったことであろう。しかし枳園は平生
枳園は江戸で
枳園は相模国をさして逃げた。これは当時三十一歳であった枳園には、もう
後に枳園の語った所によると、江戸を立つ時、懐中には僅に八百文の銭があったのだそうである。この銭は箱根の
老いたる祖母は浦賀で
枳園はようよう大磯に落ち着いた。門人が
抽斎は天保九年の春を弘前に迎えた。例の宿直日記に、正月十三日
この年五月十五日に、津軽家に
抽斎はこれから隠居信順
その二十九
天保十一年は十二月十四日に谷文晁の歿した年である。文晁は抽斎が師友を以て遇していた年長者で、抽斎は平素
天保十二年には、岡西氏
天保十四年六月十五日に、抽斎は近習に進められた。三十九歳の時である。
この年に
弘化元年は抽斎のために、一大転機を
この一年間の出来事を順次に数えると、先ず二月二十一日に妻徳が亡くなった。三月十二日に
抽斎の岡西氏徳を
最初の妻
その三十
克己を忘れたことのない抽斎は、徳を
さて抽斎が弘前にいる間、江戸の
允成は抽斎の徳に
抽斎は江戸の手紙を得るごとに泣いた。妻のために泣いたのではない。父のために泣いたのである。
二年近い旅から帰って、抽斎は
そして徳の亡くなった跡へ山内氏
五百の父山内忠兵衛は名を
忠兵衛に三人の子があった。長男栄次郎、長女
五百は文化十三年に生れた。兄栄次郎が五歳、姉安が二歳になっていた時である。忠兵衛は三人の子の次第に長ずるに至って、嫡子には士人たるに足る教育を施し、二人の
忠兵衛が
その三十一
五百は
暗い廊下を進んで行くと、果してちょろちょろと走り出たものがある。おやと思う間もなく、五百は
「許せ/\」と鬼は叫んで身をもがいた。五百はすこしも手を
鬼は降伏して被っていた
津山の城主松平越後守
斉民は
五百の本丸を
五百は藤堂家に奉公するまでには、二十幾家という大名の屋敷を
しかし二十余家を
五百が
この時老女がふと
その三十二
山内家の老女は五百に、どうして御当家の紋と同じ紋を、衣類に附けているかと問うた。
五百は自分の家が山内氏で、昔から
老女は
五百は家に帰って、父に当分紋を隠して奉公することの可否を相談した。しかし父忠兵衛は即座に反対した。姓名だの紋章だのは、
五百が山内家をことわって、次に
五百はすぐに
この時五百はまだ十五歳であったから、尋常ならば
五百は呼名は
藤堂家でも他家と同じように、中臈は
修行は金を使ってする
五百は藤堂家で信任せられた。勤仕いまだ一年に満たぬのに、天保二年の元日には中臈
その三十三
五百の藤堂家を辞した年は、父忠兵衛の歿した年である。しかし奉公を
五百の帰った紺屋町の家には、父忠兵衛の外、当時五十歳の忠兵衛
忠兵衛の子がまだ皆
忠兵衛は晩年に、気が弱くなっていた。牧は人の
栄次郎は初め抽斎に学んでいたが、
然るに五百が藤堂家を辞して帰った時、この問題が再燃していた。
栄次郎は妹の力に
この時に当って、まさに
その三十四
忠兵衛は十二月七日に歿した。日野屋の財産は
五百は男子と同じような教育を受けていた。藤堂家で武芸のために男之助と呼ばれた反面には、世間で文学のために
五百の師として
師匠の
文晁は前にいったとおり、天保十一年に七十八で歿した。五百が二十五の時である。一斎は安政六年九月二十四日に八十八で歿した。五百が四十四の時である。夏蔭は
五百は鼎斎を師とした外に、
五百は藤堂家を下ってから五年目に渋江氏に嫁した。
わたくしは
その三十五
文蔵は
助太郎は
五百が抽斎に
五百の来り嫁した時、抽斎の家族は主人夫婦、長男
弘化二年から嘉水元年までの間、抽斎が四十一歳から四十四歳までの間には、渋江氏の家庭に特筆すべき事が
五百の姉安を
その三十六
森
枳園の来て
枳園はまた当時
枳園が
枳園を帰参させようとして、最も尽力したのは伊沢
この期間の
その三十七
阿部家への帰参が
枳園が医書彫刻取扱
当時躋寿館で校刻に従事していたのは、『
任命は
この年八月二十九日に、
嘉永二年三月七日に、抽斎は召されて
わたくしの蔵している嘉永二年の「武鑑」には、目見医師の部に渋江道純の名が載せてあって、屋敷の所が彫刻せずにある。三年の「武鑑」にはそこに紺屋町一丁目と刻してある。これはお玉が池の家が
その三十八
抽斎の将軍
弘前藩では必ずしも士人を幕府に出すことを喜ばなかった。抽斎が目見をした時も、同僚にして来り賀するものは
目見は
目見をしたものは、先ず盛宴を開くのが例になっていた。そしてこれに招くべき
「わたくしがこう申すと、ひどく出過ぎた口をきくようではございますが、
抽斎は目を
五百はにっこり笑った。「はい。幾らわたくしが
その三十九
ほどなく光徳の店の
三百両は建築の
抽斎の目見をした年の
嘉永三年には、抽斎が三月十一日に幕府から十五人扶持を受くることとなった。藩禄等は
五百の仮親比良野文蔵の歿したのも、同じ年の四月二十四日である。次いで嗣子
当時江戸に集っていた列藩の留守居は、
