沪江

日本料理文化:鱼中之王——鲷鱼

forevereva译 2015-01-29 00:45

目出たいから鯛は縁起がいい、といってしまえば話はそれまでである。現在なら誰でも、縁起の良い魚や高級魚として、まず鯛をあげるだろうが、歴史は必ずしもそうでなかった。鯛がナンバーワンの地位を確立したのは、武士の社会になってからである。

因为可喜可贺,鲷鱼才是吉祥之物,您若是这样说,那也就没了下文了。现在谁都知道,一提既吉祥又贵重的鱼,首当其冲便是鲷鱼。然而,在历史上却并不一定是如此的。鲷鱼确立其NO.1的地位还是到了武家社会以后的事了。

縄文の遺跡から、食べた後と思われる鯛の骨の出土があり、日本人と鯛との付き合いは古い。万葉集には鯛を詠んだ歌が登場しており、鯛の煮物のようなお吸い物があったことが分かる。歌の作者はそれより刺身が好きらしく、醤酢(ひしおす)に蒜(ひる)をつぶし合わせて食べたいようなことを言っている。醤とは、醤油や味噌の元祖で大豆や小麦を醸造したもの。酢味噌のようなものにニンニクを混ぜて食べたいという内容である。歌人は特別な階級の人かもしれないが、刺身は千二百年以上も前から現代に近いかたちで食べていたようである。

早在绳文时代的遗迹中,就有人食用后的鲷鱼骨出土,可见日本人与鲷鱼的交往是源远流长的。在《万叶集》中也有吟诵鲷鱼的和歌登场,从中我们知道,当时就有了由鲷鱼熬成的汤汁。万叶和歌的作者似乎更加钟爱生鱼片,他表示想将蒜泥拌进酱醋一起食用。酱指的就是酱油和味噌的元祖,它是由大豆或小麦酿造而成的。也就是说,他想在类似醋味增的调料里加入大蒜一起食用。或许这位歌人是不一般的贵人,不过,一千二百年前的生鱼片吃法,大概与我们现代也没有什么不同。

鯛は海の魚である以上、内陸部では刺身というわけにはいかない。一般的には、他の海魚と同じように、干物や塩漬けにして流通した。平安時代、宮中には鯛が献上されたが、特別なケースはあるにせよ、これらはみな加工品だと思われる。貢ぎ物になるくらいの魚だから、鯛がおいしくて高級魚であったことに変わりはない。

鲷鱼是海里的鱼,既然这样,那么在内陆地区就不可能作为生鱼片食用。一般情况下,鲷鱼和其它海鱼一样,被制成了鱼干或咸鱼片流通。平安时代,人们向皇宫进献鲷鱼,而即便是有特别的情况,这些鲷鱼全都是加工后的产物。

内陸部で人気の高い高級魚として、鯉(こい)があげられる。古来、東洋では鯉は出世魚として定評ある魚、男子の成長を祝う端午の節句の鯉幟(こいのぼり)に象徴されるように縁起の良い魚である。鯛と鯉は縁起の良い高級魚の双璧だった。ただ京都が内陸部にあったため、流通の事情で鯉に分があったようである。

说到在内陆地区受欢迎的高档鱼品种,还得提到鲤鱼。自古以来,东方人就把鲤鱼视作象征飞黄腾达的鱼。就像祝愿男孩成长的端午节句中的鲤帜所象征那样,这是一种十分吉利的鱼。鲷鱼和鲤鱼正是贵重吉祥鱼类的双壁。不过由于京都地处内陆,在流通方面,鲤鱼更占了优势。

貴族社会から武士社会へ変わっていく過程で、だんだんが注目を集めるようになった。戦国時代には、戦いの陣中に鯛やを届けることがよく行われた。鰹は「勝つ」、鯛は「戦勝祝い」の願掛けである。想像を膨らませると、堅い鱗をもつ美しい鯛の姿に、甲冑(かっちゅう)を身につけて戦う勇敢な武士を重ねたのかもしれない。

在公家社会转换为武家社会的过程中,鲷鱼逐渐受人瞩目起来。战国时代,武将们经常会向阵地送去鲷鱼或鲣鱼。鲣鱼代表了“胜利“,鲷鱼则包含“庆祝凯旋”的祝愿。不妨再展开一下联想,鳞片排列齐整的鲷鱼看上去很是漂亮,或许正好就让人想到了一位身着甲胄勇猛作战的武士。

戦国の世を経て江戸時代には、将軍家も大名屋敷でも、鯛を縁起の良い魚として盛んに食べたようである。江戸では鯛を「大位」と当て字をしてもてはやす一方で、地理的に鯛の入手が不利な京では、鯉を「高位」と当て字をして尊んだという。

战国时代过了,到了江户时代,将军家也好,大名宅邸也好,都流行食用鲷鱼,将其视为吉祥之物。在江户,鲷被冠上了“大位”这个假借字,很是受到喜爱,而在地理位置不利于入手鲷鱼的京都,鲤鱼受到尊崇,被配上了“高位”这个假借字。

