沪江

日本战国重要合战巡礼之——河越夜战

东吴承烈都尉 译 2011-07-22 06:30

河越城本丸御殿

背景
室町時代後期から、関東地方の覇権を巡り、古河公方と関東管領が対立し(享徳の乱)、さらに関東管領の上杉氏の内部において関東管領を世襲する本家筋の山内上杉家と相模、武蔵を地盤に力をつけた庶家の一つ扇谷上杉家とが対立(長享の乱)してきた。その間隙を縫い、扇谷上杉家領であった相模において北条早雲が台頭、扇谷方の大森氏、三浦氏を滅亡させるなど勢力を広げた。早雲の子の北条氏綱は、永正の乱で古河公方、関東管領双方が内紛で混乱する中、武蔵に進出し、江戸城、さらに扇谷上杉家の本拠地の河越城を落とすなど扇谷上杉家を滅亡寸前まで追いつめていた。しかし氏綱が没すると、今川義元が関東管領の山内上杉家や扇谷上杉家と内通して背後から挙兵、駿河の北条領に侵攻、武田信玄の斡旋で氏綱の嫡男北条氏康と義元は和睦した(第二次河東一乱)。

背景
室町时代后期,古河公方与关东管领围绕着关东霸权问题产生对立(享德之乱),另外,在关东管领上杉氏内部,世袭关东管领之职的本家 ——山内上杉家与盘踞相模、武藏地区的庶家之一——扇谷上杉家对立(长享之乱)。动乱间隙,相模地区的北条早云开始抬头。扇谷方面的大森氏、三浦氏灭亡, 早云趁机扩张势力范围。早云之子北条氏纲则乘永正之乱爆发,古河公方、关东管领双方内乱重重之时,将势力扩张至武藏地区。氏纲夺取江户城,进而攻下扇谷上杉家的根据地河越城,甚至将扇谷上杉家逼至灭亡境地。但氏纲死后,今川义元勾结关东管领山内上杉家、扇谷上杉家,在北条家背后举兵,侵入骏河地区的北条领地。之后,氏纲的嫡男氏康在武田信玄的斡旋下与义元达成和解。

氏康の義兄弟であった古河公方の足利晴氏は、関東管領(山内上杉家)、扇谷上杉家の両上杉家の要請に応じ路線を変更して兵を動員、三氏は同盟を締結して北条氏への総反撃を決定、一部の北条方の武士を除く関東の武士すべてに号令をかけ、上杉憲政、上杉朝定、足利晴氏それぞれが自ら自軍を率いて、北条氏の拠点・河越城の攻撃を開始した。

氏康的义兄弟古河公方的足利晴氏,接受关东管领(山内上杉家)、扇谷上杉家的要请改变方针转而举兵,三氏结成同盟决定对北条氏发动总攻,除去一部分的北条方武士,关东地区其他势力悉数响应号召,上杉宪政、上杉朝定、足利晴氏分别率军,联军对北条氏的据点河越城发起进攻。

河越夜战诸势力

戦いの経過
天文14年9月26日(1545年10月31日)、関東管領の山内上杉家(上杉憲政)、扇谷上杉家(上杉朝定)、古河公方の足利晴氏、その他関東諸大名連合軍は約80,000の大軍をもって北条氏の河越城を包囲した(一説によれば関東の全ての大名家が包囲軍に参加して、加わらなかったのは下総の千葉利胤のみだったともいわれている)。河越城は氏康の義弟・北条綱成が約3,000の兵力で守備していたが、増援がなければ落城は時間の問題であったため、北条氏康は本国から約8,000の兵を率いて救援に向かった。戦況は数ヵ月間膠着状態であったが、氏康の救援軍にいた福島勝広(北条綱成の弟)が使者を申し出て、単騎で上杉連合軍の重囲を抜けて河越城に入城、兄の綱成に奇襲の計画を伝えた。

战役过程
天文14年9月26日(1545年10月31日),关东管领山内上杉家(上杉宪政)、扇谷上杉家(上杉朝定)、古河公方的足利晴氏,以及关东诸大名联合军约八万大军包围了北条氏的河越城(另一种说法认为,当时除了下总的千叶利胤,关东地区几乎全部大名都加入了联军)。守备河越城的氏康义弟北条纲成麾下仅有3000人, 若无援军,城池陷落也仅是时间问题,北条氏康遂自本国率8000兵驰援。数月间战况呈胶着状态,氏康援军中的福岛胜广(纲成之弟)自愿担任使者,单骑突出上杉联合军重围进入河越城,向兄长纲成传达了偷袭的计划。

氏康は上杉軍に対して偽りの降伏を申し出た。だが上杉軍は受け入れず、逆に北条軍を攻撃したが、氏康は戦わずに兵を引かせた。これにより上杉軍は北条軍の戦意は低いと判断し、自軍の兵士が多いということもあって楽勝気分が漂う。

