沪江

日语文学作品赏析《母》

宮本百合子 2010-01-11 00:00
 この六月十三日に、母は五十九歳でその一生を終った。正月の末から私は不自由な境遇におかれていて、母の臨終には僅かに最後の十五分間で間に合う様であった。母は、私を待って、その時まで終るべき命を辛くも堪えていたように見えた。
 母は数年来重い糖尿病を患っていたが、それを克己的に養生して治すということは性質として出来なかったし、三年前膵臓の膿腫というのをやった時は、誰しも恢復する力が母の体の中にのこっていようとは考えなかった。
 それが生きたのであったから、今度風のたよりに母が肺エソになったと聞いたとき、私は今度はむずかしいと思った。そのことを口に出しても云い、心のこりなく看病するように、とも云い、自分としては或る覚悟をもきめていたのであった。
 母の臨終の床でも私はあまり泣かなかったし、それからいろいろの儀式のうちに礼装をした父が白いハンカチーフをとり出して洟をかむときも、並んで坐っている私はその父の姿を渾心の力で支えるような気持で矢張りあまり泣けなかった。三十七年もの間生活をともにして来た妻を失った空虚の感じを、父が突然の衝撃として受けないよう、母が今生涯を終ったのは万全をつくした上でのさけがたいことであって、このほかに在りようのなかった成行きであると思うようにと、謂わば私のとり乱さない態度そのもので、そのことを父に語ろうとする切ないような気の張りを持ちつづけていたのであった。
 母がいなくなってから今日で一ヵ月と六日たった。母がいなくなった家の内にはきょうまでに、一つ二つの変更が行われた。それらの変更は、どれも母がやっていたよりは合理的な生活の方法への動きであり、新しい条件にふさわしい生活をつくり出して行こうとする父の気魄がこもっている仕事なのである。けれども、日が経つにつれ、私はこのごろ二階の床の間に飾ってある母の写真を平気でみることが出来ない心持になって来ている。何かの用で、その前を通りかかると、立ちどまって凝っと正面からその母の写真を眺めるか、さもなければ、何となしそっちは見ないようにして歩き、しかも目の端ではまざまざとその面影を意識しているという風になって来た。

 母という一人の女性の生涯は、娘である私のほかの人たちの心にどんな印象を与えていたのだろうか。私はそれをひどく知りたいと思う。
 この気持は母の通夜をする時からあった。何か耳新しい一つ話か思い出話が出るかと思って、心臓に氷嚢をあてながらも寝ないで柱にもたれ、明け方までいろいろな人に混っていたのであったが、誰もそんな話を切り出すひとは誰もなかった。母が二十代の時分、生れたての私をつれて札幌へ父とともに行って暮したことがある。その当時東京からついて行ってずっとそっちにいた間暮した女がその夜も来ていたが、そういう昔馴染でさえ、あああの時はどうだった、この時はこうであったというような話はしないで、大きい青桐の葉に深夜の電燈が煌々と輝やいている二階の手摺のそばで、団扇を胸元で低くつかいながら、思い出したようにまわりの者に小声で茶菓などすすめている。
 その有様には、母の特徴があらわれていると感じられた。誰にしてもひとくちで母の印象を語ることは出来にくいのだろう。褒めるというのもわざとらしいし、ましてそういう場合、ああされたことは今も忘られないとは云えないし、普通のひとの心持では一寸云うべき言葉がないのだろうとも推察された。
 母は、晩年特に著しくなった矛盾をいっぱい持って、それを極めて率直に、世間知らずにのばしきり、自身の嘘や誇張をも知らず、自分の生活ぶりがはたの者にどんなに影響しているかということにも気づかず、一家の真中に坐をしめて生きた女性なのであった。
