沪江

深度揭秘:日语标准语的诞生(上)

forevereva译 2015-01-02 06:30

日本語に標準語という概念が成立するのは明治以降のことである。それは日本を近代的な国民国家として確立したいとする体制側の強固な意志に基づいていた。明治20年代以降、義務教育のなかで、この標準的な日本語が生徒に教え込まれ、国民は共通の言語を話すという点でも、均一な民族なのだという確信が強められていった。

日语中标准语这一概念的成立还是在明治以后。这个过程还基于统治者一方坚定的意志,即希望把日本构建成一个近代的国民国家。明治20年代以后,这种标准日语在义务教育中被教授给了学生,在国民使用共同的语言这一方面,同一民族的意识得到了加强。

標準語という概念には二重の意味合いがあった。ひとつは話し言葉としての標準語のあり方であり、もうひとつは書き言葉と話し言葉を通じての標準的な文体がどうあるべきかという点であった。前者は、日本の近代化にとって欠かせない問題と意識され、学校教育や社会教育の重要な課題となった。後者は文学者たちを中心に言文一致運動として展開されていく。

标准语这一概念具有两层意思。一层是作为口头语言的标准语,另一层在于连接书面语和口头语的标准文体应该采用怎样的形式这一点。前者被视为在日本近代化中不可缺少的问题,成为学校教育和社会教育的重要课题。后者作为言文一致运动,以文学者为中心展开。

話し言葉についていえば、徳川時代以前には国全体を通じての共通の言語、つまり今日いう標準語のようなものはなかった。もちろんどこの地方でも日本語を話していたのであるから、共通の枠組みはあったが、発話の実際においては地域ごとに著しい相違があった。そのなかで話し手の人口も多く、有力だったのは、京都や大阪を中心にした関西の言葉と、江戸の言葉であった。

就口头语来说,在德川时代以前,在全国范围内并没有一种通用的语言,即我们今天说的标准语存在。当然,从无论哪个地方都用日语进行交流这点来说,共同的轮廓也是存在的,不过对话时的实际情况则根据各地区而有显著差异。在这其中,会话人口较多,形成较大势力的,要数以京都、大阪为中心的关西话与江户话。

江戸は関東の一部であった。だから関東地方で話されていた土着の言葉がそのまま江戸の話し言葉になったかといえば、そう簡単ではない。関東土着の言葉は、いわゆる「べらんめえ」口調として江戸の庶民の間で使われてはいたが、それとは別の話し振りが武家社会を中心に成立していた。それが今日の標準語の直接の祖先である。

江户是关东地区的一部分,那么也就可以说,在关东使用的当地方言也就照着原样形成了江户的口语吧,其实并不是那么简单的。关东当地的语言,也就是所谓的“べらんめえ”语调,的确是在江户的平民中间得到运用的,但还有与此不同的讲话方式,则是以武家社会为中心发展起来的。这部分语言正是今天标准语的直接源头。

江戸の武家社会は各藩の寄り合い所帯のようなものだった。各藩の人々は、国元との往来を通じて地方の言語文化に深く結びついていた一方、幕府や他藩との関係においては地方の文化を丸出しにすることができなかった。そんな彼らは、互いに国許の言葉とは違う共通の言語を話す必要に迫られた。それは江戸土着の言語ではなかった。武家社会という一種のサロンの中で、半ば人工的に作られた第三の言葉とも言うべきものだったのである。

江户的武家社会类似一个各藩聚合一起的集团。来自各藩的武士们通过和本藩的往来,与地方上的语言文化深深联系在一起,而另一方面,在与幕府及其它藩的关系中,又不能完全用上本地的文化。所以对他们来说,就很有必要说一种与自己家乡不同的、共通的语言。这种语言不是江户当地的方言。而应该说是在武家社会这种“沙龙”中,半人为形成的第三种语言。

徳川幕府が瓦解して各藩の人々が国許に去り、江戸は一時空っぽに近い状態に陥ったが、江戸の武家社会で使われていた言葉は死に絶えることがなかった。それは新たに東京の主人公になった薩長中心の官僚社会に引き継がれ、いわゆる山の手言葉として生き残る。

德川幕府瓦解后,各藩的武士们纷纷回乡,江户一时陷入近于空无一人的状态,但江户武家社会中使用的语言却并没有绝灭。萨长两藩成为东京的新主人,这种语言在以他们为中心的官僚社会中得到了继承,流传了下来,这也就是“山手语言”。

声明:本双语文章的中文翻译系沪江日语原创内容,转载请注明出处。中文翻译仅代表译者个人观点,仅供参考。如有不妥之处,欢迎指正。

相关热点: 日本文化 百人一首
展开剩余