衣類を黒
「わたくしは
「先ず何よりもおよろこびを言わんではなるまい。さて講釈の事だが、これはまた至極のお
その四十
抽斎は有合せの
講じ
抽斎はこの日に比良野の家から帰って、
留守居になってからの貞固は、
留守居には集会日というものがある。その日には城から会場へ
津軽家では留守居の年俸を三百石とし、別に一カ月の交際費十八両を給した。比良野は百石取ゆえ、これに二百石を補足せられたのである。
その四十一
貞固は
当時の留守居役所には、この
或日東堂が役所で公用の書状を発せようとして、藤田に稿を
「藤田。まずい文章だな。それにこの
「どうもまずいな。こんな物しか出来ないのかい。一体これでは御用が勤まらないといっても
藤田は
この時貞固が役所に来た。そして東堂に問うて事の
貞固は藤田の手に持っている案を取って読んだ。
「うん。
こういって置いて、貞固は
「どうだ。これで
東堂は
「いや、結構です。どうもお手を煩わして済みません。」
貞固は案を東堂の手から取って、藤田にわたしていった。
「さあ。これを清書しなさい。文案はこれからはこんな工合に
藤田は「はい」といって案を受けて退いたが、心中には貞固に対して再造の恩を感じたそうである。
わたくしは前に貞固が要職の
この事は
その四十二
東堂が質に入れたのは、銅仏
戴曼公は書法を
戴曼公はまた痘科を池田
この薬師如来は明治の
貞固と東堂とは、共に留守居の
貞固も東堂も、当時諸藩の留守居中有数の人物であったらしい。
嘉永四年には、二月四日に抽斎の三女で山内氏を冒していた
優善は渋江一族の例を破って、
本所で渋江氏のいた台所町は今の
その四十三
嘉永五年には四月二十九日に、抽斎の長子恒善が二十七歳で、二の丸火の番六十俵
伊沢氏ではこの年十一月十七日に、榛軒が四十九歳で歿した。榛軒は抽斎より一つの年上で、二人の
榛軒は本郷丸山の阿部家の中屋敷に住んでいた。父蘭軒の時からの居宅で、頗る広大な
榛軒は
榛軒が歿してから
この年に五百の姉壻長尾宗右衛門が商業の革新を
嘉永六年正月十九日に、抽斎の六女
この年二月二十六日に、堀川
安政元年はやや事多き年であった。二月十四日に五男
保さんの所蔵の「抽斎手記」に、『医心方』の出現という語がある。昔から
その四十四
日本の古医書は『
それゆえ天元五年に成って、
『医心方』は
半井氏が初め
半井広明はやむことをえず、こういう
越えて十月十五日に、『医心方』は若年寄遠藤但馬守
幕府は館員の進言に従って、直ちに校刻を命じた。そしてこれと同時に、総裁
躋寿館では『医心方』
その四十五
由顕の言う所はこうである。『医心方』は
『医心方』を瑞策に授けたのは、家光ではない。瑞策は京都にいた人で、江戸に下ったことはあるまい。瑞策が報恩のために物を贈ろうとしたにしても、よもや帝室から賜った『医心方』三十巻の
既にして岡本氏の家衰えて、
岡本氏の『医心方』一巻は、
この年正月二十五日に、森枳園が躋寿館講師に任ぜられて、二月二日から登館した。『医心方』校刻の事の起ったのは、枳園が教職に
抽斎の家族はこの年主人五十歳、
安政二年が来た。抽斎の家の記録は先ず小さき、
学問はこれを身に体し、これを事に
この用無用を問わざる期間は、
わたくしは安政二年に抽斎が
その四十六
米艦が
津軽
この進言が抽斎の意より
抽斎は天下多事の日に際会して、
抽斎の校勘の業はこの頃着々
わたくしはこの年の地震の事を語るに
座敷牢は抽斎が忍びがたきを忍んで、次男
その四十七
抽斎が岡西氏
わたくしは前に優善が父兄と
抽斎が座敷牢を造った時、天保六年
或時優善は
二人は酒量なきにかかわらず、町々の料理屋に
十月二日は地震の日である。空は
寝間と表座敷との途中に講義室があって、壁に沿うて本箱が
暫くして若党
抽斎は衣服を取り繕う
抽斎は留守居比良野
その四十八
抽斎が本所二つ目の津軽家上屋敷から、台所町に引き返して見ると、住宅は悉く
地震はその
三日以後にも昼夜数度の震動があるので、
幕府の設けた
この年抽斎は五十一歳、
牧は寛政二年
既にしてくみは栄次郎を生み、安を生み、五百を生んだが、
五百は六、七歳になってから、兄栄次郎にこの事を聞いて、ひどく
牧は
五百が早く本丸に
こういう関係のある牧が、今
その四十九
安政三年になって、抽斎は再び藩の政事に
この議は同時に二、三主張するものがあって、是非の論が
この議に反対したものは、
この頃
この年抽斎の次男矢島
その五十
優善の
抽斎の先妻徳の
栄玄は医を以て阿部家に仕えた。長子玄亭が蘭軒門下の俊才であったので、抽斎はこれと
栄玄は
栄玄の子で、父に遅るること
この年抽斎は五十二歳、五百は四十一歳であった。抽斎が
その五十一
安政四年には抽斎の七男
成善の生れた時、岡西玄庵が
抽斎夫婦は喜んでこれに応じたので、玄庵は成善の胞衣を持って帰った。この時これを惜んで
この年
小野氏ではこの年
