日本の皆婚はせいぜい100年の歴史でしかない
日本全民结婚仅有百年历史
現代の日本の婚姻数の減少や高い未婚率がしばしば話題になるが、だからといって昔の日本人が皆婚だったわけではない。
如今,日本结婚率减少和未婚率增高经常成为热门话题,但过去的日本人也并非全都能结婚。
よく引用される国勢調査の生涯未婚率の推移では、確かに1980年代まで男女とも50歳時の未婚率は5%以下であり、95%が結婚していた皆婚社会だという解釈は間違っていない。
日本人口调查数据经常被各大文章引用,从其中的终身未婚率数据变化来看,二十世纪八十年代前,无论男女截止至50岁时的未婚率的确达到5%以下,95%的结婚率称得上是“全员结婚”的时代。
しかし、国勢調査は大正時代の1920年から始まったものだ。明治時代や江戸時代も同様だったかというと、実はそうではない。皆婚と呼ばれる状態は、実は明治民法施行後(1898年)に始まったとされ、そこから1990年くらいまでのせいぜい100年の歴史でしかないのだ。
然而,日本的人口调查是从大正时代,也就是二十世纪二十年代开始的。明治时代和江户时代并非全员结婚。实际上是从明治民法实施(1898年)后才开始进入全员结婚时代的,从那开始到1990年也不过百年的历史。
江戸時代の農村の未婚率
江户时代农村的未婚率
私は、歴史人口学者の鬼頭宏先生と対談させていただいたことがあるが、その際に、17世紀くらいまでは日本の農村地域でさえ未婚は多かった、と伺った。
笔者曾经和历史人口学者鬼头宏有过交流,了解到,直到十七世纪,日本农村地区还是未婚人口更多。
結婚して子孫を残すというのはどちらかいえば身分や階層の高い者に限られており、本家ではない傍系の親族や使用人などの隷属農民たちは生涯未婚で過ごした人も多かった。
当时,选择结婚生子的人还多是身份地位比较高的人,旁系亲属或仆人、奴隶农民大多都是终身未婚的。
たとえば、1675年の信濃国湯舟沢村の記録によれば、男の未婚率は全体で46%であるのに対して、傍系親族は62%、隷属農民は67%が未婚だった。
举个例子,根据1675年信浓国汤舟泽村的数据记录,当地男性的整体未婚率为46%,其中旁系亲属未婚率为62%,奴隶农民未婚率为67%。
それが、18世紀頃から傍系親族の分家や小農民自立の現象が活発化したことで、世帯構造そのものが分裂縮小化していった。それが未婚化解消につながったひとつの要因と言われている。
到十八世纪,旁系亲属分出和小农民独立现象蓬勃,阶级构造分裂缩小化,这些都是未婚化消减的一大要因。
つまり、今まで労働力としてのみ機能していた隷属農民たちが独立し、自分の農地を家族経営によって賄わなければならなくなると、妻や子は貴重な労働力として必須となるからだ。
也就是说,一直以来仅仅被当做劳动力的奴隶农民独立,必须通过家庭耕作生存下去,妻子和孩子就成为十分必要且珍贵的劳动力。
このようにして、農村地域の未婚率はやがて改善されていくわけだが、それにしてもまだ1771年時点での男の未婚率は30%(前述信濃国湯舟沢村)もあった。2015年時点の日本の男性の生涯未婚率が23.4%であるからそれよりも高かったわけである。
至此,农村地区的未婚率才终于得到改善。但1771年男性的未婚率依旧高达30%(前文信浓国汤舟泽村)。截至2015年,日本男性的未婚率为23.4%,可见过去的未婚率是远高于现代的。
江戸の男余り現象
江户的男多女少现象
農村よりも結婚が難しかったのが江戸などの都市部である。
比农村更难结婚的是江户等城市。
江戸時代幕末における町区分別の男女有配偶率の史料がある。それを見てみると、江戸の街の男が全員結婚していたわけではないことが明らかになる。幕末の指標と比較するために、2015年東京の有配偶率計算は、男15-59歳、女20-39歳とした。
江户时代幕府末期有不同地区男女有配偶比率的史料记载。从中我们可以看到,江户时代的男性并非全员结婚。为了按照幕府末期指标进行比较,我们将2015年东京的有配偶率计算标准定为,男性15~59岁,女性20~39岁。
麹町、四谷伝馬町、渋谷宮益町ともに、男の有配偶率は50%前後で、未婚化・非婚化と叫ばれている現代の東京とほぼ変わらないし、麹町や渋谷は過半数にも達していなかった。