 母の生れた西村という家は佐倉の堀田家の藩士で、決して豊かな家柄ではなかったらしい。しかし葭江と呼ばれた総領娘である母の娘盛りの頃は、その父が官吏として相当な地位にいたために、おやつには焼きいもをたべながら、華族女学校へは向島から俥で通わせられるという風な生活であった。嫁いで来た中條も貧乏な米沢の士族で、ここは大姑、舅姑、小姑二人とかかり人との揃った大家内であったし、舅はもうその頃中風で、世間なれない二十二の花嫁としては大姑、姑たちの、こまかくつけまわす視線だけでもなかなか辛い思いをしたらしい。その時分の思い出は私が十七八になってから折にふれてはよく母も話した。結婚したのは父が帝大の工科を出る年で、余り年より達がうるさいと、だから貴女がたのいる間は僕は嫁なんぞ貰わないと云ったんじゃないかと、大きい声で憤ったということをも聞いた。

 私が生れた頃の家は小石川の原町にあって、今に骨ばなれがしやがるゾ! と魚やの若い衆に罵倒される程倹約な暮しをしていたそうだ。裏にジャガ薯畑があって、そこからとれるジャガ薯ばっかりおかずにしていたと、笑って話したことがある。
 はじめて父が外国留学をしていた時代の若い母の思い出や、それから後私が十七八になるまでの母の生活を回想すると、母が女として耐えて来た様々の困難や時代と境遇との関係から満たされなかった母の希望というようなものが、いろいろと推察される。
 父は貧乏の中を外国へ行っていたので、二十七八歳であった母は五つの私を頭に三人の子供を育てながら、父が帰朝して子供らを無事にわたしたらそれで死んでもいいという心持で、その日その日をがんばって暮していたのであった。
 夜になると大きい父のテーブルの上に、その時分の子供の目にはいかにも綺麗で明るいニッケルの台ランプを灯し、雁皮がんぴを横に二つ折りにたたんで綴じたのへ、細筆で細かくロンドンにいる父への手紙を書いていた母の横顔は、なんと白くふっくりとしていただろう。三人の幼い子供たちに腰のまわりをかこまれて、立ってオルガンをひきながら、若々しい声を張りあげて「青葉しげれる桜井のウ、さアとの訣れの夕間暮」とうたっていた母。子供たちをよろこばせるためというよりも、もっと自分が楽しんで、その時分の母は、よく絵を描いていた。母は『新小説』だの『女学世界』だのという雑誌を毎月とっていて、そういう雑誌の口絵には洗崖などという画家が、マーガレットに結った女学生が野原を散歩しているところなどを描いたのがついていた。気に入った絵があると、母は、雁皮紙をその上にのせ、丁寧にしきうつしをして、後から色だけを自分のこのみに従って塗っていた。
 上野の美術学校へ入って洋画を習いたいとロンドンにいる父に相談してやったら、父はそれに不賛成であったというのもこの時代の出来事であろう。それでも母は洋画を習う希望をすてず、上野へ行って規則を調べたりもしたらしいが、当時美術学校は女の生徒を入れないことになっていた。そう云って断られた。けれどもイーストレイキの娘が女で通っているのに、日本の女を入れないのはどういうわけか、西洋人と日本人とでは同じ女でも特別扱いなのはどういうわけかと、後年に至るまでそのことでは不満を洩らしていた。
 美術学校の方はそういう工合で駄目だし、ロンドンにいた父が留守中に妻が洋画の稽古をはじめることを賛成しないのは、母が若いのに、教師が男だからというのが真実の理由だと理解していた母は、女に対しては、そんな片手おちを強いるものの考えかたに対して、一種の憤懣を抱いていたことも察しられる。
 当時、又、どうしたわけだったのか祖母が父の留守中に母を離別させてしまおうとして、伯父をつついて書かしてやった手紙がロンドンから父の手紙の中に封入されて母の手許に渡ったようなこともあり、普通の留守を守るというより遙に複雑な関係が母をかこんでいたのであった。
