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日语论文范文:耻意识文化

2013-06-10 06:00

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恥の文化

要旨

日本人は仲間外れにされることを恐れる。だから強く自分を主張することよりも、周囲と同調して、意見が違ったとしても「丸くおさめる」ことをこのむ。つまり自分自身の考えを持って角を立てるよりも、自分を殺してでも人の考えに同調しようとする。そして、「恥」は日本人の生活の中でとても重要な位置を占めている。「恥」は仲間からマイナス評価を受けていることへの意識である。日本の文化は「恥の文化」と呼ばれる。
昔の日本は農業国であり、弥生時代に始まる稲作文化に必要とされた共同体意識や儒教思想の影響が強いのである。この影響を受けて、「恥の文化」が生まれた。
農村社会の共同体規制の衰退につれて、現在の日本人の恥意識もずいぶん変わり、だんだん薄くなった。
「恥の文化」は人目を気にする文化であり、体裁を気にする文化であり、「罪の文化」の方は神を気にする文化と言うことができる。それぞれには長所もあれば短所もある。
いかなることにも長所と短所との二面がある。恥の文化もそうである。個人の自立性の欠乏と自分の属する集団以外の社会に対する無関心で無責任な態度のような否定面があるかもしれないが、人々を思いやり、集団的な力を促進するような肯定面もある。

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摘要

日本人很害怕和伙伴们分开,因此,比起强烈主张自己,他们更喜欢与周围的人一致,即使自己有不同意见,他们也会委曲求全。也就是说,与其坚持己见表现突出,不如自己忍耐与人保持一致的好。而且,“耻”在日本人的生活中占有很重要的地位。日本的文化被称为“耻的文化”。
过去的日本是个农业国家,受弥生时代稻作文化所必需的共同体意识和儒教思想的影响很强。“耻的文化”就在这两种影响下产生了。
随着农村社会共同体体制的衰退,现在日本人的羞耻意识大大地改变了,渐渐变得淡薄了。“耻的文化”可以说是在意别人目光的文化,是在意外在的文化。而“罪的文化”可以说是在意神的文化。各有各的优点和缺点。
任何事情都有好的和坏的两方面,耻的文化也是如此。存在着缺乏个人自立性和对自己所属集团以外的社会不关心、不负责任的消极一面,也存在着为人着想,促进团体力量的积极一面。

关键词:耻的文化 罪的文化 羞耻意识 麻烦 原动力 世间的目光

はじめに

初めて「恥の文化」という言葉を聞いたのは、一年生のころだ。その時私は「変だなあ。」と思い、「どうして日本人の文化を恥の文化というのか。」、「恥の文化はどうして生じるのか。」、「その言い方は正しいかどうか。」などいろいろな疑問が私の頭に浮かんできた。その時の私は「恥の文化」という言葉の意味を恥ずかしい文化(恥の多い文化)、自慢できない文化、と理解していたのだ。
恥は他人の批評に対する反応である。人は人前で嘲笑され、拒否されるか、あるいは嘲笑されたと思い込むことによって強く恥を感じる。つまり、「恥の文化」とは、「恥」ということをとても大切にしている文化、のことなのである。
日本の文化を「恥の文化」といったのはアメリカの文化人類学者ル-ス・ベネティクトだ。当時は第二次世界大戦のために、アメリカは学者を動員して、日本の文化、経済、地理などを科学的に研究したのである。そして、ベネティクトは日本に行くことなく、日本に関する書物、日本人の作った映画、在米日本人との面談を材料として研究を進め、対象社会から文化類型を抽出しようとする方法に基づいて、名著『菊と刀』を書いた。この著作の中で、「恥の文化」という概念を使用したのである。これが「恥の文化」という言葉が生まれた背景である。
「恥」という言葉そのものの意味は私たち中国人には、よくない言葉だ。日本人にとってもよくないだろう。だが、日本人はこのように言われても平気である。それは「恥」を大切にしているからであろうか。ではなぜ日本人は「恥」を大切にするようになったのか。現在の日本では恥の文化はどのように変化しているのか……これらのすべてを理解したいと思う。

