沪江

日语文学作品赏析《感想》

岸田國士 2010-01-10 00:00
 最近は芝居も映画もあまり見ない。東京をはなれて暮してゐる期間が長いためでもあるが、たまに東京へ出ても、わざわざ切符を買つて観に行く気がしないのである。自分の仕事に直接関係があるのだから、勉強のつもりで新しい芝居ぐらゐはのぞいておくべきだと思ふのだけれども、ついおつくうになつてしまふ。不心得だと云はれゝば一言もないが、それでも、私にしてみると、今のところ、脚本を読みさへしたら、上演の結果はだいたい想像がつくし、第一、劇場といふものが従来以上に私を誘惑しにくゝなつたといふ理由をあげなければならぬ。
 これには別にむづかしい理由なぞはない。元来、私は芝居や映画を見て楽しむといふ趣味はあまりなく、私にとつて、戯曲を書くことの目的と意味とは、まつたく違つたところにあるらしいのである。かういふと不思議に思ふひとがあるかもしれぬが、それはうそでもなんでもない。そのうへ私は、自分の作品が上演されてゐても、そんなに見に行きたいとも思はず、見ればたいがいうんざりするのである。上演の結果が気に入らぬといふよりは、自分の作品そのものが、どうも場違ひのやうにみえ、役者や見物に申しわけないといふ気がしてしかたがない。

 私は芝居の社会といふものが、自分の性に合はぬのではないかと、時々、考へることがある。それなら芝居以外の社会なら性に合ふのかと開き直られては困るが、それも前に云ふとほり、いつたいに芝居の社会といふものは特に私のやうな人間を住はせてくれる余地がないやうにも思へるのである。その証拠に、私は、劇場の空気をあまり好まない。楽屋に出入するのは必要止むを得ぬ時であり、幕間の廊下は殆どつねに私をいらだたせる。さらに、「芝居の玄人」が芝居の話をしてゐるのを聞くほど私には縁遠い感じがすることはないくらゐである。
 私はなるべく一般に通じない「芝居用語」を使はないやうにしてゐる。むしろ、使はうとしても使へないのかも知れない。「かみて、しもて」といふ慣用語さへ、私は自然に使つたことがない。

 水木京太君が死んだ。私とほゞ同時代に、同じく戯曲を書いてゐた仲間である。イプセンの研究家として自他ともに許し、作品は手堅い構成で論理的な筋の運びを特色としてゐたやうである。さういふ特色が、時に却つて、その意図する喜劇的効果を鈍らせ、緻密ではあるが、なにかもうひと息といふものを感じさせた。しかし、その演劇評論は流石は蘊蓄の深さと眼のたしかさを思はせるものであり、つねに私を傾聴せしめた。終戦後、君は自ら主宰する雑誌「劇場」に、是非何か書けといふ手紙を私によこした。「何故に戯曲を書かないか」といふ題まで与へてくれた。私は、同君とは、実はそれほど親交はなく、むしろ一時は、ある事情のため、関係は疎きにすぎるほどになつてゐたが、この同君からの最初の手紙は、丁重で、しかも、好意に満ちたものであつた。私は、その頃、どこにもものを書く気はしなかつたのだけれども、水木君の勧めだけは無下に断る気もせず、いづれ書きませう、と返事をしておいた。そして、それきりになつてしまつたことを、いまさら悔んでゐる。