 父は明治四十一年、日露戦争が日本の勝利によって終って間もなく帰って来た。その時分の洋行がえりは今では想像も出来ないほどハイカラなものであった。父もそのようにハイカラになって帰って来たのだが、母との間には、過去五年間のまるでかけはなれた生活の条件から来た感情のぴったりしないところがあった。母は父のハイカラぶりをどちらかと云えば単純に只その間に経た自身の辛苦と思い合わせて辛辣に見たらしく、それから数年の間、父と母との明暮にはひどく衝突するような場合もふえて、本能的に父の側に立つ九つの娘に向って母は「お前はお父様の子だ。お父様と一緒にどこへでもお行き!」と涙をこぼしながら叫んだりした。
 そのように激しく衝突しながらも、父が役所勤めをやめて建築事務所をはじめたときには全力的に果敢にそれをたすけ、その多忙な年々に、幾人もの弟と妹とが生まれて行ったのであった。

 私がいつとはなし文学に興味を持っていることに気がついてから、自然に母も自分の生活の一部に文学趣味を復活させて、トルストイの作品などは愛好して読んだ。私のはじめての小説が発表されてから、母は、自分の満たされなかったいい意味での好学慾と、わるい傾向としての学問的世間的虚栄心とをごったまぜして、情熱的に私に集注しはじめた。母は雑誌社や新聞社との必要な交渉は自分が一番心得ているように思いこんで、娘である私に向っては、何が娘の芸術を育てる根源的なものであるかはわからず、恋愛もしなければ、失敗もしなければ、ただいい作品だけを書いて行く特殊な存在のような扱いをしはじめた。これは本当に私を恐怖させた。
 五十九歳で母がその生涯を終る最後のときまで、母と私との間に真からとけあうことの出来ないものとしてのこされた決定的な点が、この時代に芽立った。
 ヨーロッパ大戦が終る年父につれられて私はアメリカへ行き、ニューヨークに一年いる間に、無一文の言語学をやるひとと結婚した。
 この結婚は当時新聞が、百合子はアメリカにごろついていた洗濯屋と夫婦になったなどと書いたりしたことがあり、両親は勿論賛成せず、特に母はそのために眠られない幾夜かを過したのであった。母は、いくらか世間に名を知られるようになった娘をこの際洋行させたら、もっと偉いものになるだろうと考え、母らしい英断で、家に金もないところを、現在住んでいた家を抵当として金をつくり、それで私をやったのであった。
 娘はそんなこととは知らなかった。母の考えているところは感じられて、それに反撥しながら、今度こそ独りになって、自分のまわりに執念ぶかく結わかれている柵を二度と結い直しのきかない程にふっ飛ばそう。こんどこそ生きたいように生きるのだと、勇躍して、じかに生活へとび込む希望と好奇心に満ち溢れて、太平洋を渡ったのであった。
 妙な結婚なんぞして、母の絶大な幻滅の前へ二十一歳の私は確信ありげな顔つきで帰って来たのであった。結婚した人と母の気質も到って不調和で、母が遂に家から出て行けと業を煮やしたのも、今日になってみれば無理ないことであったと思う。
 子供時代からの本箱と敷いていた木綿の夜具だけをもって、私は両親の家を出た。
 母は、父に向っても、娘に向っても、自分のうけた打撃はきびしく復さずには居れないたちで、又それをやった激しい気質の女性であるが、それは日常的な家庭生活の内でのことで、世間に向ってものを云う場合になると、その母でもやっぱり従来のありきたりの型に興味ある自分の性格をちぢこめ、あてはめて、娘や息子の愛のためには身をすてる女のように自身を語るのであった。そしてそう話しているときの自分の心には、偽りはなかったのであったろう。借金をしてまでの大望が娘によって裏切られた落胆についても、母はそれを率直にありのままは話さず、娘の大成のためには金銭をおしまず、堅忍をもって耐える母という風に道徳化して語った。それが又私の心に体の震えるような憎悪を呼び起すのであった。そういう矛盾は母の真情に対する同感をすっかり抱かせなくした。
