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历史杂学:日本人的埋葬文化

hakura译 2017-11-02 06:30

明治の半ば頃までは、日本人の埋葬は土葬が圧倒的 に多く、火葬は一割程度だったとされる。それも京都などの既成の大都市や、真宗地帯に偏っており、殆どの人は土葬されていたのである。

一直到明治中期左右,日本人的埋葬方式大部分还是以土葬为主,而火葬只占一成。而且在京都等已有的大城市和偏真宗地带,大部分的人都是土葬的。

火葬が急速に普及するのは戦後のことである。これには、都市化の進展が影響したと考えられる。また、都市化に伴い従来の大家族制度が解体し、ミニ家族を単位にした家族墓が普及したことも背景にあると思われる。昭和40年ころには、火葬の普及率は30数パーセントになり、今日では実に99パーセントを超えるほどに進んだ。

火葬快速普及是在战后,普遍认为是受到城市化进程的影响。另外,伴随着城市化发展,过去的大家族制度解体,以小家族为单位的家族墓得到了普及也被认为是其背景之一。在昭和40年左右,火葬的普及率达到30%,而现在,实际上正以几乎超过99%的速度在发展。

それにしても、長い歴史の中で、土葬に慣れ親しんできた民族が、かくも短期間のうちに火葬文化に染まるというのは、ある意味で驚くべきことである。戦後に整備された墓地・埋葬法令が、火葬の普及を助けたという事情があったにせよ、国民の意識のなかにそれを受け入れる土壌がなければ、ありえないことだった。

即使如此,在历史的长河中,习惯了土葬的民族在短时间内接受了火葬文化,在一定程度上是一件令人吃惊的事情。即使战后整改墓地・埋葬法令帮助了火葬的普及,但如果国民意识里没有接受它的话也是不可能的事。

日本人が古来脈々と抱いてきた死生観や霊魂観、その裏側としての遺体に対する感覚が、火葬に対して寛容な風土をもたらしたからだろう。一方、現代の日本人は仏教文化にどっぷりと染まり、その仏教が火葬に寛容だという事情もある。寛容というよりは、遺体そのものに対して、仏教の教義は無頓着なのである。このことが、日本古来の霊魂観と結びついて、遺体に対する民族特有の態度を強化したのではないか。

这大概是因为日本人自古以来代代所持有的生死观、灵魂观,及对于在这些观念背后的遗体的感觉,实际对于火葬是比较宽容的吧。另一方面,也是由于现代的日本人受到佛教文化充分的影响,佛教对火葬是宽容的。与其说是宽容,不如说是佛教的教义对遗体本身是不在乎的。这件事情,难道不是和日本自古以来的灵魂观相联系,强化了民族对于遗体特有的态度么?

かように、日本人は、他の民族と比較すると、死者の遺体に対して、相対的に無頓着 な民族であるといえる。こうした精神的な土壌があって、そこに前述したような功利的な事情が重なった結果、短期間のうちに火葬が爆発的に普及したのではないかと思われるのである。

就好像把日本人和其它民族相比较,对于死者的遗体,可以说是一个相对冷漠的民族。在这样的精神土壤中,加上上述那样功利性的事情的作用结果,火葬才在短时间内开始爆发性地普及吧。

そこで、もう一度歴史を遡り、日本人の埋葬文化について鳥瞰しておきたい。

在此,我想再一次追溯历史,鸟瞰日本人的埋葬文化。

「続和漢名数」という徳川時代初期に書かれた書物によると、日本にもかつては、土葬、火葬、水葬、野葬、林葬の五種があった。

根据德川时代初期所著的《续 和汉名数》一书可知,日本以前有土葬、火葬、水葬、野葬、林葬五种埋葬形式。

野葬は遺体を野に捨て置くもので、曝葬とも風葬ともよばれ、また鳥の啄ばむに任せることから、鳥葬ともよばれた。林葬とは遺体を木の上に置くものである。ともに、遺体を直接置く場合と、棺に納めて置く場合とがあった。このほか、洞窟に遺体をおさめる方法などもあったようである。

野葬是把遗体弃置在野外,又称曝葬、风葬,还因放任鸟啄而被称为鸟葬。林葬是把遗体放置在树上。林藏也分直接在树上放置遗体和把遗体放在棺材里再放置的情况。除此之外,好像也有把遗体放入洞穴中等方法。

火葬が日本ではじめてなされたのは、前稿で述べたように、八世紀初頭である。だが、大方は上流の人々の間に行われるにとどまり、一般の民衆にはなかなか広がらなかったようだ。

正如前稿中所说的,日本开始火葬是在八世纪初期。但是,好像大部分是在上流人群中进行的,并没有遍及到普通民众。

長らく日本の埋葬文化の中心をなしたのは、土葬である。土葬とは、太古のことはいざ知らず、死者の遺体を棺に収めて、地中に埋葬するものである。

长时间作为日本埋葬文化中心的是土葬。土葬,尚且不谈太古时期如何,基本是把死者的遗体放在棺材中,埋入地下的一种埋葬形式。

棺には、大きく分類して二形態あり、ひとつを座棺、ひとつを寝棺といった。寝棺は今日用いられている標準の棺とほぼ同様であるが、座棺は死者を座った姿勢で収めるもので、縦長の桶のような形をしたものが多かった。

