沪江

各国名家谈翻译:翻译就像是?

kyon译 2013-12-09 06:30

みなさまは翻訳あるいは翻訳者を何に例えますか?

大家会把翻译或者说翻译者比作什么呢?

翻訳者が書いたものを読むと、翻訳者は俳優や演奏家に例えられることが多いようです。これは至極順当な比喩と言いますか、元となる脚本や楽譜(=原文)があり、それを自分なりに解釈しながら再現するという点で、翻訳と演技や演奏は大いに共通しています。

看过翻译者写出的内容,常会把他们比作演员或演奏家,这被认为是极为妥当的比喻,毕竟都有脚本或乐谱(=原文),在以自己的理解来再现原文这点上,翻译与演技、演奏有着极大共同点。

今回は、私が個人的に気に入っている、翻訳に関するアクロバティックな(?)比喩をご紹介します。

本次我就来介绍个人中意的对翻译的惊险(?)比喻。

·とその破片

·容器及其碎片

ベンヤミンという哲学者は、原文と訳文を、器の破片に例えています。

有位叫本雅明的哲学家把原文和译文比作容器的碎片。

「ひとつひとつの破片は同じ形ではないものの、もとの器(=原文の内容)を表すものでなければならない」という意味だと私はとらえています。ここでベンヤミンは聖書の翻訳を念頭に置いていますが、この比喩は実務翻訳にもヒントを与えている気がします。

我把这理解为“一块一块的碎片尽管形状不同,但是都必须要表示原本的容器(即原文内容)”。本雅明在此是以圣经翻译为例来说,不过这一比喻对于做翻译的人也有提示作用。

ひとつの器の破片が組み合わせられるためには、二つの破片は微細な点にいたるまで合致しなければならないが、その二つが同じ形である必要はないように、翻訳は……愛をこめて微細な細部に至るまで原作の言い方を翻訳の言語のなかに形成し、そうすることによってその二つが、ひとつの器の破片のように、ひとつのより大いなる言語の破片として認識されるのでなければならない。

一件容器的碎片若要重新拼在一起,就必须在极小的细节上相互吻合,尽管不必彼此相像。同样,译文……要周到细腻地融会原文的意指方式,从而使原文和译文成为一种更大语言的可辨认的碎片,恰如容器的碎片是容器的组成部分一样。

——ヴァルター・ベンヤミン「翻訳者の使命」

——瓦尔特·本雅明《翻译者的任务》

·硬币

村上春樹は分かったような分からないような、でも何とも印象的な比喩で知られます。そのなかでも、翻訳を硬貨になぞらえるこの比喩は、翻訳を仕事にするようになってからより一層思い起こすようになりました。

村上春树因似是而非却又无比印象深刻的比喻而知名。当中尤以把翻译比作硬币的比喻,在我从事翻译工作后尤其容易想起。

僕は必要経費で買い込んだ二つの書類棚を机の両脇に置き、左側には未訳の、右側には翻訳済みの文書を積み重ねた。

我用必备品经费买来的两个文件柜置于桌子两侧,左侧放未译的,右侧放译毕的。

文書の種類も依頼主も実に様々だった。ボール・ベアリングの耐圧性に関する「アメリカン・サイエンス」の記事、一九七二年度の全米カクテル・ブック、ウィリアム・スタイロンのエッセイから安全カミソリの説明文に至る様々な文書が「何月何日まで」という荷札を付けて左側の机に積み上げられ、しかるべき時の経過を経て右側に移った。そして一件が終了する度に親指の幅一本ほどのウィスキーが飲み干された。

译件的种类也罢委托人也罢委实多种多样。有《美国科学》上刊载的关于滚珠轴承耐压性的报告,有1972年度全美鸡尾酒专刊,有威廉·斯坦劳的小品文,有安全刮须刀说明书。凡此种种,一律贴上期限日期标签堆在桌子左侧,经过一段时间后移到右侧。每译完一份,都要喝掉大拇指那么高的威士忌。

考えるに付け加えることは何もない、というのが我々の如きランクにおける翻訳の優れた点である。左手に硬貨を持つ、パタンと右手にそれを重ねる、左手をどける、右手に硬貨が残る、それだけのことだ。

搞我们这个档次的翻译的好处,就是无须加进什么想法。左手拿硬币,啪一声放到右手,左手腾空,右手留下硬币,如此而已。

——村上春樹「1973年のピンボール」

——村上村树《1973年的弹子球》

改めて読むと、1970年代の翻訳会社の描写が妙にリアルなことに驚きます。今の私にはこの比喩の“軽やかさ”が自分の課題だと感じます。ぱたんと硬貨を返すように軽やかに訳す。しかし「我々の如きランク」の翻訳者としては、これがとても難しいのです・・・。

重读下来,我对1970年代翻译公司的描写之真实而惊讶。如今我的问题就在这一比喻的“轻快”上面。如同翻转硬币般驾轻就熟地去翻译,不过作为“我们这个档次”的翻译那是相当的困难……

·宙づり

·悬空

以下は例えというよりは説明なのですが、個人的に非常に共鳴する翻訳者の定義です。

豊崎光一というフランス哲学者によるものです。

下面的说是例子不如说是说明,是让我本人有强烈共鸣的对翻译者的定义。

是名为丰崎光一的法国哲学家下的定义。

究極的には、私が翻訳者と呼ぶのは一個の職業であるよりも、世界を生きかつ見る一つの流儀です。それは根付くのを拒否すること、二つの中間に意志的にとどまることであります。……もし翻訳者の、翻訳という実践の倫理とでもいうべきものがあり得るとしたら、そう、私にとってそれはこの拒否、翻訳者がまったく自発的に引き受けるこの宙づりの状態の中にしかありません。

说得极端点,我认为与其把翻译者看作一种职业,不如说是存在并观察世界的一种做派。抗拒生根,而以个人意志停留在两者之间。……如果说翻译者有可称为翻译实践伦理的东西,对我来说那也只会存在于这一抗拒、在以翻译者纯粹地自主接受的这一悬空状态当中。

——豊崎光一「翻訳と/あるいは引用」

——丰崎光一《翻译与/或引用》

翻訳者は、日本語の端に立って中を眺めている、転校生のような感覚になることがよくあります。「中間に意志的にとどまる」「宙づりの状態」という言葉はこの、端から眺めている感覚を言い当てているように思います。

翻译者站在日语一侧眺望当中,这常让人有种转校生的感觉。我认为“以个人意志停留在中间”“悬空状态”的描述说的就是从一端眺望的感觉。

あるいは、翻訳者は子供に地図を描いて渡しておつかいに行かせ、電柱のかげから見守っている母親のようだとも思いますが(地図が訳文、子供が依頼者)、この、自分が直接当事者になれない感覚を指して「宙づり状態」と言っているような気もします。

也有说翻译者就像母亲,画了地图交给孩子让他买东西,然后躲在电线杆后面守候着(地图是译文,孩子是委托人),“悬空状态”说的就是自己无法成为直接当事人的感觉。

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