沪江

日语文学作品赏析《断想》

宮本百合子 2010-01-11 00:00
 人類が、生命の本然によりて掛ける祈願の前に、私共は謙譲であり、愛に満ちてありたい。
 あらゆる悲惨の彼方へ、あらゆる不正と、邪悪との彼方へ! 其れは利己的な、一寸法師の「我」が探求する事なのではないのだ、と想う。お互の魂の純真な憧憬を尊ばなければ成らない。或る人が、嘗て抱いていた希望を破壊されたからと云って、希望其ものの本質まで否定する事は許されない。
 幸福と云う事、真実な正義と云う事に就て、私共はの点からも誤たない理解を持っているだろうか。真の幸福や正義が、瞬間的な、或いは詐偽的な目前の方便で支配され、されるべきものだと思っている事は、恐ろしいと思う。
 如何ほど聖純な祈願も、祈願する者は、私共である。外の何物でもない。そして又、其祈願が如何程失墜したとしても結局は、其祈願を捧げる私共の中に墜ちて来るのでは無いだろうか。
 よきものが或場合受けなければ成らない屈辱や、苦難やを、無頓着らしく冷笑する事は冒涜である。人類の真実な希願を蹂躙する者は、其の同じ足で、自分の生命を踏み躙っているのだ。
 私どもは屡々、自分等の足りなさから、失敗しているのは悲しむべき事実である。今、私共が見ずにはいられない事実であるけれども、私共は、失敗フェイルした今日の現象と、其の背後に潜んでいる希願との、恒久性の差を、明かに見て進まなければ成らないのではあるまいか。世界がおもむこうとしている方向は、決して幻想郷ではない。人類の意向は、酔狂ではないのだ。
 皆が友と成らなければ成らない。皆が互に、互の献物を大切に仕合ってママ運ぶべき処が在るのでは無いだろうか、私共の生活を透して、相互に理解し、心から協力し合える範囲が、若し所謂人情の領域にのみ限られているものとしたら、各自の生活は、余り寂しいものである。
〔一九二〇年一月〕

声明:本文内容均来自青空文库,仅供学习使用。"沪江网"高度重视知识产权保护。当如发现本网站发布的信息包含有侵犯其著作权的内容时,请联系我们,我们将依法采取措施移除相关内容或屏蔽相关链接。

相关热点: 流行日语口语
展开剩余