棺材分为两种,一种是座棺,一种是寝棺。寝棺和现在所使用的标准棺材大体一样,座棺是把死者以坐姿放入棺材,所以多为长桶形。

座棺に納めるにあたっては、死者の身体を強く折り曲げ、膝を両手で抱えてその上に首を垂れるような姿勢をとらせなければならない。死後硬直した死者の身体は、容易には曲がらないから、首といい手足といい、骨はぼきぼき と折れてしまっただろう。それでも頓着しないのは、日本人はキリスト教徒のようには、遺体に執着しないからなのである。

遗体放入座棺时,必须要用力弯曲死者的身体,使其形成双手抱膝,垂头的姿势。由于死者死后身体僵直,不容易弯曲,所以头、手脚的骨头都断裂了。即使如此,日本人也和基督教徒一样对遗体如何并不在意。

土中の棺は、数年も立つと腐食して崩れるので、その上の土が陥没して墓に穴が開くことともなる。それを防ぐために、あらかじめ墓穴より一回り大きい石を墓の上に置くこともあった。これが後になって、墓標や墓石に発展していくのである。

由于土中的棺材经过数年时间会被腐蚀、崩裂,上面的土下沉后,墓穴会打开。为了防止这样的事情发生,也会事先用比墓穴大一圈的石头放置在墓的上面。之后,就发展成了墓碑和墓石。

沖縄など、西南日本の一部の地域では、洗骨の風習があったとされる。これは、埋葬後数年の後に、死者の遺体を取り出してきれいに洗うというものである。沖縄では、人工の石窟のなかに棺を納める風習があったので、石窟内の衛生を保つために、このようなことがなされるようになったのであろう。

在冲绳等日本西南部的一些地区有洗骨的风俗。这是在埋葬后的数年之后,把死者的遗体取出,进行清洗。在冲绳,因为有把棺材放入人工石窟中的习惯,所以为了保持石窟内的卫生,才渐渐有了这样的习俗。

次に火葬について。徳川時代には、京、大阪などの大都市において、一般の庶民も火葬をするようになった。江戸においても、小塚原や砂村など数箇所に火葬場が設けられた。当時は、現在のように火葬炉の中で焼くというのではなく、地面に穴を掘った上に薪を積み重ね、その上に棺を置いて、さらに薪を重ね、火にくるんでやくというものであった。火力はたいしたものではなかったろうから、焼けあがるには時間を要したであろう。

接下来是火葬,在德川时代,京都,大阪等大城市中,普通百姓也开始火葬。在江户,小塚原和砂村等地设置有多个火葬场。当时,并不是像现在一样在火炉中烧,而是在地面挖个洞穴,在里面铺上柴火,把棺材放在上面,再铺上柴火,点火燃烧。因为火力并不大所以点燃是需要时间的。

骨の収納は、関西や真宗地域においては、すべてを持ち帰るのではなく、のど仏といって、のどのあたりに、仏の姿のような形になって残った小さな骨を持ち帰るだけだったようである。こんなところにも、死者の遺体にこだわらない日本人の特徴が垣間見える。

在关西和真宗地带,不会带走全部尸骨,只把喉咙佛,也就是喉咙处遗留下来的像佛形状的小骨头带回去。从这一点也能看出日本人不拘泥于死者遗体的特点。

今日、東京近辺の火葬場の多くは、ロストル 式の火葬炉を採用している。これは、炉の中にパイプでこしらえたロストルという骨組ようのものをあつらえ、その上に、棺を乗せて焼くものである。焼けた骨は、骨組みの隙間をくぐって下にある受け皿のうえに落ちる。

现在,东京附近的很多火葬场都采用的是炉篦子式的火葬炉。在炉子中订做一个用管子制作的叫作炉篦子的架子,把棺材放进去燃烧。烧过的骨头,会通过架子的缝隙掉落到下面的托盘中。

一方、関西のほうでは、台車式の炉が好まれるという。これは、がらんどうの炉の中に、棺を乗せた台車をはめ込んで焼くというものである。ロストル式だと、骨が落ちる際に、のど仏が壊れてしまうのに対して、台車式では、骨の形が大きく損なわれずに、のど仏もそのままの形に残るからであろう。

而据说关西地区喜欢台车式的炉子。在空炉子中,放入载有棺材的台车进行燃烧。炉篦子式的炉子在骨头掉落的时候容易毁坏喉咙佛,而台车式的炉子不会大大破坏骨头形状,所以喉咙佛能完好的保留下来。

いづれの方式においても、炉の中の温度は、700度から900度に保たれる。屈強の成人でも一時間余りで焼きあがり、きれいさっぱり骨ばかりとなるのである。

不管是哪种方式,炉子的温度要保持在700度到900度。即使是身强力壮的成人也需要一个多小时才能完全火化好。

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