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日本历史人物:日本茶祖荣西禅师

forevereva译 2012-04-23 06:30

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「茶は養生の仙薬なり…」ではじまる『喫茶養生記』を著し、お茶を日本に広めた人、栄西禅師。現代、あらためて健康によいと注目されているお茶の効能を、はじめて日本人に知らせた人物です。日本の茶の歴史は栄西の伝法とともに始まりました。

《吃茶养生记》起首写道:“茶乃养生之仙药” ,写下这部著作、使茶叶在日本发扬光大的人是荣西禅师。现代,茶叶健康的益处再次引起人们的关注,而最初将其介绍给日本人的便是荣西。日本茶的历史是伴随荣西对佛法的传播而拉开了序幕的。

栄西 宋の国へ行く

鎌倉時代の禅僧栄西禅師は日本臨済宗の開祖で千光国師ともいわれます。備中(岡山県)吉備津宮神主賀陽(かや)氏の出身で、誕生は保延7年4月。幼少のころから抜きんでた英才と伝えられており、11歳で安養寺の静心に倶舎婆沙二論を学び、13歳で比叡山に登り、14歳で落髪。その後ももとの安養寺で修行し、19歳で再び叡山に登り台密の教えを学びました。

荣西 前往南宋

镰仓时代的禅僧荣西禅师也被称作日本临济宗的开祖—千光国师。他系备中吉备津宫神主贺阳氏出身,生于保延7年4月。相传,他幼年时便天资卓凡,11岁时在安羊寺潜心修习俱舍婆沙二论,13岁前往比睿山,14岁入佛门。此后又重返故地安养寺修行,19岁时再度登上比叡山学习台密。

注: (1)台密,即天台宗传播的密教,与真言宗的东密相对,由最澄法师及其弟子圆仁、圆珍所创,密教以诸佛诸尊为本尊,以手结印(身密)、口诵陀罗尼(口蜜)、心为佛的心境(意密)。(2) 比睿山,805年(延历24年),留唐僧人最澄在比睿山开创日本的天台宗,比睿山延历寺为其本山。

若き栄西は、仏教の源である宋の国へ渡り、大陸の正法を学んでわが国仏教の誤りを正したいという強い願いをもっていたようです。時代は保元の乱が勃発し源平めまぐるしく変わる混乱の世。栄西が入宋を望んだ時代は、遣唐使などの大陸渡航が絶えて300年の月日が経ち、渡海は決死の覚悟と資財を要する一大事でした。しかし、困難にもかかわらず、栄西27歳の仁安3年(1168)4月、播磨の唯雅を伴って博多を出帆、入宋に成功します。あこがれの地で天台山万年寺、阿育王山に詣で禅宗への理解を深め、同年9月、天台の経巻60巻を携えて帰朝したました。帰国後は、その経巻を天台座主明雲に呈し、故郷備中、備前を中心に伝法につとめたといいます。

年轻的荣西怀有一个强烈的心愿,那就是远渡南宋,在中国学习佛教正法后,更正日本佛教中存在的谬误。时值保元之乱爆发,正是源平争乱、时局瞬息万变的乱世。从停派遣唐使往大陆时算起,到荣西希望前往南宋的时代已经历了300个春秋,航海是件非同小可的事,需要葬身鱼腹的觉悟和大笔盘缠。尽管困难重重,仁安3年(1168)4月,27岁的荣西还是与播磨的唯雅结伴同行,从博多挂帆远行,成功入宋。在这片期盼已久的土地上,他参诣了天台山万年寺、阿育王山,加深了对禅学的领悟,同年9月,荣西携天台经卷60卷回国。归国后,他将这些经卷呈现给天台座主明云,自己以故乡备中、备前为中心一心传布佛法。

帰国後、栄西は、インドへ渡り釈迦八塔を礼拝したいという願いを抱くようになり、再び渡海を試みます。文治3年(1187)に宗国の首都臨安に到着し、インド行きは治安が悪いため、やむなくあきらめました。しかし帰国のために乗船したところ、逆風で浙江省瑞安に上陸。それを機会に天台山万年寺で虚庵懐敞(きあんえしょう)に出会い師として学びました。さらに天童山景徳禅寺で臨済禅を学び、4年後の建久2年(1191)宋人の船に便乗して帰国しています。この2回の入宋のうち、いずれの折に茶種を持ち帰ったのかは定かではありません。ただ、はじめて栄西が持ち帰った茶の種を捲いたのが、肥前と筑前の境界の背振山であり、2回目の帰着が肥前平戸島であることから、2回目の帰朝で持ち帰ったと考えられているようです。

回国后,荣西又渐渐萌生起前往印度瞻仰释迦八塔的愿望,试图再渡重洋。文治3年(1187),他到达南宋都城临安,然而因为前往印度的路途治安混乱,只得放弃。而就在他乘上归国的航船离开时,遭遇了一场逆风,因此在浙江省瑞安上岸。因此机缘,荣西在天台山万年寺遇见了虚庵怀敞,拜在其门下学习。后又在天龙山景德禅寺学习临济禅,4年后即建久2年(1191),荣西乘宋人的船返归故土。在他两度入宋的期间里,虽不能确定带回茶种是在何时,但他首次播种带回的茶种是在肥前与筑前交界的背振山,而第二次回国的地点是在肥前平户岛,由此可知,茶种是在第二次回国时带来的。

注:前往印度的著名人物是平城天皇皇子高丘亲王,他在“药子之变”中遭废黜,出家成为僧人,862年来到中国,3年后前往印度求法,此后消息不明,相传他死于印度半岛的罗越国。

茶の栽培

栄西は茶の実を持ち帰るとすぐに捲いたようです。これは茶種の寿命は短く、夏を越すと70~80%は発芽力を失うこと、茶の栽培にどのような土地が適しているのかなどについて栄西はよく心得ていたのでしょう。茶種を捲いたと伝えられる場所の調査によると、その周辺には大きな寺跡があり、古い茶園も認められるといいます。栄西は布教とともに茶の栽培も積極的に行っていたことがわかります。栄西が茶栽培を推進した理由は、中国の4年間の生活で茶の養生延齢の効力を認めたからということと同時に、その不眠覚醒作用が禅の修行に必要であり、禅宗の行事に茶礼が欠かせないことも、その普及の動機の多くを占めていました。

茶叶栽培

荣西带回茶种后不久便将其播种到地里。或许是因茶种的寿命极短,一过夏天便会丧失70%至80%的发芽能力,而荣西对哪片土地适合种茶是谙熟于心的。人们对传说中播下茶种的地方进行一番调查后发现,在其周围有大型寺院的遗迹,这些地方也被断定为古老的茶园。可见荣西是一边传布佛法,一边积极进行茶叶栽培的。关于荣西推动茶叶栽培的理由,既有在中国生活的4年间,荣西认同了茶有养身延年之效的缘故,也因茶叶的醒神功效对禅宗的修行必不可少。荣西还认为禅宗的仪式中不能缺少茶道礼节,这条理由也在他普及茶种的动机中占了很大部分。

注:中国禅宗史上也有一位极其推崇饮茶、嗜好喝茶的高僧,即赵州和尚,关于他有段著名公案“吃茶去”。

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