 母と私との生活が別々な軌道を持つようになってからは、母の文学的興味も一時下火となった。そのかわりに日本画の稽古がはじめられた。
 その時分になれば、家の経済状態も少しはましになって来ていたのであったろう。私がたまに遊びに行くと、母は、葡萄や牡丹の墨絵を見せ、毛氈を敷いて稽古している二階の風通しのいい座敷へ呼ぶことなどもあった。ところが暫くで絵の稽古も中止になった。もう糖尿病になっていたので、下を向いていることは歯齦を充血させて体力が持たなかった。そのほか、後できくと、その絵の師匠は、絵筆をとっている合間に、家をたててくれなどと云い出したので、母は警戒して絵の稽古もやめてしまったのであった。
 そのことは、日本画家の一種の紊風を示す話でもあり、又母が実際家であって、利害を守るにも鋭く、そういう点でも断乎としていたことをも示す面白い話だが、当時母はそんな事情はちっとも云わなかった。ただ、あの何とかさんの筆は死んでるからおやめだ。私の絵の方がよっぽど活きているよ。など話した。文学の仕事から推し母の絵の修業にも関心をもっていた私は、母の云う筆勢なるものにいくらか不安も持ったりした。文学作品で云えばメロドラマティックな誇張に陥るのではないかと、母の筆勢論には消極なうけこたえしか出来なかった。
 この前後(一九二四・五年)から、子供らは、私が見ていたように、そして手伝ったように、自分で洗濯をし、縫物をし、台所で夕飯のおかずをこしらえるために立ち働いている母を見ることが全く無いようになった。
 母は父との間に九人の子を持った。そのうち六人を死なせ、肉体と心との疲労はひどかったが、特に一九二八年八月、東京高等学校三年生であった弟が計画的な方法で自殺してから、母の生活はよそめには一種異常なものとなったのであった。
 その前年の秋から、私は外国へ出かけ、弟の死はレーニングラードで知った。弟が自殺したこまかい理由は今もって具体的に分ってはいないけれど、その前後の時代の高等学校の学生であった二十一歳の青年の精神的苦悩から、弟はその前、三月にガスで一度死のうとしていたところを、父に発見されたことがあった。その三月の時、日頃彼を熱愛していた母は、最愛の息子が自殺して苦悶から逃げようとした態度を激励的に叱責するよりも先に、その純情と苦悶とに自分がうたれ、感傷し、感情の上で弟にまきこまれた。五ヵ月後、彼が遂に死んだ時も、母はこの濁世に生きるには余り清純であった息子の霊界への飛翔という風に、現実の敗北を粉飾してその心にうけとったのであった。
 その時十三ばかりの少女であった妹は、自分も自殺したら母が少しは可愛がってくれるようになるのだろうかと思い、散々泣いたということを、後になってそっとうちあけたことがあった。
 明治開化期の影響をうけて、宗教だの霊降術だのに対しては批評をもって暮して来た母は、弟の死後、一種剽悍な惑溺で息子の霊の力が母である自分を守っているということを信じるようになった。この霊との交渉においては、夫も他の息子や娘もいっさい除外された。
 独占的な霊との結合の感情は、日常生活において母を寛大にするよりも、却って主我的にしたのであった。

 一九二九年の春から秋にかけ、父はモスク□にいた私をのぞいた一家四人をひきつれて欧州旅行を企てた。父は全く母の最後の希望を満すためにこの身分不相応の旅行を決行したのであった。息子夫婦と末の娘までをつれて行ったのは、すっかり健康の衰えている母がいつどこで最後の病床にたおれるかもしれない、その時子供らと離れているのは母にとってまことに苦痛であろうと云う父の深い思慮から出たことであった。若いものらは、その旅行へ行って、帰って、しかも余程後になるまで父のこの心の計画は知らなかった。
 母はこの欧州旅行を非常によろこんだ。そして旅に出た日からかえるまで船の中ででもホテルでも、殆ど一日もぬかさず旅日記を書きとおした。