氏康假意向上杉军传达自军愿降服的意向,但上杉军并不理会,继续攻击北条军,氏康避而不战引兵撤退。因此上杉军认为北条军战意低下,军中弥漫着轻敌的气氛。

河越夜战古战场石碑

天文15年4月20日(1546年5月19日)の夜、氏康は自軍8,000を四隊に分け、そのうち一隊を多目元忠に指揮させ、戦闘終了まで動かないように命じた。そして氏康自身は残り三隊を率いて敵陣へ向かう。子の刻、氏康は兵士たちに鎧兜を脱がせて身軽にさせ、上杉連合軍に突入すると、上杉軍は大混乱に陥り、扇谷上杉軍では当主の上杉朝定、難波田憲重が討死、山内上杉方では上杉憲政はなんとか戦場を脱出したが、重鎮の本間江州、倉賀野行政が退却戦で討死した。氏康はなおも上杉勢を追い散らし敵陣深くに切り込むが、戦況を後方より見守っていた多目元忠は危険を察し、法螺貝を吹かせて氏康軍を引き上げさせた。城内で待機していた綱成はこの機を捉えて打って出ると、足利晴氏の陣に「勝った、勝った」と叫びながら突入し、既に浮き足立っていた足利軍も散々に破られて敗走したという。連合軍の死傷者は13,000人から16,000人と伝えられている。

天文15年4月20日(1546年5月19日)夜,氏康将8000军分为四队,多目元忠率其中一队,氏康命其直至战斗结束前不得行动。氏康亲率其余三队向敌阵进发。子时,氏康命将士卸下铠甲轻装而行,突入上杉阵地。上杉军陷入极度混乱中,扇谷上杉军当主上杉朝定、难波田宪重被杀。山内上杉方面,上杉宪政好不容易逃离战场,但是其麾下重臣本间江州,仓贺野行政于撤退战中战死。氏康原打算击溃上杉军而深入敌阵,于后方注视战况的多目元忠察觉此举的危险性,遂吹响法螺贝催促氏康军撤退。在城内待命的纲成抓住良机,在足利晴氏的阵地上一边高呼“得胜了!得胜了!”一边突入,已准备逃跑的足利军被打得落花流水。据说此战联合军死伤数多达13000至16000人。

北条氏康画像

戦いの影響
この戦いの結果、当主を失った扇谷上杉家は滅亡、本拠平井城へ敗走した関東管領の山内上杉家も戦いを契機にこの後急速に勢力を失い、数年後には武田氏との合戦にも敗れた上杉憲政が居城の平井城を追われ、越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼ることになる。

战役影响
战后,失去领主的扇谷上杉家灭亡,在根据地平井城败走的关东管领山内上杉家的势力也急速衰退,数年后上杉宪政又败于武田氏,被赶出居城平井城,只好依靠越后的长尾景虎(之后的上杉谦信)。

同じく敗走した古河公方の足利晴氏もこの直後に御所を包囲され降伏、隠居し、長男であった藤氏ではなく、北条氏出身の母をもつ次男の義氏に家督を譲らざ るをえなくなり、自身は幽閉を余儀なくされた。長尾景虎は憲政から上杉姓と関東管領職を譲り受け、一字拝領して上杉政虎と名乗ることになり、関東の覇権を北条家から奪い返すために関東征伐を行うも果たせなかった。

同样吃了败仗的古河公方足利晴氏,战后居城古河御所被围只得投降。隐居后无法将家督之位传给长男藤氏,不得不让生母出身北条氏的次男义氏继承其位,自己则被幽禁。长尾景虎自上杉宪政处接受上杉姓以及关东管领之职,并拜领宪政名中一字,改名为上杉政虎,之后为从北条家手中夺回关东霸权进行关东征伐,未果。

一方、北条家は関東南西部で勢力圏を拡大し、戦国大名としての地位を固めることになる。甲相駿三国同盟の締結により駿河今川家や甲斐武田家との対立に終止符を打つと、関東制覇を目指し越後の上杉家(長尾氏)や常陸の佐竹家、安房の里見氏との抗争を始めてゆく。

另一方面,北条家势力向关东西南部扩大,稳固了其战国大名的地位,又缔结了甲相骏三国同盟,由此,北条家与骏河今川家、甲斐武田家之间的对立打上了休止符。北条家为实现称霸关东的目标,开始了与越后上杉家(长尾氏)、常陆佐竹家、安房里见家的争斗。

この戦いによって、関東公方たる足利家と、その執事である関東管領の権威と軍事力は決定的に失墜し、代わりに後北条氏をはじめとする戦国大名が躍進したことは、関東・東国において室町時代の枠組みが消滅したことを意味している。

受此战影响,关东公方的足利家,以及身负辅佐要务的关东管领,其权威以及军事力量受到决定性打击而衰落,与此相对,后北条氏开始向着战国大名之路迈进。可以说,室町时代在关东、东国地区形成的势力结构已经消失。