富穀、通称は祖父と同じく道秀といった。文化四年の
多紀氏ではこの年二月十四日に、矢の倉の
その五十二
□庭は治を請うものがあるときは、貧家といえども必ず応じた。そして単に
□庭は抽斎の最も親しい友の
暁湖、名は元□、字は
安政五年には二月二十八日に、抽斎の七男
五月十七日には七女
この年には七月から九月に至るまで
この頃抽斎は
その五十三
八月二十二日に抽斎は常の如く
多紀
抽斎は
抽斎の病況は二十八日に小康を得た。
二十八日の夜
抽斎の歿した跡には、四十三歳の
抽斎の子にして父に
矢島優善はこの年二月二十八日に津軽家の表医者にせられた。
五百の姉壻長尾宗右衛門は、抽斎に
比良野
その五十四
比良野貞固は抽斎の遺族を自邸に迎えようとして、五百に説いた。しかしそれは五百を
森
この年の
抽斎の
我国における考証学の系統は、海保漁村に従えば、
わたくしは『訪古志』と『留真譜』との二書は、今少し重く評価して可なるものであろうと思う。そして
その五十五
抽斎の医学上の著述には、『
抽斎遺す所の
抽斎の詩はその余事に過ぎぬが、なお『抽斎吟稿』一巻が存している。以上は漢文である。
『護痘要法』は抽斎か池田
雑著には『
『
抽斎随筆、雑録、日記、備忘録の諸冊中には、今
『
『
『仮面の由来』、これもまた
その五十六
『
この著述の
抽斎の著述は
わたくしは
しかし真の学者は考証のために修養を廃するような事はしない。ただ修養の
抽斎はその『
これは抽斎の本領を道破したもので、考証なしには六経に通ずることが出来ず、六経に通ずることが出来なくては、何に
その五十七
迷庵の考証学が
要するに迷庵も抽斎も、道に至るには考証に
然らば学者は考証中に没頭して、修養に
抽斎はそれをこう考えている。百家の書に読まないで
抽斎は
抽斎が『老子』を以て『論語』と並称するのも、師迷庵の説に本づいている。「天は
その五十八
抽斎は『老子』を
抽斎は
以上は抽斎の手記した文について、その心術
抽斎は日常宋儒のいわゆる
抽斎は『
抽斎は自ら戒め人を戒むるに、しばしば
「
その五十九
抽斎はしばしば
抽斎はかつていった。「
抽斎はまたいった。『
これらの
抽斎の森
抽斎の性行とその由って
この間題は抽斎をして思慮を
その六十
渋江氏の勤王はその
允成の友にして抽斎の師たりし市野迷庵が勤王家であったことは、その詠史の諸作に徴して知ることが出来る。この詩は維新後森
抽斎の王室における、常に
或日
無尽講の
抽斎は
抽斎は応ぜなかった。この秘事に
三人は
抽斎は坐したままで
この時廊下に足音がせずに、
その六十一
刀の
五百は
五百は小桶を持ったまま、つと
熱湯を浴びた
五百は仲間や諸生の名を呼んで、「どろぼう/\」という声をその間に挟んだ。しかし家に居合せた男らの
この一条は保さんもこれを語ることを
抽斎は勤王家ではあったが、攘夷家ではなかった。初め抽斎は西洋
抽斎は漢法医で、丁度蘭法医の幕府に公認せられると同時に世を去ったのである。この公認を
その六十二
わたくしは幕府が蘭法医を公認すると同時に抽斎が歿したといった。この公認は安政五年七月
これより先幕府は安政三年二月に、
抽斎がもし生きながらえていて、幕府の
抽斎の日常生活に人に殊なる所のあったことは、前にも折に触れて言ったが、今
間食は
抽斎が少壮時代に
抽斎は決して
その六十三
鰻を
飲食を除いて、抽斎の好む所は何かと問えば、読書といわなくてはならない。古刊本、古抄本を講窮することは抽斎終生の事業であるから、ここに算せない。医書中で『
説文会には島田
抽斎の好んで読んだ小説は、
抽斎がいかに劇を好んだかは、劇神仙の号を
抽斎は森枳園と同じく、七代目市川団十郎を
次に贔屓にしたのは五代目
その六十四
劇を好む抽斎はまた
照葉狂言は嘉永の頃大阪の
伊原さんはこの照葉の語原は
能楽は抽斎の
俗曲は少しく長唄を学んでいたが、これは謡曲の妙に及ばざること遠かった。
抽斎は鑑賞家として古画を
「古武鑑」、古江戸図、古銭は抽斎の
抽斎は碁を善くした。しかし局に対することが
抽斎は大名の行列を
庭園は抽斎の愛する所で、自ら
抽斎は晩年に最も
抽斎のこの弱点は
その六十五
抽斎は
別号には観柳書屋、
抽斎はかつて自ら
この二つの法諡はいずれも石に
大抵伝記はその人の死を以て終るを例とする。しかし古人を
わたくしはこの記事を作るに
渋江の家には抽斎の歿後に、既にいうように、未亡人五百、
遺子六人の中で差当り問題になっていたのは、矢島優善の身の上である。優善は
しかし当時の優善の態度には、まだ真に
残る五人の子の
その六十六
邸内に
さてこれが
宗右衛門が
宗右衛門は性質
安は
こうしたわけで
会津屋に往って見れば、敬はうろうろ立ち廻っている。銓はまだ泣いている。
長尾の家に争が起るごとに、五百が来なくてはならぬということになるには、こういう来歴があったのである。