一、「恥の文化」の根源

ル-ス・ベネティクトの『菊と刀』(長谷川松治訳)によれば、日本人は恥辱感を原動力にしている。明らかに定められた善行の道標に従いえないこと、いろいろの義務の間の均衡をたもち、または起りうべき偶然を予見することができないこと、それが恥である。恥は徳の根本である、と彼らは言う。恥を感じやすい人間こそ、善行のあらゆる掟を実行する人である。「恥を知る人」とは、あるときは徳の高い人を、あるときは名誉を重んじる人を指している。日本人の倫理において「恥を知ること」は西洋の倫理において「良心の潔白」、「神に義とせられること」、つまり、罪を避けること占めているのと同じ位置を占めている。
つまり、日本人の生活においては、恥が最高の位置を占めている。恥かしいと言う気持ちがなくなれば人間は終わりだ。日本人の行動規範は、恥にある。彼らは何をしても、「もしそうすれば、、笑われるだろうか。」「周囲の人はどう思うか。」「人の目に自分がどう映っているか」をとても気にする。いずれの場合においても、恥は強力な強制力となる。もちろん、日本人にも罪の意識が存在する。ただ、日本人は、罪の重大さより恥の重大さに重きを置いている。
だから、世界の文化を「罪の文化」と「恥の文化」に区別すれば、日本の文化は間違いなく「恥の文化」に属するに相違ない。
だが、なぜ日本人はそんなに恥を大切にするのか。恥の文化がうまれたのはなぜだろう。それは社会的な原因によるものと思われる。
「恥の文化」が出現するのは日本の社会的な構造と深い関係がある。はるか弥生時代に始まる稲作文化の影響がある。日本は農業国であり、水稲耕作のため昔から村落共同体を形成していた。村落社会は、「家」を単位として、その家族共同体(「家」のメンバ-)は緊密な結合関係にあり、村落共同体には閉鎖的な人倫共同体が形成された。そこで親密な感情的、情緒的な人間関係が形成されていた。農村では今日もなお、田植えや稲刈りには近隣同士が助け合い、共同作業を行う習慣が一部に残っている。狩猟文化と異なり、定住水稲耕作を維持するためには、常に集団作業と共同体秩序とが必要であった。また、儒教思想の影響も無視できない。徳川幕府は朱子学を取り入れたので、忠孝を重んずる道徳は江戸時代以降特に広まり、「家」制度の強化にもつながった。家長を始め,家族の成員は「家」に従わねばならず、武士階級は一朝事あれば、御家断絶と、連帯責任を取らされた。独立した個人の意思、個人の主体性は形成されようがなかった。
こういう背景の中で、日本人は自分の行動に対する他人、特に共同体の成員の批評に常に気を配っている。他人と違う行動をとることを避ける傾向がある。他人がどう思うかを気にし、絶えず他人とバランスをとり、他人から影響を受けたりする。つまり、自分が他人に迷惑をかけているかどうかである。このような見方、態度、行為によって、「恥の文化」といわれる日本人の国民性が形成されてきた。