比较可得,麹町、四谷传马町、涩谷宫益町男性有配偶率为50%左右,和号称未婚化、非婚化社会的现代东京几乎一致,麹町和涩谷的有配偶率甚至没能过半。
女の場合は、渋谷を除けば70%という高い有配偶率となっている。男女でこれだけ食い違うのは、対象年齢の違いもあるが、もうひとつ大きな要因がある。
女性方面,除涩谷外其它三项统计的有配偶率都高达70%。男女差距如此之大,不仅有年龄的差异,还有更重要的一大原因。
それは、江戸が相当な男余りの都市だったことによる。
那就是日本江户是一个非常男多女少的城市。
江戸時代の町人の男女人口を見てみよう。江戸は100万人都市といわれているが、それは全国諸藩から参勤交代で集散する武家人口も併せてのものなので、いわゆる町人人口は半分の50万人程度だった。
我们来看看江户时代城镇居民的男女人口比例。虽说江户是个有100万人的大都市,但其中还有很多来自全国各幕藩参勤轮换的武家人口,而真正的城镇居民也只有一半,50万人左右。
1721(享保6)年の江戸の町人人口は、男32万人に対し、女18万人と圧倒的に男性人口が多かった。女性の2倍である。圧倒的に男余りだったのだ。つまり、江戸の男たちは、結婚したくてもそもそも相手がいなかったということになる。
1721年(享保6年)江户居民数男性有32万,女性只有18万,男性人口将近有女性的两倍,压倒性地偏多。也就是说,江户男性就算想结婚也没有能结婚的对象。
現代の日本も未婚男性が未婚女性に比べ340万人も多い男余り状態である。江戸と今の日本はとても似ているのだ。
而如今日本也是男多女少,未婚男性比未婚女性多出340多万人。江户和如今的日本十分相似。
江戸の蟻地獄に消えていった男たち
消失在江户未婚困境中的男人们
1721年に歪な男女比だったものが、それから約120年後の1843年(天保14年)には、総人口はほぼ一緒なのに、男女比は半々に是正されている。
1721年的男女比例相当失调,而大约120年之后的1843年(天保14年),两个时期江户总人口几乎一致,但男女比例几乎均衡。
出生の男女比が変わったわけではない。これは、江戸にたくさんいた独身男たちが生涯未婚のまま息絶えたからであろう。これは「江戸の蟻地獄」といわれる。一度、江戸に出できた男たちは故郷に錦を飾ることなく、子孫を残すこともなく、江戸の地で死んでいったのである。
新生儿的男女比例并未发生变化。那么这一数据的改变可能是因为江户有很多单身男性终身未婚而亡。这就是“江户的单身困境”。这些江户男儿一没能为家乡增光添彩,二没能留下子孙后代,就这么死在了江户这方土地。
つまり、現代日本のソロ社会化とは決して日本史上未曾有の出来事ではなく、江戸時代にもあったということだ。むしろ、明治民法を起点とする皆婚社会こそが長い日本の歴史の中では「特殊な時代」だったと言える。
也就是说,现代日本的单身社会并非日本历史上前无古人之事,江户时代就已是如此。倒不如说,以明治民法为起点的全员结婚社会在漫长的日本历史中才是一个“特殊的时代”。
ところで、独身男性であふれていた江戸だからこそ、今に続くたくさんの産業や文化がそこに芽生えたことも事実だ。
不过,正是有了遍地单身男性的江户,很多留存至今的产业和文化才能在当时萌芽。
江戸時代初期の経済は、参勤交代によって江戸に集積した武家たちによって支えられていた。今でいうBtoB経済である。だからこそ、商人は幕府や大名の御用達になることを第一義とした。
江户时代初期,江户的经济是靠幕藩参勤轮换而来的武家们支撑起来的,这也就是一开始的“BtoB”经济。正因为如此,商人才成了幕府或大名的专属。
しかし、江戸中期以降は、武士や大名家も経済的に貧窮し、経済の中心は庶民に変った。そして、その経済活動の中心として活躍したのが、江戸に生きた独身男性であり、「江戸のソロエコノミー(独身経済圏)」を誕生させた。
而江户中期之后,武士大名经济逐渐衰退,经济中心转移至平民阶层,而此时经济活动的中心就是出生于江户时代的单身男性,因此诞生了“江户单身经济圈”。
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