その六十七
抽斎の歿した翌年安政六年には、十一月二十八日に矢島
抽斎の姉
抽斎歿後の第二年は
矢川には
文一郎はこの宗兵衛の長子である。その母の姉妹には
文一郎の父は早く世を去って、母みつは再嫁した。そこで文一郎は津軽家に縁故のある浅草
文一郎は寺で人と成って、渋江家で抽斎の亡くなった頃、本家の文内の
文一郎は
その六十八
わたくしは少時の文一郎を伝うるに、
成善はこの年十月
小島成斎は藩主阿部
抽斎の墓碑が立てられたのもこの年である。海保漁村の墓誌はその文が頗る長かったのを、
建碑の事が
これまで渋江の家に同居していた矢島優善が、新に本所緑町に一戸を構えて分立したのは、亀沢町の家に渋江氏の移るのと同時であった。
その六十九
矢島優善をして別に
優善の移った緑町の家は、
鉄は優善の養父矢島
優善はこの時矢島氏に
中丸は当時その師抽斎に説くに、頗る多言を
抽斎は中丸の
この事のあった年、五百は二月四日に七歳の
棠は美しい子で、抽斎の
その七十
そこへ矢島玄碩の二女、
緑町の家へ、優善がこの鉄を連れてはいった時は、鉄はもう十五歳になっていた。しかし
これに反して五百の監視の
渋江氏が亀沢町に来る時、五百はまた長尾一族のために、
抽斎の蔵書は兼て三万五千部あるといわれていたが、この年亀沢町に
抽斎の心に懸けて死んだ躋寿館校刻の『医心方』は、この年完成して、森枳園らは白銀若干を賞賜せられた。
抽斎に洋学の必要を悟らせた
その七十一
抽斎歿後第三年は文久元年である。年の
「これは日本に
数日の後に矢島
さて友達という数人が来て、
三月六日に優善は「
優善のまさに養うべき子を選ぶことをば、中丸昌庵が引き受けた。然るに中丸の歓心を得ている近習詰百五十石六人扶持の医者に、
周禎は同じ年の八月四日を以て家督相続をして、矢島氏の禄二百石八人扶持を受けることになった。養父優善は二十七歳、養子周禎は文化十四年
周禎の妻を
これより
貞固は先ず優善が
さて十月になってから、貞固は
この塾の月俸は三分二朱であった。貞固のいうには、これは
山田の塾には当時門人十九人が寄宿していたが、いまだ
比良野氏ではこの年同藩の
その七十二
矢川氏ではこの年文一郎が二十一歳で、本所二つ目の
石塚重兵衛の
人の死を説いて、直ちにその非を挙げんは、
森
この年の抽斎が
その七十三
抽斎歿後の第四年は文久二年である。抽斎は世にある日、藩主に活版
成善は二年
この年十月十八日に成善が
成善がこの頃母五百と
三人の通った座敷の隣に
女中の語り
「なに、この
その七十四
矢島
既にしてこの年二月の
優善が渋江の家に来て、その夕方に帰ってから、二、三日立った頃の事である。師山田
「優善は初午の日にまいりましたきりで、あの日には晩の四つ頃に帰りましたが」と、五百は
「はてな。あれから塾へは帰られませんが。」椿庭はこういって
五百は即時に人を諸方に
五百は金を償って優善を帰らせた。さて比良野貞固、小野
貞固は暫く黙していたが、
これで相談は果てた。貞固は何事もないような顔をして、席を
翌朝五百は貞固を
貞固はつくづく聞いて答えた。それは
その七十五
小野氏ではこの年十二月十二日に、隠居
伊沢柏軒はこの年三月に二百俵三十人扶持の奥医師にせられて、中橋埋地からお玉が池に居を移した。この時新宅の祝宴に招かれた保さんが種々の事を記憶している。柏軒の四女やすは保さんの姉
やすは柏軒の
柴田常庵は幕府医官の
陣幕久五郎の
「
「いいえ、本当です」と、清助はいった。清助の
陣幕の事を言ったから、
保さんは今一つ、柏軒の奥医師になった時の事を記憶している。それは手習の師小島成斎が、この時柏軒の子鉄三郎に対する待遇を一変した事である。福山侯の家来成斎が、いかに幕府の奥医師の子を尊敬しなくてはならなかったかという、当年の階級制度の
その七十六
小島成斎が神田の阿部家の屋敷に住んで、二階を
成斎が鉄砲さんを
然るにこの年の三月になって、鉄砲さんの父柏軒が奥医師になった。翌日から成斎ははっきりと伊沢の子に対する待遇を改めた。
この年の九月に柏軒はあずかっていた抽斎の蔵書を
書籍が伊沢氏から還されて、まだ津軽家にあずけられぬほどの事であった。森
津軽家ではこの年十月十四日に、
この年十二月二十一日の
この年六月中旬から八月下旬まで
その七十七
抽斎歿後の第五年は文久三年である。
伊沢柏軒はこの年五十四歳で歿した。徳川
この年七月二十日に
美成、字は
美成の歿した時の
抽斎歿後の第六年は
第七年は慶応元年である。渋江氏では六月二十日に
比良野
第八年は慶応二年である。海保漁村が九年
多年渋江氏に寄食していた
その七十八
抽斎の姉
比良野
貞固は津軽家の留守居役所で使っている
新婦が来てから
暫らくして杉浦は五百と貞固との前へ出て、
その七十九
杉浦は
貞固は
貞固は
この年弘前藩では江戸
抽斎歿後の第九年は慶応三年である。矢島