 私は、水木君の出してくれた題に、そのまゝ答へることはできなくなつた。その後、とうとう戯曲を一つ書いてしまつたからである。しかし、長い間、ほんとに戯曲を書きしぶつてゐたわけを、別の目的で、ちらつと述べてみたい気がする。自分の弁解にはもうならないし、したくもないが、これは、何かの役に立つと思ふからである。
 断つておくけれども、私ひとりが戯曲を書く書かないは、別段問題にするほどのことではない。たゞ、水木君も「戯曲を書かなくなつた」作家の一人であり、おそらくそこを考へたのであらうけれども、私のやうに戯曲作家として出発したものが、中途から戯曲を書かなくなる理由が、若し、単なる個人的な事情によるのでないとすれば、これは、やはり日本の現代劇壇の特殊な条件にもとづくのではないか、といふこと、それを云つてみたいのである。
 私は、今ここで改まつて日本劇壇の解剖をしてみる気はない。私は、むしろ、主観的に、自分の立場を率直に語つて、わかるものだけにわかつてもらへればよいとしよう。
「なぜ久しく戯曲を書かなかつたか」と云へば、端的にいふと、戯曲家としてどうにも張合がなくてしやうがないと思へることが、あまりにも多すぎるからである。ほかのひとは知らぬが、私だけの愚痴をすこしならべてみる。
 第一に、書きたいと思ふ戯曲を、やつてほしいと思ふ頃あひの劇団がない。書きたいと思ふ戯曲には、その時々で、いろいろな年配、職業、教養をもつた、つまり、いろいろな型の人物が登場するわけだが、さういふ雑多な人物のそれぞれの役を割りあてることになると、日本の劇団の組織と人的要素では、おいそれといかぬ不都合がまづひかへてゐる。
 第二に、上演の可能性が少いから自然、戯曲の発表はまづ雑誌でといふことになるのだが、その雑誌は、短篇小説本位の雑誌が多いから、自然、「一と晩の出し物」としての多幕物は遠慮することになり、たまたま、長くてもよいといふ条件が与へられても、「舞台で観せる芝居」を活字で読ませるのは雑誌本来の性質でないから、つい、それは無意識にもせよ、「読ませる戯曲」の穽に陥つてしまふ。さて、それがそのまゝ上演されてごらんなさい。きつと舞台が平板になるかどこかに孔が開くのである。
 第三に、芝居といふものは妙なもので、書生芝居とか小供芝居とかいふものもあるにはあるが、やつぱり、芝居の芝居らしい風格は、役者に相当の年配の役者がゐて、それが、中心にならぬと、本物でない。その点、映画もおなじである。ところが、日本の芝居も映画も、現代ものとなると、いづれも、青年俳優が中心である。近頃は、新劇畑では、四十代の優れた役者が活躍するやうになつて来たがそれでも、四十代が最年長者となると、ちよつと、大人の芝居をやるのには、平均年齢が少なすぎる。
 次に私などは、今、戯曲を書くとすると、一番書きたいのは、男は五十代から六十代、女は、四十前後といふところである。そんな人物ばかりといふのではないが、少くとも中心人物乃至重要人物にそれくらゐの年配の人物を配したいのである。簡単に「老け役」などといふけれども、現代人の精神的年齢は演技や扮装の巧緻だけではどうにもならぬところがあることは、西洋映画をみればよくわかる。私がどうも残念に思ふのは、新劇が生れて以来ずつと舞台を踏んでゐればもう六十代で堂々たる大俳優になつてゐるものが二人や三人はゐなければならない筈なのにそれがゐないことである。私に云はせれば、若干の例外をのぞき年をとるほど駄目になる役者などといふのは、二十代三十代に既にろくな役者ではなかつたといふことである。
 第四に、これはなかなか大事なことだが、現在の戯曲家で、戯曲だけ書いて生活のできるひとはまづまづゐないであらうといふことである。座附作者のやうにでもなれば別であるが、それもいくたりと数へるほどしかゐないであらう。今日の日本では、専門の戯曲家として一家をなすためには、結局、上演科を当てにしないで暮しを立てる方法を考へることが必要なのである。つまり余技の小説、内職の翻訳、なんでもいいから、戯曲を書き続け得られるといふことが大切である。しかしかういふ戯曲の書方は、決して、戯曲家本来の才能と感興とを、その作品のうちに完全に活かし得ないといふ憾みがある。つまり、観客を前にした舞台との「待つたなし」の勝負のみが、戯曲家の全生命を打ち込む創造の契機なのであつて、これこそ、戯曲が時間芸術として散文とはつきり分けられる微妙な世界につながる所以なのである。
 上演のみを目的として文学と袂を分つ脚本作者と、文学の領域に止つて戯曲らしい戯曲をと志し、次第に舞台から遠ざかる作家と、その何れを択ぶかといふことが今日までの若い戯曲家の思案のしどころであつた。
 しかし、これからは、次第に、道が拓かれさうである。文学と舞台との理想的な結合を意識的に目指して有力な二、三の新劇団が戦後、目ざましい活躍をしはじめた。私たちの時代には望み得なかつたチャンスが、若い世代のために着々準備せられつゝあるやうである。それに呼応して、新しい作家群が動き出した。全く新しい人々ではないが、彼等はいづれも、新しい意気と、新しい着想とをもつて、われわれの企て及ばない新風を捲き起さうとしてゐる。私は、この感想をこれらの人々に期待する意味で書いた。私たちの時代の障碍が、この人々の障碍とならぬことを念じるあまりである。

 本誌姉妹紙「スクリーン・ステージ」新聞であつたと思ふが、近頃甚だ面白く、意義のある座談会記事がのつてゐた。それは、新進小説作家、評論家の一群に、新劇の舞台を見物させ、合評を試みさせてゐるのである。その座談会の記事は多分の省略があり、前後の脈絡がなく、隔靴掻痒の嘆はあつたけれども、ともかく、ねらひの正しい、鋭い企画である。個々の意見に対して、私がそれを不正確に受けとつてはなにもならぬから別にかれこれ云はぬが、やはり、ぜんたいに、云ふべきことが云はれてゐたやうである。田中千禾夫君の「雲の涯」を問題作として、十分に注意してくれたこともうれしかつた。この試みは何かの形で続けてほしい。新劇はかういふ人々をもつと近くへ惹きつけ、もつとその影響に身をさらさなければいけない。

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