 医者は危険だと云ったような一世一代の大旅行を無事になしとげたこと、旅日記をもかきとおすことが出来たこと。それらを、母はみんな例の霊の加護によるものという風にだけ解釈した。翌々年に膵臓膿腫を患い、九死に一生を得たときも、母が讚歎したのはやはりその力であった。母は、彼女を生かし、楽しますために周囲の人々が日夜つくしている心づかいや努力を、そのものとして感じとり評価する能力は失ってしまっていた。母が家庭の中で自分のおかれている地位を、ひろい社会の中ででも自分のおかれる地位であるように思いこみ、若いうちの自身の勤労と思いやりとを忘れたということは、母にとって何という悲しいことだったろう。ぐるりの者にとって幾何か切ないことであったろう。
 しかも、実際家としての母は未だ眠りきってしまわず、一九二九年の恐慌以来、母の収入をも半減させた世の中の変化については、敏感に反応した。そういう面での敏感さはいつしか母の好きな気位というものをも卑屈にさせた。
 一九三二年に私が結婚した時、母は宮本を見て深くよろこんだ。そしてこんどはお前も幸福になれそうだね、と云った。しかし、去年の暮以来、母は若い時から自慢の直感で娘の夫からうけた感じはどこかへ押しこんでしまって、娘とその夫とを、自分から押し離すように行動した。
 母にとっては自分をそのように行動させる真の動機がどういうものであるかということは恐らく考えてもわからなかったであろう。晩年の母は、懐古的になるとともに祖父西村茂樹の現代にあっては保守というべき側面ばかりを影響された。

 母の一生は女ながらいかにも活々と、多彩に、明治八年頃から今日に至るほぼ六十年の間に日本の中流の経験した経済的な条件、精神的な推移の歴史を反映している。母はめずらしく強烈な性格の女性であり、人間としての規模も小さくなかった。母の属した社会の羈絆がそれを圧しつけて萎えさせたり、歪めたりさえしなかったら、鍛錬を経て花咲くべき才能をも持っていたと思う。
 母は、今の世の中のしきたりにおとなしく屈従して暮すには強く、しかし強く社会的に何事かを貫徹して生きるためにはまだ弱かった。或る意味では世間知らずで家庭にだけ根をおいた感傷的な、そうかと思うと打算的な女性であった。正当なはけ口を見出せない母の熱情が、いきなり妙な方向へふき出す時、その焔の一番あぶない煽りをうけるのは常に父や私であったが、特に私は、おおこわい! と横とびに飛びのきながら、母が可笑しな風にむきになるのを愛し、悦び、笑い、時々はそっと忍びよって火をつけて逃げたりしたのは幾度であったろう。
 この一二年、私は大変貧乏に暮した。母のところへ行っていきなり手をさし出して、さア頂戴、よ、頂戴よ! と猶胸元へ手をさしつけるようにすると、母はその年でも皮膚の不思議なほど美しい顔をうしろにそらすようにして、妙に間誤付ながら、なんだよ、なんなのサと狼狽した。ちり紙よ! 私がそう云うと、母は、なんだろう、このひとは! と云いながら安堵した様子をかくさず、袂から懐紙の四つに畳んだのを出してくれる。私は、それをとりながら母の顔を見て、お母さま、間違えたな、吝ん坊! と大笑いした。私の勢こんだ様子で、母は小遣いをくれというのかと思って警戒するのであった。
 子供の時分から母と一番多く衝突をした娘である私、生活の上で一つ一つと心にのこるような大きい事柄では頑固な程母の期待とは違うように動かなければならなかった娘である私が、長い歴史の目で見れば、女性としての母の生涯の一番正統な根気づよい発展者であろうと希っているものであり、また美醜の力強く錯綜した人間らしい母の生活の隅々までを理解して、それをリアリスティックに愛そうとする者であることを、果して母は知っていたであろうか。

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