比良野貞固の家では、この年
第十年は明治元年である。
渋江氏では三千坪の亀沢町の地所と邸宅とを四十五両に売った。畳一枚の
食客は江戸
妙了尼の親戚は江戸に多かったが、この時になって
その八十
渋江氏が本所亀沢町の家を立ち
妙了は眼病の治療を請いに抽斎の
妙了の最も近い親戚は、本所
幸に妙了の
四月
同行者は
浅越一家は主人夫婦と
ここにこの一行に加わろうとして許されなかったものがある。わたくしはこれを
その八十一
飾屋長八は単に渋江氏の
鮓屋久次郎は
渋江氏が弘前に
渋江氏の一行は本所二つ目橋の
五百らの乗った五
その八十二
山形から弘前に往く順路は、
五百らは路用の金が
上山を発してからは
さて
弘前に
成善は近習小姓の職があるので、毎日
成善は
戦争は既に
その八十三
渋江氏の若党の一人中条勝次郎は、弘前に来てから思いも掛けぬ事に遭遇した。
一行が土手町に下宿した後
暴風雨の
冬になってから渋江氏は
この頃五百は専六が
五百は弘前の城下について、専六が師となすべき医家を物色した。そして
その八十四
小野元秀は弘前藩士
元秀は忠誠にして廉潔であった。近習医に任ぜられてからは、
稽古館教授にして、
元秀の養子
専六は元秀の如き良師を得たが、
専六は兵士の間に
時に弘前に
その八十五
小野
矢島
袖斎の姉須磨の夫
森
優善の友塩田
この年
抽斎歿後の第十一年は明治二年である。抽斎の四女
陸が生れた弘化四年には、三女
これに反して抽斎は陸を
陸はまた兄矢島優善にも愛せられた。塩田良三もまた陸を愛する
陸は小さい時から
その八十六
抽斎の四女陸はこの家庭に生長して、当時なおその境遇に甘んじ、
文一郎は最初の妻
文一郎は壮年の時パッションの強い性質を有していた。その陸に対する要望はこれがために頗る熱烈であった。渋江氏では、もしその
この結婚は、名義からいえば、陸が矢川氏に嫁したのであるが、
矢島
優善と鉄との間に、夫婦の愛情の生ぜぬことは、
この
五百はやむことをえぬので、周禎に交渉して再び鉄を引き取ってもらおうとした。しかし周禎は容易に応ぜなかった。渋江氏と周禎が
この
その八十七
比良野
さて更に米艦スルタン号に乗って、この度は無事に青森に
弘前にある渋江氏は、貞固が東京を発したことを聞いていたのに、いつまでも
弘前に来てから現金の給与を受けたことのない渋江氏では、この書を得て途方に暮れたが、
貞固の養子房之助はこの年に
抽斎歿後の第十二年は明治三年である。六月十八日に弘前藩士の
渋江氏は原禄三百石であるから、中の上に位するはずで、小禄の家に比ぶれば、受くる所の損失が頗る大きい。それでも渋江氏はこれを得て満足するつもりでいた。
然るに医者の降等の令が出て、それが渋江氏に適用せられることになった。
しかし成善は念のために大参事
その八十八
矢島
五百と成善とは、優善が雪中に行き悩みはせぬか、病み
優善は東京をさして石川駅を発し、この年一月二十一日に吉原の引手茶屋
湊屋に
優善は吉原の湊屋の世話で、
四カ月半ばかりの後、或人の世話で、優善は本所緑町の安田という
この頃
その八十九
専六は兵士との
この純然たる浪人生活が三十年ばかり続いたのに、源吾は刀剣、
この時源吾の
戸沢がこういって勧めた時、五百は容易にこれに耳を
或時戸沢は公事を以て旅行した。
戸沢の勧誘には、この年弘前に
矢川文一郎に嫁した
抽斎の六女
小野氏ではこの年
中丸昌庵はこの年六月二十八日に歿した。文政元年生の人だから、五十三歳を以て終ったのである。
弘前の城はこの年五月二十六日に藩庁となったので、知事津軽
その九十
抽斎歿後の第十三年は明治四年である。
弘前藩は必ずしも官費を以て少壮者を東京に遣ることを嫌わなかった。これに反して私費を以て東京に往こうとするものがあると、藩は
成善が東京に往こうと思っているのは久しい事で、しばしばこれを師
さて成善は私費を以て往くことを
成善は母に約するに、他日東京に迎え取るべきことを以てした。しかし藩の必ずこれを
藩が脱籍者の輩出せんことを恐るるに至ったのは、二、三の忌むべき実例があったからである。その
当時藩職におって、津軽家をして士を失わざらしめんと欲し、極力脱籍を防いだのは、大参事
成善は家禄を
成善が弘前で
その九十一
同行者は松本
弘前から旅立つものは、石川駅まで駕籠で来て、ここで親戚故旧と酒を
成善は四月七日に東京に着いた。
成善の旧師には多紀
成善は英語を学ばんがために、五月十一日に本所
その九十二
成善は四月に海保の
学資は弘前藩から送って来る五人扶持の
八月二十八日に弘前県の幹督が成善に命ずるに神社
矢島優善は浦和県の典獄になっていて、この年一月七日に
優善は七月十七日に庶務局詰に転じ十月十七日に判任史生にせられた。次で十一月十三日に浦和県が廃せられて、その事務は埼玉県に移管せられたので、優善は十二月四日を以て更に埼玉県十四等出仕を命ぜられた。
