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日本历史人物:最后的将军—— 德川庆喜

forevereva译 2013-01-06 06:30

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御三家から御三卿へ

徳川慶喜は、天保8(1837)年9月29日に江戸で誕生しました。父は水戸藩主徳川斉昭。水戸徳川家は徳川の分家である「御三家」の一つで、将軍候補を出す資格もある名家です。ただし、七男だったため家を継ぐ可能性はほとんどゼロでした。

从御三家到御三卿

天保8年(1837),德川庆喜生于江户。父亲是水户藩主德川齐昭。水户德川家是德川分家“御三家”之一,是具备提出将军候选人资格的名门。可身为第七子的庆喜却无缘家督之位。

幼時の慶喜は大変聡明だったと伝わります。父の斉昭もそんな慶喜を可愛がっていましたが、慶喜10歳の頃、実家を出ることになりました。幕府の命で、御三卿の一つ、一橋家を継ぐことになったからです。御三卿というのは御三家と同じく、徳川の分家にあたります。御三家よりは落ちるものの、やはり将軍候補を出すこともできました。ちなみに、当時の将軍は十二代の徳川家慶です。

相传庆喜自幼聪明伶俐。父亲齐昭也很疼爱,然而庆喜十岁时被送出了水户家。受幕府命令,他将继承御三卿之一的一桥家。所谓“御三卿”,也是德川的分家,和御三家是相同的。尽管门第上稍次于御三家,但也能提出将军候选人。附带一提,当时的第十二代将军是德川家庆。

将軍継嗣問題

慶喜が一橋家を継いでおよそ6年後。将軍家慶が死去します。十三代将軍として後を継いだのは徳川家定でした(この家定の妻が「篤姫」の名で知られる天璋院です)。しかし家定は病弱で、子もありませんでした。そのため、次の将軍を誰にするかということが大きな問題となりました。これが、幕末期前半の政治を大きく揺るがした「将軍継嗣問題」です。

将军继嗣问题

庆喜继承一桥家后过了六年,将军家庆去世。继任十三代将军的是德川家定(家定的妻子正是以“笃姬”闻名的天璋院)。然而家定天生病弱,膝下无子。于是下一任将军有谁继承成了一个大问题。这正是极大动摇幕末前半期政治的“将军继嗣问题”。

この時、次期将軍候補として名が上がったのが、紀伊徳川家出身の徳川慶福と、一橋家出身の一橋慶喜でした。一般に、慶福を推したグループを南紀派、慶喜を推したグループを一橋派と呼びます。南紀派には幕府重臣の井伊直弼などがつき、一橋派には慶喜の父である徳川斉昭らがつきました。

此时,被推选作为下任将军的候选人中,有纪伊德川家的德川庆福和一桥家的一桥庆喜。一般上,我们把推举庆福的一派称作“南纪派”,推举庆喜的一派称作“一桥派”。南纪派中有幕府重臣井伊直弼等人的支持,而一桥派则有庆喜生父德川齐昭助力。

候補となった二人には、それぞれ有利な点、不利な点がありました。慶福のほうは現将軍·家定の従兄弟という血筋的有利さがあったものの、10代前半と非常に若かったのがネックでした。一方、慶喜は20歳過ぎと年齢的には適格。しかし、慶喜の実家である水戸徳川家は家定と血縁が遠く、そこが不利な点でした。

成为候选的两人各自存在优势和劣势。就血统而言,身为现任将军家定的表兄弟,庆福更为有利,可仅10岁过半的幼小年纪是他的一大劣势。而另一方面,庆喜过了20岁,年龄上正适。不过,庆喜的老家水户德川家和家定血缘上较疏远,这是他的劣势。

さらに事態を複雑にしたのが当時の政治状況でした。ちょうど幕府はアメリカとの条約締結問題を抱えていました。それが将軍継嗣問題と絡み、幕府内は激烈な政争の場となったのです。

当时的政治形势让事态更加复杂。幕府正好面临与美国缔结条约的棘手问题。这件大事与将军继嗣问题交织在一起,幕府内部由此成了激烈的政治角斗场。

しかしこの状況は、南紀派·井伊直弼が大老に就任すると一転しました。井伊はその権限によって条約の無勅許調印を行い、さらに、次期将軍を徳川慶福と決定してしまいました。そして、自らの方針に逆らう者をまとめて処罰したのです(安政の大獄)。処罰者には徳川斉昭や一橋慶喜までもが含まれていました。強権的という言葉ではおさまり切らない、破壊的とすら言える井伊のやり方でした。さすがにこの強引さは恨みを買い、水戸藩の浪士によって井伊が暗殺されてしまうわけです(桜田門外の変)。

然而南纪派的井伊直弼就任大老后,形势骤变。在没得到天皇敕许的情况下,井伊用其权限签署了条约。接着,又对反对自己政策的人进行集中镇压(安政大狱)。被处罚的人中,甚至包括了德川齐昭和一桥庆喜。井伊的行径,岂止为“强权”,足可称其为“破坏”。自然这种强硬举动招来了怨恨,井伊最终被水户藩浪人暗杀(樱田门外之变)。