二、昔の日本人の恥意識と現代の恥意識との比較

人間の社会は常に発展している。原始社会から、現在の資本主義社会、社会主義社会へと発展してきた。人間の意識も変化している。日本人の恥意識も例外ではないだろう。
ここでは日本の社会を戦前と戦後に分けて考えてみたい。戦前の日本は絶対主義的天皇制が支配する社会にあって、階層制度はとても厳しかった。『菊と刀』に取りあげられているが、日本人には「各々其ノ所ヲ得」という観念がある。この観念も戦後しばらくは残りつづけていた。封建的な階層秩序に従って、各人は自分にふさわしい位置を占めていなければならないのである。明治維新後はじめて、近代化の道を踏み出し、工業、特に重工業はずいぶん発達して、都市化も始まったが、農業はやはり主要な位置を占めていた。まだ封建的な農村共同体であり、工業に比べると農業の発達は鈍く、米作を柱とする零細経営が営まれていた。貧困な農村共同体は低賃金労働力の温床であった。ここでは特に「孝」を美徳にして、「家」が守られており、そのために、戦前の日本の恥意識はとても強く残存していた。
戦後、農地改革が行われた、しかし、農工の格差のため、農民は子女を工場に出稼ぎに出すことがますます多くなった。特に、高度経済成長により、大量の農民が都市に出た。また、耕耘機やトラクタ―、いろいろな家電製品が普及して、農業の機械化と農村生活の近代化が進んだ。このような近代化と相まって急激な貧困化、過疎化は、農村社会が共同社会として機能としていくことを衰退させていった。
だから、このような社会構造の変化によって、現代の日本人の恥意識はずいぶん変ってきた。つまり、現代の日本人の恥意識は昔より薄くなっている。
昔の日本人の恥意識は強い共同体の規制の中で自らが自らを省みて恥ることがないかを問うという傾向が強かったのに対して、今は、他人に迷惑をかけなければ何をしてもいいという傾向が強いようである。つまり、共同体意識がなくなり、日本人の恥意識は昔より、かなり薄くなったと言ってよい。
昔の恥意識の根本は、名、名誉、自尊心、誇り、倫理、羞恥心、礼儀、節度、廉恥、意志、信念、誓い、約束、規律である。自分が相手の名誉を傷つけたと悟ったらいかなる相手であろうと(子供であろうと、弟子であろうと、部下であろうと、後輩であろうと)その者を怖れ、恐怖する。しかし、もし自分の名誉が恥ずかしめられたと知れば、相手が誰であろうと、将軍であろうと、主君であろうと、一人でも報復に行く勇気を起こさせる。徳川初代の将軍であった家康に関して伝えられている物語の中にそのよい例が見られる。家康のある家臣は、家康が彼のことを、「あれは魚の骨をのどに立てて死ぬような男だ」と言ったということを耳にした。武士の面目にかかわるような、死に方に対するこの誹謗は、彼にはとうてい我慢のできないものであった。その家臣はこの恥辱を生涯、いや死んでも忘れまいと誓った。そのために、その家臣は家康を倒してこの恥を雪ぐために敵側の諸侯に内通し、内部から江戸に火をかけて焼き払うことを申し出た。この話における、この家臣の行為こそ典型的な恥意識のあらわれといってよい。
それに対して、現在の日本人の恥意識の原因は外聞、迷惑、見栄、噂、批判、不遠慮、世間体、世論、外見、他人の意見などのようである。特に高度経済成長期以降生まれの日本人は、他人に迷惑をかけなければ何をしてもいいと思っているようだ。つまり、他人に迷惑をかけなければ、何をしても恥ずかしくない。だが、迷惑の基準がよくわからない。何が迷惑で何が迷惑でないかは、それぞれが自分で判断するしかない。臆病になれば、人に会うことさえできなくなるし、大胆になれば、人の迷惑などぜんぜん気にならなくなる。電車の中で化粧をしてもそれが迷惑かどうかは考えていない。だから、恥ずかしくはない。電車や街で平気で大声で携帯電話をかける。街の中でも乗り物の中でも平気で床に座る。人前での化粧、人前での私的な電話、地べた坐り、これら昔は恥ずかしいこととされていた行為が今では平気で行われるようになっている。恥の意識はどこにあるのだろうか。共同体秩序の崩壊、そして特に高度経済成長期以降、いわゆる人間関係が稀薄になってきたことによって、この傾向はいっそう拡大されつつある。

三、「恥の文化」と「罪の文化」

ベネティクトによれば、「真の恥の文化は外面的強制力に基づいて善行を行うのに対して、真の罪の文化は内面的な罪の自覚に基づいて善行を行う。」(『菊と刀』P258)と述べている。
日本人は「恥の文化」、欧米人は「罪の文化」といわれる。恥の文化は人に迷惑をかけるような恥ずかしいことをしないということを道徳基準とする。一方、「罪の文化」では内面にある神との関係を重視し、宗教的戒律とか良心といったものを道徳基準とする。簡単に言うなら「恥の文化」は外面的な人目を気にする文化、体裁を気にする文化であり、「罪の文化」の方は内面の神を気にする文化と言うことができる。
ところで「人に迷惑をかけない」という道徳基準では、今、日本の大きな社会問題となっている女子中、高生の「援助交際」を道徳的にもとる行為として非難することはできない。「誰にも迷惑をかけていないよ」、「何をしようと私の勝手でしょ」、「あなたには関係ないでしょ」と反論されるからだ。つまり、「お金がすべて」という時代において、「他人の目」を気にしていないと言うことからこのような行動が生まれていると言えよう。また、人知れず、どこかで若者が自殺した場合も「だれにも迷惑をかけない行為」として、「恥の文化」ではこの行為を非難することは困難なのだ。この点、「罪の文化」では、神によって内面化されている性と生命の尊さを根拠として示すことができる。
「恥の文化」にも「罪の文化」にも長所もあれば短所もある。
「罪の文化」としての良い面は、神や自らの良心が判断基準となるから、他人に振り回されない主体性や自主性、自分で道を拓いてゆこうとする開拓精神が生まれやすいと思う。他方、他人に左右されないという点は、人の話を聞かない、協調性がない、独善的になりやすいということにまでなってしまうかもしれない。
「恥の文化」は他人の目に左右されやすいので、周囲に対する気遣いや心配り、謙虚さや協調性などということを結果するであろう。それが日本人には美徳とされていることでもある。しかしこれも悪くすれば、「赤信号みんなで渡れば怖くない。」といわれるように自分の判断による正しい行動を取ることができないような結果となり、本来渡ってはいけない赤信号でも「みんなが渡るのならまあいいっか!」と流されてしまうような迎合性や、主体性のなさ、あるいは信念のない生き方につながる傾向を生じる。
このようにベネティクトの言う「外面的強制力」は、「罪の文化」とは違って、自分の内面に神(絶対的基準)を持たないがゆえに、まず、外面(他人の存在)を気にする行動を取らざるを得ない、そのような行為のあり方を示している。