成善と
当時県吏の権勢は
優善が庶務局詰になった頃の事である。或日優善は宴会を催して、前年に自分が供をした今戸橋の
県吏の間には当時飲宴がしばしば行われた。浦和県知事
この年の暮、優善が埼玉県出仕になってからの事である。某村の
戸長は当惑顔をしていった。「どうもこの野菜をこのまま持って帰っては、村の人民どもに対して、わたくしの
「そんなら買って遣ろう」と、優善がいった。
戸長はようよう天保銭一枚を受け取って、野菜を車から卸させて帰った。
優善は
県令は
その九十三
山田源吾の養子になった専六は、まだ面会もせぬ養父を
専六は成善に紹介せられて、先ず海保の
この年六月七日に成善は名を
この年十二月三日に保と脩とが同時に
この年十二月二十二日に、本所二つ目の弘前藩邸が廃せられたために、保は兄山田脩が本所
海保
抽斎歿後の第十四年は明治五年である。
保が東京に遊学した
五百が弘前を去る時、村田広太郎の
文一郎は弘前を発する前に、津軽家の
その九十四
五百と保とは十六カ月を隔てて再会した。母は五十七歳、子は十六歳である。脩は割下水から、
三人の子の中で、最も生計に余裕があったのは優である。優はこの年四月十二日に
保は下宿屋住いの諸生、脩は廃藩と同時に横川邸の番人を
「保が卒業して渋江の家を立てるまで、せめて四、五年の間、わたくしの所に来ていて下さい」といったのである。
しかし五百は応ぜなかった。「わたしも年は寄ったが、幸に無病だから、浦和に往って楽をしなくても
優はなお勧めて
八月十九日に優は再び浦和から出て来た。そして母に言うには、必ずしも浦和へ移らなくても
これより
その九十五
保が師範学校に入ることを願ったのは、大学の業を
然るに
枳園はこの年二月に福山を去って諸国を漫遊し、五月に東京に来て
枳園はよほど保を愛していたものと見え、東京に入った第三日に横網町の下宿を訪うて、切通しの家へ来いといった。保が二、三日往かずにいると、枳園はまた来て、なぜ来ぬかと問うた。保が尋ねて行って見ると、切通しの家は
文部省は当時
保が枳園を訪うて、師範生徒の年齢の事を言うと、枳園は笑って、「なに年の足りない位の事は、
師範学校の採用試験は八月二十二日に始まって、三十日に終った。保は合格して九月五日に入学することになった。五百は入学の期日に先だって、浦和から帰って来た。
保の同級には今の
この頃矢島優は暇を得るごとに、浦和から母の安否を問いに出て来た。そして土曜日には母を連れて浦和へ帰り、日曜日に車で送り
鈴木の
或土曜日に優が夕食頃に来たので、女主人が「浦和の檀那、御飯を差し上げましょうか」といった。
「いや。ありがたいがもう済まして来ましたよ。今浅草
その九十六
この年には弘前から東京に出て来るものが多かった。比良野
保は即座に承引して、「御遠慮なく奥さんやお嬢さんをお
保はこれを忍んで数カ月間三人を
矢川文内もこの年に東京に来た。浅越玄隆も来た。矢川は
五百と一しょに東京に来た
この年六月に海保
抽斎歿彼の第十五年は明治六年である。二月十日に渋江氏は当時の第六
五百は東京に来てから早く一戸を構えたいと思っていたが、現金の
その九十七
保は前年来本所相生町の家から師範学校に通っていたが、この年五月九日に学校長が生徒一同に寄宿を命じた。これは工事中であった寄宿舎が落成したためである。しかもこの命令には期限が附してあって、来六月六日に必ず舎内に
保は師範学校の授くる所の学術が、自己の
学校は米人スコットというものを雇い
保は英語を
保はどうにかして退学したいと思った。退学してどうするかというと、相識のフルベックに請うて食客にしてもらっても
保は
入舎の命令をばこの状況の
保はこの計画を母に語って同意を得た。しかし矢島
十月十九日に保は隠忍して師範学校の寄宿舎に
その九十八
矢島
次で陸は
矢島周禎の一族もまたこの年に東京に
或日周禎は嗣子周策を連れて渋江氏を
緑町の比良野氏では
抽斎歿後の第十六年は明治七年である。五百の眼病が
妙了尼はこの年九十四歳を以て
渋江氏ではこの年
渋江氏の秩禄公債証書はこの年に交付せられたが、削減を経た禄を一石九十五銭の割を以て換算した
抽斎歿後の第十七年は明治八年である。
五百、保の母子が立った
その九十九
保は母五百を奉じて浜松に
山田屋の向いに
「
「まあ、聞いて見ましょう」といって、保は出て行った。
保は初め文部省の辞令を持って県庁に往った。浜松県の官吏は過半旧幕人で、薩長政府の文部省に対する反感があって、学務課長
数月の後、保は
矢島優はこの年十月十八日に工部
抽斎歿後の第十八年は明治九年である。十月十日に浜松師範学校が静岡師範学校浜松支部と改称せられた。これより先八月二十一日に浜松県を廃して静岡県に
この年四月に保は五百の還暦の
五百の姉長尾氏
比良野貞固もまたこの年本所緑町の家で歿した。文化九年
小野
多紀
喜多村