幕府を支えて奔走

慶喜は安政の大獄により隠居謹慎という処罰を受けましたが、桜田門外の変の後、許されました。まもなく慶喜は、将軍後見職という幕府の重職に就任します。なお、将軍位継承そのものは井伊の決定通り行われており、この時の将軍は十四代·家茂(慶福より改名)です。

挽幕府于将倾

庆喜因安政大狱受到隐居、谨慎的处罚,樱田门外之变后获得了赦免。不久,庆喜担任了“将军后见职”这一幕府要职。而将军的继承仍延续井伊的决定,此时的十四代将军是家茂(由庆福改名)。

将軍後見職に就いた慶喜は、政事総裁職に任命された松平慶永とともに幕政の改革に手をつけます。慶永は御三卿·田安家出身の人物で、将軍継嗣問題においては一橋派に属しました。

担任将军后见职的庆喜和被任命为政事总裁的松平庆永一道,着手幕政改革。庆永是御三卿之一田安家的藩主,在将军继嗣问题上属于一桥派。

さて、改革を始めた慶喜ですが、聡明で知られただけあり、その手腕はなかなかだったようです。具体的には、各藩に重い負担としてのしかかっていた参勤交代の義務の緩和、尊王攘夷運動で混乱していた京都を統率する京都守護職の設置などを行っています。これら一連の改革を「文久の改革」といいます。

从事改革的庆喜不愧为当时俊杰,手腕不同凡响。具体而言,他缓和了曾给各藩带来沉重负担的参勤交代义务,又设置京都守护职,整治因尊攘运动动荡不安的京都。这一系列改革措施,被称为“文久改革”。

しかしその後、慶喜は将軍後見職を辞任します。直接のきっかけは、朝廷をサポートする「参予会議」の不調です。この会議は、急進的な攘夷派公卿や長州藩関係者が京都から追放されるという「八月十八日の政変」をきっかけに設置されていました。しかし、構成員である有力大名らの意見がまとまらなかったため消滅しました。

可后来,庆喜辞去了将军后见职。直接原因是辅佐朝廷的“参予会议”陷入分裂。“八月十八日政变”中,激进的攘夷派公卿和长州藩相关人士统统被逐出了京城,该会议是以此为契机而成立的。然而却因组成会议的有力大名们意见不合,落了个瓦解的结局。

とはいえ、慶喜は参予会議の崩壊後も京都で政務をこなしました。この時期に行った主な仕事には、長州藩兵による京都襲撃事件「禁門の変」の処理、水戸藩士らの反乱事件「天狗党の乱」の処理、下関戦争に絡む欧米との戦後交渉、第二次長州征伐への対応などがあります。将軍後見職を辞任しても、慶喜の政治キャリアは萎むどころか、ますます重要な役割を担っていたことがわかります。しかし、この時期、さらなる不幸が幕府を襲います。それは、将軍·徳川家茂の急死でした。

尽管这样,参予会议解散后,庆喜仍呆在京都处理政务。主要在这段时期进行的工作中,有对长州藩兵造成的京都袭击事件“禁门之变”的处理、对水户藩士叛乱事件“天狗党之乱”的处理、同参与下关战争的欧美各国的战后交涉、第二次征长战役的对策等。虽然辞任将军后见职,庆喜的政治生涯不但没褪色,反而承担起更重要的角色。可就在此时,更大的不幸向幕府袭来。这就是将军德川家茂的猝死。

最後の将軍

家茂の死は病死だったとされますが、暗殺説も唱えられています。それほど急だったということです。その後継者には、当然のごとく慶喜の名が上がりました。

最后的将军

一般认为家茂的死是病死,也有人提出暗杀的说法,毕竟将军的去世太过急促了。而庆喜成为无可争议的后继者。

ところが慶喜は、将軍職の継承を渋ります。その理由ははっきりしませんが、あまりにも局面が難しく、トップより補佐としての方が仕事がやりやすいと考えたからとか、請われて就任した形を作ることで少しでも動きやすいようにしたとか言われています。

然而,庆喜对继任一事很犹豫,理由不甚明了,或许是因为局势太困难,相比登上将军宝座,在一旁辅佐反而更易于行动,也有可能他想采取被请求后就任的形式,希望能为自己争取一些主动。

しかしほかに適当な人材がいるはずもなく、数か月を経て、結局慶喜は第十五代将軍となりました。将軍になった慶喜は、人事や軍制をはじめとする諸改革に着手します。しかし、幕府崩壊へ向かう時代の流れを押しとどめることはできませんでした。慶応3(1867)年、慶喜は、政権を朝廷に返上する「大政奉還」を決断しました。そのままいけば薩摩藩や長州藩といった雄藩と、幕府の存亡を賭けて争うことになっていたでしょう。それを避け、後々も徳川家の影響力を維持するための策でした。