四、「恥の文化」の日本の社会に対する影響

「恥」を重んじる日本人は、二つの問題点を持つ。第一に、個人の自立性を育てにくい傾向となりやすい。個人においては個としての厳しい責任感に裏打ちされていない「甘え」の態度を育てやすいとともに、個人を取り巻く周囲の人々は新しい理想に生きようとする個性を抑圧する傾向を持ちやすい。それで多くの日本人はいつも他人と似たような生活を送っている。彼等は仲間外れにされることを恐れる。自分を強く主張することや周囲の意見と違うことや、個性を展開することなどを好まない。だから曖昧な言葉や、婉曲な意見など色々日本人に特有な現象が現れる。つまり日常生活の中で、模倣が多くなって独創が少なくなる。更に、日常の会話でも、同じような価値観がひょいと顔を覗かすことがある。第二に、自分の属する集団以外の社会に対しては、無関心で無責任な態度を生みやすい。たとえば、「旅の恥はかき捨て」である。
「恥の文化」には否定的な側面があるかもしれないが、角度を変えてみれば、「思いやりの文化」ともいえる。世間の一員である自分は自らの行動次第で、恥をかいたり、世間から名誉をえたりする。世間に迷惑をかけないように他人に思いやりをもって行動をすることが求められているからである。これは恥の文化の積極的な一面である。
もう一つの積極面は恥の文化は日本社会発展の原動力であることである。ル-ス・ベネティクトは『菊と刀』で「日本人は恥辱感を原動力にしている」と述べている。つまり、恥が行動の原動力となっている。場合にふさわしい服装をしなかったことや、何か言い損ないをしたことで、非常に煩悶することがある。この煩悶は時として非常に強烈なことがある。これに人々の行為は拘束されている。真の恥の文化は外面的強制力に基づいて善行を行う。常に恥は強力な強制力となる。ただしかし、恥を感じるためには、実際その場に他人がいあわせるか、あるいは少なくとも、いあわせると思い込むこと、さらには、今、その場にいなくても強く意識する他人が存在していること、が必要である。例えば、名誉のために、自らの心の中に描いた他人に対して理想的な自分にふさわしいような行動をする。つまり、みんなが恥という同じ規則にしたがってゲームを行い、それをお互いに支持しあっているようである。こうして「恥」による(お互いを気にしあう)独特の集団意識が形成され、みんな一緒に頑張る。その結果、国の発展も促進されている。この恥の意識は中国人の道徳にはあまりみられないが、日本の発展の人的な原動力になっているように思われる。

結論

ル-ス・ベネティクトが、文化の類型を「罪の文化」と「恥の文化」の二つに分け、日本の場合を後者の典型としてあげて以来、世間の多くの人が、大体それを承知しているように思われる。確かに、恥が日本人の生活において、非常に重要な位置を占めている。他人を判断の基準にして自己の行動の方針を定める。みんなが同じ規則にしたがってゲームを行い、お互いに支持しあっている時には、日本人は積極的に行動することができる。彼らはそれが日本人としての「使命」を遂行する道であると信じる場合には、いっそうゲームに熱中することができる。
こういう恥の文化はずっと日本人の行動を支配している。しかし、社会の変化につれて、恥の文化もかわってきた。今、多くの日本人は確かに外面の他人の目を気にしてはいるが、しかし、自分の中の他人(自己を測る主観的尺度としての他人)の存在は稀薄になっている。つまり、人間関係の稀薄化である。だから、特に、今の若者にとって、「恥の文化」は大きく衰退している。世界経済の一体化に伴って、多くの日本の若者の観念が変わり、ある種の欧米人のように、他人の意見を無視して、自分だけを追求する。このような行動規範が悪いとは言えないが、日本の文化に対して、少し調和を欠くような気がする。伝統的な「恥の文化」には人間としての美点があった。だから、日本人(特に日本の若者)は、伝統の精神に学び、今日に生かしてほしいと願う。

参考文献

豊田豊子 「日本の地理と社会」 凡人社 1996年
長谷川松治 「定訳菊と刀」 社会思想社
山田美佐子 「日本の歴史事典」 大創産業 2004年
李中林 《現代日本概况》 北京航空航天大学出版社 2000年
土居健郎 「罪と恥」(《日語》第七册課外讀物) 上海外語教育出版社 2005
松井嘉和他 「日本文化史」 凡人社 1995年

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