抽斎歿後の第十九年は明治十年である。保は浜松
この年七月四日に保の奉職している静岡師範学校浜松支部は変則中学校と改称せられた。
その百
抽斎歿後の第二十年は明治十一年である。
保の奉職している浜松変則中学枚はこの年二月二十三日に中学校と改称せられた。
山田脩はこの年九月二日に、母五百に招致せられて浜松に来た。これより先五百は脩の
この年四月に岡本況斎が八十二歳で歿した。
抽斎歿後の第二十一年は明治十二年である。十月十五日保は学問修行のため職を辞し、二十八日に
これより先保は深く英語を窮めんと欲して、いまだその志を遂げずにいた。師範学校に入ったのも、その業を
保は職を辞する前に、山田脩をして居宅を
五百、保の母子は十月三十一日に浜松を発し、十一月三日に松本町の家に
保らは浜松から東京に来た時、二人の同行者があった。一人は山田要蔵、一人は
山田は
その百一
保は東京に
同行者の山田は、保と同じく本科に、中西は別科に
保は慶応義塾の生徒となってから三日目に、
当時慶応義塾は年を三期に分ち、一月から四月までを第一期といい、五月から七月までを第二期といい、九月から十二月までを第三期といった。保がこの年第三期に編入せられた第三等はなお第三級といわんがごとくである。月の末には小試験があり、期の終にはまた大試験があった。
森
抽斎歿後の第二十二年は明治十三年である。保は四月に第二等に進み、七月に破格を以て第一等に進み、遂に十二月に全科の業を終えた。下等の同学生には渡辺修、
万来舎では今の
山田脩はこの年電信学校に
この年また
松本町の家には五百、保、水木の三人がいて、諸生には山田要蔵とこの藤村とが置いてあったのである。
抽斎歿後の第二十三年は明治十四年である。当時慶応義塾の卒業生は世人の争って
この年もまた卒業生の
学校の地位というのは、愛知中学校長である。招聘の事は
その百二
保は三河国
保が学校に往って見ると、二つの急を要する問題が前に
長泉寺の隠居所は次第に
当時保は一人の友を得た。武田氏名は
準平はこれより
保は
この時東京には政党が争い
その百三
抽斎歿後の第二十四年は明治十五年である。
保は報を得て、
保は
保は『横浜毎日新聞』の寄書家になった。『毎日』は島田三郎さんが主筆で、『東京
普通選挙論では
これらの論戦の
保は十二月九日学校の休暇を以て東京に
この年矢島
山田
その百四
抽斎歿後の第二十五年は明治十六年である。保は前年の暮に東京に
勝久は
八月中の事であった。保は
保が家に帰って見ると、五百は床を敷かせて寝ていた。「
「お
「おっ
「そんならついでにわたしのも取っておくれ。」五百は氷を食べた。
翌朝保が「わたくしは
「そうかい、そんならわたしも食べて見よう。」五百は生卵を食べた。
「そんならわたしも少し飲もう。」五百は洗いで酒を飲んだ。その時はもう平日の如く起きて坐っていた。
晩になって保はいった。「どうも夕方になってこんなに風がちっともなくては
「そんならわたしも
五百は保が久しく帰らぬがために物を食わなくなったのである。五百は女子中では
その百五
この年十二月二日に
優は
抽斎歿後の第二十六年は明治十七年である。二月十四日に五百が烏森の家に歿した。年六十九であった。
五百は
「ああ年のせいだろう、少し歩くと息が切れるのだよ。」五百はこういったが、やはり話を
少し立って五百は突然黙った。
「おっ母様、どうかなすったのですか。」保はこういって
五百は火鉢の前に坐って、やや首を
五百の目は直視し、
保は「おっ母様、おっ母様」と呼んだ。
五百は「ああ」と一声答えたが、人事を
保は床を敷いて母を寝させ、自ら医師の
その百六
渋江氏の住んでいた烏森の家からは、
片倉が一応の手当をした所へ、松山が来た。松山は一診していった。「これは脳卒中で
しかし保はその
保は更に
五百は遂に十四日の午前七時に絶息した。
五百の晩年の生活は
隔日に入浴し、毎月曜日に髪を洗った。寺には毎月一度
五百の晩年に読んだ書には、新刊の歴史地理の類が多かった。『
奇とすべきは、五百が六十歳を
抽斎に嫁した後、或日抽斎が「どうも天井に
五百は漢訳和訳の洋説を読んで
五百の抽斎に嫁した時、婚を求めたのは抽斎であるが、この間に或秘密が包蔵せられていたそうである。それは抽斎をして婚を求むるに至らしめたのは、阿部家の医師
その百七
石川貞白は
貞白は渋江氏にも山内氏にも往来して、抽斎を
或日五百は使を
然るに貞白を迎えた五百にはいつもの元気がなかった。「貞白さん、きょうはお
何事かと問えば、渋江さんの奥さんの亡くなった跡へ、自分を世話をしてはくれまいかという。貞白は事の意表に
これより
壻に擬せられている番頭某と五百となら、
そこで五百に問い
五百は貞白の
貞白は
貞白は実に五百の深慮遠謀に驚いた。五百の兄栄次郎も、姉
貞白は
その百八
保はこの年六月に『横浜毎日新聞』の
脩はこの年十二月に工部技手を罷めた。