不过当时也没有其他合适的继任者,过了数月,庆喜成为了第十五代将军。当了将军的庆喜首先从人事和军制方面着手,开始诸项改革。然而时代之浪正将幕府推向瓦解,他已经没有回天之术了。庆应3(1867)年,庆喜做出决断,将政权归还给朝廷,即“大政奉还”。若不如此,幕府难免与萨长等雄藩展开一场决定存亡的战争。庆喜采取避免冲突的对策,目的是能在将来继续维持德川家的影响力。

しかし、これで困ったのが、薩摩藩や長州藩を中心とする倒幕勢力です。彼らの目標は、幕府とは根本的に異なる、全く新しい政治システムの創設です。それには、一度幕府軍と戦って徹底的に叩き潰し、旧時代に区切りをつけることが重要でした。ことを中途半端に終わらせ、慶喜が新政府に居残ることになっては元の木阿弥なのです。

以萨摩、长州为中心的倒幕势力反而对此苦恼不已。原本他们的目标是建立一个与幕府截然不同的全新政体。为此,关键是要与幕府一战并彻底击溃对方,划清与旧时代的界限。若这样半途而废,让庆喜留在新政府里任职,一切努力都将化作泡影。

そこで彼らは、慶喜に辞官納地を命じました。つまり、慶喜が就いていた内大臣という官職を辞し、領地も返上せよということです。慶喜にとっては相当に過酷な命令です。これに驚き、怒った幕臣たちはついに兵を挙げ、いよいよ新政府軍対旧幕府軍の戊辰戦争が始まります。

于是他们要求庆喜辞官纳地。也即是说,庆喜需要辞掉内大臣一职,还要将封地还给朝廷。这对他而言是极其严酷的命令。幕臣们闻此又惊又怒,最终举兵相抗,新政府军对旧幕府军的戊辰战争就此打响。

この時、慶喜は大坂にいました。ところが、緒戦の鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗れると、さっさと江戸に逃げ帰ってしまいました。新政府軍との戦争は、必ずしも慶喜の望むところではなかったと言われていますが、それにしても自分の将兵を見捨てて消えてしまったのですから、どうにも非常識な総大将と言わざるを得ません。これは、慶喜の生涯の中でも、特に意味不明の行動として議論の種になっています。

此时的庆喜在大阪坐镇。然而知晓旧幕府军在首战的鸟羽伏见之战中落败后,他匆忙逃回了江户。尽管与新政府军的战争并非庆喜的初衷,可抛弃自己的将士逃之夭夭一举,让人不得不认为他是个缺乏常识的主帅。如此意义不明的举动,在庆喜的一生中都是人们讨论的话题。

敗走後の慶喜は寛永寺に籠り、ただひたすら反省の態度を示しました。その甲斐あってか、命まで取られることはありませんでした。やがて慶喜の身柄は静岡に移され、そこで謹慎生活を送ることになります。その後、幕府制度は完全に解体されました。源頼朝以来650年以上続いた武家政権も終焉し、徳川慶喜は文字通りの「最後の将軍」となったのです。

败逃后的庆喜笼居于宽永寺,一心俯首认罪。这个行为多少起了些作用,至少他没有性命之虞。不久,庆喜被移居到静冈,在那里他过上了谨慎的生活。幕府制度在之后彻底瓦解。自源赖朝开幕以来,持续了650年之久的武家政权也就此终结,如文字所示,德川庆喜因而成为“最后的将军”。

慶喜その後

徳川慶喜という人物に対する評価は難しいところがあります。難しい状況の幕府を支え、大政奉還によって新しい国への道筋をつけた名君だったとも、幕府の命運を尽きさせ、鳥羽伏見の戦で醜態を晒した暗君だったとも言われます。ただ、将軍位を退くまでの仕事ぶりを見れば、歴代将軍の中でもずば抜けて高い実務能力を持っていたのは間違いないでしょう。幕末の難しい状況を、最小限の犠牲で乗り切ったようにも思えます。

庆喜之后的人生

要对德川庆喜此人作评价并不容易。他扛起摇摇欲坠的幕府,又将大政奉还朝廷,打开通往新日本的道路,无愧明君的美誉,然而,他在鸟羽伏见战役中丑态毕露,终结了幕府,因此也被称作昏君。不过如果看看他在任时的工作,无疑在历代将军中,他拥有出类拔萃的行政能力。也可以说,他以很少的牺牲,应付了幕末的艰难政局。

ところで、謹慎後の慶喜はどうしたでしょうか。実は、早くも明治2(1869)年に謹慎を解かれています。しかし、新政府に参加する希望はもはや抱いていなかったようで、写真や狩猟といった趣味に暮らす日々を送りました。1902年には公爵、貴族院議員にもなりました。亡くなったのは1913年11月22日のことです。

话说,谨慎后的庆喜过得怎么样呢?其实,早在明治2(1869)年他就被解除了谨慎。不过也没有加入新政府的希望,他沉浸在摄影、狩猎等个人兴趣里度过每天。1902年获公爵称号,同时成为贵族院议员。1913年11月22日,庆喜去世。

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