江戸後期の、海の魚と里の食べ物の人気を番付表にした『包丁里山海見立角力(ほうちょうりさんかいみたてすもう)』を見ると、東(海の部)の大関(一位)は鯛、関脇(二位)ははも、小結(三位)は鰹と続く。ちなみに西(里の食べ物)は、大関がしいたけ、関脇がだいこんである。同時期に広重が描いたこの鯛の浮世絵は、魚づくし12枚のなかの一作品で、鯛を筆頭に、縞鯛・あいなめという順序であることからも鯛の人気の高さがうかがえる。

江户后期的《包丁里山海见立角力》将海鱼和山珍做了一个排名,其中,东边(海的部分)的大关(第一位)是鲷鱼,关脇(第二位)是海鳗,接下来排在小结(第三位)的位置的是鲣鱼。顺带要说的是,在西边(山珍部分),大关是香菇,关脇是萝卜。在同时期歌川广重的鲷鱼浮世绘是他所创作的12幅鱼类画作中的一幅,鲷鱼排在最前面,后面依次是缟鲷、六线鱼等等,可见鲷鱼受欢迎程度有多高。

現代とイメージが違うのは以外にもマグロ。本マグロは現代なら、魚の王様の感があるが、江戸時代は下魚(げざかな)であった。下魚とは下等な魚のことである。したがって値段も安い。赤身は「ズケ」にして鮨ネタになったが、トロの部分は痛みが早く捨てられていた。もったいない話だが、冷凍技術がなかったからしかたない。脂の多いトロが当時の人々の口に合わなかったことも考えられる。赤身のほうが好まれた歴史は続き、トロが脚光を浴びるようになったのは昭和になってからだ。江戸時代の武家はあまりマグロを食べなかった。マグロの別名、シビウオやシビが死日に通じるとして避けたからである。フグも中毒の危険性があるので下魚とされた。

说到江户与现在印象不同的,还有金枪鱼。原本金枪鱼在现在来说,就像鱼中之王那般珍贵,可在江户时代,它不过是“下鱼”。所谓“下鱼”,也就是下等的鱼。因此价格自然便宜。当时人们将红色瘦肉的部分切下做寿司的材料,而脂肪多的部分,有些损坏的都早早地扔掉了。听起来觉得有些浪费,但由于没有冷冻技术,这也属无奈之举。此外,脂肪较多的部分不符合当时人口味也是一因。瘦肉长年受到人们喜爱,一直到昭和时代,脂肪肉才有了出头之日。江户时代的武家并不怎么使用金枪鱼。这是因为金枪鱼的别称“shibi鱼“或“shibi”的发音让人想到了“死日(死期)“而为武士所忌讳的关系。金枪鱼也有令人中毒的危险性,因此被视为了“下鱼“。

鯛は、見栄えのする姿や形、紅白の色もあり、祝膳にぴったりの魚である。高価な魚ゆえ、江戸庶民の口にはめったに入ることはなかっただろう。庶民はイワシ、ニシン、サンマといったところか。

鲷鱼外表漂亮大气,颜色有红有白,是很适合喜宴气氛的鱼类。由于价格昂贵,江户庶民大概也很难吃得上一口。当时庶民食用的是沙丁鱼、鲱鱼、秋刀鱼之类的吧。

江戸で鯛が人気を集めたのは、徳川家康が海に面した三河(愛知県東部)出身であり、遠江(静岡県西部)を治めていたことも関係している。江戸には家臣や多くの人々が移り住み、鯛を食べる習慣が出来上がったとみていいだろう。皮肉にもその当人の家康の死因は、鯛の天ぷらを食べて中毒死したという(現在は胃がん説が主流か)。

鲷鱼之所以在江户流行起来,这还和德川家康出身于面海的三河地区(爱知县东部),曾治理过远江(静冈县西部)的经历有关系。可以说,由于他的家臣和其他许多人移居到江户,这里才有了食用鲷鱼的习惯。讽刺的是,当事人家康的死因据说是由于鲷鱼天妇罗的食物中毒(现在胃癌说是主流)。

幕府を開いたほどの英傑が中毒死とは残念だが、ナンバーワンの魚、鯛であったことに納得しよう。高級な鯛を先進料理法である天ぷらで食べたのは事実である。天ぷら中毒が遠因だったにせよ、享年74。天下人となり、おいしい鯛も食べて武将としては目出たく天寿を全うしたことになりそうだ。

开创了江户幕府的一代英豪竟然中毒死,想来也觉得遗憾,不过既然NO1的鲷鱼,也能想得通。他食用了将高级的鲷鱼用先进烹饪法制成的天妇罗是事实。即便天妇罗中毒是间接原因,德川家康也享年74岁了。身为武将,成了天下人,还吃了美味的鲷鱼,或也算是享受天寿,可喜可贺了。

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