抽斎歿後の第二十七年は明治十八年である。保は新聞社の種々の用務を弁ずるために、しばしば旅行した。十月十日に旅から帰って見ると、森
枳園は『横浜毎日新聞』の演劇欄を担任しようと思って、保に紹介を求めた。これより先
保は枳園の
机上にはまた森氏の書信があった。しかしこれは枳園の
枳園は十二月六日に水谷町の家に歿した。年は七十九であった。枳園の
枳園の
保は枳園の
その百九
抽斎歿後の第二十八年は明治十九年である。保は静岡
十月十五日に保は旧幕臣静岡県士族
小野
抽斎歿後の第二十九年は明治二十年である。保は一月二十七日に静岡で発行している『東海
抽斎歿後の第三十年は明治二十一年である。一月に『東海暁鐘新報』は改題して東海の二字を除いた。同じ月に
脩は渋江塾の設けられた時妻さだを娶った。静岡の人福島竹次郎の長女で、県下
この年九月十五日に、保の
その百十
抽斎歿後の第三十一年は明治二十二年である。一月八日に保は東京博文館の
脩の嫡男
抽斎歿後の第三十二年は明治二十三年である。保は三月三日に静岡から入京して、麹町
保の家には長女福が一月三十日に生れ、二月十七日に
脩はこの年五月二十九日に単身入京して、六月に
明治二十四年には保は新居を神田仲猿楽町五番地に
二十五年には保の次男
二十六年には保の次女冬が十二月二十一日に生れた。脩がこの年から俳句を作ることを始めた。「
その百十一
わたくしは
抽斎歿後の第四十九年は明治四十一年である。四月十二日午後十時に脩が歿した。脩はこの月四日降雪の日に感冒した。しかし五日までは博文館印刷所の業を廃せなかった。六日に至って
わたくしは脩の句稿を左に
いつ見ても初物らしき
山寺は星より高き
稲妻の跡に手ぬるき星の飛ぶ
秋は皆物の淡きに
手も出さで机に向ふ寒さ哉
雪の日や
明治四十四年には保の三男純吉が十七歳で八月十一日に死んだ。大正二年には保が七月十二日に
その百十二
抽斎の
保さんの作らんと欲する書は、今なお計画として保さんの意中にある。
保さんは
第二には本所の渋江氏がある。
陸が
母五百も声が
勝三郎は陸を教えるに、特別に骨を折った。
その百十三
渋江氏が
本所には三百石
陸が小家に移った当座、稲葉氏の母と娘とは、湯屋に往くにも陸をさそって往き、母が背中を洗って
さて稲葉の未亡人のいうには、若いものが坐食していては悪い、心安い
或日貴婦人が女中大勢を連れて店に来た。そして氷砂糖、
或日また
この砂糖店は幸か不幸か、繁昌の
商業を廃して
その百十四
稲葉の未亡人の
陸は師匠杵屋勝三郎の勝の字を請い受けて勝久と称し、
この亀沢町の家の隣には、
吉野の家には二人の
吉野は勝久の事を町住いに馴れぬといった。勝久はかつて砂糖店を出していたことはあっても、今いわゆる
しかし勝久の業は予期したよりも繁昌した。いまだ幾ばくもあらぬに、弟子の
最も
藤堂家に次いでは、細川、津軽、稲葉、前田、伊達、牧野、小笠原、黒田、本多の諸家で、勝久は
その百十五
細川家に勝久の招かれたのは、
細川家の当主は
長唄が
津軽家へは細川別邸で主公に謁見したのが縁となって、渋江陸としてしばしば召されることになった。いつも
稲葉家へは師匠勝三郎が存命中に初て連れて往った。その邸は青山だというから、
演奏が
前田家、伊達家、牧野家、小笠原家、黒田家、本多家へも次第に呼ばれることになった。初て往った頃は、前田家が宰相
勝久は看板を懸けてから四年目、明治十年四月三日に、両国中村楼で
その百十六
勝久が本所松井町福島某の地所に、今の居宅を構えた時に、師匠勝三郎は喜んで、歌を詠じて自ら書し、表装して
勝三郎は
二世勝三郎には子女
二世勝三郎の馬喰町の家は、長女ふさに壻を迎えて継がせることになった。壻は
金次郎は遂に三世勝三郎となった。初めこの勝三郎は学校教育が
明治三十六年勝久が五十七歳になった時の事である。三世勝三郎が鎌倉に
その百十七
三世勝三郎の病は東京に還ってからも癒えなかった。当時勝三郎は東京座
五月に至って勝三郎は房州へ転地することを思い立ったが、出発に臨んで自分の去った
しかし勝三郎は遂に釈然たるに至らなかった。六月十六日に勝久が馬喰町の家元を
六月二十五日の朝、勝三郎は
この桟橋の
勝久は家元を送って四日の後に病に
九月十一日は
その百十八
九月十二日に勝久は三世勝二郎の
十三日の
勝四郎の返事には、好意はありがたいが、何分これまでの
馬喰町の家では、この日
杵勝同窓会はこれより後
二世勝三郎の
その百十九
勝久の人に長唄を教うること、今に
勝久の
陸は遠州流の
陸の読書筆札の事は既に記したが、やや長ずるに及んでは、五百が
陸の裁縫は五百が教えた。陸が人と成ってから
髪を
陸は
下渋谷の家は脩の子終吉さんを当主としている。終吉は図案家で、大正三年に
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